俺とスーパージョー



第3章 バイオニック コマンドー

 言っちゃうとラスボスがスーパージョーなんですわ。

 しかも、どちらにも葛藤も何もないんだよ。

 ジョーの正体はとことん外道のテロリストで、しかも前作の時点からスペンサーを裏切っていたことになっている。スペンサーの方も「ジョーよ、君はなぜ悪魔に魂を売ったのか!?」みたいな迷いはなく、裏切り者だと分かるや「このサノバビッチ!」と一瞬で殺しにかかる。

 『ヒットラーの復活』のエンディングに感動し、主題歌にも歌われている「二人を結ぶ固い絆〜♪」を信じていた俺としては、こんな光景は見たくなかった。

 「アクションゲームにとって、ストーリーはオマケだし」という割り切った考え方もできる。だが何より『ヒットラーの復活』が、「ストーリーによって、アクションゲームはこんなにも感動的になる!」ということを体現したゲームだった。だからこそ、その精神も“正しく”受け継いでほしかった……ワイヤーアクションの部分では、見事にそれを成功させたと思うので。

 大体、こういうストーリーって誰得なんだ? 長年のファンほど悲しむだろうし、新規ファンはポカーンだろうし……。「驚かせる」のと「ショックを与える」のは違うと思うし。

 そんなことを思うにつけ、『バイオニック コマンドー』のストーリーは残念でならない。

 ただ一応、海外公式サイトで公開されているコミック『Bionic Commando: Chain of Command』を読むと、スッキリとはいえないまでも、『バイオニック コマンドー』のストーリーにもある程度は合点がいく。

 このコミックは『マスターD復活計画』と『バイオニック コマンドー』の間をつなぐ物語で、スペンサーとスーパージョーに何があったのか? が描かれている。

 このコミックを読んで感じるのは、結局「バイオニック技術」という設定を新たに作ったことが、本作の世界観を大きく変えた、ということだ。

 『ヒットラーの復活』では、ワイヤーは単なる「道具」に過ぎなかった。それが『バイオニック コマンドー』ではバイオニック・アーム、「体の一部」という設定になっている。そしてバイオニックは、大いなる力を持つヒーローでありながら、それゆえに恐れられ、迫害されることになる。

 「異形のバイオニック」であり、迫害されるスペンサー。
 「真っ当な人間」であり、英雄視されるスーパージョー。

 『ヒットラーの復活』では強い「絆」で結ばれていた二人だが、バイオニック技術という新たな設定が、この二人に埋めようのない「溝」を作った。

 『マスターD復活計画』での友情が、『Chain of Command』で亀裂を生み、そして『バイオニック コマンドー』では、二人の信じる「正義」の違いが、彼らを戦いへと導いていく。

 『バイオニック コマンドー』を『ヒットラーの復活』の続編として見ると、違和感を覚えたり、怒りを感じる部分も多々ある。しかし『マスターD復活計画』で再設定された、新たな「バイオニック・ワールド」の物語として見れば、それなりに納得はいく。

 ワイヤーアクションは見事にオリジナルを継承しているが、物語としては、よくも悪くも「別物」として割り切るべきなのだろう。



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