血の味のする水。

慣れない感覚。

いつも通りだ。

いつも通りの……









































RETURN TO BEGINNING


〜されど還らず




by三只











































「お疲れさま、シンジくん」

リツコさんが顔を上げぬままに言う。

伏せられた頭部は、いつしか金色を失っていた。

黒く染め直された髪は、疲れたようにくすんで見える。

「お金は口座に振込んでおくから。…足りないものはある?」

「いいえ」

それ以上の言葉を期待しないわけじゃない。

でも、この人と僕は、絶対に家族じゃない。なれない。

僕はきびすを返す。

「シンジくん、あともう少しの我慢よ」

背中に声。

僕は振り向かないまま軽く会釈をしてモニター室を後にする。

寒々しいリノリウムの通路を進む。

どこぞの施設が流用されたか定かではないが、旧ネルフのそれとはくらべものにならないくらい貧相な施設だ。

三重もの警戒システムを抜けて玄関を出る。

「どうぞ」

黒服の男が、黒い車のドアを開け、僕を促す。

乗り込む。

走り出す車。

流れる景色。

沈黙。

無言。

後部座席の男たちもみな無言だった。

彼らとは、かれこれ四年以上の付き合いになるのだが、いまだ友好的な関係は結べてない。

そもそも結ぶ気もなかった。

自宅のアパート前に着く。

車が停まるなり、僕は礼も言わずドアを開け、降りた。

周囲の道行く人の訝しげな視線など気にしない。

半ば早足で部屋へと逃げ込む。

カーテンの閉めきられた部屋。

寒い。

ジャケットも脱がず、しきっぱなしの布団へと潜り込む。

鼻がしくしくと痛んだ。

枕もとをかきまわし、灰皿を引っ張り出す。

ズボンのポケットからよれた煙草を一本取りだし、火を点けた。

煙にむせる。それを灰皿の真中に置く。

薄暗い中に灯るささやかな炎。

それが、全てを燃やし尽くしてくれればいいのに、と思いながら、僕は瞼を閉じた。

目を開ける。

闇に紛れて微かに白煙がたゆたっているような…。

灰皿の炎は燃え尽きたのだろうか?

では、なぜ、暗闇に赤い光点が見えるのだろう?

……なんのことはない、留守番電話のメモリーが点滅していただけだった。

電灯もつけず、留守録を再生した。

友人たちが(もっともこれは、単に僕が思っているだけかもしれないが)、講義をサボった僕を心配して連絡してくれたらしい。

録音装置の液晶モニターが今の時刻を教えてくれた。

午後11時を廻っていた。



























西暦2021年。

あれから五年以上の月日が経っていた。

歴史に記されることのない、サードインパクト。

その生々しい傷痕を記した残酷な爪は、猛毒を持っていたらしく、いまでも僕を苛む。

剥き出しのジオフロントは、第3新東京市という存在しなかったとされた都市とともに封印され、もはや人目に晒されることはない。

でも、僕の手は覚えている。

あの光景を。

あれを。

……なにを?























それは、俗称T・Sと呼ばれた。

サードインパクト・シンドローム。

決して公言されることのない事故。それの強烈な後遺症とでもいうべきだろうか。

戦略自衛隊による、ネルフ施設内への強襲。

その後のエヴァンゲリオン弐号機による戦闘。

多くの人々が無差別に死んだ。

そして、その殆どの人が蘇った。

半壊したネルフ本部。

爆撃後のジオフロントにて。

多くの人が、生まれたままの姿で目を覚ましたのだ。

非現実的なことだろう。

しかし、その殆どの人が証言してる。

自分は、私は、「死んだはずだ」、と。

自分が死んだことを客観的に判断することは不可能ごとだから、どうにも第三者には理解しかねる証言だ。

でも、そう定義しなければ、T・Sの説明がつけられないのも事実なのだ。

ファントム・ペインというものがある。

無くした、切断した手足に、生々しい痛みを感じるという症状だ。

本来ないものの痛みを伴う。

T・Sは、さらに深刻な症状をもたらす。

死んだ感覚が、生々しく蘇る。

自分でもなにが起きたか判らぬまま即死したものはまだいい。

想像を絶する苦痛のなか絶命していった人。

死の恐怖に緩やかに浸されていった人たち。

彼らの中は、蘇ったその後、症状に耐えられず、自ら再度命を断ったものも多いという。

「どちらにしろ、あなたには責任もなければ関係もない話よ」

リツコさんがそう教えてくれた。

自分も蘇ったとも教えてくれた。

彼女自身、その症例に悩まされているのかどうかは判らなかった。

「そうですか…」

曖昧に答えながら、僕は視線を所在無さげに漂わせる。

いつもの、週一の定期実験。

今日は珍しくリツコさんが話しかけてきた。

「でも、旧ネルフ職員の職場結婚率は目を見張るものがあるわね」

そういって微笑むリツコさんは、儚げに見える。

彼女が父さんに想いを寄せていた事を、リツコさんじゃない人に教えてもらった。

そして、父さんはとうとう蘇らなかった。

「シンジくん、まだミサトのことを恨んでいるの?」

唐突すぎる問い。

狼狽する僕。

「いえ、そんなことは…」

リツコさんが見つめてくる。

「で、でも、その、ミサトさんは加持さんのことが好きだったんでしょう? なのに、結婚なんて…」

見透かされているのだろうか。

僕の中の背徳感がうねる。
























蘇ったはずのミサトさんを見舞った病室。

何もいわず、僕を抱きとめてくれた。

泣いた。縋った。

退院したミサトさんのもとを再度訪れた僕は、大人になった。

もっとも、肉体的に大人であったことを証明したに過ぎない。

精神は、いまも…。

その後、しばらく僕はミサトさんのもとを訪ね続けた。

快楽をもとめていたわけじゃない。

でも、温もりの中にある微かな喜悦が、僕の生を肯定してくれているような気がしたから。

だから、それに、それだけに縋って生きた。

他になにもできなかったから。

そんなある日。

気だるさの中、壁を見つめてミサトさんに背を向けた僕はベッドの上。

背後でライターをする音。

纏わりつく白い煙。

少し咳き込みながら、ミサトさんは言った。

「もう終りにしましょう、シンジくん」

そしてミサトさんは泣いた。

僕は知っていた。

こんな関係が長く続くわけはないということを。

だから黙って服を着て、部屋を後にした。

玄関で、独り言が聞こえた。

「いくら待っても、どれだけ待っても、帰ってきてくれないんだもの…」

誰に向けられたものであるのかは、判りすぎるくらい判っていた。

帰りながら、棄てられたような気がして涙が出た。

小さなころと父さんのことを思い出した。











それから1ヶ月後、ミサトさんは日向さんと結婚した。

二人の行方は訊ねてないから判らない。


























「それが、あなたには裏切りに見えるわけ?」

「……」

嫉妬しているのかどうなのか、自分でも判然としない。

逆に、僕にはなにが赦されているのか、自問自答する日が続く。

ふっと、リツコさんの頬が緩む。

「女はね、何度でも生まれ変わることが出来るのよ、シンジくん」

思いもよらない言葉に僕は目を見張る。

…どういう意味なんだろう?

だから、なんなのだ?

どちらにしろ、僕には不実な答えに思えた。

そもそも、答えなのだろうか?

「…わからない?」

「わかりません」

僕はそう答えるしかない。

「私は可哀相だと思う?」

「…わかりません」

リツコさんは視線を逸らし口を閉ざした。

次に彼女の唇から飛び出した言葉は、激しく僕を揺らすことになる。

「本日付けであなたはチルドレンとしての登録から解放されます。

もはや、あなたに監視や護衛がつくことはないわ。

…とりあえず、お疲れ様、とだけいっておくわね、シンジくん」

「…!!」

息を吸い込む。

言葉を吐き出そうとして失敗して、咳き込む。

また言葉を紡ごうとして…飲み込んだ。

今日は6月6日。

僕の20歳の誕生日だ。

「もう、あなたにはチルドレンとしての能力はないのよ。

いえ、無かったことになるの。

そして、あなたが成人した以上、こちらの義務に従う必要はなくなったというわけ。

もちろん、こちらが拘束する権利もね」

二枚の封筒が、テーブルの上を滑ってくる。

一枚目の中味は、僕のチルドレンとしての登録を抹消する旨が、装飾過剰な文章でながながと綴られていた。

でも、たった一枚で済むんだ。

僕の、この数年の時間を空間を歪ませた忌まわしい出来事の解放通知が。

それだけ。

僕の存在とおなじ。

うすっぺらな…。

笑おうとして失敗する。

紙を広げて顔の前に持ってきて隠す。

さぞかし情けない表情をしていることだろう。

紙と一緒に視線を落とす。

もう一枚の封筒。

開けた。

薄い、小さな紙片には、一綴りの住所が記してあった。

「…これは?」

視線をあげぬまま、訊ねる。

「あなたには、彼女より半年早く、これを知る権利ができたの」

彼女?

リツコさんのいっている意味がわからない。

この住所は? 彼女より?

答えを待つ僕に、リツコさんは静かに言った。憎らしいまでに平然と。淡々と。

「アスカの居場所よ」













続く