立見席から

あるヴィーンだより (下)

 
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 ヴィーン2日目の夜はまた歌劇場へ行ってヴァーグナーの『タンホイザー』を見た。前夜と同じく立ち見だったが,こんどは1階後方のよく見える場所をとれた。指揮はバイロイト音楽祭にも顔を出していたハインリヒ・ホルライザー,カラヤンの演出にそった上演である。
 ヴァーグナーの楽劇の実演に接するのは,前年のミュンヘン国立歌劇場の東京公演での『ヴァルキューレ』につづいて2回目だった。ミュンヘンの総力を挙げ,サヴァリッシュの指揮のもとにスター歌手をはなやかに集めたあの『ヴァルキューレ』は,思い出すだけでも興奮するような圧倒的な名演だった。初めて見るにしては少々ぜいたくな演奏だったかもしれないが,それだけにヴァーグナーの音楽のおそろしい力が少しわかったような気がした。

 ヴィーンの『タンホイザー』は,そうした祝祭的なセッションではないからもっと地味で,無駄のない端正なヴァーグナーだった。しかしそれでもさすがに相当なキャストをそろえていたし,オーケストラもベームの時ほど張りきってはいなかったにせよ,やはりたっぷりとしたヴァーグナーの響きを聞かせてくれた。
 カラヤンの演出――たぶん,昔,ヴィーンに君臨していたころのものだろう――は,舞台の奥行きと照明の効果をうまく生かしたものだった。歌劇場の舞台はほとんど客席と同じ,あるいはそれ以上の面積を持っている。冒頭のヴェヌスブルクの場面の官能的なバレエはその広い舞台の一番奥の方で踊られ,暗い照明にほのかに浮かびあがって別世界の妖しげな雰囲気を出していた。それが突然,ヴァルトブルクの山麓の春の朝の場面に転換すると淡い緑色を中心とした落ち着いた色調になり,やがて舞台の奥から巡礼の合唱がわきおこって,それに羊飼いの笛の音がからんでゆく。本物の舞台で初めて味わったオペラらしい世界だった。

 それにしても,ヴァーグナーというのは何というものすごい男なのだろう。正味4時間以上の上演時間をもつ『ヴァルキューレ』の主な登場人物はほとんど6人だけであり,人物の動作もさほど大きくはない。私の語学力では台詞もごく一部分しかわからない。それにもかかわらず,数多くの指導動機の巧みな綾に助けられて,登場人物の心の動きは克明に伝わってくる。
 たとえば,『ヴァルキューレ』第3幕で,ジークリンデがブリュンヒルデから,あなたは高貴なるヴェルズング族の後裔を胎内に宿している,と告げられる場面がある。ここでは,ト長調の語りの中に突然ホ長調で有名な<英雄ジークフリートの動機>が印象的にあらわれる。ついに真の英雄がやってくる――死のうとしていたジークリンデは生きる望みを取りもどす。この場面こそは,「ジークフリートの葬送行進曲」の中のメロディとして以前からなじみ深かったあの動機が,4夜にわたる『ニーベルンクの指輪』の中で初めて鳴り響くところなのである。それを聞いたとき私は,それまで感じたことのなかった種類の荘厳な感動にとらわれた。実際,思わず立ちあがりそうにさえなった。

 『タンホイザー』はヴァーグナーがもっと若かったころの作品であり,『ヴァルキューレ』ほどの円熟は見せていない。それでもオーケストラはきわめて雄弁に個性豊かな動機の数々をかなでるし,充分に劇的な構成を持ってもいる。それに加えて,後のヴァーグナーには少ない明るさと朗らかな旋律がある。たとえば有名な歌合戦の場面は,舞台裏で呼びかわすはなやかなファンファーレに導かれるあの大行進曲によって始まる。その旋律は,ところどころに半音階的な進行を見せるが,概して全音階的な明瞭さに満ち,イタリア的な伝統をひくスペクタクル・シーンにふさわしい。
 ヴィーンの舞台では,これも舞台の奥行きを利用して,集まってくる貴族たちは広間を斜めに横切って悠々と歩いて席に着く。全員がそろったところで,壮麗な大合唱で行進曲がくりかえされる。ふだん,行進曲のみとり出して聞くと,このくりかえしはいかにもしつこく聞こえるが,こうして舞台を見ながら聞くと,やはり必然性のある音楽であることがよくわかる。この歌劇は正式な題名を『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』ということからも察せられるように,歌合戦の場面は最初からこの歌劇の中核として計画されたのだった。

 音楽的に最も興味深かったのは第3幕だった。ヴァーグナーの音楽は,タンホイザーとエリザベートの死と救済という結末へ向かって,一歩一歩しっかりした足どりで歩んでゆく。途中のアリアの伴奏などで楽器用法が比較的単調で,しかもここの楽器の音色が生々しく響くのは後のヴァーグナーには見られない点であるが,それさえも,終わるまえにもう一度登場するヴェヌスブルクの精妙な音楽とあざやかな対照をなしていて効果的だった。舞台は第1幕と全く同じつくりで,ただ照明だけが秋にふさわしく茶色を中心とした色調になっていた。また,第1幕では「ローマ」という叫びとともに大きな白い十字架が舞台後方にあらわれてきわめて印象的だったが,第3幕ではエリザベートの死を示す十字架が照明で床の上に映し出され,これも印象に残った。指揮者と歌手とオーケストラだけでなく,舞台装置や照明まですべて音楽の前に一体になって生命力を得る――そういうオペラとしてあたりまえのことがゆるぎなく実現されていた。

 言語学では,母語というものに特別の地位を与えている。ドイツ人たちがあのとてつもないヴァーグナーの音楽にのった台詞を母語として聞くことができるということは,考えてみるとおそろしいことだ。彼らにとってヴァーグナーのオペラは,われわれ外国人には及びもつかぬほど実感のこもったものとして聞こえるに違いない。かつて,ヒトラーはゲルマン芸術の精華であるヴァーグナーを熱愛し,政治的に利用しようとさえした。それ以前にも,ヴァーグナーと同時代のバイエルン国王ルートヴィヒ2世とか,ある時期までのニーチェなどが「気ちがいじみた」ヴァグネリアンとして知られている。
 しかし今や夏のバイロイトのヴァーグナー音楽祭には世界中から聴衆がやってくる。ヴァーグナーは単にゲルマン民族の宝ではなく,もっとユニヴァーサルなものとなりつつある。今年のバイロイトの『ニーベルンクの指輪』など,指揮はブーレーズ,演出はシェローと2人ともフランス人だという。今のドイツ人たちは,あの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』終わりで全員が高らかにドイツ芸術の永遠をたたえる音楽を,どのような感慨をもって聞くのだろうか。

 バイロイト音楽祭――これこそはヴァーグナーの魔力をもっともよく示している。たとえば,管弦楽の一晩の演奏会を自分の作品のみでうめつくすことのできる作曲家というのはきわめて限られており,その作曲家にとっては作曲家冥利につきる事態といってよいだろう。ところが,バイロイトでは約1か月にわたりヴァーグナーのみが上演される。劇場はヴァーグナーの建てた専用のものだし,歌手もオーケストラもこの祝祭のために一流の名手をそろえ,聴衆もただヴァーグナーのために集まってくるのである。しかも,今年で100年をむかえたこの祝祭は年々盛んになり,常に満員の聴衆を集め,最高の水準の演奏が最高の音響効果の会場でくり広げられる。作曲家としてこれ以上の幸福はないだろう。
 ――立見席での4時間はあっというまに過ぎた。

 《後奏》ミケランジェリの演奏会のあと私はあわただしく食事をすませ,ヴィーン南駅23時発の寝台車に乗りこんだ。明日の朝は目がさめるとイタリアを走っているはずだ。そして昼前にはヴェネツィア――ヴァーグナー最期の地へ着く。列車の単調な振動に心地よく誘われて,私は眠りに落ちていった。
 

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