あちらこちらで復興作業が続けられている第3新東京市においてはなかなかの好立地といってもいいだろう。あたし は十五階建て高層マンションの根元から てっぺんを見上げて、そのように思った。
 あたしが来日して四日目の今日は土曜日。休日の午前中ということで住宅街は穏やかな静けさに包まれている。どうやら過去の戦災は免れた地区らしい。戦災 と いうと、つまりはエヴァと使 徒が暴れて瓦礫の山にし たという意味合いなので、あたしとしては心苦しいものがあるのだけど。
 昨晩リツコが作った煮魚と詰め物をして焼いたイカを土産に持って目指す部屋がある八階でエレベータを降り、やや馴染みの薄い名字が書き込まれた表札を確 認すると、インターホンを押した。そして待つこと十 秒。

「はい、どちらさま?」

「アスカさまよ。この部屋は包囲したわ。大人しく扉を開けなさい」

 かすかに聞こえるどたどたという足音。空気圧シリンダーの扉が横に開き、出てきた人物はあたしの直前でたたらを踏んで息を飲んだ。慌てなくても逃げやし ないってのに。

「ア、アスカ……」

「ご無沙汰ね、ミサト。少し太った?」

 懐かしい葛城ミサトの姿を見て、あたしは言った。もちろん、冗談だ。Tシャツの胸元から厚かましくせり出した脂肪の塊から視線を下ろし、ショートパンツ か ら伸びるむっちりとした脚をあたしは眺めた。背丈 は勝ってるんだけどな。

「本当に久し振り。背が伸びたのね。しかもこんなに綺麗になって。私、連絡をもらって本当にびっくりして……」

 ミサトが両手をそわそわと落ち着かなく上げたり下げたりする。まるでどうしていいのか分からないという顔をしながら、それでもあたしからは決して目を逸 らそうとしない。ああもう、じれったいったらないわよね。
 あたしは軽く両手を広げて彼女に言ってやった。

「何をぐずぐずしてるの。再会した友達がすることは決まってるでしょ?」

 この言葉に背中を押されたミサトが一歩前へ踏み出して、あたしを目一杯抱き締めた。ああ、何てこと。ミサトの身体をこんなにも小さく感じるだなんて。

「アスカ。おかえりなさい」

「ん。ただいま」

 頬をすり寄せて、あたしは軽くミサトの背を叩いた。いい匂いするな、こいつ。

「さ、家には入れてくれるんでしょうね」

「もちろんよ。上がってちょうだい。散らかってるけど……」

 促されてあたしは玄関から中に上がる。

「そうだ、これお土産よ。ちょっと今お魚が余っちゃってて、リツコが持っていけって言うから」

「あら、ありがとう。嬉しいわ。そういえばリツコのところに泊まってるんだったっけ。見かけによらず料理が上手いでしょ、あいつ」

「あたしも意外だったのよ、それ。ところで、日向さんはいるの?」

「今日仕事なのよ。本当にタイミング悪いんだから」

「休日なのに忙しいのね」

 ミサトが暮らすこの家の表札に掲げられた名前は、彼女のものではなく、日向となっている。日向マコトはネルフ時代のミサトの部下だった。日向マコトは現 在もIATROに勤めているそうだけど、すでにミサトは別の仕事に就いているので、身分を気にする必要はない。あたしがドイツに 帰ったあとから付き合い始めたのだそうだ。結婚はまだしていないけど、こうして一緒に暮らしているくらいだからそのうちするのだろう。過去にあた しの保護者役だったミサトの家ではなく自分の家に泊まるようリツコが勧めてくれたのは、これが理由だ。あたしだって恋人同士が同棲する家で寝泊りなんてし たくない。気づかいをする分別くらいは持ち合わせているし、それに恥ずかしながらあたしは想像力たくましい年頃なのだ。夜中に目を覚ましてバツの悪い思い をする羽目にはなりたくない、と考えるくらいには。
 驚いたことに、実際には部屋はそれほど散らかっていなかった。かつての惨状を身近に知っているだけに驚きもひとしおだ。コーヒーを用意する 彼女の後ろからちらりとキッチンを見渡したけど、酒瓶が散乱しているということもなく、いたって普通だ。

「なーんか期待はずれ」

「えーっと、どういう期待をしてたのかなぁ、アスカ」

 リビングのソファに腰掛けて、あたしはミサトが淹れたコーヒーを飲みながら首を傾げた。ミサトは頬を引きつらせて笑っているけど、昔一緒に暮らしていた 仲だけに言い返すことができないみたいだ。

「さすがのミサトも男と一緒に暮らすとなると変わるってこと?」

「別にもともと私は……、当時はちょっと忙しすぎて色々手が回らなかっただけで……」

「はいはい。そういうことにしといてあげましょ。で、いつ結婚するの。するんでしょ?」

「あ、うん……。今年の六月」

 ミサトの顔がすっと静かな微笑みをたたえた。そこに幸せがある、というのは当然だろう。でも、それだけではない。古くなった傷痕を慰撫するような寂しさ が彼女の表情からは感じられる。ただ無邪気に幸せに酔うには、あたしたちはあまりに多く傷つき過ぎた。あたしもミサトもそれを忘れたことなんてないのだ。

「アスカは私を軽蔑する?」

「なぜ? 前の恋人が死んで新しい男と恋をしたから?」

「それだけじゃないわ。私が昔どんなに」

 あたしは手を振るってミサトの言葉を掻き消した。

「ストップストップ。あんたね、ミサト、そんなことを考えながら結婚するわけ? それで日向さんは納得するの?」

 ミサトがこう言いたい気持ちも分からないではない。でも、やはりあたしには賛成しかねる。恋は恋だ。誰にも止められない。そうでしょう。過去のことを悔 やんでいるから、今の自分が何もかも我慢すればそれで事が済むなんて、そんな 馬鹿な話ってない。ミサトだってそれが分からないわけじゃないだろうに。

「ねえ、ミサト。前にある人があたしに言った言葉を教えてあげるわ」

 エヴァに乗ることがなくなったあたしが故郷のドイツへ帰ったのはまだ体調が回復していない頃で、あちらへ戻ってすぐに自宅で普段どおりの生活をするとい うわけにもいかず、しばらくは病院のベッドで過ごすことを余儀なくされていた。
 身体も衰弱していたが、それ以上に病んでいたのは精神のほうだったろう。病院でのあたしはあまり聞き分けのいい患者ではなく、食事を拒否することもしば しばだった。色んなことにすっかり嫌気が差していたのだ。いや、拗ねていたというほうが正しいのだろうか。
 そんな時、あたしを変えたのはある看護師の言葉だった。その日もあたしは食事に見向きもせず、様子を見に来た恰幅のいい中年の女性看護師は手付かずの食 膳を見て、聞き分けのな い子どもを相手にするように言った。

「食べないと元気にならないわよ。少しでもいいから胃に入れなさい」

 あたしの返事は顔を背けることだった。さぞ生意気な患者だったろうと今になって思う。この人なんかにあたしの気持ちが分かるはずがない。もし分かるな ら、のん気にご飯を食べろなんて言えるわけがない。そんなことを心の中で繰り返し考えていた。
 看護師は皿の中のおかゆをスプーンで軽く掻き混ぜた。内臓が弱っていたあたしに出される食事はいつもおかゆやスープといった負担の少ないメニューだっ た。当然、味のほうも推して知るべしだが、仮に一流ホテルのディナーが供されたとしても逆にあたしは意固地になって食事を拒んだのではないかと思う。
 スプーンを置いた看護師は軽くため息を吐き出した。こうしてまた一人あたしに対して失望していく。きっと彼女は何も言わず膳を下げて病室を出て行くだろ う。あたしは鈍い心の痛みとともにそう考えていた。でも、あたしの考えは間違っていた。
 看護師は静かに話し始めた。

「昔、まだセカンドインパクトの混乱が収まっていなかった頃、私は派遣医師団の一員としてアフリカにいたの。たくさんの飢えた子どもたちが私の腕の中で死 んでいった。今でも世界には満足な食事も与えられず空腹のために死んでいく子どもたちがいるわ。一方のあなたは、食べられるというのに自らそれを拒絶す る。もちろん、あなたが今ここで食べようが食べまいが、その子たちの口に食べ物が入るわけじゃないわ」

 あたしは背けていた視線を看護師のほうへ向けた。彼女はこちらを見ず伏目がちにして、再びスプーンを手にとっておかゆを軽く混ぜながら、淡々とした調子 で言葉を続けた。

「でも、その子たちのことを考えた時、あなたの態度は傲慢よ」

 看護師はこちらを見て、おかゆを掬ったスプーンをあたしの口元に差し出した。

「食べなさい」

 スプーンを持つ彼女の手は、ごわごわと荒れて皮の分厚い仕事をする人の手だった。しばらく躊躇ってからあたしは小さく開いた口で差し出されたそれを咥え た。 舌の上にひんやりとしたスプーンの感触。遅れて冷め切ったおかゆの かすかにしょっぱい味。つばが湧き出してくる。続いてわずかな嘔吐の予感。しかし、それをこらえて口の中にしっかりとおかゆを掴まえる。看護師が空のス プーンを抜き取ると、あたしは決して多くはない量のおかゆを苦労して飲み込んだ。

「そうよ。食べられるじゃない。さあ、赤ん坊ではないのだから、起きて自分で食べなさい」

 あたしは看護師の言葉に大人しく従って身体を起こし、黙々と食事を始めた。スプーンを持つあたしの華奢な手はひどくゆっくりとしたペースで皿と口との間 を往復したけ ど、それでも着実に皿の中身は減っていった。

「……おいしくないわ」

 しばらくしてぽつりとあたしが漏らすと、彼女はくすっと笑ってこう言い残し、病室を出て行った。

「三十分後にまた来るわ」

 話し終えると、こちらをじっと見つめるミサトと目が合った。
 あの時、あたしは傲慢だと言われたことに衝撃を受けていた。いや、正確には恥じていた。あたしの独り善がりな不幸をこれ見よがしに周囲に訴えるやり方を 見透かされたようだった。
 もちろん、こんな話をしてみせたところで、あたしの場合とミサトとではだいぶ事情が違う。でも、独り善がりだというところでは変わりはないのではないだ ろうか。そして、愚かしい自己満足によって、あたしたちは本当の問題から目を逸らし逃げているだけなのだ。

「幸せになれるのなら、なるべきよ。その事実に胸を張るべきよ」

 他に何をなすでもなくただ漫然と目の前の幸せを捨てることに、自己満足以外のどんな意味があるというのか。もしもミサトがあたしやシンジや他の傷つけて きた人間のためにそうするというのであれば、あたしはそんなことを望んではいないと言わなくてはならない。違う考えを持つ人間もいるだろうけど、少なくと もあたしはそう考えている。きっとシンジだって望まないだろう。

「しっかりしてないと日向さんに逃げられるわよ」

「アスカの言うとおりね。ごめんなさい」

「いいのよ」

 あたしは手をひらひらと振って答えた。
 淡い微笑みを浮かべたミサトはあたしのことを感慨深げに眺めていた。その視線に晒されながら、あたしはコーヒーカップを口に運んだ。まるで親戚の伯母さ んに久し振りに会ったみたいに落ち着かない気分だ。

「本当に大人になったのね」

 しばらくして、まるで独り言のようにぽつりとミサトは漏らした。

「まさか。あたしなんかてんで子どもだわ。本当はミサトにこんな偉そうなこと言えない」

 特にこれから聞いてもらうことになる話をすればミサトだってそう思うに違いない、とあたしは内心思った。
 昼食になると、部屋に上がった時以上の驚きがあたしを待っていた。エプロンを着けたミサトがまともな料理を作ってみせたのだ。過去に一緒に暮らしていた 数ヶ月間、一度 として料理をしたことがないばかりか、悪食といっていい食生活を送っていたあのミサトが、である。あたしはもう気が遠くなりそうだった。愛の力はこれほど 偉大だ。人間を作り変えてしまうほどに。
 昼食を挟んであたしたちは近況を伝え合ったりし、やがて自然と話題の中心はあたしが日本を再訪した目的のことになった。過去に日本で生活していたころ に誰よりあたしやシンジと関わりの深かったのがミサトだ。何しろ一緒に暮らしていたくらいだから、当時あたしとシンジが対立していたことも誰より知ってい るし、どこがどうでんぐり返って今回みたいなことになったのか不思議に思っているだろうと、あたしは考えていた。ところが予想に反して、あたしのシンジへ の気持ちを聞いたミサトはどこか納得したような表情を見せた。

「まさかあの頃からあたしの気持ちを見透かしてたってこと?」

 あたしが訊ねると、ミサトは苦笑して答えた。

「そういうんじゃないけどさ。微妙な年頃の男女がひとつ屋根の下で暮らせば、それなりの感情が生まれるのは無理もないことでしょ。恋が芽生えてたって不思 議じゃないってこと。それにシンジくんは顔も結構よかったし」

「はぁ〜? あの馬鹿のどこが顔がいいのよ」

「認めたくないのか、それともとぼけてるのかしらね。今も学校では結構もてるんじゃないかな。あの子は当時から可愛い顔立ちをしてたわよ。私だって思った くらいだもの。まあ、私の第一印象は『可愛い顔してるわりに結構言うなぁ』だけどね」

 思い切り呆れた顔をしてやろうと考えていたのに、あたしは思わず笑ってしまった。確かにシンジへの第一印象としては、これ以上ないくらいにぴったりの言 葉だ。彼は根暗で臆病な性格だったけど、あたしは彼ほどの皮肉屋を他に知らない。聴こえかる聴こえないかという声でぼそっと言うから、また腹立ちが 倍増するのだ。

「でもさ、吊り橋効果ってのもあるじゃない」

「離れ離れになって三年よ。あなたたちの歳では決して短い時間じゃないわ。あなたの気持ちは本物だと私は思うわ」

 本物だろうか。果たして本当にそうだろうか。
 あたしはミサトの言葉を純粋に励ましとしては受け取れなかった。この気持ちに気付いた当初から、ずっと怖れていることがあたしにはある。それがあたしを 楽天的な恋の熱狂から遠ざけているのだ。
 押し黙ってしまったあたしを心配するように、ミサトがこちらを覗き込んで言った。

「どうしたの。大丈夫?」

「ねえ、ミサト」

「ん?」

「あたし、怖いのよ」

「怖いって何が?」

「シンジにね、会えなかったの。そのつもりで日本に来たはずなのに、いざとなると足が竦んで動けないのよ。会ってしまえば、取り返しのつかないことが起こ るんじゃないかって」

 一昨日、昨日と二日続けて、あたしはただ遠くから悟られぬようにシンジを眺めていることしかできなかった。すでに日本に来て四日目だ。いつまでも時間が 許されているわけではないと分かってはいても、あたしは竦んだ足を一歩前へ踏み出すことができずにいた。

「それは、シンジくんの気持ちを知るのが怖いということ?」

 あたしはかぶりを振ってミサトの言葉を否定した。
 怖いのはシンジの気持ちがあたしに向いていないかもしれないということではない。怖いのはそんなことじゃない。

「あたしが怖いのは、この気持ちが本当は恋なんかじゃないと知ることよ」

 これまで誰にも打ち明けてこなかった不安をあたしはミサトへ訴えた。
 あたしの気持ちが向けられている対象がシンジだということは、間違いがない。これだけは断言できる。でも、果たして本当にこの気持ちは恋なのだろうか。 愛情なのだろうか。
 あれほどまでに嫌い、憎悪していたというのに、この心のどこに愛情の芽生える余地があったのだろう。確かに稚拙な憎しみだった。存在理由を否定されたと いう錯覚があたしの目を曇らせていた。自分にはエヴァンゲリオンパイロットという価値しかないのだという偏狭な視野に十年もの間縛られ続けていたあたしに は無理もないことだったのかもしれない。でも、ただ一点しか見えていないだけに、稚拙であっても憎しみはいっそ熾烈だった。
 しかし、その後状況が一変した。たかが人間一人の感情などまったく問題にならない規模で事態は推移し、すでに再起不能手前に追い込まれていたあたしはも ちろん、シンジもなすすべなく状況に飲み込まれようとしていた。陰の組織の暗躍。最後の使徒の殲滅。そしてエヴァンゲリオン量産機の襲来だ。たくさんの人 々が死に瀕していた。いや、たぶん全人類が消滅の瀬戸際にあった。
 それを打開したのは綾波レイ。あたしとシンジの同僚パイロット。それから彼女には当時のあたしが知らない秘密があった。彼女は人間とは異なる生命だった のだ。ジオフロ ント奥深くの研究室でデザインされたサードインパクトの扉。用いられる鍵に応じたサードインパクトを引き起こす生きた扉だ。そして、彼女は最後の局面で自 らの意思によって鍵を選び、サードインパクトを起こした。たぶん、シンジを生かすための決断。彼女はきっとシンジを愛していた。
 使徒による使徒の補完。エヴァも含めて彼らはすべて形を変えてひとつになり、この星を脱出した。産声を上げたばかりの新しい生命体として新天地を目指し たのか、あるいは虚空をひたすら旅する彗星となったの か、人間には知る由もない。いずれにせよあたしたちはこの地表をは いずって生きなければならないのだ。
 綾波レイとの別れはあたしに不思議な悲しみを与えたけれど、それはひとまず措いておこう。問題は、シンジへの憎悪の拠りどころがなくなってしまったとい うことだ。呆然とする暇もなく、あたしは故国へ送還された。身分はすでにパイロットではなくただの民間人の少女でしかなかったし、長期的な治療が必要だと 当時判断されたからだ。
 日本を去るあの日、あたしの頭にはひとつのことしかなかった。ベッドへ括りつけられていたけどはっきり意識を保っていたあたしは、特別機の機 内に慎重に 運び込まれよう としてい た最後の瞬間、数ヶ月を懸命に生きた国の風景を網膜に刻みながら、たった一人のことを考えていた。ただ、考え続けていた。
 時間が過ぎ、あたしは回復して馴染みのない普通の生活というやつに戻った。自宅には両親と異母弟がいて、恩師のつてで大学の研究室に研究生の身分を得 て、この先ずっ と平穏に暮らしを積み上げていこうとしていた。決して悪くない生活だった。四歳からの十年間がまるで夢の中の出来事のように思えた。新しい人生に不満など どこにもな かったのだ。
 でも、目覚めて夢を忘れるように過去を捨て去っても、シンジのことだけが忘れられなかった。思い起こすのは彼との生活。彼とのやり取り。声や匂い、彼の 体温。初めの火花を散らすような激情はなりを潜め、あたしは文字列を指でなぞるように彼とのことを思い起こしていた。
 三年間、ずっとあたしはそうしていた。シンジの存在は影のように常にあたしに付き纏っていた。あたし自身それを振り払おうとしたことがなかったわけでは ない。でも実際にはとても無理だった。地球を半周する距離を隔て、三年という月日を経てなおも彼はあたしに色濃い影を落とし続けていた。誰よりも濃く、肌 触 りや温度が感じられるほど鮮明に。
 碇シンジという人間はあたしにとってどんな意味を持つ存在だったのだろう。空母の艦橋での出会いから同居生活の始まり。初めての友人。初めてのライバ ル。初めての口づけの相手。やがて彼はパイロットとしてあたしを凌駕し始める。肥大する敵愾心。そして、崩壊、破滅だ。あたしの中には憎しみだけが残り、 それさえもサードインパクトを経たあとではむなしいものになった。
 あたしはシンジに何を求めていたのかしら。
 彼にどうして欲しかった? 彼をどうしたかったの?
 シンジのいない場所での問いかけは続いた。繰り返される記憶の旅。出会いから交流、そして破滅。また出会いへ。次第に彼を思い起こすたびに胸に痛みを感 じるようになった。彼の笑顔や唇の感触、ヒステリックな罵声、醜く歪んだ表情を思い出し、その都度胸を焦がす苦しさにあたしは喘いだ。衝動的に泣き出して しまうことも あった。
 なぜあたしとシンジの仲が上手く行かなかったのか、いまさらその理由を問い質しても仕方のないことだ。あたしは彼の笑顔が好きだった。命を救ってくれて 嬉しかった。彼と口づけをして みたかった。抱き締めて欲しかった。あたしのことを見て欲しかった。そうしてくれない彼が嫌いだった。思い通りにならないところが嫌いだった。あたしより 強いのが許せなかった。邪魔をする彼が憎かった。あたしの存在理由を奪おうとする彼を殺してやりたかった。
 憎んでいた。でも、好きだった。
 どちらも本当の気持ち。でも、今となってはどちらも信じることができない。相反するふたつの気持ちが共存しているだなんておかしな話だ。
 それでは、本当に本当の気持ちなのはどっちなのかしら?
 やがて答えを出すにはもう一度会うしかないと考えるようになった。彼に会いたい。会わなければならない。もう一度あの夏の国で、彼に会わなければならな い。
 駆り立てられるようにあたしは海を越えた。
 でも、怖いのだ。シンジに対して抱いているこの気持ちが、本当は恋などではなく憎悪だと知ることが。

「ミサトは舞姫のエリスって知ってる?」

「ああ、森鴎外ね。よくそんなの知ってるわね」

「最近人から聞いて知ったのよ。エリスには実在のモデルがいて、実際にドイツから日本まで森鴎外を追って来たそうよ」

 あたしの発言の意図を計りかねているのか、ミサトは眉間にしわを刻んでこちらをじっと見ていた。

「恋人のことを愛するあまりに海を越えて追いかけてきた情熱的な女性。一見そう思えるわよね。でも、本当にそうだったのかしら。実在のエリスを突き動かし たのは、本当に愛だったのかしら。いいえ。それが憎しみであったとしても、何ら不思議はないわ。自分を捨てた恋人に対する憎悪のあまりエリスは海を越えた のよ」

「そんな。それは違うわよ、アスカ。愛しているからこそ、国を超えてまで追いかけて繋ぎとめようとしたのよ」

「どうしてそう言い切れるの? 当時の日本とドイツの距離は現代の比じゃないわ。文字どおりの絶縁よ。まるで余分な果実を鋏で切り落とすように、鴎外はエ リ スを捨てたのよ。これが憎まずにいられる? 愛していたのは事実かもしれない。でも、だからこそ、裏切られた時の憎しみの大きさは想像もつかない」

「それは……そうだとしても、この話はアスカとは関係ないことでしょう?」

「もちろんミサトの言うとおりよ。エリスの真実がどうこうというのは別にどうでもいい。問題は、愛と憎とはとても見分けにくいということ。時に自分自身で さえ勘違いしてしまうほどに」

 かぶりを振ったミサトはきっと否定の言葉を口に出そうとしていたけど、それを遮ってあたしは言葉を続けた。

「深い憎悪に責め苛まれてあまりにもシンジのことばかり考えていたから、まるで彼に対して苦しくつらい恋をしていると錯覚したのかしら。それともあたしは 最初からシ ンジの ことを愛していて、裏切られたせいでその深い愛が醜く歪んでしまったのかしら。ねえ、あたしには分からないのよ。ミサトはどっちだと思う? あたしはシン ジを愛しているの? それとも憎んでいるの?」

 もう一度ミサトはかぶりを振って、深いため息を吐き出した。彼女はひどく傷ついたような眼差しであたしを見た。このようなことを聞かせて彼女を困らせて いると気の毒で申し訳ない気持ちになったが、あたしは彼女の言葉を待った。

「私にはとても答えられないわ。本当の気持ちはアスカにしか分からないのよ。アスカが実際にシンジくんに会わなければ。それがどんなに怖くても、乗り越え なければ永遠に答えは出ない」

 ミサトの言葉にあたしはゆっくりと頷いた。

「そう。結局そうなるのよね」

「このまま帰る? ドイツに帰って、シンジくんへの気持ちに蓋をしたまま人生を送ることだってできるのよ」

「それも考えたけどね。でも、しゃくじゃない。結果を確かめる前から背を向けて逃げ出すなんて。それにあたし、負けず嫌いなのよ。憶えてる? シンジには 負けっぱなしだもの。一度くらいは勝ってみせたいわ」

 愛しているなら、恋人になろう。憎んでいるなら、復讐でもするだろうか。いずれにせよ、彼はあたしだけのものだ。あたしだけのものにしたいのだ。
 あたしの言葉を聞くと、ミサトは肩の力を抜いてゆっくりと息を吐き出した。あたしが見ると、彼女は安心したように微笑んで言った。

「結局は最初から逃げないって心に決めてるわけね。珍しく弱気だと思ったら」

「意外だった? あたしがこんな弱気になってるだなんて」

「それを隠さず簡単に表に出したことがね。昔だったら絶対にありえなかったもの」

 確かにミサトの言うとおりだ。昔のあたしなら絶対に自分の弱いところを他人に見せようとなどしなかっただろう。弱みを知られるくらいなら死んだほうがま しだとさえ考えていた。そんなあたしが変わることができたのは優しい両親や、愛らしい弟や、恩師や友人たちのおかげだ。そして、心の中に常にあったシンジ のおかげでも ある。彼によって否応なしにあたしは自らの弱さ、醜さや愚かさをも自覚して受け入れなければならなかった。そうすることによって、あたしも彼も同じように 欠 点を抱えた人間に過ぎないのだと気付いたのだ。
 完璧な人間などいない。もしもあたしたちが完璧な存在ならば、他者に関心を払ったりはしないだろう。愛も憎 しみもどこにもないだろう。独りで切り開いて往くだろう。だから、これでいい。あたしは弱い。シンジも弱い。けれど、弱いからこそ二人で歩める道もある。 きっと、あるはずだ。
 これでいいのだ、と知ることは、あたしにとって一種の赦しであった。

「ま、こんなことも考えてるってこと。悲観してるわけじゃないけど、仕方がないのよね。あたしとシンジの関係はちょっと複雑だったから」

「息をするように恋をするという風にはいかないのね。本当はあなたみたいな若い子なら真昼の強い陽射しみたいな恋をするものなのに。愚直なくらいまっすぐ で、明るくて。そういう年頃なのにね」

 ミサトの口調はどこか悲しげで、やはり傷ついているようだったけど、「あなたが悪いわけじゃないのよ」と言葉で伝える代わりに、敢えてあたしはおどけた 表情をして冗談めかして言った。

「相手がシンジじゃなければ話は別だったかもしれないけど」

「可能性はあった?」

「そりゃ、あたしだって女の子だもん。格好いい男の子にはときめくし、優しくされれば心が揺れるわ。なのに、なーんであの冴えない馬鹿ちんにこだわらな きゃいけないのか、本当に 不思議で不思議でしょうがないのよ、自分自身」

 肩を竦めて深いため息を吐き出してやると、ミサトがぷっと噴き出した。

「なによ」

「アスカ、顔真っ赤」

 ミサトが指先でちょんと触れた頬が熱くて、あたしは手のひらでごしごしと擦った。





 ところで日本でのセントバレンタインズデーが欧米におけるそれとは異なり、主として女の子が意中の男の子にチョコレートをあげるというものであること を、あたしはミサトから聞かされて今回初めて知った。当然のこととしてこの日の前提条件は誰しも知るところであるから、チョコレートをあげるということす なわち愛の告白をしたのと同義であることはおのずと明らかであろうと思う。
 ようするにミサトはこう言ったのだ。

「シンちゃんにチョコあげて告白しちゃいなYO」

 あなどりがたし日本、だ。まさかセントバレンタインズデーがそのように曲解されているとは思いも寄らなかった。でも、顧みればリツコがわざわざ二月に 入ってから来日するようにと指定してきたのには、こういう理由があったというわけだ。訪れた当初は恋人たちの愛の誓いの日を間近に控えて、これはあたしに 対する皮肉かと聖ウァレンティヌスを呪いたくもなったけど、リツコの言葉どおりこの時期にして本当によかった。
 ミサトはこうも言っていた。

「バレンタインなんて企業の陰謀だと夢のないことを言う人もいるけれど、いいところもあるのよ。特に普段だととても好きな男の子に告白する勇気なんてない 女の子の背中を押してくれるところがね」

 確かにそれは素晴らしい効果だ。まったくもって賛成だ。仮にシンジのことが本当に好きだと分かったとして、一体どういう言葉でもってそれを伝えればいい ものかと悩んでも悩んでも答えが見つけられなかったあたしにとっては、まさしく神の救いの手にも見えた。言葉少なでも構わない。ただ定められた日にチョコ レートを渡せばいいのだ。そうすれば自動的に相手がこちらの意図を察してくれる。このシステムの考案者は相当な切れ者に違いない。
 さて、今リツコ宅のリビングのソファに腰掛けているあたしの目の前には綺麗にラッピングされた箱がある。中身はクッキーでもないし、マシュマロでもない し、グミでもない。当然チョコレートだ。ゴディバのハートボックス、六粒入りで二千五百円。それなりに奮発したと自分でも思う。家に戻ってから、どうして 同じものを自分にも買ってこなかったのだろうと何度も考えて後悔している。でも、さすがにもう一度買いに行く気にはなれない。日曜のデパ地下のチョコレー ト売り場を埋め尽くした人だかりのすごさったらない。あたしは何度も足を踏まれ、わき腹や背中に肘打ちを食らい、いくつものバッグの留め金やボタンに髪の 毛を引っ掛けたりしながら、ようやくのことで目的を果たした。あんなことは一年に一度で充分だ。だから、仕方がないので自分用に買った千円 未満の生チョコレートを一箱開けてさっきから食べている。頬っぺたがとろけて床に落ちるくらいに美味しい。今あたしが食べているものでさえこうなのだか ら、綺麗にラッピングされた姿で鎮座ましましている目の前のゴディバは天上の味がするだろう。

「やっぱりあいつにはもったいない気がするなぁ」

「そこのお嬢さん。ドイツからはるばるここまでやって来たのに、いまさら食い意地に負けてちゃ話にならないわよ」

 呆れ口調でそう言って、お風呂上りのリツコがL字に折れたソファの向こう側に腰かけた。バスローブ姿の彼女はテーブルに置いてあるチョコレートの箱を眺 め、ふんと鼻を 鳴らした。

「日本の製菓企業の戦略に乗ってみた気分はどう?」

「上手く行くなら何だってやるっていう気分」

「いい心がけね。好きよ、そういうの」

 リツコが好きとか嫌いとか言うのがひどく新鮮だった。しかもその対象が自分自身だったので、あたしは少し照れ臭くて何と返していいか分からず、日本人み たいにあいまいに笑った。脚を組んでソファに座ったリツコはあたしが淹れたコーヒーを飲んでいる。ミサトならコーヒーカップではなくビール缶を握っている ところだ。昨夜のミサトを思い出し、思わず苦笑が 浮かんでしまった。酒好きなのは昔からだったけど、あれほど楽しそうに飲んでいるのは初めて見た。一緒に飲んであげられなかったのが残念だったくらいだ。 でも、さす がにミサトがこう言った時にはあたしも呆れた。

「アスカが来るって連絡を受けて、いっぱいお酒を買い込んでたのよ。今日はたくさん飲みましょうね」

「まあ、ありがとう。嬉しいわ、ミサト。でも思い出して。あたし、十七になったばかりなのよ」

「あらやだ。うっかりしてたわ」

 うっかりにも程がある。日向さんは休日出勤のため深夜まで帰って来ないということであたしたち二人だけだったのだけど、結局ミサトは一人でお酒を飲ん で、それでもとても楽しそうにしていた。ちなみに日向さんから帰りが深夜になると電話があったあとのミサトの言葉がこうだ。

「マコトくん、遅くなるから二人で楽しんでだって」

「そんな風に呼んでるんだ。いい歳してマコトくん?」

 電話口でのミサトの甘ったれた口調に衝撃を受けて、つい皮肉を言うと、彼女は憮然とした面持ちで言い返した。

「何か問題でもありますかね」

「あたしもシンジくんって呼ぼうかな」

「ごめん。私も控えるから勘弁して。鳥肌が立つわ、アスカが言うと特に」

「あら。別にいいじゃない。キュートな響きだわ、シンジくん」

 あくまでミサトをからかうつもりであたしは言っていたのだけど、相手はどうやら違う受け取り方をしたようだった。

「擦れっ枯らしにその甘酸っぱさは出せないわね」

「何よそれ」

「アスカが羨ましいって話」

 このあと散々ミサトの逆襲を受けることになるのだけど、詳細は語らない。ただひとつ言えるのは、大人って奴は馬鹿だということ。特にアルコールの入った 時はね。

「リツコもチョコレート食べる?」

「あら。ありがとう。頂くわ」

 あたしが箱をリツコのほうへ差し出すと、彼女は赤いマニキュアが濡れたように光る爪先で生チョコレートを一粒摘まみ、口の中へぱくっとしまい込んだ。そ れを見てあたしももう一粒食べる。

「んー」

 と、リツコが言ったのであたしは訊き返した。

「んー?」

「久し振りに食べるとたまらないわね。んー、すごく美味しい」

「チョコレート売り場はすごかったわよ。昨日ミサトから聞いて初めて日本のバレンタインを知ったんだけど、本当に女性のためのイベントって感じね」

 まさに栄光を勝ち取るためのサバイバル、といったところか。そもそも大抵の女の子は甘いお菓子を見ているだけでも楽しい気分になれるものだし、あたしで さえ、ついつい自分用のチョコレートを何箱も買ってしまった。滞在中には食べ切れないだろうから、余った分を家族へのバレンタインズチョコレートにしよう と思う。特にママと 弟は喜ぶだろう。

「まあ、日本ではね。バレンタインが紹介された当時は男性がそういう贈り物をするっていうのはあまりピンと来なかったんでしょうね。恋人たちの愛の日だと いわれても、そんな軟弱なことできるものかという風潮だったんじゃないかしら。そして逆に、女性に限れば需要はあると踏んだんでしょうね。それで今みたい な 形に置き換えたんだと思うわ」

「ま、実際に受け入れられてるみたいだから、正解だったってことかしら」

「そうね。でも、本来の趣旨とはかけ離れた義理チョコなんてものがあるせいで、わずらわしいと思う人も多いみたい。職場でそんなことをやるほうがナンセン スだという気もするけれど」

「ああ。ミサトから聞いたわ、それ。リツコはしないの?」

「しないわよ」

 きっぱりとリツコは言い切った。さすがというか、やはりというか。

「ミサトは買ったみたいよ。職場の人たちに配るんだって張り切ってた」

「あの子はすぐそういう気を使うんだから。本当はそんなに社交的な性格じゃないのに、無理してるのよ」

 リツコの言葉はあたしからすればやや意外にも思えたけど、長年の友人だからこそ分かることもあるのだろう。こんな風に語ることのできる友人をあたしはい まだ持たない。できるなら彼女たちと同じ歳になるころにはそんな友人の一人や二人いて欲しいものだ。

「それで」

 とリツコが言ったので、あたしは彼女のほうへ注意を向けた。

「結局、シンジくんにはいつ会うわけ?」

 痛いところを突かれてあたしは言葉に詰まった。こうして日本に来て五日目の夜が更けて行っているわけだけど、あたしはいまだにシンジに対面していない。 遠目に観察したのが二度ほど。それだけだ。
 もちろん、会うこと自体もあたしには難しいのだけど、それ以上に問題は会うための口実だ。まさかあなたに会うためはるばるドイツから三年ぶりに日本 へやって来ましたというわけにはいかない。

「どうしてよ。正直にそう言えばいいじゃない」

「だって、そんなのちょっと深刻な感じじゃない。シンジに引かれたりしたら嫌だし。だから、もっとこう、偶然を装いたいのよ。街角でばったり出くわした的 な」

「ふぅん。それで偶然出くわして、偶然シンジくんに渡すためのチョコレートを持ち合わせているわけね」

「やっぱり変?」

「変よ」

 はっきりした意見をありがとう、リツコ。涙が出そうよ。

「あなたも女なら覚悟を決めて正々堂々会いに行きなさいな。ワンかゼロか、フィフティフィフティでしょ? 怖がってたって仕方がないわ」

「もしもの時に自分がどうなっちゃうのかが怖いのよ。一体何をするか分からないから」

「意気地なしね」

 正直にいえば、自分が意気地なしだということは誰よりあたし自身が一番よく知っている。でも、他人からそれを指摘されたらかちんと来てしまうのは、どう しようもないことだ。
 あたしはつい口が滑って言い返してしまった。

「何よ、自分だって妊娠したこと、秘密にしてるくせに」

 さっとリツコの表情が変わったのが分かった。それは一瞬のことで、すぐにもとの冷静な表情に戻ったけど、あたしの言葉が彼女の微妙な問題に土足で踏み入 る真似をしたに等しいということは明らかだった。

「秘密にしてるわけじゃないわ。時機を見てるのよ」

 リツコにしては下手ないいわけだ、とあたしは思った。やはり悩む部分はあるのだろう。しかしこの時は挑戦的な気分だったので、気づかうよりもむしろ彼女 の言葉を鼻で笑った。

「どうだか。そりゃリツコは自分の好きでシングルマザーになるのかもしれないけど、子どもの気持ちだって考えてみるべきだわ。それがリツコの言っていた責 任ってものよ」

 あたしの言葉にリツコはあからさまに気分を害したようだった。こうなるともう売り言葉に買い言葉だ。あっという間にあたしたちは険悪な雰囲気に包まれて しまった。

「これは私の問題よ。放っておいてちょうだい」

「子どもの問題でもあると言ってるのよ。親に見捨てられる気持ちがどんなものか、リツコには分からないのよ」

「この私に、いいことアスカ、知った風な口を利かないで。私の母も一人で私を育てた。父と呼べる人はいなかったけど、母に不足を感じたことはないわ。私は お腹にいるこの子を全身全霊で愛する。命がけでよ。絶対に不幸になんてさせない。アスカのほうこそ、私のこの気持ちが理解できないんでしょうけどね」

「じゃあ、その子の父親には、そうやって愛する機会さえ与えないつもりなの。父親が子どもを愛する権利を、子どもが父親から愛される権利を、どうしてリツ コが奪えるの。母親だから? それだけの理由で?」

「あの人が……ッ」

 リツコは言葉の途中で詰まり、顔をくしゃくしゃに歪めた。彼女は皮肉げに笑い出そうとしたけど失敗し、俯いて額を押さえた。そして、ゆっくりとしたため 息を吐き出 してから呼吸を整えた。あたしがその様子を見つめていると、やがて顔を上げたリツコはもとの静かな表情に戻って言った。

「これ以上話すことはないわ。話は終わりよ」

「あたしはまだ納得してない」

「あなたが納得しようがしまいが、私には関係ないわ」

「ああ、そう! 分かったわよ、悪かったわね!」

 かっとなって乱暴に立ち上がりながら言い捨てると、あたしは宛がわれた客間へ戻って、くさくさした気分のまま今日はもう寝ることにした。床に敷いた布団 に仰向けにな り、暗い天井を見上げてあたしは呟いた。

「リツコの馬鹿。分からず屋」



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