西洋的なものの見方を脱ぎ捨てることは、こんなにも難しいものなのか。
〜マリー・シェーファー新作初演を聴いて
(1995.07.08, revised 1998.09.29)


7月8日、サントリーホールへマリー・シェーファーの委嘱新作「精霊(マニトウ)」を聴きに行った。がっかりした。「古かった」のだ。しかし、がっかりしたあとで、考え込んでしまった。パンフレットの自作解説のように、見事に西洋音楽の歴史と現在を相対化して批評することができ、なおかつ、西欧人である自らに「非西欧諸国でオーケストラ作品が愛好されていることに関して議論する資格がない」とまで言い切れるほどの知性が、19世紀前半の「安楽椅子人類学」そのままのピクチャレスクな方法でネイティブ・アメリカン信仰を主題とした曲を書いてしまう。そのことの不思議。それを避けることができない「困難さ」---なのだ、おそらくは。

マリー・シェーファーの曲について言葉で説明してしまうのはやや乱暴かもしれないが、今後の議論のために、その概要とそこから受けた印象をまとめておこう。本人の記したプログラム・ノートによれば、精霊(マニトウ)は北アメリカの先住民アルゴンクィン族の言葉で、森羅万象を司る「不可思議な神」、目に見えない存在を指すという。また作曲家はこの作品をマニトバの長く厳しい冬の中で構想したとのことだ。

曲は自由な形式で展開されており、激しい嵐のような音形と静寂に近い持続音とが交錯し、精霊をイメージさせる和音による柔らかい木管のモチーフが静寂の中に時折顔を出す。その印象は、ベートーヴェンの「田園」の第4楽章、嵐の様を直接的・絵画的に音で描いたあの部分に似ている。つまり、大いなる神であり、モンスターであり、そして全てである「マニトウ」ではなく、あくまでも苛酷な自然は苛酷な自然であるという、極めて西洋的な、「客体化された自然」観。そこには、目に見える自然現象の向こうに、大いなる冒しがたい力の働きを透視する意識の働きは見て取れない。冒頭で、がっかりしたと言ったのはこのこと、この落差のことだ。透視する知性と透視できない音楽。音楽に伴う困難さとはいったい、何なのだろう。

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いわゆる「西欧音楽」であるクラシック音楽も、それよりはるかに多く流通している西欧起源のポピュラーミュージックも、均しくこの時代に固有の、切実な問題にぶち当たっているように思う。それは、今までのように自らの構造や社会に対する位置づけを小修正しながら、基本的には自らのシステムの存続と拡大を図り、より「普遍」に近い立場を誇示し築き上げていく、というやり方では、西欧産の音楽はこれ以上先へ進めない、受け入れられないという事態に直面しているということだ。

いきなりこう言うと奇異に聞こえるかもしれないが、しかし西欧の音楽体系が他の文化圏にない特徴を備えていて、そのことが世界的に普及する要因となってきたのは明らかなので、ここで今一度その点を確認しておきたい。

「西欧音楽」の特徴の第一は、平均律に依拠する音組織である。これにより自由な転調と和声法の発展がもたらされ、音楽表現の幅が飛躍的に拡大され、その上、他の文化圏で受け継がれてきたそれぞれ固有の音階・旋法をほぼ漏れなく近似化して取り込むことさえ可能となった。もう一つは記譜法で、これは複雑な対位法的表現や和声法の発展を助け、また音楽が流通するための具体的な手段となった。西洋音楽は20世紀初頭を中心に、非西欧社会の文化の流入などによる拡散・崩壊の危機を経験しながらも、これらの特徴によって外部の要素を自身の中に取り込み、延命と拡大を図ってきたわけだが、取り込めば取り込むほど、そこからこぼれ落ちてしまうものがはっきりしてきてしまう。たとえば、各種の民族的音階が平均律的調律から実は大幅にずれている、とか、それぞれに固有のリズムの揺れは楽譜では表現できない、といったことや、西欧的音楽教育の普及がそうした固有性を破壊してしまっているといった指摘がそれに当たる。世界中に広まってしまったことで、西洋音楽は却ってその本当の限界の顕在化が早められたとも言えるかもしれない。

またこの問題の顕在化の仕方のイメージは、エコロジーに於けるそれとも微妙に重なり合う。つまり、今までは西欧型の開発優先システムで豊かになってきたが、これ以上このやり方を続けていては地球上の限られた資源は枯渇してしまう、地球環境との新しいギブ・アンド・テイクのサイクルの確立が必要だ、という視点だ。この考え方は西欧的な価値基準---人間に対立する自然を人間がコントロールするという発想や、人間の幸福の実現のために用いられる財が自然であるという考え方を根底から覆し兼ねないものだ。しかし、現在まで西欧的な発想を基盤に据えて積み上げられてきた社会経済システムを全てご破算にしてやり直すなど到底不可能だ。そこで西欧的な知性は、非西欧的な論理を西欧的枠組みに巧みに織り込んでいく「修正主義」か、逆に非西欧的な論理を駆使して西欧的枠組みを読み替え、内側から解体していく「修正主義的な逸脱」かという、微妙な立場に追い込まれることになる。音楽における「西欧的なるもの」の解体にはらむ困難さもこの微妙さにつながるものだ。

乱暴に言い切ってしまえば、マリー・シェーファーのこの作品はこの西欧的枠組みからの修正主義的逸脱を目論みながら、修正主義そのもを通り越して更に強固な西欧的枠組みへの固執に終わってしまったということになる。もっとも、そんな総括は音楽におけるこの困難さのメカニズムそのものは何ら解き明かしてはいない。それが明かされるまでには、このようなトライアル&エラーが幾度も繰り返されることになるのだろうか。

(end of memorandum)



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