アリゾナにて (1998.01, revised 1998.09)


なんで音楽にアンテナが向かなくなっているのか。旅行に集中していた反動と思っていたけれど、それは半分で、あとの半分は旅行そのものの影響であるらしい、どうやら。

アリゾナに行って、そこで音楽がすっと遠ざかって行った。

旅行して、ご当地絡みの音楽にイカれて帰って来る、ってパターンはよくあるけど、音楽が遠く感じられるようになってしまう、というのは、あまりなかったような気がする。

あるとしたら、雄大な自然の風景と向かい合った時だろうけれど、それでさえ人間はふさわしいBGMを考えつくことの方が多いのではないだろうか。丁度、自分自身、裏磐梯の燃え立つ紅葉のなかで、ラヴェルのピアノ協奏曲の中間楽章の、あの美しいラルゴを聴いたように。

ドビュッシーの言うごとく、真に美しい音楽は、自然がそうするのと同じように人間に作用する。そう思っていた。が、今回は違った。

米アリゾナ州ツーソン。確かに、雄大な自然の真っ只中に行って来た。きっと、それにふさわしいBGMが頭の中で響くだろうと予想して。そうしたら、耳から音楽が消えた。

こんなに圧倒的な感覚は、久し振りだ。

ダウンタウンのごく一部を除けば、ツーソンはサボテンの林立する荒野に道を敷き、家を建てただけのような、がらんとした街だ。そのまま荒野の続きのような感触がある。市内を貫く目抜き通りを西へ進むと、徐々に家とサボテンの比率が逆転していき、緩く大きな岩山が行く手に見え始める。その間を縫って峠を越えると、眼下には一面のサグアロ・サボテンの荒野が、はるかにかすむ反対側の山の裾野まで延々と続いている。一面の青空。車の音と人の声をかき消すかのような静寂。こうして人が立ち入っているのに、まるでそんな事実はなかったかのように存在する、圧倒的な「未踏の荒野」。

声を失う、というのは、人間の歌が意味をなさない、ということなのか。

ともかく声を失って、その風景を見続けた。大きすぎて視点が定まらない、ということはなくて、むしろ風景の全てに焦点が合っているような感じだった。こんなときに、人は雄大な自然を前にした孤独な自分を鼓舞するために、歌うのではなかったか。そうは思ったものの、実際そこに立つ自分は、孤独ではなかった。確実に、その風景の一部だった。その時自分は、そこを支配する静寂の一部になっていた。

*

歌など必要のない感覚を引きずったまま2週間ほどが過ぎて、いつもの暮らしのなかにいる。以前どれほど切実だった音楽も、やや色褪せて、空ろに響く。だが、音楽が必要なくなったとは、今は思わない。むしろ、新しい音楽のための宿題ができたような気持ちでいる。もし今、新しい音楽が必要なのだとしたら、それはアリゾナの荒野で感じたあの感覚、大自然に対峙するのではなく、その一部であるような感覚、"oneness"、それに匹敵する音楽、ということだ(それをなぞるとか、表現するとかではなく)。今まで自分の知っていた音楽のどれもが、その観点からは食い足りないのだ。これは音楽的表現の新しいフロンティアになるかも知れないし、現代の様々な知的試みにうまく接続するかも知れない。なんだか気をつけないと宗教に行っちまいそうでもあるが。

(end of memorandum)



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ただおん

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