自分に運がないことは知っている。
そもそも、14歳まで父親から放っておかれ、赤の他人の家で世話になってた。
で、一方的に呼びつけられ、久々に再会したとおもったら、ワケもわからぬうちに巨大ロボットへ乗せられる。
死ぬような思いをして戦わされた挙げ句、精神汚染、人格崩壊への断崖絶壁をタイトロープな日々。
すべて過去のものになったとはいえ、これを不運の極みといわず何をいうのだろう?
そのプロセスでとびっきりの美少女と知り合い、あまつさえ同居なんぞをしているわけだが、これは幸運のうちに入るのだろうか。
シンジは脳裏に、ワガママで、独断専行で、短気で、家事を一切しない少女を思い浮かべる。
いや、トータルで見たら、返って不運な気がする…。
慌ててシンジは悲観論を振り捨てた。
不幸があれば幸運もある。いずれ帳尻が合わなければやってられない。
そのうちいいことがあるだろう。
それが彼の生きる上での指針であった。
でも、幸運が返ってくるにしても、なんか微妙にずれてるんだよな、僕の場合…。
夕方の商店街。
ハッピを来た係員が大当たりの鐘を乱打し、周囲の通行人が惜しみない拍手を送って来る中、シンジは泣き笑いにも似た表情を浮かべ、立ちつくすしかない。
…秋の大バーゲンという中途半端なキャンペーンの福引きで、特等を引き当ててるというこの状況はなんだ?
Lady And Sky
Act:10 温泉へ行こう!! 前編
買い物からの帰り道。
今にも真っ暗になりそうな家路を、シンジは買い物袋と<特等>とかかれた大きなのし袋を抱えて歩く。
袋の中身はペアの温泉旅行招待だそうだ。
どうしよう、これ…。
シンジは考える。
はっきり言って、あまりそういうものには興味がない。
第一、温泉なんか、この第三新東京市にもたくさんあるわけだし。
いっそ、換金しちゃおうかな…?
それも悪くない。出来ればの話だけど。
でも、なんかもったいない気もしないでもない。
生来の優柔不断を存分に発揮し思案を重ね、気が付いたらマンションに着いてしまっていた。
「ただいま〜」
玄関に入ったとたん、出迎えどころか姿も見せない同居人の声が飛んでくる。
「遅いわよ、なにやってたの!? 早くご飯にしてよっ!!」
これに幸福感を覚えるほど、シンジは老成していなかった。
ため息を漏らしながらも、急いでキッチンへ走り、買い物袋をより分ける。
一応、のし袋を食器棚の横に隠し、エプロンを着けて夕食の準備を開始。
手早く、ホイコーロー、春雨サラダ、卵スープを卓上に並べたところに、家主であるところの保護者も帰ってきた。
「たっだいま〜。あ、今日も美味しそうね、シンジくん」
「お帰りなさい、ミサトさん」
エプロンを外しながらシンジ。
ちなみにアスカはすでに食卓についていて、箸をスティック代わりに茶碗をチンチン鳴らしている。
「はやく、ご飯ご飯〜」
「はいはい」
苦笑を浮かべながら、それでも、アスカに一番最初にご飯をよそってやるシンジである。
いつもどおりつつがなく夕食は進行した。
多大な戦果を上げたアスカは、リビングに引き上げるとさっそくゴロ寝をしTV観賞。
ミサトはまだチマチマ料理をつまみながら主食であるビールをチビチビ飲んで、その横でシンジが後片づけをするといういつものパターン。
洗い物をしながら、ふとシンジは思いついた。
そうだ、さっきの温泉旅行、ミサトさんと加持さんにプレゼントしたらどうかな?
別段、二人を年寄り扱いするわけではないし、深く考えたわけではない。単なる思いつきだ。
ただ、なんとなく趣味的に二人にあってるような気もするし、毎度お世話になっている(?)保護者へ被保護者からお礼をする、というのも美談だろう。
ゆえに、彼の中にあるのは純粋な善意だけである。
「ミサトさん――――」
食卓でふんぞりがえる保護者に声をかけようとした時。
「あれ、なに、この袋?」
オレンジジュースの入ったコップ片手に、いつのまにかキッチンへ来たアスカが、袋をめざとく発見していた。
制止する間もあらば、金髪の少女はたちまち袋の中身を開け、歓声を上げる。
「きゃーっ!! 温泉旅行の招待券じゃないの!!」
…一番やっかいな人に見つけられちゃったなあ。
思わずシンジが天を仰いでいる隙に、アスカは保護者に駆け寄って一緒にパンフレットをのぞき込んでいる。
「ねっ、ねっ、ミサト、行きましょ。超豪華みちのく秘湯の宿だって!!」
「え〜?」
パンフレットをチラリと見ただけで、意外にもあまり乗り気でない返事をするミサト。
「んな、何悲しくて、ペア招待で女二人でいかにゃならんのよ?」
「ここに、温泉の効能があるじゃない。美人のお湯だって。それに…」
アスカはニヤリと笑って、
「お湯に浸かりながら、ビールなんて、最高に美味しいんじゃない?」
その言葉にミサトも少し考え込む。
「…そうね、悪くないかも♪」
「よっし、決まり!! 日程はいつにする?」
たちまち盛り上がる女性陣二人。
あの、それは加持さんとミサトさんに…、とおずおず声をかけたシンジであったが、アスカから一睨みされて慌てて口をつぐむ。
洗い物をしながらシンジはため息をつく。
たとえ幸運が来たと思っても、僕に作用するとは限らない、か。
でも、待てよ…?
ここは一つ、発想を転換してみてはどうだろう?
ミサトさんとアスカが旅行へ行く。
つまり二人そろって留守になれば、僕は家事から解放されるんじゃないか?
泡だらけの手のまま、シンジの心はその発想にときめく。
同居人の一方は、日々の仕事に忙殺されてるのもくわえ、今さら家事をしろというほうが無理だろう。三十路の魂百まで、というし。
もう一方の少女に至っては、決して家事は手伝わないのに、そのくせタイトな注文をつけてきて、挙げ句気に入らないと罵倒する。
相も変わらず酷使される日々に、馴れてきたとはいえ辟易してもいるシンジである。
二人の同居人の小旅行は、そんな雑事から完璧に解放してくれるだろう。
ひいてはシンジ自身のささやかな休息にも結びつくわけである。
これはなかなか魅力的なプランだ。
「というわけで、留守番お願いね、シンジ!!」
「うん、いってらっしゃい」
気色満面の笑顔で返事するシンジに、アスカは怪訝そうな顔を見せたが、口に出しては何もいわなかった。
そして木曜日の放課後。
教科書を片づけながら、シンジは非常に気分がいい。
明日の金曜日から、アスカとミサトが旅行にいくからである。
もちろん、明日は休日ではない。
2泊3日のプランでは平日に食い込むのは致し方ないわけで、アスカも保護者同伴のもと堂々と休むわけである。
今夜一晩、旅行の支度を手伝わされてそりゃあ忙しくなるだろうけど、明日からは一人でゆっくり出来るんだ。
金曜日の放課後から、翌日曜の夕方までは完璧にフリーになる。
まず、土曜日を丸々休めるなんて滅多にない。
従って、シンジは大して上手くもない鼻歌まで飛び出す次第だった。
「よお、シンジ、ご機嫌やなあ?」
珍しそうに鈴原トウジが声をかけてきた。
「え? そんなことはないよ、はははは」
「シンジ、おまえ、なんかいいことでもあったのか?」
これは相田ケンスケだ。
その問いにシンジは返答せず、かわりに別の言葉を口にした。
「それより、二人とも明日の夜でも暇? どっか、遊びにでもいかない?」
目を丸くする悪友二人。
「…そりゃ、別にかまわないけど…」
「珍しいこともあるもんやのう…」
茫然とする二人に爽やかな笑顔を残して、シンジは教室を出た。
いつもは買い物だなんだと足取りも重くなる帰り道を、今日はスキップしそうな勢いで突き進む。
道すがら、シンジはふと思う。
そうだ、明日は、アレを食べようかな?
考えただけで、口内が蠱惑的な快感に襲われる。
いつもいつも同居人の少女からせがまれて、何でも手作りさせられること幾星霜。
そんな彼女は、オヤツとしてはともかく、食事としてファーストフードを認めていない。
なまじっかなスーパーの総菜も拒否するアスカの前では、さすがに食卓に出すことはできない(シンジにとって)至高の食べ物。
吉野家の牛丼。
早い、安い、美味い。
シンジにしてみれば、牛丼弁当を考えついた人にノーベル賞をあげたいほどである。
割り箸に、ショウガ、七味までついて値段は変わらず、かつ食べ終えたら全部まとめてゴミ箱へ。
片づけも手間いらず、経済的。
ああ、人類の叡智に栄光あれ!!
「…なに、ニヘニヘしてんのよ、あんた?」
いつのまにか横を歩いていたアスカが、気味悪そうな視線を送ってくる。
「え、別に?」
慌てて頬を押さえるが、滅多に緩まない頬はなかなか戻ってくれない。
「まあ、いいわ、別にあんたが何を企んでようとね」
企むのは君の専売特許じゃないか、などとシンジはいわず、ただ黙って曖昧な笑みを浮かべてみせた。
精神的余裕の現れであったが、その態度にアスカは急速に張り合いをなくしたらしい。
「…ふん。さあ、さっさと帰るわよ! 荷造り手伝ってもらうからね!?」
「うん、よろこんで!!」
「……」
金曜日、シンジはいつもどおりに起床して、朝食を作っている。
弁当は作らない。アスカの分を作る必要がないからだ。
シンジ個人だけなら、コンビニのパンなどで一向に構わないのである。
コンソメスープの味見をしながら、キッチンの時計に視線を走らせる。
いつもならアスカを起こす時間だが、今日は起こす必要がない。
イベントがあるときは自主的に誰よりも早く起きるのだ、彼女は。
ドタドタと足音を立ててキッチンを横断していった人影は、完璧にお出かけ用ファッションに身を包んだアスカだった。
ほーらね。
自身の予想の的中に満足しながら、シンジは食卓にサラダとトーストの乗った皿をおいた。
ところが、引き返してきたアスカの様子がおかしい。
「ねえ、シンジ!! ミサトのヤツ、どこいったの?」
「…え? ミサトさんは夕べ、遅くなるけど間に合うように帰る、って」
「部屋にもどこにもいないのよ!!」
頬を紅潮させて絶叫するアスカである。
嫌な予感がした。
シンジがその予感を振り払わないうちに、勇ましい歌声が響く。
『ヴェン デァ カンプフン デン ジーク アム ヴィールデステン ブラスト パンツァー フォーラン フォーラン♪』
アスカの携帯の着信音<パンツァー・フォー>だった。ここいらへんの彼女のセンスは少し理解しかねる。
「あ、ミサト!? 何やってんのよ、そろそろ出発よ!?」
携帯に怒鳴り始めたアスカに背を向けて、シンジは朝食を取り始める。
こういうときは下手に関わりあったりしないほうが良いことを経験則で知っていた。
それでも、バターとブルーベリージャムを塗りたくったトーストを頬張りながら、アスカの通話に耳を澄ます。
「え? 急な出張が入って、行けない!? じゃあ、どーすんのよ!!」
波乱含みの会話は、たちまち暴風警報まで発展する。
シンジはいそいそとスープでパンを飲み下し、食器を流しに運び込む。
「…わかったわよっ!! いーわよ、あたしだけでもいってくるわよ、もうっ!!」
乱暴な声に続き、ぼふっと何かがクッションにぶつかる音。
たぶんアスカが携帯を投げたんだな。
手を拭きながら、シンジは事態を正確に洞察してみせた。
背後を振り返ると、予想どおり肩をワナワナと震わせる少女がいるわけで。
カバンを手に取り、できるだけアスカの神経を逆撫でしないようにいう。
「僕はもう出かけるよ。君も一人で行くにしろ、そろそろ出ないと電車の時間に間に合わないんじゃない?」
「……」
アスカは親指の爪を囓って何も言わない。
玄関で靴を履きながらシンジは思う。
もしかしたら、アスカ、旅行に行かないかも知れないな…。
だとすれば、ささやかな休日プランは白紙に戻るだろう。
残念だけど、仕方のないことだ。
それだけのことなのだから。それだけの…。
今のシンジの脳裏には、かの第16代アメリカ合衆国大統領の名言がよぎる。
『自分が事態を左右するのではない。事態が自分を左右するのだ』
たちまち気分が灰色になったような気がした。
それを肯定するかのように、今まで晴れていた空がにわかに曇り始めたではないか。
力無く、マンションの玄関先で空を見上げていると、むんずと肩を掴まれた。
その手から伝わってくる波動が心の表面を波立たせる。
「…アスカ」
振り向く。
手の主は、背中にはリュック、もう片手にはでっかいカバンを持って完全武装。
彼女の全身を眺めて、シンジは一言。
「…いってらっしゃい」
アスカは憮然としていた表情を一転、ニヤリと笑う。
青い瞳が危険な色に閃いた。
「ええ、行くわよ、旅行」
胸と顎をツンと反らし、アスカはブーツの音も高く歩き出す。シンジの肩を掴んだ手はそのままで。
「ちょ、ちょっと、アスカ、離してよ…!!」
よろめくシンジに、アスカは冷たくいい放つ。
「あんたも、一緒にいくのよ!!」
絶句するシンジ。
旅行に? 一緒に? 僕が? 僕も?
思わず抗議の悲鳴が漏れた。
「え、えええええええええええ!!!?」
「か弱い女の子が一人で旅行できるわけないでしょ〜!?」
か弱いはずの女の子の手が、大の男の身体を引きずって行く。
かくして碇シンジの悲鳴は長く長く尾を引いた。
学校ではなく、正反対の駅の方向へ。
続く