越境的批評は可能か? てと、ちと大袈裟だが。
東儀秀樹/ニューエイジ・ミュージックを題材に
(2000.1.15)


ニューエイジだから駄目、という考え方は自分でも割としてしまいがちな判断の様式なのだけれど、実際はそれに該当するものの幾つかを好き好んで聴いていたりしているのだよなあ。いきなり、ちょっと照れくさい話からスタートである。

こんなことを思い出したのは、東儀秀樹(1996年のソロデビュー盤)の曲のいくつかが、聞きかじりの先入観に比べて随分よかったからだ。

東儀秀樹の曲で「結構いける」と思えたものは、いずれも篳篥の響きに負うところが大きかったように思う。量産型ニューエイジ(というか、ニューエイジを始めたコアな人たちから見ればお手軽なディフュージョンなんだろうけど)は、スカスカのゆったりとしたリズムの打ち込みと、持続的で控え目なシンセ音のバックトラックが基調になっていて、そこに前景化されたソロ楽器がテクスチャに波風を立たせる、というのがいわば常道だと思うが、ニューエイジ系のもののうち個人的に好感が持てたものには、このソロ楽器に意外性があるものが多い。初期の溝口肇(チェロ)なんかもそうだったし、東儀では圧倒的に篳篥である(龍笛のものは印象が薄い)。音色や奏法上の際立った特徴が、平板とも言える背景との対比で立体感を醸し出しているとも言えるだろう。逆に、ピアノやキーボード、あるいはヴァイオリンなどを立てたニューエイジは、音響的な組み合わせに前例が多く、その類型をなぞっただけの印象にとどまるものが多かったと思う(し、実際そうした類型の縮小再生産的な語法にとどまるものが多かったとも言えそうな気がする)。

個人的にはニューエイジというジャンルはとりたてて関心がないし、感心しないものも結構多いのだけれど、しかしそのジャンルに対してもこういう批評は可能なのだなあ、と思うと何か妙な感じだ。自分がもっとコミットしているジャンルに対するときの姿勢とさして変わらない、ジャンル内在型の批評。それぞれのジャンル内における批評の構造は、ジャンルが違えども結構相称的なんじゃないか、という考えが頭をもたげる。

ところで、ポップ批評の世界ではニューエイジは分が悪い(笑)。言ってみれば、フュージョン/環境音楽/サティ(スーパーじゃなくてフランス人のほうね)といった枠組を転用した新手のイージー・リスニングといった位置を与えられがちだ。実際、大筋としては私もそう思ったりするし(ごめんなさいファンの方)。だが、ニューエイジにもかなり多くの隣接ジャンルがあるし、かつてはそれらとの間にダイナミックな交通があったはずだ(パット・メセニーやジャコ・パストリアスなども、その渦の中にいたと言えると思う)。むしろ、ジャンルという壁が確立していったのはフォロワーが増えて数的に拡大していった結果であって、ジャンルへの批判というのは内実的にはそうしたマスへの批判として行われていると思うのだ。

だから多分、ポップ側からのニューエイジへの批判というのは、既に外部として確立した他ジャンルに対する類型批評なのだ。それって実は、演歌に対する批評のありかたと大して違わないんじゃないか。つまり、よく知らないものだから類型によって批判する、という。

だが、ポップ側とて、同様の認識/構造による批判言説に晒されているのは間違いない。ただ気になるのは、ポップ側の言説が、それを無いがごとくに振舞っているように見えることだ。つまり、ポップ側が他のジャンルに対してそのような批判言説を行使する場合、その態度が勝ち組っぽい、とでも言えばいいだろうか。

で、唐突なようだが、比較の対象として最も先端的なポップ音楽ジャンルの1つと思われる、ドラムンベースをこうしたあり方の事例として取り上げてみるのである(以下DnBと表記)。

世の主流の方々にとって最も縁遠く理解しにくいと思われがちなDnBだが、実は世間の人の多くは、ポップミュージックのコアなファンがニューエイジを見るような目で見ているのではないかと思うのだ。実際、DnBっぽい曲は今やTVの至る所で「お手軽で便利なBGM」として登場している。そして多分、その限りにおいて聴く側には個々の良し悪しといった認識はなく、単に「ああいうカチャカチャした耳障りなBGM」といった類型=ステレオタイプだけが再生産されているだろうと推測できるのだ。

で、このDnBとニューエイジを並べてみるわけである。強引だけど。

バックトラックは量産型で、ある種どれも似たり寄ったり、という点は、テクノロジー的な面も含めて両者に大差ないとも言える(シンセとサンプリングの打ち込みで、基本的なリズム類型に基づいて構築していくという点においては)。極端な話、類型化されたパターンを持つ音楽ジャンルは全て、その類型性を強調することによってBGMたることが可能なんではないかと思えてくる。(それに引き替え、お天気チャンネルの「BGM」に使われている、所謂イージーリスニングの何と耳障りなこと! その名とは逆に思いっきりuneasyな音楽である。というのは脱線。)

ひょっとして、ニューエイジに対する優位を主張するかに見える(ポップ側の)言説は、実は主流から見れば自分たちも同じようなもの(ムンベのBGM扱い)ではないかという強迫観念から発せられている、ということはないだろうか? それだけではない。ニューエイジの底辺は「主婦・OL・子供・オヤジ」といった広い主流層、敢えて乱暴に言い替えれば「音楽のテクスチャの細かい違いなんて割とどうでもいい」多数派に支えられているのだ。

そういう層を想定しながら、それとは違う自身の音楽を語り紡ぐ、それは間違いなく「ライフスタイルの戦い」だ。音楽の間を越境するのではなく、むしろその類型性を強化することにより、ライフスタイルの構成要素として音楽を組み込む行為。異なるライフスタイル間に闘争が存在する(趣味闘争、と言い直してもいいかと思うが)ということは避け難いが、しかし、この「戦い方」は本当に有益なのか。その辺に個人的な疑問がある。結局それは、互いの通約不可能性を強化するだけではないか。

コアなポップミュージックについて言えばそれは、負け戦かも知れないものを勝ちだと言い張り、それを相手に許容してもらうことによってジャンルの存続と価値が保証される、という「システムの中のディスコテーク」(懐かしの佐野元春"Visitors"より)なんじゃないか。そんな気がするのである。

一方で、だからと言って単にジャンル間を横断的に批評すればそれで通約可能になるかというと、そんな簡単な話ではないのも明白で、ではどうすればいいのか、というと、...それを試行錯誤しながら目指してるんじゃん、ここは(笑)。でも大方はこの文の冒頭のごとく、単なる横断的つまみ食い批評になってしまってて、益々呻吟する羽目になるのであった。はあ。(ため息) 

(end of memorandum)



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ただおん

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