目を覚ましてまず違和感に襲われた。

見知らぬ天井。

馴染みのない匂いが急に鼻を突く。

空気が違う。布団の温もりも違う。

そこでようやく温泉宿に来ていることを思い出す。

…何時だろう?

ゆっくり上体を起こしながら、シンジは常ならぬ身体のだるさを覚えた。

























































Lady And Sky



Act:10 温泉へ行こう!! 中編2

by三只







































「どうしたの? 美味しいわよ、その漬け物」

相も変わらず元気いっぱいのアスカの声に、シンジは軽く微笑み返すだけ。

差し向かいで朝食のお膳を突いているわけなのだが、どうにも箸が進まないのだ。

身体のだるさもあるけれど…。

無意識にシンジは右手の甲を唇に当てる。

普通に考えれば、あの時キスをしてくれたのはアスカしかいないわけで…。

無邪気にご飯を頬張る少女をまともに見られない。

夢じゃないのか? と自問自答するも、昨夜のあの感触は生々しすぎた。

キスされたことは嬉しくないわけじゃない。

むしろ、キスしてくれた理由のほうが気になる。

単に酔っぱらってたから?

もしくは温泉旅行のお礼?

それとも…僕のことを好きでしてくれたのかな…?

チラチラと上目遣いで見れば、アスカは食後のお茶を口に運ぶところ。

ピンク色の艶やかな唇に、頬が熱くなる。

キスをしてくれた理由を、まさか本人に尋ねる訳にもいかない。

至って脳天気そうなアスカの表情とは裏腹に、シンジの思考は更に沈降する。

お礼にしても、キスなんかしてくれるかな? でも、酔っぱらって勢いでキスってほうの可能性も高そうだし。

その、好きでキスってのも…なんか釈然としないんだよなあ。

これでアスカが朝一番で顔を合わせた直後、頬を赤らめてくれていたりしたら、まだ判断材料が増えるのだが。

シンジの煩悶にも全く気づいた様子もなく、アスカは勢いよく席を立つ。

「さ〜て、朝風呂でもいってこよっと」

「あ、い、いってらっしゃい…」

アスカを送り出してからもシンジは箸を動かす。

しかし、どういうわけか一向に食欲が沸かなかった。























「ちょ、ちょっとタイム…」

激しく呼吸を乱し、片手をあげて制してくるシンジを見て、アスカは明らかに不満そうな表情になる。

「なにバテてるのよ。情けないわねぇ」

容赦ない声を背中に、シンジはどうにかベンチに身体を預ける。

ここは例によって遊技場。

朝風呂から上がって一服してから、退屈したアスカにまた連れてこられたのだ。

身体の異常をさすがにシンジも自覚した。

卓球のワンセットも終わらないうちに息が上がった。膝はガクガク震え汗が止まらない。

信じられないくらい調子が悪い。

朝からのだるさはより強くなっているような気もする。

どうにか呼吸を整えてると、さすがのアスカも訝しげな表情で近づいてくる。

「あんた、ちょっと変よ? 風邪でも引いたの?」

「うん、そうかも…」

確かに湯冷めかなにかしてしまったかも知れない。

「ったく、ツクヅク間抜けよね、あんたは。旅先で体調崩すなんてさ」

パタパタとラケットで顔を仰ぎながら、金髪の少女がのたまう。

あからさまに不安そうな態度なのだけれど、シンジにはどうしようもなかった。

「―――ま、仕方ないわね。部屋に戻ってTVでも見ましょ」

寛大にもアスカはそういってくれた。

シンジにしてみれば否応もない。

わずかな運動にもかかわらず疲労が染みついてしまったような足を引きずり、客室へと戻る。

お茶を煎れて、TVを眺めた。

土曜の午前中ということでそれなりに興味をそそる番組もあり、とりあえず時間はつぶせそうだ。

刑事ドラマの再放送が終わり、ニュース番組が流れれば、はや昼食の時間である。

「こんな風にのんびりするのも悪くないかもね」

窓際の椅子に身体を埋め、アスカが呟くようにいう。

そういってくれるのはありがたいけれど、たぶん夕方までもたないだろうな…。

仲居を手伝ってテーブルの上に食事を並べながらシンジはそう推測する。

その洞察は正確で、懐石風の昼食を終え、昼のサスペンスドラマも見終えたアスカがフラリといなくなったのは午後二時過ぎ。

浴衣の裾を跳ね散らかして戻ってきたアスカは、シンジのもたれ掛かった座椅子を蹴飛ばす。

「ほら、出かけるわよ」

「…どこに?」

この旅館に至るまでの道筋には、何も観光名所らしきものは見かけなかったが。

「あんたね、昨夜の仲居さんの話、聞いてなかったの? 近くに神社があるっていってたじゃない!!」

そういえば、そんな会話があったような。

そして、行こうといっているところ見ると、今、仲居さんに正確な場所でも聞いてきたのだろう。

仕方なくシンジは立ち上がる。本当は部屋から動きたくなかった。

だけど、多少なりともアスカに付き合わなければ、さすがに気の毒だと思う。

彼女の活力や行動力を、シンジは何より敬愛し貴重に思っていたから。―――過剰暴走による多大な迷惑は別にして。

部屋に籠もりきりなど、アスカにとって拷問に等しいはずだ。

客室を出るとき二、三歩畳を踏みしめる。

どうやら疲労は回復してくれたらしい。さすがに散歩くらい大丈夫だろう。

というわけで、二人は連れだって旅館を出た。

カラコロ鳴る下駄の音が小気味良い。

外の空気を吸い、たちまち活気を帯びてくるアスカの顔を見てシンジの表情も緩む。

ただ残念なことに天気はあまり良くなかった。

これで陽光が燦々と降り注げば、アスカ自慢の金髪に反射して、彼女は妖精のように見えたかも知れないのに。

「なにぼーっとしてんのよ?」

手を引かれ、シンジは旅館の西側に回る。

東側はお風呂と河が流れているわけで、こちら側は整備された道がある。

結構広い道は当然のように車が来る気配がない。

長く緩い坂道になっており、その先には家々が寄り添っている光景が見下ろせた。

村と形容したほうがいいのだろうか? 小さな集落である。

まあ、仲居さんとかの家もあるだろうし、人がいなきゃお祭りだって出来ないだろうしなあ…。

シンジが無難なことを考えていると、更にアスカが手を引っ張ってくる。

「ほら、こっち、こっち!!」

手を引かれるままに脇道へ入れば、そこは幅のある石畳の道。

古く、ところどころヒビが入ったりしている石畳のその先に石段がある。

石段を登ればおそらく社があるのだろう。

両脇に茂った木のおかげで、薄暗さが強調されている。

気味が悪いとはいわないが、足を踏み入れるのも気が進まなかった。

自身の体調の悪さもあるのだろう。シンジが躊躇していると、アスカは構わずグイグイ引っ張ってくる。

あまつさえ、彼の腕を自らの胸に抱え込んだではないか。

「ね、せっかくだからお参りして行きましょ」

「う、うん…」

普段のアスカらしからぬサービスに、シンジの心臓はたちまち早鐘を打つ。

人目が無いからかも知れないけど…。

なんとなくアスカの浴衣の胸元を注視してしまい、慌てて視線を逸らすシンジである。

下駄を鳴らしながら、石段を五段ほど登ったときだった。

「きゃっ!?」

アスカが胸元へ飛び込んできた。

よろめきながら、思わず抱き留めたシンジの腕の中で、悲鳴を上げた唇が震えている。

昨晩のキスを思い出し激しく狼狽するシンジへ彼女は訴えた。

「そ、そこ!!」

「…え?」

アスカの指さす方向を見れば、茂った木々があるだけ。

「いたのよ!! でーっかいガマガエルのオバケみたいなのがっ!!」

よくよくシンジは目をこらす。やはり、薄暗いそこには何もない。

「何も、ないよ?」

見たままを告げると、アスカは恐る恐る振り返る。

金髪の頭が左右に振れる。

髪が腕をくすぐりこそばゆかった。

入念に見回してからようやく安堵したらしく、アスカは身を離す。

途端に彼女は顔を真っ赤にした。

「そ、その、あんたに抱きついたのは違うのよっ!! ただ、昔から、ちょっとカエルだけは苦手で……っ!!」

「へ〜、アスカにも苦手なものがあったんだ…」

シンジにしてみれば、意外な発見に素直な感嘆を洩らしただけだった。

その態度に、たちまちアスカは沸騰。目を三角にしてシンジをどやしつける。

ようやく、自分が無様な行動を取った上、弱点を告白してしまったことに気づいたらしい。

「こ、このこと、他の誰かに教えたら、殺すからねっ!!」

「う、うん」

顔を真っ赤にして指を突き出す少女に、シンジは素直に頷いた。

「さ、さっさと行くわよっ!!」

浴衣の裾を翻し、さっさと石段を登って行くアスカの後ろ姿を見送ってから、シンジもようやく可笑しさがこみ上げてきた。

「なに笑ってんのよっ!?」

数段上から見下ろしてくるアスカ。顔が真っ赤なままなので迫力がないことおびただしい。

「ううん、なんでも…」

笑いをかみ殺し、シンジも次の石段に足をかけようとしたときだった。

「!?」

激しい目眩がシンジを襲う。

膝が砕け、目の前の風景が歪む。

石段にもたれ掛かかりながら、シンジは明滅する視界に必死で吐き気を堪えた。











粉雪の積もった社。

舞い散る紅葉。

石灯籠に祭り太鼓の音。

楽しげな笑い声。

悲しげな瞳。










僕は―――この光景を見たことがある!?





















「……シンジっ!! こら、シンジっ!!」

目だけそちらを向くと、心配そうに覗き込んでくるアスカの姿があった。

「どうしたのよ、いったい…」

よろよろと上体を起こし、その実シンジの耳にアスカの声は入っていなかった。

青ざめた顔のまま、ぼんやりと石段を見下ろす。

よく転げ落ちなかったものだ。

それより、先ほどの既視感。

―――いや、僕はこんなとこに来たことはない。

初めてきた場所なのに。

「あんた、本気で具合悪いみたいね…」

側までやってきたアスカの方も見ず、シンジは答えた。

「うん。だからもう宿に戻って寝るよ…」

体調は最悪だった。頭痛が酷く、全身の倦怠感など朝の比ではない。

「ちょ、ちょっと…!!」

アスカの声を背中に石段をふらつきながら下りる。

「ここまで来て、お参りもしないつもりーっ!?」

なんといわれようが、もう頭が働かなかった。

本能が告げるままに足を動かす。

これ以上この場所にいてはいけないという危機感に。



















◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
















適当にブラブラしてからアスカは宿に戻った。

ほとんど意地でお参りした神社は、予想通り古ぼけていてなにも面白みがなかった。

集落の方に降りて買い物しようかとも考えたが、面倒くさいので旅館のロビーで高いアイスクリームを買う。

客室へ戻れば、八畳間の隅っこに敷いてある布団が盛り上がっている。

ホントに寝ちゃったのね…。

呆れると同時に、ほんの少しだけ心配になった。

「ねえ、アイスでも食べる?」

ちょっとだけ、ちょっとだけ優しくしてやってもいいわよね。

珍しくそう思ったアスカは、開封してないストロベリーアイスを枕元でブラブラさせてみる。

「…うん、ありがとう。でもいいや…」

弱々しい返事が布団越しに響いてきただけ。

置いてけぼりにされて腹が立っていたはずなのに、どうにも気勢を削がれてしまう。

「そ」

素っ気なく言ってTVをつける。

アイスを食べながら、バラエティ番組の再放送を眺めた。

結構な音量なのに、シンジはピクリともしない。

反応がなくて面白くないのでボリュームを絞る。

…あたし、なにやってんだろ?

番組が終わった。

たちまち暇になったアスカは、ごろりと畳に横になる。

寝っ転がったまま足を組み、左のつま先をブラブラさせる。

はっきり言って退屈だ。

かといって一人じゃでかける気も起きない。

TVゲームでも持ってくりゃ良かったわ…。

もちろん後悔は先に立たない。

あー、もう、つまらないつまらないつまらない…!!

ひたすらダラダラしていると、つけっぱなしのTVから軽快な歌が聞こえてくる。

視線を上げれば、夕方から始まる子供向けアニメ。

もうこんな時間。

今日ももう終わる。明日には帰るというのに。

せっかく温泉旅行にきたのに、何のイベントのフラグも立たないってどーゆーことよっ、もう!

アスカがきーっ!!とばかりに金髪を掻き乱した時だった。

「夕食をお持ちしました」

襖の奥から声がする。

やっぱりもうそんな時間だ。

とにかく、布団へと声をかけた。

「ほら、ご飯だって!!」

「いらない…」

くぐもった声が返ってくる。

「いらないっていわれても…」

案の定、中に入って来た仲居は不思議そうな表情になる。

「お連れさん、具合悪いんですか?」

「あ、大丈夫です。風邪みたいなもんですから」

適当にそう答えてから、アスカは始めて思い至る。

シンジ、本当に大丈夫かしら。ひょっとして風邪なんかじゃないんじゃ……。

「そうですか? …何かございましたら、すぐお知らせくださいまし」

仲居が深々と頭を下げて退室する。

湯気を立てる料理を前にアスカは逡巡したのも束の間、居間の隅に行くと勢いよくシンジの布団をはぎ取った。

布団をはぎ取られたのにシンジはピクリともしない。

身体を丸めて、まるで赤ん坊のよう。

「こら、シンジっ!! 起きろっ!!」

腰に手を当てて見下ろすが、やはり微動だにしない。

不意に焦燥にかられ、アスカはがばっと布団に膝をつき、シンジの寝顔を覗き込む。

…顔色は、普通ね。息もしているみたいだし。汗もかいていない。

青い瞳が、急に悪戯っぽい光を放つ。

こうやってみると、ほんとに子供っぽい顔ね…。

なんとなく、前髪に触りたい気分になったがこらえる。

他の連中がきゃあきゃあ騒ぐのも、分からなくないか。まあ、可愛い系といえばそうなんだけど。

…って、寝顔に見とれている場合じゃない!!

慌てて頭を振り、脱線しかけた思考を戻す。

見る限り、特に異常はなさそうだ。

それなら。

熱でもあるのかな?

アスカの伸ばした手が額に触れる寸前、パチリと少年の目が開く。

「うきゃああっっ!?」

はじけ飛ぶように後ずさりする少女をぼんやりと見ながら、シンジは至ってのんびりとした口調で告げた。

「…静かにしてくれないかなぁ。めちゃくちゃ眠いんだよ…」

語尾はムニャムニャとよく聞き取れない。

まぶたが落ちて、たちまち聞こえてくる安らかな寝息。

シンジがごろりとこちらに背を向けるように寝返りを打ったので、ようやくアスカは再起動する。

波打つ胸の動悸を宥めながら浴衣の裾を直していると、無性に腹が立ってきた。

なによ、全然元気じゃないっ!!

怒りにまかせ蹴飛ばそうとして―――止めた。

乱暴に布団を被せ、食卓に戻る。

なんか、安心したらお腹が空いたわよ…。

箸をひっつかみ、二人前の料理にアスカは鋭い視線を飛ばした。

「いらない」って、確かにシンジは「いらない」っていったわよね?

だったら、全部あたしが食べてやるっ!!

























TVを眺めるアスカの口元から、けぷっと可愛い息が洩れる。

食べ過ぎたわ…。

すっかり重くなったお腹を抱え、アスカは黒檀のテーブルにあごを乗せた。

半ばヤケクソ気味に二人前の夕食を平らげた直後、予想通り動けなくなってしまった。

現在の機動力は三割弱まで低下している。

お腹に血が廻ったためか、ぽやんとした頭で、それでもアスカは冷静な判断を下す。

…お風呂は明日にしようっと。

そう決めると、途端に眠くなってきた。

土曜の夜の番組で見たいものが多くあったが、心地よい睡魔には抗い難がった。

早く寝て、早く起きよう。

でもって朝日を浴びながら露天風呂に浸かってみたい。

我ながら、とてもいいアイデアに思えた。

そうと決まればさっさと寝るに限る。

ほとんどゴロゴロ転がりながら、アスカは隣室の布団へ向かう。

畳んである布団を伸ばすのももどかしく、その中に転がり込む。

被った布団の隙間から、器用に髪留めだけを放り出し、アスカはまぶたを閉じた。

























肌寒さを覚えてアスカは目を覚ました。

掛け布団を探すが手の届く範囲にはない。

薄目を開けて見れば、遠い壁の端に転がっている始末。

自分の寝相が悪いのは承知していたけど、かなりのものだ。

掛け布団を求めて畳をずりずりと進む。

そのプロセスで完全に目が覚めてしまった。

敷き布団の上に戻り、浴衣の前を寄り合わせながらアスカはぼんやりと一人ごちる。

「どうして、こんなに寒いの…?」

まだしっかり開かない目をこすりながら壁の上の時計を見上げる。

短針が三時前を指していた。

アスカの知識にはないが、草木も眠る丑三つ時の真っ最中である。

早く寝ちゃったからなあ…。

ホッペタをポリポリ掻きながら、アスカは思わず身体を震わせた。

それにしても寒すぎる。隣の居間から冷気が吹き込んでくるようだ。

…もしかして、あたし居間の窓開けっ放しで寝ちゃった?

居間の窓は、そのまま庭にでられるような大きな引き戸タイプの窓だ。

そこが開いているのなら、いかに四方が本館に面した中庭の離れといえど、この秋の山の冷気である。相当冷え込むだろう。

居間にはシンジが寝ている。

この寒さじゃ、シンジは本当に風邪を引いちゃうかも…。

のろのろと起きあがったアスカは、まだ覚束ない足取りで隣室へ至る襖を開け放った。

案の定、居間の窓が大きく開け放たれていて―――。




「――――――っ!!」




人間、予期し得ぬ状況に遭遇すると、頭が真っ白になるという。

今のアスカの状況は、まさにそれだった。

彼女は見た。

シンジの布団の前に膝をつく人影。

おかっぱ頭の仲居の格好をした、若い女―――!!?

その頭が、布団で眠るシンジの顔からゆっくりと離れる。

揺れる髪に飾られたピンク色の櫛が、夜目にも鮮やかだった。

「………っ!!」

あまりの光景に咄嗟に言葉が出てこない。

なんで!?

どうして!?

とゆーか、誰よ、この女!?

「なっ、なっ、なっ………!!」

意味のある言葉が発せられない。

それでも、女はアスカの視線に気づいたらしい。

顔を伏せたまま、するりとこちらに背を向けた。

そのまま滑るような足取りで居間を横断し、窓から出て行ってしまう。

呆然と、ひたすら呆然とアスカはその後ろ姿を見送った。

庭を突っ切った背中が建物の闇に消えるまで見送り、ようやく窓に近づき、閉める。

ショックだった。

いわゆる『夜ばい』というやつなのだろうか?

この、シンジが、夜ばい?

一語一語区切るように頭で反芻し、アスカは布団で眠るシンジを見下ろす。

冷え切った室内のせいだろう。唇が青ざめている。

自分でも判然としない怒りが沸き上がる。

ついで、何に対して怒っているのか分からなくなる。

あたしは…

……



…あたしが怒っているのは、あの仲居に対してよっ!!

なによ、夜ばいって? この旅館では、従業員が客に手ぇだすわけっ?!

ふざけんじゃないわよっ!!

思わず、今すぐ全従業員をたたき起こし、怒りをぶちまけたい衝動に駆られる。

でも…。

時間が時間である。

それに。

もう一度、アスカは横目で眠ったままの少年を見下ろす。

コイツに責任がないわけでもないわよね…?

どっちにしろ迂闊よ、シンジは。

とっぽいから、夜ばいなんかされるんだから!!

目を覚ましたら糾弾してやる。

―――整理できない自分の感情がひたすら不愉快だった。










それを抱えながら、アスカは夜明けを待つ。

さっそく実行に移すべく行動を開始したアスカだったが、出だしてつまずいた。

なぜなら、シンジが寝所から起きあがれなかったからである。




























続く












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