…ドウシテ僕ハココニイルノダロウ。
碇シンジの生気のない瞳は、車窓の外を飛ぶように流れていく景色を眺める。
視線を手前に移せば、金髪の頭がある。
豪奢な金髪は、ツインテールを三つ編みにし、それぞれ円形に丸めて左右に乗せているという懲りよう。
よほど早起きして時間がかかったのだろう。頭髪の持ち主はすいよすいよと幸福そうな寝顔を見せている。
確かに、座席越しに微かに伝わってくる振動は眠気を催す。
だのにシンジは眠れず、げっそりとした顔で天を仰ぐ。
神さま、幸せってなんですか?
…………………………………。
現在、彼らがいるのは東北へとひた走る新幹線の中。
そんなシンジの格好は学生服。
学校へ登校する格好のまま、アスカに引きずられて駅まで連行、列車の指定席に放り込まれたのだ。
窓側の座席を確保するなりアスカは駅弁を多数購入。
シンジの分もたちまち平らげて、ひとしきりはしゃいだあと、安心して眠ってしまった。
なぜに安心かというと、シンジが起こしてくれるから寝過ごすことがない、という意味で。
当然、乗車券をチェックする車掌への応対もシンジの役目になる。
態度にこそ表さないが、訝しげな視線で眺めてくる車掌や車内販売嬢には赤面を禁じ得ない。
学校は無断欠席しちゃったな…。
どちらにしろこの格好のままでもいられない。
新幹線を降りたらまず服を買って…。乗り換えの時間も考慮しなければならない。
財布の中身も心配だ。どこかでお金をおろせればいいんだけど。
だいたい、僕も寝ちゃったらどうする気なんだろ?
ジロリと傍らを眺めるが、アスカはホッペにご飯粒を付けたまま夢の中。
心配事は尽きず、やはりシンジは一睡もできなかったのである。
Lady And Sky
Act:10 温泉へ行こう!! 中編(1)
新幹線に揺られること3時間。そこからさらにローカル線で1時間半。
へんぴな片田舎の駅に立つ二人の影。
いわずもがな、シンジとアスカである。
「…あたし、無人駅って、初めてみたわ」
「僕も…」
二人がいうのは、機械でオートメーション化されて無人、というわけではない。
正真正銘の無人の駅だ。
そして、駅周辺の様子もそれに準ずる。
ベンチが二組あるだけのがらんとした駅を出て見える光景。
広大な田園に大きく年期の入った家々は点在しているが、それ意外目につくのは四方にそびえ立つ山ぐらいである。
駅の傍らに商店らしき建物はあるにはあるが、カーテンが降ろされたままで営業してるかのどうかすら妖しい。
ただ茫然と駅前に立ちつくす二人。
「いくらみちのく秘湯といってもねえ…」
冷たい風にアスカは眉をひそめる。
シンジの気分も彼女に等しい。
第三新東京市も自然に恵まれてはいるが、あちらは開発しないだけである。
あまりにナチュラルなこの光景は、文明の利器にどっぷり頭まで浸かったシンジ・アスカ世代をなにか不安な気持ちにさせるのだ。
『帰りたい』っていってくれてもいいんだよ…。
仄かな期待は叶わなかった。
「かといって、せっかくここまで来たんだから、行かなきゃ損だわよねえ…」
アスカがふんと鼻を鳴らした時点で、シンジの選択肢は潰えてる。
第一、帰りの電車まであと三時間ある。
おまけに、帰りの新幹線のチケットはアスカが所持しているのである。
これみよがしに胸元深くしまい込まれたそれを無理矢理取り戻すには、命の二つ三つでは足りないかもしれない。
シンジも秋風にジャケットの胸元をすりあわせる。
空が灰色なのもあるが、刈り入れの終わった田んぼというのは妙に閑散として、寂しさを催させるようだ。
ちなみに今彼が着ているジャケットは、新幹線を降りた駅で乗り換える前に購入したもの。
他にもナップザックも購入している。どちらも安物だが、それに下着類も購入したので、シンジの財布は真っ赤かだ。
しゃがみこんでコートの前で手をすり合わせながらアスカが訊いてきた。
「ねえ、このあとどうするの?」
「え〜と、この先にバスの停留所があって…」
パンフレットをのぞき込んでシンジは答える。
「あそこじゃない?」
指さすが早いがアスカはツカツカと歩き出す。
彼女の指摘通り、道路に面したそこはバスの停留所だった。
「うそっ、バス、一日に三本しかないじゃない…!!」
さび付いたプレート型の時刻表を覗き込んだアスカが悲鳴のような声を上げた。
一緒に覗き込んだシンジも渋い顔になる。
こんな寂しい場所でバスを乗り過ごすなどというシチュエーションは、あまり想像したくない。
顔を見合わせていると、すぐに古びたバスがやって来るのが見えた。
二人ともこれ幸いと乗り込む。
これから訪れるとんでもない出来事も知らずに。
「…本当に、田舎よね」
バスを降り立ったアスカはもはや投げやり気味に言った。
シンジに至っては無言でうなずくのみ。
乗客は彼ら二人きり。
ほとんど貸し切りといっていいバスの中の窓には、うっそうと茂った山中がひたすら映るだけ。
コンビニどころか人家すらほとんど見かけなかった。
ここまでくると、寂しさを通り越して少し怖い。
「ほ、ほら、着いたよ…」
努めてシンジは明るい声を出す。自身を鼓舞する意味もあったかもしれない。
「へ〜、結構立派じゃない」
アスカ賞賛と呆れがブレンドされた声を出した。
内心うなずきつつシンジもその建物を見上げた。
ちょっとした高台にそびえる平屋建ての旅館。
年季の入った佇まいに風格を感じるも、どうにも場違いな印象を受けるのは否めない。
伝統というか格式というか、僕らみたいな若い人には馴染まないんじゃないかな…?
そんな風に分析しつつ、チラリとシンジは隣の少女を見やる。
これが普通の温泉宿なら違和感はないのだろう。
だけど、あまりに純和風様式なこの宿は、妙にアスカを拒否しているように見える。
金髪碧眼だからだろうか…。
「何見てんのよ?」
するとたちまち睨まれた。
「い、いや、別に…」
視線を逸らし語尾を濁せば、
「ふん、どーせ、あたしが温泉宿に似合わない、なんて考えてたんでしょ?」
相変らず鋭いことこの上ない。
更に、
「あんたこそシケた顔してんじゃないわよ。心中旅行と思われるなんてゴメンだからね!!」
追い打ちまでかけてくれる。
ツンと胸を反らし、アスカは建物へ向けて歩き出す。
先入観はともかく、建物自体は彼女を拒む気はないらしい。
慌てて荷物をかかえてシンジも後を追う。
入り口を通りすぎた瞬間、背筋を冷やりとしたものが滑り落ちる。
微かな不安にも似た感情があったが、出迎えの仲居の列にたちまち吹き飛んだ。
「いらっしゃいませ、碇さま」
笑顔で上品に頭を下げてくる仲居たちに思わず足を止めていると、
「ああ、お荷物をお持ちしましょう」
「履き物はこちらに」
「お部屋にご案内いたします」
気が付けばスリッパを履いて、石畳を横断するところだった。
「…素敵」
思わず洩らした声の主はアスカであった。
シンジもアスカを見直すとともに周囲の風景に視線を放っている。
いわゆる和風庭園というやつだ。
白い砂地に松が植えられ、綺麗な石が積み上げられた間から滝に模した水が流れ落ちている。
決して豪華ではない。
だが素朴過ぎず華美に過ぎず、完璧に調和した空間。
この芸術的なまでの光景は、アスカの感性にも訴えるものがあったらしい。
その中心にある離れに、今二人は案内されている。
「こちらで御座います」
年配の仲居の穏やかな笑みに促され室内へ足を踏み入れる。
八畳くらいの清潔そうな部屋だった。
中央に黒檀のテーブルと座椅子が設置されている。
隣室は寝室になるのだろう。今は襖も開け放たれて、敷居の前に竹藪に虎が描かれた衝立が置いてある。
他にも小さな浴室とトイレがある。その様相は一軒家に等しいものかも知れない。
居間は開放感に溢れ、畳の匂いが清々しく鼻をくすぐる。
普通ははしゃぎ廻るアスカなのだが、雰囲気に気圧されたらしく、あくまで上品に、大人しくテーブルに腰を降ろす。
さっそく仲居はお茶を煎れて振る舞ってくれた。
旅装と解き、お茶を啜ってると、まもなく白い着物を着た女性が入ってきた。
畳に膝を折り、綺麗に結い上げた髪が若い客人二人に向けられて下がる。
「遠いところ、ようこそおいで下さりました。当館の女将でございます」
「あっ、その、どうも…!!」
慌てて背筋をただし、こちらも礼を返すシンジ。
アスカは珍しいことにどうしたらよいか分からなかったらしい。結局、軽く目礼した。
「温泉以外、特に何もないところですが、どうぞごゆっくりなさってくださいまし」
艶やかに女将は笑う。
釣られてシンジも微笑み返した。
当たり障りもない談笑を終え女将は退出する。
ついで仲居も離れを後にした。
二人切りになると、さっそくアスカは荷物の解体を開始。
たちまちタオル一式を抱え、シンジに号令一過。
「さあ、お風呂にいくわよッ!!」
「ええ〜…?」
緊張が解け、まったりモードでお茶を啜っていたシンジは、こちらも珍しく唇を突き出し不平の表情。
「温泉は24時間入れるって仲居さん言ってたじゃないか。なにもそんなに焦らなくても」
「あんたバカぁ!? 温泉に来て温泉に入らなくてどーするのよっ!?」
「……」
至極もっともな意見なのだが、どうしてこう理不尽に聞こえるのだろう?
それでも逆らえないシンジである。
荷物の中から、手早くタオルに石鹸の類が入った小さな袋を引っ張り出す。
「さ、いくわよ♪」
鼻歌交じりに歩を進めるアスカの足取りは軽い。
この物怖じしない性格を、シンジは本当に羨ましく思う。
傍若無人とアスカの人となりを切り捨ててしまうつもりはない。
どのような事態にも対処できる。彼女の背中がそう語っている。
つまりは自信の現れなのだろう。自分自身の能力に対する完璧な信頼。
僕にはとても真似できないな…。
内心で呟いて、シンジは肩をすくめるのみ。
いつもと違う環境にいるせいだろうか。今日のアスカは一際輝いて見える。
いや、単に僕が慣れない環境で怖じ気づいているだけかもしれない。
そんな自信満々の彼女の足が不意に止まる。
「…どうしたの?」
おずおずシンジが訊ねれば、
「大浴場って、どこよ!?」
瞬時に怒鳴り返された。
思わずシンジはズッコけた。
詳しい場所も分からず目的地に驀進していたとすれば、アスカらしいといえばアスカらしい。
「えーと…」
おずおずシンジは辺りを見回す。
照明を押さえられた室内。特に看板とかも見当たらない。
では、誰かに尋ねようか、と思って見回しても、なぜか妙に人影がない。
「どうしよう?」
腕組みをして考え込んだ時間は0.5秒にも満たないだろう。腕をほどきアスカは断言する。
「せっかくだから探検してみましょ。非常口とかもチェックしておきたいし」
こんな辺鄙な温泉まで来て非常事態を想定するなんて、用心深いというか何というか…。
アスカらしいとな、などと考えて、シンジは思いなおす。
むしろ、アスカが非常事態を起こす可能性が高いことに。
「とりあえず、ものに当たったりしちゃだめだよ? 年季入ってるからすぐ壊れそうだし…」
「…何の話よ?」
とにかく探索が開始された。
シンジにとって、なにげにアスカの瞳がキラキラしていたのが印象的だった。案外、探検ごっことか好きなのかも知れない。
結果、散々建物の中を歩き廻った二人は、この旅館が大して広くないことを知る。
「部屋は全部で十もないみたいね…」
ロビーの椅子に座り、足をブラブラさせながらアスカはぼやいた。
探索の成果はそれなりに上がったけれど、結局浴場が見つけられなかったのだから仕方ない。
「そうだね…」
賛同しながらシンジは旅館の地図をイメージする。
平屋建てのこの旅館は、中心の庭を囲むようにして建っている。
その庭の中心に立つ一軒家みたいな部屋が、今自分たちが泊まっているところだ。
見るところ、どうやらこの旅館では最高級の部屋のよう。
庭から見て南のほうがこの旅館の入り口で、そのロビーが現在地。
東西が客室の棟なのだろう。そして北側が従業員や厨房の棟らしい。
「どうする? 北のほうの棟へいって聞いてこようか?」
「なんか、温泉入りに宿に来て、温泉が見つけられないってのも間抜けよね〜…」
だるそうにアスカはロビーの長椅子に横になる。
寝そべった金髪から、あからさまにイライラとしたオーラが漂ってきた。
条件反射的にシンジは後ずさってしまう。
不機嫌モードから怒りモードへの移行はとんでもなく速いアスカである。
イライラし始めたら関わらないのが最善なのだ。
いつもの通り身の危険を感じながらも、その実シンジの内面では全く別の疑問が鎌首をもたげている。
従業員の姿が見えないのは置いておくとしても、他の客の姿も全く見えないのはどういうわけだろう。
とか考えていたら、玄関から一人の仲居が入ってくるところだった。玄関先を掃除してきたらしい。
「ありゃ? お客さん?」
ヤレヤレとシンジは胸を撫で下ろす。どうやらアスカが機嫌を損なう前にお風呂へ行けそうだ。
「すみませんねえ…。ちょっとここの浴場は、一見さんには分からなかったかもしれませんねぇ」
二人が仲居に案内されたのは、東棟の手前の通路だった。
そこから屋外へ出るのだ。外には緩い勾配の坂があり、石段が組まれている。
そしてその先に下って川縁にあるのが露天風呂、大浴場なのである。
「それじゃ、ごゆっくり…」
仲居が去ったあと、二人は顔を見合わせる。
「とりあえず、入ろうか?」
「…そうね」
さすがに不平を口に出すのは自身の間抜けさを誇張するだけだと気づいたのか。
アスカは横柄に頷いて、『女』と描かれた暖簾を潜る。
シンジも暖簾とくぐり、脱衣所へ入る。
竹張りの広い空間は、整然と脱衣カゴが並べられ、清潔な洗面台しか目につかない。
どうにも他の入浴者はいない様子。
着替えの浴衣と服を脱衣カゴへ入れて、しかも律儀にタオルで前を隠し、おそるおそるシンジは浴場へ繋がる扉を開ける。
そこから浴場まで、また少し距離がある下り坂になっている。そして目前に開けた景色にシンジは硬直した。
素晴らしい露天風呂だった。
広大な岩風呂からとうとうと湯気が立ち上り、その向こうにはうっそうと茂った山間の景色が臨める。
まるで山の中に浮かぶ大浴場だ。
「うわ〜…」
人影はない。
ゆえに童心に帰ったように、シンジは浴場内を駆け足。
一応、低い竹の壁で目隠しはしてあるが、岩に登ればその向こうが見下ろせる。
一段低くなったそこには河が流れており、その景色もまた絶景。
「凄いなあ…」
「ほんとよね〜。来た甲斐があったってもんよ」
「うん…」
と、ちょっと待て。僕は誰と話してるんだ?
「だーれもいないし、貸し切りみたいなもんだしね。ご機嫌ご機嫌♪」
声のする方を振り仰げば、男女の風呂の仕切りと思われる竹の目隠しの向こうからアスカがこちらを見下ろしていた。
「……!!」
シンジは口をパクパクさせたのも束の間、慌てて風呂の中に飛び込んだ。
ちょっと熱かったけど、歯を食いしばり我慢する。
「ど、どうして、覗いてるんだよ!?」
肩までどっぷりつかりながら怒鳴れば、肩まで晒したアスカは面白そうに目を細めている。
「どうやらここ、男風呂と女風呂があるとこに段差があるみたいなのよね。
つまり、階段の一段上が女風呂で、一段下が男風呂ってわけ」
ということは…女風呂から男風呂って覗き放題ってことか!?
これで嫌な予感がしないほうがおかしい。
即座に予感は的中。
頭上から振ってくる冷たい水。
「や、止めてよアスカ!!」
悲鳴を上げて逃げ回るシンジを執拗に冷水攻撃で苛めまわすアスカ。
しかし、シンジはどっちかというと、身を乗り出してくる彼女の上半身が見えそうになるほうが気が気でない。
ようやくアスカが飽きてくれたので、色々とほっとする。
改めて洗い場へ行き、身体を洗うことにした。身体も洗わず先ほどは湯船に飛びこんでしまったが、それはまあ勘弁してもらおう。
風邪を引かないように丹念に頭も洗い、そうしてから再度入浴する。
思い切り手足を伸ばせば、自然とため息が洩れる。
「ああ〜…」
見回しても広い浴場に一人だけ。
贅沢なことは贅沢なんだろうけど、どうにもシンジの場合、寂しさのほうが先に来る。
すぐ隣の浴場にアスカがいるのだろうけど、さすがに物音まで聞こえてこない。
独り言を洩らすの馬鹿らしいし、そうなると途端に静けさが強調される。
仕方なく湯面に視線を落としていると、不意にそこが橙に染まった。
え?
振り仰げば、日が没しようとしていた。
夕暮れの赤い光が山並みを染め上げ、それは素晴らしい光景だった。
世界の荘厳さと、自身の中の孤独感が鮮烈な対比を作る。
そして単純な美しさが魂をよりダイレクトに揺さぶるのだ。
なぜか涙が出た。
「ねえ、シンジ、見てる…?」
遠慮がちなアスカの声。
応えなかったのに、怒声は返ってこない。
きっと、アスカもこの光景に魅了されているのだろう。
ようやくシンジは、この旅行に来て良かったと思い始めていた。
夕食はかなり豪勢なものだった。
鹿肉の陶板焼き。
冷たい鴨蕎麦。
山菜の天ぷらの盛り合わせ。
蒟蒻のお刺身。
胡桃豆腐のあんかけ。
山女魚の塩焼き…。
差し向かいでお膳を突くのはシンジとアスカである。
場所は例によって客室の八畳間。
会食用の大広間もあるのだが、なにぶん現在の宿泊客は二人だけとのこと。
「…先週の神社のお祭りの時はお客さんも結構いたんですけどねぇ」
仲居がご飯をよそいながら教えてくれた。
日中客の姿が見えなかったのは、何のことはないそういう理由だったのである。
それにしても…。
ホカホカのご飯の湯気をあごに当てながらシンジは思う。
こんな少ないお客だけでも営業できるなんて、相当な宿泊料取るんだろうな…。
料理だって、無茶苦茶上品な味付けで美味しいし。
招待されてるくせに、つい貧乏性が出てしまう彼であった。
一方、アスカはそんな細かいことは気にしない。
どうやら招待された時点で割り切ってしまうようである。
そんな彼女は現在進行形で料理を堪能している真っ最中。
それにしても不思議だなあ…。
自分の皿の鹿肉の一切れを陶板に乗せながら、シンジはしみじみ思った。
どうして、僕より上品にしずしず食べているというのに、アスカの皿の料理が姿を消しているのだろう。
ごく自然な手つきで略奪されていく天ぷらを眺めて、シンジはため息をつく。
拒否するなんてできやしない。
「はあ、お客さん方、第三新東京市からいらっしゃったんですか。あそこも箱根温泉が有名ですわね。
私も一度行ってみたいものです」
仲居と他愛ない話をしているうちにもみるみるおかずが目減りしていく。
唯一の対抗策は、食べられる前に食べるだけ。
せっせとシンジは自分の料理の制覇にいそしんだが、どう見ても1/3近くは差し向かいの相手に食べられていた。
「ひーっさああああつっ!!!」
古い天井に、金髪の少女の声がこだました。
「超常スマッシュっ!!」
気合いの声をともに白球が唸る。
直径38oのピンポン球は、卓球台の角を掠めた。
全く予期できぬ方向へ飛んでいくそのボールは、もちろんそう簡単にリターンできるものではない。
「こ、こうさんだよぉ…」
追い切れなかったシンジは床にへたり込む。
「へっへーん!! これで6連勝よ!!」
肩で息をしながら、勝ち誇る少女を見やる。
さっきのスマッシュ、狙ってやってるとしたら、大したものだな…。
対戦相手の運動神経の良さを改めて痛感するシンジに、その少女はツカツカと歩み寄ってきて手を差し出す。
「はい、もう百円♪」
「……」
夕食後、腹ごなしとばかりにアスカに無理矢理連れてこられたのがこの遊技場。
昼間、探索したときにチェック済みだったとはさすがというべきか。
しかし、遊技場とはいっても、古式ゆかしく卓球台が二台にベンチが二つ。それと自販機があるだけだ。
「ほら、奢りよ」
と上機嫌のアスカが冷たい缶を渡してくれる。
珍しいなあ、と驚いて受け取るシンジだったが、考えてみれば購入費は自分の負け額である。
…なんか損も特もしてないような?
それでも喉が渇いていたので、プルタップを開けて一気に呷る。
「ぶはっ!?」
むせながら、慌てて握っていた缶のラベルを見る。
メッコールとあった。
「アスカ、これ…」
「あ、やっぱり不味かった、それ?」
ケラケラ笑っている。
どうやら毒味役をさせたらしい。
「じゃ、あたしは違うのにしーようっと」
スキップしながら自販機に向かったアスカが選んだのはチョコバナナソーダ。
「…ぐはっ!?」
「……」
むせ返るアスカを、シンジは愉快だなーなんて眺めた。
実に、彼が旅行にきて楽しいと思ったのはこの瞬間だったりする。
「なんでこんなキワモノしか置いてないの、この旅館は?」
ひとしきり悪態をつき終えたアスカは、飲み残しのジュースをそれでも律儀に洗面台に捨てながら告げる。
「さあって、もう一回、お風呂に入ろっと」
ラケットなどの後片づけをしながらシンジもいいな、と思った。
とにかく、このかきまくった汗を流したい。
「お約束よね…」
風呂から上がってきて客室へ戻ったアスカの第一声。
シンジも微妙な表情で立ちつくすしかない。
綺麗に食器が片づけられた八畳間は別に問題はない。
問題ありまくりなのは、隣室に引かれた布団だ。
いわゆる、布団は一つ枕は二つ、というやつである。
「…ほら、あんたはそっちに布団敷きなさいよ!!」
リアクションに困っていると、さっそくアスカから怒鳴られた。
部屋の隅にシーツやら毛布カバーやらもう一組用意されているあたり、一流旅館のサービスが行き届いていると形容すべきだろうけど、どうせなら最初から布団を二つ引いていてもらいたかたな…。
ぼやきながらシンジはテーブルをどけ、八畳間に布団を敷く。
「いい!? この壁はジェリコの壁でおまけにベルリンの壁だかんね!!」
懐かしい台詞を吐いて衝立を置き、更に襖を閉めるアスカである。
「う、うん…」
枕カバーをしながらシンジが頷いた直後、即座に襖が開く。
「これ閉じたら、TVが見られ無いじゃない!!」
「……」
他愛もないバラエティ番組をしばらく眺め、不意にアスカが八畳間のほうへやって来た。
シンジの目前を横断して窓際へ行き、備え付けの冷蔵庫を物色する。
「招待しておいて、飲み物代は別、なんてセコイことはないわよね?」
ニヤリと笑い振り向いてアスカの口にした台詞は、質問というより確認だった。
「う、うん、たぶん…」
シンジにしても頷くしかない。
「さあ、飲むわよ〜♪」
景気よくアスカはビールの栓を開けた。
「僕たちまだ未成年だよ…?」
無駄と知りつつもシンジは一般論を呟く。
怒声の代わりに飛んできたのはグラスである。
「温泉に来て呑まないでどうするのよ? ほら、あんたも呑むの!!」
と注いでくれるのはありがたいのだけど、
「こぼれてるこぼれてる!!」
シンジがベトベトになった手を拭いていると、アスカも自分のグラスに並々と満たしておいて、それを一気にあおる。
白い喉がんぐんぐと動いて。
「…まず〜」
顔をしかめる少女の顔があった。
小麦色の液体をチロリと舐めて、シンジも賛同の声をあげる。
色々悪友たちと飲む機会がないわけではないけれど、どうにも美味しいと感じられない味だ。
「不味いわね〜。どうしてミサトはこんなモノがぶがぶ飲むのかしら?」
「さあね」
10分経過。
そこには、なお首をかしげながら、ガブガブと飲み続けるアスカがいた。
「そ、そんなに飲んで大丈夫なの?」
おずおず訊ねるシンジをアスカはきょとんと見返す。
「何いってるの? あたしはドイツ人のクォーターよ? ドイツじゃビールなんて水代わりよ?」
往年の日活大スターのような台詞を口にしている時点で、彼女はもう酔っぱらっていたのかもしれない。
そして1時間後。
完全に酔いつぶれ眠り込むアスカの姿があった。
形だけでも後片づけ終え、シンジはため息を付く。
そりゃあこれだけ飲めばなあ…。
林立するビールの空き瓶は、冗談抜きで一ダースはある。そのほとんどをアスカが飲み干していた。
とんでもない鯨飲ぶりとは裏腹に、なぜか寝姿は清楚そのもの。
微かに頬を赤らめ無邪気に眠るその姿は、まさに天使だ。
なにげに視線を下げて、シンジは硬直した。
浴衣の裾が割れて、膝の少し上あたりまで太股が見えてしまっている。
はっきり言ってとんでもなく扇情的な格好。
酔いも手伝って、見る間にシンジの顔が赤くなる。
グビリと喉仏が上下して――――。
結局、シンジはアスカを抱き上げ、隣室の布団へ丁寧に横たえる。
やっぱり、こういうのにつけ込むのは僕の性に合わないよ。
それに、これだけアスカが無防備な姿をさらしてしまうのは、僕を信頼してくれているってことじゃないかな?
酔いが廻った頭で、シンジは自身の発想にご満悦だった。
男性として見られてない、という不名誉に、彼自身気づいてないのは、果たして幸福なことなのだろうか?
襖を几帳面なまでにぴしゃりと閉め、シンジは電灯を消した。
一つだけ欠伸をして布団の中に潜り込む。
彼自身も疲れていたのだろう。酔いも手伝って、眠りに落ちるのに5秒もかからなかった。
……夜半、シンジはふと目を覚ます。
意識は薄ぼんやり覚醒しているのだが、どうにも身体が動かない。
いやだなあ、金縛りか…。
このような経験は皆無ではない。
酷く疲労したときなど、時々このような感覚が訪れることもある。
どこか霞がかった視線で天井を見上げたシンジは、ここが旅館であることを思い出す。
やっぱり、僕も疲れてるんだな。
強く瞼を閉じる。しばらくすれば解けるはずだ。
次の瞬間、襖の開く音が聞こえた。
アスカ?
反射的に薄目を開けようとしたが、不思議なことに今度は瞼が持ち上がらない。
気配が近づいてくる。
トイレはこっちじゃないよ…。
シンジの濁った脳裏に沸き上がってくるのは、だいぶ昔の記憶。
そう、あのときも、アスカはトイレに行ったあと寝呆けて…。
微笑ましい回想も一転、シンジは狼狽する。
って、いけない、今布団に入って来られたら…!!
ところが、金縛りは一向に解けない。
期待と不安がない交ぜになった感情が、意識をより覚醒させようとするが、なぜかそれもままならない。
やがて、頬に冷たいものが触れる。
続いて、唇に瑞々しい感触を覚えた。
それが何であるか理解した直後、興奮を覚えるよりはやくシンジの意識はゆるやかに暗転した。
続く