隠された心 中編





辺りが薄闇に包まれ始めている中、ライトアップされた歩道を二人の少年少女が息を弾ませ駆けていた。

「こら〜!!バカシンジ!何グズグズしてるのよ!もっと早く走れないの!?」

前を先行している少女が振り返りながら、遅れがちな少年を叱咤する。
少女は胸元に白いレースがあしらわれた淡い色合いの清楚で可愛らしいワンピースを身に纏い、藤細工を模したような小さなバックを一つだけ手にしていた。
足元には、ビーズで飾り付けられたミュールを履いている。
その姿は少女らしい愛らしさにほんの少しの背伸びしたニュアンスが上手く混ざり合い、変わった形の赤い髪飾りと少女自身の髪の毛が全体のアクセントとなって、少女の健康的な魅力を十分に表現していた。

「そ、そんな事、言ったって。僕は、アスカと違って、こんなに、荷物持ってるんだよ!?無茶、言わない、でよ!」

息も絶え絶えになりながら、両手に下げた幾つもの紙袋を振り回さぬように気遣いながら走るシンジは、そろそろ体力の限界を迎えつつあった。
しかし、アスカはそんな少年の事情は全く斟酌しない。

「だらしないわねぇ〜。あんたちょっと運動不足なんじゃないの!?体力無さすぎよ、男のくせに」

少女は走りにくいはずの靴を履いて走っていたというのに、息も乱していなかった。
アスカは休息予定地点であるマンション前に到着しているのを確認すると、そのまま立ち止まって少年を睨み付けた。
ようやく少女に追い付いたシンジは、ガクガクと震える自分の膝に紙袋を下げた両手をついて体を支え、弾む息を整える。
幾つもの反論がシンジの中に渦巻いたが、アスカの言があながち間違いでもない事と、整わない呼吸に邪魔されて、結局言葉になる事はなかった。

「だいたい、あんたがもっとしっかりしてたらこんなに遅くなる事はなかったのよ!!」

つん、とそっぽを向き、少女は高飛車に理不尽な言葉を言い放つ。
学校が終わってからずっとアスカの我が儘に振り回され続け、精神的にも肉体的にも疲労仕切ったシンジは、少女の言葉に不愉快になった。
そもそもアスカのその言葉は正しくない。
正確に言うのならば、久しぶりの買い物にアスカが夢中になって時間を忘れ、シンジはそんな少女に付き合わされていたのだ。
更に付け加えると、その後シンジは少女の荷物係に任命され、アミューズメントパークに入り込もうとするアスカを止める事が出来ず共に引き摺り込まれた。
そして、こんな時間になるまで付き合わされたのだった。
シンジの本音としては。
アミューズメントパークの前で、少女の荷物を持ったままで構わないからアスカと別れ、一人マンションに帰って夕飯の支度に取りかかりたかった。
しかしシンジも遊び盛りの少年。
無理やり引き摺り込まれてしまったアミューズメントパークとはいえ、そこはとても魅力的だった。
しかも普段ならトウジやケンスケ達に気を使いながら大人しく遊んでしまうだが、今日はそうではなかった。
というより、そんな余裕などなかった。
慣れぬ場所で逃げ腰になるシンジをアスカは剣呑な眼差しで押し切り、同じ瞳をきらきらと輝かせて自分と共に遊ぶ事を強要する。
そのあげくにシンジを罵倒したり、あるいは誉めあげてと散々シンジを振り回し尽くしてくれたのだ。
その全てが不満だったなどと、今のシンジには口が裂けても言う事は出来ない。
そもそも、今日の少女の出で立ちはシンジにとっても十分魅力的に映っている。
少女にむっとした事も二度や三度ではなかったが、ちょっとした瞬間に胸を高鳴らせたのも一度や二度ではない。
日本人ではないとはっきりわかるアスカと、まるでデートのように二人きりでアミューズメントパークで遊ぶ。
更にシンジが楽しむと、普段は気難しい少女も楽しげに笑ってくれるのだ。
楽しくない訳がなかった。
時たま向けられる、同性からのやっかみ混じりの眼差しは不快だったが、それに気を取られる度に少女に邪魔された。
アスカの楽しげな笑顔にシンジもついつい釣り込まれ、いつしか心が弾んでいた。
そしてそれはシンジの携帯電話が鳴り響くまで続く。
携帯の呼び出し音を耳にしたシンジははっとした。
時間を忘れていた事に気づき、シンジは臍を噛む。
誤算だった。
シンジはアスカにアミューズメントパークに引き摺り込まれた時に、頃合いを見て帰宅を促そうと思っていた筈だった。
それがいつの間にか、両手に持たされた紙袋の存在ごと時間を忘れ、すっかり楽しんでたことに初めて気がついた。
その事を鳴り響く携帯のコール音で思い知らされ、シンジは衝撃を受ける。
同じように神妙な顔で自分を見詰めるアスカに促されて出た電話は、彼らの保護者からの物だった。
運よくいつまでも帰宅しない少年少女にしびれを切らした電話と言う訳ではなく、今日は早めに家に帰り、客を連れて行くという内容だった。
ついては、持て成しの料理を頼めないかと。
シンジは焦り、アスカに視線を投げた途端、シンジの携帯が奪い取られる。
幾つか少女と保護者の間で簡潔なやり取りが交わされ、アスカが電話を切った。
その瞬間。
シンジはここまでほぼ全力疾走のフルマラソンを決行させられる事に決まってしまっていた。
こうなった経緯をつらつらと思い出したシンジは、ついつい恨みがましい目で澄ました顔のアスカを見つめてしまう。
そろそろ息は整っていたが、シンジの中に燻る何とも言えない気持ちが少女に不満をぶちまけるのを阻害していた。
しかし少女はシンジの視線からしっかりとシンジの言いたい事を読み取ってしまってようだった。
柳眉を逆立てて喚き始める。

「何よその目!何か文句でもあるっての!?」
「……別に」
「ふん!ならさっさと行くわよ!急げば間に合うわ!って、良し!勝ったわ!!」

アスカは不満そうにするシンジに言い返しながら、保護者の駐車スペースに目をやり、ガッツポーズを決めた。
不審に思ったシンジは少女の視線をたどり、駐車スペースに保護者の女性の青い車がないのを認すると溜息混じりに告げた。

「勝ち負けじゃないと思うんだけど……」

無理矢理ここまで全力疾走させられた恨みを込めて、少年はぼそりと呟いく。
シンジの発言を聞いたアスカは、信じられない物を見る目でお決まりの雷を落とした。

「あんたばかぁ?ミサトが先に帰ってたら、アタシ達が帰った時にどういう行動にでるか少しは考えられない訳ぇ!?そうじゃなくても!普段のミサトの行動見てたら、今日のアタシ達の事知ったとしたら、どうしてくるのかあんたにもわかるでしょ!!」

アスカにそこまで言われ、シンジは初めて自分に迫っていた危機を自覚した。
アスカが何故あれ程自分を急かしたのかを理解したシンジは、納得すると同時にほんの少し面白くない物を感じる。
けれどそれは今日の楽しかった事に比べれば気にしないように出来る程度だった。
瞬時に気を取り直したシンジは、アスカにおそるおそる進言してみた。

「間に合って良かったね……」
「あんただってそう思うんでしょ?」
「うん…」
「なら、アタシに感謝しなさいよね!あんた、気付いてなかったんだから。アタシが急かさなかったらきっとミサトにからかわれてたわ!」
「うん」

強気な事を口にしながら、らしくもなく落ち込んだような雰囲気を漂わせているアスカに、相槌を打ちながらシンジは焦った。
表情と口調が全く一致していない。
なんとなくフォローしなくてはならないような義務感に駆られたシンジは、らしくもなくアスカにフォローを入れ始めた。

「ほ、本当にそうだよね!アスカが急かしてくれなかったら間に合わなかったかも知れないし。ミサトさんにからかわれるのはちょっと嫌だけど、た、楽しかったから、もうちょっと遊んでいたかったっていうか……ゴメン」

フォローするつもりが、漏らすつもりのなかった本音をシンジはほんの少し漏らしてしまい、よくわからないことを口走ってしまっていた。
アスカの青い瞳が驚きを露にしてシンジを見詰めている。
気まずくなったシンジは思わず謝ってしまう。
シンジとアスカの間に沈黙が降りる。
黙りこくったまま、二人並んでマンションの玄関ホールをくぐった時、アスカがほとんど聞こえないくらい小さい声で呟いた。

「アタシだって楽しくて時間忘れてたし、もうちょっと遊んでたかった……」
「え、えぇ!?アスカも楽しいと思ってくれてたの!?」

アスカの囁きを捉えたシンジは驚いて声をあげてしまった。

「え!?何で知ってるのよ!」
「な、なんでって…」

シンジは続けられたアスカの発言に面食らった。
シンジとしては、この素直ではないへそまがりな少女が、わざと小さい声で話しかけたのだと思っていた。

「アスカ、今、自分も楽しかったって、自分で……」
「ア、アタシが自分で言ったっての!?」
「う、うん…」

言いさすシンジを遮って、真っ赤な顔で詰め寄ったアスカは、怒りと照れと苛立ちと羞恥にコロコロと表情を変えた。
シンジは、詰め寄ってきたアスカから若干身を引きながら、至近距離でアスカの表情の移り変わりをどぎまぎしながら見守る。
珍しく、シンジはアスカの瞳を真っ直ぐに見詰めてしまっていた。
どうしようもない圧迫感と照れくささがシンジを支配し、視線を逸らせなくなっていた。
徐々に顔が熱くなっていく。
シンジの顔が赤くなって行く事に気付いたアスカは、自分がシンジにかなり近寄っている事に気づき、はっとして慌てて離れた。
アスカは動揺し、自分を取り戻そうと何とか自分を納得させる言葉を紡ぎだした。

「ア、アタシがどう感じたかなんてあんたに関係ないでしょ!?そんな事より何赤くなってんのよっっ!!このバカ!」

険しい表情の赤い顔をのままぷいっとそっぽを向き、どすどすと肩を怒らせて進んで行くアスカにシンジはぽかんとした。

「何なんだよ……」

アスカが何故突然怒りだしたのか、シンジにはさっぱりわからなかった。
何となく、残念なような、面白くないものを感じながらシンジはアスカの後を追う。
アスカはエレベーター前でエレベーターが降りてくるのを苛々としながら待っていた。
視線が合った途端にアスカは赤らめた怒り顔で、シンジから顔を背けた。
二人は待たしても沈黙していた。
だが、やはり沈黙に耐えきれなくなったのはアスカの方が先だった。

「あーっ、もう!わかったわよ!!認めるわ!認めりゃいいんでしょ!?そうよ!楽しかったわよ!!子供っぽいと思ってるんだったら笑えばいいでしょ!?」

ぷいっと顔を逸らしながら突然まくし立て始めたアスカにシンジは更に面食らう。
そんな事は思っていなかったし、何故突然アスカがそんな事を言い出したのかも良くわからなかった。

「何よっ!ぶすっとして黙り込んじゃってさ!言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃないの!!」

アスカのその言葉に。
シンジはようやく、アスカが先程の沈黙の時間をとても気にしていて、そして誤解している事に気付いた。

「ち、違うよ!そんな事思ってないよ!そりゃ、何にも話してなかったけどさ」
「じゃあ何考えてたって言うのよ!!」

青い瞳を戦意に煌めかせて詰め寄るアスカに気圧されながら、シンジは先程の沈黙の間に自分が漠然と考えていた事を纏めあげて言葉にした。

「た、楽しかったなって!また一緒に行きたいなって…」

アスカの迫力に圧されて慌てていて、思い付いたと同時に言葉にしていた為、シンジにとってその言葉がどんな意味を持っているのかは思慮の外にあった。

「えっ!?」

アスカはシンジの言葉を聞いた瞬間、シンジを見詰めたまま動きを止めてしまった。
シンジは始め、アスカのそんな反応を不思議に思い、段々色付いていくアスカの頬に、自分が何を言ったのかに気付いた。

「ご、ご、ごめん!あの、その、別に変な意味じゃなくて!ただ、今日一緒に遊んだのがすごく楽しくて、その、また遊びたいって思っただけっていうか…。め、迷惑だよね!アスカが僕にこんな事言われたって……」

焦りの中、段々何を言いたいのかが自分でもシンジがわからなくなった頃、アスカがぽつり、と呟いた。

「迷惑なんかじゃないわ……」
「え!?」

驚いたシンジが俯いていた顔をあげてアスカを見詰める。
しかしアスカは顔を俯かせてしまっていて、シンジにはアスカの表情を読み取る事は出来なかった。
その時、到着音を立ててエレベーターが到着し、静かに扉が開いた。

「エ、エレベーター、来たよ…」
「うん……」

シンジとアスカはそれっきり部屋の前までお互いに沈黙を守っていたが、それは嫌な沈黙ではなかった。
ただ、お互いにどこか身の置き所のないむず痒さと胸の高鳴りをずっと感じていた。

「「ただいま〜」」

気まずいものを感じながらも、ユニゾンして帰宅を告げた二人を、温泉ペンギンの円らな瞳が出迎えた。
暫し玄関先で三者は固まる。

「クエッ」

ペンギンは翼をあげて一鳴きすると、ペタペタと足音を立てて自分の寝床へと戻って行った。
何となく呆気に取られたシンジはぼんやりと呟く。

「ペンペン、僕達の事、待っててくれたのかな……」
「はぁ?あんた、ばかぁ?そんなわけないでしょ。偶然よ、偶然!ペンギン相手に何言ってるのよ!!そんな事よりアタシ、お腹すいたわ。何か作ってよ」

瞬時にアスカの突っ込みが入る。
そのままアスカは靴を脱いでリビングへと直行していく。
その様子からアスカはすでにいつもの調子を取り戻してしまっていたようだった。
その行動を黙って見守っていたシンジはふと気付く。
アスカが脱いだ靴が揃えてある事に。
来日当初は室内で靴を脱ぐ習慣について不平不満を漏らしていたアスカだ。
いつの間にそんな女の子らしい事を覚えたのだろうか。
つい先日、リビングで寛ぐアスカにもっと女らしくしろと提言して、鬼の首をとったかのように烈火の如く怒りだしたアスカから、デリカシーがないと平手打ちを受けたシンジは少し驚いた。
それと同時にその時のアスカの怒りの理由をぼんやりと悟る。
きっと、自分が気付いていなかっただけで、アスカの女の子らしさはこういうところで発揮されていたに違いない。
そもそも、女の子らしさってなんだろう?
シンジは自分の言葉がいかにアスカの事を見ていないかを指していた事に気付いた。
誰も教えていないのに、脱いだ靴を当たり前のように揃えれるようになれる子が、女の子らしくないと言えるだろうか。
もう一人の同居人が靴を脱いだ後の事をシンジは思い出してみる。
脱いで、蹴飛ばしたように散らかされていた。
思わず溜め息を吐く。
もしかしたら、自分はアスカについて誤解していたのではないだろうかとシンジは疑問を持った。

「ちょっと、シンジ!聞こえてるの!?いつまでそこでぼーっとしてるのよ!早くあがりなさいよ!!」

いつの間にか、タンクトップにホットパンツというラフな格好に着替えたアスカが、シンジの目の前で仁王立ちになっていた。
その姿はだらしないもう一人の同居人と大差ない。
だがアスカのその格好は慣れたとは言え、突然目にするには、すらりとした手足や、女の子らしい胸の膨らみが露でシンジにとっては目の毒だった。

「わ、わぁ!アスカ!な、何だよっ」

呆けていたはずのシンジが突然慌て出し、アスカはシンジを不審に思う。

「あんた、玄関先でいつまでもぼんやりして何考えてんの?」
「えっ!?」
「アタシ、お腹空いたんだけど?」
「ち、ちょっと待って!」

催促されたシンジは慌てて靴を脱ぎだす。
シンジはキッチンに向かいながら、先行してリビングに向かうアスカにふと聞いてみた。

「アスカ、いつから靴を揃えるようになったんだっけ?」
「えぇ?いきなり何?まあ、いいけど。来日して直ぐよ。身嗜みを整えるのと同じで、日本のレディの常識なんでしょ?」

振り向きもせず、寝転がってTVのリモコンに手を伸ばしたアスカの姿にがっかりしながらシンジはアスカの言葉に疑問を持つ。

「日本のレディ?」
「違うの?ヒカリが教えてくれたんだけど」
「え!う、ううん、アスカは間違ってないよ。いつの間にそんな女の子らしい事するようになったんだろうって、さっきちょっと驚いただけ…」

振り向いて自分を見詰めてきた青い瞳にどぎまぎしながらシンジは答えた。
途端にアスカの表情が呆れた物へと変わる。

「さっきって…。あんた、何ヵ月前の話してんのよ。ほんっとあんたって鈍感よね」

シンジはアスカの言葉に反論する術を持たなかった。
しかし、何となく素直にアスカの言葉を受け入れるわけにはいかない気がして反論する。

「何だよ!アスカが日本に来てからまだほんの数ヶ月くらいしかたってないじゃないか!」

アスカは、ムキになって言い返したシンジを、馬鹿にしたように鼻で笑ってTVに目を移す。
赤みがかった金髪が、クリーム色のタンクトップに覆われたアスカの細い背中を更に覆っていた。
思わずその華奢な背中に目を落としていたシンジは、そのままぱたぱたと揺れる白くしなやかな両足に視線を移して眺め始める。

「何見てんのよ!」

こちらを見ていた訳でも無いのに的確なアスカの叱責が飛び、シンジは飛び上がって驚いた。

「な、な、何でもないよっ!今日、リツコさんも来るみたいだから、お摘まみになるようなもの多目に作るけど、アスカ、何食べたい?」

まじまじと女の子の足を眺めてしまったばつの悪さをごまかすようにシンジはアスカに問いかけた。

「そうねぇ。ってか、何作れんの?夕飯の買い物しないで帰って来ちゃったじゃない」

アスカの言葉にはっとしたシンジは慌てて冷蔵庫の中身を確認する。

「うーん、有り合わせの物しか作れないかなぁ…?」
「そうなの?」

突然耳許で聞こえたアスカの声に、シンジは驚いて叫び声をあげる。

「うわぁ!」
「きゃあっ!な、何よ!びっくりするじゃないの!」
「び、びっくりしたのは僕だよ!TV見てたんじゃなかったの!?」

跳ね回る心臓を押さえて振り向いたシンジは、拗ねたような表情をしているアスカを目にした。

「み、見てたわよ!だけど夕飯の買い物しないで急いで帰ってきたんだから、あんたが何作るのかアタシが気にしたらいけないわけ!?」

何となく、アスカが何を気にしているのかをシンジは察した。
シンジの胸に、何か暖かい物が広がっていく。
何故か普段よりアスカが可愛らしく見えた。

「そんな事ないよ。そうだ!ね、ねぇ、アスカ?これで何が作れるか一緒に考えてくれない?」

何となく思い付いたシンジは、普段ならば絶対に言わないような事を深く考えずにアスカに提案する。

「え!!」

思わぬ事を言われたアスカは、シンジをまじまじと見詰めてしまった。

「だ、駄目、かな…?」
「だ、だ、だ、駄目じゃないけど、アタシは簡単なドイツ料理くらいしか知らないわよっ!日本人の口に合うのかなんて知らないわ!日本の味付け、慣れるまで結構癖があったし」

おそるおそるはにかみながらシンジに尋ねられたアスカは、動揺しまくり、これまた普段ならば決して口にしないような事を口にしていた。

「えぇっ!?そ、そうだったの!?」

シンジはアスカの思わぬ言葉に衝撃を受けて硬直した。
アスカは口を滑らせてしまった事に、顔を後悔で歪ませる。
シンジはそんなアスカに構わず更に問い詰めた。
不平不満を常に口にする筈のこの少女が、何故そんな重要な事を黙っていたのかが気になった。
普段、あれだけ傲慢なまでに自分を主張してくる姿が、更にシンジに追求させる要因になっていた。

「どうしてそんな大事な事言ってくれなかったんだよ!!」

理不尽とは分かりつつも、黙っていた少女に対し、シンジは何故か激しい怒りを感じ、詰問するような勢いになってしまっていた。

「言ったわよ!でもあんた、ミサトは和食好きだから、朝はミサトに合わせるって言ったんじゃない!ここはミサトの家だからって!!」

アスカはシンジの剣幕に狼狽えながらも、辛うじて自分を保っていい放つ。
シンジはアスカのその一言から、ユニゾンの訓練が終了して一週間程経った頃に、アスカに朝はパンかシリアルにしろと要求された時の事を思いだした。
その途端、シンジの身体中に満ちていた筈の怒りが突然消え失せる。

「あ、あれって、そういう事だったの!?」

動揺したシンジの言葉が震える。

「そうよ!だいたいねぇ、アタシはドイツにいたのよ?日本と違うのは当たり前でしょ!そのくらい考えなくても分かる事でしょ!?だからあんたはバカで鈍感だって言うのよ!!」

シンジはアスカの主張に返す言葉もなく、今度こそ完全に受け入れて沈黙した。
何故ならアスカがそのような事を考えていたなどと、シンジは考えた事も無く、気にした事も本当になかったからだ。
アスカは必ず自分の思い通りにする為に回りを動かすから、気にしなくて良いと思い込んでいた。
それを改めて確認したシンジは、自分が酷い悪人であるような気持ちになる。
目の前の少女にどう詫びたら良いのかが分からなくなっていた。

「その、ゴメン……。アスカがそう思ってるのにずっと気付かなくて…」

動揺したまま、口が自然と言葉を滑り出させていく。

「そ、そうだよね。確かに外国は洋食が普通で、和食は普通食べないよね。何でこんな簡単な事に気付かなかったんだろ…」

アスカはシンジの態度から言葉の重みに気付き、激昂から一転して焦り出した。
こんなやり取りをする気もつもりもなかった筈なのに、一体自分は何をしているのかとも混乱する。

「べ、別に謝ってもらう必要何かないわよっ!ここはミサトの家なんだからミサトに合わせるのが当たり前でしょ!!食べたい物があったら夕飯にあんたに作らせればいいんだから!和食にもいい加減慣れたし今更よ!!」

赤くなってそっぽを向く少女を、シンジは目から鱗が落ちる心地で見詰めた。
少女が来日からの見聞きした彼女の言動を、今知ったばかりの事実と照らし合わせてみると、シンジが気付きも気にもしなかった事実が幾つも浮かび上がって来る事に気づいた。
そういえば、彼女は一度もシンジの主張に不平は漏らしても、決して拒否はしなかった。
シンジの用意した物についてケチはつけても、味に関しては全く言及しなかった。
食についてだけで、自分が気付いていなかった事がこれ程あったのだったら、他の事はどうなのだろう?
シンジはいつになくこの少女に対して興味が沸いてくるのを感じていた。
自分は本当にアスカを誤解していたのかもしれない。
シンジは先程感じた疑問が確信に変わるのを感じ、初めてアスカの事を知りたいと思った。
訳もなく胸が高鳴っている。

「じ、じゃあさ、アスカの知ってるドイツ料理教えてよ!僕、作るから」
「え!?」

心底驚いた顔をするアスカに、シンジは更に鼓動が早くなる。
まるで知らない人と話をしているような緊張を感じていた。
彼女は、『アスカ』なのに。
シンジは、自分の中にあったアスカという少女に対しての評価が崩れさってしまい、どう対応したら良いのか分からなくなっていた。

「えっと、その、今までちっとも気付かなくて気が回らなかったけど。す、好きな物はやっぱり食べたいって思うっていうか、ミサトさん、僕達は家族だって言うし。か、家族なら、家族の好きな物を作ってあげるの当然だろ!?」

必死になって、自分でも訳のわからない主張をしたシンジは、アスカがやけに黙りこくっている事に気付いた。

「あの、アスカ…?」

ふと視線アスカに向けたシンジは、アスカが静かに涙を流している姿を目にした。

「あ、あすか!?」

微動だにせず、ただ涙だけを溢すアスカは、普段の溢れるばかりの生気が抜け落ち、まるで幼い子供か人形のようだった。
アスカが泣くというおよそあり得ない事態の上に、女の子に泣かれた経験も泣いている女の子に接した経験もないシンジは、貧血を起こして倒れかける程の衝撃を受けた。
何をすれば良いのか?
自分の鼓動だけがやけにシンジに響く。
逃げたいという気持ちで凍り付いたシンジの中で、ようやく、泣いている理由をアスカに尋ねようという結論が出る。
ガクガクと膝が震え、なかなか口を動かす事が出来ない。

「あ、あ、あの、アスカ?」

ようやく絞り出す事の出来たシンジだったが、アスカの行動によってシンジの決意はかき消されてしまった。

「本当?」
「え?」
「本当にアタシの為に作ってくれるの?」
「う、うん」

涙に濡れた瞳でシンジを見詰めて、どこか必死に尋ねてくるアスカに、シンジは飲み込まれながら素直に答えた。
その途端、アスカはシンジの胸に飛び込んできた。

「わ、わ、わ、わあぁぁぁぁ!?」

シンジの華奢な体格では、勢い良く飛び込んできた同じくらいの体格のアスカを支えきる事が出来なかった。
端から見れば、まるでアスカに押し倒されるように後ろに向かって倒れ込み、冷蔵庫に頭をぶつけてしまう。

「い、痛ててって!ア、ア、ア、アスカ!!」

始めは頭に感じた痛みに意識がいっていたが、胸元から全身に感じる暖かくて柔らかな感触に、シンジの頭は再度活動を停止した。

「シンジ、シンジ、シンジ……」

シンジの名を繰り返しながら、涙を流して胸元にすがり付いて来ているアスカに、シンジは頭が沸騰しかける。

「アアアアアアスカ!?」

しかし、ユニゾン訓練の最終日に、自分の布団に潜り込んできて泣きながら母親を呼んでいたアスカの姿が今のアスカに重なった。
おかげで、シンジは少し冷静になる。
アスカを慰めたいと感じ始めたシンジは、夢中で自分に抱き着いて泣いているアスカをおそるおそる抱き締めた。
それはシンジにとって不思議な経験だった。
抱き締めているのは自分の筈なのに、何故か自分の方が満たされていくのを感じる。
腕の中にすっぽりと収まってしまったアスカが愛おしい。

「ア、アスカ?」

シンジの胸に顔を埋めて嗚咽を繰り返すアスカにシンジが声をかけた。 ピクリ、とアスカが反応する。
その動きから、シンジは自分の頭に血が登って行くのを感じた。
直前までの冷静さが自分の中から失われて行くのをシンジは感じる。

「そ、そ、その、な、泣かない、で…?」

ばくばくと心臓は破裂してしまいそうな程の鼓動を感じつつ、シンジはアスカの髪をそっと撫でた。
その途端、今までの身動ぎとは比べ物にならない程アスカが震えた。
余りの反応の大きさにシンジもびくり、と身を震わせてしまう。
それを契機に、いつも勝ち気なアスカの青い瞳が、シンジの胸元から涙に潤みながら見上げて来る。
どきり、とシンジの胸が激しく高鳴った。
何か話さなくてはいけないと思い、シンジは思い付くままに言葉を繋げていた。

「あ、あ、あのさ、アスカ。あの、アスカが嫌なら作らないからさ。だから……」
「違うの…」
「え?」
「違うの。嬉しかったの。ありがとう、シンジ」
「え、あ、え?」
「たっだいま〜!アスカ〜、シンちゃ〜ん。ごはん出来てるぅ〜?」
「お邪魔するわ」

アスカが小さい声で呟いた途端、二人の保護者がリツコと共に帰宅を告げた。
アスカは咄嗟にシンジを突き飛ばすと、真っ赤になって自分の部屋へと駆け込んでしまった。

「え?」

そのあまりの早業にシンジは感情を上手く切り替える事が出来ず、きょとんとなってしまう。

「シンちゃん?そんなとこに座ってぼーっとしてどうしたの?」
「お邪魔するわね、シンジ君」
「え…。あ、お帰りなさい、ミサトさん。リツコさんいらっしゃい。ご飯、まだなんです。今、作りますね」

なぜシンジが突き飛ばされなければならなかったのか、何か釈然としなかった。
しかしどこかふわふわとした甘い物を抱きながら、シンジは自分達と保護者達の為に夕食を作り始めた。

後編へ続く