knock!knock!knock!


rinker





2.


「えっ、いいよう」

「駄目! あんたにはあたしに協力する義務があるの」

「そんな義務、いつ決まったんだよ」

「産まれた時によ!」

 毎朝行きは一緒のあたしとシンジだけど、帰りは必ずしもそうではない。
 でも、今日はあたしから一緒に帰ろうと声をかけた。最近では誘ったとしても、何かと理由をつけて断られてしまうことも多いのだけど、今日のシンジは意外 にすんなり承諾してくれた。こちらが思いつめた顔をしていたのも原因かもしれない。実際には、考えていることがあって緊張していたので、そんな表情になっ てしまったのだけど。
 あたしが今日、どうしてもシンジと一緒に帰りたかったのには、わけがあった。シンジを繋ぎとめ、あわよくばあたしたちの関係を進める足がかりにしよ うという壮大な計画を実現するための、第一歩を踏み出そうとしていたのだ。あたしの緊張はそのためだった。
 シンジは流されやすい。意志薄弱というのではないけど、周りのほうが声が大きいと一歩引いてしまうのだ。
 一方、そんなシンジを付け狙う悪魔のようなマナはといえ ば、明るくてハキハキしていて積極的で、まさに彼を強引に落とすにはうってつけの性格をしている。
 しかも、正直にいって同い年でマナほどの美少女をあたし は他に見たことがない。いまいましくとも認めざるを得ない事実だ。一応あたしも美少女ってことで通っているけど、彼女のほうが好みだという人もたくさんい るだろう。ま、別にあたしはシンジだけが見ていてくれればそれで……、って、いやいや、話が逸れちゃったじゃないのよ、バカ。
 つまり、あのマナに詰め寄られてシンジがいつまでものほほんとしていられるとは限らないということだ。とびっきりの美少女からそんな風にあからさま な好意を寄せられた結果、シンジがころっとなびいてしまう危険はかなりあるとあたしは踏んでいる。
 それならあたしの好意の示し方はあからさまじゃなかったのか、と疑問に思われるかもしれない。でも、長年に渡るあたしたちのお互いに対する好意というも のは、いわゆる恋愛という形で表されるものではなかった。少なくとも表向きはそうだ。実際には恋心だったというか、むしろそんな浅いものではなくて、全人 生 かけた壮大な愛なのだけど、あたしのほうにはその自覚がばっちりあるのに、シンジのほうはどうもそこのところが定かではない。
 それなら一つ目を覚まさせてやろうじゃないのよ。
 このアスカ様の名にかけて、バカシンジに十四年分の降り積もった愛の重さを気づかせてやる。
 ということで、まず手始めに手作り弁当を食べさせてあげようとあたしは考えた。どういうことかというと、いつもお昼はおばさんの作ったお弁当を食べてい るシンジが、今日に限って友達の相田と一緒に購買のパンを買っていたのを見たのだ。食べる時はシンジと一緒ではなかったので、食べ終わったあとさりげなく 彼に近づいてその理由を問いただしたら、昨日おばさんが誤って手首をひねって痛めてしまったので、しばらくはお弁当が作れないのだということだった。
 あたしはこのチャンスに飛びついた。利き腕に怪我をしたおばさんには申し訳ないけど、感謝したいくらいだ。これまでにあたしがシンジに料理を振る舞った 機会はほとんどなかった――無邪気な幼児期のおままごとで泥団子を振る舞ったことを除いてしまえば。
 古臭い偏見の多くは唾棄した上に靴の裏でぺしゃんこにすべきものだけれど、時には非常に役立つこともある。料理上手な女の子というのは、料理の一切をこ れ幸いと男から押し付けられてしまうという不都合があるにせよ、駆け引きの有利な武器となることは疑いようがない。何しろ親友のヒカリのおばあちゃんは、 意中の男は美味しい手料理で落とすもの、と孫に言ったくらいだから。いやまあ、孫に料理を教える際に興味を引くため言ったことだと思うけどね。
 ともかく、ヒカリと一緒にお弁当を食べている最中これを思いついた時には、こみ上げる笑いを止められなかった。こんないい作戦を思いつくなんて、さすが あたしは天才よね!
 で、あたしが明日からシンジのお弁当を作ってあげるという提案へのシンジの答えが「えっ、いいよう」だった。んもう、そんな可愛く言ったって駄目なんだ から。絶対にシンジのお弁当はあたしが作るんだからね。

「さっそく明日からよ。おばさんに言っといてね。怪我が治るまであたしが代わりにお弁当を作ってあげるからって」

「別にいいよ、そんなことしなくても。大体アスカ、料理下手くそじゃないか。お弁当なんて作れるわけないよ」

 シンジは唇を尖らせて反論した。でも、あたしには彼の言うことなど最初からお見通しなのだ。

「あんたバカぁ? だから練習するんでしょ。毎日ちゃんと感想を聞かせてちょうだいね。じゃないと練習台になってもらう意味がないわ」

 不自然でない口実を用意しつつ、お弁当を与えっ放しにせずちゃんとコミュニケーションを持ち、さらにあたしの料理の腕も向上する。その上、あたしのお弁 当を毎日シンジが食べている姿をマナを始めとしてクラスメートたちに見せつけることで、あたしたちの関係が深いものだというアピールまでできる。
 どうかしら、完璧なこの作戦。もう成功は決まったようなものね。
 繰り返しになるけど、シンジは他人に流されやすい。そういう奴には既成事実を積み上げてやるのが一番だわ。気づいた時には身動きが取れなくなっているっ て寸法よ。
 名付けて愛の兵糧攻め(どどーん!)。
 んー、なんか可愛くないけど、まいっか。

「絶対だからね。約束したからね!」

「約束なんてしてないって言ってもどうせ無駄なんだろ。いつもとばっちりを受けるのは僕なんだから。明日から胃薬持ってこようっと」

 わざとらしく沈痛な面持ちを作って呟いたシンジにかちんと来たあたしは、飛びかかってヘッドロックを決めてやった。

「こんにゃろ。せっかく可愛いアスカちゃんがあんたのために美味しいお弁当を作ってやるって言ってるのにその態度はなぁに、バカシンジ?」

「うわっ、やめてよ、アスカ。どうせ美味しいお弁当なんて作れないくせに」

「言ったわねぇ! 見てなさいよ。すぐに上達して、あんたんとこのおばさんより美味しいのを作ってやるんだから。練習台は素直に感謝してりゃいいのよ」

 ぐいぐい絞まるヘッドロックに抵抗して、シンジがあたしの腰を手で掴んだ。途端にぞくぞくと鳥肌が立ったあたしは、変な悲鳴を上げて彼から飛びのいて逃 げ た。

「へへへ、変なとこ触らないでよ、エッチ! チカン! ヘンタイ!」

「ななな、何言ってるんだよ。大体アスカが乱暴するからだろ!」

 シンジの顔は耳まで真っ赤だった。たぶん、あたしの顔もそう変わらないだろう。

「ぬぁーんですってぇ? シンジのくせに生意気!」

「そっちこそ!」

 そこからの帰り道は、下らない言い争いと追いかけっこに費やされた。ようやく家に着いたころにはお互いに息を切らしていたけど、別れ際の表情はとびっき り 明るい笑顔になっていた。
 ああもう、楽しい! あたしはすこぶるいい気分を味わいながら玄関を開けた。

「ただいまー!」

 鼻歌を口ずさみながら自分の部屋でカバンを下ろし、服を着替えて台所に飲み物を取りに行ったら、夕飯の下ごしらえに取り掛かっていたママが言った。

「ご機嫌ね。いいことでもあった?」

「ふふん、ちょっとね」

 ママはこちらをちらりと見て、片眉を上げた。

「今日の夕飯作るの、あたしも手伝うわ」

「まあ、珍しいこと」

「それでね、料理の仕方を色々と教えてほしいの。明日からしばらくシンジのお弁当を作らなくちゃいけないから」

 シンジの言ったことは嘘じゃない。実際あたしは料理下手なのだ。というよりほとんどやり方を知らないといったほうがいい。ママを当てにできることは最初 から織り込み済みというわけだ。

「そういえばユイちゃんが右手をねん挫したって言ってたわね」

「そうなのよ。だからお昼ごはんを食べられないあいつのためにあたしが作ってあげなくちゃいけないの」

 大げさな同情を顔に浮かべたあたしをママはじろじろと見て、親切ごかして言った。

「それならママがアスカのと一緒に作ってあげるわよ」

「だめっ!」

 あたしは悲鳴を上げた。そんなことをされたらせっかくの思いつきが全部パーだ。しかも、ママのお弁当のほうがあたしが作るのよ り美味しいのは天地がひっくり返ったって決まり切っている。ほとんど泣き出しそうな顔で縋り付くあたしをまじまじと見たあと、しばらくの間ママは豊かな声 で笑い続けた。あたしはむ くれたけど、ママの柔らかい身体に抱きしめられると、やがて一緒になって笑い始めた。
 でも、念を押すのだけは忘れなかった。

「ちゃんと教えてね。せっかくのお昼ごはんがまずかったら、シンジがかわいそうだもの」

「いつかは上達するわよ。大丈夫」

「いつかは?」

「最初は飲み込めればよしとしなくちゃ」





 結局のところ、ママの言葉ほどひどいことにはならなかった。
 シンジはきちんと全部(一度も吐き出さずに)食べてくれたし、空のお弁当箱を返される時に美味しかったと言ってくれた。でも、あいにくと同じものが入っ たお弁当を自分もお昼に食べていたので、それほど褒められた味ではないことを知っていた。食べられないことはないけど、進んで食べたいとは思えないような 代物、 というのが正当な評価だろう。
 あたしを気遣ってくれる彼の優しさはとても(とてもとてもとても!)嬉しかった。けれどあたしは学校から帰ったあといつものように窓を越えて彼の部屋を 訪れ、断固たる態度で正直な感想を聞き出した。

「本当はあんまり……」

 申し訳なさそうに発せられたシンジの言葉を聞いたあたしは、がっかりした表情を表に出さないよう懸命に努力していた。
 あたしだって最初からそんなに上手く作れるとは思っていなかった。白状すれば、あんまりとシンジが零す代物でさえ、実はママから手助けされてようやく 作っ たものなのだ。でも、分かっていたとはいえ、シンジの喜ぶ顔が見られないのがつらかった。

「どこがいけなかったか説明してくれる? じゃないと練習にならないから」

 あたしは感情を抑え、努めてそっけない口調でシンジに訊ねた。

「うん……炒め物の野菜は火があんまり通ってなくて、汁気が多過ぎて他のおかずまでべちゃべちゃになってた。味も薄くてあんまりしなかったし。卵焼きは ちょっと焦げてて甘すぎたかな。お砂糖を入 れると焦げやすくなるって前に母さんが言ってたよ。ポテトサラダは塩コショウがきつすぎたし……、あとウィンナーも。あれ、たこさんウィンナーのつもり だったんだよね? おにぎ りは形がめちゃくちゃですごく硬かったし、一つは中の具が零れてたよ。握る時に力入れ過ぎなんじゃないかな。あ、でもプチトマトは美味しかった」

 トマトは素材まんまの味でしょうが!

「それから……あうっ!」

 あたしは思わず心の中で叫び声を上げて、シンジの頬をつまんだ。我慢我慢と抑えてはいたけれど、ぺらぺらと駄目出しを続けるシンジの無神経さに、ついに 堪忍 袋の緒 が切れて手が出てしまった。正直に打ち明けろと強情に迫ったのはこちらなので、彼からしたら理不尽極まりない話だろうけど、これくらいの乙女心は察しても らわな ければ困る。
 ……やっぱり理不尽よね。ごめんね、シンジ。でも、もうちょっとつねらせて。

「うきー! 悔しい!」

「あふは、はふぁひへっへは」

「こんのバカバカバカバカバカシンジ!」

 シンジの両頬をつまんで思う存分伸ばしたりひねったりしてから、あたしはようやく手を離してやった。彼は赤くなった頬を手で撫でさすりながらむくれた顔 であたしを睨んだ。

「何すんだよ、アスカ! そっちが言えって言ったんじゃないか」

「うるさいうるさいうるさーい! どうせあたしは料理が下手よ。でも仕方ないじゃない、初めてなんだから。それを何? 鬼の首取ったみたいにあれは駄目こ れは駄目、挙句の果てにプチトマトだけは美味しかったですって? それなら農家の人にでもお礼言えばいいじゃないのよ、このバカでドンカンのオタンコナ ス!」

 ヒステリーを起こしたあたしは手近にあったシンジの携帯電話を掴んで彼に向かって投げつけた。

「わっ! 危ないじゃないか。壊れたらどうするんだよ」

 飛んできた携帯電話をとっさに両手で受け止めたシンジはあたしを叱りつけたけど、それを無視したあたしは立ち上がって宣言した。

「明日は覚悟してなさいよ! 必ず今日よりも美味しいのを作ってあんたをぎゃふんと言わせてやるわ! 傷つけられたプライドは十倍にして返してやる んだからね! 分かったの、バカシンジ!?」

 床に座ってぽかんとこちらを見上げているシンジに向かってあたしは絆創膏が貼られた人差し指をまっすぐに突きつけた。指に切り傷を作ってまで料理す るのも全部あんたのためだってのに!

「美味しかったらぎゃふんとは言わないんじゃないかなぁ」

 あたしの人差し指を見つめながら、シンジはどこかのんびりした調子で呟いた。
 シンジのそんな態度に何だか力が抜けたあたしは、人差し指の先で彼のおでこをつついて言った。

「美味しいもの食べたらついついぎゃふんと言っちゃう秘孔を突いたっ!」

「ぎゃふんっ」

 あたしのおふざけにシンジが返したボケに思わず笑ってしまい、愛情をこめて短い黒髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「まあ、いいわ。とにかく、明日もあたしが作って来るから。期待して待ってるのよ」

 ぐちゃぐちゃになった頭を押さえたシンジは、仕方ないなぁという風に笑った。あたしの大好きな彼の笑い方だ。

「分かった。期待してる」

 彼の言葉ににっこり笑って応えると、窓に手をかけて言った。

「じゃ、あたし帰るわ。たぶん、今ごろママが夕飯の準備してるはずだし、色々教えてもらわなくちゃ」

 開け放った窓の枠に足をかけ、自分の部屋へ戻ろうとするあたしの背中に、シンジの優しい声が投げかけられた。

「今日はありがとう、アスカ。今度は指を切らないよう気を付けてね」

「……別にこれくらい平気よ」

 振り返らないままおざなりな返事を投げ返して、あたしは自分の部屋の窓枠に手と足をかけ、開けた窓から中へ飛び込んだ。
 飛び込んだ先のベッドの上で窓を閉めるために身を翻すと、こちらをまだ見ていたシンジと目が合った。口元に浮かんだ笑みとともに小さく手を振ると、シン ジも同じように応えてくれた。それを見届けてから、あたしは窓とレースのカーテンを閉め、そのままベッドにうつ伏せに倒れこんだ。

「うあうーっ」

 ふかふかしたお布団に赤くなった顔を埋めて、意味不明のうめき声を上げてあたしは身もだえした。しばらくして息が苦しくなってきたので、顔を横に向け て、大きく深呼吸をした。

「シンジ、好き。大好き」

 と心の中で呟くと、さらに顔が熱くなって、ぎゅっと目を瞑ってそれに耐えた。
 ひんやりしたお布団が火照ったほっぺたに気持ちいい。いい気分だ。シンジはやっぱりシンジのままなのだ。あたしの大好きな、優しくてちょっと鈍感な男の 子。

「お料理、練習しなくちゃ」

 今度は声に出して呟き、顔の向きを変えてまた深呼吸した。

「うーん、でも、お布団が気持ちいい」

 しばらくはそうやってぐずぐずしていたのだけど、やっと決心を固めたあたしは、一階に降りてキッチンへ向かった。
 予想どおりキッチンではエプロン姿のママが夕飯の準備を始めていた。まだ下ごしらえの段階のようだ。今日は何を作るのかしら?

「あら、降りてきたの、アスカ。さっきまで何してたの?」

 こちらに気付いたママが手を休めずに訊いてきた。

「ん……恋かな」

 あたしの答えを聞いたママは下ごしらえの手を止めて振り返り、こちらをじっと凝視してから、慎重な声であたしの名前を呼んだ。

「アスカ?」

「なあに、ママ?」

 腰の後ろで手を結んで、あたしは胸を張ってママを見た。娘の態度に後ろめたいところが見つからなかったのか、ママはあからさまに肩の力を抜いて言った。

「びっくりするような言い方をしないでちょうだい、アスカ」

「あたしが恋していることがそんなにびっくりすること?」

 あごをつんと尖らせた澄まし顔で言い返すと、ママがぴしゃりと言った。

「生意気言うんじゃないの。お願いだからパパの心臓が止まるようなことはしないでね」

「大丈夫よ、ママ。ママがそばにいればパパの心臓は止まったりしないわよ」

 安請け合いするあたしへママは疑わしそうな眼差しを向けた。

「本当にそうならいいけど。それで、恋するお嬢さん。キッチンに何かご用? もうお腹空いた?」

「ああ、そうだ。お料理を手伝いに来たの」

 あたしの言葉を聞いて、ママはしたり顔で頷いた。

「まあ、練習は必要でしょうね」

「……お弁当、あんまり美味しくなかったみたい」

「そうでしょうね」

 遠慮なく言い切るママをあたしは睨みつけた。

「ママのいじわる」

「そんな顔しないの。誰だって最初は上手くできないものよ」

「二回目なら上手くなれる?」

 期待を込めて訊くと、ママはそっけなく肩を竦めた。

「それはあなた次第よ。さ、エプロンを着けてらっしゃい。髪も結んだほうがいいわ。最初はじゃがいもの皮むきをやってちょうだい」

「えー、皮むき?」

 やってみて分かったのだけど、料理の過程に華々しい部分なんてほとんどなくて、大半は地味で細かい作業の積み重ねなのだ。皮むきも地味で面倒な作業の一 つ。はっきり言って楽しいとは思えない。

「皮むきよ。ピーラーがあるから不器用なアスカでもできるでしょう」

「包丁でだってできるもん」

 侮られて腹が立ったあたしは反発したけど、ママは断固としてその主張を退けた。

「いいえ。包丁で皮をむく練習はまた今度よ。キュウリをただ輪切りにするだけで指を切っちゃうのだから」





 前日と同じように昼休憩になるとシンジにお弁当を手渡し、あたしはヒカリと一緒にシンジたちのグループからは離れてお昼ごはんを食べた。シンジにお弁当 を渡した時に教室内に走った緊張とどよめきは決して前日に劣らないものだった。その中に綺麗な顔を強張らせたマナの姿を見つけ、少しばかり意地の悪い満足 感を覚えながら、あたしは顔を上げてまっすぐ前を見、胸を張ってゆっくりと自分の席まで戻ったのだった。
 そしてお昼ごはんのあとのトイレでのことだ。珍しいことに今はあたしのほかにはもう一人しか利用者がいない。トイレを済ませて手を洗っていると、遅れて 隣の手洗い場に立った女の子が突然話しかけてきた。

「ずいぶんわざとらしいことするんだね、アスカって」

 聞き覚えのある声に顔を上げると、鏡越しにマナの姿を見つけた。

「何の話?」

 当然何言われたのかは分かっている。あたしがとぼけると、マナはハンカチを取り出しながら小馬鹿にするように鼻で笑った。

「はっきり言っても?」

「もちろんよ、マナ」

「そう? それなら。わたし、アスカでもあんな風に必死になって努力するんだって知らなかった。あなたはもっとわがままで、世界が自分の思いどおりになっ て当たり前って考えているような子だと思っていたもの」

 恐ろしく遠慮のないマナの言葉にあたしは少なからずひるんだ。女の子の中には、いったんその気になれば相手の面前でとんでもないことを言ってしまう子が いるものだけど、どうやらマナもそうらしい。手を拭き終わってハンカチを仕舞う彼女を見て、あたしも水を止めてハンカチを取り出した。

「確かにアスカは美人で頭がよくて運動もできる。学校中の女子のだれもがアスカに憧れているし、羨んでもいる。それは認めるわよ。でも、ねえ、あなたみた いな人が重荷になる とは考えたことない? シンジくんみたいな男の子にとって、いくら幼なじみだからといっても」

「一体何が言いたいの?」

 険しい表情で正面からマナに向き直って、あたしは訊いた。

「それもはっきり言ってほしい?」

 マナはあくまで挑発的で、あたしに対して一歩も引きさがらなかった。本当、マナほどの女の子は他にいないわ。

「いいえ、マナ。言わなくてけっこうよ。シンジが欲しいなら、あいつに直接そう言いなさいよ。このあたしに言うのではなく。あたしはあたしのやり方でやる し、あんたはあんたのやり方でやる。それでいいじゃない」

「自信ありってこと?」

「さあね」

 はぐらかすあたしにこれ以上話しても無駄だと考えたのだろう、マナは何も言わずに先に出て行った。あとに残されたあたしは、洗面台に手をついて鏡の中 の自分を覗き込み、大きなため息を吐き出してうなだれた。

「ああ、びっくりした。怖かったぁ……」

 あたしは確かに気が強いということで通っているけど、実際には思われているほどではないのだ。シンジやヒカリが一緒にいてくれたら少しは頑張れるけれ ど。今だってマナが出て行ったあとになってから心臓がドキドキと跳ねている。男子相手にやりあった経験はあっても、女子からこんな風にまっすぐ 敵意を向けられるというのは経験したことがない。そのためマナの態度はショックでもあった。
 他に誰もいないのでよかったけど、ここはトイレ、いつ誰が入って来るか分からない。あたしはもう一度鏡に映った自分と向かい合い、「負けるな、アスカ」 と心の中で励ますと、何事もなかったかのような顔でトイレを出て教室へ戻った。
 マナのいわば宣戦布告は予想できたことだ。間違っても黙って引き下がるような女の子じゃないことはよく知っている。
 同じ人を好きになってしまった以上、最終的にはどちらかが泣くしかない。双方とも諦めて相手に譲る気がないのなら、対立はやむを得ない成り行きだ。それ でも、自分が誰かを好きになることで他の誰かを傷つけているという事実には憂鬱を感じた。口では何だかんだ言っても、マナだって大切な友達だし、本当は対 立なんてしたくないのだ。
 学校が終わって家に帰ると、空になった二つのお弁当箱を包みから出して流しに置いた。紫色のシンジのお弁当箱は、あたしの赤いものよりもサイズが大き い。そんなちょっとしたことで男の子らしい頼もしさを感じてしまう。ふたを開け、中のごみを取って水を流し入れる。シンジは今日も全部食べてくれたよう だ。それを見たあたしのくちびるは自然とほころんでいた。
 鼻歌を口ずさみながら、洗剤を付けたスポンジでお弁当箱を綺麗に洗い、泡を流してさっと水気を拭きとってから水切りかごに並べて置いた。タオルで手を拭 いてから腰を両手で軽く挟んで、仲良く寄り添う紫と赤のお弁当箱を眺めていると、なんだか不思議な気持ちが湧き上がってきた。

「何かいいな、こういうの」

 自分のお弁当箱と好きな人のお弁当箱がこうして一緒に並んで乾かされている光景には、何かしら胸が熱くなるものがある。
 こういう気持ちを知っていたから、ママはパパと結婚したのかな。
 そんなことに想いを巡らせつつ自分の部屋に戻ろうと回れ右したら、そこにママが立っていたので、あたしは色気もへったくれもない悲鳴を上げた。

「うわあっ!」

「うわあっ、とは何です。もっと女の子らしい悲鳴を上げなさい」

 ちょうど外出から帰ってきたところらしくめかしこんだ格好のママは、後ずさるあたしをじろりとねめつけすたすたと近づいてくると、先ほどあたしがしてい たよりよほど堂に入った様 子で腰に手をあてがい、水切りかごに載せられた二つのお弁当箱に視線を送った。

「悲鳴を上げるなとは言わないのね、ママ」

「だって本当はずっと後ろから見ていたんだもの。いつ気付くのかとずっと待っていたのよ。それなのにアスカったら……」

 と、ママはそこで言葉を切ると、大げさにかぶりを振った。

「シンジくんのことしか考えてないんだから。お弁当箱見つめて、そんな幸せそうなため息ついちゃってさ」

「た、ため息なんて」

 ついてない、と言おうとしたけど、自分でも本当にそうかよく分からなかった。ひょっとしたら、あたしはシンジのことを考えるたびに、知らず知らずうっと りしたため息をついているのだろうか。それってけっこう恥ずかしい。

「『何かいいな、こういうの。はぁ……』とか何とか言っちゃって」

「ぎゃーっ! やめて! 忘れて!」

 鼻にかかった変な声であたしの独り言を繰り返したママに向かって、手足をバタバタさせ顔を真っ赤にしてあたしはわめいた。

「またそんな可愛くない声出して。ぎゃーっ、ですって?」

「ほっといてよ。大体ママが悪いんでしょ!」

 それにあたしはあんな変なしゃべり方じゃないし、身体をくねくねもさせてないし、ハートマークをちりばめたため息だってついてない!
 バカッ!

「何か声かけそびれちゃったのよ。ごめんね。ま、ちゃんと洗い物をしているのは感心感心。そんなアスカにごほうびのケーキを買ってきたわよ」

「わぁい、やった!」

 ママが手に持っていたケーキ屋さんの包みを目の前に掲げると、あたしは直前までの怒りも忘れて歓声を上げて飛びついた。
 現金? うるさいわね。ケーキにはそれだけの威力があるのよ。

「ありがとう、ママ」

「今食べる?」

「うん!」

 元気のいいあたしの返事がおかしかったのか、ママはくすくす笑って言った。

「好きなの選んでなさい。ママが紅茶を淹れてあげるから」

「うん、分かった。……あ、ママ、やっぱり紅茶はあたしに淹れさせて。ママは着替えておいでよ」

 あたしの言葉にママはちょっと目を丸くしたけど、すぐに受け入れてくれた。

「じゃあ、そうさせてもらうわ。お茶っ葉の場所分かる?」

「大丈夫だってば」

 答えるが早いか、紅茶の用意を始めたあたしをしばらく眺めていたママは、独り言にしては大きな声でぽつりと呟いた。

「恋は人を変えるって本当ねぇ」

「ママ!」

「はいはい。美味しく淹れてちょうだいね」





つづく








なかがき

 ここまでお付き合い下さり、ありがとうございます。

 このお話はそもそも数年前に書き始めたものですが、いつまで経っても先へ進まないので、何とかならないものかと考え、今現在改めて書き直しているところ です。
 だからといってどうというわけでもなく、お話が書き進まないのはよくあることではありますけれど。
 これまでもいくつかのお話のあとがきで幼なじみ系のお話を書いている、と触れたことがありますが(あるんです)、これもそのうちの一つになります。
 窓越し幼なじみ系です。

 構造としてはバレンタインで書いたお話とよく似ている、というか同じです。
 ほんの少しずつ違うパラレルワールドの関係とでも申しましょうか。
 まあ、芸がないとも申します。

 アスカが料理下手っ子ですが、ちなみに私はといえば、手に持った野菜に包丁を入れようとして切れ味が鋭すぎて勢いあまり、危うく切ってはいけない場所を すっぱりやってしまうところだったというドジ恐怖体験の持ち主です。幸いかすっただけで済みましたけども。
 皆様もお気を付け下さい。

 これからもひっそり地味に続けていきたらとは思っていますが、ともあれ多少なりとも楽しんで頂ければ幸いです。

 では、お読み下さった皆様、怪作様。
 ありがとうございます。

 rinker/リンカ




リンカさまより恋するアスカが素敵なお話をいただきました。

気持ちの良い話を書いてくださったリンカさんにぜひ感想メールをお送りしましょう!

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