m@stervision archives 2004a

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



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ゴシカ(マチュー・カソヴィッツ)

ハリー・ベリーは医療刑務所の精神科病棟詰めの美人ドクター。そこの所長がチャールズ・S・ダットンで、2人は所長室で患者のことを色々と話し合っている。やがてダットンがやおら立ち上がり彼女に近づき・・・濃厚なキスをする。えっ!?と、おれはドキッとした。なぜかと言うと、トップクラスの主演女優と助演専門のハンサムとはいえない太った俳優のラブシーンはハリウッドの不文律を踏み越えているからだ。観客の直感とはおそろしいもので、その直後にダットンは殺されてしまうのであった…。 ● 「クリムゾン・リバー」の成功でハリウッドに招かれたマチュー・カソヴィッツの新作。「わたしを信じて」「わたしのことを〈キチガイ〉だと思ってる相手をどうして信じられるの?」──そう、患者のペネロペ・クルスから言われた台詞を、今度は彼女自身が言う羽目になる。キチガイ病院の医者がキチガイにされてしまい、誰も自分の正気を信じてくれない…という「トライライト・ゾーン」ネタに、幽霊譚を絡めている。やたらとヒロインの周りに付きまとう女の幽霊は、じつはヒロインに伝えたいことがあったのだ…という、つまりミステリでいう不可解なダイイング・メッセージものですな(幽霊だからデッド・メッセージか?) だけどこの幽霊ったら「ガラスにはぁ〜っ息を吹きかけ、曇らせてそこに字を書く」なんて高度な芸当まで出来るのに、肝心なことは一向に伝えないのだ。普通に犯人の名前を残せばいいのに意味なく暗号にするというのはダメダメ・ミステリに共通する特徴。それに最後の決着だって、それを焼いちゃったら証拠の[タトゥー]が残らないじゃんか。マジ、バカですか?>幽霊さん。 「1年後」という設定のエピローグで、殺人容疑で収監されていたヒロイン2人が釈放されてるのも不可解。たった1年じゃ仮釈でもなさそうだし、…犯人は悪霊だと裁判所が認めたのか!? ● 本作の上映館である新宿東急は従来、予告篇がしょぼいモノラルでしかかからない──本篇が始まるとヴォリュームが大きくなって音がぐわん左右に広がるので解かる──という悪名高きコヤで、前に一度 係員に文句を言ったら「すいません。映写機の仕様で予告篇はデジタルにならないんです」(なぜ ???)と言われたことがあるが、今回 行ったら、予告篇から迫力のある(たぶん)ドルビー・デジタルになっていた。映写機、新しくしたのかな?

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ギャザリング(ブライアン・ギルバート)

クリスティーナ・リッチ主演のイギリス製オカルト・ホラー。イエス・キリストの体を刺し貫いた聖槍と、その血を受けた聖杯を持ち帰ったユダヤ人、アリマタヤのヨセフが最初の教会を建てたという伝説の残る地──イギリスのグラストベリの小高い丘の地下から、古代の教会らしき遺跡が発見された。その頃、その地を訪れたヒロインは出会い頭にクルマに撥ねられ、身体に異常は無かったものの一時的に記憶を失い、クルマを運転していた女性=遺跡を発掘調査している歴史学者の奥さんの家に厄介になる。時を同じくしてその町には、曰くありげな老若男女が続々と集結しつつあった……。 ● クリスティーナ・リッチは大人になってずいぶんと痩せて、そうなると もともと体が小さいので「頭のデカさ」と「目の大きさ」ばかりが目立つ。そんでもってこの人、目が上下のちょうど真ん中へんにある=頭の半分が脳味噌なので、てっきりヒロインの正体は火星人(グレイ)なのかと、これは侵略SFものかと思ったら違った。それで全体の設定が飲み込めた時点で、おおそうか!これはおれの大好きな「ゾンゲリア」ネタではないか!と、その後の展開をワクワクして見守ったのだが、残念ながら「古代の教会に秘められた謎」の話と「集まる人々(ギャザリング)と呼ばれる謎の集団」の話が、うまく噛み合わぬまま最後まで行ってしまった。どちらもそれだけで1本の映画が作れるような魅力的なネタなのだが、ただ本来、ギャザリングのほうのネタは そうとう派手な特殊効果のシーンが必要になる話であって、それを無理にB級映画の予算内に収めたために、説得力と劇的効果が大幅に不足している。C級映画のような即物的カット割りと録音にも違和感を覚えた。 ● さて、映画の評価とは離れるが、じつはおれはこうした人々(ギャザリング)を知っている。映画館でたびたび目撃する見覚えのある顔──落武者のような蓬髪のTBS・宮内鎮雄アナとか、いつも髪の長い女性と一緒に最前列に座ってる三鷹オスカーの倅の鶴田浩司さんとか、名前は知らぬが赤シャツに赤いジーパンの金髪男とか、ホームレス風の大きな紙袋を持ち歩いてる女性とか。もちろん虹色ヘアピースの新宿タイガーマスク氏もその1人だ。そしておそらくかれらも おれのことを知っている。そう、おれもまたギャザリングの一員なのだ。観てしまう性(さが)……それがおれたちだ。まったく人の寄り付かぬ呪われた映画に、どこからともなく集まってくるとり憑かれた人々なのである。そうでもなくしては、お台場のシネマメディアージュ13番スクリーンで1週間だけ上映されるジャン・クロード・ヴァン=ダムの新作映画のわずか10人ほどの観客の中に宮内鎮雄アナとおれが居合わせるような偶然がそう何度も有り得るものか。だからこの映画のエピローグでギャザリングの1人が吐露する「観る者の哀しみ」はとても他人事とは思えなかった。そういうわけで、おれは泣いてしまった(←大バカ)ので星4つ付けたが、あなたがた一般の人たちにとっても面白いかどうかは保証いたしかねる。 ● あと、裏目読みだけれど、この映画のテーマって「眼前でとても酷いことが行われているのに、手をこまねいてただ見ているのは〈罪〉である」ということだよね。

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悪霊喰い(ブライアン・ヘルゲランド)

「ミスティック・リバー」の見事な脚色仕事への讃辞を帳消しにしかねないブライアン・ヘルゲランド製作・脚本・監督作品。敢えて「ミスティック・リバー」と同時期に惨憺たる失敗作をぶつけるってのはワーナー映画への厭がらせかね?>20世紀フォックス。 ● まさか2本撮りってことはないと思うが、ヒース・レジャー&シャニン・ソモサン&マーク・アディという、ヘルゲランドの前作「ROCK YOU!」と同じ主人公チームを起用して作られたキリスト教ホラー。製作開始直後からスタッフに謎の事故や大病が相次ぎ、作品が完成してからも宣伝スタッフが謎の失踪を遂げたまま未だ行方不明だったり…と、2年間にわたり5回の公開延期を余儀なくされた呪われた作品である。いやほんとにほんとだってば。IMDbのトリヴィアには「SFXが失笑ものだったから公開を延期してやり直した」などと書いてあるが信じてはいけない。不信心者には神罰が下りますぞ。 ● アメリカ公開タイトルは「THE ORDER(修道会)」だが、日本公開されたフィルムには「THE SIN EATER(罪喰らい)」という海外公開用タイトルが入っている。 カトリック圏では、臨終に際して「汝の罪を赦す」と言って死にゆく者の魂を救済するのが洗礼関係と並ぶ坊主の大きなシノギであって、だから宗門を「破門」されるというのは、生きている間に犯した数々の罪を背負ったまま死ななければならない──すなわち「お前は地獄行きだぞ」というとても有用な脅し文句になるわけだが、そのような強欲坊主の助けを借りずとも「身共が貴公の罪を肩代わりして進ぜよう」というのが「罪喰らい」と呼ばれる異端異能の聖職者である。そんな創価学会葬みたいなもん認めたら商売あがったりだから、カトリック教会は躍起になって「罪喰らい」の存在を否定してきた。NYで司祭を務める主人公は、ローマで自殺した恩師の死の真相を探るうち、「罪喰らい」の存在を知り、異端教団の陰謀に巻き込まれていく……。 ● 主人公はヒース・レジャーだが、かれはもちろんベビーフェイスの役まわりであって、本作の鍵を握るのは悪の司祭とも言うべき「罪喰らい」のキャスティングにある。ドラキュラ映画におけるドラキュラ伯爵、あるいは「エンゼル・ハート」のロバート・デ・ニーロに匹敵するカリスマ性が必要とされる役だ。じつは当初ここにはヴァンサン・カッセルがキャスティングされていたのだが、ヘルゲランド監督と衝突して撮入後3週間でセットを出てってしまったんだそうだ。後任は急遽、ドイツの中堅(?)俳優ベノ・ファーマンが務めたが、とてもデ・ニーロやカッセルのエキセントリックさは望めない。悪役の地味さが本作の敗因の第一である。カトリックの枢機卿を演じているピーター・ウェラーのほうが、よっぽど何かを企んでそうだもの。 ● 敗因の第二はヘルゲランドの脚本・演出のまずさにある。ほら、よくコメディ映画で「テーブルから生卵が落ちる」みたいな、なんでもない些細な出来事をスローモーションにして大げさな劇伴つけて演者もワザとらしい顔を作って…っていうシーンがあるじゃん? ああゆー感じなのよ。ストーリーとの本筋とは関係ないとこで「ドブの羽目板が外れそう」みたいな意味のないサスペンスを盛り上げたり。それとか、結局あれかい。プロローグで、パリで相棒の神父を襲った悪霊の遺した「暗黒の法王が目覚める…」って預言は本筋に関係なしかい! ポスターにも大きく載ってる〈幼い兄妹〉の姿をした悪霊も、思わせぶりに登場させといてやっぱり本筋に関係なしかい! そんなコケ脅しより先に、きちんと全体の構成を練ってから撮り始めろよ。アンタ、本職は脚本家だろ!

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この世の外へ クラブ進駐軍(阪本順治)

おれたちは何かというとスグ台詞を怒鳴りあうような湿度が高くて古臭い日本映画にはいいかげんウンザリしていたはずではなかったか。だがこうして実際にカタカナ名前の日本人俳優が「おれたちラッキーでストライクじゃないか!」と怒鳴っても、しょせん下北沢あたりの終夜営業の安い居酒屋でバンドの兄ちゃんたちがケンカしてる程度にしか見えないライトな日本映画を観せられると〈何かが違う〉〈ここには何かが欠けている〉と感じてしまうのは何故だろう? ● たしかに敗戦後の風景風俗をCGを一切使わずに再現したセット美術のクォリティは素晴らしい(おれなんかすっかり「外景はぜんぶCG」だと思って観てた) だが、あの時代の若者の熱気を──生き死にに直結した必死さというものを、この映画は表現できていたか? もちろんおれは実際に敗戦後の日本を体験してるわけではないので、それぞれの時代に作られた映画を通しての比較になるわけだが、どうやら日本映画はついに敗戦後から東京オリンピック/大阪万博までの35年間をも「時代劇」と呼ばなくてはいけない時代に突入したようだ。これは(あなたが1970年以前の生まれなら感じているはずの)世代的断絶が俳優の世界にも波及して来ているのである。なにがどうとは、うまく言えないのだがそれ以前の日本人とそれ以降の日本人では意識の持ち方がハッキリ異なる。考え方が違う。使う言葉が違う。何より日本語の発音が違う。 ● たとえば本作の大きな欠点のひとつは、主役であるはずの萩原聖人になんのドラマもないことにあるが、この役が佐藤浩市だったとしたらどうだろう? 佐藤浩市ならば、ジャズ好きでジャップ嫌いの米軍兵士に対する「強烈な嫉妬」や「ギラギラしたライバル心」をもっとハッキリと感じられは しなかったか。そして、そうした対立が観客に強く印象付けられて初めて後段の「友情」と「別れ」が効いてくるのではないか。 あるいはたとえば松岡俊介の役を豊川悦司が演じていたらどうだったろう? 豊川悦司ならば戦時下に押入れに隠れて蓄音機でジャズのSP盤を聴いていた男の弱虫の哀しみがもっと痛切に出たのではないか。まあ、あまり仮定の話ばかりしてても仕方ないが、今回、阪本順治が意図的に選択したという若い世代の俳優たちは(現代の高円寺を舞台にしたロックバンドの話ならいざ知らず)あまりに嘘臭くて薄っぺらで観ちゃらんなかった。

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ロスト・メモリーズ(イ・シミュン)

日本でも大ヒットして韓国映画ブームの先鞭をつけた「シュリ」は、南北分断問題という韓国特有の重い主題をみごとにエンタテインメントとして消化した傑作だったが、そうなれば次のテーマはとうぜん「日韓問題」となるわけで、1909年、初代韓国総督であった伊藤博文がハルピンで暗殺されておらず、第二次大戦を日本がアメリカと同盟して戦い戦勝国となり、朝鮮半島と満州を併合して「日本」という超大国になっていたら?・・・という歴史改変SFサスペンスである。 ● 舞台は2009年。日の丸の旗のもと、東アジアの大国として平和と経済的繁栄を謳歌する神国・日本だったが、南朝鮮地方の大都市・京城(ソウル)では「朝鮮独立」を唱える不令鮮人と呼ばれる朝鮮人テロリストの一団が暗躍していた。本篇の主人公は、テロリスト撲滅のため本土にあるJBI(大日本捜査局)本部から送り込まれたエリート捜査官・仲村トオルと、そのパートナーである地元出身の朝鮮系日本人チャン・ドンゴン(張東健) じつはドンゴンの父もまた警察官だったが、24年前に「不令鮮人から賄賂をもらった」として同僚から射殺されていた。そんな国を裏切った犬畜生を親に持つドンゴンは、汚名を濯ぐため必死でお国に尽くし、任務とあらば朝鮮人テロリストを撃ち殺すことに何のためらいも見せない、そんな男だった。だが何者かの陰謀でドンゴンは「同僚捜査官を射殺した犯人」として指名手配されてしまう。かれを追い詰めるのは──いつも「お前のことを朝鮮人だなんて思ったことは一度だってないよ」と言っていたドンゴンの無二の親友・仲村トオル! ● 「2009 ロスト・メモリーズ」という原題で知られていた2002年2月韓国公開の話題作。反日感情が根強いかの国でなぜこのような「屈辱的」な設定の作品が可能だったかというと──詳述は避けるが──終盤にかれらの愛国心を満足させる驚天動地の展開が待っているのだ。韓国人の日本に対する怨念が詰まった異様な迫力の傑作。こりゃたしかに日本の配給が公開にビビるのも無理はない。右翼が観たなら怒り心頭一触即発なので、スクリーンが切り裂かれる前に早めの観賞をお勧めする。 ● 全篇の7割以上が日本語。だから韓国側の出演者も全員が日本語で台詞を喋る。なかでもチャン・ドンゴンは(一部の説明台詞で、日本語台詞に日本語字幕を付けられたりもしてるけど)日本語台詞への感情の込め方が、さすがスター。 特筆すべきは、本作の演技により仲村トオルが(韓国アカデミー賞こと)韓国映画人協会が主催する権威ある「大鐘賞」の最優秀助演男優賞を受賞したこと。まあ、2002年は日韓ワールドカップの年だったから、何らかの政治的思惑が働いたのかもしらんが、それにしても日本人が大嫌いで、なんでも「1番」じゃなきゃ気がすまないという国で、日本人が並み居る韓国人俳優を押しのけて1等賞を獲ってしまったのだ。これって渡辺謙がアメリカのアカデミー賞で受賞する以上の偉業じゃないか? あと、なぜか映画監督の今村昌平が「歴史学者」の役で俳優として出演している(釜山映画祭つながり?)

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ONE TAKE ONLY ワン・テイク・オンリー(オキサイド・パン)

タイ映画。「レイン」「the EYE」のパン兄弟のお兄さんのほう=オキサイド・パンの「タイムリセット 運命からの逃走」に続く単独監督・脚本・編集作品(2001年作品) 内容は「レイン」系統のせつな系ちんぴらハードボイルドである。見た目、高校生にしか見えない娼婦のヒロインと、組織の末端でドラッグの売人をしてる「レイン」のパワリット・モングコンビシットがバンコクの街で出逢い、男のつまらないジョークに女がフッと笑ったことがきっかけで付き合うようになり、小さなガラスの水槽の中の2匹の金魚のように仲睦まじく身を寄せあって暮らすようになるが、2人の生命力もまた金魚のようにかぼそいもので…。

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かまち(望月六郎)

おれは谷川俊太郎と相田みつをの間には決して越えることのできない壁があると考える者であるので、この山田かまちという若くして死んだ詩人のことも名前ぐらいは知っていたが、詩作をいくつか目にして漠然とみつを系と認識した時点で興味を失っており、普通なら伝記映画なんぞ観に行きゃしないんだが、監督が望月六郎と聞いてはチェックさぜるを得まいて。東京地区は池袋シネマサンシャインでの単独公開。やはり此処だけでやってた哀川翔の99本目「デコトラの鷲 祭ばやし」は結局、観に行けなかったので、此処で映画を観るのは10年ぶりぐらいか。 ● すこし前、群馬県に、詩を書いたり絵を描いたりギターを弾いたり、とても感受性ゆたかで創作意欲旺盛な少年がいて、そのうえ学校の成績も優秀だったので、ミュージシャンになる夢を抱きながら、一浪して名門県立高校に進学するものの、その年──1977年の夏に、自宅でエレキギターの練習中に感電して死んでしまう。17歳だった。 ● あらら。病死じゃなくて事故死だったんですか。望月六郎は少年の書いた詩を(CG合成を駆使して)画面上に躍動させ、性急なナレーションと共に、短い人生を駆け抜けた山田かまちの人生を描いていく。まあ、たしかに感受性ゆたかな少年だったことは伝わるけど、それほど感受性ゆたかなのに(本人曰く)「将来はワールド・トップ・ミュージシャンになる」という夢と、「県立 高崎高校に進学して東大理IIIに現役合格する」という人生設計がなんの疑問もなく共存してるのが理解できない。1960年生れで、どっぷりロックに浸かる感性と、中学浪人までして名門校に進学しなきゃという考え方は相反するものだと、おれには思えるけど。あと「高崎高校」の略称がタカコウじゃなくてタカタカなのも理解できない。タカタカってなんだよタカタカって!?<いやそれは群馬県人全体の問題だから。[追記]BBSでご教示いただいたが[タカタカ(高高)って呼称はタカコウ(高工=高崎工業高校)と区別するためのもの]だそうだ。群馬県人の皆さん失礼しました。 ● ということで、この山田かまちなる少年の「伝記」にはまったく共感できなかったのだが、本作はなんと後半から「通常の伝記映画」の枠をはみ出して2004年 現在の日本を描き始めるのだ。 かまちと予備校の同級で親友だった少年はいまや石原良純になり果て、親を継いで町医者をしている。こいつの子どもが17歳の引き籠もりで、病院からアンフェタミンをくすねては「笛吹男」を名乗ってネットで売りさばいている。 一方、かまちが予備校時代に好きだったカノジョは、東京に出たものの夢やぶれて地元に戻り、予備校の教師をしている。あんなにも輝いていた少女も今や檀ふみ@寂しい独身女である。その檀ふみの教え子の17歳の少女が石原良純の息子から買ったアンフェタミンで自殺未遂を起こす。また別の17歳の少年がなにか大きなことを企んで渋谷に行ったと聞き、檀ふみもあとを追い少年を捜して渋谷の街をさまよう…。 ● 脚本は「十八歳、海へ」の渡辺千明(ポスターの表記が「千秋」になってたぞ!>ヘラルド映画宣伝部) 望月六郎は「山田かまち」という存在が2004年の日本においてどのような実感を持ち得るのか?というテーマと真摯に格闘している。「なんで援交しちゃいけないの?」「なんで自殺しちゃいけないの?」という問いに対して「生き急ぐように人生を生きて、エレキギターで感電死した少年が昔いたから」じゃ、まったく答えになってないと思うので評価は星2つだが、「むかし、こんな少年がいました」というお話なんか撮ったってしょうがないだろ?という作り手の心意気は買う。 ● 大阪出身のアイドル・ヒップホップ・グループ「LEAD」の4人が主役級を演じる。なかでも、かまち少年を演じた谷内伸也クンは「天才美少年」という演技だけではクリア出来ない難役にみごとになりきっていて素晴らしい。かまちの両親に風吹ジュンと奥田瑛二。恩師に田口トモロヲ。予備校の校長に北見敏之。 ● ビデオ撮りの撮影が最悪。カメラマンは「銀の男」「漂流街」「日本黒社会」の今泉尚亮。前半の伝記パートをグリーンのトーンで統一してるんだけど、ビデオでグリーントーンにすると肌の色が完全に死体の肌の色になるのだ。蛍光灯で照らされた遺体安置室を撮るときの色だ。この前半は、むしろ後半の現代パートよりも活き活きと描くべきなのに、かまち少年を死体のような色で撮るとは何を考えておるのだ? あと、せっかく映画撮影に特化したパナソニックのHDビデオカメラ「バリカム」で撮ってるのに、上映されているフィルムの画質が最悪。おそらくフィルム変換に金をケチって(フィルムレコーディングじゃなく)安価なキネコで済ませてるんだろう。

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アンデッド(スピエリグ兄弟)

いやたしかに新宿ピカデリー4は、かつてピーター・ジャクソンの「ブレインデッド」を上映した由緒あるコヤではある(当時の名前は新宿ピカデリー2。地下はまだ全部「新宿松竹」だったのだ) だからひょっとして松竹編成室に心ある人がいて、オーストラリア製の低予算ゾンビ映画である本作を敢えてこの劇場にブッキングしたのかもしれん。だけど頼むからこーゆーオタク映画を、元・雀荘だったので天井が低くて席数44しかないコヤでやるのはカンベンしてくれ。男ひとり客ばっかり(含む>おれ)だから狭い容積に体臭が充満して、汗臭くて死ぬかと思った。てめーら映画館に来る前に風呂はいれ! 土曜日に行ったせいで場内ほぼ満員。左でビックカメラの紙袋を持ったでぶがコンビニのお握りを食い始め、右に座ったメガネが紙袋からガサゴソとパンを食い始めたときは、よほど映画を観ないで帰ろうかと思ったぜ。 ● 宇宙から飛来した隕石──ま、隕石ってのはたいがい宇宙から飛来するもんですが──に身体を貫かれた者がゾンビと化し、ゾンビに噛まれた者も次々とゾンビとなる。魔鬼雨が降り注ぐ田舎町でいまだ〈人間〉のままなのはアーシア・アルジェント似のヒロインほか数人だけとなった…! ● 双子の兄弟が製作・監督・脚本・編集・パソコンSFXのすべてを手掛けた(ほぼ)自主映画。「ブレインデッド」やサム・ライミ「死霊のはらわた」のパワーには到底およばないが、三連ショットガンを使うヒーローが出てきたりアクション映画ノリが楽しいし、後半 ゾンビ・ホラーからなんと[SF映画]に転調するゴッタ煮ぶりも面白いので、この手の映画が好きなら楽しめるはず。ただ、いかんせんビデオ撮りののっぺりした色調なので「毒々しい血の色」が出ないのがスプラッタ・ホラーとしては致命的。あと「話」はデタラメでも構わないけど「ゾンビは頭を撃たれたら終わり」というお約束はきちんと守らないと駄目でしょ。脳ミソ吹き飛ばされてもふらふら歩いてる奴がいたぞ。おまけに主人公たちは「お約束」が判明してからも腹ばかり撃ってるし…。

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新世紀Mr. BOO ! ホイさま カミさま ホトケさま(ワイ・カーファイ)

[輸入DVD観賞] 原題は「鬼馬狂想曲」 SARS騒動に沈む香港人を激励するために競作された短篇(というより公共CM)企画「1:99 電影行動」の一環としてジョニー・トー&ワイ・カーファイのドル箱 監督コンビが、丸縁メガネに開襟シャツで「Mr. BOO ! ギャンブル大将(鬼馬雙星)」(1976)のマイケル・ホイに生き写しのラウ・チンワンと、ギターを持った色男というとこだけサミュエル・ホイに似てるアンディ・ラウ、それに牛乳瓶の底メガネのサミー・チェンが歌い踊る…という色物ミュージカル「狂想曲」を2003年の8月に発表したら、これがバカ受け。受けたらアンコールに応えずには居られないのが香港人のサガ。早速、コンビの片割れワイ・カーファイ(韋家輝)が単独で、2004年の旧正月映画に仕立てて、みごと大儲けと相成った次第。 ● 長篇化にあたっては(アンディ&サミーが「インファナル・アフェア2&3」の撮影に取られてしまってるので)マイケル・ホイに扮したラウ・チンワンを主役に据え、悪ノリついでにホイ三兄弟のリッキー&サミュエルのそっくりさんまでとり揃え、なんと大ヒット作Mr. BOO ! ミスター・ブー(半斤八両)」(1976)をリメイクしてしまった。いや、まあ正確にはオリジナルの設定を踏襲したルーズなリメイクなんだけど、映画館での集団強盗や腸詰ヌンチャク(!)の対決シーンもちゃんとある。もちろんマイケル・ホイその人も、監督の次に「スペシャル・サンクス」としてクレジットされ、劇中でも最大限の讃辞を捧げられている。 ● みどころの殆どが個人芸なので、あらすじの代わりに役者を紹介する。 ドけちでがめつい探偵事務所の所長にラウ・チンワン。たしかにマイケル・ホイはこうだった…と思わせる完コピぶり。 所長に安月給でコキ使われてる気弱でどもりのリッキー・ホイに、チャン・シウチョン(陳小春) コハル君とリッキーなんて顔は少しも似てないはずなのに、何の説明もなく とりあえず首にむちうち症のギプスをしてたり、マヌケなヘヘヘッという笑い方とかリッキーそっくり。 そして所長に搾取されてることすら気づかない天然のお人好しで、ブルース・リー マニアのサミュエル・ホイに、ルイス・クー(古天楽) サミュエルの役だからもちろん歌うシーンもある(歌はロナルド・チェン 鄭中基の吹替) ひょんなことから探偵事務所の助手になるマッシュルーム・カットに牛乳瓶の底メガメのブスっ娘…じつはホグワーツ魔法学校から派遣された魔法使い見習いのボーボーに、セシリア・チャン。今回、ずうっとカツラ&メガネで素顔を見せずに(でもハスキー・ボイスでわかるけど)従来ならテレサ・モウの役どころを快演/怪演。 セクシーなロケット工学博士に「ジャンダラ」のクリスティ・チョン(鍾麗[糸是]) そして、部下が全員アフロヘアという謎の強盗団の首領に、ン・ジャンユー。もうまさしく「修羅がゆく」の萩原流行のような大芝居をほんとーに楽しそーに演じてる。 ボーボーの従妹の魔法の箸の精に香港アイドル「ツインズ」の2人。成り行きから強盗団の一味になり一生懸命に凄んでみせるのがカワイイ(松浦亜弥が竹内力の真似して顔をゆがませて関西弁で凄んでるとこを想像してください) ● 本作のコダワリは舞台設定を「1969年の香港」に置いていることで、美術・装置はもとより出演者の衣裳・メイク・ヘアスタイルまで完璧に1969年を再現している。つまり「オースティン・パワーズ」シリーズのアプローチだな。元ネタが1976年の映画なのに、なんで更に遡るのかというと「すべてが前向きで楽天的だった時代」を再現することで、暗い時代を生きる現代の香港人を少しでも元気づけたいという意図のようだ。ちょうど100分。脚本など明らかに現場執筆の「場面場面が面白ければ良い」という典型的な香港スタイルで、そのわりにはバリー・ウォンの映画ほどは笑いがハジけないし、全体の構成なんかもぐずぐずなんだけど、そんなことはまったく気にならず、ニコニコして最後まで楽しめる理想的な旧正月映画。 ● [追記]以下は、おれにはよく解らなかったんだけど、詳しい方のために知ったかぶりで書いておく。セシリア・チャンが演じてるのはジョセフィーヌ・シャオ (蕭芳芳)の当たり役だった林亜珍というキャラクター。ツインズの演じたお箸の精は[竹/快]子姉妹花という。あと、[土立][土及]蟲というCGによる緑色の怪獣が(「ゴーストバスターズ」のマシュマロ・マンみたいな感じで)大活躍する。

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ケイナ(クリス・デラポルテ&パスカル・ピニョン)

新宿昭和館跡地に建ったその名もShowakanビルの最上階に入ったお洒落なミニシアター(泣)「K's cinema」の柿落し作品。K's …って何の由来でKなんだか知らないが「ケイズ」だから「ケイナ」ってことで縁起を担いで韻を踏んだわけですな(そうなのか!?) 配給はギャガ・コミュニケーションズ。せっかくなんだから宣伝もギャガ Kシネマにしときゃいいのに。いまいち詰めが甘いんだよなあ>ギャガ。 ● フランスのアニヲタ世代監督が作ったフルCGアニメーション(もともとはゲームの企画だったようだ) 製作はカナダとの合作で、台詞はすべて英語。キルステン・ダンストやアンジェリカ・ヒューストンやリチャード・ハリス(なんとこれが遺作…)が声の出演をしている。 ● ケイナとはヒロインの名前(綴りは Kaena なんだけど声優は全員「痒いーな」と発音する。ケイナってのはフランス読みのようだ) いわゆるナウシカものである。巨大宇宙船がとある惑星に墜落してから600年。人類は、雲を突き抜けて生える巨大樹木に寄生して、その樹液を採取し、また巨大芋虫を喰って生きる原始的な生活を営んでいる。だが近ごろでは樹液が枯れはじめ、人類は存続の危機に立たされていた。そんな時、村社会のはみだし者である好奇心旺盛で行動的な少女ケイナが、おどろくべき冒険を経て、古くから伝わる謎の預言どおりに世界を救うという話。ケイナの衣裳が、へそ出しホルタートップにノーブラ巨乳をゆらし、下半身は半尻(ケツ)パンティー1枚にロングブーツ…ってのが、もろ日本の美少女アニメで可笑しい。オタクの性的嗜好って洋の東西を問わず共通なのかね? ●  チラシやポスターには押井守の「ハリウッド映画にはありえない色彩感覚がすごい」というコメントがデカデカと使われてるんだけど、これって翻訳すると「褒めるとこが〈色〉しか見つかりませんでした」ってことだよな(しかも後で同業者からツッコまれたときに「いやあ、アレは〈他とは違ってる〉と言っただけで、べつに褒めたわけじゃないんですよ」と言い逃れできるような言い方にしてる) まあ、たしかに「映画」としちゃあ押井守の言うとおりつまらなくって「フランス人にはSFとロックは解からない」という定説を覆すものではないのだが、3D-CGで描かれた異世界の奇妙な生き物を眺めてるだけで満足できる…という方ならば(JBLのスピーカー・システムを堪能できることでもあるし)この際 K's cinemaまで足を運んでみる価値はあろう。

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悪い男(キム・ギドク)

脚本:キム・ギドク

キム・ギドクは観客に一刻の猶予も与えない。ソウルの雑踏を捉えたファースト・カットにはすでに主役の2人が写りこんでおり、一瞬で2人のキャラクターを明確に提示する。そしてタイトルが出るまでの5分にも満たない時間でこの2人を抜き差しならない運命のまっ只中へと巻き込んでしまうのだ。「純愛」などというキレイゴトでは済まされない、それはあまりに激しい感情なので当人たちでさえ「憎しみ」なのか「愛」なのか判然としない──これはそういう感情を描いた暴力的なメロドラマである。タイトルの頭に「天使のはらわた」と銘打たれていてもおかしくない、かつて石井隆が執拗に描き続けた村木名美の物語。堕ちていくことでしか──世間から隔絶することでしか「2人だけの世界」を手に入れられない哀しい愛の寓話だ。映画の世界では1970年代の終わりと共に途絶えてしまった類の話なのである。キム・ギドクはフツーに考えたら不自然な描写や「イマドキ誰もやらねーよ!」という陳腐なクリシェをまったく悪びれることなく──まるで今、おれが発明したのだとでも言うように──堂々と使い、その力で観客を打ちのめす。「1970年代の映画」を現在形で撮れてしまう才能の凄さ。なにかどこかで見たような──しかし世界のどこにも似たものがない畏るべき傑作である。 ● と、ここまで褒めて おれが「必見」と書くのをためらうのは、おそらく本作は女性観客の半分にとっては史上最低の唾棄すべき映画として映ると思うからで、「悪い男」というタイトルは反語でもなんでも無く、本作の主人公はまさしく「史上最低の唾棄すべき男」なのである。そして男性観客は皆、そんな男の共犯者としての誹りを免れない。ちょんの間の一室で無理やりに客をとらされるヒロインをマジックミラー越しに見つめる男の視線は、そのままあなたの(おれの)視線だ。悲痛な泣き顔のヒロインがこちら=鏡を見る。男がつい目を逸らす。無意識におれも目を逸らす。だが独りキム・ギドクだけは最後まで目を逸らすことなく悪意とも違う苛酷な愛情で男とその「被害者」であるヒロインを追い詰め、史上最低の唾棄すべき男には史上最低の唾棄すべき男に相応しい末路を用意し、そのうえで最後の最後に甘美な夢をプレゼントする。 ● パンフに載っていた瀬々敬久の評がすばらしく的確なので引用する>[キム・ギドクは農夫酪農家によく似ている。彼らは人間に食させるため、やがて殺される運命の植物や動物を愛情込め育てる。かと言って、生きるために万物を殺し続ける人間を愛することも決してやめない。地上の哀しみを彼はいつも憎しみながら愛している。] ● 堕ちていくヒロイン=土屋名美に、吉野公佳をもう少し丸顔にした感じのソ・ウォン。彼女の実人生で心に傷を負うほどの辛い役を大熱演。歴代「名美」のなかでも一、二を争う出来(←だから違うって) 話が話だけにヌードはあるが「濡れ場」と呼べるようなロマンチックな描写は存在しない。 史上最低の唾棄すべき男である女衒のやくざ=村木にチョ・ジェヒョン。最後までほとんど一言も発しないで、みごとに映画を背負ってしまう眼力(とキム・ギドクの演出力)には驚嘆するしかない。 ちなみにキム・ギドクは漢字で「金基徳」と書くのだが、いっそ「金鬼毒」と改名してはどうか(なんか団鬼六みたい<それはオニロク)

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恋する幼虫(井口昇)[ビデオ上映]

自主映画上映団体イメージリングスの自主製作 第1弾。ビデオ撮りなのだが、テアトル新宿のDLPプロジェクターで観るかぎり画質は許容範囲。井口昇がいちばん撮りたい「ヒロインのアップ」は充分キレイに写っている。ただ「プロの映画」としては照明をもうちょっと何とかしてほしいものだが(おそらく本作の撮影現場には「照明」という概念が存在してないのではないか?) ● 主人公は青年マンガ誌に連載を持っている程度には売れっ子の漫画家。成長期に非モテ男ひがみ根性から性格が歪んでいるので、新人の女性編集者を精神的にいたぶることに快感をおぼえ、ついつい彼女を傷つけてしまう。彼女はそれまで性的に潔癖症で、人間関係も不得手な非モテ女だったのだが、傷つけられたことで逆に、深層意識に閉じ込められていた自我が傷口から噴き出してくるのを感じる。傷つけた負い目と裏腹の傷つけられた優越感が2人の関係を逆転/変容させていく…。 ● あまりネタを割ってしまうと面白くないので曖昧な書き方になってしまったが、これは本年度屈指の純愛映画である。クローネンバーグのあんな映画やロメロのこんな映画を引用しながらも、かように「エロでグロでゲロでサイコで、しかも底知れず邪悪で、それでいて限りなくピュアなラブ・ストーリー」などという他に例のない映画を撮れる井口昇はまさしく真の天才(あるいはキチガイ)の名に値する。これを観ると「帰ってきた刑事まつり」の1本として上映された「アトピー刑事」は本作を濃縮した別バージョンだということがよくわかる。本気で泣ける本気で作ったバカ映画。あなたに愛の真実を教えてくれる。必見。 ● 後日、デビュー作からの特集上映 特殊上映(井口昇 談)を観に行って判ったのだが、井口昇は同じテーマ──妄執といってもいい──を繰りかえし繰りかえし撮るタイプの作家であった。そして井口昇はフェチ大王である。顔面フェチ、目玉フェチ、ぬるぬるフェチ、内臓フェチ…。正座してるので痺れてきてもじもじしてるパンスト穿いた足の裏などというものに対しても満遍なく愛情あふれるまなざしが注がれる。本作において、そのまなざしの99%を独占するのがヒロインを演じる新井亜樹。まあ、世間的な言い方をするなら「ブス」の部類なんだが、観てると だんだん可愛く思えてきて、そのうち笑顔にキュンとしてしまったり、男を見下す微笑みに「はあ〜キレイだぁ…」とタメ息をついてしまったりするのが映画の恐ろしいところ マジックである。 ● 主人公の漫画家には劇団「大人計画」の荒川良々(あらかわ・よしよし) 「ピンポン」や「ロボコン」の脇役で強烈な個性を発揮している異能の俳優が「二枚目の主役」を演じるなどという事態は(少なくとも映画では)後にも先にもこれきりだろう。演技と地の区切れ目が判別できないキャラが無二。 ヒロインの「恋人」にキモワルモードの松尾スズキ。てゆーか、手の甲、指の背にまで毛がもしゃもしゃ生えてる中年男を好きって時点で、このヒロイン、価値観がヘンなんだけどさ。松尾スズキは舞台で見せるような厭らしい芝居が絶品で、終盤にはこの人ならではの「気色悪い侠気(おとこぎ)などというワケワカランものを見せてくれる。 なぜか主人公に好意的な元・同級生に、元「ニュース・ステーション」のお天気お姉さん、乾貴美子。 井口昇の「クルシメさん」がデビューという消せない過去を持つ唯野未歩子も、もちろんゲスト出演して序盤でコワ〜い演技をみせている。


ラッパー慕情(藤原章)[ビデオ上映]

自主映画上映団体イメージリングスの「恋する幼虫」に続く自主製作 第2弾。ビデオ撮り。監督&撮影は奥崎謙三 主演「神様の愛い奴」の藤原章。脚本&編集がやはり自主映画作家の継田淳。いやもうコレ、ストーリーとか内容以前の問題として、撮影と編集がシロート以下で、とても見ちゃらんないのだ。ビデオ撮りなんだからたいした照明は要らんはずなのに暗いし、画質は最悪。テアトル新宿のDLPプロジェクターという(現状ではベストの)環境で観てこうなんだから、このあと4月11日から17日までビデオ公開される渋谷アップリンク・ファクトリーだったらもっと見えないはず。おまけに構図はメチャクチャだし、なかでも最悪なのが編集で「映画」になってない。どうも意図的にスタンダードな撮影・編集を避けているフシもあるが、アヴァンギャルドな表現自体がテーマとなる類の作品ではなく、あくまでも物語の内容を伝えようとする作品において、わざわざ説話の効率性を無視して観辛い作品を作ることになんの意味があるのか。いや「ワカる人にだけ伝わるオレの映画を作るのだ」ということなら、おれはその輪に入れてもらわずとも結構。今回は「商業上映」を視野に入れたビデオということで評価以前の「失格」とする。 ● 三十過ぎて母親と実家住まい。仕事は老母の経営する木造アパートの家賃を集金に行くだけ──いや実際は「行く」だけで「集金」さえ満足に出来ないのだが──という、どうしようもない男兄弟の穀潰し哀歌。長男はとっくに家を出て、就職もせず家に残ってるのは次男と三男。でぶの次男は毎日ユニフォームを来て河原で草野球の毎日。汚い髭面の三男は漫画家志望の引きこもり。本作は主にこの三男の視点から語られる。「悶々とした日々のやるせなさ」という主題にエロとカンフー。1970年代 四畳半的 大学生映画の臭いが強烈にただよう。この脚本で撮られた普通の(フィルム撮りの)映画なら観てみたい。 ● 三男に拾われる「智恵おくれのフーテン娘」に、ピンク映画(「新・したがる兄嫁 ふしだらな関係」)にも出演したことのある自主映画界のヌード・クイーン 宮川ひろみ。もちろん本作でも全裸の濡れ場あり。 「映画秘宝」編集部の田野辺尚人が「悪魔のホームレス」役で出演。

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ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還(ピーター・ジャクソン)

アカデミー賞の最優秀作品賞は本作に与えられるべきだと思う(追記:最優秀作品賞を含むノミネートされた11部門すべてで見事にオスカーを獲得した。まことにしかるべき結果である) 「ロード・オブ・ザ・リング」三部作は「イントレランス」や「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」といったクラシックと同列に語られるべきエピック・ロマンの傑作で、少なくとも1980年代以降、その資格があるのはこの三部作だけだと、おれは思う。ルーカスの「スター・ウォーズ」新・旧三部作などは、まったくそのレベルに達していない。「王の帰還」はすべての映画ファン必見の3時間23分である。 ● さて、以上のことを前提で言うのだが──圧巻の長尺版を観たばかりということもあって──おれには「二つの塔」のほうが面白かった。ゴラムのキャラは前作のほうが複雑で面白かったし、戦闘場面も前作のほうがよく出来ていたと思う。今度のはなんか戦争ばっかしで変化に乏しく、しかも、おいおいそんな助っ人アリかよ!?…みたいな勝ち方だし。それでも他の作品のレベルと較べれば十二分に星5つ分の面白さだとは思うんだが、おれは途中であることに違和感を感じて以来、すぅ〜っと醒めてしまったのだ。あのさあ…、なんでアフリカ人やバイキングやモンゴリアン(…に似てる人たち)は悪の味方なわけ? 辺境の蛮人は「西方の人間」の仲間じゃないってこと? エルフやドワーフや森の樹とは仲良くできても、おれらとは組めないってこと? 極東の辺境に住む者としちゃあ、あんまり面白くねえなあ。 なに? 架空の世界のお話に政治の話を持ち込むなって? いや政治の話をしてんじゃねえよ。物語の作り方の話だよ。だってこれだけ団結と勇気を謳った映画なんだぜ。自分たちと同じ人種は○○たちまで説得して仲間に引きずり込んでるってのに、アフリカ人やバイキングやモンゴリアン(…に見える人たち)は、それが異文化の民だというだけで説得のための特使すら派遣せず「悪の同盟国」と決めつけて皆殺しにすんのかよ。そーゆーのは二枚舌というのだ。よって星2つ減。 ● 以下はネタバレ気味につき、観てない人は読まないよーに。──原作のファンならば延々と続くエピローグも涙が途切れないんだろうけど、おれはちょっと退屈してしまった。原作がどうであれ映画的にはタイトルどおり〈王の帰還〉の場面で終わらせて、残りはDVDの長尺版に入れるべきだろう。その分、クリストファー・リーとブラッド・ダリフのシーンを残してほしかったよ。また同様に原作がどうであれ映画的にはアラゴルン王はエオウィン女王と結ばれるべき。アルウェン(リヴ・タイラー)には途中で永眠してもらってさ。さすればめでたく人間国も統一されるではないか。あと、どーでもいいけど戴冠式でリヴ・タイラーが出てきた瞬間に「レンズが違う!」と思ったのはおれだけ?(だってシネスコの映画をアナモ・レンズ無しで映しちゃったみたいに顔がタテ長なんだもん) あと原作を読んだ人に質問だけど、なんでドワーフ族はギムリしか出てこないの?(1作目で一族皆殺しにされてギムリが最後の1人とかってわけじゃないよね?) [追記1]ドワーフ族の件は早速にBBSにてご教示いただいたので転載する>[ギムリの故郷の「はなれ山」のドワーフ達は、そこでモルドールの別動隊と戦っていて手いっぱいというのが原作設定です ]とのこと。なるほどそれなら納得。でもそれだったら、せっかくだからクライマックスの戦闘シーンのカットバックでドワーフ族の戦いもちょろっと入れてほしかったなあ。<アンタその「ちょろっと」が幾らかかると思ってんですか! ● [追記2]あと「なんでアフリカ人やバイキングやモンゴリアン(…に似てる人たち)は悪の味方なわけ?」という おれの不満に関してもBBSでツッコミが入ったので、もう少し補足しておく。 そこの件りはたとえば「巨象に乗った人たちや船を漕いでいる人たち」と読み替えてもらっても一向に構わんのだ。おれの言いたいのは「見た目が完全に人間である」という点だ。死鬼たちには理屈が通じないから殺すしかない…というのは解かる。だけど辺境の民もまた人間なんだよ(なんでしょ?) ローハン国とゴンドール国の反目と和解/協調が大きなモチーフとなっている物語において、そして巨悪ひとりを倒せばすべての悪が滅びるという設定となっている物語において、かたや自分の隣国に対しては「誤解を解いて仲良くしましょう/一緒に戦いましょう」で、辺境の国に対しては「おまーら悪に味方したから皆殺し」ってのはあまりに乱暴すぎやしませんか?ってこと。だって現に「二つの塔」では悪に取り憑かれたローハン王をその場で殺したりはしなかったじゃないの? どこが違うわけ? ローハン王は〈旧知の仲〉だから? 「王の帰還」においても〈とうてい分かり合えない勢力〉を説得して仲間にしてるじゃないの。それなのに賢者であるべきガンダルフ老までが「戦え!戦え!」って、まるでキルゴア中佐のようになってしまってるし。せめて辺境の国にも特使を派遣して、その特使が無残に殺される(=結局は分かり合えなかった)ぐらいの「手続き」ってもんが必要なんじゃないの? これって物語の根幹テーマにかかわる問題だと思うけどなあ。 ● [追記3]後日、吹替版で再見しつつ思ったんだけど、アラゴルンの「エルフの鍛えし王の剣」は主たる威力が「見せびらかす」だけってのがちょっと…。せめて巨象の足をスパッと切断するとかしてほしかった。アラゴルンの声をアテてる大塚芳忠は意外と演説台詞が巧くないね。声優専門で新劇系の人じゃないのかな? 舞台でシェイクスピアとかやってると、こういうときに活きて来るんだけど。 あと、ロジャー・コーマンは、いまやホビット村の名士となったサムを主演にした続篇「新ロード・オブ・ザ・リング アマゾネス王国の秘密」を企画中…に100レンバス。ショーン・アスティンのギャラならニュー・ホライズン社でも払えるでしょ。なんならお供にメリーとピピンも付けようか。いちいちCGで身長を縮めてる金と暇はないので、サムに事件解決の依頼に来た妙齢の美女は「生命の水」を持参で、それを飲んだサムは開巻5分でムクムクと背が伸びる。こうして人間の身長と同じになったサムはカリフォルニアの山の中のようにも見える〈魔法の森〉やラスベガスからクルマで10分のようにも見える〈死の砂漠〉を越えて勇躍、ビキニ姿のプレイメイトや薄物をまとったペントハウス・ペットがうじゃうじゃいるアマゾネス王国へと乗り込むのだ!<それは「デス・ストーカー」シリーズとどう違うのか?というツッコミは禁止な。

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e i k o エイコ(加門幾生)[ビデオ上映]

パナソニックのHDビデオカメラ「バリカム」で撮影されたビデオ作品。テアトル池袋のDLPプロジェクターで観るかぎり画質は上々。ただし、もちろんフィルムのルックではなく、なにかデッカいテレビを観ている感じ。 ● これが劇場作品デビューとなる加門幾生は(もともとは東映セントラルの出身だそうだが)もっぱら「いいひと」「HERO」「恋愛詐欺師」といったテレビドラマの演出をしていた人。主演は麻生久美子で、内容は意志薄弱女の受難ドラマ(「コメディ」と書きたいところだが、監督はあくまで視聴者の共感を呼ぶ等身大ドラマとして演出している) ヒロインのエイコは極端に人に説得されやすい性格の23歳。駅前を歩けば、たちまちテッィシュやら試供品をひと抱えも受け取ってしまうし、今日も今日とて手相見を装ったキャッチセールスに96万円の運が向いてくる指輪を買わされる始末。だけど彼女の幸せなところは、あまりそれを不幸せと自覚してないところで、運が向いてくる指輪に「早く借金を返せますよーに」と祈ったり(←字で読むとまるきりバカだが、あくまで監督は彼女を視聴者の共感を呼ぶ等身大ヒロインとして演出している) さて、そんなエイコだが、勤め先の社長に給料3ヶ月分未払いのままトンズラされ、やくざの取り立て屋に玄関前に張りつかれては、さすがに絶体絶命。あてどなく街を彷徨ううちに、ふとしたきっかけで、彼女をカヨという親族(?)と勘違いしてるらしいボケ老人のマンションに同居することになる…。 ● 物語のもう1人の主役であるボケ老人に扮するのは沢田研二、…って、いくら老け造りをしたってジュリーはまだ「ボケ老人」には見えんだろー。老人というには「男」が香りすぎるのだ。23歳の女性が安心して同居する対象にはとても見えない。これには後半、ある種の説明が付くのだが、それも含めてやはり本作最大の弱点になっている。なんというか登場人物が全員とっても優しいんだよね。べつに深刻なことを深刻に描くのが偉いとは思わんし、それどころか、おれはどちらかというと深刻ぶらずにソフィスティケートして描くスタイルのほうが好みだが、本作は場合は「ソフィスティケート」ではなく、人間を突っ込んで描くことから逃げてるだけだと思う。だれも(登場人物も視聴者も)本当には傷つかない微温的世界。最後まで飽きはしないけど、心に留まることもない。まあ、それがテレビ的であるってことなんだろう。絶え間なく鳴り続けるBGMも「音が途切れるのが不安で仕方がない」というテレビ屋さんの性なんでしょうな。まあ、でも、麻生久美子が出ずっぱりなので星3つ。<そんなもんでいいのかよ! ● 調査の過程で彼女に惚れちゃう「生真面目な探偵」に劇団「大人計画」の阿部サダヲ。めずらしく健気な二枚目を演じていて微笑ましい。あとジュリーは、みたらし団子にコーヒーなどとゆー、ムチャクチャな喰い合わせはやめるよーに。 なお、これから本作を観る予定の人はくれぐれもチラシの文章を読まれぬよう。後半のストーリーの肝となるネタを完全に割ってしまってるのだ。おまーら、なんでそんなにバカなんだ!?>東京テアトル@配給元。しかもヒロインを「アメリのような女の子」とか、無理やりにコジツケて売ろうとしてるし…。

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完全なる飼育 女理髪師の恋(小林政広)

[DVD観賞] 前に[たぶんこの後も「新・完全なる飼育」とか「最後の完全なる飼育」とか「帰ってきた完全なる飼育」とか「完全なる飼育 in L.A.」とか続々と…]と書いたらほんとに「完全なる飼育 香港情夜」が出来ちゃったし、今度は[なにも水谷俊之なんぞを使わなくともピンク映画界には現役の有能な人材がわんさと居るんだから]と書いたら、サトウトシキ作品の脚本家として有名な小林政広にお鉢が回ってきた。いやあ、自分の洞察力の深さがコワいよ、おれは。 ● 製作は2・3・4作目を手掛けたアートポートから、1作目のセディック・インターナショナルに戻って──こーゆーのって「映画化権」は誰が持ってるんだろうね?──意外にもお堅い東宝ビデオからビデオ/DVD発売。そう、今回なぜか劇場公開されずビデオスルーになってしまったのだ。過去の小林政広の監督作品のなかで一番の出来なのに。いまや貴重なフィルム撮りなのに! いや、もともと「劇場公開」と言ったって目的はビデオの前宣伝で、主演女優のヌード場面をおやじ系週刊誌に載せるための口実でしかないことは おれだって承知してるさ。おおかた今回は「劇場公開するための経費」が「それによって見込まれる広告効果」に見合わないという東宝ビデオの堅実な経営判断の結果なんだろうけど、でもさあ「せっかく作ったんだから小さいとこでもいいから映画館でかけたいよね」という作り手の気持ちも少しは汲んでやれよ(せっかくフィルム撮りなのに!) まったく、これだから東宝の連中は…(以下略) ● いちおう「原案:松田美智子」というクレジットは残っているが、はたして「完全なる飼育」シリーズ第5作…と呼んでいいものか。いや画面上のタイトルが「LA COIFFEUSE」(=女理髪師)としか出ないのは小林政広のヌーベルバーグかぶれ=コンプレックスの表れだとしても、本シリーズの「1.女子高生2.誘拐して飼育する話で、どっかに3.竹中直人が出てる」というシバリのうち、確実にクリアしてるのは3だけで、なにしろ本作で誘拐されるのは女子高生ではなく、人妻の荻野目慶子なんである(火暴) ● 「殺し」「歩く、人」に続いて今回も舞台は北海道。室蘭と登別の間にある、白老(しらおい)という海岸線の小さな町。(「三文役者」でも愛人夫婦だった)竹中直人から2年前にプロポーズされ、札幌の美容室を辞めてこの寂れた町で床屋を始めたものの、竹中がたちまち髪結の亭主となりパチンコ三昧の毎日。店の売上げはおろか、女房の貯金まで食いつぶす始末。このままこのなんにもない町で静かに朽ちていくんだろうか…と思いかけたとき──若い男が彼女を誘拐する。誘拐したのは北村一輝(「皆月」でも禁断の関係だった) かれは荻野目慶子を秘かにずっと見つめていたのだが、突如として自分の前から消えた彼女をこの2年間ずっと探し回っていたのだった。…って、いや、もうそれは「飼育」じゃないだろ。たとえ始まりが「誘拐」でも、それはもう、大人同士の恋だ。だからダメ亭主の竹中直人だって「誘拐された」とは思わず「愛想を尽かして出て行った」とうなだれるしかないのだ。シリーズとしては番外篇だが、ロマンポルノの傑作としてお勧めする。りりィがギター1本で唄う挿入歌3曲が絶品。 ● 荻野目慶子は苦労が顔に出てるというか、今回、ほんとは北村一輝が一目惚れしたという設定なのに(役柄上ほとんどすっぴんに近いメイクのせいもあって)そのルックスは女優としてどーなのよ!?という外見の荒廃ぶりが痛々しいが、喋ると途端に「女優」以外の何者でもなくなるのが凄い。誘拐されたってのにまたたく間に男を支配下に置いて、男の人生を破滅させる。もう、ヤッちゃったら負けって感じ? まるで荻野目慶子のドキュメンタリーを観てるかのよう。もちろん脱ぎ惜しみは一切なし。 ● 撮影は高間賢治。監督がヌーベルバーグかぶれなので、定点カメラの長まわしが多用され、360度パンが2回も使われたりする。定点カメラのポジションがちょっと不思議で、ちょうど部屋の隅の袋戸棚から見てるような位置。つまり登場人物たちを少し見下ろすような角度になる。そのせいもあって人物の頭上に妙に空間が開いてしまって、なにかフレーミング・ミスのようで観ていて落ち着かなかった。これ、スクイーズ収録で、本来ビスタサイズ(1.85:1)の映画だと換算して「16:8.65」だから天地にわずかに黒帯が出るのが正常なのだが、本作の場合、16:9のワイドテレビにピタリと収まるサイズに調整されていて、てことは正しいフレーミングより気持ち天地を広げてるのかな? ※ちなみにヨーロピアン・ビスタ(1.66:1)ならば換算すると「14.94:9」になるので左右に黒帯が出る。

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飼育の部屋 終のすみか(横井健司)

[DVD観賞] 「完全なる飼育」のパクリ 類似企画である「飼育の部屋」にもパート2が製作された。こちらはビデオ撮り(シネマ下北沢でビデオ公開された) 「拉致監禁もの」というのはセット一杯にほぼキャスト2人だけで作れるし、無理なくエロを入れられるのでVシネマとしては格好の素材なんでしょうな。 ● 前作の監督・脚本 キム・テグワンが今回も脚本を執筆。監督は「鳴かない蝉」「行動隊長伝 血盟」(レビュウ書かなきゃなあ…)日本映画界期待の新鋭=横井健司。撮影はピンク映画のベテラン・カメラマン/ディレクター、下元哲。犯人役は前作に引き続いて小沢和義。ターゲットとなるのは小池栄子を小ぶりにしたみたいな新人・みゆ(安居美有)、撮影時23歳。 ● 男は伊豆急沿線の小さな駅の清掃員。ホームの外れにある詰所で寝起きして、毎日毎日、利用客が吐き捨てたガムを金属のヘラでこそぎ落とすのが仕事。かれは清掃員の制服を着ることによって世の中から見えない存在となる。 彼女は23歳のOL一年生。社会人になって直面したストレスと孤独。彼女は「世の中の誰も わたしのことを観ていない」と感じている──そう、そこの制服を着て帚とブリキのちり取りを持った見えない男のほかには誰も。 ● こちらは誘拐までが5分以内、犯人とヒロインの心理ドラマをメインに進行して、濡れ場は1時間してから…と教科書どおりの展開。ヒロインも脱ぎ惜しみなくスタンダードなVシネマである。終盤に遠藤憲一が乱入して世界に破綻をもたらすのは前作と一緒。まあまあ手堅い出来だが、ドラマとして最低、ヒロインを監禁する「ホームの外れの詰所」の外景(=日常のすぐ隣に非日常の空間がある)は見せておくべきだった。 ● じつは本作には、こうしたシリーズものの続篇としては驚くべき展開が用意されていてある意味ネタバレになるので黒文字にするが、なんと[小沢和義は前作の犯人と同一人物]なのである(!) つまり[前作の拉致監禁で逮捕されて、6年間服役して出所して、また別の女を拉致監禁]しちゃったのである。きっと[小沢和義はそういう形でしか愛情を表現できない不器用な男なんですね<おい。本作は小沢和義 主導の企画らしいので、まだまだこの後も「男はつらいよ」のように続くんだろうか? フラっと現れては女の子を拉致監禁して幸せにして去っていく〈さすらいのストーカー天使〉OZAWA(兄)]<んなムチャな!

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ヘブン・アンド・アース 天地英雄(フー・ピン)

「双旗鎮刀客」「哀戀花火」のフー・ピン(何平)の新作はソニー・ピクチャーズ(アジア)と西安撮影所ほかの合作。出演は中国のトップ俳優 チアン・ウェン(姜文)に、超人気女優 ヴィッキー・チャオ(趙薇)、それに日本から中井貴一。撮影は近年、ウディ・アレン作品も手掛ける中国のチャオ・フェイ(趙非)、音楽がインド映画界の巨人 A.R.ラフマーン、そしてポスト・プロダクションはオーストラリアという国際的布陣の超大作である。118分。 ● 「双旗鎮刀客」を西部劇として演出したフー・ピンだけあって、本作もまたシルクロードを舞台にしたチャイニーズ・ウエスタンになっている。サブ・ジャンルはキャラバンもの。カウボーイが育てた牛の群れを市場へと運ぶアレですね。ただ、運ぶのは牛の群れではなく(天竺から唐の皇帝に献上される仏教経典を載せた)ラクダのキャラバンで、襲ってくるのはインディアンではなく西方民族の馬賊。で、クライマックスはお約束のアラモの砦になる。御丁寧にもチアン・ウェン率いる護衛のカウボーイは7人で、中にはじじいやガキもいたり。中井貴一は朝廷からの刺客で、自らの手でチアン・ウェンを殺すために護衛に加わる。「おれの獲物だ。他のやつらに殺させるわけにゃいかねえ!」って論理ですな。つまりニヒルな黒ガンマンの役なのである。ところがこのキャラクターが日本のお母さんに手紙を書いたり、初めから「立派な良いひと」に設定されてしまっているので、主役が「良いひと2人」になってしまって面白くもなんともない。黒ガンマンのほうは観客の同情を惹く「動機」とか「設定」はギリギリまで伏せとくってのが定石でしょうに。 ヴィッキー・チャオに与えられた役割は、足手まといの上流階級のお嬢さま。本来そうであるべきほどには足手まといでもギャーギャー騒ぐわけでもなく、主人公とのロマンスも有るんだか無いんだかワカんないよーな程度で、はっきり言ってドラマ上は何のために居るんだか解からんキャラなのだが、西部劇の定番=ドラム缶風呂の入浴シーンがあるので良しとする。 ● また、キャラクター造形以前の問題として、フー・ピンには大作をハンドリングするだけの「統率力」も「構成力」も無いことが開巻早々に露呈する。起承転結の「起」をトバしていきなり「承」から始まるので物語に入っていくのがひと苦労だし、ドラマはシーンごとにブツブツと分断されエモーションの流れがスムーズに繋がらない。監督はモンゴル族の出身というだけあって騎馬アクションや砂漠を使ったスケール感ある画作りには見るべき点もあるが、アクション演出に西部劇独特の「間」がないのでクゥ〜とシビレる瞬間が無い。物語の結末も結局のところ「仏さまの御加護は漢人にのみ与えられる」というお話だったりするしなあ。 ● 本作はいつものごとく蒙昧な東宝の編成室によって「ニュー東宝シネマ」チェーンにブッキングされていて、いや、客が入りそうもないのはわかるけど「映画に適したスクリーン・サイズ」というものがあるではないの。たとえストーリーはなくともスケールだけはある本作のような映画を(貧弱な映写環境の)ニュー東宝シネマにブッキングするというのは「どうぞ他社のシネコンで観てください」と言ってるようなものではないか。有楽町がニュー東宝だと歌舞伎町もたぶん(学校の体育館みたいな)新宿オスカーだし、六本木?と思ったら六本木じゃやってねえし、仕方なくわざわざワーナーマイカルシネマズ板橋まで遠征したんだけど、そこでもやっぱり小さいスクリーンでしかやってなくてガッカリ。こーゆー映画には物理的なスクリーン・サイズが必要なんだってば!

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フルタイム・キラー(ジョニー・トー&ワイ・カーファイ)

超弩級のバカ映画。チャウ・シンチーの映画みたいにバカ映画にしようと思ってバカ映画になったのではなく、当人たちは至ってマジメに取り組んだにもかかわらず、バカ映画の神さまに魅入られたようにあれよあれよバカ映画になってしまったタイプのバカ映画である。 ● アンディ・ラウと日本の反町隆史が同格主演。日本側プロダクションの主導による合作映画ではなく(日本製テレビドラマの海賊版VCDの爆発的普及によって)反町隆史が香港でも十二分にスター・パワーを持ちえると判断した香港から招かれての出演。正真正銘100%の香港映画である(だからもちろんゲロも吐く) 製作&監督は香港映画のNo.1 マネーメイキング・チームのジョニー・トー(杜[王其]峰)&ワイ・カーファイ(韋家輝) 香港では2001年の夏休みに娯楽超大作として大々的に宣伝&公開された・・・のだが。 ● すべては反町隆史が英語を喋れなかったことに起因している。当初の予定では当然 広東語映画で、反町隆史のシーンのみ英語をまじえる予定だったのだが、反町の英語がとても使用に堪えるレベルではなかったがために(そして後述の理由により吹替え声優を使用できない事情があったので)しかたなく香港映画のトップ・スターたるアンディ・ラウのほうが自国で主演する映画で外国語=日本語を喋るという珍妙な事態になった。アンディだけでなく反町とからむ相手は全員が日本語を喋らされる。結果として全台詞の7割近くが日本語という不思議な香港映画になった。なんかもう作ってるほうも途中でワケわかんなくなっちゃったみたいで(劇中では中国人という設定の)香港人アンディ・ラウが、黒縁メガネのヒロイン=台湾人のケリー・リン(林煕蕾)を「きみを好きになったのはマンガ「傷追い人」の主人公の女に似てるからさ」なんて日本語で口説くという倒錯的なシーンまであったりする。笑っちゃうのは反町隆史よりケリー・リンの日本語のほうが明晰で巧いってこと。どないなっとんねん!? ● 漢字タイトルは「全職殺手」。話としては「新人の殺し屋が、殺し屋ナンバーワンの座を狙う」という「殺しの烙印」や「暗殺者」のパターン。反町隆史が、仕事で人を撃ち殺すときも片手はポケットに突っ込んだまま…というクールでスタイリッシュでナルシスティックな「殺し屋ナンバーワン」を演じる。 アンディ・ラウは野望ギラギラのハッチャケた新人殺し屋。こいつは「トゥルー・ロマンス」のクリスチャン・スレイターみたいなB級アクション映画マニアという設定で劇中やたらと色んな映画の設定/シーンをパク 引用する。 ヒロインのケリー・リンは、反町のアパートメントの通いの掃除婦。ナンバーワンの命をねらって接近してきたアンディと三角関係になる。 2人の殺し屋を追うインターポールの辣腕捜査官にサイモン・ヤム。こいつは突如として終盤から物語の主観的人物となり「2人の殺し屋の対決の顛末」を書き残す信用できない語り手となる。そういう展開ならば本来は(ハードボイルド探偵映画によくあるように)サイモン・ヤムのナレーションから始めて「回想」に入らないといかんのだが、きっと編集でカットしちゃったんでしょうな(イーカゲンな…) ● そう。イーカゲンなのである。当初は明らかに、ジョニー・トーが「ロンゲストナイト 暗花」「ヒーロー・ネバー・ダイ 眞心英雄」「暗戦 デッドエンド」で試みて成功した「2人の男が真っ向から激突する暗黒路線」のパターンを適用しようとしたと思われるが、いざ現場に入ってみると反町隆史の貧弱な語学力とそれ以上に貧弱な演技力の前に目算はボロボロと崩れ落ちてしまった。手当てしようにも、いざアンディ・ラウと反町隆史が並ぶとあまりに格が違いすぎて「対決もの」が成立しないのだ。となればそこは香港人、ダメとわかればサッと切り替えて「昔のジョニー・トー」モードで時間/予算内に仕上げることにしたわけだ。なにしろ2001年のジョニー・トーは年に4本も映画を公開して、その合間には「PTU」をちびちびと撮り進めているような状況である。日本のお坊っちゃんのオナニーに付き合ってる暇などないのだ。これ、最初っから日本人を呼ぼうなんて考えずに、素直にアンディ・ラウを「殺し屋ナンバーワン」にして、「新人殺し屋」はアーロン・クォクかルイス・クー(古天楽)あたりで広東語で撮っとけば(このままの脚本でも)そこそこの傑作になったろうにねえ。 ● いちばんスゴイのは、本作は最初から(アメリカの)アカデミー賞の外国語映画部門をターゲットとして製作されたため(アカデミー賞の規定により台詞の吹替えは認められないので)俳優本人が日本語の台詞を喋ることになったわけだが、なんとこの出来で(香港映画人協会だかなんだかの選考を通って)香港映画代表としてエントリーされてしまったってこと。いや、もちろん最終ノミネートの5本には残らなかったんだが、それって日本映画代表として「北京原人」を出品するよーなもんだぞ>香港映画界。 [追記]BBSで、それならなぜ「英雄 HERO」はOKだったのか?という指摘があり、また、そもそもケリー・リンの日本語台詞は「声のよく似た香港在住の日本人」による吹替えだそうなので、アカデミー賞規定云々の話は間違いだったようだ。ごめんなさい。いちおう言い訳として「映画秘宝」3月号よりアンディ・ラウ本人の発言を引いておく>[じつは「フルタイム〜」はアカデミー外国(語映画)賞候補作に照準を合わせて制作されたんだ。その選考基準として、セリフの吹替はNGというものがあった。劇中(アンディの演じる)トクと反町隆史が演じたもうひとりの殺し屋・O(オー)とのコミュニケーションが重要なポイントになるが、Oが広東語も英語も喋らない設定になった。そこで、僕があれだけ日本語を喋る設定になったんだ。その結果、香港代表には選ばれたけどね……(笑)

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ツインズ・エフェクト(ダンテ・ラム)

香港で2003年に大ヒットした最新作。「そらアンタやっぱ香港映画はバカやってナンボでっしゃろ!」という固い信念に基づいて製作された映画・・・では無く、フツーに香港人に作らせるとこーなっちゃうのである多分。徹底した現場主義(いきあたりばったり)につらぬかれ、三池崇史的ムダCGとチャウ・シンチー流バカ・アクションに彩られたゴッタ煮 SFX活劇。監督は「重装警察」のダンテ・ラム(林超賢) ドニー・イェンがアクション監督を務めているが(おそらくはドニー自身の強い要望により)武術指導ではなく聯合導演とクレジットされている。アクション指導には日本の谷垣健治も参加。 ● 「ツインズ・エフェクト」というのは原題の英語タイトルそのままだが、これは(香港ゲーノーカイを席巻するアイドル・デュオ)ツインズが主演するスペシャル・エフェクト・ムービーという以上の意味はない。「モーニング刑事。」とか「ミニモニ。じゃムービー」みたいなもんですな。アイドルに激しいアクションをさせるというコンセプトは「あずみ」と一緒だが、どちらかといえば女優色の強い上戸彩と違って、ツインズの2人は お芝居もすれば歌も唄うけど、基本的にはテレビやCMや雑誌でニッコリ笑うのがお仕事という、カワイカワイ路線の純然たるアイドルで、日本でいえば松浦亜弥のセンにいちばん近いか。香港のゲーノーカイで こういうカワイイ系の女性アイドルが人気を得るのって、1980年代のファニー・ユン(袁潔瑩)+メイ・ロー(羅美薇)+チャーリン・チャン(陳嘉玲)の開心少女組や、「香港の薬師丸ひろ子」改め「香港の小沢なつき」ことロレッタ・リー以来じゃないかと思うんだが──グロリア・イップ人気って日本だけだよね?──それぐらい久しぶりに出現した大型アイドルなのである。…ま、もっともおれはこの2人、そんなに可愛いとは思えなくて、やや面長の大人っぽいジリアン・チョン(鍾欣桐)のほうはまだしも、まんまるタヌキ顔のシャーリーン・チョイ(蔡卓妍)は犬山イヌコがブリッコしてるよーにしか見えないんだけど(火暴) タヌキ娘の名台詞>「わたしがヤカマシイから棄てるのね! でも香港の女の子はみんなそうよ!!」 ● 漢字原題は「千機變」 話としてはヴァンパイア・ハンターものである。欧州のドラキュラ王家でクーデターが勃発。香港に逃れてきた第五王子(エディソン・チャン)を追って、革命派の白人ヴァンパイアたちが大挙して香港にやって来る。反吸血鬼同盟の凄腕ヴァンパイア・ハンター(イーキン・チェン)は、恋人でもあったパートナー(ジョシー・ホー 何超儀)を失いながらも、新たにコンビを組んだ新人ハンター(ジリアン・チョン)と立ち向かう。だがイーキンのじゃじゃ馬な妹(シャーリーン・チョイ)が互いにそれと知らず第五王子とラブラブになってしまって…。 ● 香港にやってきた吸血鬼とカンフーで対決するというストーリーは言うまでもなくハマー・プロ+ショウ・ブラザーズ 1973年の珍作「ドラゴンvs7人の吸血鬼」のリメイク・・・では無く、米FOXテレビのサラ・ミシェル・ゲラー「バフィー 恋する十字架」(DVD題は「吸血キラー 聖少女バフィー」←同じFOXなのになんでタイトル違うんだよ!)が頭にあるんでしょうな。 アンソニー・ウォンが(人間との共存を望んでボトル詰めの血液以外 飲もうとしない)世間知らずの王子に振りまわされる「忠実な執事」に扮して笑いを取る。人間の女性にひと目惚れしたと告白する王子に「殿下は食い物と恋がしたいので? 魚の切り身に惚れる人間はおりませんぞ」 だけどほんとはこの役はロー・ガーウィン(羅家英)あたりにまかせて、アンソニー・ウォンにはクーデター首謀者の「凶悪な吸血鬼」を演ってほしかったなあ。 ジャッキー・チェン大哥とカレン・モク姐さんが賑やかしの特別出演。ジャッキーが出てくるとそこだけジャッキー映画になってしまうのが可笑しい。 ● ツインズの2人は劇中では(かたや憧れのカレ、かたや大好きなお兄ちゃんである)イーキン・チェンを取り合っていがみあうが、最後にはもちろん力を合わせてヴァンパイアを倒す。で、そこに至るための「悲劇的な動機付け」が用意されるんだけど、えーと、その「悲劇」は元はといえばタヌキ娘の粗忽が原因なのでわ?


気まぐれな唇(ホン・サンス)

あー、やっぱダメだ。この監督とは合わないわ。2000年の東京国際映画祭で「オー!スジョン」を観て全然ダメだったものの、もう一度ぐらい…と思ってチャレンジしたけど、やっぱ死ぬほど退屈だった。敢えて例えるならフランスの私小説的恋愛映画に似てるか。おフランスの皆さんみたいに哲学的な言葉で痴話喧嘩をしたりするわけじゃないんだが、役を降ろされてフラリと旅に出た売れない俳優が旅先で女とヤッて惚れられて逃げ出して今度は別の女に惚れてヤッちゃってしつこく付けまとって…という、女にモテるダメ男の心底どーでもいいエピソードがとりとめもなく綴られる。こうして文章にすると神代辰巳の映画に似てる感じがするけど、ホン・サンスの映画では「1.ギョンス、スンウから電話をもらう」といった風に章立てされて、「ただ歩いたり」とか「どーでもいいお喋り」をただ撮ってたりとか、ドラマ的に何の意味もないし、構図/アクション的に面白いわけでもない描写がだらだらと続くのみ。原題は「生活の発見」。主人公をはぐらかす2人目の女が可愛いので(「接続」「ソウル・ガーディアンズ 退魔録」のチュ・サンミ 秋相微)、彼女のヌード見たさに最後まで観てしまったのは内緒だ。

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解夏(磯村一路)

まるで「昔の日本映画」を観てるようだった。いやいや、今度は褒め言葉だ。美しき街の美しい日本人を描いた映画。自分の苦しみよりも、自分の苦しみを思い遣ってくれる相手の心を第一に考える。そんな、失われつつある日本人の美徳についての映画なのである。だからそうした「時代遅れの美徳」を最初から持ち合わせぬ新しい日本人やガイジンにはきっと、このメソメソした映画のどこが良いんだかサッパリ理解できないことだろう。だが──富司純子が出てるからというわけではないが──かつてマキノ雅弘の映画を観て涙したような皆さんには、一見の価値ありとお勧めしておく。 ● 同じ さだまさし の小説を原作としながらも──そして同じく さだまさし の歌がエンドロールに流れるというハンデを背負いながら──本作と「精霊流し」は明暗を分けた。その最大の要因は、感動的になりそうなエピソードをテンコ盛りにした「精霊流し」の脚色家チームに対して、原作をみずから脚本に起こした磯村一路の禁欲的とも言える「何も無さ」にある。小学校の先生が原因不明の奇病に罹り、あと数ヶ月で失明する運命を宣告される。かれは職を辞して故郷の長崎へと帰り、両の眼が光を失う前に少しでも多くの「故郷の風景」と「故郷の人たちの顔」を瞼に焼き付けておこうと考える。この映画が描くのは本当にそれだけである。主人公の周りには かれを思い遣る母や恋人や幼なじみがいるが、カメラはそうした脇の人物の事情にはいっさい踏み込まない。すべては主人公との関係を通して描かれるのみ。ふつうの脚本家ならば、それだけでは1本の長篇映画のネタとしては薄すぎると考えるだろう。それで「精霊流し」の脚本家チームのようにサイドストーリーを厚くしようと試みる。だが磯村一路は確信をもって何も足さない。ただひたすらに大沢たかおが演じる主人公の気持ちに寄り添って、かれの怖れと覚悟を、口惜しさと幸せを、ゆっくりと描いていく。主人公とヒロインが、タイトルとなった「解夏」という言葉の由来を聞くシーンなど、名優・松村達雄が「それじゃ年寄りの話を聞いてもらいますかな」と言うので、さあこれから説明が始まるぞと思ってると「その前にお茶を淹れ替えましょう」とか言って中座しちゃうのだ。おいおい。 ● 長崎ロケについて。本作と「精霊流し」は、どちらも長崎県/長崎市の全面協力を得て、長崎ロケを行っている。どちらかといえば観光名所は「精霊流し」のほうにより多く登場するし、「解夏」で印象に残るのは坂道と寺ばかりなのだが、この街へ行ってみたいと思わせるのは、じつは「解夏」のほうだ。こういう人たちの住む街ならば行ってみたいと思わせるのである。ちなみに「解夏」には「方言指導」が6人もクレジットされている。 ● 主役の大沢たかおは、このところ濃いい役が続いたが、本作では一転して、動揺をほとんど表に出さない難しい役を好演。 石田ゆり子は意外にもこれが映画初主演。この役柄は(主人公にも観客にも)ワザとらしいと感じさせない愛情を表現するのが至難の役どころだが、見事にクリア。 磯村一路といえばピンク映画でさんざ男の女のドロドロした愛情を描いてきた人だが、本作は「昔の日本映画」なので恋人同士の2人のセックスは意図的に無視される。まあ、それはいい。だけどやっぱ、石田ゆり子が夜中にこっそり大沢たかおの部屋に入ってきて「ん、なに?」「…私の躯を見て。見えなくなる前にあなたの目に焼き付けて」と言って、白いワンピースを肩から落とすとその下は全裸…というシーンは絶対に必要だよな。石田ゆり子の本作への献身ぶりからすれば躊躇なく演ってくれたはずなのに、勿体ないことを。脱がせられるときに脱がしとく。これが基本でしょ。え、しつこいですか?そうですか。 ● 背筋のしゃきっと伸びた「お母さん」役の富司純子が素晴らしい。出番最後の、若い2人を見送る、その後ろ姿に「女優」を見た。 先輩患者役の柄本明と幼なじみ役の田辺誠一も好演。田辺誠一と大沢たかおが釣りをしてるシーンで乗ってるボートに「詩島」って書いてあるんだけど、それってさだまさしの所有する島の名前だよね? てことは背景の緑豊かな島が詩島? あと、こまかいツッコミをひとつ入れると、その遊びは「鬼ごっこ」じゃなくて「隠れんぼ」だ。 ● 最後に、本作に対する おれの唯一最大の不満は(それほど「画」で見せる意味のない)モンゴル・ロケに行く金があるんだったら、それよりも(エンドロール後半部分のバックグラウンド映像として)ぜひとも「長崎に修学旅行に来た元・教え児たちと、白い杖をついた主人公の笑顔の再会シーン」を撮ってほしかったということ。そうした場面があればもっと気分よく映画館を出られたのに。

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ふくろう(新藤兼人)

「三文役者」から3年ぶりの新藤兼人 最新作。撮影時なんと90歳にして〈枯淡の境地〉どころか本職の脚本のみならず美術&衣裳デザインに劇中歌の作詞までこなしてしまったアナーキーでエネルギッシュなブラック・コメディの快作。大竹しのぶの主演を想定して書かれたオリジナル脚本であるが、見た目はまるで舞台劇。(おもに予算の制約から)使用されるのは「山村の廃屋」という設定のセット1つだけ。正面に囲炉裏のある板の間。手前に土間。カメラ位置が台所。下手に玄関。奥の引戸の向こうは寝室らしい。すべてのドラマはこのセットの中で進行し、カメラは(セット内を縦横無尽に動きまわるものの)一切、外には出ない。そして、大竹しのぶと伊藤歩の母娘が住むこの廃屋へ──まるで甘い香りに誘われてうつぼかずらの食虫袋に落ちる愚かな蝿のように──木場勝己・六平直政・柄本明・魁三太郎・田口トモロヲ・原田大二郎といった芸達者たちが次から次へと迷い込んでは母娘に言葉巧みにもてなされ、奥の一間で束の間の極楽を味わったあと、特製の毒草焼酎を馳走になって(文字どおり)泡を吹いて死んでいく──。 ● さて、それだけならば殺人ブラック・コメディなのだが、新藤兼人の本意はそこにはない。おれは以前に「三文役者」のレビュウで新藤兼人&乙羽信子の映画の印象を「悪代官のいじめに黙々と堪えている水呑み百姓の映画」と評したが、本作こそ、まさにその水呑み百姓の映画なのだ。ヒロインが乙羽信子から大竹しのぶに替わったことにより、この水呑み百姓はもはや堪えることをやめ、自分たちを苦しめた相手への復讐を始めたのである。国策によっていいように人生を弄ばれ棄てられた民である彼女らの復讐する相手は当然、役所や警官などの国家公務員、電力会社や水道局などの準・公務員、そして国策に従ってダムを作ってる男たちということになる。これは老映画人が予算の無さを逆手にとって作り上げた、井戸の中から大海を語る傑作である。 ● ある種の鬼婆を演じる大竹しのぶが圧巻。おそらくスクリーン上では初めて〈舞台女優・大竹しのぶ〉の真価を魅せる。 娘役の伊藤歩も周りをズラリと古強者に囲まれての大健闘。しかも土間で手製シャワーを浴びる場面では正面からのヘアヌードをたっぷりと拝ませてくれる。さすがはかつて「北斎漫画」で田中裕子 樋口可南子 を大ダコとカラませた新藤兼人。まだまだ大林宣彦とはエロ爺いの年季が違う。 これであと、殺される男たちに(「三文役者」の主演者である)竹中直人と、大杉漣が入っていれば言うことなかったのに。

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油断大敵(成島出)

じつは本日更新の「解夏」「ふくろう」「油断大敵」は柄本明 特集だったりして。このほかにも今年だけで「ドラッグストア・ガール」の実質的な主役=薬屋の親父に「ゼブラーマン」のカニ怪人と、文字どおり八面六臂の大活躍。映画の世界にマンスリーMVPがあったなら1月・2月は文句なく柄本明だろう。 ● 1948年生まれの55歳。東京出身。劇団「自由劇場」を経て1976年に劇団「東京乾電池」を結成。いまは亡き渋谷公園通りのジアン・ジアンで高田純次やベンガル、綾田俊樹らと(その後のケラの劇団「健康」や松尾スズキの劇団「大人計画」のさきがけとなる)ナンセンスなギャグ芝居をやってた頃から、はや20年。映画初出演/主演は日活の買取ポルノ「赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度」(1979 山本晋也)。続いて主演した日活ロマンポルノ史上唯一のカブリモノ・ポルノ=「Mr.ジレンマン 色情狂い」(1979 小沼勝)は一部で「ゼブラーマン」の元ネタと噂されている(そうなのか!?) 1980年代に一般映画に出演するようになった当初は「マイナー劇団のコメディ俳優」という色眼鏡からヘンなキャラを振られることが多かったが、次第に「笑い」とは関係のない実力派の脇役として日本映画界に定着。三國連太郎の代役として出演した「カンゾー先生」(1998 今村昌平)では正直まだ「主役」の器として物足りなかったが、本作「油断大敵」では7つ年下の〈主役俳優〉役所広司を相手にまわして(役所扮する防犯課の刑事の「人生の師」であり「終世のライバル」である)ベテラン空巣狙いとして奇を衒わぬオーソドックスな名演技を披露。後半の白髪頭は実年齢より老けづくりなのだが、おれは観ていて何度も財津一郎を思い出した。 ● 大森一樹「T.R.Y.」の出来に絶望して筆を折った(←当サイト推測)脚本家・成島出が、本作で監督として再デビュー。「大阪極道戦争 しのいだれ」「シャブ極道」「恋極道」といったアウトロー/情念系の脚本で売り出した成島だが、泥棒と刑事の腐れ縁を描いた本作では「プロフェッショナルの執念」や「白熱した腕比べ」といった部分にはあまり重きを置かず、ウェルメイドな人情ドラマを志向している。もちろん〈新人監督〉であるので演出も円熟というわけにはいかんし、脚本についても(終盤でリフレインされるピラニアの餌缶&タコ足ウインナとか、柄本明の少年時代とか)アンタ自分で書いたらそうは書かないでしょ?というダサい部分も目に付くのだが、まあ、肩の力を抜いた職人芸が日本映画界から失われて久しい昨今に「新人監督の1作目」として〈プログラム・ピクチャー〉を作ろうという心意気は支持したい。本作の目指すところは撮影に松竹の名カメラマン・長沼六男を連れてきたことからも明らかで、とりたて特別なテクニックを駆使するわけではないが、登場人物の気持ちを理解しているカメラが素晴らしい。 ● 男2人の泥警ゴッコと平行して、妻を亡くした役所広司と娘の生活ぶりが描かれる。このパートの前半に登場する夏川結衣が素晴らしい。娘が通うクリスチャン系の保育園の保母さんで、子どものころは「学研の科学」と「学習」が大好きだったという進取と実験の気性に富んだ(ちょっと天然はいってる)やわらか美人。こーゆータイプってけっこう おたく男と親和性が高いんだよな(「な」って言われても…) なんだか妙に生々しい濡れ場もあったりして、いいなあ>役所広司。おでも夏川結衣さんに「タイホして(は〜と)」とか言われてみたいよ。 ● それで、こっちのパートの後半は「娘の旅立ちに途惑う父親の心情」が焦点になるんだけど、ここが本作のいちばんの弱点。看護専門学校に通う娘は研修先の病院で知り合った女医に憧れて、卒業したら海外医師団のボランティアに加わりたいと言いだし親父を慌てさせる。つまり娘にとっての「女医」は、役所広司にとっての柄本明に充たるわけだ。ところがこの「女医」は劇中には登場せず、彼女がどんなに素晴らしい人間であるかはもっばら娘の台詞を通して観客に伝えられる。そのため「娘の旅立ち」に説得力が生まれず、泥警パートへのリンクも作者が意図したようには上手く機能していない。ここはやはり女医と役所広司の出会いのエピソードが必要だろう。柄本明の起こした窃盗事件に絡ませて「娘の独立宣言 → 親父の戸惑い → 窃盗事件/泥棒の逮捕 → 事件関係者である女医との出会い → 女医の人柄に触れて親父が改心 → 娘の自立を是認→ それがヒントとなって泥棒をオトす(=自白に追い込む)」という流れにすれば、うまく繋がったんじゃ? ● …なんかダラダラ長くなっちゃったが、まとめると「すべてが巧くいってるわけではないが昔風のプログラム・ピクチャーが好きな人にはお勧め」ということだ。最後にもうひとつだけ。小料理屋の女将に扮した大ベテラン 淡路恵子が素晴らしい。出てきて台詞を喋ってくれるだけで幸せ。

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ラブ・アクチュアリー(リチャード・カーティス)

「フォー・ウェディング」「ノッティングヒルの恋人」「アバウト・ア・ボーイ」「ブリジット・ジョーンズの日記」etc. の英国ワーキング・タイトル・フィルムズが贅を尽くしたキャスティングで贈る最上のクリスマス・ムービー。いや、ここで言うクリスマス・ムービーとは単に「クリスマスを舞台にしたロマンチックな映画」という意味ではない。すなわち香港でいうなら旧正月映画──さんざドタバタ騒ぎの果てに すべてが収まるところに収まって大団円…というところで、劇中時間も新年を迎えて出演者一同が揃って「やあやあ皆さん おめでとうございます。今年も皆さまがゼニ儲け出来ますように」と挨拶して終わるという、例のアレである。かつては日本でもそうしたおめでたい幸せな映画が作られていたわけだが「男はつらいよ」を最後にその伝統も途絶えてしまった。その役割は(少なくとも最近までは)テレビの紅白歌合戦や新春スターかくし芸大会や新春東西お笑い寄席が果たしてきたわけだ。お屠蘇の一杯も呑んでほろ酔い気分で、まあまあ固いこと言わずに楽しみましょうや、今日はメデタイ日ですから…と、つまり「ラブ・アクチュアリー」とはそういう映画なのである。英国産ロマンチック・コメディの二枚看板であるヒュー・グラントとコリン・ファースが派手な羽織袴で「オメデトーゴザイマ〜ス!!」と出てきて、本日はクリスマスですのでいつもより余計に廻しておりま〜す!とお客さまのご機嫌を伺うのである。次から次へとあんなこんな人がキャラのある役だけでも20人以上出てきて、愛嬌たっぷりに十八番隠し芸を披露する。これは、そういう趣旨の映画なのだ。個々のエピソードの浅さや(本作が監督デビューとなる「フォー・ウェディング」「ノッティングヒルの恋人」「ブリジット・ジョーンズの日記」の脚本家=)リチャード・カーティスの演出の甘さを批判するのは的外れ。観客はただニコニコと──恋人でも家族でも、あなたの好きな人と一緒に──このクリスマス特番を楽しめばよい。 ● であるからこそ、なおのこと日本でも絶対にクリスマス/お正月に上映すべきだった。「ブルース・オールマイティ」や「チャーリーと14人のキッズ」なんぞを出してサムライとCG魚に惨敗してさ。なんで初めっからこっちをやらんのだ!? UIP映画の見識を疑うねまったく。 ● 有楽町の日劇マリオンでは(「マスター・アンド・コマンダー」が始まるまでの間だけ)「タイムライン」と劇場を入れ替えて大きい日劇1で上映中。ロビーに入ってみると大階段を覆うように何やらゲートのような建造物が設置されている。なにかと思ったら「タイムライン」の宣伝で、劇中で使用される時空ゲートを模したセットを建てたんですな。セットたってベニヤ板で組んで絵を描いただけのもんだけど、こんなんでも業者に発注すればきっと数十万はかかるんでしょ? だけど肝心の「タイムライン」がさっさとコケちゃって、無慈悲な東宝編成室の裁量で階下の日劇3に格下げ。宣伝用の巨大セットだけが空しく日劇1のロビーを飾ってるのだった。映画が至らないぶん、せめて少しでも劇場を盛り上げようというギャガ宣伝部のいじらしい心持ちを思うと涙が出てくるぜ。いやほんと。 ● なお、場内に告知があったが、日劇3館は2月28日から全席指定制(朝一の回のみ全席自由)を導入する由。そうか、おれがこの劇場に来るのもこれが最後か…。

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アップタウン・ガールズ(ボアーズ・イェーキン)

あいや、おれの評価を信用してはいかんぞ。なにしろおれにとってはこの映画、キャスティングとプロットだけで5つ星なのだ(…てことは内容はマイナス1かい!) ● 言うまでもなくこれは「おかしな二人」に代表される犬猿の仲コンビの友情コメディのバリエーションなのだが、なにしろワガママ放題で育った22歳の大人になれないお嬢さんがブリタニー・マーフィーで、やること為すこといちいち気に障る潔癖症の大人びた8歳児にダコタ・ファニング…というキャスティングを考えた人は天才ですな。よんどころない事情で一緒に過ごすことになった2人だけれど、寄ると触わるとケンカばかり。だけどこの2人にはただひとつ共通点があって…という持って行きかたもファミリー映画としてはじつに正しい。あまりにネタが素晴らしいもんだから、少しばかり料理人の手際がもたついてても最後まで愉しく観られるのだが、惜しむらくは大団円を「ブリタニーの恋愛」に振ってしまったこと。これは2人同等の主演なんだから甘ったるいソースなんぞかけずに、2人の友情で終わらせるべきだった。よって星1つ減。 ● こういうアレだと、えてして子役のほうが賞讃されがちだが「8歳児と本気でケンカして対等の友情を築く22歳」などという、普通の(大人の)俳優が演じたならば嘘や作為が見え透いてしまうであろう(簡単そうに見えてじつは)難しい役柄をな〜んも考えずに演じて、それでまったく自然に見えてしまうというのは、ブリタニー・マーフィー、じつに畏るべき天然である。 他方、ダコタちゃんは、これはもう本作を観て確信したけどCGだね。きっとゴラム方式で裏でメリル・ストリープが演じているのだ。いやそうに違いない間違いない。 ● …と、大甘な採点をしたあとで作り手に文句を付けておくが、序盤で「ヒロインの部屋の電気が料金滞納で止められた」って設定でキャンドルで雰囲気を高めるのはいいけど、なんでその部屋のテレビが点いてんだよ! あと、カレシがライブステージからギターの弾き語りで歌のプレゼントをするんだけど、素晴らしい歌声に感極まった場内が総立ちの大拍手。ステージ上で抱き合うパフォーマーたち。カレシもマイクを外して両手で拍手…って、口パクかい!(ギターもオケかい!) アンタら頼むからそーゆーとこで手を抜くなや。


シャボン玉エレジー(イアン・ケルコフ)[DVD上映]

「アムステルダム・ウェイステッド」「ヨハネスバーグ・レイプ・ミー」のオランダのアングラ・ポルノ作家 イアン・ケルコフの1999年作品。デジタル・ビデオ撮影。86分。製作は日本のスタンス・カンパニー。同年2月のロッテルダム映画祭に出品されたあと、秋にシブヤ・シネマ・ソサエティでの上映を予告され、チラシまで配布されながら、なぜかそのままお藏入りとなっていた作品が、2004年 DVD発売されるのを機に渋谷のアップリンク・ファクトリーでプロジェクター上映された。商業上映としてはこれが日本初公開のはず。当時、お藏入りになった理由は不明だが(なにかで読んだかもしれんが忘れた…)本作はホンバン映画であるので、おそらく映倫がらみのトラブルだったのではないか? 今回、上映/DVD発売されたものが1999年にロッテルダム映画祭に出品されたバージョンと同一のものかは不明。 ● 逮捕されて護送される途中で警官を撃ち殺して逃走したガイジンの男が、行きずりの女をレイプしてその女の部屋に転がり込んでヤリまくるが、女が仕事──彼女はAV女優である──に出た隙に、男は組織からの追っ手に殺される・・・といった大まかなストーリー・ラインはかろうじて理解できるものの、前提としてこれは物語を追う映画ではない。てゆーか、追えない。なぜなら本作のスタイルは(それ自体は意味があったり無かったりする)さまざまな映像の断片に、ヒロインとガイジンの日本語と英語のナレーションが(ときには同時に)被さり、台詞はあっても会話ではなく、ときとして2つの映像がオーヴァーラップしたまま進行する…と、ゆーよーなものだからである。映像の断片のいくつかがフェラチオだったり本番セックスだったりするわけだが一般的な意味でのポルノグラフィとしては機能していない。つまり観てコーフンできる性質のものではない。てゆーか、こーゆーものはコーフンできるか出来ないかはともかく「見せてしまう」ことのインパクトを前提として作られているので、このようにボカシ入り──それもモザイクではなく単色の塗りつぶしである──で観ても意味がないのだ。<なら観に行くなよ! ● ガイジン男はオランダ時代のポール・ヴァーホーベンの映画にも出ていたというトム・ホフマン。 ヒロインにはAV女優の星乃舞(…AV女優だった彼女を起用したのか、本作をきっかけにAV女優に転身したのかは不詳) 他に伊藤清美・田中要次らの出演。

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ゼブラーマン(三池崇史)

じつを言うと、この企画を東映番線で全国公開すると聞いたときにゃ無謀なことをするなあと思った。だから、せっかくの「主演100本記念作品」が大コケして翔さんの顔に泥を塗るようなことがあっちゃいけねえ…と義理に駆られて(←なんの義理だよ!)公開2日目の日曜日に歌舞伎町映画街に馳せ参じたのだが(東映封切館の)新宿トーアから変更されたキャパの大きいグランドオデヲンは若いお客さんでまあまあ混んでて、おれは(関係者でもないのに)ホッと胸を撫で下ろしたぜ。<バカ。 ● おれもアナタもうすうす感づいているように、大半の観客は「哀川翔」目当てでも「監督・三池崇史」の名前に惹かれたのではない。おそらく最大の吸引力を発揮したのは脚本の宮藤官九郎である。たしかに「人気がなくて7話で打ち切られたヒーローのコスプレを自宅でこっそりやってる意気地なし小学校教師がひょんなことから子どもの前で本物のヒーローになる」という着想はおもしろい。だが本作の不幸は、脚本の宮藤官九郎にも演出の三池崇史にもSF愛/特撮愛が皆無だということに尽きる(だって少しでも愛があればエンディング・テーマは甲本ヒロトの人生応援ロックなんぞではなく水木一郎が歌う「ゼブラーマンのテーマ」のほうを使うでしょ) ● おそらく宮藤官九郎は「特撮ヒーローもの」を嘲笑(おちょくり)の対象としてしか見ていない。それは哀川翔の「なんちゃってゼブラーマン」が「本物のゼブラーマン」に変身するとても大切なシーンの職務放棄としか思えない投げ遣りな描写や、敵エイリアンの馬鹿にしたデザインに明らかだ。それでもまだ演出家に愛があれば救われるのだが、三池崇史(と撮影の田中一成)には「特撮もの」のキモである画ヅラに関するコダワリというものが殆どないと来てる。そもそもこれは本来なら、きちんと照明を当ててフィルムで撮るべき映画なのだ。東映の方針でHDビデオ撮りが既定事項ならば、せめて劇場版「仮面ライダー」のレベルまでは見せてくれ。 ● おそらく「木更津キャッツアイ」の1エピソードとしてなら、これでも成立するだろう(前半だけなら星4つ付けてもいい) だが本作の目的は前半の「笑い」を後半の「感動」に転化することにあったはずだ。劇中なんども台詞として繰り返される「信じれば空だって飛べる」というテーマだって、まず作り手が信じていなければ観客が信じるわけがない。観客が信じなければ、たとえ画面上ではCG合成でゼブラーマンが飛んだように見えたとしても、それは本当に飛んだことにはならないのだ。なんだか観ててだんだんムカムカしてきて星1つにしてやろうかとも思ったが、まあ、鈴木京香の胸の谷間コスプレに免じて星2つ。あと、おれがいま一番キライな俳優である渡部篤郎の芝居もこの中に入ってしまうと全然 気にならないというのが意外だった。 ● かように、ろくでもない代物ではあるが、翔さんの記念作品なので哀川翔に一宿一飯ならぬ三泊四日レンタルの恩義を感じている者は進んで劇場に上納金をおさめに行くように。ただし本作は小学生以下のお子さんには適さない内容を含んでおり、ご家族連れでの観賞には向かないのでそのつもりで。


ドラッグストア・ガール(本木克英)

お、新宿タイガーマスク氏、こーゆーのも観るんだ(ひょっとして田中麗奈ファン!?) ● はからずも宮藤官九郎2本立てとなった本日の2本目は「ドラッグストア・ガール」である。こちらは松竹製作・配給で、監督は「てなもんや商社」「釣りバカ日誌11〜13」の本木克英。というわけで、お話も「とつぜん現れた若い娘さんに商店街のスケベ親父どもが振りまわされる」という松竹大船を彷彿させる古いタイプのコメディである。「ゼブラーマン」と2本つづけて観てよく判ったけど、宮藤官九郎という脚本家はよーするに定石や定型をまったく識らないのだな。それぞれのジャンルにはそれぞれの「型」というものがあるわけで、てゆーか、型があるから「ジャンル映画」と称するわけだが、宮藤官九郎の作風はその「型」をズラすんじゃなくてもともと抽斗が空っぽなので、いちいちゼロから書いてるのだろう。だから本作も前半は面白いのだが、後半どんどんトンデモな展開になって迷走していく。だいたいこーゆー他愛ないほのぼのコメディの途中で[キーとなる登場人物を殺]しちゃうバカがどこにいるよ!? そこで映画 終わっちゃうじゃねえか。たとえ作者といえども、そこまで登場人物の人生を軽視する権利はない。 ● タイトルが「ドラッグストア・ガール」なのは(マツモトキヨシの社長が会長を務める)日本チェーンドラッグストア協会がスポンサーだから。従って「新規出店した大手安売りドラッグストアと地元商店街の対立」という構図で話を始めておきながら、後半はラクロス試合に目を逸らしている間にその件はうやむやにされてしまう。てゆーか、そもそも地元商店街は揃いも揃って午後4時閉店の、接客も最低で、商売をやる気のない連中として描写され、そんな奴らがドラッグストアでアルバイトしてる(=ドラッグストアのイメージを象徴する)田中麗奈にイチコロで降参しちゃうという設定からして松竹映画にあるまじき大資本礼讃映画なのだが、薬屋の柄本明なんかしまいにゃ「やっぱドラッグストアはいいよな。明るいし、みんな親切だし」だって。それってつまりアンタたちは店じまいを余儀なくされる=失業必至ってことなんですよ。だから田中麗奈と各店の親父さんたちのほのぼのとした やりとりを紹介するエンドロール映像は偽善に他ならず、本作のありうべき正しいエンドロールは「大好きな麗奈ちゃんと一緒にドラッグストアの制服を着てアルバイトに精を出す商店街の親父たち」と「軒並みシャッターの降りた無人の商店街を風が吹き抜けてゆく」というものである。 ● 加うるに、この映画はラクロスというスポーツを馬鹿にしてるとしか思えんのだが、よくあんなんで日本ラクロス協会の人たちが怒らなかったものだ。あと(観てない人にはなんのことだかワカらんだろうが)インディアンだって馬鹿にしてるよな。観ててほんとにムカムカした。サイテー。 ● ただ、ベタなコメディ演技に徹する田中麗奈は悪くないし、本木克英にはコメディ演出の適性があると思うので、ぜひ次はちゃんとした脚本家と組んでくれ。あとビデオ撮りはやめよーよマジで。「ゼブラーマン」と違って本作にはマトモな照明を当てる意思は感じられるものの、いかんせんビデオカメラの性能の限界で、太陽光下のラクロス場面や蛍光灯照明のドラッグストア店内の白トビが甚だしい(=人物の額とかが真っ白にトンでしまう) それ、金取って見せる品質じゃないだろーが。

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紀雄の部屋(深川栄洋)[ビデオ上映]

短篇専門館の下北沢トリウッドと新生・ポレポレ東中野の支配人を兼任する大槻貴宏プロデュースによる新企画。まず60分以内の短篇を製作してトリウッドで公開。上映期間中の客席稼働率が40%以上だったら──トリウッドは50席弱なので、つまり毎回平均20人の観客を動員できたならば、新作長篇をポレポレ東中野で公開しましょう…というルール。第一回の挑戦者に選ばれたのは2001年のPFFに入選して旧・BOX東中野で公開された16mm「自転車とハイヒール」(未見)の深川栄洋、27歳。わずか57分のビデオ作品ではあるが、ヒロインにつぐみ、紀雄クン役に「青い春」「blue」の高岡蒼佑というプロの俳優を起用して、映画館での公開を前提として作られているのだから、れっきとした「商業映画」と言ってよかろう(ちなみに木戸銭は900円) ● プロレス・オタクの薬学科4回生と、27歳にもなって最底辺のキャン・ギャルをやってるアニヲタ女の恋。なにしろ2人の馴れ初めってのが、紀雄クンがインディーズ・プロレスの興行の追っかけで訪れた埼玉あたりの会場で、数十人の観客を前にリングガールとしてチアガールの扮装で下手なバトンを回してたヒロインにひとめ惚れ…というもの。男のほうはオタク特有の神経質で、女は(男の前ではカワイコぶってるものの)どうやら片付け家事一切ダメのずぼら女であるらしい。そのうえ彼女は男に「21歳の大学生」と嘘を付いていて、それが本作のストーリー上での最大のサスペンスとして(=真実がいつ露見するのか? 自分より5つも年上と知った紀雄はカノジョを捨てるのか? etc.)設定されているわけだが、まあ、はっきり言って四十男のおれからしてみれば、そんなことどーでもよくて少しもフックになり得ない。だいたい「短篇」と言ったって57分といえばピンク映画と同じ尺があるのである(しかもピンク映画は濡れ場を入れてその尺なのだ) 30分ならこれでいいけど、もう少しネタと工夫が無いと1時間の映画にはならんだろ。 ● しかし本作の見どころは「物語の面白さ」にではなく、おたく描写のディテイルにある。特に、劇団「猫のホテル」の菅原永二が演じるセンパイ役がサイコーで、相手を呼ぶときはかならず「○○氏」づけ(ノリオ氏、それはマズいすよー、とか) たぶん今頃はヤマギワの火事で焼け死んでるに違いないと思わせる、大手の映画やテレビのお笑い芸人の演じる誇張された「おたく」コントには決して登場しない、リアリティあふれるがゆえにグロテスク極まりないおたくキャラが絶妙。 社会的人格にかなり問題のある「後輩おたく」に元ジョビジョバの六角慎司。 紀雄に惚れてストーカー的行動に走る「センパイの妹」に安藤希によく似た・・・あ、エンドロールを見たら安藤希 本人じゃないか! 紀雄の憧れのプロレスラーとしてZERO-ONE所属の富豪2夢路(ふごふごゆめじ)が本人役で出演…って、おれまったく知らないんだけど、インディーズ・プロレスでは有名な人なの? ● 最初にこれは「商業映画」であると書いたけど、ヒロインの歳がバレる伏線として「コナン」の台詞を暗記してるほどのアニヲタで、でもコナンはコナンでも「名探偵」じゃなくて「未来少年」なのが怪しい…ってのがあって、本人は「未来少年コナン」の中古LDを嬉々として買ってきて観てるんだけど、そのテレビ画面が写るし音声も聞こえるのだ。よりによっていちばんウルサそうなとこなのに大丈夫なのか? てゆーか、本作をDVDとかにする気ないのか?>大槻貴宏。

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ニューオーリンズ・トライアル(ゲイリー・フレダー)

ジーン・ハックマン ダスティン・ホフマン

ジョン・グリシャム「陪審評決」の映画化。グリシャムなのでもちろん「裁判もの」であって、裁判ものの面白さとは言うまでもなく弁護士と検事の丁々発止のやり取りと、意外な真実、そしていかに陪審員を説得するか etc. にあるわけだが、本作のユニークな点は12人の陪審員の中に第三のプレーヤーが潜んでいて、原告・被告双方に「評決売ります」と持ちかけることにある。高い金をだしたほうに評決を誘導してみせる、というわけだ。これまでも数々の名作・傑作を排出してきた「裁判もの」にリーガル・サスペンスの第一人者ならではの新機軸を持ち込んで成功した裁判映画の新たな金字塔。 ● あるいは別の言葉でいうなら、これはもうひとつの「ヒート」である。いや、と言ってもべつにジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンが白昼のニューオーリンズの路上でマシンガンかかえて撃ち合ったりは せんよ。「ヒート」が何よりもまずアル・パチーノとロバート・デ・ニーロというNY映画の2大アイコンが初共演した作品として記憶されるならば、同様にこの「ニューオーリンズ・トライアル」はカリフォルニアが生んだ2人の偉大なアンチ・ヒーローが30年以上のキャリアのなかで初めて共演した記念すべき映画なのだ。1930年生まれのジーン・ハックマンと1937年生まれのダスティン・ホフマンは、ともに1950年代の後半の修行時代にカリフォルニアの劇団「パサデナ・プレイハウス」に所属しており、劇団内での「将来 最も成功しそうにない俳優」投票でトップを分け合った仲である。なにしろ1950年代末といえば甘いマスクのジェームズ・ディーンやポール・ニューマンがトップを張っていた時代だ。こんな、でこぼこのジャガイモしなびたピーマンみたいな役者がハリウッドを代表する俳優になるなんて(かれら自身を含めて)誰にも想像できなかっただろう。その後、2人はNYへと移り、ハックマンが妻と住む貧乏暮らしのアパートのバスタブにホフマンが居候していた時期もあったそうだ(ロバート・デュヴァルも一時期、同居していたらしい) 1967年にそれぞれ「俺たちに明日はない」と「卒業」に抜擢されて以降の活躍はご存知のとおり。 ● 裁判に勝つためには どんな汚い手も厭わぬ 悪徳企業の陪審工作コンサルタントにジーン・ハックマン。勝ち負けではなく 本気で世の中を変えていこうとしている理想主義の弁護士にダスティン・ホフマン。「それが善だとか悪だとかには興味なく、ただ自分のやるべきことに猛進していくタフな叩き上げの指揮官」と「1960年代世代の生き残りであるリベラルな熱血漢」という役柄には、2人の俳優が1960年代末/1790年代から演じてきた数々のキャラクターが見事に重なりあう。特に、1980年代以降は「悪役キャラ」に活路を見出してきたジーン・ハックマンと違い、レーガン以後の総保守化で「やるべき役」を失って迷走を続けていたダスティン・ホフマンにとっては「ムーンライト・マイル」とそれに続く本作で完全復活といってよいのではないか。 ● 嬉しいことに本作には、「ヒート」のように「別撮りじゃねーの!?」などという疑惑をさしはさむ余地のない、2人ががっぷり四つに組んで──銃弾こそ飛び交わぬものの──火花を散らす激突を魅せる御馳走シーンが終盤に用意されている。じつはこのシーンは初稿にはなかったのだという。2人をキャスティングしたあとで事の重大さに気付いたゲイリー・フレダー監督があわてて書き加えて日程の最終日に撮影したのだそうだ。ふむ。映画ファンの気持ちが解かってるじゃないの>ゲイリー・フレダー。 それゆえに本作はジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンの軌跡をリアルタイムで見てきた世代に特にお勧めする。 ● 原作ではタバコ訴訟だった裁判を(「インサイダー」に先を越されたので)映画化に際しては銃 製造/販売責任訴訟に変更している。だが、それはこの映画において本質的な問題ではない。本作の脚色チームの最大の勝因は、ダスティン・ホフマンのキャラ変更にある。じつはグリシャムの原作では原告側弁護士も巨額の賠償金が目当てのハイエナ弁護士なのだ。犠牲者の未亡人にも新しい愛人がいたりする。つまり「金が欲しい奴ら」と「金が惜しい奴ら」の醜い争いである。それでは映画にならない。そこで原告側弁護士を「正義に燃える熱血漢」に、未亡人を「哀れな犠牲者」に変えることによって本作は「社会派の娯楽映画」として成立しているのだ。みごとなプロの仕事である。 ● おっと、じじい2人のことだけで紙数 ビット数が尽きてしまった。この2人とジョン・キューザック&レイチェル・ワイズの主役4人以外にも、ちょっとしたハリウッド脇役図鑑ともいえるこの作品は、あなたが映画ファンであるほど愉しめるはず。「サウンド・オブ・サイレンス」に次いで、ゲイリー・フレダーの演出は「動きの少ない原作」に映画的な動きを加味して快調。ただ、ひとつだけ気になったのは、ジョン・キューザックはラストシーンで最後の台詞を言う前に、もう一度 懐中時計の蓋を開いて、蓋の裏に入っている写真をはっきり観客に見せるべきだった。

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跋扈妖怪伝 牙吉(原口智生)

江戸時代。諸国をさすらう1人の男。獣の皮を身に纏うた無宿人。生気のない目に光が宿ったその刹那──片手で抜いた太刀が相手を一刀両断する。その名を牙吉(きばきち)。かれは人の世に身をやつす、寄る辺なき狼男であった…。 ● 特殊造形家・原口智生の「さくや 妖怪伝」に続く監督作。近代の夜明けがあまねく闇を照らし出す以前の世界では、人と魔物は互いの領分を守って共存していたとする妖怪史観に基づく架空時代劇。驕りたかぶった江戸幕府が公儀妖怪討伐隊を組織して、ひっそりと暮らしていた(少数民族である)妖怪たちを次々と虐殺。妖怪・魔物・物の怪の類は、人の目に触れぬよう隠れ住むか、人の姿を装い正体を隠して生きるしかなかった──。故郷の犬神村を追われた牙吉は、とある外様大名の宿場町に流れつき、地元の一家にわらじを脱ぐ。その鬼蔵一家はじつは妖怪梁山泊で、藩の改革派の若手家老と密約を結び、改革派が権力を握った暁には城下に妖怪居留地を作ってもらう約束で、渡世人や賞金首を粛清していたのだった…。 ● 松竹京都映画が全面協力。しっかりとした時代考証に基づいた本格的なセット美術/調度品に異文化的な意匠がミックスされ、魅力的な世界を作り出している(犬神村の民が、顔にインディアンのペイントまで してんのはやり過ぎだと思ったけど) 「さくや」の大きな弱点であった殺陣も──「編集による殺陣」中心ではあるが──かなり改善され、迫力あるものとなっている(殺陣師:冬海剛) 特殊メイク・アーティストの意地をかけたノーCGのアナログ特撮によるスプラッター描写も全開、スーツアクターは命がけのスタントを繰り広げる。「さくや」では不完全燃焼の感があった川井憲次も「これぞアクション時代劇!」という劇伴をガンガン鳴らして快調。これはある意味、スチームパンク版「木枯し紋次郎」と言えるかも(使いかた間違ってる?) まあ、こういうものは、ダメな人はまったく受け付けないと思うので「ゼイラム」以来の傑作という褒めかたに食指が動いた方にのみ お勧めする。 ● さて、本作の弱点は脚本にある。書いたのは「けっこう仮面」「けっこう仮面2」「トワイライトシンドローム 卒業」の岡野勇気(神尾麦 名義) ヴィジュアル&アクションがメインの作品ゆえ、この程度の脚本いいっちゃいいんだが、それでもせめて──吸血鬼映画において「人の生き血を吸わねば生きられない」というテーマが不可欠なごとく──「妖怪は人を喰らう」という本質的な部分だけでも、もう少し掘り下げていたならば、妖怪たちの哀しい定めがより鮮明になったはず。たとえば本篇の主人公=牙吉は何を食べて生きているのか? 妖怪一家に1人だけ混じってる人間の少女(安藤希)はなぜ喰われないのか? それすらも描かないのは脚本家の怠慢だろう。あと、いくら西洋の狼男とは違うとはいえ、狼男の習性に一顧だにしないのも気に入らぬ。あれだけ大きな満月が出てるんだから、せめて「満月の夜は血が騒ぐ」という描写ぐらいあってもよいではないか。 ● 原口智生の演出は「さくや」から較べると長足の進歩で、なにやら演出らしきものを施した形跡が随所にうかがえる。ただ、妖怪一家の親玉である鬼蔵親分が「人間」のまま死んでいくのは演出ミス。どー考えたってあそこ妖怪の姿で振り向かないとドラマが成立しないではないか。それと原口智生は、大映「妖怪大戦争」のヒロイン 川崎あかねが意味もなく出てきたり、同じく大映「妖怪百物語」でおしろい婆あを演じた山村嵯都子に同じ役を演じさせたりすんのは、まあ微笑ましくもあるが、余技ではなくちゃんとした監督を目指すんなら、唐沢なをき とか樋口真嗣みたいな内輪受けキャスティングは止めなさい。 ● 主人公・牙吉には原田龍二。前半などほとんど顔が映らず(木枯し紋次郎なので)ニヒルで口数の少ないキャラクターを好演。一部でスーツにも入ってるらしい。 常人なれば1行 読んだだけで毛細血管が切れまくるであろう凄まじいオーバーアクトで鬼蔵を演じるのは清水健太郎。 壷振りの姐さんに京都の時代劇女優・金子珠美。 じつは女郎蜘蛛だったりするお女郎さんに、週刊プレイボーイのグラビア・コンテスト出身の稲葉美優(現在は木村深華に改名)@見せんのか見せないのかハッキリしろ!という微妙なヌードあり。 ● 製作はVシネの雄=GPミュージアム。本作のラストに「第一部 完」と出るとおり、すでに第二部が製作中(済み?) 第二部では原口智生は演出に携わらず、本作で助監督を務めた人が監督デビューする由。 ● ちなみに劇場でサントラCD(\2,300)を買ったんだけど、これ、クレジットが「発売元:牙吉製作委員会/販売元:GPミュージアムソフト」って、どーみてもレコード屋では売ってなさそーな代物。そーいえば去年、シネスイッチ銀座で買った「たまゆらの女」のサントラCD(作曲:梅林茂 \1,500)も「製造:トライエム/販売:Ex Ltd.」となっていて、トライエムはこの映画の配給会社だし、Exってのは梅林茂のやってたバンドの名前だから明らかに自主製作盤。プレス費が下がって誰にでも簡単にCDが作れるようになったせいか、それとも それほどレコード業界の不況は深刻なのか(=メーカーに売れないCDを出す体力が無い) 今後はこーゆー形のリリースが増えるのかね?

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嗤う伊右衛門(蜷川幸雄)

この世に妖怪などいない。人の心にこそ魔物が棲むのだ…という話を一貫して書いてきたのが京極夏彦である。そのかれが「四谷怪談」を換骨奪胎した原作を ほぼ忠実に映画化。脚色は筒井ともみ。ポイントは「伊右衛門どの、恨めしや」という岩の〈決め台詞〉をこのうえない愛の言葉として読み替えたこと。これでデビュー作の「魔性の夏 四谷怪談より」に次いでフィルモグラフィー3本のうち2本が「四谷怪談」ものということになる蜷川幸雄の演出は、京極原作のダーク&アンダーなトーンを的確に画面に移し変えており、悪くない。耽美な台詞の魅力もかなり活かされており、まったくもって悪くないのだ。ただ、惜しむらくは肝腎のクライマックスで物語が輪郭を失ってぐずぐずに停滞してしまうこと。それまでは我慢して抑えに抑えて来たのだから、岩が狂女となりし後は一気呵成にガーッ息継ぎなしでラストまで押し切らないと。 ● 伊右衛門=唐沢寿明は蜷川の舞台出演歴もあり、柄にないキャラを好演。 酷いのは「直助」役の池内博之で、台詞まわしがメタメタ。こいつにゃ時代劇台詞のダイアローグ・コーチが必要だろ。 小雪はえらい現代的な「お岩さん」だが、それが演出の狙いであろうし、すっとした美しさが活きている。ただ終盤の狂乱がどうにも「狂乱」に見えず、ただ大声をあげて走ってるようにしか見えない。残念ながら小雪は脱がないが「お梅」の(「ビジターQ」の不二子 改メ)松尾玲央にヌードあり。 そうそう、宅悦=六平直政は劇中ほとんど褌一丁で、願人坊主=香川照之とのカラミもあるのでデブ専ホモの皆さんにもお勧めだ。


けっこう仮面(長嶺高文)[ビデオ上映]

アップリンク・ファクトリーでの劣悪プロジェクター上映。なに? こんなもん観に行くほうがどうかしてるって? いや、そうは言うけど本作のプロデューサー・松下順一が現在のアートポートを興す前にジャパン・ホーム・ビデオで作ったフィルム撮りのVシネマ「けっこう仮面3」(1993年/監督・脚本:秋山豊)は、なかなかの傑作だったんだよ。けっこう仮面が新任の音楽教師・菅田俊@二枚目と恋に落ちて、あのコスチュームのまんま遊園地でデートしたりしてさ。悪役「サタンの足の爪」を演じる九十九一の芸達者ぶりも楽しくて、当時たしか「タモリ倶楽部」のオリジナル・ビデオ大賞かなんか獲ったはず。 ● それから10年。2004年 マンガ&アニメ実写映画化ブームの先陣を切って公開される本作の監督に起用されたのは・・・生きていたのか!?>特撮自主映画「喜談 南海變化玉」「歌姫魔界をゆく」の長嶺高文。荒戸源次郎の移動映画館シネマ・プラセットでやった「ヘリウッド」以来なんと20年ぶりの登場である。…ね? ちょっとだけ期待してしまった おれを誰が責められようか。 ● だが結果は残念ながら星の数でおわかりのとおり。長嶺高文は長すぎた雌伏期にすっかり浮世の垢にまみれてしまったらしく「バカバカしいものほど手間をかけなくてはならない」という大原則を忘れはてたサイテーのやっつけ仕事をしてしまった。悪フザケにすらなっていない寒々としたコント芝居と投げ遣り演出の70分。ゆいいつ評価できるのはJHV版では付けていた真っ赤なマントを廃して「うさ耳頭巾に長いスカーフのみの全裸」という原作に忠実なコスチュームにした点だが、それとてデジタル&ノンリニア編集時代の現在なら如何ようにも工夫できるはずの股間の隠し方の芸の無さに呆れるばかり。さしたる理由もなく舞台設定はアナウンサー養成学校に変えられ、「サタンの足の爪」の代わりに出てくるのはノーメイクの鈴木ヒロミツ。そのうえ「お仕置き」の犠牲となる女生徒たちが脱がないってのはどーゆーことよ? テメーら豪ちゃんをナメてんのか? やるなら もっと本気でやらんかい! ● 主演は元・桜っ子クラブ(よく知らん)の斎藤志乃。演技もアクションも酷いものだが、これはもともと「脱げて、こっ恥ずかしいコスチュームもOKで、アクションが出来る筋肉質の巨乳女優」という、この役に要求されるハードルがムチャクチャ高いものであるため、最初の2つの条件だけでも満たしていればヨシとせねばいかんのが現実なのだ。そりゃ「キューティーハニー」の佐藤江梨子がこっちに出てくれりゃ言うことないけど生憎と世の中そういう具合には出来てない。でもそれだったら下手なB級アイドルを使うより、いっそ夢野まりあとか及川奈央みたいな巨乳AVギャルを主演にしちゃえばいいのに(…あれ? そのほうがギャラ高いのか?) あるいは杉本彩なんか「花と蛇」でM女として刺青入れられて縛られるよりは「けっこう仮面」のほうが柄に合ってるんじゃないかと思うんだけどダメかね?(歳 イキすぎてる?)

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リクルート(ロジャー・ドナルドソン)

この映画の結末は2つしかない。すなわち「じつはアル・パチーノが悪人でした」という定石どおりのオチか、あるいは「すべてはテストでした」という一種の夢オチというかフィンチャー・オチである。いずれにしてもアル・パチーノが黒幕なのは物語の始めから明白であって、だって最後の最後に「じつは悪人は他にいて、パチーノは思いやりにあふれた良い上司でした」なんてオチがついたら客が怒っちゃうでしょ? 作者の側もそれはじゅうぶん承知していて、それ以外の小ネタをいろいろと仕込んで観客を飽きさせまいと努力しては いるのだが。アル・パチーノに翻弄される若造にコリン・ファレル。ヒロインに「トータル・フィアーズ」のブリジット・モイナハン。登場人物が実質的にこの3人しかいないのも結論の幅を狭くしてるし、ヒロインの側の〈真実〉があまりにお粗末でリアリティを欠くのだが、まあ、あまり細かいことを気にせず、その場その場のプチ・サスペンスや、当代随一の演説役者演説 台詞術を愉しむぶんには木戸銭に値しよう。

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着信アリ(三池崇史)

ぐわぁぁぁ〜、映画が始まってイキナリ(心の中で)恐怖の悲鳴をあげてしまった。そうか「角川大映映画」ってそういうことなのか。いや、なにね、いきなり「製作:黒井和男」ってクレジットが出たんだよ(火暴) キネマ旬報の編集長時代にこいつが作った映画はほんと酷かったもんな。いや具体的に挙げると武田鉄矢の「刑事物語」とか「刑事物語2」とか「刑事物語3」とかなんだけどね。まさかこんなところで前世紀の亡霊が復活するとはなあ…。 ● というわけで東宝邦画番線、年明け恒例の角川ホラーである。恒例とは言っても今年は一瀬隆重のプロダクションとは関係なく角川大映の直接製作。本篇の冒頭にはまるで4月からの社名変更を見越したように、CGの鳳凰ロゴに「KADOKAWA PICTURES」と出る。企画・原作は秋元康。おそらく脚本(大良美波子)にも、かなり口を出したのではないか。いかにも秋元康の映画らしくケータイ電話に関してはよく調べていて、実際にケータイを使ってる世代からツッコミが出ないように気を配ってる(…と思われる) だが、肝心の中身については先行する「リング」や「回路」「呪怨」といったジャパニーズ・ホラーの意匠を臆面もなくパクってリミックスしたような出来上がり(赤いアメ玉は「ツィゴイネルワイゼン」のほおずき?) ● で、また演出の三池崇史のイメージするホラーというのが(「オーディション」「殺し屋1」からも明らかなように)怪談というより、もっと生理的嫌悪感に根ざしたものなので、よくある「出るぞ…出るぞ…出たー!」という演出はあんまり巧くなくて、むしろ「爪切りで深爪しないか…」とかそーゆー描写のほうがよほどイヤ〜な感じなのだ。唯一、オープンエンドな結末にしたことがらしいと言えばらしいか。これ、ハリウッドでリメイクしたら絶対に「幼いころに母親から虐待されたのがトラウマとなっているヒロインが〈母親〉を殺すことによってトラウマを克服する」というハッピーエンドになるものな。自分の手でトドメをさして「Die! You BITCH!!」とかな。 ● 役者陣は三池組常連が豪華なチョイ役出演。遠藤憲一も「予告篇の声」として登場。なかでは刑事役の石橋蓮司がポスターに名前が大きく載っているのだが、実際はほとんど活躍せず。てゆーかテレビの全国中継であんなことになったら、いくらなんでも警察が動くだろ!? あと東宝宣伝部はチラシで三池崇史のことを「本作を最初で最後のホラー」とか大嘘コかないよーに。キミら「オーディション」観とらんのか。


アンテナ(熊切和嘉)

「コンセント」に続く田口ランディの映画化。解からないから拒絶するというのは我ながらあまり知的な態度ではないと思うが、おれにはこの作品全体を貫く論理がまったく理解できなかった。 ● 幼い妹マリエが失踪してから15年。兄は自傷癖に、母は新興宗教に頼ることで均衡を保ってきた。だが、ある日、テレビで「拉致監禁されていた8歳の女児が9年半ぶりに救出された」というニュースを見て以来、母と(妹の失踪後に生まれた)弟は口を揃えて「マリエが戻ってきた」と言いだす。「なんで解かるんだ?」と問うと、ちょうど失踪当時の妹と同い年の弟は「アンテナで解かるんだ」と答える…。 ● 基本的には「幼な児の失踪をめぐるサスペンス」ではなく「家族の一員を失くすという深い喪失感をいかに埋めるか」という家族ドラマである。つまり「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」と同じテーマなのだ。だが本作の特異(トンデモ)な点は、主人公が救いを得る方法にあって、なんと、かれはSMクラブでSの女王さまに言葉嬲りされながら連続自慰/射精することでトランス状態に入り、見える!…見えるぞ!! 妹の失踪した日のことを思い出した。ああ、妹の失踪はぼくの所為じゃなかったんだ!おーいおいおい(泣)・・・って、なんだそりゃ。SMのSはセラピストのSじゃねーぞ。てゆーか、こーゆーのはさんざん代々木忠がやったじゃないか。 ● それでも「クソつまらない駄作」と斬って捨てられないのは、演出にはたしかに力があるからで「不穏な空気の充満するサイコ・ホラー」としてはそこそこ観られてしまうのだ(ま、その分、トンデモ落ちに怒りも倍増なんだけど) なんかの拍子で周波数が合ってしまった人には大感動作と成り得るかも。山崎邦紀でピンク映画リメイク希望。

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タイムライン(リチャード・ドナー)

クリント・イーストウッドと同い年=今年73歳のリチャード・ドナー監督、1998年の「リーサル・ウェポン4」以来5年ぶりの新作は、昨年の「ザ・コア」に続くギャガ・コミュニケーションズ提供「バカ映画を大スクリーンで観よう!」シリーズの第2弾。同社製作の予告篇によれば内容は14世紀のフランスにケータイの電源を切りに行く話である。で、主人公たちがケータイを切りに行くきっかけとなるのが「2日前から行方不明になっていた考古学教授の Help me! という自筆メッセージが中世の戦場跡から発掘される。鑑定の結果、間違いなくそのインクは書かれてから600年が経過していた…」というものなのだが、これ明らかに「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」の「主人公が自分で書いた(覚えのない)古文書が見つかる」ってほうが〈センス・オブ・ワンダーの度合い〉において優れてるよな。だいたいあの爺さん、好きで行ったんだろ? ほっとけよ。考古学者なんだから中世で死ねれば本望だろーが。 ● かように出だしからして酷いんだが、ともかく脚本が壊滅的。キャラの書き分けが出来てないし、そもそもキャラ自体が存在しないキャラがゴロゴロ。主人公とサブ・ヒーローのロマンス配分が未整理なので、どちらのロマンスも死んでいる。「時間旅行もの」に付きものの伏線がいくつか仕掛けられているのだが、それがあまりに解かりやすい伏線なので登場した瞬間に結末が解かってしまう。あのなあ。「伏せてある線」だから伏線て言うの。ぜんぶ先が読めちゃったら意味ないじゃん。現地で出会ったフランス女が、それまで「英語を喋れない」という設定でサスペンスを組み立てておきながら、途中からなんのことわりもなく英語を喋りだすのには唖然とした。 ● 演出もとても「レディホーク」と同一人物によるものとは思えん。これだけ輝きが失くなっちゃ、リチャード・ドナーもいいかげん潮時かもな。 ● 俳優陣にも脚本・演出の不備を補えるだけの輝きはない。ヒロインの(「A.I.」のお母さん役)フランシス・オコナーは魅力なし。フランスのお姫さまを演じたアンナ・フリエルのほうがキレイに撮られているが「女優としての見せ場」と呼べるものがない。せめてデビッド・シューリスが演った「悪徳企業社長」の役をスタンリー・トゥッチにするとかさあ…。 ● アメリカでの公開成績は散々だったようだが、そりゃそうだ。この御時世に「フランスに味方してイギリスをやっつける」映画を作って、あのバカどもが喜ぶわけがない。入りが悪いのは本邦でも同様で、初日夜の新宿プラザ劇場(1008席)の客席稼働率はおよそ10%。でも、次回作「マスター・アンド・コマンダー」の公開日は2月28日と決まっているので、なにがなんでもあと6週間は本作を上映してなきゃなんない。日劇チェーンの厳しい冬はまだまだ続きそう。だから「エイリアン ディレクターズ・カット」やれっての>東宝編成室。

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メシア 伝えられし者たち(千葉誠治)[ビデオ上映]

アクション監督:下村勇二

いやあ俳優さんて偉いなあ。いや、ここで言う「俳優」ってのは敵方のリーダーを演じた松重豊のことなんだけど…てゆーか、このビデオ長篇には「俳優」と呼べるのは かれ1人しか出てないんだけどね。どんなにクダらん陳腐な台詞にも生命を吹きこみ、モノホンの格闘家やアクション経験者が居並ぶなかで 振りをしてるだけなのに いちばん強そうに見える。いつ沈んでも不思議じゃない安普請のボロ船を、ともかくも最後まで支えた松重豊に敬意を表して大サービスで星2つ。それが証拠にクライマックスの勝負に敗れて松重豊が退場した途端に、おれも睡魔に敗れてしまって気が付いたらエンドロールだった(火暴) だからおれ、このビデオ長篇のラストシーン観てないんだよ(いいのかそんなんで!?) ● 古来、琉球王朝に近衛兵として仕えてきた主守(ヌシガミ)家。その当主の証たる一巻の「巻物」をめぐる南主守(ミナミヌシガミ)一派と北主守(キタヌシガミ)一派の争い。背景は現代だが、なにしろお家騒動の話なので、舞台は東京の屋敷と沖縄の離島に限られ、外部の人間は登場しない。つまり釈由美子の「修羅雪姫」や、本作のアクション監督の下村勇二が手掛けたVERSUSと同じく、伝奇SF的な設定のなかで格闘アクションを魅せることを第一の眼目とした作品である。 ● また、チラシのデザインを見るかぎりでは「美少女アイドルの主演ビデオ」という側面もあるようだが、ヒロイン役の森田彩華には(名前に反して)彩りも華もない。おまけにどのテレビドラマで憶えたんだか演技力もないくせに、やたらと「目の演技」をしたがるのだ。最初「哀しい演技」をしてる(つもり)なんだと解からなくて「やたらと目が泳いでるのは…このコ、眠いのかな?」と思っちゃったよ。 ● ヒロインの護衛役の兄妹に「仮面ライダー龍騎」の仮面ライダー ナイトの人と、「超星神グランセイザー」の清水あすか。2人とも芝居はメリハリ強調のテレビの特撮番組スタイル。 まあ、でもヒロインの小娘よりは、むっちり筋肉質で、口元のほくろがロマンポルノ女優・浅見美那(←この人も特撮ヒロイン出身)を思わせる清水あすか のほうが、なんぼか美しい。この人がなんで筋肉質なのかというと、お父さんが中国皇帝の近衞護衛の流れを汲む闇ボディガード(!)で、御本人もそのお父さんの道場=鳳龍院心拳の17代宗帥なのだそうな(「映画秘宝」誌 2003年11月号所載の「大槻ケンヂの 激突!パイパニック対談」参照) そんな清水あすかの強さの核心に迫る名台詞。突如あらわれた悪党どもをアッという間に倒してしまって、驚いたヒロインが「なんでそんなに強いの?」と訊くと、「いつもトレーニングしてるからよ」 ● その彼女と対決する敵の刺客に、こちらは霊幻道士の家系だという台湾女優・陳恵珠を母に、松涛館流の空手家・浅井哲彦を父に持つ、浅井星光(ほしみ)。父からは空手を、母方の叔父さんからは白鶴拳を学んだのだそうだ。同じく「映画秘宝」誌 2004年2月号「大槻ケンヂの 激突!パイパニック対談」より浅井家の愉快なエピソード>[ご飯を食べててもテーブルが揺れてるんですよ。で、食卓の下を見ると父と叔父が足技をやってるんです] ちなみに彼女ちょっとリー・リンチェイに似てますね。…いや「格闘スタイル」が じゃなくて、顔が(火暴) で、この女リー・リンチェイの芝居がまた どこでカブれたんだかモロ「宝塚の男役」風なのだ。そんなに器用に眉をピクピク上げられるんなら、もっとマトモな演技の勉強しなさいよ。 ● 以上、かように芸風バラバラな素人さんの中に入って「俳優・松重豊」は1人で奮闘しているのである。いやあ俳優さんて偉いなあ(最初にもどる)

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パラサイト ドールズ(吉永尚之&中澤一登)

シリーズ構成・脚本:小中千昭 アニメーション製作:AIC

おれはどっちも未見だがOVA(?)「バブルガムクライシス」「AD.POLICE」シリーズと同じ世界観に基づいて作られた新作(?) この未来世界では「機動警察パトレイバー」におけるレイバー(労働用ロボット)と同じように「ブーマ」と呼ばれる労働用アンドロイドが店員から技術職、果ては刑事や娼婦にいたるまで多用されていて、やはり「機動警察パトレイバー」と同じように、ブーマ犯罪を専門に取り締まる「AD.POLICE」(アドバンスト・ポリス?)というものが組織されている(余談だけど、従来の警察は「ノーマル・ポリス」と呼ばれていて、まあ、それはいいとして、じつはこれが通称でもなんでもなくて本庁の正面にデカデカとNORMAL POLICE」と書いてあるってのが笑っちゃう) ● 「人間を人間たらしめているものは何か?」というテーマを同じうする25分くらいのエピソードが3つ串刺しになっていて、絵柄や世界観がやけにひと昔前のアニメっぽいのと、エピソード間の画力に差があるように見えるのは、ひょっとして押井守の新作「イノセンス」公開に合わせて、旧作OVAシリーズから3話分を抜粋したバッタ新作なのかな? おそらくOVAではこの程度が水準なんだろうけど普段、IGとかマッドハウスとかの劇場版アニメしか観てない目には原画・動画ともえらく稚拙に映る。とくに美術(=背景)がスカスカで、家具調度・車両・小道具などがデッサン、パース、スケールともメタメタなのは、もう少しなんとかしてほしいぞ。話の内容とキャラクター・デザインは川尻善昭チックにそこそこエロティックなのだが、ビデ倫のR指定を避けるためか乳首死守。…アニメなのに。

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ドラキュリアII 鮮血の狩人(パトリック・ルシエ)

日本では「ドラキュリア」の続篇だから「ドラキュリアII」とスッキリしてるのだが、原題だとアメリカ公開タイトル「ドラキュラ2000」(海外公開タイトル「ドラキュラ2001」)の続篇が「ドラキュラII:昇天」というややこしい関係になっている。 ● 前作のラストでドラキュラが朝日に焼け死んで、その焼死体が死体安置所に運び込まれるところから始まる完全な続篇。前作がマルディグラの最中という設定だったので、本作の美術ではちゃんと「祭りのあと」の飾り付けがなされているのに感心した。前作は「ドラキュラの正体は[裏切者のユダ]だった!」というトンデモ種明かしを除けば、わりと正統的なドラキュラ映画だったが、本作(と同時撮影済の3作目)ではヘルシング教授に代わる強力な好敵手を創造して、そちらを主役に据えている。バチカンが送り込んだ究極のヴァンパイア・ハンター。半月型のカマを自在にあやつる非情の首刈り神父=ジェイソン・スコット・リーその人である! (BBSで有象無象さんも書かれてた)必殺の名台詞>「神父さん、おれの魂が欲しいのか?」「魂は神が召される。わたしは首をもらう」 この神父さん、どうやらウェズリー・スナイプスのブレイドと同じく半人半鬼のようだが、その出生にまつわる因縁についてはパート3にて…ってことらしい。はよ次も公開せえよ。3はビデオのみってのは許さんぞ>アートポート。 ● ストーリー自体は、ドラキュラの死体を手に入れて「不老不死の秘密」を探らんとするクレイグ・シェーファー演じる邪悪なホーキンス博士と、弟子の学生たちによる「愛するものの再生」テーマで話を転がしている。しかし前作を観てないと、ドラキュラがなんであれだけイエス・キリストに愛憎半ばす感情を持ってるのかサッパリ解からんと思うぞ。あと、もうちょっと色っぽいネエちゃんがたくさん出てくると良かったですね。リー神父の師匠にして前任者の役でロイ・シャイダーが特別出演。 ● 監督は前作に引き続きウェス・クレイヴン組の編集マン出身のパトリック・ルシエ。これでデビュー作の「ゴッド・アーミーIII」から3本つづけて「アンチ・キリストもの」という、ずいぶん特異なフィルモグラフィーですなあ。本作もまたまたウェス・クレイヴンが名前貸しクレジットで小金を稼いでいる。 ● ドラキュラの習性として「目の前にあるものの数を数えてからじゃないと前に進めない」ってのが出てきて、ドラキュラの足を止めるために周囲に植物の種をザザアっと撒いたりするんだけど、…そうか! ジム・ヘンソンのマペット・ファミリーの、なんでも数を数えないと気が済まないカウント・ドラキュラって、単なる「伯爵(カウント)」と「数えるカウント」の駄洒落だとばっかり思ってたけど、ちゃんと根拠があったのか! 本作のラストで惜しくもドラキュラ伯爵をとり逃すリー神父。「かならず、また見つけ出す」と言うと、伯爵ニヤリと笑って「I'm counting on that.(期待してるぜ)」


バレット モンク(ポール・ハンター)

おれが世の中でいちばん憎むもの。それはピント合わせをしない映写技師である。だから本作のショーン・ウィリアム・スコットはその時点でヒーロー失格。たとえどれだけ詠春拳が強かろうが、どれほど重大な使命を帯びてようが、フィルムの切替え時間に遅刻して支配人に文句を言われると「客だって半分 観たからいいじゃんか」などと軽口を言い、チョイ・シウキョン(徐少強)主演の「佛山贊先生 DESCENDANT OF WING CHUN」(1978)の(おそらくはもう傷だらけのボロボロであろう)貴重なプリントをぞんざいに扱い、ピント合わせすらしないで済ます映写技師など、おれは絶対に認めんぞ。世の中には冗談にしていいことといけないことがあるのだ。 ● 1990年代末に蝿取紙出版なるインディー出版社から発売されたコミックスの映画化。「いまカンフーが熱い!」ってことでCM/MTV出身の新人監督が、付け焼刃で香港映画の知識を仕入れて作ったやっつけ仕事。なにせ監督のポール・ハンターはまだ22歳。ガキじゃん。タランティーノみたいな筋金入りのオタクに較べると、すべてにおいて詰めが甘過ぎ。まあ、毛唐はなーんもワカっちゃいないから平気でリー・リンチェイにガン・アクションさせたりチョウ・ユンファにカンフーさせたり出来るわけなんだが。 ● あと地下鉄ギャングのボスのキャラ、ありゃなんなんだ!? そもそもが「ケープ・フィアー」のロバート・デ・ニーロのパロディ・キャラである「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」の全身刺青男を(コクニー訛りだかアイリッシュ訛りだかまで含めて)さらにパクってるのだ。なんなんだその安さは!? ナチス残党の地下秘密基地の脳味噌スキャン装置の動力源がなぜか水力発電で、なにゆえに?と思ってたら終盤で主人公がパイプから基地に侵入する際にパイプに水を流して危機を演出するためなのだった。なんだよそれ? 脚本てものをナメてんのか。

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ミスティック・リバー(クリント・イーストウッド)

ショーン・ペン ティム・ロビンス ケビン・ベーコン
マーシャ・ゲイ・ハーデン ローラ・リニー

人生を河の流れに喩えるのは文学や歌謡曲ではたいへんにポピュラーな手法で、夏目漱石も「情に棹させば流される」と言ってるし、美空ひばりは「川の流れのように」と歌った。そのものズバリ「人生は長く静かな河」というフランス映画もありましたな。この「神秘の河」というタイトルを持つ映画において作者は「人生とは河底の見えない暗い河である」と言っている。そして我々はもはや清流へと遡ることは出来ない。もがこうが逆らおうが結局は暗く冷たい水の中を河口へと流されていくのだと。かような人生観に基づく映画である。ハリウッド・エンディングは訪れない。ワーナー映画の宣伝に乗せられて「スタンド・バイ・ミー」の甘酸っぱいノスタルジーを期待して行ったあなたはずしりと苦い想いを胸に凍てつく冬空の下に放り出されることになる。だから映画を観てクラい気分になりたくないという方にはお勧めしない。 ● ガキの頃のマブダチ3人。いまから思い返しても「なぜあんなに仲が良かったのか?」と不思議なくらい、いっつもツルんでた3人だった。あれから幾星月。すっかり中年となり人の親となった3人が、とある殺人事件をきっかけに再会する──1人は娘を殺された父親として。1人は殺人課の刑事として。そしてもう1人は殺人者として…。原作はデニス・ルヘインの同名小説。脚色は(やはり3人の主要キャラの描きわけが際立っていた「L.A.コンフィデンシャル」の)ブライアン・ヘルゲランド。 ● じつはミステリ映画としては「小説を映像化する際の典型的欠点」を抱えており「真犯人探しのミステリ」としては あまり上手く機能していないのだが(これについてはネタバレなので別ファイルにて述べる)、本作の眼目はそこにはなく、3人の男たち(とその妻たち)のキャラクターと関係を、冒頭に置かれた少年時代のプロローグと本篇とのあいだの、描かれなかった30年間に何があったのかを、じっくりと炙り出していくところに醍醐味があり、本稿の冒頭に名を掲げた5人の俳優(+酒屋の親父として特別出演のイーライ・ウォラック!)の、ややオーバーアクト気味の役者芝居が本作に「娯楽映画を観る愉しみ」をもたらしている(言い方を変えれば、役者さんたちのわかりやすい熱演が「辛気臭い芸術映画」に陥る罠から本作を救っているのだ) いっそ、ただひとり生彩がないローレンス・フィシュバーンの役をイーストウッドが自分で演っちゃえば良かったのに…とも思うが、そーするとケビン・ベーコンが霞んじゃうからなあ。 あと、ショーン・ペンの子役は笑っちゃうくらいそっくりなのに、ケビン・ベーコンの子役が「ケビン・ベーコン」てよりコリン・ファレルにそっくりだったのは何故?(ほんとは刑事役はコリン・ファレルにオファーしてたとか…?) ● 撮影はマルパソ・プロの照明技師出身で、「ブラッド・ワーク」に続いてこれが2作目の撮影監督となるトム・スターン。クライマックスがほぼ闇夜の中で展開されるので、なるべく設備の良い劇場でご覧になることをお勧めする。ちなみに昨秋に大改装した丸の内プラゼールは、内装も黒を基調としたスクリーンからの照り返しのないものになっており、新規にJBLのスピーカー・システムも導入されて音量も音圧もバッチリだった。ただ音質は同じJBLの新宿ミラノ座とかと較べるとデジタルっぽい、ちょっとキンキンした音だけれど。 ● 最後にワーナー映画宣伝部へ文句をつけておく。せっかく「一般的に評判の良いイーストウッド映画」なのだから、こんな慌しい形ではなく、もう少し丁寧に公開/宣伝できないものか。正直いってたしかに「ブラッド・ワーク」や「トゥルー・クライム」じゃ、いくら宣伝したって日本じゃ当たらんだろうが、本作には堅実なヒットが狙える芽があると思うのだ。ほんと勿体ない。 あとポスター/チラシ。[もうひとつの「スタンド・バイ・ミー」を見るために、あなたは大人になった。]ってコピーもまったく意味不明だが、それより[2003年度、全米マスメディアの心を最も震わせた映画。アカデミー賞確実:13誌、最高傑作:11誌、最高の演技:13誌、驚くべき脚本:11誌、絶賛:23誌]ってなにそれ!? 大雑把にもほどがあるというものだ。