「好きなんだ、アスカ」

「シンジ……」

 目の前の少年がひどく真剣な面持ちであたしの手を取り握り締めて、熱っぽく言うのを、あたしはうっとりと聞いていた。

「アスカみたいな素敵な子からチョコレートをもらえて本当に嬉しいよ。僕は何て幸せ者なんだろう。本当に胸が一杯なんだ。だから、アスカともそれを分かち 合うことを許して欲しいんだ」

「喜んでもらえてあたしも嬉しいわ。でも、シンジ、分かち合うってどういうこと?」

「これを受け取ってくれないか」

 彼が取り出したのは小さなビロードのケースだった。あたしは口元を押さえて息を呑み、震える手で恐る恐るケースを受け取って蓋を開いた。出てきたのはダ イヤモンドのエンゲージリングだ。あたしは言葉もなくその輝きに魅せられていた。

「僕と一緒になろう」

「あ、あのね、シンジ……」

 顔を上げたあたしは言葉を切った。
 近い。シンジの顔がものすごく近くにある。あたしよりも頭ひとつ背が高くて凛々しい表情をしたシンジが今はほとんど覆い被さるように密着していて、 感じる吐息のぞっとするような温かさにあたしの肌が粟立った。

「ちょ、ちょっとシンジ、話しにくいから少し離れて」

「恥ずかしがらないで」

 いや、そういう問題じゃないのよ。明らかに物理的に不自然な距離なのよ。
 ほとんど触れ合うほどに近づいたシンジの顔を避けようとしながら、あたしは困っていた。おかしいわ。いつの間に壁を背にしていたのかしら。

「アスカ、返事は」

 返事! そうだ、もちろん返事をしなくちゃ。

「えっと、もちろん……」

「いいよ。聞かなくても分かる」

 どっちなのよ!

「アスカ……」

「あ、あれ? ちょ、ちょっと待って待って。もう少しきちんとした段取りを踏んだほうがいいと思うの、あたしたち。やっぱり大事なことだし。ね? だか ら、ひとまずあたしの腰から手を離して」

「綺麗だ……」

「わお、ありがとう。あたしの話、聞いてる?」

 近い、近い、近い! 鼻の頭がほとんど触れてるんですけど! あれ、動けないよ?
 あたしが焦っている間にもシンジは決して離れてくれない。それにしても変だわ。一体いつからシンジは服を脱いでいたのかしら。下のほうは怖くて見 れ……。えっ、嘘、やだ、シンジってあんな……。いや、だから見ちゃ駄目だってば、あたし!

「震えているの? 怖がらないで。僕に身を任せて」

 それってすごく大胆な発言だと思うわ。
 と、突っ込みを入れる余裕もなく、あたしは迫る来るシンジの唇と、ぎらぎらとした自信に輝いている彼の瞳との間で忙しく視線を行き来させていた。
 二度目のキスがこんな強引だなんて、あたし、あたし……。

「愛してるよ、アスカ」

 ああ、シンジの唇が降りてくる。ついに触れ合って――

「あたしは」

 と、口にしたあたしが見上げていたのは薄ぼんやりと霞んだ客間の天井だった。目を大きく見開いて息を吸い込む。一体何がどうなっているのか、あたしは正 確に理解していた。ぴしゃりと顔を手で覆い、あたしはうめいた。

「あり得ない。あり得ないわ」

 あたしったら何て夢を! 馬鹿か!

「ぬわーっ!」

 ぐるっと身体をうつ伏せにして、顔を枕にうずめてあたしは力の限りに叫んだ。恥ずかしい。何が恥ずかしいって、夢から覚めたことをほんの少し惜しいと 思っている自分がだ。白状すれば、あたしだってそれなりに健全な十代の女の子だから、シンジとのロマンチックな夢を見たことくらいはある。で も、それはあくまでドイツと日本という圧倒的な距離の壁に阻まれた上での、いわば相手不在の安心感のようなものがあった。どんな内容の夢を見ようが、実際 には相手が身近にいないことが分かり切っているのだから、構わないのだ。けれど、今は違う。ここは日本だ。あたしはシンジに会うために今ここにいて、そし て今日明日には現実に会おうと決めているのだ。そういうタイミングで、よりにもよってこんな夢を見てしまうとは。
 呼吸を整えている間にも、あたしは先ほどまでの夢の内容を反芻していた。決して現実ではない虚しさはあるけれど、そこには空想的な甘い幸せがある。しか し、こうしていてもどんどんと夢の輪郭は崩れていってしまうのだ。

「……もう一度寝たら続きが見られるかしら」

 時計を確認すれば、針はまだ午前五時半を指しているところだった。たっぷり一時間くらいはまだ眠っていても構わないだろう。そう考え、あたしは姿勢を正 してひとつ 大きな深呼吸をし、期待に胸を膨らませながら目蓋を閉じた。
 昨日の夜からリビングのテーブルに出しっぱなしになっていたゴディバの箱を見た時、あたしは思わず心の中で「ごめんね」とシンジに詫びた。昨晩リツコと 喧嘩して、頭 に血が上っていたものだから、チョコレートのことをうっかり忘れていたようだ。あたしはソファに座ってチョコレートを膝の上に乗せ、息を吐き出した。
 結局、二度目の睡眠から一時間もしないうちに目を覚ましたあたしは、感心なことにきっちりと夢の続きを見ることに成功した。一度目の夢の終わりで差しか かろうとしていた決定的な瞬間は、どうやら目を覚ましている間にすっ飛ばされてしまったようで、完全な続きというわけにはいかなかったけど、それでも二度 目の夢の中であたしはシンジとかなり幸福なやり取りをした。これが現実ならばどんなにか、とも思うけど、そこは仕方のないところだ。大体、現実のシンジは あんなに気が利いてはいないし、きざでもないし、瞳がきらきら輝いたりしてもいない。多分、夢の中で言ったのと同じことを本当にシンジが口にしたりすれ ば、あたしは笑い出してしまうだろう。
 それに、とあたしは膝の上のチョコレートを見つめた。あたしが無責任な夢でどきどきしている間に、現実はテーブルの上で放置されて一晩を明かしたわけ だ。何とも情けない話ではないか。かぶりを振ったあたしは、溶けはしていないだろうけど念のため冷蔵庫にしまおうと、ゴディバの他のチョコレートも一緒に 抱えてキッチンへ向かった。
 キッチンは無人だった。リツコはまだ起きてきていないようだった。リツコの家に宿泊して今日で六日目を迎えたのだけど、彼女よりも早く起きてきたのは初 めてのこと だ。いつもあたしが目が 覚めてキッチンへ顔を出すと、彼女がコーヒーを淹れたりトーストを焼いたりしている姿が見られた。あたしは皿やカップをテーブルに並べたり、あるいはする ことがなければ席につき、朝食が並べられるのを頬杖をついて待った。
 でも、今日はまだキッチンには誰もいない。昨晩の喧嘩を思い出し、あたしは自分がとても無神経で軽率な態度を取ってしまったことを後悔した。自分自身の 勝 手な道 徳観を押し付けようとして、リツコの抱える一番デリケートな問題を引っ張り出して攻撃した。もちろん、友人だからこそ間違いを指摘してやることは必要だ。 でも、それは決して昨晩のような形で行われるべきではなかったし、そもそもリツコの問題はあたしが簡単に答えを出せるようなものではない。しかも彼女は今 のあたしにとって最大の恩人なのだ。昨晩の軽々しい発言がどれほど無礼なものだったかは明らかだった。
 ようするに、あたしは謝らなくてはいけない。とはいえ、三年経って多少変わったといっても、残念ながら本質的にあたしが素直でない意地っ張りなのは変 わっていない。てらいもなく謝罪できるほどまっすぐな性格ではないのだ。だから、せめて場の雰囲気を和解へ向けて醸成させる必要性がある。
 何をすべきか、あたしはすでに答えを見つけていた。端的に言えば、 あたしが朝食を用意しようと思う。きっと三年前のあたしの姿しか知らないシンジなどは、あたしが料理のりの字も知らないと思っていることだろう。その認識 を正してやる日がいつか訪れるの か否かは分からないけど、これでも料理は得意なのだ。もともと小器用なほうだったし、この三年間の生活でママに教えてもらったりしながら腕を上達させてき た。とにかくこれまでに経験できなかった色んなことを試してみたかったのだ。しかし、この話は措いておこう。
 冷蔵庫を探して朝食に使えそうな材料を見繕って出してみた。リツコはすぐにも起きてくるかもしれないし、仕事があるから時間の余裕はそれほどない。それ にこの数日間のリツコの朝食からして、朝はそれほど食べないことにしているらしい。妊娠中ということも関係しているだろう。いずれにせよ、そうとなれば自 ずとメニューは限られてくる。
 レタスとたまねぎはサラダに 使おう。卵は目玉焼きにしようかしら、それとも茹でてサラダに混ぜようかしら。ウィンナーがない代わりに薄切りのハムがそのまま出せそうだ。本当はスープ を作りたいところだけど、お湯で溶かすインスタントのポタージュを見つけたので、これで済ませることにする。パンはシンプルにトーストで。そうだ、もちろ んコーヒーを忘れちゃいけないわ。
 まな板に包丁、ボウルにスライサー、フライパン。塩と胡椒とマヨネーズ、エトセトラ、エトセトラ。必要なものをすべて調理台に並べ終えると、あたしは腰 に手を当てて頷いた。これで準備はできたわ。さあ、取り掛かるわよ。
 ちょうどコーヒーの淹れ具合を確かめていると、トイレを流す音が聞こえてきた。リツコが起きてきたようだ。まだ七時前だけど、いつもより遅いのは昨晩の 喧嘩の影響だ ろうか。そんなことをちらりと考えつつも、あたしは努めて何でもない風を装ってキッチンに向かい続けて彼女を待った。
 近づいてくる足音があたしの背中を強張らせた。自然に振舞えばいいのよ。言い訳がましくしたり物怖じする必要はない。あたしは軽く振り返り、リツコに 言った。

「おはよう」

「おはよう、アスカ。作ってくれたの?」

 リツコの視線は若干の驚きを伴ってテーブルに並んだ朝食へと送られた。

「早く目が覚めちゃったから。これでも普段から作ったりするのよ。トーストでいいわよね?」

「ええ。いい匂いね」

 悪くない感触だ。すべてできあがると、向かい合ってあたしたちは席に着いた。

「えっと、食べられないようだったら無理しないでね」

 二日目の朝にリツコがトイレで吐いていたことを思い出し、あたしは心配になって言った。リツコはまだ妊娠初期なので、つわりがあるのだ。

「ああ。今日は大丈夫みたい。ありがとう、アスカ。いただきます」

「そう。よかった。じゃ、あたしも」

 いただきます、と昔よく食事前に言っていたシンジのことをふっと思い出しながら、あたしも同じようにこの言葉を唱え、食べ始めた。
 食事が始まってすぐにリツコが美味しいと褒めてくれた以外は、しばらくあたしたちの間で言葉が交わされることはなかった。ひょっとすると彼女はこのまま 昨夜のいさかいをなかったことにしてくれるつもりなのかもしれない。でも、それはあまりにも申し訳なかった。大人ならではの気づかいということかもしれな いけど、あたしだってもう完全な子どもではないのだ。彼女の優しさに甘えるだけというのはたえられない。

「昨日はごめんなさい」

 食器の触れ合う音や食べ物を咀嚼する音だけが聞こえているだけの張り詰めた静けさを破って、あたしはぽつりと謝った。まるで何の脈絡もなく、意味もない 独り言のようにして。伏目がちにして自分の皿に乗ったハムとサラダを眺 めているあたしには、リツコがどんな顔をしているのか分からない。果たして相手に声が届いたのかどうかさえ怪しかった。でも、あたしの言葉の直後にリツコ が皿の上でフォークを一瞬止める気配がし、それから何ごともなかったかのようにサラダを口へ運ぶ動作を再開させ、彼女は言った。

「いいのよ」

 顔を上げると、サラダを口に入れてフォークを皿の上に休めたリツコが、落ち着いた調子であごを動かしながらじっとこちらを見ていた。やがて咀嚼し終えて 飲み込んだ彼女は、もう一度言った。

「いいのよ、アスカ。こっちも大人げなかった。だから、ごめんなさい」

「うん」

 リツコが微笑んでいたので、つられてあたしも笑みが零れた。こうしてようやくあたしたちの間には、いつもどおりの会話が戻ってきた。
 これ以上リツコの問題をとやかく言うつもりは今のあたしにはないのだけど、仲直りをしたところで、改めてリツコのことを考えてみようと思う。彼女は今年 三十三歳の女盛り。もともと美人なのは知っているけれど、どこかすさんだ印象のあった三年前は彼女を綺麗だと思ったことはなかった。でも、こうして食卓を 挟んであたしの前に座るリツコは、間違いなくあたしが知る中でもっとも美しい女性の一人だった。そんな彼女は今妊娠している。 まだ外見に変化は現れていないけど、胎の中には確かに子どもが宿っているのだという。 一体それはどんな気持ちがするものなのだろう。あたしは想像してみようとした。でも、できなかった。
 そもそも、胎児が宿っている子宮というものの正体が漠然としている。現実にそこにある、ということは分かっている。形も大まかには知っている。でも、女 性にしか存在しないこの洋梨の形をした器官を『意識する』ということ がとても難しい。
 女は子宮で考える、という古い言葉もあるけれど、あたしはそんな馬鹿な話があるかと思う。あたしたちはあくまで頭で考えるのであって、そこには子宮は関 係ない。子宮は考えたりしない。子宮はただあたしたちの腹中 に佇み、役目を果たす時が来るまではひたすら予行演習を繰り返しているだけだ。あたしたちは毎月股から流れ落ちる血を見て、ああこれは自分に子宮があるか らだ、と分かるけれど、だからといってそれははっきりと意識されることはなく、慣れてしまえばただ毎月の習慣として処理されるだけの現象に過ぎなくなる。 そして、こちら の素っ気なさなどいささかも気にしていないように、子宮は律儀なルーチンワークを繰り返すのだ。まるで奇妙な同居人のように。
 子宮とはおのれの一部でありながら、おのれでない生命のためだけに存在するものだ。そう いう場所で、今まさに新しい生命を自らの血肉を分け与えて育んでいるのだ、という感覚。
 おそらくリツコは今初めて自らの内部に存在する子宮を実感しているだろう。腹の上から触れればその在り処が分かるほどに、手触りのある実感だ。つ いに役目を果たす時を迎えた子宮は遺伝子に定められた命令に従い、来るべき出産へすべてを振り向けようとしている。彼女を何か決定的な形で変質させ ようとしている。リツコという精神の腕を子宮という女が引っ張って連れて行こうとしている。
 もちろん、これは彼女自身でも望むところに違いない。たとえ、胎児を育み産み落とす器として作り変えられていく肉体と、リツコという三十余年の経験を積 み重ねてきた精神との相克に戸惑い迷っているにしても。
 ただ、あたしが問題にしているのは、時を迎え完全に目を覚ました子宮の圧倒的な実感だ。リツコは子を孕んで初めて自らの子宮を発 見し た。彼女が得た実感とはすなわち、おのれが母であるという発見に他ならない。女は母になるのではない。初めから母なのだ。子宮が初めからあたしたちの中に あるよう に、母という形質は初めからあたしたちに備わっている。だから、子宮の目覚めは、つまりあたしたちの中で眠っていた母の目覚めといっていい。
 たぶんあたしは、リツコを前にしてそれを敏感に感じ取っていた。
 あたしの中には母というものへの恐れが存在する。原因はもちろん自らの満たされなかった幼少期にある。あたしの心の底には、母とは――あるいは母と子と いうものは、完璧な姿でなければならないというような強迫観念が植え付けられている。完璧でなければ母と子は幸せな姿を維持できない。母が子を愛し慈しむ 上でのかくあるべき姿。愛情と庇護に包まれて正しく成長する子。当然そこに父親が不在であってもいけない。それらが少しでも狂っていると、あたしがそうで あったように悲劇的な破滅が待っている。そして、完璧であるということがどれほど困難なことか知っているために、あたしは恐れるのだ。すぐにでも狂い破滅 へ向かおうとする母というものを。
 いうまでもなく、これはあたしの愚かしい妄執に過ぎない。けれど、この母への恐れがあたしの中に確かにあるというのを否定することはできない。
 だから、母であるリツコを前にあたしは冷静でいられなくなった。母である以上、彼女は完璧に幸せな家庭を築かなければならないのだ、という思い込み。結 婚しないなんてとんでもない。父親が欠けているのは不完全であるということだし、完璧な母というものは子どもには父親が必要だと考えなければならない。子 どものために我欲を捨ててすべてを振り向けなくてはならない。従って、リツコの選択は間違っているし、その進む道は幸福へと続いてはいない。よって、彼女 は 結婚をすべきなのだ。きっとこんな風にあたしは考えていた。
 もっと簡単に言えば、リツコが妊娠したと知ってから、ずっと彼女にはあたしが理想とするような母になってもらいたいと思っていた。今でも心の奥にしこり のように残る満たされ なかった幼少の思いをそこに託したかったのかもしれない。もしかしたらリツコがあたしと母キョウコのような悲劇の道を辿るかもしれない、という恐怖心がそ の思いを後押しもしただろう。
 でも、あたしはもう何もリツコに強制したりはしない。彼女の人生は彼女のものであり、あたしが抱える未練の代償を求められる都合のいいものではないから だ。
 それに何 が幸 せか、当人以外の誰に分かるだろう。戸惑い迷ってはいても、すでにリツコは全身全霊で胎内のわが子を愛している。
 一体誰がその子にそれ以上のものを与えて やれるというのか。

「かわいい赤ちゃんが生まれるといいわね」

 あたしが言うと、リツコは少し誇らしげな顔をして答えた。

「ありがとう。自分の子だもの。どんな子でもかわいいに決まってる。だから、無事に生まれてきてくれさえすればいいわ」

 朝食が終わり、後片付けをしている間にリツコは出勤の準備をし、それからあたしたちは少し話し込み、午前八時を過ぎたころには彼女を玄関から見送ってい た。

「じゃ、行ってくるわ」

「うん。行ってらっしゃい。あたしも今日はシンジに会いに行く」

 ごく何気なくあたしは言っていた。今までぐずぐずしていたのが不思議なくらい晴れ晴れとした思いだった。リツコは自分の道を着実に進んでいる。あたし だって負けてはいられない。

「そう。頑張りなさい。みんな応援してるから」

「ありがとう。みんなには本当に感謝してるわ」

 玄関を開け、一度出て行こうとしてから、リツコは立ち止まり振り返った。

「どうしてみんながこんなに協力してくれるんだと思う?」

 その質問にあたしは目を丸くした。

「それは、みんなあなたのことが好きだからよ」

 さっと顔が赤くなるのが分かった。これまで自分でも考えなかったわけではないけど、どうしても自分がそれほど好かれているとは思えなかった。だって、あ れほど嫌な子だったのだから。なのに臆面 もなくリツコが言うので、あたしは思わず憎まれ口を利いてしまった。

「リツコ、いいヒトぶってない?」

「ふふ。素直に喜びなさいよ、ヒネクレモノ」

 じゃあね、と手をひらひらさせてリツコは出て行った。あたしはしばらく遠ざかる彼女の背を見送り、それから空を見上げた。
 今日はセントバレンタインズ デーの前日、二月十三日。空は抜けるように青く明るく晴れ上がっていた。





 シンジが学校から出てきた時にはもう午後五時半を回っていた。あたしは例によって学校から道路を挟んだ路肩に駐車して彼が出てくるのを待っていたところ だった。 直接学校へ行って彼を呼び出さなかったのは、あたしと彼との関係を職員に説明するのが難しかったからだ。生徒の保護に躍起になる昨今では、いくら若い女性 とはい えよく分からない素性の人間を簡単に取り次いだりはしてくれないだろう。そのことによってシンジの学校生活に悪い影響が出るような危険は冒したくない。し ばらく待って、出てこないようなら家まで直接出向こう。そう考えて待つこと一時 間ほど。他の男子生徒二人、女子生徒三人の計六人で一緒に談笑しながら校門から出てきた彼の姿をあたしは見つけた。
 シンジはクラブ活動で弓道をしているらしい。一緒にいる子たちは同じクラブの友人だろう。みんな包みに納められた弓らしきものを持っている。校門 を出た彼らはあたしから見て左手へ進んでいく。まっすぐ行くと大きな国道に出るので、車から声をかけるならその前にしたほうがいい。あたしはエンジンを掛 けて車を出し、少し進 んでからUターンして彼らのあとを追いかけた。みるみると近づいていくシンジの背中に心臓が騒がしく音を立てる。すぐに追いついたあたしはスピードを緩め て彼らと並走し、クラクションを短く鳴らした。

「うわっ、何だ?」

「外国人みたいだよ。誰か知り合い?」

 彼らが立ち止まったので、あたしも車を停めた。窓を開けるとシンジの友人たちが不安そうに言い合う声が聞こえてくる。でも、あたしの視線はたった一人に 注がれていた。怪訝そうな顔でこちらを窺おうとしている懐かしい少年の顔。

「ごめんなさい、あなたたち。そこの彼にちょっと用事があるの」

「おお。日本語だ」

「そこの彼って……碇?」

 あたしが指差した先を五人がいっせいに振り返って、そこに立つシンジに注目した。

「ひさしぶりね、シンジ」

 どうやらあたしは微笑むことに成功していた。ひょっとすると顔が引きつって上手く喋ることもできないのではないかと心配していたのだけど、杞憂だった。 でも、シンジのほうは声が出てこない様子だった。

「な、何だよぉ、シンジ。こんな美人のお姉さんといつから知り合いだったんだよ」

 男の子二人がからかうようにシンジを小突いていた。車を運転しているせいか、それとも外見のせいか、どうやらあたしを年上だと思い込んだようだ。女の子 たちも興味津々な顔つきであたしとシンジとを交互に見ている。残念ながら、あたしたちの関係は まだ彼女たちが想像するようなものではないのだけど。

「ね、ねえ、碇。知り合いなんでしょ。何か答えたら。用事があるって言ってるよ」

 女の子の一人に促されて、シンジが一歩前に出た。こうして現実に彼を間近にしてみると、三年前に起こったたくさんの出来事や感情がどっと胸に去来して、 何だかあたしまで黙り 込んでしまいそうだった。とはいえ、こうしていても埒が明かない。あたしは他の五人を見て言った。

「ねえ、あなたたち。悪いんだけど、今日はシンジを借りて行ってもいいかしら」

 男の子二人ににっこりと笑いかけると、彼らは顔を赤くしてどうぞどうぞお好きにという風に手を振った。女の子たちも似たようなものだったけど、一人だけ 不安そうにこちらを見ている子がいた。なるほど、とあたしは思った。この子はきっとシンジのことが好きなのだろう。ショートボブで小柄な可愛らしい女の子 だ。まるであたしとは正反対で、きっとシンジの好みとも合致する。でも、たぶんまだ付き合ってはいない。もしすでにそういう関係なら、窺ってばかりでなく シンジに何か言うだろうから。
 悪いわね、とあたしは名前も知らない女の子に向かって声に出さずに呟いた。あなたよりもあたしのほうがほんの少し決断するのが早かった。けれど、まだ結 論が決まったわけではないのだから、そう悲観した表情をするものじゃないわ。きっとあなたも、明日にはシンジへバレンタインのチョコレートを渡すのだろう から。彼だって受け取ってくれるかもしれない。

「お友達も同意してくれてるみたいだし、来てくれるわよね、シンジ?」

 こういう強引な誘い方しかできないあたしに、きっとシンジは呆れ苛立っているだろう。でも、あたしが可愛くないことなんて、もう三年以上も前から分かり きっていたことだ。いまさら印象が悪くなるかもしれないなんて気にしても仕方がない。こういうあたしが嫌ならば、カップケーキみたいに可愛らしい隣の女の 子を選べばいいのだ。もちろん、あたしはそれを阻止するために自分がカップケーキになる以外のありとあらゆる手段を尽くすだろうけど。
 シンジは考え込んだ表情でしばらくあたしのことを見下ろしてから、小さなため息を吐き出して低い声で言った。

「分かったよ。アスカ」

 アスカ、と名前を呼ばれた時にふいに心臓が飛び跳ねてあたしはびっくりした。どうもシンジ相手では予想外のことが起こる。間違っても我を失ったりしない よう 気をつけようとあたしは心に留めた。

「じゃあ、助手席に乗って。荷物は後ろ」

 あたしが促すと、シンジは頷いてから友人たちを振り返って言った。

「ごめん、みんな。そういうことだから、一緒に行けなくなった」

「いいよ、いいよ。その人も何か用事あるみたいだし、どうせファミレスなんかいつも行ってるし」

「うん。じゃ、みんな、また明日」

「バイバイ。また明日ね」

 荷物を後部座席に置いたシンジが助手席に乗り込んだらすぐにあたしは車を出した。手を振って見送っている彼の友人たちがバックミラーに映っている。

「いいお友達みたいね」

 助手席のシンジを横目でちらりと見て話しかけたら、彼は静かに相槌を打つだけだった。やはり機嫌を損ねてしまっただろうか。それとも、あたしになんか二 度と会いたくないとでも考えていたのだろうか。気にしないと強がりをいって も、これから果たして上手くできるかどうか、先行きがひどく不安だ。しかし、話しかけないことには、どうしようもない。あたしはできるだけ穏当な会話を 心がけつつ、再び口を開いた。

「会うのは三年ぶりだけど、忘れられてなくてほっとしたわ」

 失敗したかもしれない。これでは穏当というよりただの皮肉だ。
 少し間を置いて、シンジは平坦な口調で答えた。

「最初は誰だか分からなかった」

 ぐ、と奥歯を噛んであたしはこらえた。ここで喧嘩腰になっては、まだ切り出してもいない話が全部台無しになる。だから我慢だ。深呼吸して落ち着いて受け 流すのよ、あたし。

「そ、そう。まあ、三年ぶりだものね。あたしもあの頃とはだいぶ印象が変わったし」

「すぐに気付いたけど」

 異様に素っ気ないシンジに内心かなりショックを覚えながら、あたしは何食わぬ顔で車を走らせていた。いかにもいやいや喋っているという様子のシンジを見 ていると、あたしの前途は多難どころではないような気さえしてくる。
 でも、めげちゃ駄目よ。目的を果たすまでは。

「あたしはひと目で分かったわよ。あんたって昔とあまり変わらないんだもん。あはっ、あはは……は」

 あたしの乾いた笑い声はすぐに尻すぼまりになって消えた。
 シンジはぴくりとも表情を動かさず、前だけを見ている。この空気の重さを誰か何とかして。車が停まってしまいそうだわ。

「えっと……、な、なーんちゃって? 背もすごく高くなったし、身体つきもがっしりしてるし、顔もちょっと男らしくなったかな? うん、なったなった。昔 はふにゃぁっとしてたけど、今はすごくきりっとしてて、えっと、だから」

「アスカ」

「かっこよくなったんじゃないかなって思うわ。あ、あくまで昔と比較しての話というか、一般論としてあたしは話してるんだけどね」

「アスカッ」

「ひゃいっ」

 二回目に呼びかけられて慌てたあたしは思わず変な返事をしてしまった。

「あの、……本当よ?」

「外見のことはもういいよ」

「そう……、ごめんなさい」

 シンジが格好よくなったというのはあたしの本心だ。もっとも、男の子なら誰しも三年も成長すれば見栄えはよくなろうという気もしないでもないけど、彼は もてるのではないかというミサトの言葉を今になって思い出して、あたしは仰るとおりでしたと心の中で彼女に謝った。
 今の生活が充実したものであることは表情を見ただけで分かる。一緒に生活していた頃は覇気のかけらもない表情をして軟弱なことばかり言っていたシンジ が、変われば変わるものだ。学校生活は言うに及ばず、父親との二人暮らしもこのぶんだとそれなりに上手くやっているのだろうか。
 襟元から覗く首筋には細い鎖が見えていた。アクセサリをつける趣味はシンジにはなかったはずだけど、この歳になるとさすがに色気づいてきたのかもしれな い。もちろん、趣味さえ悪くなければ、ネックレスをつけたってまったく構わない。
 身体つきも変わった。背丈はおそらく百七十一センチのあたしより四、五センチは高い。今でもそれほど高いヒールでなければ横に並んでも彼の背丈を追い越 すことはないだろうし、あたしの背の伸びがもう止まったのに対して彼はまだ伸びるだろうから、そうなればもっと高いヒールでも大丈夫だろう。肉付きはまだ 少年特有の薄さがあるけど、ひ弱な感じはない。クラブ活動のおかげで筋肉もついているようだ。
 これは望ましい変化といっていい。好きであれば外見などどう でもいいというのは確 かにそのとおりなのだけど、それでもできるだけ理想に近いのに越したことはない。あたしは自分より大きくてたくましい男に抱き締められたいと思うし、その 点ではどうやらシンジは合格だった。もっとも、まだそういったことを気にする段階には程遠いあたしたちの関係をなんとかしなくては、シンジの身体を見て 「合格ね」とか考えているあたしはただのいやらしい間抜けでしかない。
 ところで、今日のあたしは最高におしゃれをしてきている。お風呂で身体の隅々まで磨き上げ、お化粧は完璧に仕上げたし、髪の毛にもいつもの三倍は時間を かけた。ブラウスもスカートも下着 も 靴もアクセサリもすべて一番のお気に入りの中から最高の組み合わせを考えてドイツから持ってきたものだ。特にお気 に入りの赤いブラウスは襟ぐりが大きく開いた形をしていて、胸元がかなり大胆に見えている。ヨーロッパでは珍しくないけど、日本では胸元を強調した服を着 る人はまだまだ少ない。色仕掛けというのはあまり好みではないけど、この服を選んだ時にはあわよくばと考えたし、実際にあたしの胸の谷間はシンジの友人の 男の子たちに充分に 効き目を発揮した。
 私の目的はあくまで自らのシンジに対する感情の正体を知るというものであり、彼のあたしに対する気持ちを知ることではない。けれど、あたしの中には少し でもシンジに気に入られるような女の子でありたいという浅ましい思いがある。そういう思いがあたしにこのような格好をさせる。
 今朝仲直りしたあとにそのことをリツコに話すと、彼女は自分について話してくれた。

「別におかしなことじゃないと思うけど。私だって似たようなことはしたもの。好きな男の前では少しでも綺麗でいたいとは思うわ。たとえそれがどれほど無意 味だと知っていたとしてもね」

 リツコの相手とは当然シンジのお父さんだ。昔から感情を表に出さない鉄面皮だと思っていたけど、実際に碇長官は女性の容色にあまり関心を示すほうではな いらし い。内心ではどう思っているかは分からないけど、とにかく何を着ていようがどんな髪型だろうが、反応を返すことなどないそうだ。女としてこれほど張り合い がなくつまらない相手はいない。でも、彼女は期待してしまう。もしかしたら着飾った姿に心を動かしてくれるかもしれない。ひょっとしたら嬉しく感じてくれ るかもしれな い。あるいは、みっともない姿でいては幻滅されるかもと不安になったりもする。
 あたしは巷間でなかば偶像的に崇められているよりも、ずっとリツコが人間的だと知っているつもりだった。でも、シンジのお父さんへの思いを語る彼女の姿 はただの平凡な女そのものだ。そのことにあたしは心地よい驚きを感じていた。
 昔、碇長官から愛されようと必死だった、とリツコは言った。純粋に女として彼を虜にすることは難しいのはすぐに分かった。でも、少なくとも必要とされて いる限りは捨てられ ることはない。だから、彼女は懸命に役立とうとした。幸い彼女には才能があった。亡くなった赤木ナオコの仕事を受け継ぎ、かつ碇長官の計画を技術的に支え るだけの能力が。彼女はがむしゃらに働いた。そうすればいつかはその氷のような心を動かしてくれると信じて。いや、信じたかったのだろう。
 けれど、リツコは目的のために利用されているだけだった。それを知ってなお、彼女はシンジのお父さんに尽くし続けた。
 始まりはまだリツコがネルフへ入ったばかりのころ。いっぱしの大人になったつもりで、実際には世間知らずで大人の男女の駆け引きも分からないうぶな娘 だったと彼女は若かった自分を振り返った。そんな彼女だったから、碇長官の仕掛けた罠に簡単にかかった。経験のないあたしには想像するほかないけれど、当 時のリツコにもセックスと愛の区別は曖昧で自分に何が起こっているのかよく分かっていなかった。やがて利用するために罠にかけられたのだと分かっても、彼 女はそこから抜け出すどころか自ら深みに嵌まり込んでいった。いつしか本気で愛するようになったのだ。始まりが何であろうとも、彼女は自分の今の気持ちに 忠実になろうとした。
 シンジのお父さんには当時大切なものがふたつだけあった。ひとつがいなくなった奥さんだ。碇ユイが初号機に消えた真相を知る者はいないけど、あれはおそ らく彼女自身が望んでしたことだとリツコは言った。つまり、シンジのお父さんは裏切られたのだ。愛していたのに突然何の説明もなく置いていかれた。捨てら れてひどく傷ついた。納得なんてできるわけない。だから、何に代えてでも取り戻そうとした。まるで鴎外に捨てられたエリスのように。駆り立てたものが愛 だったのか憎しみだったのか、あたしには分からない。リツコにも分からなかったろう。
 それでもリツコは一途に懸命だった。まるで香水を振り猥褻な下着を着けて男に迫る女のように、彼女は完璧な仕事をこなして碇長官の前に立った。彼女に とって科学の才能は顔や身体の良し悪しと同じようなものだった。好きな男をこちらへ向かせるための手段だ。だから精一杯磨いたわ、とリツコは臆面もなく告 白した。長官の褒める言葉は愛撫だった。成果を認められると興奮して身体の奥が疼いた。人類の未来のためなんかじゃない。そんなものは彼女にとってどうで もいいことだっ た。もしも自らの愛が叶うことがあれば、次の瞬間世界が滅んでいたって構わない。それほどの気持ちだった。

「でも、今はもうそうじゃないんでしょ」

 なかば確信を込めてあたしが訊ねると、リツコは答える代わりにすっと視線を落とした。そして、まだ膨らんでいないお腹へ羽で包みこむように手のひらを添 え ると、柔らかい微笑みを浮かべた。
 ネルフがなくなって色々なことが整理されていく中で、リツコは立ち止まってふと冷静になる瞬間があった。「あれ、どうして私、こんなに追い詰められてた んだろう」という風に。一時期は何だか気の抜けたようになってしまったシンジのお父さんを見て、こんな人だっただろうかと首を傾げたりもした。そんなある 時、何 となく二人で一晩を過ごすということになり、ことが終わったあとにリツコはやはりこの人のことが好きだと再認識した。と同時に、こうも考えた。この人の重 荷にはなりたくない、と。
 リツコによれば、碇長官は不器用な人で、大切なものを両手にいくつも抱えて生きていくことができない人なのだそうだ。抱えられるのはせいぜいひとつかふ たつ。それでもすぐに転んでしまう。取り落としそうになってしまう。すでに奥さんは彼の手の中から零れ落ちてしまった。再び拾い上げようと必死になったけ ど、ついには果たせなかった。
 もうひとつだけ大切なものを碇長官は手の中に持っていた。でも、奥さんを取り戻そうとしている最中にきっと手から落としてしまう。たとえすぐに 拾い上げたとしても、何度もそれを繰り返すうちにその大切なものはどんどん傷ついていってしまうだろう。だったら、最初から手の中にないほうがいい。そ うすれば傷つくこともないから。こうやって、シンジはお父さんの手から離され置き去りにされた。
 でも、奥さんを取り戻すことにすべてをかけてきて、それが結局果たせないことになった時、碇長官に残されていたものはもう息子のシンジだけだった。過去 に手放したもうひとつの大切なもの。碇長官はもう一度息子を手の中に取り戻すことに決めた。もちろん、シンジを捨てた言い分も取り戻すという決断も、もの すごく身勝手なものだ。あたしがそう指摘すると、リツコも肯定した。けれど、そういう風にしか生きられないのだという。間違っていると分かるはずなのに、 他に方法が見つけられないのだ。それに、シンジのほうでも母も友も何もかも失って、父親しか身内は残されていなかった。もともと父親との交流を望んでいた シンジが差し伸べられた手を拒絶するわけがなかった。もちろん、リツコにとってもこの辺りの事情は推測になるけど、さほど真相から遠ざかってはいないだろ う。
 リツコにとっての問題は、十年以上の断絶を経て家族をやり直そうとしているシンジのお父さんの両手がすでに一杯になっていて、リツコと赤ちゃんまで抱え られる余地などどこにもない、ということだ。ほとんどお互いに縋り合うようにしてやり直そうとしている父子の間に赤ちゃんを抱えて割り込むには、彼女はい ささか理性的に過ぎた。あるいは、こう言ってもいい。愛する男が初めて生きる幸せを手にしようとしている光景を目の当たりにして、その愛情の深さゆえにリ ツコは身を引かず にはいられなかった。

「私だって本当は結婚したい、あの人と一緒になりたい、と思わないことはないのよ。時々、一人で静かな夜を過ごしていると無性に叫びだしたくなる。あの人 の足元に縋りついて泣き喚きたくなる。でも、私のそういう願いがあの人がやっと手に入れようとしている平安を壊してしまうのかと考えたら、心底ぞっとす る。それだけは絶対に我慢できない。できないのよ」

 リツコが自分の家にあたしを呼んだのはこういう理由もあったのだ。もともとあたしたちはさほど親しい仲でもなかったというのに、随分と親身に なってくれると最初は感謝しつつもいぶかしんでいた。でも、リツコのいうような一人の夜のたまらなさは、あたしにも何となく想像できるような気がし た。あたし自身もそういう時期があり、家族によってそれを救われたからだ。まして妊娠期は情緒不安定になるというし、相当つらかったのではないだろうか。 もちろ ん、あたしなんかで手助けになれるならいくらでも協力は惜しまない気持ちだった。打ち明けてくれたことにあたしは感謝していた。

「なりふり構わずに前へ進んでいけるあなたがうらやましいわ、アスカ。あなたは最高に素敵な女の子よ。たとえ始まりが何であっても構わないじゃない。きっ とシンジくんは心を開いてくれるわ。きっとよ」

 リツコの言葉は嬉しかったし、信じないわけではない。けれど、この言葉はリツコのためにこそあるべきだ。あたしは自分自身がそうあって欲しいと望むのと 同じくらいに、リツコの願いも叶って欲しい と思わずにはいられなかった。
 考えてみれば、リツコの子はシンジの兄弟ということになるのだ。でも、こいつはそんなこと知らないんだろうな、とあたしは助手席に座るシンジを横目で見 て思った。いずれはそういうことも話したい。でも、ひとまず今日はあたし自身の目的を果たさなくてはならない。

「ちょっと行きたいところがあるの。少しの間付き合ってもらってもいい?」

「ああ」

 やはりシンジはしぶしぶ相手をしているというような不機嫌な雰囲気だったけど、あたしはひとまずその事実を脇において、目的地へ車を走らせることにし た。向かう先は第3新東京市を一望できる高台だ。そこで彼と一緒に街を見下ろして話をしたかった。
 三年以上前、エヴァンゲリオンパイロットとしてこの国に来たあたしが同僚として出会ったシンジと一緒に暮らしたのがこの第3新東京市だ。もっとも街の半 分は崩壊し、あるいは湖に沈んでしまったために、当時とはいささか印象が異なる。そもそもこの街は全体で一個の施設としてエヴァンゲリオン運用に供せられ る目的で造成された。いたるところに武器格納庫や電源供給施設、はたまたミサイル発射サイロやレーダーサイトが存在しているのはそのせいだけど、いずれは すべて解体されて普通のビルや商業施設、公園、公共施設などに造り変えられる。破壊された街の復興作業と同時にそういった工事も行っているため、街のどこ にいても工 事の 音が聞こえているくらいだ。
 シンジと一緒に暮らしていたころ、あたしはこの街に特別な思い入れはなかった。使徒がこの街へ現れる以上、エヴァのパイロットとして役目を果たすために あ たしはこの街に滞在する必要があった。ただ単にそれだけの場所だった。
 そんな場所での同い年の少年との生活。
 碇シンジ。
 あたしの初めての友人。初めてのライバル。初めての口づけの相手。
 初めての……。

「前」

「……ん?」

 何と言われたのか分からなくて、あたしは間の抜けた声で訊き返した。相変わらず正面をじっと向いたシンジの横顔が嫌味なほど落ち着き払った声でもう一度 言った。

「前見て運転して。危ない」

 指摘されて初めてあたしは自分が助手席のシンジの横顔ばかり見ながら運転していたことに気付いた。いつの間にか車線を跨って走行していた車を慌てて正常 な位置に戻し、いまさらながらにどっと冷や汗が噴き出してきた。ドイツから日本までやって来てついにシンジに会えたというのにこんなところで交通事故を起 こしては目も当てられない。

「免許、取ったばかり?」

 まだ動悸が治まらず、注意深く運転しようと緊張していたあたしにいきなりシンジが訊いてきた。彼の側から話しかけてきたことに驚いたあたしは、何度かど もってからようやく答えた。

「検定試験に受かったのは十六の時よ。十五年前からドイツでは車の免許が十六歳から取れることになってるの。これはセカンドインパクト後に若年者世帯が急 増したためと言われていて……、えーっと、つまり、免許を取ってから一年くらいになるわ。向こうでは毎日車使うから運転には慣れてる」

「ふぅん」

「心配しなくても事故は起こさないから大丈夫よ」

「あ、そう。僕が気にしてたのは助手席にエアバッグが装備されてるかどうかだけど」

 シンジの皮肉がぐさりと胸に突き刺さった。そういえば彼には昔からこういう皮肉っぽいところがあったものだ。かつて同居中には何度も喧嘩をしたけれど、 ぼそっ と告げられる彼の皮肉に冷静さを失うことがよくあった。彼はあたしが怒り出すつぼを非常によく心得ていた。
 正直なところ、彼と一緒に暮らし始めるまでは誰 かと対等に喧嘩したことすらなかったのだ。だから、あたしは彼の態度に苛立ちながらも内心どこかで楽しんでいたのではないかと思う。
 ただし、かっとなると 最終的には実力行使に出るのがあたしの悪い癖だ。その点を考えれば彼にとってはさぞ理不尽だったろう。思い返せば彼から叩かれたりしたこともない。ひょっ とすると、あんなのでも一応女の子だからと気づかってくれていたのかしら。とにかく、いつも暴力が振るわれる時にはあたしの側の一方的なものだった。最後 の ほうの、本当に一番最悪な時期は別だけど。
 けど、今なら腕力で喧嘩したら簡単に負けちゃうだろうな。
 あたしは若々しく引き締まった筋肉に覆われたシンジの腕を盗み見てそう思った。今なら彼は腕一本で容易くあたしを組み敷いてしまうだろう。戦いが終わっ て故郷へ送還されて以来、トレーニングなどほとんどしていないあたしの力はごく普通の女の子と変わらない。昔はより正確なイメージを作るために格闘術の訓 練などもしたものだけど、急激に女性らしく成長していくあたしの身体はすぐに不要な筋肉を衰えさせてし まい、柔らかな脂肪がそれに取って代わった。
 あたしがその非力さに頓着しなかったのは、エヴァから解放された生活がやはり気に入っていたからだろう。素朴 だけど安らかで満ち足りた生活は、歯を 食い縛って強くあろうとしなくとも、これからは好きなことを色々と試していいのだとあたしに教えてくれた。料理だろうと車の運転だろうと何でも好きに挑戦 してみればいい。あたしはもはやエヴァの エースパイロットであり続けなくともよく、あたし自身であることを楽しめばいい。だから、海を越え遠く離れた国で異性にチョコレートを渡すイベントに興じ たければそのようにすればいいのだ。

「アスカはドイツで暮らしてるんだと思ってた」

 低い声でシンジは言った。あたしには今日初めてシンジが「アスカ」と呼んでくれた時から思っていたことがある。三年前よりも彼の声は明らかに低く太く なった。その声を聞いていると、とても奇妙な気分だった。まるでシンジではない別の男の子と話しているかのような錯覚さえ起こり、居心地の悪いような気ま ずさを感じていた。そのせいであたしは何度も横を見て自分が誰と話しているのかを確認せずにはいられないのかもしれなかった。
 それはともかく、シンジの疑問に答えなくてはならない。戦後あたしがドイツへ送還されたことは当然知っているはずだけど、その後のことは何も知らないの だろうか。ひょっとするとあたしが再び日本で暮らしているのかもと今日会って考えたのかもしれない。

「そのとおり、ドイツで暮らしてるわよ。日本へは今回少し滞在してるだけ。何人か懐かしい人にも会って、その後どうなったのかも少し知ることができた し……、帰る前にあんたにも会っておこうと思ったの」

「ああ。そうか」

「もしも迷惑だったなら謝るわ」

 こういう台詞は昔なら絶対に出てこなかった。でも、今のあたしならごく自然に言える。もちろん、あたしらしくないというか、似合わないというような気は する。それでも多少は大人になったということなのか、相手の気持ちというものを少しでも考えてみるべきだと思い、そう心がけようとしていた。自分のことし か考えられなかったころと比べればわずかであっても進歩だろう。シンジがあたしと会うのを迷惑がっている、と考えるのはあたしを傷つけるけど、過去の成り 行きを考慮すれば決してありえない話ではない。過去と決別し新しい生活を送っていた彼にとって、突然現れたあたしの存在はさながら忌まわしい亡霊だ。本来 なら目にしたくもない。まして話すことなど。
 むしろ、とあたしは運転を続けながら心の中で呟いた。むしろ、そう考えるほうが自然なのだ。

「別に……迷惑ってわけじゃない」

 けれど、シンジは戸惑ったような声であたしの危惧を否定した。戸惑っているのは過去のあたしを知っているだけに驚いたからだろう。
 考えてみれば、あたした ちはお互いに成長し、かつてのような幼い無邪気さはすっかりなりを潜めてしまった。開けっ広げで遠慮のない態度で接することができた同居時代が懐かしくは あるけど、三年ぶりに再会していきなりそのころのように戻れるはずもない。いや、もう戻るべきでもないのだ。
 もしかすると、シンジは再会したあたしのことを馴れ馴れしいと感じているのかもしれない。そう考えたあたしは、もう少し遠慮した話し方を試してみること に した。

「ありがとう。……あの、シンジくんにそう言ってもらえて嬉しいわ」

「今何て?」

「え? だから、迷惑じゃなくてよかったって。あたし、何か日本語がおかしかったかしら、シンジくん?」

 充分に気をつけながらあたしが横を見ると、シンジは勘弁してくれとでもいうように天井を仰いでため息を吐き出した。

「くん付けはやめろよ。アスカの顔した他人と話してるみたいで気味が悪い」

 ちょっと、むっとした。気味が悪いですって? せっかく日本人好みの控えめでしおらしい態度を取ってやろうと思っていたのに。そんなこと言うのなら、も う金輪際遠慮なんてしてやらないわ。

「……スピード、出し過ぎじゃない」

「あら、まさか怖いの、シンジさま?」

 調子に乗りすぎたあたしはその後たっぷり十分間ほど重苦しい沈黙に耐えなければならなかった。あたしのバカバカ。



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