国歌なんて要らない?
〜君が代がどうしたとか、それ以前に考えねばならぬこと
(2000.2.29)


というわけで今月は「建国記念の日」もしくは「紀元節」があって、賛成・反対それぞれの立場から国歌・国旗の法制化について議論がなされ、いつもの通りまるっきりのすれ違いに終わっていった模様である。

なんでかなー、といつも思う。賛成派も反対派も、どうして「国歌が必要である」という前提を無条件に受け入れて議論するんだろう。

まず史実として、日本の「国歌」(法制化されない慣用的な国歌なので、括弧に入れた)の歴史はたかだか100年ちょっとしかない。元はと言えば、欧米列強にならって近代国民国家としての体裁を整えるために慌ててこしらえたものだ。

ここで一つはっきりすることがある。国歌は、国民国家という制度と切り離せないものだということ。日本にとっては、列強に対峙する体制確立の一環として「国歌」が作られたこと。身も蓋もない言い方をすれば、「列強なんか来なければ、国歌は要らなかった」ということ。

国民国家、などというとニュートラルな響きだが、要は帝国主義的な植民地支配による拡張を続け、その勢力争いの末にひいては「総力戦体制」で自国民全てを巻き込んでの戦争を繰り広げた、そんな欧米列強(と日本)を支えていた国家システムなのだと思えばよい。国歌はしょせん、そのシステムを支えるツールの一つに過ぎないのだ。そんなもの、今どき「持ちません」って言った方がカッコいいし尊敬もされると思うが、どうだろう。

オリンピックで困る? いやいや、だってあれは国対国の競争じゃないって、当のIOCが定めてるんではなかったか。国歌演奏によってそれが国威の競い合いに成り下がっている有様に対して、「国歌ありません路線」はむしろ一石を投じることができるだろう。

いや、国際的な公式行事に不可欠? うーん、敢えて踏み込んで言えば、国歌のほうは要らないでしょう。その国の「記号」としては国旗があるのだし。国旗だけはまあ、外交の場なんかで無いと困ることもあろうかとは思うが、国際的でない場でまで強制するってのは不必要な軋轢であって、賛成しかねるなあ。余談だが。

あるいは、その国の文化的な伝統に敬意を払う、とか? 「君が代」が雅楽をベースに作られたことを根拠にこう主張する人はいるが、しかし、「国の文化」? あるのは個別具体的な「民」の文化だけなのではないか。いや、もっと言う。仮に民族というものが実体としてある程度確定できるものだとしても、この日本でさえ幾多の民族が住んでいる。それをたった一つの支配民族の、しかも一握りに過ぎない「元」支配階級の音楽で象徴させ、それを全国民に課するなどというのは、どう考えても馬鹿げていないか。ま、そうやって文化の強制をして、それでも民のダイナミズムが殺されないと思うのならやってみるがよい。国が栄えてなんぼのナショナリズムなんだろうに。

(end of memorandum. Special thanks to Usami and DJ Matsuzushi)



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ただおん

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