立見席から

あるヴィーンだより (上)

  

『カイエ』11(カイエの会)1976  

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 ヴィーンは私の考えていたよりずっと大きな都会だった。一国の首都であることを思えば大きくて当然なのだが,ともすれば現代都市としてのヴィーンを忘れて,昔のハプスブルク家の栄光を負い,「音楽の都」の名をいただいた都市としてのみ考えがちであった。ザルツブルクから列車で昼過ぎにヴィーン東駅に着き,そのまま歩きはじめた私は,街の中心をめぐる環状道路へ出るまでにかなり汗をかいた。

 着いて最初の晩,環状道路に面してそびえる国立歌劇場では,モーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』が上演された。指揮はなんとカール・ベーム! もちろん普通の切符は全部売り切れていて,当日売り出す立見席をようやく手に入れて入ることができた。立見席といっても,ところどころにそのためのスペースがとってあって手すりにもたれて見るようになっているのである。
 オーストリアの音楽総監督(歌劇場のではなくオーストリア一国の総監督!)という称号を持つベームは最も尊敬されている指揮者であり,オーケストラ・ピットの入口にその白髪が見えると歌劇場はとどろくような拍手に包まれ,しばらくはやむことがなかった。
 冒頭のハ長調の和音が華やかに鳴るとそこはもう完全にヴィーンのモーツァルトの世界――それにしてもベームの老躯から生まれるモーツァルトはなんと若々しいのだろう。ハーモニーは常にたっぷりと輝やかしく響き,音楽はとどまることなく流れてゆく。そうだ,ベームとヴィーン・フィルハーモニーが東京へやってきて演奏したシューベルトのハ長調の大交響曲も,神々しいばかりのロマンにあふれていた。それにもかかわらず,いやそれだからこそ,その時私は,八十歳にもなったベームの演奏に接することはもう二度とあるまいと思い,生まれるそばからあとかたもなく消えてゆく音楽というもののはかなさを思ったりもした。それから三か月,私は再びベームに会えたのである。

 立ち見はさすがにくたびれる。しかも天井に近い位置なのでステージは三分の二ぐらいしか見えない。時々床にすわって休んでいると,豪華な陣容の歌手たちの歌声がからみあいながらあたまの上をすぎていった。
 私の世代はフルトヴェングラーやワルター,トスカニーニには間に合わなかった。しかし今や,カール・ベームを聞いた,と語り伝えることができる。

 ヴィーンでは,もうひとつすばらしいモーツァルトを聞くことができた。3日目の晩,ヴィーン交響楽団の演奏会にベネデッティ・ミケランジェリが出演して弾いたピアノ協奏曲変ロ長調(K.450)である。ピアノというのはきわめて機械的な楽器なのに,奏者によってさまざまな音色が生まれる。中でもミケランジェリの音は独特だ。常に透明で決して濁らず,コロコロところがるような粒のはっきりとした音で,しかもレガートはなめらかだ。その音でかなでられるモーツァルトは,よく歌い,よく流れ,しかも形のよくわかる澄みきったモーツァルトだった。この神秘的なヴィルトゥオーゾの指の動きを見ようとして,多くの人が席をはなれ,上手寄りの客席のうしろに立って聞いていた。終ってミケランジェリは無器用にあいさつをし,やがて拍手に応えて第3楽章をもう一度弾いた。
        *
 《間奏》ヴィーンでの3日間のうち,ことに3日目は,旅の疲れが重なったせいか,私の足どりはかなり重かった。次々と全く初めての土地を歩き,新しいことばを聞くというのは,ふだんの生活の中では想像できないような緊張を伴う。毎日毎日が同じような形をしている日常と違って,一日一日にそれぞれ特徴があり,何年かすぎても一日一日の経験を順を追ってたどることができる。そういえば,ある意味で学生時代の学園紛争のころ(68〜69年)はそういう「非日常」の日々を送ったのだった。長い間授業という「日常」がなく,アルバイトやクラブ活動によってかすかに曜日というものが意識されていた。情勢が複雑に刻々変化してゆく中で,自ら情報を集め,友人と討議をしたうえで,自分の行動をすべて自分で決定しなければならなかった。無期限ストに入った日,大学の「告示」が出た日,深夜の大集会のあった日,機動隊の入った日……それぞれ異なった形を持つそうした日々をその日付とともに記憶しているのは私だけではない。それはずいぶん長い旅であった。
 私は疲れた足をひきずってベルヴェデーレ宮の庭を歩いた。少し歩いてはベンチにすわり,休んではまた歩く,という具合だった。庭のはずれの小さな家の壁にブロンズのレリーフがかかっているので近づいてみると,レリーフはブルックナーの顔で,その下に「アントン・ブルックナーは1896年10月11日,この家にて死す」と記されていた。ブルックナーは生涯の終わりにようやくこの快適な家を勅命によって与えられ,第9交響曲の第3楽章まで書きあげて死んだ。白鳥の歌と言うにはあまりに荘厳でまた痛々しいあのアダージョを想いおこして,私の足どりはまた重くなった。
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