音楽について書くこと、そして「他の音楽」への想像力
「ただおん」を続けてきた理由、そして今後続けていくにあたって
(1999.10.11)


たらたらと更新を続けてきたこの「ただおん」も、いつの間にか1周年を迎えていた。この間、陰にひなたにこのサイトを支えて下さった皆さんに、改めて感謝申し上げる次第である。

ところで近頃、このサイトのポイントがわからない、あるいは、こういう(ジャンルの絞れていない)サイトは誰が読むのか、というご指摘をいくつか頂き、ううむ確かにその通り、と唸ったりしている。また、一度ここを訪れてそれっきりという方々も、そんな理由で再訪されないのではないか、とも思う。

物思う秋である。(1999年10月現在)

そこで少し、何のためにこのサイトをやっているのか、改めて整理してみたい。そのことによって、近頃だらけ気味の自分の文章に喝が入るなら、もっけの幸いというやつである。

 

「ただおん」を始めた理由、書く目的

そもそも何でこうして、いつ誰の役に立つかもはっきりしないレビューを書きつづけているのか。それは、限られた知識から得られた、限られた自分の趣味を、外側から位置づけてみたい、ということだった。いや、もっと平たく言えば、数多ある音楽の中で一体自分は何を聴き、何をいいと言っているのかを知りたかった、ということだ。

音楽が好きだ、とはいっても、人間それぞれに持てる時間は限られているし(特に私は睡眠が長めだったり)、体力にも限界がある(特に私は疲れやすい(涙))。で、音楽やその他アートが第1優先となるライフスタイルならよいのだが、仕事、家事くわえて今は育児も、となれば、音楽の優先度がそれらと横並びか、もしくは2番目以下へずり落ちるのは当然のことである。様々な音楽を広く聴きたい、知りたい、と言っても、なかなかそうは行かない。

でも、それって悔しいじゃない。

譬え話になるが、音楽と言えばユーミンの毎度の新譜くらいしか聴かないのに、「やっぱユーミンが最高よねー」などと言ってしまう、そんな人間になることは、音楽を愛してきたという自負が許さないのである。

そこで、2つのことを始めた。

(1)メモを取る。
ただのんべんだらりんと聴いていても、自分の聴いている音楽と「それ以外の音楽」の間の距離は測れないわけで、そこで自分がどう聴いているかを意識化する仕掛けとして、メモを取ってみることにした。

(2)本を読む。
とはいえ、自分の聴いている以外の音楽というのは、断片的な聴取(ラジオ、有線、あるいはCD屋の店先とか)としてしか普段は入って来ない。この「点」をつないで「線」にするためのツールとして選んだのは、そのテの雑誌ではなくて、むしろ批評と言える体裁を持った本などだった。それは、自分がどう音楽を聴いているかを照らすのにも、格好の鏡となってはくれた。

そして、それをベースにサイトを立ち上げたのだった。

それだけで先ずは十分だったはずだが、やり続けているうちに、自分の知識不足、情報不足、またそういうものを取りに行く能力の不足に対する不満ばかりが溜まって行くような感じがしていた。最近、書いていて自分が面白くない、というのはそういう気分を反映してのことだったのだろう。

 

音楽享受の回路と「その他の音楽」

ところで先日、ロックな音楽学者のマスダさんを囲む会に顔を出させて頂いたときに、著作権管理や音楽メジャーの流通支配に関しての議論があった。各氏とも一体どこまで詳しいのかと驚嘆するような話が聞けた(私は聞く一方)のだが、帰る道すがらその内容を思い出しながら、ふと考えることがあった。

音楽の国際メジャーは現在5つ(Sony, Capitol-EMI, Warner, PolyGram, BMG)にまで集約が進んでいるそうだが、この動きというのはよく経済界で取り沙汰される「メガコンペティション」、より効率的な経営により競争力を強化するためのM&A戦略そのものだろう。

だが、大量に売れるものにとってはコストメリットの大きいものでも、小規模にしか売れないものにとっては、そのような重いシステムはデメリットでしかない。そもそも、インディーズが成り立つ基盤とはそういうものではなかったか。あるいは、日本の集中管理型の著作権管理制度に異議を申し立てる音楽家サイドの主張の幾つかは、そういう動機に基づいているはずだ。

こんな議論を思い返しながら、つい先日、実に数年振りに代官山に行ったときのことを思い出していた。そこにある日常に組み込まれた、生きた情報の回路。雑貨屋でフライヤをピックアップし、イベントに行き、気に入ったらその場で手作りカセットテープを買う、というようなサイクル。

そのことに気づかされるまで、私はこういうミクロな回路を維持するにはよほどのパワーが掛かるのではないか、と思っていた。そもそも、そんなマイナーな音楽やイベントを見つけてくるなんて、今の生活ではできないし、などなど。

だが、これはとんだ思い違いだったのだ。確かに、こうした音楽をわざわざ博物誌的に「集めよう」とすると大変だろう。しかし、この日話し合った各氏は、彼らの日常のルーチンの中に入って来る情報から、マイナーな音楽を自然にたぐり寄せているだけなのだ。もちろん、彼らの飛び抜けた能力がさせている部分はあるから、それは差し引かなければいけないし、彼らと私の住んでいる世界の情報回路はまるで違う。だが、そうであればそれなりに、自分の欲求に見合ったコストで、身の回り的な小さなサークルのみに有効な、マイナーな音楽を流通させることは、自分にも不可能ではないはずだ。いや、更に言えば、自分の今ある環境でしか出来ない音楽の選び方、情報の流れがあっていい。要は、自分の持てる回路を使い倒すことだ。積極的に。

現実には自分も、メジャーな回路に乗った情報から音楽を選ぶ、というやり方に偏りがちだが、基本的な情報はメジャーな回路に依存しつつも、何とか自分にとってもっと身近な音楽の布置を作ることができるように思える。それでいて、別の世界、別の回路を持ちながら、同じように自分のための音楽を引き寄せ選んでいる人たちと隣り合い、響き合うことは十分可能だと思うのだ。

彼らと同じになろう、と思っていたことが、そもそもの勘違いだったのだ。彼らは私に出来ないことをしている。ならば、自分は彼らに出来ないかもしれないことを、何かしてみよう。幾分、気持ちと足取りが軽くなったような気がした。(各氏に多謝。)

 

想像力とイデオロギー

ただ、こうやって自分で独自の音楽の回路を作りつつも、そこにただ埋没するのでなく、それ以外の音楽と隣り合うためには、それだけでは足りない。多分、「想像力」とでも呼ぶべきものが必要だと思うのだ。

先に、メモを取り、本を読むということを自分に課したと書いたが、それはまさにこの「想像力」を手に入れようとしてのことだった。メモを人目に晒すことによって、自分の独断と偏見に責任を持つと同時に、その相対的な位置を知る。それから、本や批評を読み、それを自分の聴き方にフィードバックすることで、自分の聴き方そのものを相対化する。そのことによってまた、自分が直接は深く関わっていない音楽の分野、音楽のありかについても、単に「知らないし、あまり興味ないなー」以上の関心を持つことが可能になる。

自分の知識の届かない部分を想像力で補う。そういうものだから、ここで言う想像力というのは演繹/類推する力ということであり、言い直すならイデオロギーということになる。だがイデオロギーはあくまでも事後的に記述されたものに過ぎないから、その射程を越える事態に直面すれば、修正や再構成を迫られる。つまり、語り続ける以上はつねにこの「イデオロギーの練成」が課せられる、ということになる。

本を読み、あるいは方々のサイトで音楽学の一端を覗かせて頂いたが、そこで学んだ最も重要なことは、実はこれなのかも知れない。ある見解、ある価値判断に安住しないでつねにずれていく姿勢、というか覚悟。それがあって初めて、方向性やバックグラウンドの違う人たちと「リスペクト」し合うことができるのではないか、という気がしている。

 

音楽享受のコミュニティ依存性/溶出していくコミュニティ

ところで、このサイトで色々書いてみて、自分の中で大きな論点となってきたのが、日本以外、特に旧第3世界のポピュラー音楽の享受についての考え方だった。自分自身のための音楽の布置(というか、まあ地図とでも思って下さい)を、自分なりの回路を通して作る、とか言っておきながら、文化帝国主義よろしく他者の音楽を一方的に消費するのはどういうものか、という疑問は自分にもあったし、近い議論は方々でよく目にした。

例えば最近の自分はブラジル関係のものを比較的多く聴いて来た訳だけれど、上記のような視点からすれば、それは相当に妙な話だということになる。簡単に言って、

(1)私はブラジル在住者/出身者ではない。
(2)私はポルトガル語ができない。
(3)私はブラジル/ブラジル人社会との社会経済的あるいは人的な接点がない。

と、ないない尽くしである。ブラジル音楽が依って立つところのコミュニティに対して、自分自身は何らチャネルを持っていない。にもかかわらず、ブラジル音楽にハマるのは何故なのか。それを「ステキな偶然」(by 橋本徹@Suburbia Suite)などと考えなしに棚上げにするのではなく、そこに自分にとって生きた音楽の回路を築くこと。それこそが、想像力でありイデオロギーの効用であると思うのだ。そのためにこそ、音楽について書き続けていく。本当なら、もっと演奏したり曲を作ったりすると益々よいのだろうが、それは今後の課題ということで...。

ただ一つ言えるのは、そうやって本来無関係なコミュニティの間を音楽が流通することが---その形態についは吟味し、ある意味で峻別する必要はあるだろうが---、実は最もリアルであるような状況が、世界的に起こりつつあるとは思うのだ。コミュニティという言葉自体、現在の社会では具体的なリアリティを持ちにくいものになっているのは、もはや言うまでもないだろう。東京という都市ひとつ取っても、多層的で分断されたコミュニティ(ある一群の人たちなら「トライブ」と呼ぶか?)がひしめき合って成り立ってていることが明白だし、ましてや国とか民族とかいったものに至っては、それらがリアリティを欠く、ほとんど抑圧的なフィクションであることすら、日常レベルで実感できる状況にある。

というか、そういう状況だからこそ、危機的な意識から抑圧的なフィクションを持ち出してくる輩がいる訳で、それに対抗するリアルを意識的に構築していくことがこれほど重要な時代もないだろう。だから、もはやただ音楽を聴いているだけということはできない。きっとこれからも、格好悪く七転八倒しながらも、音楽のことを書き続けていくだろうと思う。それが自分以外の誰の助けになるのかわからないけれども、手探りで。

 

(end of memorandum)



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ただおん

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