好きだ好きだ好きだ

rinker




◆調停者、参上





葛城ミサトは、若くして特務機関ネルフで作戦部の課長をしている。
そして部下である二人の少年少女を公私共に預かる身の上であった。
さて、この日の職務を何とか終え、今日のご飯は何かなとか、
あの素直じゃない二人は家で仲良くしているかしらとか、
そんなことを考えながら彼女は心持ち足取り軽やかに我が家へと帰ってきた。
玄関のドアを開け、足を踏み入れようとしてみれば、
彼女の耳に早速二人の喚き声が聞こえてきた。
またぞろいつもの喧嘩か意地の張り合いでも始めたかと
溜息混じりに彼女は靴を脱いで、騒がしい音源へ向けて歩き出した。
そして目の前に広がる光景に彼女は硬直した。
数瞬の思考の空白の後、彼女がまず考えたのは、
若い二人が本能の赴くままに燃え上がってしまったのかということだった。
激しく抱き合う二人。
場所も考えず廊下に転がって、求め合っている。
激しい交歓の為か二人は汗を流し、額に張りついた髪や火照った顔が淫靡に映る。
と、ここまで考えて己の責任をとうとう果たすことが出来なかったことに
彼女は目の前が暗くなる思いがしながら、身体を震わせた。
何故なら、自分から申し出て少年と少女を預かっておきながら、
こんな不祥事を未然に防げなかったとなると首が飛ぶのは必定だからだ。
しかし、目の前が真っ暗になる前に、もう一度よくよく二人のことを見てみれば、
どうも自分の想像とは違う光景が繰り広げられていた。
何より、シンジはアスカから逃げようとしているし、
確かに二人は抱き合っていて服も乱れ切っているが、どうも色艶めいた雰囲気ではない。
となると、最悪の仮定は現実とはならなかったということであり、
彼女はほっと胸を撫で下ろしながら次なる可能性を考えてみた。
これはやはりいつもの喧嘩だろうか。
組んず解れず取っ組み合いとは普段よりもかなりハードな状況だが、
青少年がいけないことに雪崩れ込むよりかは格段に救いがある。
だが、二つ目の仮定もやはり違うだろうかと、
まじまじと二人の様子を観察していた葛城ミサトは考えた。
何故なら彼らはお互いを糾弾したり悪口を投げつけたりはしていないのだ。
組み合う仕草も、相手を傷つけるような暴力的なものではない。
何なのだ、これは一体。
葛城ミサトは腕を組み、片足のつま先を床に立てて、ふぅむと考え込んだ。
もしやプロレスごっこか?

「も、もう許して……」

「やだもん。いやだもん。うえっ、ひ、ひっく」

何とアスカは泣いているようだった。
ミサトは驚愕をもって少女のしゃくりあげる声を聞いた。

「違うんだよう、あれは違うんだよう」

「違わない。聞いたんだから、ちゃんと聞いたんだから」

二人の間では何らかの事項――恐らくは誰かの発言――で見解の相違が生じているようだ。
しかしそれでどうして惣流・アスカ・ラングレーが碇シンジに抱きつくのか。

「うぅ……、暑い……」

「絶対離さないんだから。もう一度聞くまで、ずっとずっとだからね……」

なるほどシンジもアスカもかなり疲弊している。
一体いつ頃からこんなことを続けているのだろうと、彼女は首を捻った。

「聞いたんなら、もういいだろ……。忘れてよう」

「うわぁん、何でそんなこと言うのよう」

アスカにとって、その発言とやらは大事なものらしい。
しかし、シンジにとっては忘れて欲しいもののようだ。
ミサトはつま先を立てるのをやめて、壁に凭れかかった。

「もうからかわなくてもいいだろ。お願いだから離して……」

「からかってなんかない! 好きなんだから! ちゃんと聞きたいんだから!」

少女の叫びに、葛城ミサトは思わず組んでいた腕を解きかけて身を乗り出してしまった。
何だかおかしな雲行きになってきたぞと、彼女は唾を飲み込んだ。

「そんな嘘……」

「嘘じゃない! だからもう一度好きって聞かせてよう! うぇっ、あぁぁん!」

シンジの腹に顔を押しつけて喚くアスカ。
これで事態は粗方判明した。
ミサトは後頭部を掻きながら、意外な展開に果たしてどうしたらいいのかなと考えあぐねた。
とりあえず、声を掛けるとするか。
彼女は目の前で抱き合って寝転がっている二人を見て軽く溜息を吐いた。

「あのさ、ただいま。シンちゃん、アスカ」

突然頭上から降りかかってきた聞き覚えのある声に、
アスカはばねに弾かれたように上半身をひねって振り返り、
シンジもいつのまにか自分達を眺めていた女性の存在にぽかんと口を開けた。

「きゃああああ! いやぁ!」

耳をつんざく悲鳴と共に、アスカは自分の部屋へ飛び込み、ぴしゃりと襖を閉めてしまった。
後には呆然と床に転がったシンジと、同じく驚いたせいで
シンジと向かい合うように床に尻餅をついたミサトの姿がただ残されるのみだった。





「あー……、シンちゃん?」

いち早く我に帰ったミサトが呼びかけるが、シンジは反応せず今だ呆然としていた。

「あー、こらこら。目を覚ましなさい。ミサトさんが帰ってきたわよ」

「は、あ……、ミサトさん」

目をぱちぱちとさせて、ようやく彼女の呼びかけに応えるシンジ。

「あの、パンツ見えてます」

そして余計なことを言った。

「うおっとぅ! なはは、覗いちゃ駄目じゃない、シンちゃん」

慌てて尻餅をついたままだった姿勢から跳ね起きて、
揃えた足を斜めに崩す形で床に座ったミサトは、改めて目の前の少年に問い質した。

「それはともかく、一体何事なのよ。
何であんなことしてたの。いつから組み合ってたの。
原因は何? ていうかいつまで寝てんの、あんたは?」

続けざまに質問を繰り出すミサトに、
シンジは先ほどまでの苦難の状況を思い出したのか、
床に転がったまま顔を歪めて丸くなってしまった。

「ありゃ?」

「うぅ……、何であんなことになっちゃったんだ」

突然悲嘆に暮れ始めた少年の姿にミサトは呆れながら、
四つん這いになって彼の傍に近寄った。

「どったの、シンちゃん」

「放っといてください……」

「まぁ、そりゃ……、いいけどさ」

聞くまでもなく、事情は既に大体のところ分かってしまっていた。
大方、思わず零した自分の言葉に後悔しているのだろうが、
それにしたってこの子はいつもいつも土壇場の崖っぷちにならなければ煮え切らないなと
歯痒く思いながら、ミサトは寝転がって丸まった彼のことを見下ろしていた。
このうじうじ虫には困ったもんだわ。
四つん這いから腕を屈めて顔を下ろし、額でシンジの頭を突ついてみると、
彼は唸りながらますます小さく纏まってしまった。
今度はだんご虫ね。
そこで、彼女はひとつ聞いてみることにした。
ちょっとした悪戯も兼ねてはいたのだが、大方は親切心からの質問だ。
と、彼女は自分で信じて疑わなかった。

「アスカのこと、好きなの?」

「うわぁっ!」

「ふぎゃぁっ!」

ミサトの直球の言葉にシンジが叫び声と共に跳ね起きて、
跳ね起きた彼の頭がその直上から覗き込んでいたミサトの顔にダイナミックに衝突して、
彼女は奇怪な叫び声を上げて仰け反って再び尻餅をついた。

「いひゃ〜い」

「あいたた、ミ、ミサトさん、すみません」

ずきずきと痛む鼻を押さえながら涙混じりにミサトが訴えると、
シンジは彼女の元へ近寄って自分が痛打させてしまった彼女の顔を両手でさすった。

「だ、大丈夫……ですか?」

「あ、う、うん……」

心配そうに自分をいたわるシンジを余所に、
ミサトは、あらちょっとこれは気持ちいいわ、などと考えながら
顔に当てられた彼の手を甘んじて受け入れていた。
ちょっとだけ若いツバメを飼ってる気分だわん。
しかし、そうやっていたのも束の間、
シンジは彼女から離れて廊下の壁に背をつけて膝を抱え、
再びどんよりと暗い場所に沈み込んでいってしまった。

「今度は何?」

その問いかけに答えた訳ではなかろうが、
シンジはぶつぶつと暗い声で呟き始めた。

「もう、今日は滅茶苦茶だ。全然いいところなんてない。
学校では小テストあんまり出来なかったし……」

あ、そうなのか。
これは勉強についてもちゃんと言わなければいけないなと
耳聡い彼女の頭の中のリストにチェックが入る。

「シンクロテストはリツコさんに怒られるし……」

今日の彼はどうにも調子が今ひとつで、苛立ったリツコが辛辣な言葉を投げつけたのだ。
あの馬鹿年増、細かいのよ金髪ばばあ、とミサトは少しだけ母性が疼いた。

「さっきはアスカと……あれだし」

あれ、ね。
そこのところは後ではっきりさせてやろうと彼女は誰にともなく決意を込めて頷いた。

「ミサトさんの鼻は潰すし」

「潰れてないわよ」

でも痛かった。
今だじくじくと疼く鼻を彼女はそっと指先で撫で、
触った為に余計に痛みがぶり返して顔を歪めた。
せっかく人が心配してあげているというのに、これでは散々だと彼女は頬を膨らませた。
鼻血が出ていないか鼻の下を指で触って、そこが濡れていないのを確かめてから
改めて彼女は少年に質問を投げかけた。

「で、アスカのことが好きなのね、シンちゃん」

「あっ、あれは、あれはっ、違うんです!」

途端にがばりと顔を上げて必死にいい訳をしようとするシンジ。
その目には涙さえ浮かんでいた。

「何が違うの?」

「あれはつい……、あんなこと言うつもりじゃなかった」

「じゃあ、嘘を言ったの。嘘でアスカのこと好きだって」

そう返すと、シンジは悲しげな表情でミサトのことを見つめてから、
固く口を閉ざして立てた膝の間に顔を埋めてしまった。
何と言えばミサトに納得してもらえるか、シンジには分からなかったし、
いかに現在の保護者代わりで同居人であっても、
彼女に自分の正直な感情を明かしてしまうのは堪らなく気の進まないことだった。
だから、彼はその口も目も閉ざして、貝のように塞ぎ込んでしまった。
ミサトはそんな少年の横に自分も腰を下ろし、
身体をぴったりとつけて彼のまだまだ細い肩に腕を廻して、
ぽむぽむと二、三度その肩を叩いてから、そっと抱き寄せて
あくまで軽い調子で問いかけた。

「ん? どう思ってるの。お姉さんに話してみんさい?」

シンジの応えはない。
しかしそれに構わずミサトは続けた。

「あらそおぉ? じゃ、やっぱ嘘なんだ。何でそんな嘘をついたの。
いくら相手がアスカだといったって、あの子だって女の子なんだから、
そんな風に騙されたと知ったら、きっと傷つくわよねぇ。
さっきもとっても必死だったし、何でシンジ君がそんな嘘を言ったのか知らないけど
こんなひどい話ってちょっとないわよねぇ。あの子の気持ちを考えると、お姉さんもう……」

「……別に嘘ついた訳じゃ……」

ぼそりと閉じた貝の奥から呟きが聞こえてきて、
零れ落ちる涙を拭う真似をしていたミサトは彼の伏せた顔にちらりと視線を送った。

「ん〜? 何か言ったかしら。ぜーんぜん聞こえない」

「だから違うって……」

「聞こえなーい。言いたいことがあるならもっと大きな声で言って」

「だからっ、違うんです!」

聞こえよがしなミサトに根を上げたのか、とうとうシンジは伏せていた顔を上げて、
真っ赤になりながら叫んだ。

「あら。違うの? じゃ、やっぱり好きなのね」

「……そ、それは……」

「ふふふ、よいではないか、よいではないか。
そっか、そっかぁ。シンちゃんがねぇ。そうかぁ……」

嬉しそうに頷きながら繰り返すミサト。
自然と笑みが込み上げてくる。
ところがシンジはそんな彼女の喜びなど分からないとばかりに
再び顔を伏せてぶつぶつと落ち込んでしまった。

「あ、また暗くなった」

「別に……、けど大体、アスカは僕のことを嫌ってるし、さっきだってあんなにしつこくからかって。
どうせ意味のないことなんです。僕は加持さんでもないし。
あぁ、何だってあんなこと言っちゃったんだろう。そんなはずなかったのに……」

「あら」

「もう、全部、馬鹿みたいだ……」

そうやって落ち込んだ少年の頼りなげな肩を見ていると、
葛城ミサトは彼を慰めてあげたい衝動に強く駆られた。
彼は声を震わせて、僅かに泣いているようだった。
もしもこれが大人の男であったら、たとえそれが好きな男であろうとも
目の前でぐずぐず泣かれてしまうなどという状況は鬱陶しくなって蹴飛ばすだけであろうが、
この繊細な少年の弱っている姿には、庇護の念が強く込み上げた。
思えば自分も随分と馬鹿なことをしているものだとミサトは少年の肩を抱く腕に目を落とした。
復讐だけが生きる糧だったのに、その目的に利用する為に
懐に抱き込んだだけの少年だったはずなのに、
今自分はこんなにも彼のことを気にかけて、それどころか愛おしくさえ感じている。
奇妙な己の変化にミサトは苦笑し、しかしそれとは裏腹に少年の肩を抱く腕に一層力を篭めた。

「ミサトさん……?」

「ん……、よしよし。大丈夫よ……」

何が大丈夫なのか、そんなことはどうでもいい。
ただ葛城ミサトは、両腕を少年の身体に廻して彼を引き寄せ、
聖母の如くその柔らかな胸に優しく掻き抱いた。



つづく

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