まず初めに、これだけは言わせてちょうだい。
碇シンジのすべてがあたしのものだということは、彼の誕生日からちょうど半年ほど遅れてあたしがこの世に産声を上げた瞬間に定められた、一つの事実なの
である。
嘘なんかじゃない。本当のことだ。辞書にだって書いてある。もちろん、その辞書はあたしの頭の中にしかないのだけど、だからといってこの事実が少しも揺
るがないということには変わりない。
実際にはぴったり半年より二日ほど早くあたしは産まれてきた。たぶん待ち切れなくなったあたしは、一刻も早くシンジがいるこの世界に出てきたくて、えいやとママのお腹から飛び出したのだろう。その健気さには我ながらほれぼれする。このあたしをそんな気持ちにさせるなんて、シンジほどの果報者は他にいない。いるはずもないわ。
当然のことながら、あたしのものであるシンジは、その辺りのことをきちんとわきまえていた。まだはいはいもできないうちから、彼はあたしの熱烈な崇拝者
だった。あたしたちは顔を合わせれば常に身体のどこかを触れ合わせて相手の存在を確認し、言語以前の漠然と宙を漂うような意識の中で、深い満足を覚えていた。これは記憶にすら残らない、魂に刻み込まれた実感だ。
言葉を覚えるなり彼の愛情は舌の上で不器用に形を与えられ、あたしに向けて発信されるようになった。それは例えば「アスカ」というあたしの名前だった
り、あるいは「いっしょにあそぼ」だったり、はたまたストレートに「すき」という言葉、また時には「きらい」という裏腹な言葉になったりした。
確かにあたしは彼の舌ったらずな愛情表現を大いに喜んでいた。けれど、一方で、それが口に出されることの意味を真剣に受け止めていたかといえば、実のところそうではなかった。
なぜなら、あたしにとって彼の愛情はあまりにも明白すぎて、確認がいるなんて考えることさえできなかったからだ。
例えば海が青いとか、夕焼け空が赤いとか、そんなことをいちいち言葉に出して確認しなければ不安になる人間なんていない。だってそうでしょう。太陽が東から昇って西へ沈むように、夜空に星が瞬くように、シンジはあたしを愛しているのだから。いちいち確認なんてしなくたって、シンジの愛情はいつでもあたしに向けられているのだから。
幼児期が過ぎ、ランドセルを背負った少年と少女になっても、あたしの確信は薄れなかった。以前と比べればシンジは男の子同士で遊ぶことが多くなったようだけど、いまだに彼の心の一番大きな場所をあたしが占めていることには変わりなかった。当然だ。何しろ産まれた時からの決定事項なのだから。そして、死ぬまでそれは変わらない。死んだあとでだって、ずっとずっと。
あたしは幸せだった。たかが十四歳の少女が何をと思われるかもしれない。でも、今だからこそ言える。あたしの十四年間は、まるで夢のように幸福だったの
だ。
しかし、今のあたしには悩みがある。
中学校の制服(あたしたちの学校では男子は詰襟と白いカッターシャツ)というものがそもそも悪かったのかもしれない。あのような画一的服装が彼の頭の中に唾棄すべき画一的思考というものを刷り込んだのだ。あるいは友人の存在だろうか。馬鹿で幼稚でスケベな猿どもが、あたしの大切な人の清らかな精神を蝕む毒となったということは、充分考えられる。
つまり問題は、口に出すのもいまいましい(いまいまいまいまいま×1000000しい)問題とは、シンジがあたしのことを好きと言ってくれなくなった、ということなのである。
knock!knock!knock!
本当にどうかしている。こんなのは間違っている。断固として認められない。
このままでは世界は破滅だ。だから、そうさせないためにあたしが何とかしなくちゃいけない。シンジの精神を蝕む毒を取り除き、あるべき姿に戻すのだ。そのためには何だってする覚悟がある。
ようするに、今まさにあたしが、向かい合った二階の窓をひらりと乗り越えて隣家に侵入しているのは、まさにそれが理由であって、決して窃盗やいかがわし
い目的があってのことではない。誤解を与えないために、このことは特に強調しておこう。
碇家は我が家のお隣さんだ。都合のいいことに、一戸建ての二階で向かい合って位置しているあたしとシンジの部屋は、窓から窓まで一メートルと離れていな
い。
ほんのちょっと勇気を奮い起こせば、開け放した二つの窓の間を飛び越えるのは造作もないことだ。
もちろん、そうはいっても、最初は一メートルに満たない隔たりを乗り越えるちょっとした勇気を奮い起こすために、相当な努力が必要だった。幸い窓の下に小さなひさしが出ているので、仮に窓枠から足を踏み外したとしても、そこを足場にすれば地面に落ちる心配はさほどしなくていい。あたしがもっとぽっちゃりしてきて、足元を踏み抜いたりしない限りは。
とはいえ、不法侵入そのもののあたしの行動には、ある不可欠な条件がある。あたしが自室の窓から身を乗り出したとしても、肝心のシンジの部屋の窓が施錠
されていてはどうにもならない。
そこで、あたしがどうして彼の部屋の窓を開けることができるのかといえば、何のことはない、彼の部屋の窓は鍵がかかっていることが滅多にないのだ。あたしたちの住んでいる町は決して田舎というわけではなく、玄関や窓を開け放しにしているのは危険なことだ。シンジだってそんなことは分かっているはずなのに、なぜか彼は鍵をかけ忘れる。
もちろん、そのおかげであたしはシンジの部屋に侵入できるわけであって、不満など言うのはお門違いかもしれないけれど、それにしたってあまりにも無用心
だ。
なので、いずれはこの癖をきちんと矯正させなくてはならない、と自分の部屋の窓から身を乗り出し、腕を伸ばして向かいの窓に鍵がかかっていないことを確かめるたびに思う。
だって、こんな癖をそのままにしていたら、将来あたしたちの愛の巣に泥棒が入るかもしれないじゃない。
そんなの許せないわ。
他の男の子の部屋なんて入ったことがないから知らないけれど、おそらく平均的男子の部屋と同様、シンジの部屋は飾り気に乏しくて、ちょっと散らかっている。唯一彼の部屋に特色を与えているのは、隅に立てかけられているチェロケース。本棚には図鑑やマンガなどと混ざって楽譜が一角を占めている。
窓から忍び込んだあたしは、すぐに目当ての人物を見つけた。首を振りながら羽を回している扇風機の風を受け、腰の辺りにタオルケットを纏わりつかせたシンジが、ベッドに仰向けになって安らかな寝息を立てている。あたしが近づいていってもまったく目覚める気配はない。
日曜午後の昼寝を楽しんでいる幼馴染の寝顔をあたしはじっと観察した。扇風機の風だけでは暑いのか、額にはうっすらと汗がにじんでいる。閉じられた目を縁取る
まつ毛は驚くほど長い。小振りな鼻はすっと筋が通っていて、ほんの少し隙間の空いたくちびるは、誘うように突き出されている。
あたしはベッドの脇にひざまずき、自分の長い髪が落ちないよう押さえながら、シンジの顔を覗き込んだ。あたしの視線はさっきから彼の可愛らしいくちびるに吸い寄せられたままだ。このままゼロまで距離を縮めて彼のくちびるを奪ってしまいたい、という衝動を抑え込むのにはかなりの意思の力を必要とした。
大切なファーストキスは、ぜひとも彼の意識がある時に、しかるべきシチュエーションのもと行われなければならない。この強固な信念だけが、今のあたしを誘惑から守っていた。
とか何とかいいつつ、やっぱりちょっと我慢しきれず、シンジのすべすべしたほっぺにこっそりキスをした。あくまで彼にばれないよう、羽で触れるみた
いな軽いキスだ。くちびるを離すと、火がついたように熱くなった顔を手で押さえながら、あたしは物音を立てないよう静かに身もだえした。はたから見るとちょっと変
質者っぽいかもしれない。
そんなあたしをよそに、シンジは一向に目を覚ます気配がない。たとえ睡眠中だとしても、ほっぺにぷちゅぷちゅと何度もキスをされ、さらには至近距離から
熱烈な好き好きビーム(という名の凝視)を浴びて、何かしら感じ取るところはないのかしらと多少じれったくも思うけど、鈍感なのは彼の特徴の一つだし、こういう無防備な姿を眺めていられることを思えば、彼の鈍感さにも充分に折り合いがつけられる。
もうずっと幼いころから、あたしはシンジの寝顔が好きだった。一緒に昼寝をする機会があれば、それを見るためにわざと彼が寝入るまで眠るのを我慢した
り、彼よりも早く目覚めるよう頑張ったりしたものだ。結局は一緒に眠っちゃって、シンジの寝顔を楽しめないことがほとんどだったけど。
近ごろのシンジは成長著しく、顔かたちも変化してきている。でも、安らかに寝入る表情のあどけなさだけは、昔とちっとも変わっていない。その表情を見ていると、あたしの胸は愛おしさではち切れそうになる。
この先何十年後かに中年のおばさんになっても、こうして彼の寝顔を眺めていたい、と思う。そこにあどけない面影が変わらず浮かぶことを知る特権は、世界中であたしだけに許されるのだ。そんな幸せを得られる女は、きっとそれほど多くはないだろう。あたしはその稀有な一人になりたい。
お尻を床に下ろしたあたしは、ベッドの上に両腕で枕を作って、そこに頭を預けた。あたしは満たされた気持ちで、眠るシンジの横顔を眺めていた。たとえ最
近のつれない彼に対して不満を抱えているにしても、今はその不満を棚上げにして忘れていられるほどだ。
ああでも本当に、どうしてこいつの寝顔はあたしをこんなにもたまらない気持ちにさせるのだろう。腰を下ろしたまま一日中だって眺めていたい。シンジのこの姿を写真に収めて肌身離さず持ち歩きたい。もちろん盗み撮りなんて卑怯なことはしたくはないけど、彼の寝姿を保存して、自分だけが所有したいという欲求には抗いがたい。少なくともあたしはそう。これを我慢できる奴は人間じゃないと思うわ。……もっとも、あたし以外の女の子には我慢してもらわなくちゃいけないけどね。
さておき、今手元にカメラも携帯も持ってないあたしは、いずれにせよ自らの網膜の性能に頼るしかなかった。
まあいいわ。こと目の前の少年に関する限り、あたしの網膜は(もちろん網膜以外も)とびっきり優秀なの。
両腕の枕に右頬を預けていたあたしは、顔の向きを変えて今度は左頬を預けた。彼の顔を見る角度が少し変わる。片手を伸ばして彼の頬にほんのかすかに指先
を触れさせると、すべすべした弾力が指先をくすぐった。再びキスしたい強烈な衝動に駆られたけど、直接的な欲求を充足させることなく、あたしはただ自然と浮
かんでくる微笑みを自覚しながら、伸ばした腕をまた顔の下にしまい込んだ。
結局のところ、幼なじみにそっけなくしようというシンジの努力にもかかわらず、あたしの心はちっとも彼から離れていこうとはしていない。当然だ。そんなことは絶対にありえない。
理由は知らないけど、そんな無駄なことはやめればいいのに、とあたしはため息混じりに思った。あたしという女の子が、大好きな人に対して決して手加減しないことくらい、もうずっと昔から分かっているはずなのに。
でも、今はひとまずそういったことは忘れて甘いミルクのようなひと時を過ごそう。誓って、シンジの安らかな寝顔を堪能したいなどという不純な動機に衝き動かされて彼の部屋に忍び込んだわけではないのだけど、もうしばらくは偶然の与えてくれたこの時間を楽しんだって、罰は当たらないはずだ。
どれくらいそうしていただろうか。規則正しい寝息をBGMにして彼の寝顔を眺めているうちに、自分自身もふわふわした気分になってきて、このまま彼のベッドに上がり込んで、昔よくしていたように一緒に眠るのも悪くない、と思い始めていた。そのあとで巻き起こるに違いない混乱にも、むしろ胸が躍るくらい
だ。彼はきっと顔を真っ赤して怒るだろう。それを想像してみただけで思わずくすくす笑いがこぼれた。
けれど、あたしがそのわくわくする考えを実行に移さないうちに、仰向けに寝ていたシンジが寝返りを打ち、こちらへ顔を向けた。ゆっくりと目蓋が持
ち上げられ、霞のかかった眼差しが間近に迫るあたしの顔を捉えようとした。そして、ぼやけたピントが合うなり、目を真ん丸くした彼はすっとんきょうな悲鳴を上げて、その場から飛びのいた。
「ひいっ!」
それまでの甘いひと時をすべてひっくり返した彼の態度に傷つけられたあたしが反撃を加えたのは言うまでもない。
「だからってそこまで怒ることはないんじゃないの?」
翌日の月曜日、屋上でお弁当を食べようとクラスメートで親友の洞木ヒカリを誘ったのは、他人の耳を避けて話をするためだ。まばらにいるほかの生徒たち
は、互いに充分な距離を取っている。そもそも他人に邪魔されたくないからわざわざ屋上までやって来ているのだから、当然といえば当然だ。よほどの大声を張り上げ
なければ、会話を聞かれる心配はないと分かっているので、あたしは思う存分身振り手振りを交えながら、昨日の顛末をヒカリに話して聞かせて
いた。
おさげとそばかすがチャーミングなヒカリはあたしの気持ちを誰より分かってくれる一番の親友だ。今回も彼女は味方になってくれる、とあたしは考えてい
た。
ところが、ひととおり聞いたあとのヒカリの言葉には、あたしを非難するようなニュアンスが少し含まれていた。
もちろん、あたしだってやり過ぎたとは思っているし、本当のところはそれほど怒っていなくて、ただ勢いだけで行動してしまったということは分かってい
る。でも、簡単に自らの非を認めて謝ることができるほど、あたしの性格はまっすぐではない。
こんな性格の女の子に付き合わされるシンジこそ災難だ、と他人は言うかもしれないけれど、厄介な女の子だと分かった上で彼はあたしが好きなのだから、それはそれで仕方がないというか放っておいてもらいたい。色の悪い花をつけた枝を切り捨てるみたいに、素直じゃないあたしを切り離すというわけには行かないし、仮にそんなことをすれば、たぶんシンジはかえって居心地悪く思うだろう。
とはいえ、素直でないあたしは、やはり素直でない答えをヒカリに返してしまうのだった。
「女の子の顔を見て悲鳴を上げるような失礼な奴には怒って当然よ。あいつは、ようするにあたしの顔が、起き抜け一番に見るようなもんじゃないって言った
の。
そんなひどい顔だってあのバカは思ってるのよ、このあたしの顔を!」
「そんな大袈裟な。誰だって寝覚めでそこにないはずの他人の顔が視界一杯に広がってたら驚くわよ、普通」
「そんな単純な話じゃないわ。この十四年間、あいつはずっとそう思ってきたんだわ。ああ、あたしは騙されたのよ、ヒカリ。これまであいつが何度あたしに可
愛いって言ってくれたか分かる? 数え切れないくらいよ。本当は数え上げようと思えばできるはずだけど、とにかく、あいつはいつもあたしのことを可愛いと
言ってくれてたの」
あたしの話を聞くヒカリは腕を組んで、細めた目でこちらを見ていた。親友のジト目に少しひるんだけど、とにかくあたしは先を続けた。
「でも、それは全部嘘だっ
たのよ。それで裏では勘違いしてるあたしを笑ってたんだわ。そうに決まってる。ねえ、こんなひどい話ってある? 大体目が覚めた時あたしの顔がそこにない
なんて思ってるのがそもそも間違いなのよ。いついかなる時だってあたしのことを思い浮かべているべきでしょ。あたしはそうし……てるわけないけど、あのバ
カに
はそ
う
する義務があるはずよ、絶対」
「うーんと、どこから突っ込めばいいのか」
困ったようにかぶりを振っているヒカリを手で制して、あたしは健気な口調で続けた。
「いいの。確かにあたしは怒ってるけど、傷ついたわけじゃないもの。だってそうでしょ。今まではあいつがあたしを好きで好きで仕方ないっていうから、お義
理で相手してやってたけど、この先はその必要がなくなるってだけなんだから。むしろせいせいするわ」
「だって、アスカは碇くんのことなんて全然好きじゃないし、付き合いたいなんてこれっぽっちも考えてないから?」
「そうよ。……まあ、あいつがどうしても付き合いたいっていうなら、仕方がないから付き合ってやってもいいかなーって、ほんのちょこっとだけ思ってた
けど。もし万が一、あいつがちゃんと謝ってこの先の態度を改めるなら、あたしだって鬼じゃないから、もう一度考え直してあげて
もい
いわ。でも、あたしのことを可愛いって思ってもくれないような奴と付き合うのは、絶対にイヤよ」
「あら、それなら他に一杯いるじゃない。アスカのことを可愛いって言ってくれる男の子たちは、この学校だけでだって大勢いるわよ。よかったわね、アスカ。
な
んならさっき階段のとこで告白してきた三年の先輩に『やっぱり気が変わったので告白をお受けします』って伝えてきたら?」
くすくす笑いながら意地悪なことを言うヒカリをあたしは精一杯睨みつけた。
「ふん。女の子を外見でしか判断しないような奴なんて最低」
「外見だけからだって、きっかけにはなるん
じゃない? アスカが誰か他の男の子と付き合ってくれれば、碇くんだって肩の荷が下りてほっとするわよ、きっと」
頬を指で押さえたヒカリは、残酷な言葉とは裏腹な笑顔をあたしに向けた。
「ひどい!」
あたしは芝居がかった悲鳴を上げて顔を両手で覆った。
「あたしの気持ちは知ってる癖に! ひどいわ! ヒカリは意地悪よ。誰もあたしの味方なんてしてくれないんだわ」
「はいはい、おいでおいで。泣かないの」
ヒカリはあたしの頭を抱き寄せて、お母さんが子どもにするようにぽんぽんした。あたしはぐずぐずと鼻を鳴らして、ヒカリの身体に腕を回した。
「ようするに、アスカは碇くんと仲直りしたいのよね」
あたしは彼女のささやかな膨らみに頬を押し付けて、うんうんと頷いた。
「ただ単に碇くんに拗ねて甘えたかっただけなのよね。本当はアスカのほうこそ、碇くんのことが好きで好きで仕方がなくて、いくら大勢に告白されたって、他
の選
択肢なんて考えることもできないのよね」
これにもあたしは勢いでうんうんと頷いた。驚くべきことにあたしの親友は、心とは裏腹なあたしの言葉を超翻訳して、今のように解釈したらしい。この魔術
的
認識力のあるヒ
カリが、どれくらいあたしにとって得がたく大切な友達かということを考えれば、一言もそんなことは口にしてないのに、あっさり本音を暴かないで欲しいとい
う恨
み言はしまい込むしかない。
「でも、ヒカリ、もしも本当にシンジが、あたしに愛想を尽かしたんだとしたら? あたしの相手なんてもう嫌だと思ってるとしたら?」
温かなヒカリの胸の中で、あたしは不安を吐き出した。
今まではずっと言葉なんて必要ないと思っていた。あたしとシンジの間には、そんなもので確認しなくたって、確かなものがあるのだと。でも、いざ彼の気持
ちが
言葉にされなくなってしまうと、途端にこれほど不安に襲われることになるなんて思いも寄らなかった。
「大丈夫よ、アスカ。さっきはからかってごめんね」
「でも……」
「『でも』とか『もしも』はなし。いつもの強気なアスカはどこに行ったの?」
ヒカリの言葉にあたしは顔を上げた。本当に、いつだって強気でいられるならどんなにかいいだろう。でも、実際にはあたしはこんなにも弱くて、世界中で一
番確かだと信じていたものにさえ不安を覚えている。自分のそんな一面にあたし自身びっくりしてさえいた。
「さあさ、いつまでも抱き合ってると周りの人に誤解を与えちゃうわよ。明日からは男の子に代わって女の子が告白の行列を作るようなことになってもいいの?
それとも甘えんぼのアチュカちゃんはママのおっぱいが恋ちいのかな?」
「ヒカリ!」
親友から身体を離したあたしは彼女を責めようとしたのだけど、チャーミングなそばかすが浮いた悪戯っぽい表情を見ると、こらえきれずに噴き出してしまっ
た。
あたしはもう一度彼女に抱き締めて言った。
「大好きよ、ヒカリ」
「わたしもよ、アスカ。もしわたしが男の子だったとしたら、碇くんを蹴飛ばしてでもアスカのことを離さない」
「蹴っちゃ駄目。でも、ありがと」
身体を離したあたしたちは歯を見せて笑い合った。
女の子にはもちろん最高の恋人が必要だけど、それと同じくらいに最高の友達だって必要だ。あたしにとってヒカリはまさしくそうだった。
「でもアスカ、一つだけあるんだけどね。フライング・アスカ・プレスはやり過ぎだと思うの」
「やっぱり? あたしもそうじゃないかと薄々思ってたんだけど」
あたしは気まずい顔で言った。
「シンジったら、しばらくベッドから起き上がれなかったわ。その……痛かったらしくてずっと押さえてたの。男の子の大事なところを」
ヒカリは喉が詰まったみたいな顔をして真っ赤になり、それから小さな声で言った。
「碇くんの忍耐力がいつまで持つか心配だわ」
「いくらあたしでもそこまで乱暴じゃないわよ。でも、ひざが当たったなんて気づかなかったし、そんなに痛いだなんて思わなくて」
「この見た目にみんな騙されるのよね。中身はてんで子どもなんだから」
「そんなことないもん」
呆れてため息を吐いた親友の言葉にあたしはくちびるを尖らせて反発した。
でも、ヒカリは取り合ってくれなかった。
「はいはい」
「むー」
「分かったから。お弁当を片付けましょ」
彼女の言葉にあたしはまだほとんど箸の進んでいないお弁当箱を見下ろした。
「そうね。……ねえ、その前にさ」
「ん?」
「もう一回ぽんぽんしてくれない?」
その申し出を聞いたヒカリは爆笑した。
笑われたあたしは憮然としたけれど、ぽんぽんしてもらったあとは機嫌を直した。
閉ざされたカーテンを少し開けて外を見ると、向かいの窓のカーテンのわずかな隙間から夜の暗がりへ明かりが染み出していた。明かりがついてい
るということはたぶんシンジは部屋にいるのだろう。でも、夜空の暗さを吸い取ったみたいに真っ黒なカーテンが邪魔をして、中の様子を窺い知ることはまっ
たくできない。
結局、今日はシンジとほとんど会話ができなかった。男の子たちと笑い合うシンジを離れた場所から眺めていると、これまでに感じたことのない彼との隔たり
を感じた。もちろん、シンジにだって男の子の友人は必要だ。このあたしに女の子の友人が必要であるように。常にこのあたしだけの相手をしなければならない
などと言うつもりはない――もしそうであったらどんなにか素敵だろうと夢想したことがあるにせよ。でも、断じて彼はあたしを無視したりしてはいけない。あ
たしから顔を背けたりしてはいけないのだ。
中学生になるまでシンジからそんな態度を取られたことのなかったあたしはショックを受けた。中学校に入ってあたしたちの身に起きた変化といえば、身体が
大人に近づく変化がより顕著になりつつあること、そして同時にあたしが異性の注目を集め始めたこと。原因になりそうなものはこれくらいしか心当たりがな
かった。彼が別の女の子に夢中になっていればすぐに気付くはずだし、嫌われるようなことは何もしていない。彼をからかったり喧嘩をしたりはしょっちゅうだ
けど、あたしたちの関係はそんなことくらいで壊れるようなやわなものじゃない。
もちろん、変化に戸惑う彼の気持ちは分かる。もうすでにあたしたちが相手の前で裸になっても平気でいられる無邪気な年頃ではない、というのは言うまでも
ない事実だ。いや、ひとたび決心してしまえば、きっとあたしたちは相手の前で裸になれるかもしれない。でも、それは無邪気さのためではなく、もっと別の、
幼いころには想像だにしなかったような感情のためだ。
大人に近づきつつある身体を自分自身でさえ持て余しているというのに、まして異性のそれに接しては冷静でいられなくなる、というのは、あたしにも実感を
伴って理解できる。このあたしだって大好きな男の子にわけの分からない変化が起きて、ショックを受けることはあるのだから。
でも、こういう変化に対する戸惑いだけが、シンジの不可解な態度をすべて説明しているとは到底思えなかった。何といっても昨日今日出会った間柄ではない
のだ。
となると、真の原因はもう一つの変化、あたしが異性の注目を集めていることなのだろうか。
確かに中学生になってから、バカみたいにモテるようになった。このあたしにとってはまったく無意味なことだし、実際うっとうしいことこの上ない。でも、
もし本当にこれが原因でシンジがあたしに対して気後れのようなものを感じているのだとしたら、容赦なく引っぱたいてやらなければならない。この十四年に渡
る二人の蜜月(もちろんそうに決まっている)をすべて帳消しにして、二人が離れ離れになることを本当にシンジが受け入れているのだとしたら、あたしとして
も断固たる措置を取らざるを得ない。なぜなら、シンジがいなければあたしはとても生きてはいられないのだから。
いつも気軽に乗り越えているのに、今は真っ暗で頑なに閉ざされた窓を見つめながら、あたしは大袈裟でなくそう思った。
「何よ、バカ。バカシンジ」
折り曲げた指で窓ガラスをこつんと叩き、あたしはカーテンを閉じた。
一階のリビングでは、夕食後の片付けを終えたママが、ソファに座ってのんびり雑誌を読んでいた。つけっぱなしのテレビは報道番組にチャンネルが合わせて
あ
る。ママの横を素通りしてキッチンへ入ったあたしは、コーヒー
を淹れる準備をしながら、振り返って訊ねた。
「ママも飲む?」
「コーヒー?」
「うん」
「ありがとう。お願い。ママは濃い目が好き」
「パパは?」
「お風呂」
お風呂から上がったあとにパパも飲むかもしれないからその分も淹れてあげて、あたしはママと自分のマグカップを持って、リビングに戻った。テーブルの上
に
カップを差し出すと、ママは雑誌から顔を上げて、あたしに笑いかけた。
「お待たせ致しました、お客様」
澄まし顔でおどけると、ママは大袈裟に胸の前で両手を合わせて、感激してみせた。
「まっ。ありがとう、可愛いウェイトレスさん」
「どういたしまして」
惣流キョウコとジョナサン・ラングレーが結婚したのは、もう十六年前になる。結婚から遡ることさらに数年前、当時京都の大学に通っていた惣流キョウコ、
つま
りママは、留学生としてアメリカか
らやって来たジョナサン・ラングレーことパパと、友人を介して出会った。
当初、二人の付き合いは純粋な友人関係だった、とママは証言している。日本文学の研究という名目で日本を
訪れていたパパは、とかく日本的なものへの憧憬が強く、その憧れは当然、美しい黒髪を持つお淑やかで家庭的な日本人女性というものへも向けられていた。
一方、
日独混
血
のママ
は、濃い栗色の髪に薄茶色の瞳で、その容貌は一見して純粋な日本人ではないと分かる。性格にしてもお淑やかとは到底言えない。
日本人女性に対して、夫唱婦随の
従順な良き妻というイメージが海外では根強くあるらしいけど、そもそもこの日本においてさえ、そんな時代錯誤な女性は絶滅寸前だ(と思いたい)し、まして
『人生は格闘だ』が座右の銘のママにかかれば、鼻で笑われ、ヒールの角で踏んづけられてぺしゃんこにされてしまうようなものなのだ。
今よりも古い時代に、集団
に混ざった唯一の混血児として、幼いころから周囲と対決していかざるを得なかったらしいママは、その結果として非常に自立心の強い女性に成長した。
ママがそういう女性なのはとても素晴らしいことであるし、当時のパパからも友人としてその気質を尊敬された。でも、パパの中にあったささやかで、(女か
らすれば)かなり馬鹿らしい期待に応えなかったというのも、確かに事実ではあった。だから、当時のパパにとってママはいい友達で
はあったけど、恋愛対象ではなかったのだ。
ところが、そんなママとパパがどうしたわけか付き合い始め、そのまま
二人はこの
日本で結婚して
暮らすことを決意した。うちが惣流という姓を名乗
るのはこの国へ骨を埋めるというパパの意思だ。
ちなみにパパとママが出会うきっかけを作った共通の友人というのが、実はシンジのお父さん。シンジのお父さんは作家をしていて、パパとは同じ教授に師事
していたという縁で知り合い、ママとはパン屋さんのアルバイトの先輩後輩の関係だった。当時売れない作家だったおじさんは、たまに恩師の仕事を手伝いなが
ら色んなアルバイトをし
て生活していたそうだ。
ついでにもう一つ、人の縁の不思議なところは、シンジのお母さんとあたしのママが高校時代の同級生だということ。
実はシンジの両親の出会いには、あたしのママが立ち会っている。別々の大学
に
通っていたおばさんとあたしのママは、ある日ママのアルバイト先のパン屋さんで、偶然の再会を果たした。懐かしさと嬉しさではしゃいだ二人は、当然のごと
くお
しゃべりに花を咲かせたのだけど、時と場所がまずかった。パン屋さんのさして広くはない店内で、二十歳になるかならないかの若い女の子が二人できゃあきゃ
あ笑いながらおしゃ
べりをするのだ。しかも、そもそもママは勤務中の身。少しくらいならともかく、一向におしゃべりをやめる気配がないママを注意する役目を買って出た
のが、おじさんだった。
きっとおじさんは、すごく真面目だったのだと思う。年上でアルバイトの先輩としての責任感もあったのかもしれない。もっとも、一番ありそうなのは
かしましい女の子の声に神経が耐えられなかったから、というものだけど。だって、おじさんってものすごく奥手に見えるんだもの。もじゃもじゃのあごひげと
眼鏡の奥に引っ込んで隠れているみたいに。
さて、そんなおじさんとおばさんの初めての出会いだけど、そのあと二人は険悪な雰囲気になってしまったらしい。というより、むしろおばさんのほうが一方
的に敵意を抱いた、というのが実際のところのようだ。おばさんからすれば、友達をいじめられたように感じたのかもしれない。せっかくの再会なのにひょろっ
と背が高くて眼鏡をか
け
た無愛想な年上の男に水を差されたおばさんは、ぷりぷり怒って、嫌味たらしく一抱えほどもパンを買って帰って行ったそうだ。
ところが、どうしたわけか次の日からおばさんは、そのパン屋さんに足繁く通うよ
う
になった。ママが出勤の日もそうでない日も関係なく。そのうちに、というよりわりと早い段階で、おばさんのお目当てが何であるか、ママは悟った。そのこと
に気
付いてママはちょっと呆れたらしいけど、昔からたで食う虫も好き好きという言葉もあるように、ああ見えておじさんには何かしらおばさんの琴線に触れる
と
ころがあったに違いない。もちろん、おじさんのことをけなす意図はないので勘違いしないでほしい。何といってもシンジのお父さんなんだもの。
そして、ママの表現によるならば「あれよあれよという間に」二人は結婚してしまった。驚くなかれ、その時まだおばさんは大学三回生だった。おじさんはよ
うやく一冊目の本が売れ始めていたころで、アルバイトはすでにやめていたそうだ。
もちろん、その二人が「あれよあれよ」とやっている一方で、パパとママの関係も少しずつ進展していったに違いない。
そして現在、おじさんとおばさんの熱々ぶりはいまだにまったく衰えることを知らず、密かにママが対抗心を燃やすほどらしい。ママもみっともないことに張
り
合うのはやめてほしいものだけど、あたしがそう言ったところで、きっとママは耳を貸しはしないだろう。十四年もこの人の娘をやっていれば、それくらいは学
習する。
少し話が逸れたけど、このようなカップルから産まれてきたのがこのあたしであり、シンジというわけである。
ママの長い髪は濃い栗色をしている。娘であるあたしの髪が、それより明るく赤みが強い茶色なのは、パパの影響かもしれない。本物の金髪と青い瞳を持つパ
パ
のごつごつした
目鼻立ちは、まるでイースター島のモアイみたいに起伏に富んでいる。瞳は思わずはっとさせられるような青色だ。本当に吸い込まれるような透き通った色
を
して
いて、ママは娘のあたしがパパの瞳の色
を受け継いだことを喜んでいる。もっとも、あたしの瞳はパパほど鮮やかな青色ではないけど。
幸運だったのは、いくつか例外を除けば、遺伝的にパパよりママの影響が優勢だということだ。たぶんあたしはそれほどのっぽにはならず
に
済むと思うし、堂々とそびえ立つ鼻柱や実用的な日除けになる目の上の骨の隆起といった特徴も、あたしの場合はごく控えめなものだ。馬鹿らしいコン
プ
レックスと言われるかもしれない。でも、実際に幼いころのあたしは、外見が少し違うというだけで、のけ者にされることが多かった。今でこそ何人もの男の子
から
告白だってされるけど、昔は気味悪がられてさえいたのだ。
ところが、シンジだけは違った。彼にとって、あたしがこのような外見であることがあまりにも自然で当たり前なことだったので、そもそもどうしてあたした
ちの
外見
的特徴が異なるのか、不思議にさえ思わないようだった。
彼はあたしの赤茶けた髪や青い瞳をただ純粋に一途に愛してくれていた。
「ぼくもそんなふうだったらよかったのに」
幼かったころのその言葉にあたしがどれほど勇気づけられたか、果たして彼は知っているだろうか。
大好きなあたしのシンジ。本当にそうなれたらどんなにか嬉しかったことか。あたしの青い瞳を取り出して彼に与えることさえ、いとわなかったのに。
今の惣流アスカにのぼせ上がる男の子が、どんなに列をなしたところで、あたしの心がシンジから離れることなんてない。そんなことはあり得ない。たとえ彼
が
手酷くあたしを傷つけるようなことがあったとしても、憎むことがあったとしても、それでもあたしは彼を嫌いになることなんてできない。
だって、あたしが醜
いアヒルだったころから、彼だけがあたしの醜さも美しさも関係なく、愛情を注いでくれた他人だったのだから。
それはあたしが彼を愛している数多くの(数え
切
れないほどの)理由のうち、ほんの一つに過ぎない。でも、そのほんの一つのことが、あたしにとってどれほど大きな意味を持つ
ことなのか、言葉を尽くしたとしても、とても説明しおおせることはできないだろう。
「ね、ママ」
「なあに?」
「どうしてパパと結婚したの?」
「まあ、アスカったら。何を言うかと思えば」
あたしの突然の質問に、ママはちょっと目を丸くして驚いていた。
「そんなことが気になるの?」
「うん。気になる。教えてくれる?」
あたしのおねだりにママはくすくす笑ってから、マグをテーブルの上に置いて、思い出を空中から探り出そうとするかのように視線をさまよわせ
た。
「そうねえ……、そりゃもちろん、一言でいうと愛してるからなんだけど」
英語と日本語のバイリンガルで元アメリカ人の夫を持つママは、時々こうした日本人らしからぬ言い回しを平気ですることがある。
「最初に会った時、一目で分かったのよ。この人はわたしの運命の人なんだって」
「それを世間ではひとめぼれって言うんじゃないの?」
口を挟むと、ママはちょっと気分を害したような顔をした。
「話を聞きたいんじゃないの?」
「ごめんごめん」
気を取り直してママは言った。
「とにかく、ママはパパと結ばれる運命だと気付いたの。日が経つにつれ、思いは確信に変わったわ。でも、パパはあのとおりのんびり屋だし、女の子の気持ち
なんてこれっぽっちも分かってなかったから、それを気付かせてあげるのにママはかなり努力しなくちゃならなかったわ。それからまあ、男女の間でよくあるか
けひきが繰り返されて、ついにママは自分が正しかったことを証明したというわけ。実際、なかなか上手くやったと思うわ」
ママは澄ました顔で自画自賛した。事実夫婦仲が良好なこと(良好すぎるといってもいいけど)を考えれば、ママはこれ以上ないほど完璧に自分の目的を達成
したことになる。
「つまり、パパを口説き落としてそのまま結婚まで持って行ったのね」
あたしの指摘にママは肩を竦めた。
「パパがわたしを口説く手間を省いてあげたのよ。どのみち、あの人を他の女に渡す気なんてこれっぽっちもなかったんだから。それにパパは確かにのんびり屋
だけど、周りにいる女の子たちはそうじゃなかったし、もともとパパは日本人の女の子に憧れを持っていた。だから、多少強引でも急いでパパの注意を惹き付け
なくちゃいけなかったの」
「強引って?」
「誘惑したのよ」
あっさりとママは答えた。
「ママ!」
ショックを受けたあたしが叫ぶと、ママは笑いながらあたしの肩を抱いて言った。
「そんな大声出さないで。もちろん、誘惑といってもちゃんと手順というものがあるわ。ふしだらな女の子だと思われるのは心外だもの。……ねえ、本当にこの
話を聞きたいの?」
真っ赤になったあたしはその質問に答えられなかったけど、ママは沈黙を肯定と取ったようで、話を続けた。
「あなたもそろそろ年頃だものね。少しはこういうことを知っておいたほうがいいかもしれないわ。誘惑といっても、実際は綿密に練られた作戦なのよ。まず最
初にママがしたことは、パパの近くでくすくす笑うこと。それに偶然を装って肩や腕を触れさせるの、何気ない会話の最中なんかにね。季節がたまたま真夏だっ
たから、パパは時々目のやり場に困っていたみたいだったわ。……そんな顔しないの、アスカ。ママは自分が綺麗だということをよく知っていたのよ。それに
びっくりするくらい効果があるの。実際とても面白かったわ。それから
頻繁に思わせぶりな眼差
しを向けるのも忘れなかった。もちろん、作戦とは関係なしにママはいつだってパパのことを見ていたかったんだけど、この場合大事なのは、相手と目が合う
か合わないかというところで視線を逸らすこと。こういうことを繰り返して、わたしの存在をあの人の意識に植え付けていったのよ。回りくどいようだけど、長
い
目で見るとこういう段階を踏まえておいたほうがいいの」
「それからどうしたの?」
いつの間にかあたしはママの話に引き込まれていた。先を促すあたしの質問にママは肩を竦めてそっけなく答えた。
「そのあとは無視したの。あなたのことなんて鼻にも引っかけてませんって顔をしながら、いつもパパのそばにいるようにしたのよ。パパにはわたしから目を離
して余計な気を散らす暇を与えたくなかった。だから、常にパパの見えるところにいることが大事だったの。ママが他の男の子たちと楽しく会話しながら笑って
いるのを見たパパが傷つけられたような険しい表情を浮かべるのを横目で確認しては、そのたびに深い満足を覚えたわ。パパをそんな風に傷つけたことには心が
痛んだけど、
何といっても自分の作戦が上手く運んでいることが確認できたんだから」
「パパ、かわいそう」
あたしは思わず同情の言葉を呟いていた。
「本当に」
ママも真顔であたしの呟きに頷いてみせた――まったくとんでもない人だと思わない?
「ま、それはともかく、あの人の心を充分に捉えたことが分かると、次の行動に出たわ。本当はもう少し時間をかけていたかったんだけど、急がなければならな
い理由があったから仕方がないわね。そこでパパと二人きりになる機会を作ることにしたの。実際には、ママの買い物に付
き合ってくれるように頼んだんだったわ」
「それってデートっていうこと?」
この質問にママは少し首をかしげて考えるような声で答えた。
「そこは微妙ね。ママはデートという言葉は一言も口にしなかった。でもパパはデートだと考えたはずよ……少なくともその可能性に頭を巡らせたことは間違い
ないわね。そして『買い物』はとっても楽しかった。ママはそれまでの冷たい態度なんてまるでなかったかのように親しみを込めてパパに接し
たし、あの人はどうやらその事実に多少混乱しつつも、有頂天になったみたいだったわ。そのあとはお食事をして、家まで送ってもらったの。別れる前にパパか
ら次のデートを申し出てくれた。正式なデートをね。もちろんママはにっこり笑顔を浮かべて、喜んでその申し出を受け入れたわ」
「ああ、パパったら自分から罠に飛び込んでいったのね」
「それで幸せになれるなら、何の問題もないんじゃない?」
そう言って、ママは美味しそうにコーヒーを飲んだ。
ママの言葉をよくよく考えてから、あたしは噴き出してしまった。パパには心から同情するけど、どうしたってあたしにはママの考え方のほうが魅力的だっ
た。
「それからは時間さえあればわたしたちは頻繁にデートするようになったわ。それができない時でも、大学では始終ママとパパは一緒にいたわね。そうやってお
互いのことをよりよく知ろうとしていたのよ。もちろん、ただ単に一緒にいるのが心地よかったということもあるけど。パパに惹かれ
ていた周りの女の子たちもすぐにわたしたちのことに気付いたけど、もう手遅れだった。このころにはもうすっかりママはパパをとりこにしていたから。彼女た
ちの顔に
絶望の表情が浮かぶたびにたまらない気分になったわ。勝利の快感ってやつね」
「残酷ね、ママ」
「ええ、いつもベストを尽くすようにしてるの」
正面を向いて背筋を伸ばし、澄ました顔でママは答えた。それからくちびるの端をにやりと持ち上げ、横目でこちらを見た。
「結婚は二十四歳の時よね?」
「そうよ。付き合いを深めていくと、ママたちはもう離れ離れでは生きていけないと本当に考えるようになったの……といっても、ママには最初からそれが分
かってたけどね。それにあの人の子どもを産みたかったの。つまり、あなたのことよ。本当はわたしが大学を卒業したらすぐにでもしたかったんだけど、パパの
ほうで国籍
や永住のことなんかで家族と色々揉めてね。ママはパパと
結婚でき
るならアメリカに移住してもいいって言ったのよ。でも、あの人のほうがどうしても日本を離れたくなかったみたい。説得に時間はかかったけど、最後には向こ
うの家族もパパの意思が固いことを知って許してくれたから、それでやっと結婚することができたというわけ。駆け落ちというのは一見ロマンチックに思えるけ
ど、実際にはそんなにいいものじゃないわ。やっぱりできることなら結婚は愛する家族に祝福されてすべきものだと思う」
「あたし、ママたちが日本で結婚してくれてよかった」
「あら、そう? それはどうしてかしらね?」
面白がるような表情を浮かべたママは、明らかにその答えが分かっているという声色であたしに言った。あたしは答える代わりにかすかに顔を赤くして、シン
ジの家の方向へ一瞬だけ視線を向けた。
「プロポーズの言葉は何だったの?」
くすくす笑っているママにあたしは早口で質問した。
「それは秘密よ」
「ええ、どうして」
「パパのプロポーズの言葉はママだけのものだからよ。いくら可愛いアスカでも教えることはできないわ」
「でも、知りたいのよ」
食い下がるあたしのくちびるを人差し指で押さえたママは穏やかに諭した。
「あなたにもあなただけのふさわしいプロポーズの言葉があるはずよ。いずれきっと。それを心待ちになさい」
「そんなのいつのことになるか分からないじゃない」
思わず拗ねたような口調になってしまい、あたしはすぐに後悔した。でも、ママはそれだけで何もかも分かってしまったみたいだった。
「シンジくんと上手くいってないの?」
ママの直截的な訊き方にあたしは少しひるんだ。ママに隠し事ができると思ったことはないけれど、自分の恋心をプラカードにして常に掲げているつもりはな
い。こういう風にずばりと指摘されると、あたしだって恥ずかしいのだ。それにしても、ママたヒカリが時々気味が悪いくらい鋭いことがあるのは、もしかして
あたしがちょろすぎるせいなのかしら。そういえばシンジとババ抜きしても必ず負けるのよね。そんなに顔に出てるの?
あたしはママの質問にためらいがちに答えた。
「別にそういうんじゃないけど……」
「けど?」
「最近、人前であたしといると居心地が悪いみたい。それであたしを避けようとしてるわ」
「まあ、どうしてかしら」
ママの言葉はどこか間延びして聞こえ、あたしはそれについムカッと来た。
「そんなのこっちが知りたいわよ」
「大声出さないの。まあ、思春期の男の子はそんなものよ。気にすることないわ」
「それだけとは思えないわ」
「どういうこと?」
あたしは少しためらってから、急に異性を惹き付けるようになったあたしに気後れしたシンジが離れて行こうとしているという自らの推測を説明した。
「あたしはちゃんと断ってるのよ。シンジだってそれを知ってるのに」
彼の態度に納得がいかないあたしは吐き捨てるように言った。
大体、普通はこういう場合、他の男に取られないよう何か行動に出たりするものなのではないだろうか。交際の申し出を受けるあたしを目の当たりにしなが
ら、嫉妬するでもなく、ただ暗い表情をして黙っているシンジの態度にあたしは傷つけられていた。
「なぜアスカが他の男の子との交際を断るのか、シンジくんは知っているの?」
「知らないはずないわ」
「ちゃんと伝えたの?」
「それは……」
ママの指摘にあたしは口ごもった。
直接口で言わなくても通じているはず、という思いに甘えていることは確かに否めない。
そんなあたしを見たママは頷いた。
「たぶんその辺りにも問題があるのね。理由はともかく、シンジくんはこれまでの態度を変えたのよ。だったらあなたもそれに合わせて対応を変えなくちゃ」
「でも、どんな風に?」
途方に暮れて訊ねると、ママはきっぱりした声で答えた。
「それはアスカが自分で考えなさい。シンジくんのことが本当に好きなら、何か思いつくはずよ」
それから、ママは思わせぶりな眼差しであたしを見て笑い始めた。
「何なの、ママ?」
「ちょっとね。アスカもそういう年頃なんだなって思ったのよ。ママは歳を取るばっかりなのに、若いあなたがうらやましいわ」
「これでもあたしは結構悩んでるんだけど」
思わずしかめ面になって言い返すと、しわの寄った眉間をママが指先でつついた。
「駄目よ、そんな顔しては。女の子はにっこり笑わなくちゃ」
「それであいつがこっちを振り向いてくれるなら、いくらでも笑うわよ」
「もちろん振り向くに決まってるわ。こんなに可愛らしいんだもの」
「どうかしら」
何しろシンジは寝起きにあたしの顔を見て悲鳴を上げたのだ。あの事件(事件というほか呼びようがあって?)は少なからず自らの容姿に対する自信を喪失さ
せていた。
「自信を持ちなさいな。アスカがママとパパのいいとこどりしてくれて、本当によかったわ」
「それはつまり、自分たちの顔がいいって自慢してるの?」
「あら、そんなこと言ったかしら?」
とぼけた顔でそう答えてから、ママはこらえきれなくなったように噴き出してあたしを抱き締めた。
するとそこへお風呂から上がってリビングにやって来たパパの声が聞こえてきた。
「何だい、二人とも。楽しそうだね」
ソファの脇に立つパジャマを着た大男を見上げて、ママは茶化すように言った。
「パパも交ぜて欲しい?」
ところが、真正直なパパは、その言葉をからかいではなく素直に受け取り、いかつい顔をほころばせた。
「え、いいの?」
何しろ奥さんであるママはもちろんなこと、娘のあたしのことも大大だ〜い好きなパパが、スキンシップの機会を見逃すはずがない。ママの言葉にいそいそと
あ
たしを真ん中に挟んで、
仲良くおしくらまんじゅうを始めてしまいそうなパパの様子だったので、あたしは肩に回されたママの腕をよいしょと持ち上げて抜け出すと、さっさと立ち上
がって言った。
「いちゃいちゃしたいならパパとママお二人でどうぞ」
「あらら。ふられちゃったわね、パパ」
「がーん」
わざとらしく胸を押さえてうなだれたパパを見て、ママはびっくりするくらい優しい顔で付け加えた。
「ほらほら、可愛いアスカはいなくなっちゃったけど、わたしの隣なら空いてるから、もしも座りたかったら構わなくてよ」
ぽんぽんと自分の隣を叩くママの言葉に従って、しょげていたパパは照れ臭そうに笑ってその場所へ腰を下ろした。二人はぴったりと密着して座り、ごく自然
に腕を組んで居心地よさそうに微笑んだ。
まったくやってられないわ。いちゃいちゃするのはあたしがいないところでしてよね、もう。
ラブラブな両親のやり取りに胸やけを起こしそうになったあたしは、腰に手を当ててかぶりを振りながらキッチンへ向かい、パパの
分のコーヒーがまだ冷めてないことを確認して、振り返って大声で訊ねた。
「パパ。コーヒーいる?」
「ああ、ありがとう。砂糖とミルクも頼むよ」
甘党のパパは砂糖とミルクがないとコーヒーが飲めない。甘くしたコーヒーをパパに差し出してから、あたしは部屋に戻るために自分のマグカップを持ち上げ
た。
「ああそうだ。さっきの話だけどね、アスカ」
立ち去りかけたあたしに向かって、急に思い出したみたいにママは言った。
「あなたなら上手くやれるわよ。ママの娘だもの」
「そうならいいけど」
あたしはやや疑わしい調子で返事をした。
「何の話?」
経緯を知らないパパは不思議そうにママとあたしの顔を見た。
もちろん、あたしはパパには説明するつもりはなかった。恥ずかしいし、パパにつむじを曲げられても困るからだ。隣人の息子のことも可愛がっているとはい
え、溺愛する娘の恋心を知って、パパが心穏やかでいられる保証はない。
ママもあっさりした口調で、パパの疑問をはぐらかした。
「アスカが自分は不細工じゃないかって気になるんですって」
「そんな馬鹿なことあるわけないじゃないか。アスカは天使だよ」
「もうパパったら変なこと言わないでよ、恥ずかしい」
真顔で天使とか言い始めたどうしようもないパパに向かって、あたしはぴしゃりと言った。パパから可愛いとか天使とか言われても、いまいちピンと来ない。
こういう風に言ってくれるのがシ
ンジならよかったのに。
「恥ずかしくなんかないよ、アスカ。いいかい、パパは真剣にだね……」
「はいはい。そこまでそこまで。いいからお部屋に戻りなさい、アスカ。パパは放っておいていいから。あ、そうそう。今度の土曜はママとお出かけしましょ」
手を打ち合わせながらパパの言葉を遮ってママが言った。パパは傷ついた表情をしていたけど、あえてあたしは知らん顔をした。
「いいけど」
「二人で出かけるのか?」
うらやましそうに口を挟んだパパにママはあでやかに笑いかけた。
「もちろん、あなたも一緒に。三人でデートよ」
「そうか。楽しみだね」
二人は笑った顔を見合わせて、当たり前のようにキスをした。あたしは天井を見上げてかぶりを振ってから、咳払いをしてママに訊ねた。
「で、何しに出かけるの」
「ああ、あなた、最近ブラが少しきついんでしょう。ママが一緒に見立ててあげるから」
と、まだパパとほっぺたをくっつけ合っているママはとても楽しそうに言った。この人はあたしを着せ替え人形にできるチャンスを可能な限りぎりぎりまで手
放すつもりはないのだ。
それ自体はまあよしとして、最近胸がまた膨らんだことも事実ではある。でもパパにはちょっと聞かれたくない話題だった。
「ちょっと、パパの前でやめてよ」
顔を赤くしてあたしが視線を向けると、あたしたちのやり取りを聞いたパパが、目を瞑って大きな手のひらで顔の上半分を押さえた。
「オゥ……」
「この子も年頃なのよ、パパ」
そう言ってママがうなだれたパパの肩へ慰めるように手を置いた。
「好きです惣流先輩付き合ってください!」
「嫌」
おそらくはなけなしの勇気を振り絞って、一息に告白の台詞を言い放った下級生に対して、あたしは間髪入れず一語のもとに斬って捨てた。
ショックのために蒼白になって震えている名前も知らない男の子には気の毒だけど、気を持たせるような素振りを見せると、あとあと厄介なことになりかねな
い
ので、あたしは告白を受けるたびに同じ対応を心がけている。迷いなく簡潔明瞭に断るのだ。
肩を落としてすごすご立ち去る下級生の背中を見送るのもそこそこに、あたしは下駄箱から取り出した上履きに履き替えた。すでにこれまで何人もの告白を
断ってきているのに、どうしていまだに挑戦者が途絶えないのだろう。あたしが誰の告白であろうと拒絶するという事実はそれなりに広まっているはずなのに。
自分なら大丈夫とでも思うのだろうか。
もちろん、あたしが絶対に拒まない相手が一人だけいるのだけど、こういう時、肝心のその人は何も言ってくれない。
「早く教室に行きましょ、シンジ」
ため息を吐き出したあたしは、一緒に登校してきてそばで一部始終を見ていたシンジへ声をかけた。
「う、うん。そうだね」
いつものようにシンジは沈んだ表情を浮かべて返事をした。
「どうしたのよ?」
「いや、何でも。何でもないよ」
「変なの」
あたしたちはいつも一緒に登校している。家が隣同士なのだし、幼稚園のころからずっと続けてきた習慣でもある。それに何といっても、あたしがそうしたい
からだ。大好きな人と一緒に登校できる機会をみすみす手放すつもりはない。
本当なら、手に手を取って学校までの道のりを歩きたいくらいに思う。でも、あいにくと
今は幼いころみたいに、気軽に手を繋ぐのが難しくなってしまった。時々、隣を歩くシンジの手をさりげなく取ろうと試みるのだけど、心臓が壊れたみたいに
跳
ね回り、顔が燃えるように熱くなって、いつも失敗してしまう。別にシンジに触るのが恥ずかしいわけではないのに、意識すると駄目なのだ。
シンジはどんな風に感じているのだろう? 無邪気なころなら確認するまでもなく答えは分かっていた。あたしたちの世界は実に単純な喜びで満たされてい
た。でも、今はもう違う。成長するごとに世界は複雑さを増し、今では手を繋ぐというだけの行為に何通りもの意味や感情がくっ付いて来る。
人気のない場所へ呼び出すだけの気が回らない男子の告白をシンジが目撃するのは珍しいことじゃない。何回かの気まずい経験のあと、あたしへの告白目的で
男子が近づいてきたのを見たシンジがその場からそっと立ち去ろうとしたことがあった。当然あたしが引き留めたのは言うまでもない。「すぐに済むから、そこ
で
待ってて」という言葉に込められた意味に気付いた見知らぬ男子は顔をこわばらせたけど、知ったことではなかった。シンジを引き留めるためなら、あたしは太
陽にだって喧嘩を売るだろう。結局、シンジは少なくとも静かに立ち去るという行動でいらない気づかいを表すことはやめた。しかし、あたしが他の男子から交
際を申し込まれた事実に対して彼が意見を述べたことはこれまで一度もない。
シンジが態度を変えたなら、あたしもやり方を変えるべきだ、というママの言葉が脳裏に甦る。でも、だからといってどうすればいいのか、見当もつかない。
素直な言葉でシンジに気持ちを伝えればいいじゃないかって? でもそういうことじゃないのよ。あたしが問題にしているのは、「シンジが好きといってくれ
ないこと」なのだから。あたしが言うとか言わないとかそれは関係ないのよ。
ようするに、あたしは最近のシンジの態度に腹を立てて拗ねているの。
何よ、文句ある? あたしにはあいつに拗ねてみせる理由が世界で誰よりあるんだから。好きなだけ拗ねさせてもらうわ。
というわけで、あたしは今もシンジの態度が気に入らなかったし、文句をつけたかった。大体、あたしが他の男の子に言い寄られるのを目の前にしても嫉妬す
るそぶりさえ見せないなんて信じられない。
あたしの場合だと、それはもう激しく機嫌が悪くなる。たとえばシンジと可愛い女子が楽しそうに話しているのを目撃したりすると、それだけで気分
は地の底へ急降下だ。できるなら相手の女子に殴りかかって、校舎の窓から投げ捨ててやりたいくらいだけど、実際にはそんなひどい暴力を振るうわけないの
で、
代わりに誰かに八つ当たりしたり自棄食いしたりする。そのあとでシンジの顔をじっと眺めたり取り留めのない会話をしたりすると、不思議と機嫌はもとに戻
る。とにかく、あたしにとって嫉妬とはこのようなものだ。
でも、シンジは嫉妬しない。少なくともしているようには見えない。どれほど男の子たちが言い寄ってこようが、あたしは変わらないのに。これまでと変わら
ずシンジを愛しているのに。
それとも、シンジは違うというのだろうか。
自分の考えに思わず涙がこみ上げてきそうになり、あたしはそれを誤魔化すために隣を歩くシンジの背中を叩いた。
「いてっ。何だよ」
急に叩かれた理由が分からないという表情でシンジがこちらを見た。その顔を見て、あたしはもう一度シンジの背中をグーでぽかっとやった。
「うるさいわね。黙って叩かれなさいよ」
「機嫌悪いね」
シンジは慎重に言った。怒っている時のあたしを下手につつくと手に負えなくなることがあるのを経験上知っているからだろう。
「朝から嫌なことがあったからよ。それなのに幼なじみは気付いてもくれないんだから」
あたしの言葉にシンジはぎくりという顔をした。それを見てあたしはやっぱり、と思った。シンジはわざとあのような態度を取っているのだ。
「彼も悪気があるわけじゃないんだよ」
苛立っているあたしをなだめようとするシンジの言葉は、しかし完全に逆効果だった。
「へえ? 面白いこと言うのね」
あたしは目を吊り上げて隣を歩く幼なじみをにらみつけた。
「名前も知らない男子から告白されるのをいつもあたしが楽しんでるとでも思ってるの?」
「ちゃんと名乗ってたよ」
シンジはもぐもぐ言った。
それが火に油を注いだのは言うまでもない。もちろん、それに対してあたしは牙をむき出して噛みついた。……断っておくけど比喩的表現よ。
「うるさいわね! 名乗ったから何だっていうのよ、このバカ! それじゃあんたはいきなり現れた知らない女から『自分の名前は○○です。付き合って
下さい』って言われたら付き合っちゃうの?
そいつがどんな奴かも分からないのに。ひょっとするとすごく危険な人間かもしれないのよ。刃物隠し持ってるとか、とんでもない変態だとか。なのにあんた
は、付き合ってって言われただけで、ほいほい付き合っちゃうわけ? それとも何、このあたしがどんなひどい目に遭わされたって構わないって言うの?」
「そうは言ってないけど……」
あたしの剣幕にシンジはたじたじになって言葉を濁した。
「ほら見なさい。あたしの言うことは間違ってないでしょ。どうせさっきの男子だって、あたしの顔だけ見て好きとかどうとか言ってるだけなのよ。あたしはそ
ん
な奴と付き合ったりするつもりは、これっぽっちもないから」
あんた以外とは誰とも付き合うつもりはないってことが、どうして分からないのよバカ、とあたしは声に出さずに付け加えた。本当は、告白相手があたしの外
見だ
けを見ていようがどうだろうが関係
ない。あたしはシンジと付き合いたいのであって、たとえどんなにうっとりするような相手であったとしても、それがシンジでないならあたしにとって意味など
な
いのだ。
たぶん、あたしの執着は愚かしくもあるのだろう。でも、この気持ちの純粋さが世界中の何にも負けないことについては命を懸けてもいい。
「でも、ああいう連中が外見だけを見てるとは限らないよ」
「そうに決まってるわ」
告白してくる連中をかばう無神経なシンジにいらいらしながらあたしは言い返した。
「そんなことないよ。アスカにはいいところが一杯あるもの。アスカが自分で思ってるよりずっとたくさん」
「な、何言ってんのよ、バカシンジ!」
シンジの言葉にぎょっとして、あたしは思わず悲鳴を上げた。鈍感で無神経なくせに、こういう不意打ちをするから困る。
真っ赤になった顔を隠すために、早足になってシンジの先に立ち、そのまま教室まで彼と言葉を交わすことはなかった。
あたしのいいところなんて、シンジだ
けが
知っていてくれたらそれでいいのに。
一年生の時はシンジとは別々のクラスだった。そのせいでどれほどあたしが落胆したか、言葉ではとても言い表せない。といっても、あたしはシンジがいなけ
れ
ば何もできない女の子というわけではない。もちろん、彼が本当にいなくなってしまったらあたしは死んじゃうけど、何でもかんでも彼に助けてもらわ
なくてはならないほどトロい女じゃない。むしろシンジはただあたしのそばにいてくれるだけでいいの。まあ、あいつがし
たい
ならキ、キスとかさせてあげてもいいけど。……ごめんなさい、今のは強がりよ。シンジがキスしてくれるなら、あたし何でもするわ。
それはともかく、二年生に進級した始業式の日に、掲示板でクラス分けを確認して、自分とシンジの名前が同じクラスに記載されているのを見つけた時、あ
たし
は本当に飛び上がって喜んだ。始業式が終わって帰宅する途中で、嫌がるシンジをなかば強引におしゃれなカフェに連れ込み、彼に大きなパフェを奢らせ、あた
しは
彼が好きなチーズケーキを奢ってやった。家に帰って自分の部屋で制服を脱
ぎ捨てて飛び跳ね、ベッドにダイヴしてバタ足をし、小さなころに彼から誕生日プレゼントにもらった特大のおサルのぬいぐるみを抱き締めてキスをした。夕飯
の準備
をするママに背後から抱きついてキスをし、仕事から帰ってきたパパにもやはり抱きついてキスをした。そして寝る少し前カーテンを開いて、まだ電気がついて
いる向かいの窓をじっと眺め、あたしは愛する幼なじみに見えないキスを贈った。その夜はとても幸せな夢を見られた。どんな夢かはヒ・ミ・ツ。
言うまでもなく、二年生であたしとシンジが一緒のクラスになれたのは偶然なんかじゃない。ひとえにあたしの願いの強さのおかげだ。そうに決まっている。
あたしの席の隣列の三人ほど前の席にシンジは座っている。だから、授業中には思う存分彼のことを眺めていられる。一年生のころにはなかった至福の時間
だ。当
然優等生のあたしは授業に集中することも忘れない。彼の態度があたしの思うようにならないことを除けば、おおむねあたしの中学校二年目の生活は充実してい
る。
ところで、引っ込み思案な性格だからあまり目立たないけど、実はシンジは美少年である。世界一のシンジマニアであるあたしが、偏見を交えず断言する。シ
ンジ
は
うっとりするくらい格好良くて、さらに可愛い。それに優しいし、いざという時は頼りになるし、頭もいいし、声も素敵だし、いい匂いがするし、チェロだって
弾けるし、卵焼きを作るのも上手
い。他にもシンジ
のいいところは、たくさんたくさんある。ありすぎて全部数え上げていたらおばあちゃんになってもまだ終わらないくらいだ。
本当はその事実はあたし以外の人間には隠していたい。でも、中にはそれに気づいてしまう目端の利く女の子もいる。たとえば、同じクラスの霧島マナ
という女子は、もう一年生の時からシンジの魅力に気づいてその虜になっている。それについてはさすがあたしのシンジと誇らしい気持ちがある反面、まだ恋人
未
満の彼を付け狙われて困ってしまう。
本当に困ってしまうのだ。現状は飢えたライオンの頭上に血のしたたる極上の生肉をぶら下げているに等しい。涎を垂らさんばかりのライオンがひとたび決心
を固めてしまえば、ずらりと牙の並んだ口に哀れ一呑みにされてしまう。そうなってしまう前に極上の美味しい生肉……じゃなかった、シンジが一体誰のもので
あ
る
かをはっきりさせなければならない。
「バカシンジの奴……、何楽しそうに笑ってるのよ」
昼休憩に二人の友達と一緒に固まってお昼ごはんを食べるシンジのすぐ隣に女の子のグループが集まっていて、そこから霧島マナが何かとシンジにちょっかい
をか
けている様子を教室の後ろのほうからあたしは監視していた。
マナは背はあたしとほとんど変わらず女子の中では高いほうで、髪はすっきりしたショートカットにしていて、認めるのはしゃくだけど相当な美少女だ。いつ
も明るく快活で、実際マナに好かれて悪い気がする男の子はいないだろう。彼女の唯一の欠点といえば、あたしのシンジに目を付けているということだけ
だ。
「霧島さんって面白い子だものね」
一緒にお弁当を食べているヒカリが、他人事みたいにそっけなく言った。何よ、面白い女の子なら誰でもいいっていうの?
「マナなんかよりあたしのほうが面白いわよ」
「張り合わないでよアスカ……」
ちょっぴり呆れ気味のヒカリの言葉を聞き流し、あたしは監視活動を続けることにした。シンジと一緒にいるのは鈴原トウジと相田ケンスケという。鈴原のほ
うは短髪で関西弁が特徴的な活発な男子。相田のほうは小柄で眼鏡をかけたオタク趣味の男子だ。シンジよりもノリがよく話も上手いこの二人が、隣の女子グ
ルー
プと主にやり合っている。そして、この二人より一歩引いた位置にいるシンジに狙いを定めて、さっきからマナが盛んに気を引こうとしている。
こざかしい女
め。あたしのシンジに触るんじゃないわよ。
「お箸を噛むのはやめなさい、アスカ」
「もうっ。ママみたいなこと言わないで。それにヒカリこそのん気に構えてていいの? ムーちゃんと鈴原がさっきから妙に仲よさそうに見えるけど」
あたしが指摘するとヒカリは目に見えて動揺した。でも、彼女はあくまで冷静を装い澄まして言った。
「うべ、別にわたしにはそんなこと関係ないもん。ムーちゃんと鈴原は小学校のころから友達で、仲がいいのは当然だし」
「ふーん? あ、でもそういえば鈴原ってちっちゃくて女の子らしい可愛い子が好きらしいわよ」
ムーちゃんこと沖田ムツミはクラスで一番小さな女子で、しばしばクラスみんなの妹みたいな扱いをされている。一方鈴原には一回り年下の妹がいて、いつも
は硬派ぶって
いるくせに、
その妹
の前ではでれでれの軟体生物になるとシンジに聞いたことがある。奴はシスコンで年下趣味なのだ。
強張った表情のヒカリは、お箸でそぼろご飯を掴んで口に運ぼうとした。でも、お箸を持つ手がぷるぷる震えて、口まで到達する前に、そぼろがぼろぼろ零れ
落ちて
しまっている。
もちろん、親友の恋心など承知の上だ。ふっ、たとえ親友でもやられたらやり返すのがアスカ様というものよ。
「大丈夫、ヒカリ?」
あたしは無邪気な表情で彼女に訊ねた。
「時々アスカのことが憎らしくてしょうがなくなるわ」
「えへへ、でもあたしのことが好きなんでしょ?」
「ふんっ。アスカ意地悪だから、もうわたしのお弁当あげないっ」
「わっ、うそうそ。もう意地悪言わないから許して許して。お願いでごじゃりまするぅ」
そっぽを向いたヒカリに、あたしは手を合わせ脚をじたばたさせながら、拝み倒してご機嫌を取った。ヒカリのお母さんが作るお弁当はとっても美味しいの
だ。今
日もからあげとトレードで
もらったミニハンバーグの美味しさに、ほっぺたがとろける心地がした。まさにヒカリのお母さんの料理は世界一……いや、世界二かな。一応うちのママが一
位っ
てことにしときま
しょ。じゃないと角を生やしてかんかんになりそうだから。
「もう意地悪言わない?」
「言わない。ムーちゃんのことはそれほど心配しなくていいわよ。あの子、B組の近藤のことが好きなんだって」
「それ本当、アスカ?」
不安げな表情をしていたヒカリが期待を込めてあたしに訊いた。あたしはそれに力強く頷いてあげた。
「ほんとにほんと。ごめんね、ヒカリ」
「そうなんだ……よかった」
「でも、マナには死んでもらわなきゃね」
「さらっと怖いこと言わないでちょうだいよ」
リンカさまより幼馴染で気になる二人なお話をいただきました。
ちょっとヤンデれとか、ストーカーちっくになったとか想像してしまったんでしょうかシンジは(笑
続きの気になるお話を投稿してくださったリンカさんにぜひ感想メールをお送りしましょう!