おとぎの帝国  前編 レイチェル
    作者:でらさん
















    永遠に続くと思われた少女時代は、いつの間にか過ぎ去り、夢よりも身の回りの現実が関心
    の的となりつつあった。
    それでも彼はいつも唐突に現れ、自分をお伽の国へ連れて行き、そこで飽きることなく冒険
    を繰り返す。それこそ、時を忘れたように。
    だが成長と共に冒険は苦痛となりつつあり、自分をお母さん以上に見ようとしない彼にも不満
    を募らせていた。子供の恋から大人の愛への昇華を求めるのは、彼女の常識においてごく自
    然の流れだった。
    そしてある時、いつものように迎えに来た彼に彼女は言った。


    『私は、行かないわ。
    もう、あなたのお母さんはやめたの』


    彼は一瞬びっくりしたような表情を浮かべ、次にあからさまに不機嫌な顔へと変わった。
    しかし、決して彼から離れない姦しい妖精は歓喜するように飛び回る。そんな状態が幾ばくが
    続いた後、彼は何も言わずに窓から飛んでいった。












    打ち寄せる波の音と潮の香りで自分は海岸かそれに近い場所にいると分かったシンジは、
    ゆっくりと瞼を開けた。雲に邪魔されない日差しが、痛いくらいに目を刺激する。
    シンジは手で日差しを遮りながら身を起こし、辺りをキョロキョロと見回す。エメラルドブルーの
    海と白い砂浜、そして椰子の木、その他南国を思わせる植物や木を密にした森が海岸から内
    陸へと広がっている。どう考えても第三新東京市近郊の景色ではない。CMなどで観る、遙か
    遠隔の地にあるリゾートそのものだ。
    気を失っている間に連れてこられたのだろうか?
    誰が?何のために?
    ネルフがこんなことをするはずがない。今現在は使徒戦の真っ最中で、そんな余裕などない。
    シンジ達パイロットは、第三新東京市から外へ出ることを事実上禁じられているくらいだ。
    誘拐の可能性もあるけども、自分の最後の記憶は、エヴァ実機を使用したシンクロ試験。その
    最中、しかもネルフ中枢での誘拐など不可能だというくらい、いくらシンジでも分かる。シンクロ
    中に何かトラブルが生じたところまでは記憶しているのだが・・・


    「シンクロ率と出力が、どうのこうのなんて言ってたような」


    「やっと起きたのね、シンジ」


    突然、後ろから聞こえた声にハッとしたシンジが振り向くと、そこには見知った顔。同僚のアス
    カがいた。見たことのない果物を幾つか抱えた彼女は、シンジが口を開く前に付いて来いとい
    うように首をクイと捻り、森へ向かって歩き出した。木陰で話をしようというのだろう。確かに、
    体を密封したプラグスーツでこの日差しの下にいると、熱中症にでもなりそうだ。


    「この辺でいいか。
    シンジ、こっちよ」


    アスカは、果物を抱えたまま適当な木陰に腰を下ろすと、シンジに早く来いと促す。その顔に
    動揺とか不安の色はない。ここがどこか分かっているような節さえある。そんな彼女に安心し
    たシンジは、素直に彼女の言葉に従った。


    「少し涼しいね、ここは」


    一メートルほどの間を空けて座ったシンジに、アスカが手元の果物を二つ放ってよこした。
    「意外といけるわよ」と言ったアスカは、すでに丸ごと頬張っている。味見は済んでいるようだ。
    見たことのない果物にシンジは躊躇するが、喉の渇きに堪えきれなくなったシンジは、くすんだ
    黄色の果実を思い切って囓った。すると、マンゴーと桃と梨を足して割ったような果汁を一口で
    気に入り、瞬く間に二つをたいらげる。食べ終わると、僅かに残った芯を傍らに転がし、べたつ
    く口の周りを手で拭った。プラグスーツが汚れるが、今は気にしないことにする。
    何となく視線を感じたシンジがアスカの方へ首を向けると、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
    彼女のそんな表情は珍しくも可愛らしく、シンジの視線も固定されてしまう。二人は暫くの間、
    互いの視線を絡ませていた。
    それが幾ばくか続いた後、アスカが先に根を上げた。


    「な、なに見てんのよ、アンタ。
    アタシの顔に、何かついてる?」


    「い、いや、その・・・
    初めて見たから。アスカの、そんな顔。
    アスカこそ、僕の何を見てたんだよ」


    「アンタがガツガツ物を食べるなんて、初めて見たわ。
    意外な感じ。アンタのイメージじゃないもん」


    アスカのシンジに対する心象というのは、出会ってから今まであまり芳しいものではないし、変
    化もほとんどない。エヴァの操縦等に関しては、また別としてだ。
    周りに合わせるだけで自分を主張せず、何か言われるとすぐ謝ることで場を収めようとする。
    なるべく個を出さないことで無難に生きようとしているのが、はっきりと見て取れる。他にも、戦
    いを好まないことや優柔不断な態度がアスカの癇に障る。一番の問題が、たまに男の保護本
    能をくすぐるかのような儚い表情や仕草をすること。まるで少女のように。男にはそれなりの男
    らしさを求めるアスカにしてみれば、どうにも許し難い。
    しかし今の果実を貪るシンジには、男そのものを感じた。本能を垣間見せたかのようなシンジ
    に、恥ずかしながらアスカは、一瞬目を奪われてしまった。


    「これでも、一応は男だからね。
    そんなことより、今の僕達の状況が知りたいよ。アスカは、何か分かってるんだろ?」


    「全然。
    一応、近くを調べてみたけど、果物が豊富って以外は普通の南国の森ね」


    「そ、そう」


    期待とは違うアスカの応えに落胆の色は隠せないシンジだが、何か手がかりが欲しい。せめて、
    ここがどこか分かれば・・・


    「じゃあさ、もう少し奥へ入ったら、何か見つかるかな。人の家とか」


    「奥へは行かない方がいいわね。何がいるか分かったもんじゃないから。
    猛獣、毒虫、毒蛇、毒草、ヤブ蚊、その他諸々、南国の森は危険がてんこ盛りよ。素人がガイド
    もなしに入り込むなんて、自殺行為だわ」


    「大丈夫、この森は安全よ。わたしが保証するわ」


    いきなり割り込んできた第三者の声に驚いた二人は、ほとんど同時に声のした方へ首を向けた。
    いつの間にか二人の後ろ、二メートルほどの所に立っていたのは、フリルの付いた白いワンピース
    を着た一四、五歳と思われる白人の少女。
    ワンピースの丈は太股の半分くらいで、足下の、やけに古めかしい黒茶の革靴はハーフブーツタイ
    プ。靴はそれなりに汚れているものの、服や彼女自身に汚れらしきものも虫に刺された痕も見当た
    らない。
    おまけに、日に焼けた様子もない。確かに安全は安全のようだが、何か変だ。


    「わたしは、レイチェル・パン。この島は、パパの物なの。
    だから、人の害になる物はほとんど排除されてるわ。昔は、オオカミとか熊とかいたみたいだけど」


    肩より少し長い僅かに癖の付いたアスカより色の薄い金髪と、薄い蒼の瞳。白人そのものの特徴
    を持ったその容姿に似合わない訛りのない日本語に、シンジは驚く。歳は自分と同じくらい、もしくは、
    やや上か。背格好はアスカよりやや小柄で体つきが子供っぽいものの、喋り方や所作が落ち着きす
    ぎている。子供のそれとは、明らかに違う。


    「こんにちは、レイチェル。アタシは、アスカよ。こっちがシンジ。
    で、ここは、どこ?整備されてるってことは、お金持ちのプライベートリゾート?」


    アスカはシンジを促しながら立ち上がり、レイチェルと名乗った少女に相対して言った。
    少女の父がこの島を所有しているとなれば、それなりの社会的地位を持った人間ということになる。
    となれば、濃い薄いは別としてネルフと関係を持っていても不思議ではない。ネルフと財界の繋がり
    は、加持からよく聞いていた。ミサト、もしくはゲンドウがそのコネクションを使って何らかの意図の基、
    自分達をここへ送り込んだと考えるのが、一番合理的かつ現実的だ。
    日頃の労をねぎらう意味で、特別な休暇でもくれたのかもしれない。レイは、万が一のために本部で
    待機か休暇を拒否でもしたのだろう。
    どうも普通ではない少女の素性も気になるアスカだが、それはとりあえず棚に置く。


    「ここは、どこにもない国。時の止まった島よ」


    「それが謳い文句ってわけね、なるほど。
    どこの会社か知らないけど、新規にオープンするテーマパークってやつか。合点がいったわ。
    アンタが案内役?」


    「そんなところね」


    レイチェルの言葉でアスカはひとまず疑問を頭から追い出し、納得することにした。
    ”どこにもない国”とは、ネヴァーランド。永遠の少年、ピーター・パンが住むというお伽の国だ。まだ
    ニュースにもなっていないが、ネヴァーランドを再現したテーマパークが世界のどこかで開園間近な
    のだろう。この手の物はアメリカのとある超大手企業が得意としている分野で版権も抑えられてい
    るはずだが、なんらかの事情があるのかもしれない。
    事情はともかく、こういった施設に興味のないアスカは早く帰りたい。


    「じゃ、出口まで案内して。すぐ帰るわ」


    「帰る前に、私のパパに会っていかない?
    もうすぐ、この島に到着するの」


    「アンタのパパ?」


    「とても素敵なパパよ。会わないと後悔するわ」


    テーマパークのオーナーが、現地視察するらしい。ひょっとしたら、ネルフの関係者が同行しているかも。
    全て仕組まれているというわけだ。


    「会わないと帰れないようね」


    「頭のいい人って、好きよ」


    レイチェルは、にこっと微笑み、自分の後に付いてこいと言いつつ、二人に背を向けて歩き出した。
    アスカはシンジの手を取って、レイチェルに続いた。その行為があまりに自然だったのか、二人が互い
    の手を握っていると気付いたのは、森の中に忽然と現れた乗り物を目の当たりにしたその時。
    それはアスカとシンジが見たことのない、奇妙で不思議、かつ驚異の乗り物であった。







    あれから、彼はすっかり現れなくなった。
    自分の言葉が彼を遠ざけたと思った女一歩手前の少女は、毎日のように神へ祈りを捧げる。


    『会いたい。彼に会いたいの、神様』


    想いのあまり食事もろくに喉を通らず、彼女は日々やせ衰えていく。
    美しいと評判の彼女へ求婚していた幾人かの男達がどんなに甘い言葉を囁いても、愛する家族達、両親
    や双子の弟たちが励ましても、彼女は心沈ませるばかり。
    そんなある日の夜、一人の若い青年がダーリング家を訪ねた。
    普通の市民風ながらもどことなく品を漂わせるその青年は、戸口に出た双子の弟たちに何事か囁くと、
    案内も不要とばかり、一人で、三階にある少女の部屋へ向かった。
    そして・・・


    『ピーター!ああ、ピーター!』


    感極まる少女の声がダーリング家全てに響き渡ったかと思うと、次の瞬間、バタンと窓の開くような音が。
    驚いた両親が駆け転びながら階段を上がり彼女の部屋に入ったとき、そこにはもう、誰もいなかった。
    嘆き悲しむ両親に、後を追ってきた双子の片割れ、ジョンは言った。


    『父さん、母さん、悲しむことはないんだ。姉さんは、ピーターの奥さんになるんだから』


    そして、マイケルが続ける。


    『そうさ。ピーターはもう、子供じゃないんだ』











    アスカの常識において、それは空を飛ぶ・・
    いやそれどころか、乗り物として適当なデザインと思えなかった。
    スライトリー号とレイチェルが呼んだそれは、下部が窄まっているコップに半球形のガラスを被せたような
    形状で、底部から突き出た三本のランディングギア以外、翼の類はおろか推進機関も見当たらない。しか
    も全高五メートルほどの小型機で、音声認識による全自動操縦。オーバーテクノロジーの塊とされるエヴァ
    やMAGIを扱うネルフでも、そんな技術は見たことも聞いたこともない。アスカは、自分の信じていた世界
    観に疑問を生じていた。ネルフは、世界の最先端を飛び抜けて奔っているのではないのか・・・と。
    もしくは、何らかの原因で全く別の世界へ足を踏み入れてしまったかだ。ここで目覚めてから感じる、訳の
    分からない違和感が頭から離れないのは事実。最悪かつ非現実的な見立てであることは、承知している
    のだが。


    「アスカさん達がいた場所は、今はあまり人がいかない場所なの。
    島の反対側が生活圏になってるわ」


    レイチェルは乗り込んだ機に帰投を命じると、あとはガイドに徹していた。そこに義務や仕事で仕方なく話
    している様子はなく、本当に愉しそうだ。邪気のなさそうなその笑顔を見たシンジは、得体の知れない少女
    というレイチェルへの認識を、大幅に変えている。アスカの方は、それでも警戒を解かないが。人を信用す
    るまで、それなりの時間をかけるタイプだ。


    (テーマパークったって、何もないじゃない。
    まあ、アタシが勝手に決めつけただけなんだけど)


    ゆっくりと、だがろくな揺れもなしに飛行する機内から眼下の島を見るアスカは、高度を上げるにつれて明
    らかになる島の全景を見て疑問を深める。
    島は大まかな円形状で、中心には、それほど高くない岩山。山の中程から下の麓には森林が広がり、それ
    は濃淡を繰り返しながら海岸付近にまで続いている。所々に木々のない広場みたいな場所が認められる
    ものの、そこに遊戯施設はない。はっきりとは分からないが、島全体で第三新東京市と同じくらいの広さは
    ありそうだ。
    自分達がいた海岸の反対側には、確かに住居らしい建物が数棟確認できる。欧風だがお世辞にも立派な
    建物とは言えず、かといってレトロ風に作られた家でもない。単なる古い家という感じ。他には、レーダーサ
    イトらしき近代的な建物が幾つか。あと、小さな港が一つ。アスカが確認した人工物は、このくらい。テーマ
    パークにしては、かなり寂しい。先ほどの会話を思い返せば 、レイチェルもはっきりと肯定したわけではない。
    アスカは、自分の考えを一端白紙に戻した。


    「アタシ達の行き先は、どこなの?レイチェル」


    「山のてっぺんよ。
    あ、パパ達が着いたみたい。ちょうどよかったわ」


    レイチェルが指さした先には、島の中心にそびえる山の頂。いつの間にかそれが、一〇〇メートルほど先
    に迫っていた。高度はほぼ合っており、機は水平に近づいている。遠目では気付かなかったが、その頂は
    水平にすっぱりと切り取られたかのように平らで、明らかに人為的な手を加えられていた。恐らくヘリポート
    か、垂直離着陸機の発着場だろう。アスカとシンジは、自分の常識に従って、そう断じた。
    が、突如上空から飛来した飛行物体は、二人の予想ばかりか常識をも粉微塵に粉砕した。
    布団を叩くようなローター音も、耳をつんざくジェット音もなく、モーターが低速で回転するような静けさと共に、
    それは現れた。
    全身が白銀に輝く本体は、一見帆船を思わせるも全てが金属で構成されており、外装も機械的でSF映画か
    アニメに出てくるような宇宙船に近い。自分達が乗る機と同様、外装に推進機関らしき物は見当たらず、どう
    やって浮かんでいるか飛んでいるか、全くの謎だ。
    全長は、よく分からない。比較する対象がないため、ただ大きいとしか言えない。アスカの見立てだと、国連
    軍の空母、オーバー・ザ・レインボーと同じくらいに思える。形状からして、容積も似たようなものだろう。とす
    ると、一〇万トンかそれに近い重量を持っていることになる。軽い気体を詰め込んで飛ぶ飛行船とも考えられ
    るが、あの質感は金属以外考えられない。


    「ちょっと、このまま突っ込むつもり?アレに押し潰されるわ」


    上から覆い被さるように降下してくる巨大な船に構うことなく、スライトリー号は山頂への接近を止めない。あ
    れが着陸するとしたら、この機は邪魔者以外の何物でもないとアスカは考えるのだ。
    しかし、レイチェルは平然として言った。


    「ママの船、ダーリング号を信じて。そんなへまはしないわ」


    「ダーリング?」


    ダーリングと聞いたアスカの頭に、一つの単語が浮かび上がった。
    先にレイチェルの言った言葉”どこにもない国”と、ダーリングが結びついた結果だ。
    それはあまりに非現実的で受け容れがたいものだけども、辻褄は合う。この島の特徴も、絵本のイラストと大方
    一致する。
    アスカは意を決し、少女に尋ねた。
    記憶に間違いがなければ、ダーリングというのは・・・


    「レイチェル。アンタのママの名前は?それと、パパは?」


    「ママはウェンディ。パパはピーター。
    それが、どうかした?」


    推測通りの応えに、アスカの息が詰まる。
    一〇〇年の昔に書かれた「ピーター・パン」のヒロイン、ウェンディは、ダーリング家に生まれたという設定になっ
    ている。幼い頃に本を読んだアスカは、覚えていた。
    が、原作でのウェンディとピーター・パンは、切ない別れで物語を終えている。ウェンディの想いにピーターは応
    えず、ピーターは少年のまま、ウェンディの子や孫達と交流を続けるのだ。


    「じゃあ、ここは」


    「ネヴァーランドと名付けられた地球よ。ミス、アスカ」


    こんなことが現実であるはずがない。自分は夢を見ているだけ・・・
    アスカは、ただ呆然と立ち尽くし、シンジが、そんな彼女を心配そうに窺うのだった。













    中編 フック
    寄贈インデックスにもどる

    烏賊のホウムにもどる