さらなる響き合いを期待しつつ
〜北川純子編『鳴り響く性〜日本のポピュラー音楽とジェンダー
勁草書房、1999 (2000.3.21)


この『鳴り響く性』という論集は、ジェンダーやセクシュアリティの問題と音楽の生産〜享受のあり方とを関連づけて集中的に論じた、日本でおそらく初めての論集であると言う。しかしそれが単に学術コミュニティへの投げかけとして企図されているかと言うと、そんなことでは収まらない刺激が多々あることは間違いなく、それゆえ音楽を自覚的に楽しむ多くの人により共有されてほしい一冊ではある。

たとえばこんな具合である。第2章で小泉恭子は、現代の高校生における音楽的嗜好が3層構造、すなわち個人的な嗜好/私的なコミュニティにおける嗜好の表明/学校の授業のような公的な場面における嗜好の表明とから成っていることを解明した上で、それぞれの場面における嗜好の表明戦略が男女で大きく異なることを指摘する。なるほど、の論考なのだが、ところが第5章の細川周平による戦前の寮歌のジェンダー的機能に関する論考の終わりで、わずかに触れられる寮歌全盛時代のジェンダー化状況が、小泉の明かした現代のそれにそのまま重なるように見えるとき、そこにある種の戦慄を覚えずにはいられない。こんな具合に、この本はそれ自体「響き合う論集」でもあり、編者の意図は十二分に開花していると言えるだろう。

また、中河伸俊の、歌謡曲におけるジェンダー交差歌唱の考察(10章)が非常に面白く、また書きっぷりも読者に身近な例を巧みにちりばめており、読み物としても見事だった。そして願わくばこの論集全体にこのノリがあることを期待したかったところだ。論集という形式上の制約だろうが、形式的な硬い表現が所々に見られ、より広範な読者を期待するという観点からはそれが残念ではあった。それは今後の課題ということになるだろうか。

次に以下、各論レベルで敢えて気になった点をいくつか挙げておきたい。

まず、稲増龍夫によるアイドル論(7章)。論旨は面白いが、90年代女性アイドルが女性の自己愛を代弁する、という読解から、それを若者全般の脱恋愛傾向と断じるのは一面的に過ぎないだろうか。もしそうであれば、男性アイドルが同様に同性からの支持を得ていなければならないが、SMAPですらその域ではない。つまり稲増はことの進行における男女の温度差を完全に度外視している。男性に関して言えば、むしろ秋葉原でのアダルトソフト全盛に現れているような、若年男性の性的妄想の偏在、欲望の「地下化」こそが問題にされるべき時代ではなかろうか。
彼らはそうした「自立してしまった」女性たちに異議を唱えることもなく敗走し、より閉じた世界の中でかつてのような異性イメージが依然として成立することを求め続けているように思えるのだ。これは、フェミニズムが表向きの文脈(法、行政、学術など)では優位に見えながら、社会全体として見ればあらゆる反発と脅威にさらされた状況である、というのと似ている気がする。表向き、自立するカッコイイ女は認めざるを得ない、がそれは納得ずくなのではなく、本音をそのまま包み隠して温存した上でのことである。それに気づかず、単に表面的な現象だけ見てそれを「地殻変動」だと認識するのは早とちりだろう(下村満子とか田嶋陽子みたいな人たちはそのクチである)。稲増の論も同じである。むしろ必要なのは、温存された欲望がどんな形をとって浮上するかに注意を払うことであろう。

また、編者北川純子によるアニメ主題歌論(8章)は面白い着眼だが、事例の採り上げ方が恣意的でないことの論証が弱すぎるのが難点だろう。しかも、「短調に割り当てられた属性」の参照例に「アタックNo.1」を採り上げたことは、同じスポコン路線の「巨人の星」「あしたのジョー」を連想させ、それらの主題歌も同様に短調であることから、「短調は女性性に割り当てられている」とする北川の論考をむしろ内側から崩してしまっている。残念ながら、音楽学における社会科学的アプローチの方法論が、いまだ発展途上であることを想像させる。

最後に、今後望まれているのは、こうした本がむしろ音楽でなく、「ジェンダー」という関心からより広く読まれ、他の現場におけるジェンダー研究の成果や知見が音楽学にも流れ込むことだと思う。「当たる企画」ではないので厳しいだろうが、後続に期待したい。

(end of memorandum)



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ただおん

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