盗作よりもタチの悪いもの、を考える
〜亜星・克久泥仕合、高見の見物編
(1998.10.31)


というわけで、もはや犬も食わぬかの様相を呈している盗作×名誉毀損訴訟の泥沼である。この件に関しては、そもそも盗作の立証が困難であるとか、結局は音楽著作権協会内の政治抗争の場外編だとか、楽曲におけるオリジナリティの概念自体が西洋近代固有の音楽システムの一部で、大衆音楽の実践にはなじまないとか色々言われているので、その辺のことはここでは触れない。

で、この件で一番思ったこと。

小林亜星の「どこまでも行こう」のほうが圧倒的にいい曲じゃん。そこへ行くと、服部克久の「記念樹」はどうにもぎこちない出来である。皆さん、楽譜があちこちの記事に載ったりとかしてるし、いずれも手に入りやすい曲だから、一度聴いたり歌ったりしてみて下さい。実感できます。

と、感覚的に批評しても大丈夫なくらい、両者の出来には大きな開きがあるのだが、折角なのでもう少し詰めてみよう。似た曲なのに、この差は何? と。

話を簡単にするために、曲の始めの部分、4小節くらいで考えてみる。

基本的な構造を、まずコード進行の面から見てみよう。"-" は8分音符1個分と考えて下さい。"+" は、見易くするため3拍めのオモテを示す記号です。

「どこまでも行こう」
- - |C - - - G - - - |C - - - + - - - |F - - - + - - - |C - - - + - - - |

「記念樹」
- - |C - - - G - - - |C - - - + - - - |F - - - G - - - |C - - - + - - - |

ここの構造はどっちの曲もあまり変わらない。「記念樹」の3小節目の後半だけGに変わっているのは、後で説明するメロディが「Fのシャープ」という変則的な音を使っているためだ。ここのコードをFのまま置くと、ルート音とメロディが「1オクターブ+半音」という非常に扱いにくい音程差でぶつかるのである。

つぎ、書くのが面倒だけどメロディ。これが、同じシンプルなコード進行の両者の色合いに、決定的な違いを与えているのである。同じCとかGとかいっても、今度はコードネームじゃなくて音名。Cが世に言う「ド」です。

「どこまでも行こう」
C D |E - - C
B - C D |C - - - + - C C |F - - F F F G A |G - - - + - - - |

ボールドは一段下のスケール、つまり低い音、ってことです。"B"と普通に書くと、ここで長7度上へ飛んでしまうことになるので。まそういう曲があってもいいけど。

ところで「記念樹」である。
C D |E - - E D - D C |C - - - + - C C |F F F F A A G F#|G - - - + - - - |

「どこまでも」のほうが、出だし1小節がダイナミックな動きなのがわかる。これがいわゆる「掴み」としての効果を上げているようだ。一方の「記念樹」は、ミミレレドド、これは平板だわ、さすがに。歌かいな、って感じ。

3-4小節目の流れも、ララソファ#ソと下がって終わる(しかもファのシャープってのがこじつけっぽい)「記念樹」に比べて、「どこまでも」の方はファファソラソーと上がって、次への展開を用意する高揚感があるよね。

メロディだけ取り出して比較してみても、これだけ違いがあるのだが、コード進行と重ね合わせると、その差はもっと大きい。注目は1小節目の後半である。この前後のコード進行は C/G/C である。ちょっとピアノかギターが手元にある人はやってみてほしい。このコード進行は、そのままでは曲の体を成さないのだ。行って戻って終わり、という進行は実につまらない。お辞儀の伴奏にしかならない。ところが、「どこまでも」ではこのGのコードのなかでメロディが「B - C D 」と動くことにより、がぜん躍動感が出て来ている。これは、まん中にCというGの和音に属さない音が出て来ているためだ。一方「記念樹」のここのメロディは「D - D C 」、C音はコードがGからCに戻る直前に登場するので、単に次の和音を導く効果しかなく、結果として平板な印象となっている。

とかいうことを亜星氏が考えて作ったかというと、多分そうではなくて、それは身についていたものではないかと思う。自然に、体で覚えた文法でさらっと書いたらこうなった、という。音楽するって、えてしてそういうことだと思うのだ。特に歌なんかの場合。

逆に、克久氏の作品は、どう見ても「どこまでも」(もしくは似た進行の他の曲)をベースに、盗作にならないようにいじくりまわした、としか思えない。なぜなら、より良いチョイスがあり得るところを敢えて避けて、しっくりこない作りにしてあるから。克久氏は「(どこまでも行こう、という曲の)存在は知らなかった」と言うが、冗談も休み休みおっしゃい。音楽業界にいてあの曲知らなかったら、そりゃモグリでしょう。

でも、これが盗作かというと、そこは微妙な線で、「似てるけれど、より劣る楽曲」というところが実は問題なのかな、と。

似ているが元ネタより劣る曲が出回るのは、ひとえに元ネタの情報を持たない人がこれを聴くという状況においてであろう。情報がないので、これよりしっくり来る、より完成度の高い楽曲があろうなどとは思わない訳である。たとえば、洋楽なんて知らないJ-POP(何とかならんか、この呼称)ファンは、小室がパクっていようが知る由もないのである(とか言いつつ私も知らない。コムロも洋楽もここ暫くお留守なもので)。

こんな具合に、相手が元ネタ知らないのをいいことに一儲けしているのを指して、「パクり」と蔑称しているわけだ。しかも「法的な」盗作の条件は巧妙に回避している。でもね、沢山音楽聴いてきてると、こういう姑息な逃げを打った音楽ってのは、元ネタ知らないで聴いても気持ち悪いんだよ。きっと、「どこまでも」を知らずに「記念樹」だけ聴いても、「何、この曲?」で終わったような気がする。

まあ、こうまでして無理やり「新しい作品」書き続けなければならない音楽産業の構造ってのも問題だし、作曲家の皆さんも可哀想なんだろうけど。どうして、「新しい曲がなかったら、在り物のいい曲を徹底的に使い回す!」じゃダメなのかねえ。売る作品数は減っても、いい曲書けば1曲当たりの実入りは増えるから、それでも結構みんなハッピーなんじゃないか、とも思うんだけど。

著作権シロートなもんで無茶苦茶言ってるかも知れませんが。

(end of memorandum)



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