前奏曲から

『二期会通信』117(二期会オペラ振興会) 1981  

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 ニュルンベルク歌劇場のオーケストラでかつてヴィオラ奏者をしていたT氏と話をしていると,話題はしばしば「マイスタージンガー」のことに及ぶ。――「なにしろ地元ですからね,『マイスタージンガー』はしょっちゅうやりました。長いし疲れるんで管楽器の連中は2幕が終わると全員交代しちゃうんです。弦はそうはいかないけど,この曲に限っては2回分の仕事として計算されてました。3幕になると,弓をもつ手が本当に棒のようになるんです。大詰め近く,前奏曲の終わりの方と同じファンファーレ(マイスタージンガーの行進の動機)が出てくると,ああやれやれ,もう終わる,って思うんですよ」
 60年代のことで,日本人のヴィオラ弾きというとずいぶん珍しがられたそうだ(それが今では,日本人のいないオーケストラを探す方が難しいくらいになった)。

 さて,「マイスタージンガー」といえば,その第1幕への前奏曲は,中学生のころ初めて耳にして以来,私がもっとも慣れ親しんできた管弦楽曲のひとつである。内外のオーケストラの公演でもしばしばとりあげられてきたし,レコードでも,クナパーツブッシュからレークナーまでいろいろな名演を耳にした。また,アマチュアのオーケストラの一員として自ら演奏する機会も何度もあった。演奏会で聞いた中で特に印象的だったのは,1973年に初来日したときのドレスデン・シュターツカペレである。壮大なクライマックスをむかえても決して大騒ぎをせず,その響きは常に清澄で,フォルテッシモの中でもハープの音をきちんと聞くことができた。
 前奏曲の中で何度聞いてもすばらしいと思うのは,後半で3つのメロディが対位法的に重なってくるところである。こうした用い方をすることを予定して各々の動機が作られたのだとは思うが,そうした作為のあとは全く感じられない。元の意味での「天衣無縫」というに尽きる。

 私が前奏曲にのみ親しんでいた年月はかなり長かったが,やがて楽劇全体を少しずつ知るようになって前奏曲へのイメージもずいぶん変化した。楽劇のすべてを高い密度で凝縮したのが前奏曲である,ということをしだいに思い知らされて,ワグナーの「劇」的才能の確かさをあらためて感じるようになった。前奏曲の最後が切れ目なしに教会の場面のコラールに続いているのを初めて聞いたときなどは,その鮮やかな効果に息をのむ思いがした。
 前奏曲にちりばめられているいろいろな動機は全曲いたるところに登場するが,とくに第3幕の終わりの方では,前奏曲と同じ形の楽句が次々と現れる。先ほどふれた3つのメロディが重なるところも,さらに合唱が重なった形で出てくるし,T氏がやれやれと思ったというファンファーレにもユニゾンの合唱が加わっている。その合唱は,われわれ外国人をいささか辟易させるほど臆面もなく,ドイツ芸術を讃えるのである。

 しかし,いまやワグナーは単なるドイツ芸術の精華ではないし,ドイツ人の占有物でもない。バイロイト音楽祭は日本人のスタッフと聴衆なしには成立しなくなっているというし,T氏のいたニュルンベルク歌劇場には日本人の金管楽器奏者も何人かいて,日本製の管楽器もずいぶん使われている。そして東洋の片すみにも,これだけの情熱と音楽性をもって「マイスタージンガー」を完全な形で上演しようとしている人々がいるのである。日本のワグナー上演史は,もはや前奏曲の段階ではない。

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