悶々とした夜が明けた。

薄暗い室内が徐々に明るくなっていく。

アスカは充血した瞳を壁の時計に向ける。

午前5時を少し過ぎたくらい。

でも、明るくなってきたからには朝だ。

人間は、朝になったら起きなければならない。

そして起こす方の正当性も保証される。

ポキポキと指を鳴らし、アスカはシンジの布団に手をかける。

「おきろーっ、バカシンジぃーっ!!」

盛大に布団をひっくり返す。

ごろんとシンジの身体が転がり出て、壁にぶつかり停止した。

ところが。

申し訳なさそうに目をこすりながらシンジは起きてこなかった。

慌てたように跳ね起きてもこなかった。

「…シンジ?」

おそるおそる近づいたアスカは、動かない少年の頬に触る。

信じられないほど冷たい。

そういえば、呼吸もしてないような…?

頬が触れんばかりにシンジの唇に顔を寄せる。

微かな細い息が肌を撫でた。

どうやら呼吸はしている様子。

安心したのも束の間、アスカはシンジの頬を張る。

「ほら、起きなさいよっ!!」

ところが、三往復もビンタを食らわせたのに、シンジは目を覚まそうとしない。

この反応、さすがに異常だ。

頬を真っ赤に腫らした少年と対照的なまでに顔面を蒼白にしたアスカは、客室備え付けの呼び出し電話に手を伸ばす。







































Lady And Sky



Act:10 温泉へ行こう!! 中編3

by三只







































「まあ…過労じゃな」

シンジの布団の前にうずくまった白衣の人物が、しわがれた声で言った。

その診断に、アスカも、旅館の女将さえも胸を撫で下ろす。

「しかし…」

村の診療所からやってきた老医師は、意味ありげな視線を金髪碧眼の少女へ注いだ。

「いくら若いからといっても限度があるぞ? まあ、ほどほどにするこっちゃな…」

「…は?」

きょとんとした瞳で見返したアスカであったが、医師の言葉の意味することを悟るとたちまち爆発する。

「違うわよっ!! あたしたちはそんなのと違うわよっ!?」

「どれ、栄養剤でもうっておくかの。明日には元気になるじゃろうて」

顔を真っ赤にする少女に全く取り合わず、老医師は手慣れた動作で注射器を操った。さすが年の功とでもいおうか。

「ほいほい、お大事に」

あとは一瞥も暮れず、診療鞄を抱えた老医師は客室を後にする。

肩を怒らせ興奮冷めやらぬままアスカはそれを見送り、女将と仲居がその背中へ頭を下げた。

「…それにしても良かったですねぇ。お連れさん、酷い病気とかじゃなくて」

笑顔で振り返ってくる女将に、アスカはぺこりと頭を下げた。

「まあ、朝から色々迷惑かけたみたいで…その、スミマセン」

他人に頭を下げるのは何よりも嫌いな彼女にとって、まことに珍しい素直さである。

ただ、その伏せられた顔の下で鋭い視線をシンジへ向けるのも忘れない。

ったく、このバカ。今回の貸しは高くつくわよ…?

「特に予約なども入っておりませんで、お部屋のことは気になさらず、ゆっくり養生なさってください」

「ハイ、ありがとうございます…」

このような親切にあやかれたのは幸運と言うべきだろう。さすがに追加の宿泊代はとられるだろうけど。

さて、ミサトにでも連絡しなきゃ…。

電話をかけるべく(恐るべきことに携帯は圏外だった)、女将の後に続いて一緒に客室を出ようとしたアスカだったが、そこではたと思い出す。

昨夜の仲居によるシンジ夜這い事件。

ゴタゴタで忘れていたが、こちらのほうも重要な話だ。

「ちょっと聞きたいんですけど…」

「はい? なんでございましょうか?」

「…う」

上品に微笑み返されて、思わず言葉につまるアスカである。

本来だったら、従業員の不始末ということで、経営者の管理監督責任も含め頭ごなしに怒鳴りつけ糾弾するつもりだった。

だが、朝のゴタゴタで至極親切にしてもらった手前、居丈高にそれを実行するのはためらわれた。

三秒ほど思案し、アスカは穏便な質問方法を取ることにする。

「あの…ですね。この旅館に、おかっぱ頭の若い仲居さん、いましたよね?」

「…はい?」

女将は笑顔のまま真っ直ぐ問い返してくる。

「ですから、頭にピンクの櫛をさした、若い娘さんです」

鈍い反応に、アスカは少し苛立った。

女将は、しばらく顎に指を当て思案していたが、ゆっくりと首を振った。

「大変申しわけありませんが、お客さまの見間違えではないでしょうか? 当宿には、私も含め30歳以下の仲居はおりませんが…」




























「絶対見間違えじゃないわよ、アレは…」

本日も貸し切り状態の露天風呂で、アスカは伸びをしながらぼやいた。

昨晩見た女の姿は網膜にくっきりと焼き付いている。

シンジの側に屈んで、何やってたんだろう?

そりゃ夜這いっていうからには…。

だいたいあたしが見たのは終わっちゃった後? それとも前?

いや、未遂よ、あれはきっと…。

寝不足のせいかぼんやりとした頭でアスカはとりとめもないことを考える。

そして不意に彼女はいらただしげに湯面から身体を起こす。

なんであたしがそんなこと心配しなきゃならないのよっ!?

おまけに朝ご飯も食べそびれ、お腹も空いてることに気づく。

無性に腹が立って仕方がない。

バシャバシャと湯船から上がり、アスカは空を仰ぐ。

今日も曇天で、彼女の素肌の上の水の珠は、光を跳ね返すこともなく滑り落ちる。

まったく、天候までいけ好かない。

乱暴にタオルで身体を拭きながらアスカは考える。

とりあえず、ミサトにもう一泊するって電話して。

それから、旅館の中にいる仲居全員の面通しね。

髪を乾かし、脱衣所の鏡に向かいアスカはにっと歯を見せて笑う。

自分の正しさは自身で証明してみせる。

シンジへの夜這いの件は置いておくにしても、ちょっとだけ意識の外へ置いておくにしても、このあたしの寝不足の落とし前はつけてやらなきゃ気がすまない。

















ところが、彼女の意気込みとは裏腹に、収穫は皆無だった。

とりあえず見える範囲の仲居を見て廻ったが、全員そこそこの年配ばかりである。

くわえて全身のシルエットがまるで違った。

昨晩の娘は年頃の細身であり、見た限り該当するスタイルの人物も一人もいない。

髪型だって、全員が結い上げていた。当然ピンクの櫛をしている人物もいない。

となると、昨日、あたしが見たのは…?

客室で早めに出してもらった昼食をつつきながらアスカは考える。

村から上がってきた娘? だとしても、いつシンジに目をつけたのかしら。

行儀悪く箸をくわえながら、アスカはジロリと布団の方を見る。

綺麗に整え直された布団に寝かされたシンジが、穏やかな表情で寝息を立てていた。朝に比べたら顔色もいい。

と、睫毛がさわさわと動いた。

「…ん…っ」

声が漏れ、ゆっくりとまぶたが上がる。

アスカは箸を放り出し、四つんばいで布団へと駆け寄った。

眩しそうに目を細め見上げてくるシンジになぜか戸惑って、結局文句のようなことを言う。

「あんた、いい加減にしなさいよ!? ちょっと心配しちゃったじゃない!!」

「え…? 僕、どうかしたの?」

「……」

身体を離し、アスカは軽く首を上に向けて息を吐く。

文字通り一呼吸置いてから、猛禽が獲物に襲いかかるのにも似たモーションで、アスカは怒鳴りつけた。

「寝ぼけてんじゃないわよっ!!」

さすがにこの剣幕にシンジも目を見開き、上体を起こそうとして―――。

「こらっ、無理に起きるんじゃないっ!!」

アスカに制されて、シンジは仰向けの態勢のまま目を白黒させる。

「あ…? 身体に力が入らないや…?」

ため息混じりにアスカは説明した。

先日から体調を崩し、伏せっていること。

朝になって、引っぱたいてもおきないので医者に診てもらったこと。

医者は過労だといって、栄養剤をうっていったこと…。

熱心に語りかけても、シンジの瞳はぼんやりしたままで反応が薄い。

「…うん、ゴメン。明日までには元気になるから…」

ふわぁと欠伸をし、シンジはまぶたを閉じた。

完全に肩すかしを喰らった形になったアスカは、ぺたんと畳に腰を降ろす。

まあ、シンジがなんともないのはホッとした。だけど、この異様な虚しさはなんなの?

よっこらしょとばかりにテーブルに戻り、昼食の続きを再開する。

TVでは国営放送の音楽番組が始まっていた。

表面上は、静かでうららかな日曜のお昼である。

しかし、冷静に思い返せば、不本意極まりない。

本当なら、今頃新幹線の中である。夕方には第三新東京市について、明日から普通の日常が始まるはずなのに。

月曜日に帰るのだから学校をサボることになるが、そのことについてはそれほど心配はしていない。

ネルフの定期実験などで、機材の関係からかスケジュールがずれ込み、授業を休むこともそう少なくないからだ。

一応、学業の妨げにならないようスケジュールに腐心してもらってはいるが…。

とにかく、使徒の来襲はもう無いというのにご苦労なことではある。

ご飯を食べて腹がくちくなってきたのも手伝って、アスカは眠気に襲われた。

シンジも大丈夫みたいだし、寝ちゃってもいいか…。

テーブルに頬を預け、目を閉じる。

あれ? 何か忘れているような…?

……………。

目を閉じたと思ったら、肩を揺すられた。

ゆっくりと上体を起こして見回すと、青い顔をした女将がいる。

「もし、もし…。おやすみのところすいません」

「ふぁい?」

やはり寝てしまっていたらしい。気の抜けた返事をしてしまった自分に赤面しつつ、慌てて口元に垂れているヨダレ跡を拭う。

「その…少々、込み入ったお話があるのですが…」

女将の悲壮とさえいっていい口調がアスカの注意心を喚起した。

…まさか、宿泊代を今よこせ、とか?

それは困る。大いに困る。

なにせ持ち合わせが全然ない。

「ここでは何ですので、どうぞこちらへ…」

チラリとシンジの布団を眺めて、女将は促した。

アスカにしてみれば否応もない。黙って客室を出る。

案内されたのはロビーの脇にある応接室だった。

豪華なソファーのある部屋に入ったとたん、女将は隣室へ続く扉を開ける。

しばらくして女将が手ずからお茶を乗せたお盆を持って帰って来た。どうやら隣は事務所らしい。

「どうぞ…」

「はあ…」

ソファーに腰を埋め、アスカはとりあえずお茶を啜る。

嫌な雰囲気だ。まるでミサトの試作した料理を食べさせられる直前のような感じ。

いったいどんな話をされるんだろ?

「実は…お客さまの見た仲居のお話なんですけれども…」

「…っ!!」

お茶を噴いてしまいそうになるのをどうにかこらえる。

そういえば完全に失念していた。例の夜這いの一件。

アスカは考える。

実は例の仲居がいたのを知って庇っていたとか。それで詫びてくるとか。

ところが、女将の話はアスカの予想を大きく超えるものだった。

「あれは…どうも幽霊らしいのです」

「!?」

今度は、用心してお茶を飲んでいなかったのが幸いした。もし飲んでいたら、間違いなくお茶を噴いていただろう。

「ゆうれい…?」

間抜けなオウムのようにその単語を口内で反復するアスカに、女将の表情は更に悲哀を深めていた。

「私も失念してたと申しましょうか…」

女将は左手を頬に当てた。その仕草はとても色っぽいもので見習いたかったが、アスカは無言で先を促す。

「先々代の頃、実際に幽霊が出たことがあったそうなんです。ただ、私も先代から口頭で聞いただけでして…」

そう前置きして女将は語り始めた。

先々代、つまり今から半世紀以上昔の話になる。

この旅館に逗留したいわゆる文筆家の間で、幽霊が出るという噂が広まったそうだ。

なんでも、夜半を過ぎると、酷く悲しそうな表情で寝顔を覗き込んでくるという。

若い仲居の格好をしている幽霊が出没する理由は、当時の女将にも考えつかなかったらしい。

わけが分からないながらも、このような商売は信用第一である。

さっそく高名な坊主などを呼び慰霊を試みたが、どうにも効果がなかった。

そこで思い切って旅館の改築を行なったところ、怪異はピタリと止んだという。

「…もしかして、その改築したところって」

「はい、現在、お客様が逗留されておられる離れ周辺になります。

以前は、中庭はもっと狭く、半分以上が本館の客室になっていたと聞いています」

腕を組み、アスカは考え込む。なんとも非科学的な話だ。

アスカ自身、個人としてはこの手の話は好きである。

なんといったって花の女子高生なのだから、仲間内でダベればこの手の話題に事欠かない。

しかし、実際に体験するとなれば話は別だ。

だからといって、この時点で恐怖におののくような彼女ではない。

「ふうん…」

と、そっけない呼気のようなものを洩らした時点で、明晰な頭脳は一連の事象に対する解析を始めていた。

疑問その1: 本当に幽霊だとして、なぜ今になって迷い出てくるのだろう。そしてどうしてシンジがターゲットになったのか?

疑問その2: そもそも、あたしが見たのは本当に幽霊だったのか?

腕をほどき、さっそく訊ねることにする。

「ちょっと聞きたいんだけど、改築してから今まで『出た』ことはあったの?」

女将は、少女の急に横柄になった口調にも関わらず、丁重に答える。

「いいえ、一度も。少なくとも先代から聞いてはおりません。…それが今まで失念していた言い訳になるとも思っていませんが…」

「なるほど…」

一つ頷き、アスカは立ち上がる。

疑問その2を検証するためである。

応接室を飛び出しずんずん進むアスカの後ろを、何事かとオロオロとしながら女将が付いてきた。

足早に客室へと戻ったアスカは、まだ眠っているシンジの顔を一瞥だけすると八畳間を横断し、勢いよく窓を開け放った。

よくよく目をこらし、庭を観察する。

正確には、庭の白砂だ。

綺麗に整えられたその上を歩けば、確実に跡が残るはずなのだが…?

振り返り、震える声でアスカは背後の女将に問いかける。

「…今日、庭の掃除って、しました…?」

「? いいえ、本日はこれからですが…?」

青い瞳が無言で正面へと向き直る。心なしかその色が翳っていた。

真っ白い砂地には、足跡一つ記されていなかった。




























イライラと髪を掻き乱し、アスカは乱暴に椅子に腰を降ろす。

こんな経験は初めてだ。どうしたらいいかわからないなんて…!!

もっとも、確実な解決方法は分かっている。

今すぐネルフに連絡し、シンジをここから本部へでも移送してしまうのだ。

いくら幽霊といえど、第三新東京市までは追ってこれまい。

反面、それを是としない自分もいた。

なんにせよ非科学的極まりない話だ。

科学万能主義のリツコはともかく、ミサトにまで笑われるのは目に見えている。

そういう風に笑われて恥をかくのはお断りだった。

だけど、恥をかく程度でシンジが助かれば、そのほうがいいんじゃない?

いやいや、仮に本当に幽霊のしわざだとしても、実際取り殺されるわけないでしょ?

そうなったら殺人事件なわけだし…。とゆーか、取り殺されるってことすら決まってないし。

でも、昨日、今日のシンジの衰弱ぶりをみると、うーん…。

普段のアスカらしからぬ歯切れの悪さは、彼女自身自覚していた。

ただ、その意志を明確にした場合、そこから派生する自身の感情にまで思考が及んでしまうため、あえてボヤかしているのである。

有り体に言ってしまえば、自分の完全に把握できない状態で事件が解決してしまうのが嫌だった。

くわえて、二人で旅行に来ての事件である。自分で解決したかった。

とにかく、シンジに関しては、自分が関与しないままに事態が推移することは耐え難かった。

なぜなら…。

そこまでうっかり思考を進めて、あわててアスカは中断する。

ま、まあ、とにかくこれからどうするかよ!!

と、結局思考は堂々巡りもいいところだ。

これでシンジの寝顔は穏やかなものだから、なおさらアスカはイラつくのである。

「失礼します…」

ノックの後に続き、入り口の襖が開く。

結論の出ない思考を一時中断し、アスカは顔を上げた。

さきほどから冴えない顔色の女将が、頭を下げていた。

「お尋ねの件ですが、やはり当時の資料などは残っていません…」

責任を感じているのだろうか、至極無念そうな表情で女将は顔を伏せる。

「そう…ですか」

アスカも露骨に落胆を込めないよう返事をした。

依頼しておいて良い報告を期待していないわけじゃないけど、これでいよいよ手詰まりの感が強まる。

幽霊話などの場合、その原因を取り除けば解決するのはまあお約束だ。

その手がかりを過去の資料に求めたわけだが、無いのならしようがない。

仮にあったとしても、当時に解決できなかったのだから、実際にはどうしようもないかも知れない。

「ですが…」

女将の声に、アスカは伏せた視線を上げる。

「神社に住んでいるお婆さまなら、何か当時の事を知っているかもしれません…」

声にためらうような響きがあるのを、アスカは聞き逃さなかった。すかさず問い質す。

「いえ、その…。なにぶん御高齢で、10年前から隠居暮らしでお姿も見かけない方ですから…」

おそらくぬか喜びさせないために気を使ってくれたのだろう。

その心使いはともかく、この状況では藁にも勝る情報だった。

腰を上げたアスカは、時計を確認する。

いつの間にか午後三時を廻っていたが、まだなんとかなる時間帯だろう。ネルフへ連絡するにしろ、話を聞いてからでも遅くはない。

「ちょっと出かけて来ますね」

礼もそこそこ、アスカは女将の脇をすり抜けるようにして、客室を飛び出した。























石段を登りきれば、先日と変わらぬ貧相な社が鎮座ましましていた。

さして広くない境内を見回し、アスカは古びた社務所に目星をつけた。

呼吸を整え、ついでに走ってきて乱れた浴衣も直し、戸口に立つ。

人の気配がしないけれど、アスカは意を決して引き戸を叩いた。どちらにしろ、もうここしか縋るべき場所はない。

「すみませ〜ん」

予想に反して、しっかりとした返答があった。

「開いてるよ。入っておいで」

しわがれた、おそらく女の人の声。

…これはいきなりビンゴかも?

遠慮無くアスカは上り框へと素足を乗せる。

声のする方まで迷う必要はなかった。

薄暗く、ギシギシいう廊下を真っ直ぐすすみ、すぐ右手に灯りが見えた。

ただ、灯りにしては人工的なものではなく、えらくアナクロな光。

その灯りに近寄ってみれば、予想通り灯りに源は、囲炉裏の中で燃える炎だった。

…囲炉裏?

室内を見回せば、梁は剥き出しのえらく古風な作りの部屋だ。むろん、梁からは自在鈎がぶら下がっている。

「よう来なすったのう…」

下から響いてくるような声に、アスカはそちらの方を向いてひっくり返りそうになる。

どうにか踏みとどまるも、無礼極まりないことに相手に指を突きつけ、アスカは悲鳴と絶叫の中間の声を出した。

「き、きのうのガマガエル…っ!!」

「…失礼な娘っこじゃのう」

まぶたというより皺の一つをあげて、ガマガエル、もとい老婆はぼやいた。

そして、

「ほう、おぬし、先日は遠目でわからんかったが、金髪だけでなく瞳も蒼いのう。

この歳になって異人さんの娘を見られるとは…眼福眼福」

しかも日本語も達者じゃな、と老婆はゲフゲフと地面から沸いて出てくるような声で笑う。

あたしはクォーターよ!! などと訂正しかけてアスカは断念した。

この、一世紀近く生きていると主張しているようなたたずまい。

偏見かもしれないが、横文字を話しても理解してもらえるか妖しい。

まちがいない、これが例のお婆さまとやらだ。

唾を飲み込み、背筋をただすアスカ。

そう、自分は話を聞きに来たのだ。

なんにせよ尋ねに来た立場である。礼を失するわけにもいかない。…もう手遅れかもしれないけど。

それでもきちんと膝を折って座り、アスカは頭を下げた。

「実は…」

「ああ、皆までいわんでもいいわ。昨日、一緒に連れておった男の子の話じゃろ?」

アスカが息を飲んでいると、老婆は歯のない口を開け、声を立てず笑った。

「その顔からすると、やはり出おったか…」

老婆は火かき棒で囲炉裏の炭をかき回す。

パチパチと炭が爆ぜる音の中、アスカはずずいっと老婆へ近づいた。

「教えてください。あの幽霊の遍歴を」

ストレートに尋ねる。この上なく真剣な口調になっているのだが、アスカ自身気づいてない。

「ということは、おまえさんも見たんかい?」

コクリと頷いてみせる。

「今、その子はどうしておる?」

動けないので布団で寝ていると説明すると、老婆は顔面中の皺を集めるような表情をした。

「こいつは、まずいことになるかものう…」

「…どうまずいんですか?」

答えず、老婆は置物になったように身じろぎしなくなった。

アスカも、無理に促さず、同じく黙って続きの言葉を待つ。

沈黙が流れた。

炭の爆ぜる音だけが響き、揺らめく炎が二人の影の姿を変える。

「…昔話をするかの」

やがて老婆が口にした言葉は、聞きたいことの本題とかけ離れているようだったが、アスカは口を挟まず耳を傾ける。

「戦後のことじゃから、いまから70年は昔の話じゃ…」

































あの頃は、あすこの旅館も休業状態じゃったよ。

しかし、それほど戦さで痛手も被らなかったでな、すぐ営業再開したのじゃ。

昔から作家さん保養地として有名じゃったし、お上に楯突いた記者さんを匿ったりと、馴染みのお客さんも多かったんじゃろ。

まあ、それは関係ないんじゃ。

ある日、どこぞのお坊ちゃんがあすこに逗留したんじゃよ。

作家さんの卵だとかいっとたな。細面で柔和な顔してての、おまえさんの彼氏にそっくりないい男じゃったよ。

え? 彼氏じゃないじゃと? 

…ふむ。まあ、細かいことは置いておいてじゃな、仲居の一人が惚れこんだんじゃよ。

これまた線の細い可愛い娘での。

二人がこっそり逢い引きしている姿を見ると、初々しくてこちらの頬が熱くなったもんじゃ。

儂が見た限り、あれはせいぜい手を繋いだ程度じゃな。チスもしてなかったじゃろう、ひひひ。

…なんで知っておるかじゃと?  無粋なことを訊くもんではないわ。

当時の恋愛なんぞ、今と違ってそう自由にいかないもんじゃ。

それでも、あの坊ちゃんは、例の仲居と添い遂げるつもりじゃったのだろう。

反対する両親も説き伏せたと聞いたな。

ところが、もともとこの坊ちゃんは、身体の強いほうではなかったんじゃな。

宿に逗留していたのも療養が目的じゃったというしのう。

そして、二人の仲が深まるのに反して、身体は思わしくなかったらしい。

とうとう、場所を変えて療養することになったんじゃ。

別れ際、坊ちゃんは仲居に約束したそうな。

「僕は、絶対ここに帰ってくるよ。戻ってきたら結婚しよう」と。

仲居もそれを信じて、心よく送り出したのじゃよ。

それからが仲居の健気なところよ。

想い人の快気を祈願して、お百度参りをしたのじゃ。この神社でな。

なに、お百度参りとはなにかじゃと?

神社に日参し、文字通り100遍神仏にお祈りするんじゃよ。鳥居から宮までの間の参道を往復してな。

それこそ毎日、雨にも風にもかかわらずじゃ。

まさしく恋のなせる業よ。同時に悲劇でもあってな。

雨に打たれて風邪をこじらせたかと思うと、あっさり死んでしまったのじゃよ。周囲の人間も驚くくらいあっけなくな。

そしてしばらくして、風の噂で例のぼっちゃんも肺病で亡くなったと聞いた。

…みんなしみじみ可哀想に思ったもんじゃよ。

ようやっと平和になったと思ったのにな…。































「かくいう儂なんぞ、せかんどいんぱくととか抜かす大戦真っ青な地獄があったのに、こうぴんぴんしておるわ。

まっこと世に人の生き死にほど不平等なことはないものよ…」

老婆はそう結んだ。

パチリと炭が一際大きく爆ぜ、アスカはようやく緊張が解けたのを自覚する。

老婆の主観的な部分をさっ引いても、悲恋だ。そして十分執着に値する話だ。

確かにそこまで一途に思いこめば、化けて出てもおかしくない。

その部分だけを抽出すれば、まんま既存の怪談話のサンプルである。

しかし、納得しながらも釈然としない部分をアスカは見いだしていた。

どうして今頃になって迷い出てきたのだろうか?

たまたまシンジが大昔の坊ちゃんとやらに似ていて、あの離れに泊まったから?

昔、目撃した人間が文筆家ばかり、というのは、幽霊がかつての想い人の職に照らし合わせのだろう。

約束通り、身体を治して帰って来てくれた。

そう信じて顔を覗き込んだ幽霊は、そこに想い人の顔を見出せず、さぞ落胆して迷い歩いたに違いない。

しかし、シンジは、いくら外見が似ていたとしても作家なんぞではない。

くわえて昨夜の幽霊のあの行動。

よくよく考えてみれば、あれは顔を覗き込むなどという行為ではなかった。

しっかりとその寝顔を眺めていたのではないだろうか。

そしてなにより。

シンジ自身の衰弱の理由と結びつかない。

もしかして、あれが生気を吸い取られるとかっていうヤツ…?

いやいや、あれは単なる体調不良よ! きっとそうよ!

細い首を振り、アスカはその不吉な考えを追い払う。

かわりに彼女は質問した。

その質問をすることで、さきほどの不吉さがぶり返すような予感があったが、仕方がない。

「…その、お坊ちゃんの名前って?」

「名前か? たしか…シンジロウとかいったかな?」

一つだけ深く嘆息し、アスカは天井を仰ぐ。

短く礼をいいながら彼女は立ち上がり、ついでにもう一つだけ質問を、否、確認をする。

「その坊ちゃんが療養に行ったまま亡くなった場所って…」

老婆は開いているのかどうか分からない目で金髪の少女を見上げながら、ぞわりと頬を歪めた。どうやら笑っているらしい。

「昔から肺を病んだ者の療養場所は決まっておろう? 箱根じゃよ」




























続く


三只さんから最新話をいただきました。

ほのぼのらぶらぶかと思ったら……突然の幽霊?!怪奇ですね。

はたしてアスカはシンジを守れるのでしょうか。

素晴らしいお話を書いてくださった三只さんへの感想をお願いします。