好きだ好きだ好きだ

rinker




◆大事件、天変 地異、その他もろもろ





さて、惣流・アスカ・ラングレーの部屋の前で起こった二人の喧嘩の場面に戻ってみると、
そろそろ終わりの見えてきたそれは、もはやつまらない悪口の応酬となってしまっていて、
何の捻りもないこれらの悪口雑言をいくら重ねても二人とも不愉快になるばかりであった。
こうなってしまうともうどうしようもない。
彼らのコンディションが悪かったのも不幸なことであったが、
ともあれそろそろこの喧嘩に最後の一手が投じられようとしていた。
通常、彼らの喧嘩はアスカが碇シンジに対して駄目押しの物理的実力行使に出てしまうか、
あるいはシンジが彼女を冷たく無視して――または捨て台詞と共に――背を向けて
その場を立ち去ってしまうことによって終結するケースが多かった。
この日の場合、真っ赤になって興奮しながら金切り声を上げるアスカと
同じく真っ赤になりながらそれに唾を飛ばして言い返すシンジと
果たしてどちらが幕引きの一手に出たのかというと、
それはこれまでにない思わぬ展開になってしまった。
お互い大声を張り上げて疲労しきり、肩で息をする二人の間に一瞬の沈黙と睨み合いが訪れた時、
それは起こった。
シンジがすっと彼女の青い目から視線を逸らし、ぼそりと漏らしたのだった。

「ったく、何でこんなのを好きになったんだか……」

決定的であった。





当然、シンジは自分の漏らした言葉に気付いて、
慌てて手のひらで自分の口を塞いだ。
その行為はまるで、己の口から飛び出した言葉を掻き集めてもう一度飲み込もうとするようでもあり、
またこれ以上余計なことを口走らないように枷を嵌めているようでもあった。
あるいは迂闊な自分の口を叩いてみたのかも知れないし、
ただのびっくりしたというジェスチャかも知れなかった。
しかし、全ては遅く、完膚なきまでに絶望的に手遅れであった。
口から紡がれる人の言葉は音声であるので、無論それは空気の振動であり、
一瞬にして周囲に拡散してしまう。
さて、彼の近くにいたアスカに果たしてその振動が届いたのかというと、
ばっちりきっかりダイレクトにそれは伝わって彼女の鼓膜を揺らし、脳へと信号が送られて、
当然彼女に理解可能なその言語は一瞬で解析されて
彼女の脳裏にぐわんぐわんと木霊した。
何でこんなのを好きになったんだか。
彼女の頭脳でこれが少し翻訳されて、どうして僕はこんなアスカのことが好きなんだろう、となる。
それから更に翻訳は続いてスリムな感じに、僕はアスカのことが好きです、となり、
もうちょっとだけひねりを加えて、僕は素晴らしい君が好きで好きで堪らない、という具合になっていく。
呆然と口を開けてシンジの言葉を脳裏で反芻していたアスカの顔が、
徐々に鮮やかな朱に色づいてきた。
シンジはあまりの自分の失態に目の前の彼女の様子に気が付いていない。
アスカは繰り返し繰り返し、自分の聞き間違いなどではないかと
目の前の少年の言葉を頭の中で再生していた。
しかし、何度試みても結論は同じだった。
シンジがあたしを好きですって!
シンジがあたしを好き、碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーのことが好き。
あたしはシンジに愛されている!
明らかに思いもかけない事態のあまり、思考が飛び過ぎているアスカであるが、
それを優しく指摘してあげる都合のいい存在はおりはしないので、
彼女の頭の中で渦巻く想いは勢力を強めながら南下、ではなくて全身へと広がっていきつつあった。
少女は舞い上がった。
スペースシャトルも顔負けの、天まで昇るという奴である。





惣流・アスカ・ラングレーが天まで舞い上がって
月で折り返してこの地上へ再び舞い戻って来てから、
最初に取りかかったことといえば、碇シンジへの確認だった。
無論、彼が自分に言ってくれた――実際には彼は独り言を零したのだが――言葉を
もう一度聞かせてもらおうというのだ。

「ねぇ……、もう一度、言って?」

声が少しだけ震えてしまったが、
今の彼女にはそれを止めることは出来そうになかった。
これまで在りし日の母だけが、あるいはその頃母の隣にいた父もだろうが、与えてくれた
この世で一番素敵な言葉を、目の前の冴えなくて情けなくて目の上のたんこぶでライバルで、
それから日本に来てから誰より身近で何故か気になり続けている少年の口から聞こうというのだ。
ごくりと喉を鳴らして、少年の怯えたような色をした瞳を見つめながら、
彼女はその瞬間を待った。
しかし、全身から溢れ出す期待にはちきれそうになっている彼女とは対照に、
碇シンジの表情は呆け、全身には怯えと後悔の気配が漂っていた。

「ねぇ……」

「えぁ……?」

「さっきの言葉……」

「い、いや……、僕は……」

碇シンジは言葉を詰まらせながら、じりじりと後ずさり始めた。
まるで目の前に怪物が現れたかのように。
それを逃がすまいとするようにアスカは彼が後ずさった分だけ彼との間を詰める。

「シンジ……」

「その……、ち、ちが……」

とん、とシンジの背中が廊下の壁にぶつかり、「ひっ」 と彼は息を漏らして、
退路を塞ぐその壁を少しでも後ろへ押しやろうとでもするかの如く両の手のひらをそこに当てた。
アスカを見つめる彼の目は、もはや涙で潤み切っており、顔色は青褪めて冷や汗が噴き出していた。

「早く言って。もう一度」

「あぅ……」

目の前に迫る少女の再三の催促に、シンジの足は力を失って、
ずるずると壁に背中を擦らせながら廊下に尻をつけてへたり込んでしまった。
アスカはそんな怯え切った小動物のような少年に近付き、覆い被さるように覗き込んだ。
そして、彼女もまた廊下に膝をつき、更に彼に向かってにじり寄る。
少しでもそれから逃れようというのか、壁に背中をぴたりとつけて仰け反ろうとするシンジに対して、
いい加減焦れてきてはいたが、それでも優しい声音で彼女は更に言葉を掛けた。

「お願い。もう一度聞きたいの」

「あ、あれは、その、ち、ちが」

「さあ、言ってくれるわよね、シンジ」

今や触れ合うほどに接近した彼女の吐息が、ふわりと碇シンジの鼻先を撫でた。
アスカはそっと、彼の顔の真横に片手をついた。
もう一押しだ。
彼は恥ずかしがっているだけだ。
さあ、今度こそ言ってもらうのよ。
アスカの唇から恍惚と彼の名が零れ落ちた。

「……シンジ」

目の前に迫る少女、執拗に問い詰める言葉、格子のように壁につかれた手、その生温かい吐息。
息を飲むと、ひゅうと喉が鳴った。
碇シンジの緊張は頂点に達した。

「ごっ、ごめんなさいっ!」

彼は脱兎になった。





叫びを上げるなり跳ねるように逃げ出そうとした碇シンジに、
惣流・アスカ・ラングレーは驚いた。
だが一瞬で身体は反応し、両手両足を廊下について這うようにして自分から離れていこうとする
彼のシャツの腰の辺りをぎゅっと掴んだ。
その衝撃でシンジはつんのめって床に顔をぶつけそうになった。

「わあっ、ごめんってばぁ!」

「ま、待ちなさいよ!」

自分を捕らえようとシャツとハーフパンツを掴むアスカの手を、
シンジは恐怖に怯えたように振り払おうとして腕を上げた。
しかし、その腕をアスカが服から片手を離して絡めとってしまう。
ますます状況が悪化したことにシンジは青褪めながら、
それでも必死に逃げようともがき続けた。

「な、何で逃げるのよ!」

「ひぃ〜、許して〜」

アスカに掴まれたまま、ずるずると廊下を這って少しでも逃げようとするシンジと、
そんな彼を決して離すまいと服を掴むどころか彼の腰に腕を廻して背中側から取りつくアスカ。
彼は今や廊下に腹這いになっており、その後ろから腰と腕を押さえて覆い被さるアスカは、
一体全体何がこんなにも彼を逃亡に駆り立てているのかと、
恍惚とのぼせ上がっていた頭をクールダウンして必死に考えようとした。
しかし、現在の状況下では恍惚とは別の意味で頭が興奮状態に陥ってしまい、
上手く思考が働かない。
ただ彼の言葉をもう一度聞かせてもらおうとしただけなのに、
彼のこの仕打ちは何だというのだ。
とにかく、もう一度彼が好きだと言ってくれるまでは絶対に離さないと
廊下についた足を踏ん張って、レスリングの押さえ込みのように
彼の身体を動けないように自分の身体で押さえつけた。

「はなっ、はなっ、離して!」

「離さない!」

自分を押さえ込んで離さない彼女から逃れる為に、
シンジは腹這いの状態から仰向けになろうと体をよじった。
それから、腰の辺りにしがみついた彼女を腕で押しのけようとするが、
彼女もそれに抵抗するようにますます腕に力を込めるので、
どうにも彼女を振り払うことが出来ない。
思わずぽろりと漏らした自分の独り言に誰より驚いているのは彼自身で、
何だってあんなことを口走ってしまったのか、自分でも訳が分からなかった。
今はただアスカの前で口走ってしまった言葉への羞恥と後悔と、
そして彼女に問い詰められることから来る混乱だけが彼を支配していた。
何ということか、彼はアスカが自分を執拗に離さずに質問を繰り返すのは、
ただのいつものからかいだと思い込んでいた。
自分が口走った言葉は、彼女に対してからかいの為の絶好の好餌を与えてしまっただけだと。
極度の混乱による恐慌状態であるとはいえ、何とも間の抜けた話ではある。
そして二人は、依然全身全霊で擦れ違ったやりとりを続けていた。

「ねぇねぇ、お願いだからもう一度言って!」

「もう許してよう!」

「やだやだっ! 言ってくれるまで離さないから!」

アスカの肩を必死に押すシンジだが、彼女は頑として離れようとはしない。
それどころか、彼にぴったりと張りつき、その腹に顔を埋めていやだいやだと首を振っている。
ぐりぐりと腹に当たる感触が生温かくて気持ちいいような、
けれど彼女が押し当てる尖った顎が痛くて、熱い吐息が気持ち悪いような、
それより何より、少女と密着している事実がとてつもなく恥ずかしいことをしているような、
普段だったらそうやって正常に感じられるだろうが、
今のシンジにとって彼女はただただ自分を捕らえて離さない恐怖の対象である。
ますます懸命に逃れようとシンジはもがき、
それに対抗してアスカも彼に抱きついて決して離れようとしない。
身体はぴたりと密着し、足をぐるぐると絡め合い、喚きながらも攻防はどたばたと続いている。
傍から見れば、激しく熱烈にじゃれあっているだけにしか見えないが、
当の本人達は真剣そのものである。
いつもならば二人がお互い絶対にしないような状況にあって、
現在世帯主不在の葛城家、惣流・アスカ・ラングレーの部屋の前の廊下は、
これまでにない異様な様相を呈していた。

「僕が悪かったから、もう離して!」

「何言ってんのよ。離さないからね!」

「も〜、勘弁してよう」

「駄目ったら駄目! もう一度言ってよ」

「だからそれはぁ……」

「好きだって言って!」

「あぁっ! それは違うんだってば……」

「違うって何よ! あたしは聞いたからね、聞いたんだからね、あんたが好きって言ったのを!」

「わぁん、許してぇ」

「やだもん、離さないもん! 離さないったら離さないんだから!」

「酷いよ、アスカ! そんなに僕のことからかって」

「聞かせてよう。あたしだって好きなんだから!」

「わーん! 何でやめてくれないんだよう!」

「うわぁぁん! 好きなんだからぁ!」

まさしく大騒ぎであった。




つづく
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