好きだ好きだ好きだ

rinker




◆ファンダメン タル・ディザイア・トゥ・ラヴ





ところで、碇シンジときちんと話をする為に、廊下から葛城ミサトが立ち去るのを
見送った惣流・アスカ・ラングレーであるが、
今彼女は胸元を手のひらで強く押さえ、深呼吸を繰り返しながら、
自室の閉じられた襖の前に陣取って、ひたすら心を落ち着けようとしていた。
部屋の中から物音は聞こえてこないが、しかし目的の少年が確かに存在するという
濃密な気配が感じられ、彼女はすうっと息を吸い込んだ。
ひどく興奮していたとはいえ、今日これまでのやり方は失敗だったと、
彼女は振り返って考えていた。
あの内気な少年に対してあまりにも強引に過ぎたし、
こちらの感情の高ぶりを一方的に押しつけることになってしまい、
彼はきっと怒涛のような展開に戸惑うばかりで、
こちらの気持ちなどまるで分からなかったに違いなかった。
だから、今度こそ上手くせねばという思いを込めて、
彼女は目の前に重く立ち塞がる襖をきっと睨みつけた。
ぶるりと身体が震えた。
武者震いである。
こうしていても、襖の向こう側にいる姿の見えない碇シンジに対する愛おしさが
たまらなく込み上げてきて、彼女は胸が苦しくなるのを感じていた。
彼が、それは本当に予期せぬことであったのだろうが、心の奥底の本音を自分に対して
表してくれたからこそ、こうして自分も素直な気持ちを認めることが出来たのだ。
今この瞬間こそ、己の人生最大の舞台である。
これから彼と結ばれるかも知れないという高なる期待と、
彼に拒絶されてしまうかも知れないという絶え間ない不安と、
人生で初めてこんなにも自分の素直な気持ちを曝け出すということへの緊張と、
とにかく様々なものに、彼女の心はぐるぐると掻き回されて、
今まさしくそれらは彼女のことを少女的にさいなんでいた。
襖をノックしようとして、アスカは手を伸ばし、しかし思い改めてその手を降ろした。
ごくりと唾を飲み込む音が、柔らかい身体の中で運命的に響くのを感じた。

「シンジ、聞こえる……?」





呼びかける声に対して、部屋の中で彼が身じろぎする気配を感じて、
アスカは知らず止めてしまっていた息を吐き出し、それから震えながら一杯に吸い込んだ。

「シンジ?」

「な、何、アスカ?」

再度の呼びかけに、ひどく戸惑った様子の碇シンジの返事が返ってきた。
彼が陥ってしまった――正確には彼女が陥らせた――状況のことを唐突に思い出して、
アスカは顔を赤面させてもじもじとしながら、彼に掛ける言葉を続けた。

「少し、話がしたいの。いい?」

普段の彼女なら、こんな風には相手に承諾を求めたりはしない。
この辺りに彼女の揺れる心境が表れていたのだが、
シンジの方もそれを感じ取ったのか、幾分怪訝そうな声音ながらも
さして間を置かず返事を寄越してきた。

「い、いいけど……、その……」

「部屋には入らないわ。その……、だから、大丈夫、よ」

「あ、そ、そう……」

「う、うん……」

アスカは自分の下腹部に押し当てられていた彼の熱い感触を鮮明に思い出して、
猛烈に恥ずかしくなり、その下腹部を押さえながら俯いて唇を噛んでそれを堪えようとした。
くらくらと眩暈がして、今にも倒れそうだったが、
しかし彼女は気丈にも話を次なる段階に進める為に、決然と顔を上げた。

「じゃ、じゃあ、いいわね。あたし、ここから話をするから」

シンジの返事を待つことなく、彼女は襖に背を向けて、その場に腰を下ろした。
背後の自分とシンジを隔てる襖に背を凭せ掛けると、
紙で出来たその扉がたわんで軋む音が背中を通して聞こえてきた。
両膝を立てる形で座り込み、彼女は話し始めようとした。

「その……、さっき」

先ほどの彼に対する暴挙をまずは謝ろうとしたのだが、
あまりそればかり話題に出しては、未だに回復していない様子の彼が
そのことを気にし過ぎるかも知れないと彼女は思い直し、言葉を途切れさせた。

「何?」

なかなか喋り出さないアスカをおかしく思ったのか、シンジが問いかけてきた。

「あ、いや、その、今日はありがとう」

「……何が?」

まさしく、何が、である。
一体何を自分は口走っているのだろうと、彼女は正面の壁の上方を見あげて
気が遠くなる思いで目蓋を強く閉じた。
いきなりこれでは訳が分からない。
両足の腿の裏から抱えるように腕を廻し、縮こまった彼女はどうにかやりなおそうと口を開いた。

「あの、つまりね、つまり……、今日はシンジのおかげでとても大事なことに気付いたの」

「大事なこと」

「そう……、あの、あのね、あたし……、シンジ、あたし、あんたのことが好きよ」

ようやく、彼女は落ち着いて気持ちを口にすることが出来た。
一度思い決めれば、それは驚くほど自然に口から零れ出て、
彼女は自分の声がひどく優しい響きをしていることに気付いた。

「シンジが好きだって言ってくれたから、だから、あたし、素直になれたの」

「ア、アスカ、それは……」

戸惑うようなシンジの声が聞こえてきたが、彼女はそれに構わず続けた。

「ううん。分かってる。あんなこと、シンジは言うつもりなかったって、分かってる。
でもね、でも、あたし、すごく嬉しかったの。本当に、こんな嬉しいことなんてないってくらい、
自分でもこんなに嬉しいなんて信じられないくらい、本当に、本当に……」

自分自身でも驚くほど、彼女の言葉は次々と溢れ出してくるようだった。

「だから、嬉し過ぎて訳分かんなくなっちゃって、ちょっとやりすぎちゃったけど、
これだけはきちんと伝えたいの。好きよ、シンジ。あんたのこと、本当に好き」

少年はいつしか沈黙してしまっているようだったが、
それにも構わずアスカは喋り続けていた。
果たして自分が彼の返事を望んでいるのか、
それともただただ自分の気持ちを伝えるだけで満足してしまえるのか、
二つの選択の中で彼女の心はせめぎあっていたが、
とにかく今は湧き上がる想いを言葉にするだけで精一杯であった。
もじもじと彼女は踵を支点に床から持ち上げた両足のつま先を手で掴んで、
ぐねぐねともてあそびながら、膝の上に顎を乗せて流れるように言葉を続けた。

「いっつも我侭ばかりで、喧嘩ばっかりして、あんたに面倒を押しつけて、
きっとあたしはいい女の子じゃなかったかも知れないけど、
けど、けどね、それでもあんたが好きだったの。
今日、あんたのおかげでそれに気付いたの。
これまで素直になったことなんてないけど、今日だけはそうしたかった。
そうしなくちゃいけないと思った。それで、そうしたの。
あんたのおかげよ。だから、何度でも言いたい。
好きよ、シンジ。本当に好き。誰よりも好き。世界中で一番大好きよ」

感情が高ぶり過ぎたのか、いつの間のか彼女は頬を濡らしていた。
それは彼女が初めて流した、温かく心地好い涙であった。





碇シンジにとって、それはあまりにも思いもよらないことであった。
これまでの彼の人生において、自分の期待が叶えられたことなど一つもない。
いつだって、彼は裏切られ続けてきた。
だから、いつしか彼は生きることに余計な期待をかけることを
すっかり諦めてしまうようになったのだった。
あまりといえばあまりに悲しい彼の生き方であったが、
しかし、今のこの状況は一体何が起こったのだろうと、
彼は到底信じられない思いで少女の切々と続けられる言葉に聞き入っていた。
彼女が自分のことが好きだって?
耳を疑うとは、このことである。
あの惣流・アスカ・ラングレーが、碇シンジのことを好き?
そんな馬鹿なことがあるものかと、彼は思ったが、
しかし喋り続ける彼女の声からはいささかも嘘や誤魔化しや、
その種の自分を騙そうとする響きは感じることが出来なかったので、
本当に信じてもいいのだろうかと、とうとう彼は心を動かされ始めた。
一体いつごろからこの少女に自分が心惹かれ始めたのか、それは定かではない。
あのとんでもない失言は、本当に思わず漏らしてしまったもので、
好きなどと彼女に面と向かって言うつもりなど微塵もなかったものの、
確かに彼自身の疑いようもない本心であった。
きっと馬鹿にされる。
彼女は自分のことなど、これっぽっちも想っていないに違いない。
だから、散々にからかわれて、いつまでもこの失態が残した傷は
自分をさいなみ続けるだろうと、心底彼は恐怖していたのだ。
ところが、何と彼女はからかうどころか自分も好きなのだと、繰り返し繰り返し訴えてくるではないか。
震える口元を叱咤して、シンジは閉じられた襖の向こう側に言葉を投げかけた。

「アスカ、本当に……?」

きっと、彼女はこんなにも弱気な自分に呆れてしまうだろうと考えたが、
彼にはこう問いかける以上他に思いつかなかった。

「あぁ、シンジ。本当よ。本当に本当に、好きなの」

彼女の返事が返ってきた。
ますます彼は混乱した。
こんなこと、本当に信じてもいいのだろうか。

「僕のことが好きなの?」

「好きよ。大好きよ。シンジ、あんたが好き」

「アスカ……」

シンジは胸が詰まるのを感じた。
こんなにも彼女は必死に、真剣になって正直な気持ちを自分に対して
明らかにしてきているではないか。
それに自分も応えるべきではないのか。
彼は目蓋を閉じ、胸の奥底に燻る想いを掬い上げようと慎重に口を開いた。

「僕は……、アスカ……」

「シンジ……、なあに? 言ってみて。ううん、お願い、言って欲しい。聞かせて欲しい」

彼女の声が震えていることに彼は気付いた。
しかし、彼女のこの問いかけが、大いなる逡巡の末に彼女の口から
もたらされたのだという事実には、彼は気が付くことはなかった。
彼女は無理に彼の口から言葉を求めようとは考えておらず、
むしろそれをすることは極力控えようとしていたのだ。
自分から問いかけては彼は口を閉ざしてしまう。
だから、彼が自発的に言ってくれるのを、ずっと待っていよう、
今は自分の気持ちを伝えるだけで充分だ、と。
ところが、背中越しに聞こえる彼の何か決意したような言葉に、
思わず彼女は先を促すような、むしろ積極的に求めるような声を出してしまったのだった。
だが、彼は彼女の求めに怯むことなく、言葉を続けた。

「僕は……、僕も、好きだよ」

「……シンジ」

名を呼ぶ声と共に、シンジには彼女の大きな溜息が聞こえたような気がした。

「あぁ、やっと……、あたしも好きよ」

「うん……、僕も」

彼は再び言った。
今度は胸に引っ掛かる躊躇いはずっと小さなものだった。

「好きよ」

「好きだ」

襖の向こうから聞こえてくる告白の言葉に、彼も返した。

「好きよ。大好きよ。あぁ、シンジ、好き、愛してる」

「うん、僕も、好きだ。アスカ……、僕も」

何故好きなのか、どこが好きなのか、
そんな問いかけは二人にとってはどうでもよかった。
理由や根拠になんて興味はない。
何故なら、愛とは、根拠のない確信だからだ。
疑問なんて差し挟む余地はないのだ。
迷うことなどなく、止めることも出来ない。
碇シンジが惣流・アスカ・ラングレーを好きだということ、
そして惣流・アスカ・ラングレーが碇シンジを好きだということ、
それは少なくともこの瞬間の彼らそれぞれにとって、
唯一無二で、世界で一番明らかな事柄だったのだから。
だから、彼らは穏やかな微笑みさえ交えながら、
飽くこともなくお互いへの愛を告白し続けた。





「こらこらこらこらこらぁっ! 何をしとるんだぁ、一体!」

葛城ミサトの、ひどく憤慨した叫び声が部屋中に響き渡った。
またしても、である。
ぜいぜいと肩で息をし、頭に血を昇らせて真っ赤になっている彼女が、
一体何を見てこうなってしまったのかといえば、
つまるところ惣流・アスカ・ラングレーは彼女との約束を破ったのだった。
部屋の中には入らないとの約束だったはずであるのに、
襖越しでの相手の見えない告白を続けていた健気な少女は、
いつのまにやら部屋の中、相手の傍にいたのである。
信じていたはずの少女に裏切られてしまった形の葛城ミサトは、
心底憤慨しながら鼻息荒く乱暴に彼女を少年から引き剥がしにかかった。
これもまた、またしてもであった。
果たしていかなる事態が彼らの間に起こったのかといえば、
つまるところは惣流・アスカ・ラングレーは背中越しの愛の告白に感極まり、
葛城ミサトとの約束も忘れて、逆上せあがってしまったのであった。
そして、逆上せあがった彼女はぞくぞくと甘やかに背中をくすぐる少年の愛の囁きを
全身で受けとめるべく、立ち上がり、くるりと振り向きざま彼らを分かつ唯一の壁をしゅばんと開いた。
少年がそれに気付いた時は、すでに目の前に迫る少女に視界を圧倒されていた。
嬉々として少女は少年に抱きつき、そして彼の顔目掛けて自分の顔を押しつけたのだった。
がちん、と鈍い音が身体の中に響いた。
お互いに不慣れな為と、抱きついた勢いに任せるという愚を犯した為に、
前歯をぶつけあってしまった彼らは、じんじんとする痛みに顔をしかめながら一旦顔を離し、
何とも言えず全身をむず痒くさせるくすぐったさと、初めての口付けを――この時は
お互いに相手までもが初めてだとは知らなかったが――果たした照れ臭さと、
それから想いが通じ合った奇蹟のようなこの瞬間への嬉しさとに、満面の笑みを浮かべ合った。
互いを見つめる瞳には誇らしい愛おしさが溢れ、
言葉を交わさなくともこの瞬間、彼らは実に多くのことを語り合っていた。
再び、彼らの顔が近付いた。
今度はそっと、唇を心持ち尖らせて小鳥が啄ばむような小さなキスをした。
触れ合った場所から温かな、それでいて痺れるような感触が、ぱっと全身に拡散する。
惣流・アスカ・ラングレーは、そして碇シンジもだが、この素晴らしい行為にすっかり夢中になった。
彼女は繰り返し繰り返し啄ばむようなキスを彼に送り、
彼もまたそれに応えながら自分からもおずおずと唇を寄せた。
そうしていると、次第に彼ら――とりわけアスカは熱が入ってきたようだった。
段々と啄ばむような口付けから、唇を押しつけ擦り合わせるようなそれに変わり、
愛しい相手を摘むようにもくもくと唇を動かし、そして控えめに舌を覗かせて彼の口元を舐めた。
唇へのキスだけで満足出来なくなったのか、彼女は相変わらず彼にしがみついて離さないまま、
他の場所へとキスを落としていった。
始めは雨を降らせるように小さく繰り返し、次第に湧き上がる熱気にぼんやりしてきたのか、
彼女はいささか息を荒くしつつ鼻を鳴らして彼の頬や顎、首筋をぺろぺろと舐め始めた。
碇シンジも熱烈な恋人のキスを受け止め、痺れるような快感に全身を震わせた。
しがみついてくる彼女の柔らかに匂い立つ身体を今度こそしっかりと抱き締め、
彼女の敏感な背に手を這わせ、流れる髪を掻き撫で、
膝に乗った――またしても――丸い尻をぐいぐいと押した。
顔の横の顎の線を唇で啄ばんでいたアスカが、すっと顔を離して正面からシンジを見つめた。
シンジもその視線を受け止め、見つめ返す。
湧き上がる熱気で顔は艶やかに赤らみ、交歓に濡れた口元はその端を誇らしく吊り上げて、
お互いを映す瞳は愛情に潤んで輝いていた。
今度は離れられないように彼の腰の後ろで組んだりはせず、
足を折り畳んだ姿勢でぺたりと跨っているアスカと、
彼女の腰に支えるように手を添えて、少し高い位置にある彼女の顔を見上げているシンジ。
シンジが腰に当てていた手を離して、アスカの顔の両側からかかるくしゃくしゃの長い髪に
指を梳き入れて後ろに流しながら、彼女の首筋を手で挟んだ。
腰の支えがなくなった為に彼の膝から滑り落ちそうになったアスカは、
腿で絞めてそれを防ぎながら、しっかりと身体を摺り寄せ、
背中を美しく弓なりに反らして彼の肩に掛けるように手を置いた。
見つめ合う瞳の間で、何か秘密めいたやりとりが交わされた。
惣流・アスカ・ラングレーの顔が、首筋を碇シンジの両手に掴まれたまま
来るべき瞬間に向けて、覆い被さるようにゆっくりと降りていき、
彼もまた顎を少しだけ上げ、首の後ろに巻きついてくる彼女の腕の感触を感じながら、
迫り来る彼女を受け止めんと待ち構えた。
そのキスは、この日もっとも情熱的で、感動的で、愛に満ち溢れたものであり、
いつまでもいつまでも続くそれは、恍惚と身を震わせる彼らを永遠に包み込むかに思えた。





だが、それをぶち壊しにしたのが葛城ミサトの怒声なのである。
結局旨いビールを一本と旨くもない煙草を二本吸った後で、
のそのそとベランダから戻ってきたミサトは、約束を交わした少女に
時間切れを知らせる為――本当は期待すべき結果を見定める為――に
リビングから廊下へと歩いていったのだ。
すると、目指す少女の姿はどこにもないではないか。
シンジとアスカの二人がお互いに自分の部屋に戻ってしまった可能性も考えはした。
しかし、少年の部屋を覗いてみれば、狭苦しいそこには誰の影も見当たらない。
となれば、二人はアスカの部屋に一緒にいるのだ。
どうやら約束を守り切れなかったらしい少女の必死さに、
ミサトは微苦笑した。この時はまだ。
仕方ないな、と彼女は少女の部屋の襖を開けた。
そうしてみると、眼前に広がるのは熱烈なラヴシーンである。
そして、またしてもアスカは座り込むシンジの膝の上に馬乗りになり、抱き合っている。
一体自分が何故に彼らを引き離そうとしたのか、
その努力と配慮がまったく報われていない光景に、彼女は完全に頭に血が昇った。
怒り心頭である。何て手を焼かせてくれるのか。
ほとんど地団太を踏みながら、さばっと髪を振り乱して彼女は声の限りに叫んだのだった。
それさえも、あまり効果は見込めなかったのであるが。

「さっさと離れなさい!」

「やー! いやいやー!」

抱え上げようとした少女がじたばたと抵抗した。

「うるさい! まともに喋れないの、あんたは!」

うんざりとするというより、もはや腹立たしいだけなのだ。
アスカの甘えた声にミサトは噛み付いた。
が、少女の方も当然の如くやり返した。
何しろ邪魔されるのは初めから数えて三度目なのだ。

「何よ、自分が相手いないからって! 嫉妬しないでよね、みっともない!」

「誰が嫉妬か、この馬鹿者が! ガキが生意気言ってないで、
早くシンジ君の服から手を離しなさい。ほらほらほら! 離さんか!」

離されまいとシンジのシャツを掴んでいた手を、一本一本指を引き剥がすようにして
ミサトに取られたアスカは、ますますもがいて抵抗しながらはしたない声を上げた。

「ぎゃーっ! 鬼ばばあ! 糞ばばあ!」

「この糞ガキ、ぶっ殺すぞ!」

「何よ、やろうっての! 離しなさいよ!」

互いに物騒なことを叫びながら、彼女達は大騒ぎを続けていた。
ところで、ここで騒ぎに加わらない者が一人、碇シンジである。
必死になって抵抗する惣流・アスカ・ラングレーを、その培った技術と経験と、
途方もない気迫によって見事に押さえ込んでしまった葛城ミサトは、
当然の如くもう一人の当事者である彼の存在に思い至って声を掛けた。

「シンジ君。そんなところにいつまでも座ってないで、ここから出ていきなさい。
この子には私がきつく、きつぅく、お仕置しておくから」

まるで当たり前のように、ミサトはシンジに責任を問おうとはしなかった。
彼の方から少女に迫ったなどとは考えもしないのである。
無論、これはアスカが率先して仕出かしたことなのだ、と。
ある意味で間違ってはいないが、シンジもアスカの行動を最後には
積極的に受け入れた訳であるから、これは完全にミサトの先入観による贔屓目である。
だからして、腕を背中に廻すように関節を極められて床に腹這いに押さえ込まれていた
アスカ――まるで犯罪者のような扱いだと彼女はひどく憤慨していた――は、
懸命に首を伸ばして口を開いた。

「何であたしだけなのよ! シンジィ、助けてぇ」

「黙らんか!」

「いたたたたっ! あぁん、やだ待って、痛い痛い痛い!」

「さ、シンジ君。行きなさい」

アスカの悲鳴を無視して、ミサトは自分達を見つめるシンジに優しく声を掛けた。
しかし、シンジは困ったような顔をしてそれに応えない。

「どうしたの、早くしなさいな」

「あぁ、シンジ。恋人がこんな理不尽な目に遭ってるのよ。お願い、助けて」

「まだ言うか」

「ぎゃあっ! ……シンジ、あたしのこと愛してるなら、助けてくれるわよね、このばばあから……!」

「誰がばばあだって?」

「いい痛い! 折れる折れる折れる! 手加減しなさいよ、馬鹿! 悪魔!」

「喧しい。ほら、いつまでそうしてるの、シンジ君。早く……」

ここで、ミサトはようやく悟った。
シンジもミサトの様子に気付いたのか、泣きそうな声を出した。
つまりは、彼は立てないのであった――またしても。

「……アスカ、行くわよ」

「え? ちょっと、どこに。あ、あ、ちょ、無理矢理引っ張らないでよ」

腹這いに押さえていた少女の腕を無理矢理に引っ張り上げて、
ミサトは立ち上がり、アスカの手を引いてすたすたと部屋から出ていこうとした。

「な、何で出ていかなきゃいけないのよ!」

「また私に説明させる気なの? このませガキが」

吐き捨てたミサトの言葉に、アスカは再びシンジの身体を見舞った事態に思い至り、
顔どころか身体中を真っ赤に染めて彼のことを振り返った。

「しんじぃ……」

恥じらいながらもうっとりとした声を漏らしたアスカに、ミサトは頭が痛くなる気がした。

「黙って。……シンジ君、しばらくそこにいなさい。今度は誰も邪魔しないから。
まったく、この子は本当にもう……、どうしてやろうかしら」

少女の色惚けた顔を忌々しげに横目で見るミサト。
そして彼女は一つの重大な決断を下した。

「アスカ、あんた、寮で一人で暮らしなさい」

「えぇっ!?」

仰天したのはアスカである。
まさかこんなことを言い渡されるとは思ってもみなかったのだ。
ところが、無情にもミサトは言葉を続けた。

「これ以上の事態を見過ごしては置けないわ。貴女のシンジ君との同居は解消よ」

「う、嘘でしょ……?」

「残念ながら本当です。大体貴女達みたいな若い恋人同士を一緒に暮らさせる訳にはいかないわ。
分かるでしょう、アスカ? 貴女はどうやら自分でも歯止めが利かないようだから」

「い、嫌よ! 絶対に嫌! シンジと離れるなんて嫌!」

「喚いても無駄よ。別に仲を引き裂こうってんじゃないわ。
まだ大人じゃない恋人同士が別々に暮らすのは当然のことでしょう。分かったわね」

「分からない!」

「抵抗は無意味よ。受け入れなさい」

あくまで冷ややかなミサトの言葉に、アスカは掴まれた腕を離そうとしきりにもがいたが、
自分の腕を掴む女性の強い握力は到底引き剥がすことも出来そうになく、
ついには腕を掴まれたままその場にへたり込んで、彼女は泣き叫び始めた。
いつもならば、気の強い彼女は決してそんな醜態を人前で晒そうとはせず、
噛み付くような攻撃的な言葉を投げつけて抵抗を続け、表面的な強い自分を崩そうとは
あくまでもしなかったであろうが、今回はあまりに衝撃が大きく、また予想外であったので、
己を硬い殻で鎧うことも忘れて、彼女はただただ胸を引き裂く悲しみに泣き声を上げた。

「うわぁぁん! しんじぃ、あぁ! うあぁぁん!」

ミサトもまた、予想外のアスカの反応にたじろいだ。
よもやこの少女が人前で泣き叫ぶとは、思いもよらなかったのだ。
だが、現に自分の足元にへたり込んで彼女は身も世もないといった風情で
涙を零しながら痛ましくも純粋に泣き声を張り上げているではないか。
自分の決断が決して間違っているとは思わない。
保護者として、作戦指揮者として正しい判断であることは疑っていない。
だが、この己の良心を突き刺す痛みはどうだろう。
自分の半分も生きていない幼い少女をこんなにも傷つけているのは、
間違いなく先の己の言葉なのだ。
背後のシンジを振り返ると、彼もまた悲しげな表情をして恋人となった少女を見つめていた。
一体どうしたらいいのだ。
彼女はアスカの腕を掴む手を離してしまった。
すると、自由になった両の手のひらで顔を覆い、なおもアスカは泣き続ける。
時折少女が漏らす言葉は、もはや日本語ではなく、
産まれた時から彼女に染みついたドイツ語で、そのことが一層少女の純粋な嘆きを伝えてきた。

「アスカ……、シンジ君……」

ミサトは心底弱り果てた声で呟いた。
すると、それに答えた訳でもなかろうがシンジが彼女の背中に向けて、こう言った。

「ミサトさん……、アスカをあんまり苛めないであげて下さい」

ミサトは絶句した。
裏切られた。
そう思った。
彼らの為によかれと思ってしていることだのに、
とりわけシンジの精神の安定の為の配慮であったはずであるのに、
そのシンジが自分を責めるような――という口調ではなかったが――言葉をぶつけてきたのだ。
背後には、いつでも優しく気弱な少年が困ったような表情で彼女と恋人を見つめ、
足元ではいつもは気丈な少女が弱り切った姿を晒して泣いている。
私にどうしろというのだ。
若い身空で――何といってもまだ二十代なのだ――思春期の感じやすい少年少女を抱えて、
その上世界の命運まで肩に背負い込んでいるというのに、
個人的な動機はともかく、こんなにもそれらに忙殺して頑張り抜いているというのに、
彼らと違い、この場で自分が頼りに出来る人間なんて一人もいないというのに。
堪らなくなって、ミサトはとうとう涙混じりに悲鳴を上げた。

「泣きたいのは私の方よう!」






つづく

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