好きだ好きだ好きだ

rinker




◆おっぱいとお 月さま





さて、惣流・アスカ・ラングレーである。
彼女は自分と碇シンジが揉み合っている、というよりも彼に抱きついている姿を
葛城ミサトに目撃されたショックに、金切り声を上げながら目の前の自分の部屋の
襖を開けて、そこに閃光のように飛び込んで隠れてしまった訳だが、
あまりに激しく胸を叩いていて壊れてしまうんじゃないかと不安になってしまうくらいに
どくんどくんと跳ねる心臓の鼓動がようやく収まってきた頃には、
どうにか混乱から脱しつつあり、不覚にも潤んでしまっていた瞳を
ティッシュペーパーで押さえて、それから、ちん、と鼻をかんで溜息を吐いた。
あれはもしかしなくても自分が少年に向かって言った言葉を聞かれてしまっただろうかと、
彼女は改めてそのありがたくない可能性に思考を巡らせた。
葛城ミサトの性格に関してはそこそこに知っている彼女は、
この人物に秘密――それは秘密として成立する以前にすでに秘密となるべき要件を
あらかじめ破綻させられてしまった秘密だったが――を知られてしまったからには、
先行きは碌な展開にはなりはしないと、彼女はますます憂鬱になって、
げっそりと重苦しい溜息を胸元から絞り出した。
今頃部屋の外の少年は、葛城ミサトによって散々にいたぶられて
美味しく召し上がられていることだろうと、そんな想像をしてみて、
彼女はぶるりと身体を震わせ、それからぺたりと床にへたり込んだ姿勢のまま、
ここに来て以来すでに随分と馴染んでしまった自分の部屋をぐるりと見渡した。
いつも通りの何とも心休まる平和平凡極まりない退屈さと無変化の立ち込めるこの部屋の
真ん中に柔らかい尻をぽとりと落ち着かせている状況下にあって、
何と大胆不敵に目の前に広がる世界は生まれ変わったものだろうか。
彼女はあまりの切なさに、胸が締め付けられてその前で祈るように手を組み合わせた。
青天の霹靂、という言葉がこの国にはあるのだという。
意味は知らない。
ただ、こういう時に使うのだと退屈な中学校で小耳に挟んで知識として得ていた彼女は、
だから、青天の霹靂だわ、と心の中で呟いて、それからもっとしっくりする表現が欲しくなったので、
最も舌に馴染むドイツ語で二、三、順当な言い回しを今度は声に出して呟いてから、
葛城ミサトにまつわる憂鬱さがすっかり消し飛んだ代わりにたまらなく嬉しくなって、
組み合わせていた両手を振り上げて機敏に立ち上がり、
くるりんっと軽やかに回った。
そのまま惣流・アスカ・ラングレーは、部屋中を体重が消え失せたかのように
ふわりふわりと駆け回って、家具やら自分の持ち物やらとにかく何でも目につくものに
手当たり次第に自分の湧き上がる幸せを無邪気に振り撒いて回った。
シンジと揉み合ったせいでくしゃくしゃに乱れた長い髪を、
髪止め代わりのへッドセットを外してベッドに放り投げ、更にくしゃくしゃと振り乱した。
と、その時、はしゃぎ回って小熊みたいに踊っていた彼女の耳に碇シンジの叫び声が聞こえてきた。

「だからっ、違うんです!」

はて何事だろうかと、彼女が耳を澄ませてみると、
何やらぼそぼそと人の喋り声が聞こえてはくるものの、
果たして何と言っているのかその内容まではとても聞き取れない。
違うと叫んだ言葉の意味は、やはり先ほどの少年の漏らした告白のことだろう。
未だに煮え切らない様子の彼に、アスカは独りぼっちの部屋の中で口を尖らせた。
だがしかし、今思い返してみても先ほどの自分は強引過ぎたし、
彼はあまり強く迫られてはただただうろたえるばかりなようなので、
今後は無理に言葉を引き出そうとするのではなくあちらが言い出すのを待っていようと
彼女は考えた。
自分はただ、穏やかに笑って彼の傍におり、時折それとなく促す言葉など掛けながら
彼が自分から心の内をもう一度告白してくれるのを待てばいいのである。
彼女はその情景を頭の中で想像してみて、その冴えたアイディアに自分で感心した。
ぼそりぼそりとした話し声はまだ途切れ途切れに耳に届いていた。
彼女は好奇心に駆られてそろりそろりと足音を忍ばせて
襖のところまで歩いていき、廊下を覗く為にほんの少しだけそれを開いた。
その僅かな隙間から覗いた光景に、彼女は絶句した。
頼りなげに顔を伏せた線の細い少年と、彼をその豊満な胸に静かに掻き抱く大人の女性。
かっと目の前が赤くなったかと思うと、彼女はほとんど叩き壊さんばかりの勢いで
襖を開け放って部屋から飛び出していた。





果たして少女が何と叫んだか、その瞬間頭が空白になった葛城ミサトには
定かに聞き取ることが出来なかった。
気がつけば、彼女は肩の辺りに強い衝撃を受け、
胸に抱き締めていた少年から腕を離して廊下の床に突き転がされていた。
倒れかかった身体を支える為に後ろに肘をついて
先ほどまで自分と碇シンジがいた場所に視線を送ってみれば、
そこにはすでに何の影もなく、それを認識すると同時に
彼女はその向かい側にある部屋の襖がぴしゃりと閉じる音を聞いた。
どうやら惣流・アスカ・ラングレーに碇シンジを奪われてしまったようだと
気がついたのは、それからまもなくのことだった。

「んな、何なのよう……」

彼女は誰にともなく呟いたが、当然それに応えるものは誰もいなかった。
葛城ミサトがそんな混乱の渦中にある頃、
問答無用で腕を掴まれて部屋の中に引き摺り込まれた碇シンジは、
自分を引っ張る少女の勢いについていけず、部屋の中ほどまでまろびながら、
ようやく自分が再び捕まってしまったことを認識しようとしていた。
それにしても、先ほどといい今といい、何という強引さか。
彼は甘んじて彼女の強引さに翻弄されることに対する反発心が
心の中でずきずきと疼くのを感じた。
となれば当然、抗議の言葉を発しなければならない。
己の失言はもはや取り消しようもないが、黙っていれば彼女の思うままであるし、
それに彼女は葛城ミサトとは違う。絶対的に違うのだ。
そう考えた彼は怒りを乗せて声の限りに叫んだ。

「何するんだよ!」

その抗議の叫びにアスカがばっと振り返った。

「いい加減にしろよな! 何なんだよ一体!」

吼えるように叫んだシンジだが、しかしそれをぶつけられた彼女は
怯むこともなく逆に挑みかかるように叫び返した。

「うるさいうるさい!」

「なっ……」

「黙りなさいよ! あんた、黙りなさいよ!」

自分以上に怒り狂って叫び返してくる少女の鬼のような姿に、
シンジは早くも彼女に対する反発心がしぼんでいくのを感じた。
それでもなおも少女の金切り声は続いた。

「あんたね、何よ! ミサトならいいっての? あたしからはあんなに逃げようとしたくせに!」

逃げようも何も、彼女とミサトでは自分に対する接し方がまるで違ったのだから、
それも当然のことだろうと、シンジはそう思ったのだが、
あまりに凄まじい彼女の勢いにすっかり押され切って上手く言葉を紡ぐことが出来ず、
床に尻をつけた姿勢で、振り乱し広がった髪も恐ろしげな彼女の真っ赤な顔を見上げながら
ただもごもごと口元をうごめかせるだけであった。

「あのでかい胸がそんなに気持ちがよかった!? え? どうなのよ!」

確かにミサトの胸は気持ちよかったものの、
それは柔らかで温かい胸に顔をうずめる赤子のような安心感だったのだが、
シンジはただただ混乱し切ってそんなことを考えつく余裕はほとんどなかったし、
アスカの方も、とにかく目の当たりにした光景への嫉妬と腹立たしさの為に
彼の思いを分かってあげられるほどの思慮は持ち合わせていなかった。
すっかり怯えて必死に自分から離れようと腰を引くシンジに、
アスカはその腕を掴む力をますます強めて、
自分と触れ合うほど近くにぐいぐいと引き寄せて喚いた。

「そんなに触りたけりゃいくらでも触らせてあげるわよ!」

と、彼女はそう叫んでから、シンジに覆い被さって無理矢理その膝の上に馬乗りになった。
勿論シンジは彼女から逃れようと身をよじって抵抗するが、
そんなことを許す彼女ではないので、足を彼の腰に廻して後ろで組み合わせ、
彼の肩を強く両手で掴んでから引き寄せ、自分の胸に彼の顔を押しつけた。
アスカが出たとんでもない行動に仰天したシンジは、
何とか彼女から離れようと必死になって立ち上がろうとするが、
体格的に自分と同等である彼女が膝の上にしっかりと乗っている為にそれも上手くいかず、
ならば押しのけるしかないとひとまず彼女の細い腰を掴んで押したが、
そもそも離れられないように彼女が足を腰の後ろで組んでいたせいで、
これも上手くいきそうにはなかった。
だが上手くいかないからといって諦める訳にもいかないと、
彼はどうにかして彼女を自分から離れさせようとして、
腰を押したり、彼女の脇に手をやって持ち上げようとしたり、
とにかくそれはもう必死の有り様である。
しかしそうこうしている間にも、慌てふためいた彼が何の心地好さも感じていないかといえば
それは大いに間違いであり、顔にむりむりと押しつけられる彼女の胸は
柔らかくて温かくていい匂いがして、信じがたいほどにうっとりとさせられるものであったし、
膝の上に乗って、彼が押しのけようとする度に擦り付けてくる彼女の腰や尻の感触も
考えまい考えまいとする努力を嘲笑うかのように、
どんどんと彼の抵抗力を削ぎ落としていった。
思えば先に廊下で揉み合っていた時にも、その時は本当に逃げようとするのに夢中で
まるで意識はしていなかったが、存分に彼女の柔らかさを感じていたはずだった。
男の身からすれば不思議としかいいようのないくらいにどこもかしこも柔らかな彼女の身体が
全身に押しつけられ、とりわけ彼女をどけようとして計らずも何度も何度も手で押さえてしまった
膨らんだ胸の感触が、今それを顔に押しつけられている状況下にあってまざまざと甦ってきた。

「あたしだってねぇ、それなりに胸はあるのよ。
今にもっともっと大きくなるんだから。ミサトなんかに負けないんだから!」

アスカがそう叫んでいたが、今のシンジには彼女が何を言っても理解することは出来なかっただろう。
何故なら、彼はアスカの思惑通りかそれ以上に、彼女の身体を堪能して恍惚としていたからだ。

「あたし以外の女の胸にうっとりするなんて許さないわ」

と、好きだと言ったくせして浮気症――だと彼女は思い込んでいた――なシンジの態度に
そう怒ってみせるアスカであるが、逆にその怒りのせいで彼の抵抗が徐々に収まってきたことに
気が付いていなかった。
ただ、少年と密着して彼を胸に抱く感触が思いの他心地好いことを少しだけ感じて、
返答を返そうとしない彼を無視してこのまましばらくはこうしていようと
彼の頭をぎゅっと抱いて頬擦りなどしてみながら考えていた。
それがどれくらいの間続いただろうか。
もはや一幅の絵画のように静かに凝りつつあった部屋の空気が、
にわかに動きを見せた。
部屋の襖が、決然と開かれたのだ。
無論、顔を出したのは葛城ミサトであった。





「何してるの、あんた達は!」

部屋に入るなり、葛城ミサトはひどく立腹した調子で大声を上げた。
何しろ突然アスカに突き飛ばされた衝撃からやっとのことで我に返ってみれば、
少女の部屋からは鋭い大声の応酬が聞こえ、それが止むと今度は痛いほどの
静寂が訪れたものだから、ミサトが不安になって襖を開け、部屋に入ったところ、
目の前では床に座る少年の膝に跨って己の胸に彼の頭を抱え込んでいる少女が
うっとりとした表情でそこに頬を寄せているのだ。
少年の方も、抵抗するでもなく甘んじて少女の与える状況を受け入れ、
なかんずく自分の膝に乗った彼女の尻に手を添えて支えることさえしており、
彼女の方でもまるでそれに応えるかのように腰を緩くうごめかせていた。
そして、今度こそ放っておくことの出来ない危険極まりない状況に、
葛城ミサトは己の使命を果たさんと大声を張り上げたのだった。
何としてでも二人を引き離さなければならない。
彼らの間の事情は分かるし、勿論保護者としても友人としても、同情も応援も惜しまないが、
それと今の状況を見過ごすこととは遥かに次元の違う問題である。
だから彼女は、見つかってしまったと首を竦めながらも余計に離すものかと
腕に力を入れるアスカを、強引に引っ張り上げて少年から引き離した。

「やー! 何するのよう!」

「それはこっちの台詞よ、このぼけ娘! 限度ってもんがあるでしょうが。
いくら何でもやり過ぎよ。まったくいやらしい!」

噛み付いてきたアスカの首根っこを掴んだミサトが言い返すと、
少女は顔を真っ赤にして睨んできた。

「やらしくなんかないもん。あんただってしてたじゃないのよ!」

「あれとは全然意味合いが違うでしょうが!」

「違わない! シンジはあたしのよ。手を出さないでよ!」

「ああもう、この馬鹿たれ! 誰がそんなこと」

「あぁーん、シンジィ」

ミサトの言葉を無視して、アスカは相変わらず座り込んだままのシンジの方へ
助けを求めるように――あるいは再び抱こうとするかのように――両手をぱたぱたと伸ばした。
しかし、シンジはというと、そんなアスカにも返事を返すことなく、
困ったようにぺたりと座り込んだままであった。
そんな少年へと視線を向けて、アスカを引っ掴まえたままのミサトが言った。

「シンジ君。いつまでも座ってないで早くここから出ていきなさい」

「駄目!」

アスカが抗議の叫びを上げた。

「うるさい! さ、シンジ君、早く」

と、ミサトはアスカを鋭く黙らせてから再びシンジを促したのだが、
一向に動こうとしない彼の様子に怪訝そうな目を向けた。

「どうしたの? さあ、いつまでもぼんやりしてないで……」

ここまで言った時、ようやくミサトは彼が動かない理由を悟った。
正確には、彼は動くことが出来なかったのである。
言葉を切って黙り込んだミサトの様子に、シンジも己の陥った状況を
彼女に悟られたことに気付いてひどく情けなさそうな声を上げた。

「ミ、ミサトさぁん……」

「はぁ……、まったく、アスカときたら仕様のない。シンちゃん、しばらくそこにいなさい。ね。
ほら、アスカ。私達が部屋から出るのよ。来なさい」

ミサトがそう言ってアスカの腕を引っ張ると、
少女は抵抗しようとしながら言い返した。

「ちょ、ちょっと。何であたしが自分の部屋から出ないといけないのよ」

「いいから。シンちゃんは今、立てないの」

「はぁ?」

ミサトの言葉にアスカは間抜けな声を返した。

「あれだけくっついておいて分からなかったとは言わせないわよ、アスカ。
大体あんたは調子に乗り過ぎなんだ、まったく……」

ぶつくさとミサトは文句を続けていたが、
アスカの方は自分の腕を引っ張る女性の遠回しな言葉に一瞬で事態を悟って、
全身を真っ赤に染めて、ちらりちらりとシンジ――の特にある一部分――を振り返りながら
もじもじとして大人しく腕を引かれるままミサトの後に続いて部屋を出ていった。

「しんじぃ……」

「甘えた声を出すんじゃない!」

うんざりとミサトは吐き捨てた。





こうして、立つに立てなくなった碇シンジを残して
部屋を出た葛城ミサトと惣流・アスカ・ラングレーであったが、
リビングへと向かおうとすると、ミサトに手を引かれたアスカが立ち止まってしまった。
急に動かなくなった少女の身体にミサトは眉を寄せて振り返り、
その訳を問い質した。

「まだ何かあるの。いい加減にしないと本当に怒るわよ」

「ミサト、あのね」

少女は俯きぎみにしながら、小声で囁いた。

「何」

「あたし、まだシンジとちゃんと話してないの」

「……それで」

掴んでいたアスカの手を離し、ミサトは腕を組んで自分よりも小さな少女の顔を見下ろした。

「二人で話をさせて」

「それはまた後にしなさい」

「今じゃないと駄目なの。多分、今じゃないと駄目なの」

切々と言い募るアスカの姿に、ミサトは眉をひそめて息を吐き出し、
どうしたものかと考え込んだ。
あれだけ騒ぎを起こしておいて、今更彼女をシンジと二人きりにするのは躊躇いが生じたが、
しかしこの感情表現の下手糞な少女が唇を噛みながら頼み込んでくる様には
心が揺れるのをミサトは感じた。

「……ビール一本」

「え?」

短いミサトの言葉を計りかねて、アスカが俯いていた顔を上げて問いかけるような視線を送った。
すると、ミサトは顔の前に人差し指を一本立て、もう一度繰り返した。

「缶ビール一本分の時間をあげる。ただし、貴女は部屋に入らないこと。
それが守れるなら、二人にしてあげる。襖越しでも話は出来るでしょう?」

結局自分も甘いものである。
ミサトは内心で自嘲した。
この二人の関係の悪化は、甚だ大きな問題であるということは重々承知しており、
それはエヴァンゲリオンへのシンクロ率にも影響するであろうし、
組織としての士気にも関わろうし、作戦上の極めて重要なファクタでもあるのだから、
ここで軽率な判断を下すことは、指揮官として許されることではなかった。
二人がもしも大人であったならば、こんなにも繊細な年頃でなかったならば、
彼らの自制心や理性に事を任せるという選択も充分に可能だったのだ。
恐らくは互いに初めての本物の恋に直面して、
果たして二人がどこまで安定していられるだろうかとミサトは思いを馳せ、
そしてそれが限りなく希望的な観測である事実にほとんど絶望する心地がした。
自分はとんでもない大ばくちを打とうとしている。
今日この瞬間の己の決断の為に、次の使徒との戦闘で彼らが死ぬかも知れないのだ。
それは総じて世界中の人間が死ぬことを意味していた。
ミサトは身震いした。
だが、もはや己の手で賽を投げてしまったことに、彼女はにやりと唇を吊り上げ、こう言った。

「頑張りなさいな。シンジ君も戸惑ってるけど、私はきっと大丈夫だと思うわ。
盗み聞きなんてしないから、安心して話しなさい。顔が見えなければ案外落ち着くものよ」

「……ありがと、ミサト」

アスカが嬉しそうに頬を染めて、滅多に口にしない礼を述べた。

「どういたしまして。ただし、約束は守ってもらうわよ」

「分かった」

アスカが頷くのを確認したミサトは、彼女に背を向けてリビングへと一人入っていき、
それからそこでだらりと転がっていたペンギンに目を留めて当たり前のように声を掛けた。

「ペンペン。飲むわよ。ベランダに出ましょ」

主人の呼びかけに、ペンペンはすっくと立ち上がり、くえっ、と片翼を振り上げて
返事らしきものをし、それからぺったらぺったらと彼女の後ろについてきた。
ミサトは彼を引き連れ、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを二本取り出して、
ベランダへ通じる窓へと歩いていった。
からからと窓を開けると、吹き込んだ夜風にレースのカーテンがふわりとなびいて
彼女の身体を包んだ。
ペンペンは我先にとベランダへ飛び出し、ミサトもその後に続いて部屋の外へ出て、窓を閉じた。
すっかり夜の顔になった街の様子を一望し、それから窓を背凭れにして
腰を下ろすと、ペンペンが彼女の横へ歩いてきてビールをねだった。
プルタブを開けてから缶を手渡すと、彼は器用に飲み口を嘴に運んで
発砲する液体を喉に流し込み、ぐえぇ、と珍妙かつ満足げな鳴き声を上げた。
その様子にミサトはくつくつと肩を揺らして笑った。

「さてさて、ちびちび飲むとしましょうかねぇ」

自分の分の缶ビールのプルタブを開け、ミサトもペンペンにならって一口飲み、
満足げな溜息を零した。
一昔前にこの国の四季は壊されたが、好きな酒を片手に
熱気の篭もる街を通り過ぎていく夜風に撫でられるのは、それでもなかなかに悪くないものだった。
もう一口、ビールを口にして、ミサトは傍らのペンギンに話しかけるようにして喋り始めた。

「今日はほんと驚いたわねぇ。家に帰ってみればあれだもの。
まったく馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。たかが好きの一言であの大騒ぎよ。
信じられる? 本当にたったそれだけのこと。
好きなんて言葉、そこいらにいくらでも転がってるってのにね。
必死になっちゃってさぁ……、けど、仕方ないのかなぁ」

喋りながら、ビールを飲んでいく。

「シンジ君もアスカも、寂しかったのね。
だから、あんなことで慌てちゃって、うろたえて、どたばたして。
裏切られるのが怖い、のかしら……、でも、そんなことはどこにでも転がってるのよ。
そんな痛みは、どこにでもあることなんだから。あの子達もいつかは慣れないとね。
恋かぁ……、私には遠い言葉だわねぇ。あんな純粋な時代はとうに過ぎちゃったし。
大人なんだからさ、とりあえずやっとけってなもんよね……、やだな、それ。
あの阿呆は相変わらずふらふらしてるし……、好き、だったのかなぁ。
へへ、私も結構寂しい人間ねぇ。慰めてくれる、ペンペン?」

ミサトが傍らでビールを煽るペンペンにそう問いかけると、
彼は上機嫌な様子で、くぅえぇえ、とおかしな鳴き声を返してきた。

「そうよね、純粋な心はなくしちゃ駄目よね。
たとえお肌がかさついてきたって、乙女心は大事よね……、空しいわ。
あぁ、ここで隣にいるのがトム・クルーズとかだったら、私、頑張るのに。
トム・クルーズ知ってる、ペンペン? もう結構な歳だけどね。
昔は超ハンサムだったのよ。ちっさいけど。
にしても、シンジ君とアスカが恋かぁ。えっへっへ、むず痒いわねぇ。
あの時のシンちゃんの表情といったら、もう。可愛いったら。
そうよね、アスカにあんなことされたら、しょうがないわ。うん、そりゃそうだわ。
へへ、ほんと可愛かった。立派な男の子なのね、シンちゃん。
お姉さん、少しだけときめいたわ……」

そこで言葉を切り、自分の言葉にいささか呆れて、こりこりと頭を掻いてから、
ミサトはぐびりとビールを飲み込んだ。

「変態か、私は……まったく」

生憎と人間語は詳しく理解出来ないペンペンは、
主人が何を喋ったのかまるで分からず、相変わらず機嫌よくビールを喉に流し込み、
その度に奇っ怪な鳴き声を夜の街に響かせた。

「アスカ、綺麗になったな。昔より、ずっと綺麗になった。
あんな子に好きになられて、シンジ君も幸運だと思わない?
ま、性格には問題があるけど。私の方がましよね。……ましよね?
けど、一途といえば一途か。そこはいいところだね。
自分の武器を使うことを躊躇わないのには、少し不安だけど。
やっぱり別居させるべきかなぁ。悲しむだろうけど、いつ間違いが起こるか分からないものね。
若いしさ。もう、最高に若いもんね。興味津々な年頃で、一緒に暮らしてれば、
我慢なんて出来ないかしら。ほんとは、そんなに大したことでもないんだけどねぇ。
ここら辺のことはペンペンには分からないかしら。
人間ってのは、まったくしょうがない生き物だってね……、あれ、ビールがなくなった」

幾分がっかりした調子で、ミサトは空になった缶を逆さにして呟いた。
ビールの雫が一滴、零れ落ちてベランダのコンクリートに飛沫を残した。

「やれやれ、んじゃ、もう一服するか」

と、ミサトはジャケットの胸元を探り――ここで彼女は、未だに自分がネルフの制服を
着たままであることに今更に気が付いた――滅多に吸わないくせにいつも仕舞いこんでいる
煙草のケースとライタを取り出し、一本煙草を摘み出して口に咥えた。
片手でかまどを作り、首を伸ばして身を屈めるようにしながら、
彼女は煙草の先にライタで火を点して、すうっと息を吸い込んだ。
久方ぶりに吸い込んだ煙草の苦い煙が彼女の喉を刺し、肺腑を犯した。
その不快な刺激に、彼女は顔をしかめながら、
少しだけ上向いてゆっくりと煙を吐き出していった。

「こんなもの、よくもまあ、あの馬鹿はすぱすぱと吸うもんだわ」

行動とまるきり矛盾したことを呟きながら、彼女は二度、三度と煙草を口に運んだ。
彼女の目の前に紫の煙がたなびくその向こう側、暗い宇宙にぷかりと浮かぶ丸くて白い月が見えた。
葛城ミサトは口を開け、ぽわんと煙を吐き出して、呟いた。

「でぇっかい月……、おっぱいみたい」



つづく

寄贈インデックスにもどる

烏賊のホウムにもどる