スティングをめぐる難しさ
〜"Bring On The Night"を考える
(1997.12.10, revised 1998.09.30)


Stingが宮崎シーガイアのCFに出演してしまったことを今更とやかく言うつもりはない。本人もその軽率さを悔やんでいるという話も耳に入って来ている。それでもしかし、Stingというアーチストを「評価」してしまうことは差し控えたい。今でもそう考えている。

音楽的に優れているから(いたから)、なおさら、というのもある。

The Police の"Synchronicity" はとても好きなアルバムだった。同時代性と内面性がうまくバランスしていて、音楽的にもそれに呼応した意欲的な試みがあって。例えばそれは"Synchronicity 1"におけるシークエンサーの使い方と6/4という変則的な拍子設定、主調の短3度下に転調したままのコーダ、といったような。言葉選びも、単語の羅列で内面を照射するような鋭さ、立体感があったように思う。

何かが違うぞ、と思い始めたのは、"The Dream of Blue Turtles"からシングルカットされた"Russians"を聴いた時だった。

シンセ音の使い方がおざなりだ。曲調も、いかにもロシア民謡調とわかるよう、あえて単純さを強調した造り。そしてキメの歌詞、"...if the Russians love their children, too." という、言っちゃ悪いが陳腐なヒューマニズム。...まあ、西洋人の一般的なロシア観なんてこんなものだろうから、仕方ないか。この時はそう思ってやり過ごした。

ソロ1st "The Dream of Blue Turtles"を聴いた。友人にテープに落としてもらったのを聴きながら、何か釈然としないものがあった。耳に残ったのはシングルカットされた曲ばかりで、あとはむしろ違和感があった。特に、ジャズっぽさを狙った曲で、この人はブルーノートの使い方が今一つ解っていないな、と感じたのが印象に残っている。

ライブ盤("Bring On The Night")が出て、これはその時は聴かなかったが、その後暫くして"Nothing Like The Sun"が出たのを聴いても、この印象はあまり変わらなかった。"Together"は気っぷがよくて好きな曲だったが、"Fragile"なんて入っていたことすら憶えていなかった。この曲が、自分のSting観を大きく左右することになるのだが。

"Fragile"は、何故かStingのアマゾン森林保護活動のテーマソング的なものとして一般に流通しているようだが、歌詞自体は、処刑された人権運動家を悼みつつ、暴力は何の解決にもならないと権力者を指弾する内容である。この曲は、スティングに比較的好意的な人の人気を集めているらしいのだが、私には正直言ってピンと来なかった。曲自身も強くないし、アレンジも通り一遍だ。サビの、

On and on the rain will fall
Like tears from a star like tears from a star
On and on the rain will say
How fragile we are how fragile we are

(雨は降り続けるだろう/星から涙が流れるように/雨はこう言い続けるだろう/人はどんなにはかないものかを)

というフレーズにしても、つい"Synchronicity"収録の"Walking On Your Footsteps"の諧謔と見比べてしまうのである。

("Walking On Your Footsteps" は、恐竜たちに呼びかけながら、人間が強くなり過ぎてしまったことを歌い、「君らの足跡をたどっている」、「『か弱き者、地を受けん』か・・・("They say the meek shall inherit the earth...")」と不気味に締めくくる。)

このロマンチック過剰気味の詞は、先の"Russians"のおセンチにも通じる。東西問題とはそんなことで乗り越えられるような甘っちょろいものではなかったはずだ。これがあの時代に堂々と歌えたのは、いささか鈍感とさえ言っていいのかも知れない。

並んで目立ってきたのが、「お説教」である。"If You Love Someone Set Them Free"もよく考えてみればそうだった。"Let Your Soul Be Your Pilot"なんてタイトルだけでもう聴く気がしない(結局一度は聴いたが)。これは単にStingを攻撃しようというのではない。その証拠に、Police時代の彼は、巧みな暗喩を駆使した歌詞によって、重厚なテーマを取り上げながら説教っぽさは回避することに成功していた("Message in a Bottle"、"Synchronicity 1 & 2"など)。つまり、「Stingはソロになって説教づいた」らしいのだ。

どうしてそんなことになってしまったのか。それは、Sting個人の問題ではなくて、実は欧米社会が持っている「人道主義」的な枠組みそのものを、彼が朴訥にもその問題ごと引き受けてしまったことにあるような気がするのだ。ちょっと結論を急いだが、以下説明する。

ノブレス・オブリージなる言葉がある。フランス語から英語に輸入された言葉で、文字どおり訳すと「高貴なる者は責務を負う」となる。地位のある者は、自らの力や財を投入して弱者の救済を行うべきである、と。「グリーンピース」のような草の根的かつ過激な市民運動がある一方で、欧米での人道的活動の中心は依然としてこのような考え方だ。USA for Africaや一連のAIDものは、一般消費者が参加することで一見草の根のように見えるが、実はノブレス・オブリージに他ならないのではないか。なぜなら、それはスター達がその地位を活用することによってはじめて成り立ち、しかもそのスター性を結果的に補強するから。そうでなければ、ボブ・ゲルドフがナイトだなんて、有り得ないだろう。確かに、このやり方はかなり効率的に援助の集結と配分ができるだろうし、そのことを殊更否定するつもりもない。しかし、「ノブレス」はノブレスとして、そもそもの矛盾を産み出した社会システムの頂点に居続けるという大前提は、決して揺るがない、どころかむしろ強化される。その意味で、この人道主義は常に上から下への憐れみであり、施しであり続ける。いわば、南北問題や国内の階層構造を変革せず、むしろ温存する仕組みの一つとして機能しているのだ。

Stingは一見そこから距離を置いているように見える。そういう集団でのベンチャーではなく自分が動く、という意味で。だがよく見ると、Stingも自身の活動をノブレス・オブリージの枠組みに、無意識的・無批判的に当てはめているようなのだ。別に、スターが動くと必ずそうなる、といった身も蓋もない批判をしようというのではない。それではスターは何も出来なくなってしまう(私はこの点、Peter Gabrielが平和活動組織同士をコンピュータネットワークで結ぼうとした活動などは評価したい)。そうではなくて、Sting自身の実に正直な「上昇志向」がそれを物語っているのである。今回"Bring On The Night"を聴いて、はからずもそのことを確認してしまった。

誤解ないように付け加えると、"Bring On The Night"はStingのソロを聴いた中では一番魅力的なアルバムだった。The Police時代の曲を多くやっているせいもあるのだろうが、曲がのびのびとポップで、開放的な感じがする。素直にノれる、と言ってもいい。

気になったのは、ツアーに参加したジャズ/フュージョン系のミュージシャンに対するStingの姿勢である。もう素直に嬉しそうなのだが、それは彼らがずば抜けて優れたミュージシャンだということに対してではなく、彼らのキャリア、ステータスに対してなのだ。ライナーにはこんな風な紹介コメントが続く。"Omar Hakim was the drummer for Weather Report." "Branford Marsalis played with Miles Davis, ...(etc.)" ストレートアヘッドなジャズの世界は見事にステータスが確立している(これ自体、皮肉なことであるが)。そこのトッププレーヤーをバックに配して自分のライブが出来たことが嬉しくてしょうがない。例えて言うなら「田舎から出て来た素朴な音楽青年の夢が叶った成功譚」ではあるのだろうが、そのことによって彼は自らを「ノブレス」だと(あるいは「になった」と)認識するようになっていったのではないか("Synchronicity"の成功によって、であったかも知れないが)。自分がそれなりの人物だと考えるとき、詞やコメントが説教っぽくなるのは避けられない。

これと似たことがライナーの曲目解説にも少し出て来る。"Demolition Man"を書いたいきさつのことだ。この曲は名優 Peter O'toole の別荘か何かに招ばれて滞在していた時に書き、O'tooleは詞を気に入ってくれた、というが、別にそんなことどうでもいいと言えばどうでもいい。それを誇らしげに書き記してしまう素直さは、そのまま自分自身を既存のステータスの枠組みにはめ込んで認識することにつながって行く。

これらの事実は、彼のジャズっぽい曲を聴いた時の違和感についての説明にもなるように思える。つまり、彼にとってジャズへの接近は、音楽的興味や親近感だけでなく、素直に自身のステップアップと同期していたということだ。今はどうか判らないが、少なくともジャズに関わりはじめた初期はそういうぎこちなさがジャズ・イディオムの未消化という形ではっきり出ていたと思う。

Stingが来日してテレビ出演したのを1度だけ見た。ニュースステーションのゲストであった。久米宏が話を(アマゾンから)はぐらかすので不快そうにしていたが(まあ久米も意地が悪いが)、自分でも似たことをしそうな気がした。何故ミュージシャンの彼がアマゾンを取り上げるのか、その経緯や過程こそが、視聴者である私の聞きたいことだったが、彼はひたすら彼のプロジェクトへの協力を呼び掛けたいだけのように映った。またある時、Stingの巨額の申告漏れ(数十億円レベルだったと思う)がニュースになった。そのことについて彼自身は「マネージャーに任せていたのでわからなかった」とコメントしたという。普通、そうであってもそうは言うまい。彼は運動家ではなく慈善家(憐れみ施す、お金のある人)にすぎないのだ、と自ら明言しているようなものだ。

「慈善家の何がいけないのか?」 という問いはあるだろう。しかしそれは前に述べたとおり、問題を表面的には緩和するが、それによってむしろ、根本的な原因となっている構造そのものは温存される、ということなのだ。ここで「温存される」と名指しされた構造とはつまり、今なお形を変えながら生き長らえている植民地主義の末裔である。時に「寛容/融和」は「非寛容/衝突」よりたちが悪い。なぜならそれは、本来そこにあるはずの衝突を巧みに回避し、隠蔽してしまう、不可視 invisible にしてしまう働きをするからだ。

だから、この問題は本当は、Stingひとりの問題とは言えない背景の広がりを持っている。ただ、Stingのような一匹狼の慈善家の場合、一見よりリベラルな「運動家」に見えてしまい、それによって、ここで言う「人道主義」を再生産するメディアとして彼が機能していることが見えにくくなっている。この点が、AIDものを始めとするあからさまな人道的活動とは大きく異なる。

Stingを素直に聴けないことは、一人のリスナーとしてStingに対して申し訳ないことだ。だが自分はこの地平からはもう戻れない。Sting自身を責めることにさほど意味はない。彼の、おそらくは美点であろう素直さや熱意が、彼をストレートに「ノブレス・オブリージ」的な行動に向かわせているに過ぎないのだから。だからといって、決して赦されている訳ではない、とも思う。それは多かれ少なかれ、この社会に生きる自分たち一人一人にとっての問いでもある。

(end of memorandum)



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