前方にはいたるところで建設工事が行われている第3新東京市、そして巨大な芦ノ湖(第二だか第三だか知らないけ ど)が見えていた。さらに背後には箱根の 山並み。すでに日は沈みかけていて、西のほうから空が茜色に染まりつつあり、街も湖も山も赤い光を反射して輝いていた。高台には他に人影はなく、ただ昼間 とは違う種類のセミだけが盛んに鳴いていた。
 高台に着いてあたしたちは車を降りると、夕焼けに沈む街をしばらくの間眺めていた。そういえば、いつかもこうしてどこか小高い丘から街を眺めていたこと がある ような気がする。あれは確か夜で、街明かりがひとつもなく、そのために星空がとても綺麗に見えていた。そこにはあたしとシンジともう一人、綾波レイがいた はずだ。

「高校はどう?」

「どうって……普通だよ」

「クラブ、チェロじゃないのね」

「高校にはチェロを扱うクラブがないんだ」

「お父さんとは上手くやってる?」

「父さんとは……どうかな。父さんと暮らすのはほとんど初めてだし」

 あたしが何か質問するごとにシンジが言葉少なに答えるというのを先ほどからあたしたちは繰り返していた。このままでは本題に入る前に日が暮れてしまいそ うだ。でも、どうやって彼にそれを切り出すのか、あたしはこの期に及んでまだ迷っていた。

「レイのこと、訊いてもいいかしら」

「……綾波の何を」

 夕日に染まる街並みをじっと見据え、シンジは低い声で訊き返した。
 綾波レイは美しい少女だった。凍てついた氷を思わせる頭髪と炎を閉じ込めた瞳。穢れを知らない処女雪のような肌。まるで人形のよう、とはもはや褒め言葉 だ。 彼女は名前すら 完璧だった。
 一緒にエヴァンゲリオンのパイロットをやっていた当時は、いけ好かない女だと思っていた。理由はいくつかあるけど、何よりあたしは人形が大嫌いだったか ら。中学校の同級生たちは感情がなくて不気味だと話していたけど、 あれは感情がないのではなく表現の仕方を知らないだけだ。その証拠に彼女はシンジを愛していた。彼はその事実を信じないかもしれない。あるいは、その 出生の特殊さゆえに発生した擬似的な感情に過ぎないのだと考えるかもしれない。でも、あたしだけは確信している。当時、あたしがシンジへの憎しみに身を焦 がしていた間にも、綾波レイはおのれの中に芽生えた温かい感情をじっと確かめ続けていた。その感情の発露は彼女の最期の時に訪れた。彼女は自らを綾波レイ ではない正体の分からない何者かに明け渡してしまうことと引き換えに、シンジを救った。シンジと世界とどちらが大事かという問いかけは彼女には愚問だ。彼 女はきっと世界のことなど考えもしなかったに違いない。
 確かに彼女はその出生に人間でない何かを抱えていた。でも、彼女には人間同様の心があり、綾波レイという自我があり、綾波レイとしてシンジを愛してい た。ならば、たとえ彼女が人間でなかったとしても、おのれであることを失ってしまうことが平気だったはずはない。しかし、それでも彼女は躊躇わなかった。
 もしあたしなら同じ選択ができただろうか?

「あの子のこと、好きだった?」

「たぶん」

 シンジは少し自信がなさそうに答え、膝を折ってしゃがんだ。

「でも、その好きがどういう好きか、僕にははっきり言えない。確認のしようもない。綾波はもう戻ってこないのだから。死んだわけじゃないと父さんもリツコ さんも 言う。綾波は綾波でない何かになってどこかへ行ってしまっただけだと。でも、戻ってこないことに変わりはない」

 地面にしゃがんだ姿勢で手の指を交差させたシンジは赤い街並みを目をすがめて見つめていた。

「いつ、誰が、突然目の前から消えてしまうか分からない。だから、そうなる前にできるだけのことはしたい。綾波の時はそれができずに後悔した。他の時 も……。もう後悔はしたくないんだ。そう思って父さんとも一緒に暮らし始めた。でも、上手く行っているかどうかは分からない。上手く行けばいいとはいつも 思っているけど」

「じゃあ、あたしは?」

 問いかけると、シンジはこちらをちらりと見て押し黙った。

「あたしのことは好きだった?」

 しばらくの間彼は沈黙したまま答えなかった。あたしは車のボンネットに腰を預け、前方でしゃがんだ彼の後姿をじっと見つめて答えを待っていた。
 別に比較がしたいわけじゃない。それに、繰り返しになるけどあたしの本当の目的はシンジの気持ちを知ることではなく自分の気持ちを知ることだ。それでも あたしがこんな質問をしてしまうのは、やはり綾波レイに対して嫉妬を感じているからなのだろう。自分の中には憎しみしかないと信じていたあのころでさ え、あ たしは彼女とシンジの間にある温かい何かに嫉妬していた。
 でも、嫉妬を感じる一方で、当初はいけ好かないと思っていた彼女に対して今では不思議な親しみを感じてもいる。これは彼女のシンジへの気持ちにあたしが 共感しているからなのか。確かにシンジの言うとおり、彼女がいなくなってしまった今となってはこの捉えどころのない感情をはっきりさせることは難しい。

「僕は……分からない」

 ようやく出てきたシンジの答えはひどく曖昧だった。

「分からない?」

 あたしが鸚鵡返しに訊くと、彼はまた考え込むように口ごもった。もしかすると、こんな時でも彼はあたしを傷つけまいと本心を明かすのを躊躇っているのか もしれない。いや、本心を明かすことで傷つくのは彼自身だろうか。そう考え、あたしは彼の代わりに言ってあげた。

「あたしたち、仲悪かったものね。シンジがあたしを嫌っていても別にいいのよ」

「でも、仲が悪くない時もあった」

「……そうね」

 そう、仲が悪くない時だってあった。あたしは目を伏せ、そのころの情景を思い起こした。

「僕はたぶん、アスカともっと仲良くしたかった。アスカと上手くやって行けないことはつらかった」

 あたしもよ、と心の中であたしは静かに呟いた。彼がわずかでも同じ気持ちでいてくれたことが嬉しかった。

「でも、あのころの自分の気持ちを掴まえようとすると、ばらばらになって分からなくなる。落ち着いて何かを考えようとした時には、もう君はいなかったん だ」

「あたしは今ここにいるわ」

「……そうだね」

「この三年間だって、レイのように消えてしまったわけじゃない。あたしはいつもこの世界にいたわ」

「それは知ってる。……いや、知ってるつもりで目を逸らしていたのかな。昔のことを思い出すのはとてもつらいんだ。綾波のことも、アスカのことも、他のた くさんの出来事も」

 あたしは顔を上げ、シンジの背中をじっと見つめた。夕日を浴び赤く染まるその背は、とても寂しそうだった。そうしているとどうしてか涙が出てきそうだっ たので、あたしはボンネットに背中を預け、空を見上げた。

「変なこと訊いてごめんね」

「いや……」

 あたしが謝ったのでシンジは戸惑ったようだった。あたしたちしかいない高台にしばらくの間沈黙が横たわり、ずっと続いていたはずのセミたちの鳴き声が急 に息を吹き返して騒がしくなったように感じられた。
 この国を離れ故郷に帰ってからあたしが色々なことに答えを出そうと足掻いていたように、シンジもまた何かを見つけようと必死だったのだろうか。
 考えてみれば、あたしたちはお互いに離れていた期間のことをほとんど何も知らない。特にシンジのほうはあたしの状況など何ひとつ知らないのだろう。教え れば少しでも彼の考える助けになるだろうか。いや、そうではなく、あたし自身が彼に知っていて欲しい。あたしという人間を。

「ドイツで家族と暮らしてるの。パパとママと弟と一緒に。弟の名前はエミール。まだ七歳よ。サッカーが大好きですごく可愛いの。ママは……、ママとは血が 繋がらないんだけど、結構上手くやってるわ。よく料理を一緒に作るの。ママに教えてもらってるから、こう見えてなかなかの料理の腕前なのよ、あたし」

 シンジは立ち上がってこちらを見た。その視線を充分に意識しながら、あたしは空を見上げて言葉を続けた。

「パパとは最近よく話すわ。昔は大嫌いな人だったけど、今はそんなことない。本当は、あたしはずっとパパと一緒にいたかったのよ。娘としてパパに愛された かった。抱き締めて頬にキスをして欲しかった。なのに本当の、つまりあたしを産んでくれたママが死んじゃってパパが再婚してから、裏切られたような気がし て自分から手を離してしまった。それに気付くのに十年以上もかかってしまったけど、家族と一緒に暮らしている今の生活が、決して手遅れじゃなかったとあた しに教えてくれるわ」

「……そんな話は初めて知った」

 あたしがシンジのほうへ顔を向けると視線が絡み合った。

「そうね。でも、これから知ればいいじゃない。教えてあげるから」

 暮らしている街のことや恩師のもとで学んでいること、あたしは自分についての様々なことをシンジに話した。彼はあたしが喋っている間はほとんど黙ってい たけど、時折相槌を打ったりこちらを見たりするので、ちゃんと聞いているということは分かった。
 そのうちにふとした拍子で周囲の人間の男女付き合いの話になった。あたしたちの年頃ではどうしても気になる話題だ。特にあたしの場合、周りの人間のほと んどが年上なので、その手のかなり生々しいやり取りに耳だけは肥えていた。

「ねえ、あれから恋人でもできた?」

「いや。アスカこそどうなの」

「あたし?」

「ごめん。変なこと訊いた」

 申し訳なさそうにすぐシンジが付け加えたけど、あたしは笑って彼の心配を否定した。

「いいのよ。あたしも相手はいないわ。残念ながらね。大学でも研究以外では完全にベイビーちゃん扱いで、誰もそういう目で見てくれないのよ。何しろ研究室 ではあたし を除いて一番若 い人でも七つも歳が上だから。でも、シンジはそうじゃないでしょ。今日一緒にいた子たちも可愛かったじゃない」

 あたしはショートボブの小柄な女の子を思い出しながら言った。彼女は今頃ファミリーレストランで友人たちと一緒にいながら、シンジとあたしのことを考え て不安な気持ちでいるのだろうか。

「高校は楽しいよ。昔のことを知ってる人もほとんどいないし、男にも女にも仲のいいのは何人かいる。でも、恋とかどうとか僕はあまり興味ないな」

「ふん。興味ないふりをしてるだけじゃないの。あんただって男なんだから、考えることはあるだろうし、考えなくたって反応するところはあるでしょ?」

 言ってしまってから、自分がかなりきわどい発言をしたことにあたしは気付いた。いまさらだけど昔シンジとは同居していたわけで、少なくとも普通の友人く らいでは見られないような部分もあたしたちはお互いに知っている。考えなくても反応する時に彼がどうするのか、想像するのは簡単だった。
 気まずさを誤魔化すため、あたしはやや早口で付け加えた。

「それとも、あんたホモなの?」

「ホモじゃない」

 むっとしたようにシンジは答えた。もちろん、あたしは彼がホモじゃないことをよく知っている。
 妙な方向へ話題が流れたせいで、またしても高台を沈黙が支配した。あたしはふーっとため息を吐き出し、ボンネットの上に完全に身体を乗せて、頭の下に腕 で枕を作り寝転がった。お世辞にもお行儀がいいとはいえないということは充分承知している。そうしてボンネットの先からはみ出した脚をぶらぶらさせている と、シンジがやや批判的な眼差しを無防備なあたしの姿へ向けるのが分かった。それを意識しながら、あえて無視してあたしは高い空を見上げた。
 青と赤と紫のグラデーションに彩られた空がとても綺麗だった。昼と夜が交じり合う今この瞬間しか見られない光景にあたしは目を奪われていた。

「綺麗ね」

「え?」

 あまりに小さな呟きだったので、シンジにはあたしの言葉が届かなかったようだ。別にそのまま教えてあげてもよかったのだけど、ふとあたしは気紛れな悪戯 心を起こした。

「もしあたしが何て言ったのか知りたいのなら、あんたもこっちに来たら?」

 挑発するようなあたしの言葉にシンジは答えなかった。あたしはふんと鼻を鳴らし、ゆっくりと大きく息をして、目蓋を閉じた。
 ボンネットの上にいるあたしの身体に覆い被さるシンジの身体。若々しい汗の匂い。張りつめた筋肉。火傷するくらいに熱い吐息。シンジはあたしを容易く押 さえつけ、逃げられな くする。曲線を描くあたしの身体が彼の下で柔らかく潰される。彼の手があたしの下半身に伸び、押さえた膝の裏を持ち上げて脚を広げ、露わになったあたし の中心に硬くなった彼 が侵入 してくる。あたしは息を詰めて自らの中に押し入ってきた彼の存在を確かめる。
 それはすごく刺激的な想像だった。こういう想像はあたしを潤ませる。けれど、実際にはシンジはすぐそばに立ってあたしを見ているだけで、この肌に触れも しない。もちろん、この場で彼がそんなことをすると思っているわけではないし、そういう早急な行為を期待しているわけでもない。単なる思考の遊びだ。た だ、もしもそういう状況になった時、成り行き任せに身を投げ出してしまいたいという衝動に駆られるのではないかという予感があった。あたしはたぶん、そう なった時には彼のことを拒まない。自分を支配しているのが愛か憎しみか、それとも欲望なのかも分からず。かつてのリツコの気持ちもあるいはこのようなもの だったのかもしれない。
 しばらくして、車が少し揺れるのを感じた。目を開けて見ると、シンジが右横から車体にもたれかかっていた。彼の背中は黙ったまま何も言わない。あ たしは彼の背に手を伸ばしかけ、けれ ど届く前に指先を縮めて触れるのを躊躇った。

「シンジ」

「何」

「エヴァのこと、訊いてもいい?」

 彼が答えるまでにはしばらくの時間がかかった。その間あたしは彼の背中をじっと見つめていた。

「……いいよ」

「シンジはエヴァが嫌いだった?」

「ああ。嫌いだった」

「じゃあどうしてエヴァに乗り続けたの?」

 あなたはあたしよりも強かったじゃない。嫌がっていたくせに、誰よりも強かったじゃない。本当は、誰よりあなたがエヴァにこだわっていたんじゃないの?
 そう言い出しそうになるのをあたしは寸でのところでこらえた。彼を責めたいわけではないのに、注意していないと過去の屈辱が蘇ってきてあたしを飲み込ん でしまいそうだった。もちろん、それが本当のあたしだというのなら、受け入れなければならない。でも、今はまだ答えを出すのは早すぎる。

「僕は自分の意味を探していたんだ。エヴァにならそれがあるかもと考えた」

「意味?」

「意味さ。生きている意味、存在している意味だ。僕はまだ小さなころに母さんを亡くした。同時に父さんにも捨てられた。そのあとの十年は常に除け者だった よ。ほら、学校でよくあるだろ。二人一組を作るといつも一人だけ余るのさ。みんなはそれに気付き もしないか、気付いたとしても何も思わない。僕自身の責任とか、そういうことはひとまず措いて欲しい。問題は、僕が『何のために自分はここにいるんだ』っ て考えたこと。
 本当に訊いてみたかったよ。特に母さんにはね。彼女は父さんと結婚し、僕を産んだ。そして、そのたった四年後に自ら望んで初号機の中に取り 込まれた。僕にとっては死んだのと同じだし、実際に死んだとずっと思っていた。父さんが責任者を務めていた実験だか何だかに自ら志願して死んだ、という風 に教えられていたんだ。僕は素直にそれを信じていたし、あとから知った事実ともそう違いはない。ともかく、僕の前から彼女は消え、父さんも去った。
 そこで僕はこう思ったんだ。それじゃあ、どうしてあの二人は僕を作ったんだ? たった四年で捨てられるのなら、僕の存在にそもそもどんな意味があったっ てい うんだ?
 父さんや母さんがどれほどご大層なことをしていたかなんて関係ない。そんなことは僕には関係ない。二人とも面倒の看られない子どもなんて作るべきじゃな かったんだ。いざという時に簡単に捨ててしまえるような子どもを作るべきじゃなかったんだ。だって、親から見捨てられたら子どもは生きていけないんだか ら」

 シンジがあたしの過去を詳しく知らないように、あたしもまた彼の過去を詳しく知っているわけではない。母親が初号機に取り込まれたこと、父親との関係が 希薄なまま育ったことは知っていた。でも、そういう環境で成長していく中で彼が一体何を考えていたのかを、今初めて彼の口から聞いていた。
 彼の置かれていた境遇は多くの部分であたしと似通っていた。だから、あたしには彼の血を吐くような心の痛みが分かるような気がした。少なくとも、彼の痛 みを想像することはできる。けれど、かといってあたしが彼に憐れんだり同情しているわけではない。あたしはかわいそうとか同情とかという言葉が嫌いだ。こ ういった言葉には不運や不幸に見舞われている人間を自らより下位に置いて安堵するいやらしさがどこか漂う。あたしが彼の痛みが分かる気がするといっている のはそうい うことではない。ただ、感じずにはいられないということだ。無視できないのだ。目を逸らそうとしても否応なしに飛び込んでくる醜い傷痕。耳を裂く泣き声。
 それらはあたしを傷つけ、防ぐ術さえない。だから、あたしは彼を前にするといつも苛立っていたのかもしれない。まるで鏡に映る自分と向かい合っているか のように、あたしは彼の痛みを感じると同時 に自分の中に閉じ込めた痛みを感じずにはいられなかったから。
 けれど、痛みを感じることと、その痛みをどうやって処理するかというのは、もちろん別の問題だ。
 はっきり言おう。あたしたちの年代では生まれた時から親がいないというのは、ありふれた不幸に過ぎない。どこにでもある不幸に過ぎない。だからといっ て、それがつらくないなどと言うつもりは毛頭ない。けれど、数多くのそういった境遇にある人々が、図らずも負うことになった不幸に耐え、より大きな喜び を、幸福を手に入れようと今を生きている。
 しかし、あたしやシンジにはそれができなかった。
 あたしたちが自らの不幸に耐えられなかったのは、弱さゆえに他ならない。もちろん、弱さは悪ではない。人間である以上、誰しも弱さを抱えている。でも、 弱いからこそ、あたしたちはより強く優しくなることができる。手に手を取って少しでもよりよい明日を生きようとすることができる。
 たぶん、そ ういうものを愛とか希望とかいうのではないだろうかとあたしは朧気に思う。
 では、あたしもそういう人間になれるだろうか?
 シンジはそういう人間になれただろうか?

「今にして思えば、僕は自分の境遇に拗ねていただけだと分かる。拗ねて甘えようとしていただけなんだ。でも、当時はそれが分からなかった。逆にどうして周 囲の人たちは僕のことを理解してくれないんだろう、優しくしてくれないんだろうと考えていた。だって、僕はこんなにかわいそうじゃないか。こんなにエヴァ に乗って頑張ってるじゃないか。なのに、どうして父さんは僕を見てくれない? どうしてミサトさんは僕の努力を認めてくれない? どうして……、アスカは いつも僕につらく当たるんだ?」

「シンジ、それは……」

 釈明をしようとしたあたしをシンジは遮って言った。

「いや、いいんだ。今アスカを責めてるわけじゃない。結局、僕はエヴァに乗ることを嫌がりながら、それ以外に自分を表現する何かを探そうとはしなかった。 ある意味、エヴァに乗っていることが一番楽だったから。僕はつらい苦しいと言いながら、自分から行動せず楽なままでいようとしていた。
 でも、エヴァがなくなってからは、もう僕はエヴァパイロットの碇シンジじゃなくなった。ただの碇シンジだ。僕は何かをしなくちゃならなかった。僕は、自 分が何者かを決めなくちゃならなかった。でないと、また他人から無視され続ける生活だ。そんなことでは命をかけて助けてくれた綾波に顔向けできない。傷つ いたままドイツに帰っていったアスカにも顔向けができない。そう思ったんだ」

「……あたしにも?」

「アスカが僕を嫌いで、心底腹を立ててたってことは知ってる。僕のほうでもどうにもならない感情をぶつけたりみっともない真似をした。僕たちはお互いぐ ちゃぐちゃで救いようがなかったけど、本当はもっと上手くやっていきたいと思ってた。ひょっとすると僕たちはもっといい友達になれたんじゃないかって。
 でも、それまでのままでは無理だ。もっとましな人間にならなくちゃいけない。僕がぐずぐずしているうちに目の前からいなくなってしまったアスカ と、たとえもう会うことが生涯なかったとしても、僕はそのことを身を持って証明しなくてはならない。そう考えていたんだ」

 あたしは話し続けるシンジの後姿をじっと見つめていた。

「それで……、ましな人間にはなれたの?」

「……努力はしてる。少しでもそうなりたいと、毎日、毎日。かわいそうだから、苦しんでいるからという言い訳をして甘えていた自分を変えたい。朝、鏡の前 に立って、そこに映る自分の顔を見るたびに思い出すんだ。綾波やアスカ、トウジた ち、そして馬鹿だった自分のことを。たぶん、一生そうやって忘れずにいるんだろうと思う。でも、もしも僕が変わることができたなら、馬鹿だった過去を思い 出すつらさも少しは和らぐかもしれない。それが償いになるとは思っていないから、結局は僕自身が納得をしたいだけということだけど」

 彼の言葉に胸を衝かれてあたしは泣きたいような気持ちになった。シンジもまたあたしと同じように愚かだった過去の自分を悔い、少しでもましな人間になれ るよう 努力してきたのだ。
 彼はあたしと同じだ。過去がどうであれ、今こうして懸命に生きている彼を否定することなんてできない。それはあたし自身を否定することと等しい。

「本当のところ、今日最初に会った時にはまさか本物のアスカだとは信じられなかったんだ。アスカの幻覚を見るほど頭がおかしくなったか、それともアスカの 姿 をした何かが僕を罰しに来たのかと思ったくらいだよ」

「あたしはシンジを罰したりはしない。そんなことしないわ」

「そっか。ありがとう。ごめんよ、アスカ」

 少しだけこちらを振り返ってシンジは言った。あまりに一瞬で目を合わせる暇もなくて、あたしは彼が今どんな表情をしているのか心の中で思い描いた。それ は一緒に過ごしていたころには見たこともないような穏やかな表情に違いない。あたしはその表情をとても好きになれそうな気がした。
 それにしても、シンジから「ありがとう」なんて言われたことが昔あっただろうか。あたしのほうから言ったことがないというのは分かりきっているにして も。
 そして、かつてシンジが口癖に言っていたのと同じ謝罪の言葉に、初めて正真正銘の彼の心が込められていたようにあたしには感じられた。もはやどうやって 償い、さらにいつまでその償いを続ければいいのかも分からないほどに深い悔悟を抱えた末に絞り出した叫びだ。
 あたしは自分でも驚くほど穏やかな気持ちで彼に答えた。

「いいのよ。いいの。あたしこそ、たくさんのことをシンジに謝りたい。あのころはごめん。ごめんなさい」

 時間は確かに流れているのだ、とあたしは不意に悟った。十四歳のころから成長したあたしたちの身体のことを言っているのではない。あたしたちの精神を流 れる時間のことだ。肉体を取り巻く時間とは別に、あたしたちの中には別個の 時間の流れがある。たとえば、あたしの時間は四歳で経験した母キョウコの葬儀以来長い間止まってしまっていた。それが再び流れ始めたのは三年前にドイツに 帰ってからのことだ。シンジの場合も、きっと両親に捨てられた時から一歩も前には進んでいなかったのだろう。
 でもついに、あたしたちは足を踏み出した。過去に囚われているのではなく、明日を生きるために。そして、そうやって歩みを始めたあたしたちならば、きっ とこれまでとは違う関係にだってなれるとあたしは信じていた。あたしたちはかつての過ちを充分に認識した上で、きちんと向かい合うことができるはずだ。向 かい合って、今の自分と相手とをまっすぐに受け入れることができるはずだ。たとえ始まりが憎しみであっても愛であっても、その時に感じているままの心を素 直に受け入れることができるはずだ。
 ただし、そのためには今のあたしではまだ不十分だ。

「父さんがね、これをくれたんだ」

 と言って、シンジは開襟シャツの襟元に手を入れて引っ張り出したペンダントをあたしに見せてくれた。銀製のロケットペンダントで、蓋を開く と中に一組の家族の写真が納められていた。まだ若い夫婦と、二人に包まれ守られるようにして眠っている赤ん坊の肖像。彼らは小さな写真に納まるよう顔を寄 せ合ってこちらを見ていた。
 起き上がってロケットの中の写真を覗き込んだあたしはしばらく言葉も出なかった。この可愛らしい赤ん坊はシンジだ。あたしにはひと目でそれが分かった。 繊細そうな若い男性がシンジのお父さん。そして、優しげに微笑んでいる女性がシンジのお母さんだ。それはうっとりしてため息が漏れるほどに幸せな家族の姿 を納めた写真だった。車の中で彼の首元に気づいた時、彼がおしゃれとして身に着けているものと考えていたけれど、実はこういうことだったのだ。

「これ……シンジの家族?」

「うん。父さんと母さんと赤ん坊の僕」

「すごくいい写真ね。シンジのお父さんがこれを持ってたの?」

「ひとつだけ残してた母さんの形見だと言って僕にくれたんだ。父さんが母さんに贈ったものらしい。ふふ、あの父さんが一体どんな顔をして母さんにこれを 贈ったのかと考えたら笑っちゃうよ。僕にこれを渡した時の父さんの顔、見たこともないくらいに悲しそうな顔だった。
 この写真を見た瞬間、僕は思ったよ。何もかも全部間違っ てたんだって。両親に捨てられ誰からも顧みられないと拗ねていた自分も、エヴァや綾波を使って母さんを取り戻そうと躍起になっていた父さんも、父さんと僕 を捨てて初号機の中に消えていった母さんも。だって、写真の中の僕たち家族は本当に幸せそうじゃないか。自分にはないと僕が夢にまで見た家族の姿がここに は映ってるじゃないか。僕はきっと、父さんと母さんからとても愛されていたんだ。父さんは僕と母さんのことをとても愛していて、母さんも僕と父さんを心か ら愛していたんだ。なのに、どこでそれが狂ってしまったんだろう。とても幸せだったはずだったのに、どうしてばらばらに壊れてしまったんだろう。
 今となってはその理由を知ることはできないし、たとえ知ったところで過去の幸せが戻ってくることはない。ただ、確かに愛されていたという過去を知ること ができただけで僕には充分だった。何のために生まれてきたのかという僕の疑問に答えが与えられたんだ。だから、今ここで意固地になって後悔したりはしたく なかった。それで、父さんと一緒に暮らし始めた。学校とかクラブも同じ気持ちでやってる。まだぎこちない部分はあるけど、いつかは慣れていきそうだ」

「そうなの。……大切なものを見せてくれてありがとう、シンジ」

 あたしは手に取って眺めていたロケットをシンジに返した。彼はしばらく自分で中の写真を見つめ、それから大事そうに蓋を閉じてシャツの中に仕舞った。
 ボンネットの上に座っているあたしとその脇に立つシンジは、それから少しの間お互いに言葉を捜すように見つめ合っていた。やがて、あたしたちは近くにあ る相手の顔が判別しづらくなるほど辺りが薄暗くなってきていることに唐突に気付いた。

「暗くなってきたわね……」

「うん。もう日が沈む」

 西の山陰に沈もうとしている太陽が最後の光を投げかけていた。いつの間にかセミの声は絶えてしまっている。あたしたちは光が完全に山の向こうへ消えてし まうまで、静かに見守っていた。やがて夜の深いため息があたしたちの周りをしんと取り囲んだ。

「帰りましょう。家まで送るわ」

「ありがとう」

 もうお互いの姿は周囲に溶ける真っ黒な影にしか見えなくなっていた。あたしはボンネットを降りようと身動きをした。もともと彼に扇情的な姿を見せるため に登ったのに、こうも真っ暗になってしまっては意味がない。そう考えて苦笑しつつ短いスカートの裾を乱すのも構わず手探りで降りようとしていたところ、暗 闇から伸びてきたシンジの手があたしの脚にそっと触れた。
 思わずあたしは硬直して息を呑んだ。何か言おうと喉の奥で言葉を探す矢先に心臓の音がそれらを掻き消してしまった。汗が噴き出して来る。直接肌に触れら れた脚が火傷しそうに熱い。一体シンジはどうするつもりだろう。このあたしをどうしたいのだろう? めまいがするくらいの期待や恐怖や興奮があたしの中で 渦巻いていた。
 でも、そんなあたしの内心をよそに、シンジが発した言葉は予想とはまるで違うものだった。

「暗くて危ないから」

 おずおずと確かめるように探っていた彼の手が車体の上に置かれたあたしの手を探り当ててしっかりと重ねられた。あたしは彼の顔を捜したけど、やはり黒 いのっぺら ぼうな影が近くにあるだけで、彼がどんな表情をしているのかまったく分からなかった。

「……ちゃんと支えてね」

 随分と躊躇ったのちにあたしは手のひらを返して重ねられたシンジの手を握った。彼の手は温かく、少し汗ばんでいて、とても大きく感じられた。ごつごつし た指の感触を確かめ、あたしはどきどきした。離したくなくて指を絡めようとすると、くすぐったそうに彼の指先が震えた。心臓はまだ盛んに騒ぎ立てていて、 努めて抑制していないと叫び出してしまいそうだった。
 もう片方の腕も彼がいるほうへさ迷わせたらすぐに彼の身体にぶつかった。 あたしは彼の肩を掴んで支えにし、滑るようにボンネットの上を移動して安全に地面に足を降ろした。その間、彼の手は暗闇に紛れてあたしの身体に悪戯するよ うなことはせず、とても礼儀正しくて、そして緊張で汗ばんでいた。
 あたしたちは手を握り合ったまま暗闇の中で向かい合った。すぐ近くにいるはずなのにまったく姿が見えない。ただ体温と吐息だけを感じていた。
 このままでいるのも決して悪くはない、とあたしは思った。でも、それはできない。あたしはもう決めたのだ。
 家へ帰ろう。あたしの家があるドイツへ。
 帰って、あたしはあたしという人間にきちんとなろう。そうして、今度こそシンジと真正面から向かい合うのだ。そのためにはドイツでの生活を放り出しには できない。そんな中途半端では顔を上げて彼と向かい合うことはできない。
 待ち望むその日が来るまで、もうしばらく心の中 で彼を想っていよう。必死になってその意味を探すまでもなく、ありのままの感情を受け入れることが今度こそできるはずだから。

「いけない。忘れるところだった」

 シンジの家の前で彼を降ろしてから、あたしはバッグの中に忍ばせていた可愛らしい包装がされた箱のことを思い出した。すぐにそれを取り出して窓を開け、 もう別れを済ませて背中を見せて行ってしまいそうになっていたシンジを慌てて呼び止めた。

「待って! シンジ、受け取って」

 我ながら乱暴だったとは思うけど、振り返ったシンジに向かってあたしは窓からチョコレートの箱を投げ渡した。びっくりしながらも反射的な動作で彼が無事 受け止 めたことを確認すると、あたしはいまさらながら恥ずかしくなって、早口に言った。

「一日早いけどバレンタインチョコよ。それじゃ、シンジ。バイ」

 シンジが何か言うように口を動かしていたけど、すぐに窓を閉めて車を出したあたしまでその声は届かなかった。でも、焦ることはないのよ、シンジ。たとえ どれほど時 間が過ぎたあとでも、あたしたちは必ず分かり合えるわ。生きている限り、あたしたちは通じ合えるわ。

 だからそれまで、さようなら。
 またいつか会いましょう。

「……ハーイ、ママ? アスカよ。明日のフライトで帰るわ。出発はそっちの時間では明日の早朝ということになるかしら。ええ。いい滞在だったわ。その話は また帰って。お土産もあるから。うん。パパとエミールにも伝えておいて。あたしも愛してるわ、ママ」

 電話から聞こえてくる少し遠いドイツ語がひどく懐かしく、そして愛おしかった。





「こら、テオ。お外から帰ったらまず上着を脱いで手を洗いなさい」

 玄関のドアを開けるなり靴を脱ぎ捨てて一目散に飛び込んでいった小さな背中に向かって、あたしは呼びかけた。自分のコートを脱ぎながら返事を待っていた けど、どたどたと走り回る足音のほかは聞こえてこない。あたしはもう一度大声で名前を呼んだ。

「テオ! お返事が聞こえないわよ!」

 笑い声と一緒にどたどたした足音が近づいてきて、あっという間に小さな子鬼みたいな影があたしの脚に衝突した。きらきらと輝く大きな青い瞳があたしを じっと見上げ、言った。

「ママ」

「ほら、テオったらコートがびしょ濡れじゃない。早く脱がないとまたお熱が出るわよ」

 脚にしがみつく息子の柔らかい黒髪をくしゃっと撫で、あたしは自分のコートを玄関を入ってすぐのところに置いてあるコートハンガーに掛けた。それに見た 息 子も自分 のコートを不器用に時間をかけて脱いでから、自慢げにあたしを見上げた。あたしは褒めてあげながらお人形に着せるような小さくて可愛らしいコートを受け取 り、何度かはた いてから同じようにコートハンガーに引っ掛けた。

「さ。次は洗面所で手を洗いに行きましょ」

 息子のテオは三歳のやんちゃ盛りだ。雪の積もる公園で目一杯遊んで帰ってきたところだというのに、その有り余る元気は一体どこから湧いてくるのだろう。 とてもではないが、親とはいえ大人のあたしでは体力がついていかない。お腹に大きな贈り物を抱えている今は特に。でも、勘弁してくれと音を上げながらも、 見ているとこちらが元気付けられるのが子ど もの不思議なところだ。まるで魔法使いのよう。
 洗面所でテオを台の上に乗せて手を洗わせると、彼はまたすぐさま弾むボールのように駆け出して行った。リビングを通り抜けるついでにバッグを下ろし、 キッチ ンでコーヒーでも淹れようかしらと考えていると、玄関のドアが開閉する音 が聞こえた。耳を澄ませば、がたごとと荷物を下ろしたりコートを脱いだりする音に続いて派手なくしゃみ。やはりコーヒーを淹れたほうがよさそうだ。
 しばらくして近づいてきた足音はコーヒーメーカーを用意するあたしの背後で止まり、「ずずっ」と鼻を啜ってから言った。

「ああ、外は信じられない寒さだよ。もうヒーターはつけた?」

「リビングだけ」

「コーヒーくらい僕が淹れるのに」

「あたしがしたいの。あなたはリビング以外のヒーターもつけて、テオが何してるか見てきて」

 そこで初めて振り返ると、あたしの夫は手に封筒を持って面白そうにしている表情でこちらを見ていた。

「シンジ?」

 夫の名前を呼ぶと、彼は顔の横に持ち上げた封筒をひらひらと振って言った。

「国際郵便が届いてた」

「日本から? あなた宛かしら」

「妹からだよ」

「面白そう。読ませて」

「リビングでね。さて、部屋を暖めて、うちのわんぱく坊主を掴まえてこよう」

 文字どおり小脇に抱えられてはしゃぐテオとシンジがリビングにやって来るころには、あたしは大人用のコーヒーと息子のためのホットミルクをちょうど作り 終えてい た。あたしたちはまだ少し寒いリビングのソファにテオを真ん中にくっつき合って座り、温かい飲み物で暖を取った。

「ねえ、さっきの手紙見せてよ、シンジ」

「いいよ。でも、まずは僕からだ」

「駄目。一緒に読むの」

「ねぇ、なにみるの? ぼくにもみせて。みせてみせてみせて」

 ということで多数決により、封を破って取り出された便箋をあたしとシンジが左右から持ち、真ん中にいるテオの顔の前で広げた。ポップな猫のキャラク ターが ついた女の子らしくて可愛い便箋には、丁寧に書か れた丸っこい字で「お兄ちゃんとお姉ちゃんとテオくんへ」と始められていた。

「ほら。三人宛じゃない」

「僕は実の兄貴なんだぞ」

「知ってるわよ、そんなこと。みっともないこと言わないで。先を読みましょうよ」

 シンジの妹は確か今年の春から中学生になるはずだ。手紙の内容はまず当たり障りのない近況や、会いたいから日本を訪れて欲しい、あるいは逆に自分がドイ ツを訪れたいといった希望。そして、本題には来たる二月十四日のセントバレンタインズデーのことが書かれていた。

「バレンタインデーにチョコレートを送ります。お兄ちゃんとお姉ちゃんの二人にひとつ。テオくんには別の包装でひとつ。紙を張ってあるのでどっちがどっち かすぐに分かると思います。チョコレートは私が選んでお小遣いで買いました。お父さんもちょこっと援助してくれたけど。ドイツまでの送料はお母さんが出し てくれました。……ですって」

 結びには碇メグミとある。
 今日は二月十三日だ。もしも日付指定をしているならば、明日にはシンジの妹からバレンタインズチョコレートが届くことになる。

「ふぅん」

「にやけてるわよ」

 あたしが夫の頬っぺたをぎゅっと摘まむと、彼は大袈裟に痛がってみせた。

「パパ、ママ。だれからのおてがみなの?」

 日本語で書かれた手紙が読めるはずもなく、テオはさっぱりわけが分からないという顔であたしたちの服を引っ張った。

「日本にいるメグミお姉ちゃんからよ。チョコレートを送ってくれるんだって」

「ぼくにくれるの?」

「そうよ。テオとパパとママ、みんなによ。届いたらお礼言わなくちゃね」

「うん。ぼくチョコだいすき!」

 テオは嬉しそうに満面の笑顔を浮かべて言った。でも、そういえばテオは九つ違いの自分の叔母のことを憶えているのかしら。前に会った時にはまだテオは二 歳だった。

「ねえ、テオ? メグミお姉ちゃんのこと憶えてる?」

「ううん。わかんない」

 けろっと答えたテオは小さな手で挟むようにしてプラスチックのマグカップを持ち、こくこくとホットミルクを飲んでいた。
 あたしとシンジは顔を見合わせて苦笑した。

「無理もないか。一年以上会ってないからな。今年のクリスマスや新年もこちらで過ごしたし」

「そうね。本当は会いに行かなくちゃいけないところだけど、今はしょうがないわ」

「当たり前だよ。そんなお腹で飛行機なんてとんでもない」

 シンジはそう言って、いたわるようにあたしの膨らんだお腹を優しく撫でた。その大きくて温かい手の上にあたしも自分の手を重ねた。あたしはテオの妹にな る子を妊娠していた。来月には臨月を迎える。

「メグミが夏休みに入ったらこっちに誘ってみたらどう? 春を待たずこの子も産まれてくるんだし、ちょうどいいじゃない。あなたもそこに合わせて休暇を取 ればいいと思うわ。今年は三週間くらい取れるでしょ」

「三週間はきついなぁ。それまでに相当頑張って働いておかないと」

「それじゃ二週間と半分に負けてあげるわ。それであたしたちの相手もちゃんとできるわよね?」

「善処いたします、奥さま」

 慇懃にかしこまったシンジがすっと会釈をして言った。間に挟まれたテオはそれをきょとんとした顔で見上げ、それから面白いと思ったのか同じ仕草を真似て みせた拍子に、 手の中のホットミルクを傾けてじゅうたんに零した。慌てて息子の手をまっすぐに支えたあたしは、飛び上がってタオルを取りに駆けて行った夫の後姿を見て、 何だか泣けてくるくらいにおかしくて笑ってしまった。
 実際には二週間くらいしか休暇は取れないかもしれないけど、それは構わない。短い夏が訪れたらあたしとシンジとテオ、そしてそのころにはあたしの腕の中 に抱 かれているはずの赤ちゃん と一緒に、シンジの妹とその両親を迎えてバカンスだ。あたしの両親が一緒でもいい。南ヨーロッパのどこか、あるいは北アフリカでもいいから、眩しい太陽の 光を浴びに行こう。
 きっとそこで、あたしはあの懐かしい国の殴りつけるように強く激しい陽射しを思い出すだろう。
 あの初めてのバレンタインを思い返すと、当時の想いが今でも甦ってくるようだった。その鮮やかさにあたしは胸が熱くなる。一世一代の恋は決して間違って いなかった。だって、当時からは想像もつかないくらいにあたしたちは幸せなのだから。
 ところで、たとえ渡す相手が兄とはいえ、リツコの子がセントバレンタインズデーを意識するようになったのはあたしにとって感慨深いことだった。あの日か らもう十二 年以上もの月日が流れたのだ。あたしにとって初めてのセントバレンタインズデーから。

「懐かしいわね」

「何が?」

 すでにテオは子ども部屋で寝付いており、あたしたちもあとは寝るだけとなって寝室で過ごしている夜遅くのことだった。鏡台の前に腰掛け、髪の毛を梳かし ていたあたしがぽつりと漏らすと、ベッドの頭のほうの壁に背中を預けて脚を伸ばし本を読んでいたシンジ が訊ねた。あたしは手を止めて彼のほうをちらりと振り向き、それからまた髪を梳かす作業を再開させて答えた。

「あたしたちの初めてのバレンタインよ。あなた、憶えてる?」

「ん? ああ、んん……」

 何だかシンジは急に喋れなくなったみたいに「ああ」とか「うう」とかもごもご繰り返すだけで、きちんと答えてはくれなかった。あたしはまた彼のほうを振 り返ると、今度はじっと彼に視線を向けながら言った。

「シンジ? まさか忘れたとは言わないわよね?」

「も、もちろんだよ。アスカ」

「ふぅん?」

 夫の態度にどこか不審なところがあるけど、あたしはひとまず寝る前のお手入れに意識を戻した。まだ若いとはいえ、手を抜くと色々と不都合が出てくる歳に はなった。何しろあの時まだお腹も膨らんでいなかったリツコの娘が今年は中学校へ上がろうというのだ。歳でいえば十三歳。十三歳といえばあたしが初めてシ ン ジと出会ったのと同じ年齢だ。実際に十三歳になるのはまだ何ヶ月も先のことだけど、もう初潮も迎えただろうし、初々しい恋のひとつやふたつも経験したろ う。父親や兄へ贈るほかに、同級生の男の子にでもチョコ レートを用意し、胸を高鳴らせているのかもしれない。そうやって自分の中の女を自覚していくのだ。リツコとあたしがお互いの悩みを打ち明けあっていたあの ころにはまだ生まれてさえいなかったシンジの妹が、 と考えるとあたしはとても不思議な心持ちになった。

「ドイツへ帰る日、空港へ突然あなたが現れてびっくりしたわ。でも、すごく嬉しかった」

 シンジがあの時あたしを見送りに来たのには本当に言葉を失くすほど驚いた。前日にチョコレートを渡して別れたあたしは、次に日本を訪れるまでは 彼に会うこともないだろうと思い込んでいたので、何の前触れもなく現れた彼の姿に自分が夢でも見ているのではないかと疑ったほどだった。愛の告白があった わけでもなかったのだけど、汗を流し肩で息をしながらあたしを探し当てた彼を前にして、間違いなく恋に落ちた自分を自覚した。

「ああ。父さんからアスカのフライト時間を聞きだしてね。学校をサボって電車に飛び乗って。でも、空港では右も左も分からなかったから、相当走った記憶が あるな」

「あの時のシンジ。すごく格好よかったわ」

 あたしが微笑みかけると、シンジは本で顔を覆ってあたしから隠れた。そういう可愛いところがすごく好きだ。だから、時々あたしは「愛してると言って」 と迫って彼を困らせたりする。そのたびに彼は困った顔をして「僕は欧米の男とは違うんだ。そんな言葉、軽々しく何度も言えない」と弁明する。でも、最後に はちゃんと耳元で囁いてくれるのだ。そういう時の、とても大事な秘密をこっそり教えてくれるような彼の言い方もたまらなく好きなのだ。本当にそれだけで幸 せに満たされる。彼が囁いた愛はちゃんとあたしの中に降り積もっている。お腹の中の赤ちゃんもきっとそれを感じているに違いない。
 今夜も迫っちゃおうかしら、と肌のお手入れも終えたあたしは大きなお腹を手で抱えながらよっこいしょと立ち上がり、シンジのいるベッドの端に腰かけた。 でも、せっかくシンジにくっついて身体を伸ばそうと思っていたのに、彼はいきなり本を閉じてベッドから降りてしまった。
 思わずあたしは呼び止めてしまった。

「シンジ」

「待ってて、アスカ」

 こちらを振り向かずにシンジは答えると、戸棚の引き出しをごそごそと漁って細長い箱を取り出し、あたしのところまで持ってきた。

「ちょうど日付が変わったところだから、渡そうと思って」

 彼はベッド脇に置かれた時計をちらりと見て言った。確かに午前零時を過ぎたところだった。日付の上では二月十四日になる。

「これ、あたしに? バレンタイン?」

「そうだよ」

 あたしはとても驚いていた。今年のバレンタインにはすでに二人で一緒に選んだティーカップのセットを買っていたので、夫がこっそり別のプレゼントを用意 していただなんて、まったく知らなかったのだ。道理でさっきからそわそわしていると思ったけど、こんなことを考えていたなんて。
 彼はあたしの隣に腰を下ろし、寄り添って肩を抱いてくれた。

「開けてもいい?」

「もちろん」

 包装を破って紙の箱を開けると、細長いビロードのケースが出てきた。大きさと形でもしかしてと思っていたけど、やはりネックレスかしら。あたしはどきど きして蓋を開いた。中に入っていたものを確かめ、あたしはずっとこちらを見守っていたシンジと見つめ合った。それは綺麗な銀製のロケットペンダントだっ た。
 もちろん、昔シンジがお父さんからもらったお母さんの形見ではない。もう滅多につけることもないけど、あのペンダントは今も大切にしまわれている。
 あたしはペンダントを取り出し、手の中でよく眺めた。彼がどういう想いでこのペンダントを選んだのかを想像すると、涙が出てきそうだった。

「ありがとう。最高に素敵なプレゼントよ」

 ロケットの蓋を開けると、中はまだ空のままだった。

「お腹の子が産まれてきたら、四人で写真を撮って入れよう」

「うふ。四人一緒で写ると窮屈になっちゃうわね」

「そうかな」

「そうよ、ハニー。だから、こんな風に近づいて撮らなくちゃ」

 あたしはそう言ってシンジに顔を寄せていった。あたしたちは至近距離から見つめ合い、しばらくしてお互い吸い寄せられるように唇同士が触れ合うと、 あたしは目蓋を閉じて彼の首に腕を回した。片脚を彼の膝の上にあげ、それでもまだもどかしかったので、向きを変えて正面から彼を跨いだ。突き出たお腹を彼 に圧しつけて 潰さないよう気をつけながら、あたしは何度も彼の唇を吸った。

「あの時、空港でしたキスがセカンドキスだったのよ」

「じゃあ、今のは?」

「どうかしら。数えてみる?」

 もう何度目になるか分からないキスを繰り返し、あたしたちはくすくす笑った。ベッドの中央に移動して抱き合いながら、段々と熱のこもったやり取りに変化 していった。
 あ、やばい。スイッチ入っちゃいそう。
 どれくらいそうしていただろうか。あたしたちは不意に部屋の外、扉の前に気配を感じて同時に動きを止めた。突然しんと静まり返る室内に、あたしたちの抑 えられた息づかいだけが低く響いた。あたしたちは顔を見合わせ、どちらともなく苦笑のようなものを浮かべて一緒に扉を見つめた。

「入っておいで」

 あたしが声をかけると、恐る恐る開かれた扉からパジャマ姿のテオが顔を覗かせた。彼はお気に入りのクマのぬいぐるみの足を掴み、ベッド脇までやって来て あたしたちを見上げた。

「どうしたの?」

 シンジから離れてテオのそばへ近づき、顔を覗き込んであたしは訊いた。あたしの隣でベッドの下へ足を降ろしたシンジが「おいで」とテオを抱え上げて膝に 乗せた。

「こわいゆめみたの」

 テオは涙ぐみながらぽつりと言った。

「どんな夢?」

「ぼくとカールがチョコのおばけにたべられちゃうんだ」

 カールというのはテオが大事そうに抱えているクマのぬいぐるみだ。あたしのママからこれを贈られて以来、息子にとってカールは大切な親友だった。時折、 扱いが悪くて中のわたが寄ったり飛び出したりしているけれど。

「まあ。二人を食べちゃうなんて随分大きなおばけなのね」

「うん。おうちくらいあった」

「そっか。でも大丈夫だぞ。今度出てきたらパパがやっつけてやる」

「ほんと?」

「ほんとさ。やっつけたら、パパとテオで一緒にチョコレートを山ほど持って、ママにお菓子を作ってもらおう。ケーキ、ブラウニー、クッキー、マフィン。 ホットチョコレートもいいな」

「たくさんたべても、おこらない?」

「もちろん」

「わあい」

 シンジの話にテオは喜んで笑った。首っ玉にかじりついた息子をシンジはしっかりと抱き締め、あたしはさらに二人を抱くようにして、息子の頬に大きなキス をした。
 それにしても、明日は確かに日本からチョコレートが届くけど、どうやらそれとは別に買ったほうがよさそうだわ。このテオの喜びようったら。

「ねえ、パパ?」

「ん?」

「パパはどうしてはだかんぼなの?」

 テオが不思議そうに父親を見て言ったのを聞き、あたしは思わず「あちゃー」という顔で上半身裸のシンジを見た。先ほどあたしが脱がしてしまったシンジの パジャマは、ベッドの隅でくしゃくしゃになっている。妊娠後期に入っているのでそういう行為ができなかったのが逆によかった、とあたしはほっとした。
 それはともかく言い訳だ。どうしようかしら。

「え、えーっと、それは……」

 きらきらと好奇心に輝いた瞳でテオはあたしを見上げていた。シンジと視線を合わせたけど、彼にも咄嗟に上手い説明が思い浮かばないようだった。
 仕方がないわ。ごめんね、シンジ。

「パパをこちょこちょして遊んでたの。テオもやってみる?」

「うん!」

「うわっ! ちょっ、待った!」

 小さな襲撃者に飛びかかられ、悲鳴を上げてシンジは後ろに倒れた。まるでガリバーと小人みたいだ。夫と息子がベッドを揺らしながらくすぐり合いをして遊 んでいる光景を横から眺めて、あたしは口を開いて声を上げて笑った。こんな時間なのでテオはすぐに寝かしつけないといけないけど、ちょっとくらいは大目に 見よう。

「楽しそうなパパとお兄ちゃんでしょ? あなたも早く生まれてきてね」

 シンジから贈られたロケットペンダントをもう一度手に取って、あたしは膨らんだお腹に話しかけた。それに答えるように、赤ちゃんはぽこぽこと元気よくあ たしのお腹をノックした。










ハードボイルド・ラブ・オーケストラ








今日はバレンタイン今日はバレンタイン今日はバレンタイン!

ほわわわわーん(何か洗脳的な音)!




 最後までお付き合い下さり、誠にありがとうございました。

 バレンタインに間に合うようにかなり前から書き始めていたので、「HAHAHA、ヨユー、ヨユー」と気楽に構えていたら、余裕で間に合いませんでした。 宇宙 は不思議で満ち満ちています。
 あとがきを書いている時点ですでに三月第一週が終わろうとしているのですが、気にしないで頂けたらと思います。私のお話をお待ち下さった少数精鋭の方々 (いらっしゃるのでしょうか?)には特にお詫び申し上げます。書くのが遅くてごめんなさい。
 というか今日はバレンタインデーですよね?

 長くなりましたので、いくつかに分割しました、という言い訳をするのは何度目になるだろうかと考えております。100kbを越えた時点で分けなくてはい けないとは思いましたが、いつの間にかさらに分量が増えていました。文章量と比例してぐだぐだ感も増しているようで、少し失敗したような気もい たします。 お話の中でいきなり時間が巻き戻って過去の会話を始めたりするのは意図的なものですが、読みにくいでしょうか。
 長すぎて読むのをおやめになった方々もいらっしゃるでしょう。退屈を感じられるようならそれは私の力不足です。あとがきで書いても仕方のないことではあ りますけど。

 戦後アスカがドイツに帰ったのは、2016年の3月から4月くらいの時期とでも考えておいてください。再来日が2019年の2月です。
 International Advanced Technology Reseach Organization(略してIATRO)。
 エイダ・ラブレスは史上初のプログラマといわれています。
 マービン・ミンスキーは人工知能の父だそうです。ただし詳しくは知りません。
 リツコはおっちょこちょいな万能猫型ロボットでも作ればよいと思います。出番がかなり多いのですが、いっそ彼女を主役にお話を作ればよかったのではと、 正直なところ思っております。リツコが好きなのです。たとえ眉毛ボーンでも。
 ヒマシ油は伝統的な下剤の材料です。私はミルクなしで砂糖のみ入ったコーヒーが飲めません。夏場に喫茶店でアイスコーヒーを頼んだ時に、なぜか最初から ガムシロップが投入されていて、思わず口に含んだまま石化した甘いようで苦くてどうでもいい思い出があります。
 舞姫の新解釈行ってみました。実際にはどんな議論があるか知りません。
 目が覚めてもすぐにまた眠れば夢の続きが見られることがあります。私は得意です。暗示次第なのかもしれません。まあ、平日に二度寝をしたら死あるのみ、 ですけど。
 あと青と赤を混ぜると紫ですね、とか。夕暮れ時のダイナミックな色彩に染まった雲が好きです。
 セミの抜け殻は嫌いです。
 ボンネットに乗るのはやめましょう。
 それから、ドイツ語圏のテオという名前が好きです。

 一部表現を不快に感じられる方がいらっしゃいましたら、お詫びいたします。申し訳ありませんでした。
 でも、できれば楽しんで頂けたらと願っております。

 それでは、改めて掲載して下さった怪作さまとお読み下さった方々にお礼申し上げます。ありがとうございました。


 rinker

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