草木も生えない旋法の焼跡に、私たちは立っているのだろうか。
〜小泉文夫著「歌謡曲の構造」
(確か講談社だったような...いいかげん)
(1998.10.31)


旋法について知りたい、と、あるとき切に思ったのである。

何でそう思ったかは話すと長いので略。

そんなとき、かの有名な故・小泉文夫氏の手になる新書が目に留まった。「歌謡曲の構造」。何と言っても、当時(60〜70年代)の芸大の主流に後ろ指を差されながら、日本の大衆歌謡やアジア各地の民族音楽を調べまくった人である。これは知りたいことが少しは書いてあるかもしれない。講演の記録で読みやすそうだし。

で、読んだが、ある程度以上のことは専門書をどうぞ、ということのようであった。でも小泉教授の研究書って大著なんだよなあ、と読書ぎらいの私は諦めたので、あまり小泉理論をきちっと押さえた論評になってないかも知れないです。ご承知置きを。

ペンタトニック(五音音階)のほうが、西洋のディアトニック(七音音階)より実は表現の幅が広い、なぜなら音と音との間が広い分、その幅を使った表現の工夫(こぶしやメリスマなど)が可能になるから、という説明に目から鱗。

という具合に、主に七音音階と五音音階が実際に音楽に使われる際のあり方の違いとか、都節音階と演歌の短音階(構成音はどちらも同じ)の差異とか、そういう点は非常に明快に、合点のいく説明がなされていた。ただ私はできればもう一歩、旋法における音同士の関係たとえば、ある音から別のある音への移動は禁則とする、などといったことにまで踏み込んで、各種の音組織を比較していることを期待していた。まあ、この小冊子でそこまで求めるのは行き過ぎなのだろう。音階・旋法の比較の実例を見たい人には、手頃な入門書であると思う。

この本に収められた講演は主に1970年代後半に行われたようだが、その中で彼は繰り返し、今まで主流だった演歌的短音階(ラシドミファ)や長五音音階(ドレミソラ)に代わって「民謡的短音階」つまり「ラドレミソ」というスケールが復活する、という説を述べている。その根拠として彼は、演歌的な音階が実は西洋音階に日本の伝統的な五音構成の音階を無理矢理はめ込んだ産物であり、元々無理のある音階なのだ、と指摘している。なるほど、ラドレミソの方がたしかに、童歌や民謡のスケールに近くて、すんなり口ずさめる気はする。

ただ、この「ラドレミソ」が日本人の多くの耳や口に馴染む、という説の背景についての考察は意外に薄い。だから、学問かイデオロギーか、と言われたらこれはイデオロギーなのだろう。民謡的短音階が復活する、という彼の「予言」のは、巻末の解説にもあったとおり、復活してほしい、という意味だと考えられる。

ラドレミソが「民族的」である根拠としてここで説明されているのは、かろうじて「実践」として、童歌などの中で受け継がれ、基本的な音階感覚に影響している、という程度である。確かに「実践」だけが、世代を超えて音楽言語を引き継ぐことを可能にするのだろう。しかし、そうであれば「ラドレミソ」は自然的に復活することなどありえず、むしろジリ貧の道を歩んでいるはずだ。

最近の日本のポップス歌謡に、小学校音楽の「作曲」ってページ(ひどかったよなあ)の通り書いたかと思う曲があふれてたり、中学校合唱コンクールの課題曲よろしくV-I(ドミナント−トニカ)終止する曲がごっそりあるのを見れば、その「実践」の現状がどんなものかわかるはずだ。つまり、西洋型のディアトニックな音組織を導入して100年余り、高度成長期からの核家族化によって地域文化の継承も廃れつつある今日、伝統的な音組織に基づく音楽的実践とやらは、ほぼ跡形もなくぶっ壊れてしまっているのである。そしてその跡地には、音楽教育の中で妙に単純化された、中途半端なディアトニック的実践が幅を利かせており、その結果が先に述べたジャンク歌謡曲の氾濫、というわけだ。何たるこってしょうねえ。

かかる事態の展開を予想し得なかったのか、小泉氏は、民謡音階的なものが自然発生的に復活するかのように、ただただ予言し、祈っているのである。これは今から見ると妙である。文化的エセンシャリズムだろうか。しかし、既にぶっ壊れてしまった以上、それを再立ち上げするには、単にそれを引っ張って来るのでなくて、極めて戦略的、意識的な仕掛けが必要なはずである。それは、言葉は悪いが、文化的/対抗文化的な「捏造」と言ってもいい。そこまで彼が踏み込めなかったのは、「学者」として当事者になることを差し控えていたということかも知れないが、それは想像の域を出ない。

ただ、小泉氏の予言は、思わぬところでマニフェストとなって実践を焚きつけてしまうのである。それが矢野顕子+YMOならびにその周辺の、意識的な民謡調音組織の採用である。矢野が小泉氏の影響を明言しているように、彼らが小泉説を承知の上でこういうことを行っているのはほぼ間違いない。結果から見れば、この潮流は長く太くとはいかず、歌謡界は上記のごとき惨状を呈している訳だが、ともかく一時的にでも小泉予言は、意識的な運動として機能したようである。本人の意図とは別のところで。

ここまであれこれ分析したが、どうも結論めいたことにたどり着かない。それはひょっとすると、自分たちが失ってしまった「音楽的実践」の拠り所と、それを再構築することの計り知れない困難さが目の前に横たわっているのを、まざまざと見せつけられる結果になったからかも知れない。いやあ、こんな結びにはしたくなかったんですが。ちなみに、小泉氏の本自体は、とても前向きで、話し上手で、読んでて元気が出るものなんです。本当は。

(end of memorandum)



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ただおん

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