back

m @ s t e r v i s i o n
Archives 2001 part 4
★★★★★=すばらしい ★★★★=とてもおもしろい ★★★=おもしろい ★★=つまらない ★=どうしようもない

★ ★ ★
ダンジョン&ドラゴン(コートニー・ソロモン)

まあギャガのやることだからおれらには理解できないのも仕方ないけど、それにしても、ただでさえ公開前から当たらないって分かってる作品なんだから、せめて原題の「ダンジョン&ドラゴン」のまま公開して原作ゲーム・ファン(おれは違います)にアピールすりゃいいのに。 ● 白黒2人の泥棒コンビ+見習い魔法使い(♀)+ドワーフ(小人族)の戦士+エルフ(妖精)の追跡者…という5人のパーティーが「ドラゴンを自在に操れるようになるアイテム」を探して旅に出て、さまざまな困難に遭遇する。いままでゲームの映画化はほぼ例外なくハズレなので今回もまったく期待していなかったんだけど意外なことにけっこう面白かった。意味なく「試練の迷路」なんてのが出てくんのが可笑しい。キャラクターに経験値がまったく蓄積されないバカバカしくて軽いノリがリチャード・フライシャーの「キング・オブ・デストロイヤー コナン PART 2」…と言っては言い過ぎだが、かなりイイ線、行ってるのではないか。ま、逆に原作ゲーム・ファンは「こんなんD&Dじゃないっ!」と怒っちゃう気もするけど。てゆーか、ほんとに「原作の熱烈ファン」なのか?>30才の新人監督。あとたかがゲームの映画化なんだから「自由がどーの平等がどーの」ってタワゴトはウザいだけ。いいから話を進めろって感じ。原作ファンもそうでない人もたぶん満足なのがクライマックスのドラゴン空中戦で、二線級CGスタジオの野合軍にしては頑張っていると思う。じっさい(俳優を別にすれば)本作のCG依存率は「ファイナル・ファンタジー」並みなのだ。 ● B級映画としては快作といえる本作だけど、最大の欠点はヒーロー役のジャスティン・ホエイリーがまったくキュートじゃないってこと。例えばデヴォン・サワならぜんぜん違ってたのに。 ヒロインは2人いて「ちょっとドジなメガネっ娘の見習い魔法使い」という日本のアニメでも研究したのか!?というキャラは素晴らしいのだが、いかんせんこれはエラの張った26才の女優(ゾー・マクラーレン)に振る役ではない。TVに出てるようなティーンアクトレスに可愛いコがいくらでもいるでしょうに。 国と民のことを憂える若き女王さまに扮したソーラ・バーチも(やたらと巨乳が目立つばかりで)いっこうに生彩がない。一国の女王さまの役なのに気品のかけらもないというのはマズいでしょう(それと、だれか「女王の歩き方」を教えてやれ) 魔法使いが黒髪なんだから、こっちはリーリー・ソビエスキーみたいな金髪に演らせるべきだったね。 相棒役のマーロン・ウェイアンズは及第点。こいつの軽口がだいぶ映画のトーンを救ってる。本当はスネイルズという役名なんだけど、字幕ではスネイルと「ズ抜き」になってるのは何故(邦題に合わせて!?) どっちかつーと「追跡者」というより「女戦士」という風情のエルフに「ドクター・ドリトル」の奥さん役(?)のクリステン・ウィルソン。もちろんエルフなのでトンガリ耳 萌えの人(おれは違うってば)にお勧め。でも肌襦袢みたいなコスチュームはダサ。やっぱ「素肌に鎧」が基本でしょう。 さてお約束の悪役「黒魔術を操る宰相」にはジェレミー・アイアンズ。テレ隠しなんだろうか殊更に「仮面ライダー」の地獄大使みたいな大仰な演技で最後まで通す。だけど七三分けは変だろ七三分けは。中世(を思わせる)世界の話なんだから悪い魔法使いの髪型は蓬髪に決まっとるでしょーが。たんまりギャラを貰ってんだからカツラぐらい作れよ。 その右腕たる近衛隊長に「パッセンジャー57」のブルース・ペイン。クチビルがブルーの口紅を塗ったみたいに青いんだが…寒いんか? あと「ロッキー・ホラー・ショー」のリフラフことリチャード・オブライエンがチラと顔を見せている。 ● 実景部分はチェコ・ロケ。 エンドクレジットによると「劇中に登場するドラゴンは一匹も傷つけておりません」だってさ。 ハンス・ジマー門下の新鋭(?)ジャスティン・ケイン・バーネットがバロック・アクション大作に相応しい派手な劇伴を付けている。 なんとなんと製作がジョエル・シルバーなんだけど、ほんとにほんとか!? おれの見間違いじゃねーのか!? よく見ると「ジョエリー・シルバー」とかゆー別人だったりして。 …てゆーか、なんでこの映画にこんな長文?

★ ★
ジャニスのOL日記(クレア・キルナー)

原題は「JANIS BEARD 45WPM」。ジャニス・ベアードはヒロインの名前。W.P.M. とは words per minute、つまりタイピング速度のことね。だから「1分間45語のジャニス・ベアード」。遅っせー! 事務仕事をやらせたらどうしようもなくトロい妄想幸福系のイタいブスがなんとか社会に適応していくまでの話。イギリス映画なのでヒロインの(見た目の)レベル(の低さ)がハンパじゃない。そのうえヒロインがオフィスでひとめ惚れする「カッコ良いメールボーイ」が「ノッティングヒルの恋人」のブリーフ男 リス・エヴァンス。ハリウッド映画では考えられない事態である。配給会社(大映)も困ってしまってチラシはイラストだ。 ● ま、お話はべつにシリアスドラマではなくて、自動車会社を舞台にした新車発表と産業スパイに絡むてんやわんやを描く「OL頑張るモノ」のコメディなんだけど、ストーリーの練りも各キャラの熟成も中途半端だし、派遣OL出身の新人女性監督の演出テンポも(ヒロインのタイプ速度のように)トロいし、とりたててお勧めできる出来ではない。本篇のヒロインみたいな女性は無理してOLなんかする必要ないと思うけど(こっちも迷惑だし) ヒロインの勤める秘書室をとり仕切る「お局OL」にパッツィ・ケンジット。

★ ★
パズル(マテオ・ヒル)

「テシス 次に私が殺される」「オープン・ユア・アイズ」の共同脚本家マテオ・ヒルが独り立ちして、単独で脚本&初監督。主演は前作同様、エドゥアルド・ノリエガ。前2作の監督アレハンドロ・アメナーバルは今回、音楽のみを担当している。 ● 舞台はスペインの古都セビリア。新聞のクロスワード・パズル作家シモンの留守番電話に「ヨコの6番の答えを ADVERSARIO(敵対者)にせよ」というメッセージが入る。それをきっかけにシモンは街全体を舞台にした死のゲームに巻き込まれていく。おりしも街は年に1度の「聖週間」のお祭りで賑わっており、KKKみたいな頭巾にマント姿の「殉教者」たちが影のように主人公に付きまとう…。 ● という話だけ聞くとスゲー面白そうでしょ。ところがこれがトンデモ映画なのだな。なんと犯人は[主人公のルームメイトのゲームおたく]で[自分の作った「敵対者」というゲームで主人公と対戦]したくてテロ行為におよぶのだ。もちろんなぜシモンが標的に選ばれたのか?の説明はない。こいつら街中で(巨大ゲーセンによくある)サバイバル・ゲーム用の赤いビームガンを大真面目に撃ち合ったりするんである。いや、まあトンデモ映画ならトンデモ映画でもいいんだよ。それを「本格派ミステリー・サスペンス」として演出するからややこしいことになるのだ。「名探偵コナン」の新作としてアニメ化すればいいんじゃないかと思った。原題は英語にすれば「Nobody Knows Nobody」で、「誰も周りの人間のことを知らない」ってニュアンスか。


アタック・ナンバーハーフ(ヨンユット・トンコントーン)

タイ映画。この話の肝は「おかまがバレーボールをやる珍妙さ」にあるのではない。おかまのバレーボール・チームが普通の男どものチームより「強かった」ことにあるのだ。つまりは「はみ出し者の弱小チームが勝利を得る」という定番の感動スポ根コメディのバリエーションなのである。「おかまがチャラチャラして勝っちゃった」ではダメなのだ。あくまでも おかまたちの人一倍の努力と(独創的な)練習を見せたうえで「チャラチャラしてた おかまが試合になったら別人のようにキリリとして勝つ」その落差をこそ描くべきなのである。エンディング・ロールに流れる(モデルとなった)本物のおかまチームの皆さんのニュースリールをもう1度よく観てみたまえ。本作の「おかまだから強い」「化粧したから強い」という描き方はこの人たちの流した「汗」に対して失礼だ。 ● 俳優たちのレベルも限りなく低い。ろくに運動も出来ない役者を使ったせいか、試合シーンは得点ボードとニュース画面でしか描かれず「手に汗握る興奮」とは最後まで無縁のまま。ただ「かま」であることに寄りかかった脚本は未熟で、伏線ひとつまともに張れない。おかま映画の傑作「クレヨンしんちゃん」や「プリシラ」への目配せに至っては片腹 痛いわい。おまけに、監督と選手の心がひとつになる「感情的クライマックス」であるべきスナックでの誕生パーティーの異常なまでの照明の暗さは、ありゃ何なんだ! そればかりでなく、全篇にわたって、まるで褪色したかのように色が悪い。とても海外に輸出するレベルには達してない三級品。

★ ★
姉のいた夏、いない夏。(アダム・ブルックス)

むかし気まずく別れたままの彼女の「18才の妹」がとつぜん訪ねてきて「あたしもお姉さんみたいに抱いて!」とパツンパツンの肉体をみずから投げ出してくれる・・・という夢のような話である。<要約の仕方を間違えてます。…そう? では、やりなおし> ● サンフランシスコでフラワー・チルドレンやってた姉さんがヨーロッパ放浪の果てにポルトガルの海岸で投身自殺してしまった1969年以来、スピリッツを失くしたままの少女が、出口なしの1976年のカリフォルニアからヨーロッパへ姉の軌跡を検証する旅に出るが、結局「フラワー・チルドレンなんてそんな美しいもんじゃなかった」と思い知らされる話。…え、これも違ってる? ● いや、まあ、監督・脚本のアダム・ブルックス(「プラクティカル・マジック」「フレンチ・キス」の脚本家)に「そーゆー話」を撮るだけの野心があれば傑作になったかもしれない。だが作者は「時代の総括」なんぞには興味がないらしく「追憶のなかの姉を追体験して大人になる少女の話」として甘酸っぱく撮っている。そして、その限りにおいては さまざまな光線と距離を的確に使い分けた(「スカートの翼ひろげて」「ウェイクアップ!ネッド」「シューティング・フィッシュ」の)新進カメラマン、ヘンリー・ブラハムの貢献もあり、まずまずの出来。 ● 追憶のなかの姉に、キャメロン・ディアス。「美化された想い出のなかの美しい姉」としては完璧だが、妹の思い出を裏切る残酷な実像を見せて、なお説得力がある…ところまでは行ってない(もちろん脚本の所為でもある) 妹には「パラサイト」の〈デミ・ムーアもどき〉こと、ジョーダナ・ブリュースター。これも脚本の責でもあるが「大人の世界を垣間見て少女が女になる」という部分が描けていない。この女優さんメキシコ系なのか、最後にポルトガルに行くと まるきり「現地の娘」みたいで、おれはてっきり「出生の秘密」でも明かされるのかと思っちゃったよ。脱いだらすごいヌードあり。 姉妹どんぶりで美味しい目を見る(←だからそういう話じゃねえって)男にクリストファー・エクルストン。回想シーンの長髪は笑っちゃうけど、やはりこの人は上手い。 姉妹のお母さんにブライス・ダナー。 妹の少女時代に(「プラクティカル・マジック」のサンドラ・ブロックの子ども時代や「沈黙の陰謀」のインディアン娘に扮していた)カミーラ・ベルちゃん。てゆーか、もう中学生ぐらいなんだから、妹はそのままこの子に演らせても良かったのでは? ● しかしあれだなあ。話の根底を否定するようだけど、世の中には「そっとしておいたほうが良いこと」ってのもあると思うぞ。それと「誰にも言わないで」という女との約束を守れないような男はサイアク。

★ ★ ★
テイラー・オブ・パナマ(ジョン・ブアマン)

原作&脚色:ジョン・ル・カレ
「アリババは去ったが40人の盗賊が残った。ようこそパナマへ。ここはヒーローのいないカサブランカだ」・・・パナマの仕立て屋は、イギリスから来たスパイにそう説明する。スパイに弱みを握られて情報提供を強制されて。国家の機密情報を入手するのに、なぜ仕立て屋なのか? 「仕立て屋は神父のような存在だ。衝立ての向こうは告解室なんだ」 なるほど「永田町の床屋」とか「赤坂の料亭の女将」とかそういう類か<ちょっと違うと思う。 ● 地味ぃな1990年代を過ごしつつも「女神たちの季節」「ラングーンを越えて」(「ジェネラル 天国は血の匂い」は未見)と、決して死んでいたわけではなかったイギリスの映画作家ジョン・ブアマンひさしぶりの劇場公開作。007のセルフパロディで笑わせてくれるピアーズ・ブロスナンに、相変わらず巧いジェフリー・ラッシュ、そして「大逆転」のとき同様 今回も何の必然性もなく熟女ヌードを披露してくれるジェイミー・リー・カーティス…と、役者を眺めてるだけでも楽しいし「場末の連れ込み旅館の振動するベッドの上」でのやりとりなど「名場面」といえるシーンもあるのだが、さりとて観終わってみると意外に薄味でものたりなさを覚える。それは本来この映画が(「ウワサの真相 ワグ・ザ・ドッグ」のような)政治的サタイアではなく「男同士のぶつかり合いのドラマ」として企画されたと思うからだ。ブロスナンもラッシュも最後はもっと必死になるべきだし、2人が激情をぶつけ合う場面をクライマックスとすべきではなかったか。ま、良くも悪くもそれが「ピアーズ・ブロスナンの味」なんだろうが(cf. ショーン・コネリー×ジェフリー・ラッシュのバージョンを想像してみよ) ● ボンドガールのようなお手軽さでブロスナンとデキてしまう英国大使館員に「スカートの翼ひろげて」のキャサリン・マコーマック(ヌードあり) 悪名高きノリエガ政権時代に顔の半面を潰された…それでも十二分に美しい「レジスタンスの女闘士」にレオノラ・ヴァレラ。 台詞一箇所のみの出演で爆笑させる、好戦的アメリカ将校にディラン・ベイカー。 主人公夫妻の2人の子どものうち男の子のほうは今度の正月にシリーズ第1弾が公開される「ハリー・ポッター」の主役に抜擢されたダニエル・ラドクリフ君。 でもって女の子のほうはジョン・ブアマンの実の娘ローラちゃん。…ってコラ、御年68才のブアマンになんで小学校低学年の娘がいるんだよ(元気やなあ…) ● ちなみに本作の宣伝コピー>「パナマへ飛ばされたMI-6が望んだのは、世界を揺るがすトップ・シークレット──ことの真偽はいとわない。」 いとわないってなんだよ「厭わない」って。「ことの真偽は問わない」だろうが。小学生なみの国語力だな>ソニー宣伝部。

★ ★ ★
点子ちゃんとアントン(カロリーヌ・リンク)

スウェーデンにリンドグレーンあらば、ドイツにはケストナーあり…というわけで、ドイツ映画界が「ふたりのロッテ」「飛ぶ教室」「エーミールと探偵たち」の児童文学の大家エーリッヒ・ケストナーの同名原作を映画化した。監督・脚色は「ビヨンド・サイレンス」(おれは未見)のカロリーヌ・リンク。 ● 元サーカスのミス・フラフープ娘のお母さんと2人暮しで家が貧乏なアントン。家はお金持ちだけど、心臓外科医のお父さんと国連ボランティア気狂いのお母さんが、いっつも家にいなくて淋しい点子ちゃん。かなり現代化が成されていて、子どもが観るとかなり本気で悲しく感じるであろう描写もある。いや最後がハッピーエンドで終わってホッとしたよ。若いお父さんお母さん およびその予備軍の皆さんにお勧めする。

★ ★
RUSH!(瀬々敬久)

BAD GUY BEACH」以来6年ぶりの「あいかわ翔プロデュース」作品。今回、哀川翔は「企画&プロデュース&原案&主演」までで、監督はかつて「冷血の罠」で一度あいまみえた“ピンク映画界の雄”瀬々敬久にまかせている。話は、狂言誘拐と5千万円の札束をめぐる愛と欲のサスペンス・コメディ。わざと予想を外したストーリー展開と行きつ戻りつする時制の混乱が売りもの(となるべき)作品である。瀬々敬久のカラーというより、黒沢清の映画にも似た「デタラメさ」は、哀川翔のディレクションが少なからずあると見た。撮影が瀬々組の斎藤幸一ではなく「カリスマ」「回路」の林淳一郎というのも大きいかも。 ● 焼肉屋チェーンの韓国人社長に扮した峰岸徹と、翁華栄の「怪しい三国人」が日活訛りのカタコト日本語で哄笑し、カメオ出演の竹内力がウンガーッと唸る出だしはしごく快調。だが誘拐計画がレールを外れて混乱が加速する頃には…つまり本当なら「話が面白くなりそうなところ」で、どんどん失速してしまうのは どうした理由か。日本語の喋れない“人質”韓国娘韓国語の解からない日本人誘拐犯のあいだに愛が生まれる…という着想は素晴らしいのに、「シュリ」のキム・ユンジンと哀川翔のツーショットに、ちっともロマンティックな空気が流れないのが致命的。これは脚本(瀬々敬久+井土紀州)がもっと押すべきポイントだった。何の伏線もエピソードも無く、最後に突如として愛を告白しあわれても困る。 もうひとりの主役たる(一世風靡セピア仲間の)柳葉敏郎がまた、脚本の不備で内面が欠けているにもかかわらず、過剰に「柳葉敏郎」を演じていて暑苦しいことこの上ない。 大杉漣と阿部寛のコメディリリーフ・コンビは「俳優の力」以上のものではなく、目下、永瀬正敏と熾烈な「年間最多出演本数」レースをくり広げてる麻生久美子チャンは出てるだけで何もしない。…まあ彼女の場合「出てくれればオッケー」なんだけどさ(火暴) ● あと、あの「ショットガンの入手方法」は反則でしょう。「奇想天外な話」だからって「何でもアリ」ってワケじゃねえぞ。ラストの処理など、見るべきアイディアは多いのにそれらを効果的に活かせなかった残念な失敗作。東京・渋谷のシネ・アミューズでは敢えなく3週打ち切りとなったが、ちょっと作品と劇場のカラーが合ってない(=封切る劇場を間違えた)ような気が…。

★ ★ ★
エド・ウッドの クレイジー・ナッツ 早く起きてよ(アイリス・イリオプロス)

史上最低の映画作家エド・ウッドが残した「死んだ日の朝、わたしは早起きした」というタイトルの行き当たりばったりの脚本をそのまんま忠実に行き当たりばったりに映画化。台詞がいっさい無く、ナレーションの代わりに画面にシナリオの文章がタイプ印字されて内容を説明する。初期チャップリンを思わせる「キチガイ病院から脱走した浮浪者/犯罪者予備軍」に扮して主役を務めるビリー・ゼインは、サイレント映画スタイルのオーバーアクションで演技する。さすがにモノクロってわけにはいかないからカラー撮影だが、意図的に陳腐なカメラ・ポジションにして1950年代のB級クライム・サスペンスを模している。登場人物の服装やクルマも1950年代の雰囲気。わざと古臭く撮って、そこに被さる音楽編集のワザで観せる。時おりMTV風のモノクロ回想場面が挿入されて〈センスの良さ〉を誇示する。…いかにも映画学校出のインテリが考え付きそうなしゃらくさいアイディアである(監督は長篇1作目の新人) ● ところが、そのしゃらくさいアイディアにコロッと騙されて一流のスターの皆さんが大挙して出演してたりするのがなんとも…毒牙にかかる被害者にティッピ・ヘドレン、怪優ロン・パールマン、タラコ唇のサンドラ・バーンハードといった面々。サマーとレインのフェニックス姉妹がバーテンダーの役でチョイ役出演。エド・ウッド未亡人のキャシー・ウッドもカメオ出演。「バッファロー'66」(あれもしゃらくさい映画だったな)とプロデューサーが同じなので無理やり出演させられたとおぼしきクリスティーナ・リッチが崩れた躯で色っぽいチークダンスを披露している。ちなみにビリー・ゼインは音楽デザインも兼任。しかし「早く起きてよ」ってサブタイトルは何なんだ!?(意味が通ってないぞ)

★ ★ ★
ベンゴ(トニー・ガトリフ)

この監督の前作「ガッディ・ジョーロ」は〈心優しいジプシーの世界と音楽〉(←おれが勝手に抱いたイメージ)に興味がもてなくて観に行かなかったのだが、今度のは「やくざ映画」だと聞いて、いそいそと足を運んだのだった<単細胞。 ● やあ、たしかにこれはやくざ映画だった。主演は内田良平。妻とは早くに死に別れたのだろうか独り身の、やくざファミリーのボス。そのうえ愛する一人娘までを不幸な事故で亡くして酒びたりの毎日。いつもよれよれの黒いスーツを着て、首にはスカーフ。黒いサングラスに肩までの長髪。心に底なしの空虚を抱えたやくざ者・・・みごとなまでに1970年代の内田良平ギャング映画ではないか! じつはこの内田良平、アントニオ・カナーレスという天才フラメンコ・ダンサーなんだそうだ。演歌歌手やロッカーをやくざ者として起用するというやくざ映画伝統のキャスティングを正しく継承しておるな。しかもこの男の「最期の身の処し方」はまさしく欧米のギャング映画にはありえない日本人やくざのそれに他ならない。自己犠牲ってのは東洋的な概念なのかね? まわりを固める「組のもん」も本職はミュージシャンやダンサーだそうだが、どうしてどうして素晴らしく濃いぃ面構えの面々である。タイトルの「ベンゴ」とはスペイン語で「復讐」の意。やくざ映画ファンには絶対のお勧め。これであとサルマ・ハエック似の娼婦のネエチャンが脱いでくれたら言うことなかったのに。 ● さて、この監督の本意はドラマを描くことではなくて「ジプシーを描くこと」にあるので音楽は欠かせない。ドラマの中に歌がある…のではなくて、歌と踊りの狭間にドラマがある。もっと言えば、歌と踊りの狭間にジプシーたちの人生はある。いわゆるフラメンコと、そしてこの人たちのルーツがインドにあると実感させてくれるインドの民族音楽。圧巻である。カルロス・サウラにはこれっぽっちも心動かされなかった おれだが、これにはヤラれた。もしあなたが、やくざ映画のストーリーに興味が持てなくとも、この歌をリズムを聴くだけで観る価値がある。心に染みる日本語の「ラブ・ユー東京」まで聞けるのだ(!) …しかし徹夜で空が白むまで、あの情熱的なギターを弾き続けられる「指」って、いったいどんなんだろう?

★ ★
バロウズの妻(ゲイリー・ウォルコウ)

バロウズってのは、あの「裸のランチ」の、自分の妻をウィリアム・テルごっこで撃ち殺してしまった作家のことね。ファーストカットはバロウズの妻・ジョーンを演じるコートニー・ラヴのどアップ。ショットグラスを頭に乗せて、ほとんど無声音で「撃ってみなさいよ」 おっ、イケるかな…と思ったら、次のカットのバロウズを演じるキーファー・サザーランドの弛緩した顔にがっかり。あ、だめだこりゃ多分。短っじかい期待やったなあ。 ● 原題は「ビート」。もちろんビート族(ジェネレーション)のビートである。ウィリアム・S・バロウズだけでなくアレン・ギンズバーグなども登場するビート族作家の交友の再現映画。「退廃」とか「苦しい愛」とか「ホモ」とか、まあその手の1本である。コートニー・ラヴは悪くないが、キーファー・サザーランドがジャック・ニコルソンの安っぽいイミテーションに終始するので見ていられない。ピーター・ウェラーとは言わんから例えばゲイリー・シニーズあたりを使えんかぁ? 完全にコートニー・ラヴに貫禄負けしてるぞ。 人妻に思いを寄せる年下の通信記者ルシアン・カーに美貌のノーマン・リーダス。この人も「美貌の」という形容を使えるのはあと1、2年だな。すでに半分(ジョン・ハートみたいな)しわしわのイギリス人男優になりかかってるもん。 この手の映画に良くあるように、巻末に引用字幕/説明字幕が出るんだけど、これが果てることなく十数枚にわたって出続けるので呆れかえった。画で描けよ映画なんだから。 ● この映画、配給会社(丸紅+M3エンタテインメント)が、東宝東和やギャガがよくやる邦題を英訳した偽原題を付けていて、アート系のリバイバルとかによくあるパターンの、日本語の入ってない小洒落たチラシやポスターを作ってるんだが、その嘘タイトルが「WILLIAM-S-BURROUGH'S WIFE」って、それじゃ「バロウの妻」だろーが! しかも御丁寧に劇場で売ってる(後から作ったはずの)小洒落たパンフとかアナログ・サントラ盤のジャケットまで全部そのまんまなの。誰が気付けよ。あんたらアタマ悪すぎ。 

★ ★
DOWNTOWN81(エド・ベルトグリオ)

27才で早逝したアーティスト、ジャン=ミシェル・バスキア(本人)が1981年のニューヨークのダウンタウンを彷徨する。1981年に撮影されたままなぜか20年も放っておかれて、昨2000年に完成した。75分。劇中にグランドマスター・フラッシュのメリー・メルや、プラスチックス、キッド・クリオール&ココナッツ、ジェームズ・ホワイト&ブラックスなどのクラブでのライブが挿入されている。おれはバスキアには興味はないので、もっぱらこの演奏シーン目当てで観に行ったのでいちおう満足だけど、本当にそれだけの映画だった。

★ ★ ★ ★
ココニイルコト(長澤雅彦)

ココニイルコト。ジブンノ アシデ タツコト。サイショノ イッポヲ フミダスコト。・・・「はつ恋」の脚本家・長澤雅彦の監督デビュー作。「Love Letter」とか市川準の諸作と同系統の静かなラブストーリー。あるいは「星空を見るのが好きな男」がヒロインの相手役を務めるような映画である。ま、おれはべつに星空に見とれる趣味もなければ海を見に行きたくなることも皆無の無粋な人間なので、こーゆー「テレビドラマ的」というか「少女漫画チック」な映画はあまり得意なジャンルではないのだが、それでも長澤自身と三澤慶子の共筆による、ヒロインの心が快復していく様を丁寧に掬いあげたウェルメイドな脚本の力で、好感をもって最後まで観ることが出来た。そればかりかあの白日の星空には、すっかりヤラれてしまったよ。 ただ、ラストのヒロインにかかってくる「電話」は余計だと思う。あそこは空耳ぐらいにしといたほうが効果的だったのでは? てゆーか、なんであそこで例の決め台詞を使わないのかなあ。 あと現実には島木譲二みたいなハゲおやじが社長をしてる大阪ローカルのおもちゃ屋が、本作のヒロインが考えたような駄洒落のひとつも入ってないスカした広告案を採用することは、天地がひっくり返ってもないと思うが。 ● ヒロインは電波広告社 略して電広のコピーライターで、クリエイティブ局のエースADとの不倫がバレて、大阪支社の…それもガサツな営業部隊にトバされてくる。そりゃ不公平で不運な処遇だとは思うけど、この女、「男に捨てられた」傷を一日中ひきずってて、仕事もせずにぼぉーっとしてんだよ。仕事をなんや思てけつかんねん! 嫌なら辞めろよ。全部が全部とは言わんけど女と男じゃ「仕事に対するスタンス」…てゆーか「生活のなかで恋愛の占める割合」がかなり違うよな。 ● …話が逸れた。ヒロイン・真中瞳は(おれは「電波少年」も「ニュースステーション」の彼女のコーナーも1度も見たことがないので)この映画がまったくの初見だったのだが(透明な空気感を撮らせたら並ぶ者のない藤澤順一の撮影も多分に寄与して)しごく魅力的に映っている。 ヒロインにふたたび生きる力を与えてくれる「天使」の役まわりである、同日に途中入社してきた同僚に堺雅人。なにごとも「えぇんちゃいますかぁ?」で済ませてしまう(やっぱり少女漫画でよくある目が一本線のタイプの)青年像を好演。小劇場界では有名な人らしいけど映画では本作ではじめて「初日」が出た。 脇もおおむね良いけど、ヒロインに意地悪するお局OL・黒坂真美のパートだけは もっと達者な人か、せめて大阪弁ネイティブの女優を使うべきだった。 これ実際に大阪電通がモデルらしく電通が出資&撮影協力している。 ● この映画を観た誰もがそう思うだろうが(<んなこたぁ無い)これ、里見瑤子 主演でピンク映画に出来るねえ。けなげなキャラがまるでアテ書きのようだ(<んなこたぁ無い) このまんまじゃピンク映画としては地味すぎるから、渡邊元嗣監督で思いっきりファンタジーに脚色してさ。えーと撮影は清水正二を指定ね。青年が岡田智宏。お局OLが林由美香。もうひとつの役に河村栞。営業部長がジミー土田。セクハラ・クライアントに十日市秀悦…でどうよ?<それじゃまるっきり別の映画の気が…。

★ ★
Stereo Future(中野貴雄)[一部キネコ]

…え、貴雄じゃない? いや少なくとも中野貴雄なら(ワケワカランながらも)もうちょっと面白いモノになったはず。中野裕之の第1作「SF/サムライ・フィクション」は「ああん?ビデオクリップ屋ごときが時代劇だあ!?」と偏見まるだしで観に行かなかったのだが、東映 夏の勝負作「赤影」の監督に抜擢されたとあっては無視することも出来ず観に行った第2作・・・なんなのこれ? 舞台は2002年。メインプロットは「永瀬正敏 扮する売れない大部屋役者が東映京都の超大作のお姫様役に気に入られ、大役に抜擢されたはいいが…」という三流役者悲哀ものだが、もちろん中野某にはドラマを描く気などさらさら無く、典型的AVID編集による(まさしくビデオクリップのような)益体もない悪ふざけと(なぜか)環境保護のメッセージが延々と垂れ流される。あんた、こーゆーのセンス良いと思ってんの? しかも(チラシによると)「中野監督が特にこだわりをもったという息を呑むほどに美しい自然の映像」とやらが何のこたぁないビデオ撮りのキネコ画面だったりする無神経さ。我慢して1時間ほど観てたけど、このまんま最後まで何も起こりそうもないので途中退出。 まあ「深作欣二」を演じた風間杜夫はハマッてたし、ワガママなお姫様女優の麻生久美子は可愛かったけどさ。「赤影」への期待度が最低ラインに急降下したのは言うまでもない。…てことは、もう今年の東映に期待作は1本もないってことだ。阪神ファンの気持ちがわかったよ。

★ ★ ★
ポエトリー,セックス(サマンサ・ラング)

ちんぽまんこが頻出する過激なフェミニズム・ポエムを書いては、六本木の外れのあたりのバーで朗読して、サブカル猿どもからチヤホヤされイイ気になってた女子大生が失踪した。裕福な両親が私立探偵に娘の捜索を依頼。探偵は調査を進めるうちに、詩のクラスの担当教授だった美女と恋におちる…。私立探偵のモノローグで展開する古典的なハードボイルド・ミステリである。探偵と美女の濃厚なセックスが描かれるあたりは「氷の微笑」を思わせもする。だが、この映画のオリジナリティは探偵がレズの女だという点にある。 ● オーストラリア映画。シネスコサイズ。「女と女と井戸の中」(おれは未見)のサマンサ・ラングの新作。ヒロインの私立探偵はベリーショートの髪型に、化粧っ気のない顔、皮のアウトフィット…と、いかにも典型的でかえってリアリティがないくらい。おんぼろ車には玉スダレ型シートクッション(←日本特産じゃなかったのか!)、ダッシュボードの小型扇風機からは生ぬるい風。どこの国でも私立探偵は貧乏なのだな。てゆーか(タフでマッチョが売り物の私立探偵なのに)「29才の小娘」で「レズ」ときては、もろ嘲笑の対象で、地元の刑事からもマトモに相手にされない。じつは元・警官で、おそらくは有形無形の圧力が彼女を警察に居られなくしたのだろう。ま、実際にあんまり頭がキレるふうでもなく、愛人関係になった美人教授からも「あなたって床上手だけど探偵は下手ね」と言われる始末。だいたい私立探偵ものってのは「どこから来るんだその自信は!?」ってくらい探偵が尊大なものだけど、本作では(演じるスージー・ポーターが小柄なこともあって)探偵のほうが立場が弱っちい。つまりこれは「青二才の小娘が世間と悪戦苦闘する話」なのである。おれは出来の悪い末の妹を見守るような気持ちで観てしまった。いやもちろん惜しみなく見せてくれる(フォトジェニックではないが)豊満な裸体のほうも。←ちなみに「エピソードII」で Hermione Bagwa の役をやってるそうな(ジェダイ評議会のメンバーかなんか?) ● 対して「謎の美女」…つまりシャーロット・ランプリングの役まわりを演じるのはケリー・マクギリス。熟女も熟女、大熟女ヌードを晒しての熱演だが、いかんせん(男のおれの目からは)すこしも魅力的ではない。レズの方にしか解からない魅力があるのだろうか。まあシャロン・ストーンじゃ教授に見えないだろうから、ここはスーザン・サランドンかキム・ベイシンガーあたりに演ってほしかった(脱がなくてもいいからさ) ● 原題は「猿の面」。原作者のドロシー・ポーターが敬愛する松尾芭蕉「年々や 猿に着せたる猿の面」という句から採ったそうだが、…えーと、これどういう情景をうたった句なの?(猿まわし?) 劇中にはそれらしき説明がないんだよな。誰か解題して。 ● [追記]…と書いたら、BBSで渡邉儀助さんが解題してくださった>[年が改まり正月になると猿回しがやってくる。その猿に新しい猿の面を被せても所詮、猿は猿である。中身が変わるわけではない。人間もそうである。新年だからといって改まってみたところで、何も変わりはしないのだ]

★ ★ ★
ハロー、アゲイン(サイモン・ボーフォイ&ビリー・エルトリンガム)

「泣きっ面に蜂」という諺があるけれども、この映画の場合は、泣きっ面を蜂に刺されて、つまづいて転んだところを車に轢かれて、情けない気持ちで見上げた空から無情の雨が降ってきて、でも雨に濡れた紫陽花がキレイだね…って、そんなんなんの慰めにもなっとらんわい!・・・という映画。いやもちろん作者の最終的な目的は「紫陽花の美しさ」を描くことにあるわけだけども、そこに至るまでの不幸の波状攻撃が凄すぎて、紫陽花ぐらいじゃ観客の悲しい気持ちは救済されない。鬼畜な「ボクと空と麦畑」ほどじゃないけれども、これも相当に救いのない話ではある。「フル・モンティ」の脚本家サイモン・ボーフォイの初監督作品(脚本も) 原題は「いちばん暗い光」。なんちゅうか…。 ● 舞台は北イングランドのヨークシャー。ヒロインは小学校6年生の女の子。彼女には小学校3年生くらいの弟がいて、この弟が白血病の末期にさしかかっている。12才の心の中では「弟がいなくなっちゃうんじゃないか」という不安と、両親の愛情を弟に独占されることへの嫉妬がないまぜになっている。家は貧乏な酪農/畜産農家なのだが、猛威を振るっている口蹄疫に感染してしまい、愛情こめて育ててきた牛たちが目の前で焼かれていく…(いや、この「口蹄疫」ってのが空気感染するウィルスなのでいったんひとつの牧場が感染したら、厚生省だか畜産農協だかが乗り込んできて、もうその地域一帯を完全封鎖。家畜はすべて屠殺、人間は完全消毒して服はすべて煮沸消毒。封鎖地区は立ち入り禁止で、出入りの際は──学校のプールにあるみたいな──消毒液の池をジャブジャブと通らなければならない…という、まるで「アウトブレイク」の世界というか、この世の終わりのような光景なのである) さて、村の学校にインド人の女の子が転校してくる。お父さんはインドにいるのだろう臨月のお腹をかかえたお母さんと2人暮し。互いの寂しさを嗅ぎわけたのか、2人が親友になるのに時間はかからなかった。そんな2人がある日、学校をさぼって遊んでた立入禁止の「軍の演習場」のなかにある湧き水の泉で天からふりそそぐ眩しい光に包まれる…。 ● この稿を書くのに口蹄疫のことを(ちょこっと)調べて、おれは初めて口蹄疫と狂牛病が別の病気だと知ったよ。おれ今まで「狂牛病」をマスコミ的に言い換えて「口蹄疫」と言ってるのかと思ってたのだ。じゃあなに? イギリスの酪農/畜産農家とかはダブルパンチなの? 可哀想になあ。

★ ★ ★ ★ ★
ディボーシング・ジャック(デビッド・キャフリー)

名だたる紛争地帯・北アイルランドのベルファストが舞台。酒と女と人騒がせでは誰にも負けない酔いどれ記者が、ある日 若い娘と浮気をしたのがきっかけで、「とある品物」を手に入れようとするIRAとやくざと政治家から命を狙われるハメに…という巻き込まれ型サスペンス・コメディ。辛い現実をコメディとして描く際の常として相当にブラックな味付けがなされている。(ほとんど)新人のデビッド・キャフリーは、中心にちょっとピントのポケたマゾ・キャラの主人公を置いて、脇をすべてエキセントリックなサド・キャラで固めるという、教科書どおりの方法論で(1998年の作品なので近過去の)北アイルランドの現実を笑いのめす。 ● アッチャからもコッチャからもヒドい目に遭う皮肉屋の新聞記者にデビッド・シューリス。こういう だらしなくて情けないキャラクターを演らせたら絶妙ですな。 街で拾ったフーテン娘(死語)に近頃の当サイト・イチオシ銘柄、ローラ・フレイザー。「ハロルド・スミスに何が起こったか?」「タイタス」「ヴァーチャル・セクシュアリティ」の前の出演作なので、意外と豊満なヌードが拝めるのだが、あんまり艶っぽくない場面なので残念。 IRA崩れのやくざ者に(「ことの終わり」では神父、「パトリオット」では憎々しいイギリス軍将校を演っていた)ジェイソン・アイザックス。 昼は(本物の)ナース、夜は尼さんコスプレのストリッパーというブッ飛んだキャラの脇役に「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」のレイチェル・グリフィス(いや踊りませんけど) ちなみに本作の主人公の名前はジャックじゃないし、離婚もしないんだけど、なんでタイトルが「ディボーシング・ジャック(=ジャックと離婚)」なのかは…観ればわかる。

★ ★ ★
完全なる飼育 愛の40日(西山洋市)

1999年の小島聖 主演「完全なる飼育」が意外にウケたせいか(ビデオの回転率が良かったとか?)同じ原作がもう1度 映画化された。つまり「続篇」ではなく「リメイク」である。ふむ、すると「極道の妻たち」と同じパターンだな(あれだって全部いっしょの「原作」なのである) たぶんこの後も〈女子高生を誘拐して飼育する〉というシバリで「新・完全なる飼育」とか「最後の完全なる飼育」とか「帰ってきた完全なる飼育」とか「完全なる飼育 in L.A.」とか続々と…。てゆーか、半分マジで期待してたり(火暴) ● 冴えない中年男が孤独な女子高生を誘拐して監禁するうちに互いに情が芽生えて…という主筋は前作と一緒だが、H系Vシネマでキャリアを積んだ脚本・島田元と「ぬるぬる燗燗」「痴漢白書8 劇場版II 真冬のキッス」の西山洋市(=西山洋一)は、前作の新藤兼人+和田勉のアナクロコンビの轍を踏むことなくまともな「ロマンポルノ」として仕上げた。しかも主演の深海理絵は正真正銘(撮影時)18才の巨乳娘で、はっきり言って事務所的には「脱ぎ仕事」の必然性のないカワイコちゃん(死語)なのである(おれ的には嬉しいけどさ) 顔と体つきがどことなく三原葉子に似てるのは肉体派女優として生まれついた証しであろう。 ● 「中年男」に元・ビシバシステムの緋田康人。まあ、無難にこなしている(←んなこと言って、明らかに男優のほうはロクに見てないと思われる) 本篇のアタマケツをパッキングしてる「現在」のパートに登場する「心理カウンセラー」に前作の主演者・竹中直人。これは無くても成立する場面…てゆーか、無いほうがスッキリする。普通に本篇から始めて、数年後のエピローグで[男の死]を知った「現在」のヒロインに、河原で「ねえ、あたしも連れてってよ!」と叫ばせればOKでしょう。 ● 「誘拐犯」と「被害者」はやがてゲームを楽しむかのように、マスクをして2人で深夜の公園を散歩したり、コンビニに出掛けたりするようになるんだけど、それって投稿雑誌の「屋外露出プレイ」を楽しむカップルみたいじゃん。いや、知りませんけど。てゆーか、10月の寒空に青姦カップルだらけな公園って、いったい…。ひとつだけ文句をつけると(←ひとつだけ!?)これたぶん16ミリ撮影だと思うけど、録音までまるで16ミリで仕上げたみたいなチープな録音はいただけないな。てゆーか、なぜ「キネマ旬報社 製作」?

★ ★ ★
ハムナプトラ2 黄金のピラミッド(スティーブン・ソマーズ)

「面白い!」と言いきるには多少のためらいがある。飽きさせない…というより、飽きる暇がないという意味での消極的な星3つである。 ● なにもそこまで真似なくともと思うのだが、パート2は“本家”に倣って「ヒーローと女とガキ」の3人組が主人公。だが「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」が「ヒーローがギャーギャーうるさい女と小賢しいガキに悩まされるアクション・コメディ」として作られていたのに対して、この「ハムナプトラ2」では「気は強いけどおっちょこちょいな女考古学者の卵」だったはずのレイチェル・ワイズが「母の二の腕を持つ腕っぷしの立つ女戦士」になっちゃってて、おいおい前作とキャラがぜんぜん違うじゃねーか。そのせいでこの監督の、そしてブレンダン・フレイザーの持ち味であったはずのコメディ色が後退して(当時、ドラマのないジェットコースター映画と批判された「魔宮の伝説」が“緩急つかいわけた演出”に思えるほどの)ダレ場のないクリフハンガー・アクション・スペクタクルへと変貌している。そして、そのわりにはスティーブン・ソマーズはアクション演出が上手くない。一言でいえば見得の切り方が下手なのだ。ヒーロー/ヒロイン初登場のシーンもあっさり処理しすぎだし「絶体絶命のヒロインをヒーローが間一髪で救い出す」というお馴染みのシチュエーションもスピード重視でタメがない。「期待」→「ワクワク」→「達成」というプロセスを踏まず、いきなり達成しちゃうので「快感」が生まれない。エイドリアン・ビドルのカメラも寄りすぎ。2階建てバス・チェイスの場面などアップからアップに切り替えてばかりで、せっかくのタテヨコ変化がまったく描けてない。バカなアメリカ人にゃこれでいいかもしらんが、ちょっとなあ…。 ● 今回も脚本はスティーブン・ソマーズの自筆。前作の主要キャラはそのまま再登場する。大雑把に言えば「善いもんチーム」VS「イムホテップ(ミイラ怪人)&大英博物館・館長チーム」VS「(新登場の)スコーピオン・キング&闇の王アヌビスの軍団」の3チームによる三つ巴なのだが、ろくに話の整理がついてないし、インド映画もビックリの「前世の因縁」システムが導入されてるので、バカなアメリカ人にゃ きっと話が把握できてないと思うぞ。 前作ではあっさり退場しちゃって全世界の男性映画ファンから「あのネエチャンをもっと出せ!」という意見が殺到した「イムホテップの運命の恋人」が大々的にフィーチャーされてるのが嬉しいね。この、若い頃の南田洋子 似のネエチャン(パトリシア・ヴェラスケス)とレイチェル・ワイズの女闘美シーンは全篇中の白眉でしょう。 ただ、最大の欠陥は「ザ・グリード」「ハムナプトラ」と欠かせぬキャラだったヘンテコな声のヘナチョコ卑劣男(ケビン・J・オコナー)が出てこないこと。悪人側の「ガキにギャフンと言わせられるお守り役」をどーして彼にやらせないかなあ? そうそう、ちゃんと「死者の都ハムナプトラ」は登場するのでUIP宣伝部はホッとしたでしょうな。だがサブタイトルがイカンね。本作の正しい邦題は「ハムナプトラ2 イムホテップ VS スコーピオン・キング 嵐を呼ぶ!2大怪人 史上最大の対決である。あと、今から予言しておくけど「パート3」ではハーベイ・カイテルもしくはデニス・ホッパー演じるブレンダン・フレイザーのやんちゃな父親が登場すると思うね。 ● SFXは今回もILM主力班が「スター・ウォーズ2」や「ジュラシック・パーク3」で出払ってるらしく第2班級の仕上がり。音楽がジェリー・ゴールドスミスじゃないってのもすごく大きいと思う。カイル・クーパーのイマジナリー・フォーシズが手掛けた古代エジプト風エンドロールは、えらいカッコイイんだけど。 ● 脚本が雑だからツッコミどころも多いぞ(以下、観てない人は読まないよーに) まず、この映画にはあからさまなピグミー族差別が含まれてるがいいのか? 小人は駄目でもピグミーはOKなのか?(…ま、どーせピグミーは映画なんて観ねえか<だからそれが差別だっての) 大体、あんな物騒な場所のどこが「オアシス」やねん! イムホテップの台詞を途中から英語に変えといて最後にまた古代エジプト語に戻っちゃうのは何故?(途中で英語にしてたのを忘れたとか?) レイチェル・ワイズは本当にあんなことでいいのか?(夜中に虫とかムシャムシャ喰ってたらどーする!?) そもそも「善いもんチーム」と「悪人チーム」の目的はどちらも「スコーピオン・キングを倒すこと」なのに、なんで善人が倒すと「地獄の軍団が消滅」して、悪人が倒すと「地獄の軍団の新たなる長になる」の?(どう違うのか、だれか説明してくれ) あと娯楽映画としてはイムホテップの最期は「愛に絶望して死を選ぶ」のではなくて「愛ゆえに死ぬ」ほうが後味が良いのでは?(例えば[南田洋子は(蟲に喰われるのではなく)前の場面でレイチェル・ワイズに刺されて死ぬ。地獄の底に落ちたくないともがくイムホテップの眼下に、最愛の女がCGで浮かび上がり手招きする。古代の怪人はふと安らかな顔に戻り、みずからの意思で手を離して落ちていく…]とかさ)

★ ★ ★
みんなのいえ(三谷幸喜)

この映画で作者がいちばん感情移入してるキャラクターは田中邦衛ふんする「頑固な大工」で、この爺さん二言目には「おらぁ現場の人間だから」と駄々をこね、それを周りの家族や仕事仲間も「あの人は職人だから」とか言って庇うのだが…、あのなあ クライアントを無視して好き勝手やんのは「職人」たぁ言わねぇんだよ! 素人衆の意向を汲んで立派な商品を仕上げるのがプロってもんだろうが。そんな無能な大工さっさと馘首にしちまえ馘首にぃ! ● というわけで田中邦衛が年寄りの我侭を張りつづける前半はムカムカしてしょうがなかったんだが、そこはサスガに職人脚本家だけあって最後はうまくまとめて大団円に持っていく。笑いも熱さも「ラヂオの時間」には及ばぬものの2時間弱の映画が90分ほどに感じられたというのは、これが面白い映画だという何よりの証左だろう。キャストは総じて好演。惜しむらくは(「普通の奥さん」っぽさが色っぽい)八木亜希子を引き立てるエピソードが欠けていること。特にラストはあの後に・・・2階の(もしくは階段の)窓から「丘の上の人たち」を羨ましそうに見つめるココリコ・田中直樹(をカメラが窓越しに捉える)→後ろからそっと近寄って旦那の肩を抱く八木亜希子。→(そうか僕には愛する妻がいたんだ)という顔で微笑む夫。→幸せそうな夫婦の顔に夕焼けのオレンジが差して…。→カメラゆっくり引いて、ちょこんと建った「みんなのいえ」の全景・・・というシーンが必要でしょう。いや、天才脚本家にこんなこと言うのは口幅ったいが、オープニングをこの2人から始めたことを忘れたわけじゃあるまい?>三谷幸喜。 ● ところどころに「地鎮祭」みたいな説明字幕や、家にまつわる諺とかが出てくんだけど、あの「骨接ぎ」みたいなフォントはダサいと思うぞ(読みにくいし) それと、最近の日本映画の例にもれず本作もドルビー・デジタルで製作されてるのだが、たとえば「台詞を言ってる人間が画面から外れた途端にとんでもなくアッチの方から声が聞こえてくる」みたいな下品なサラウンド効果はなんとかならんものか。ハリウッド映画じゃ そんな違和感かんじたことないけど、これってノウハウの蓄積の違いなのか? ● これ、ほとんど三谷/小林聡美夫婦の実話で、こないだ三谷幸喜が「はなまるカフェ」に出演して、自宅の「壁と天井の境がない和室」のポラロイド写真を見せていた(これは宇宙を表現して云々…と映画とおんなじ台詞を喋ってた:) ちなみに「大工である小林聡美の父」と「気鋭の若手デザイナー」は本当は最後まで和解しなかったそうで、お義父さんは試写を観て無邪気に喜んでたそうだが、デザイナー氏は観にも来なかったんだと。ま、人生は映画のように上手くは行かないってことですな。

★ ★ ★
郵便屋(ティント・ブラス)

「肉屋」に続くアルバトロス・フィルム提供、職業ポルノ・シリーズ第2弾。銀座シネパトス1は、みゆき座の「ロスト・ソウルズ」の3倍ぐらい客が入ってた。ま、世の中そんなもんである。場内には背広姿のサラリーマンやカップル客だけでなく、女性1人客もちらほら。おいおい、これは「文芸」とか「女性向き」といった枕詞の付かないセミ・ハードコアに近いポルノ映画だぞ。いーのか? ● 原題は「ティント・ブラス私書箱」。長短8篇からなる上映時間90分のオムニバス艶笑ポルノで、ブリッジ部分に でっぷりと太って葉巻を咥えたティント・ブラス監督本人(御歳68才)が登場。イタリア各地からの売春人妻やら露出症娘やらスワッピング夫婦やらの手紙を読んでいく…という趣向。あれかね、ティント・ブラスってのはイタリア本国じゃ(ひと頃の村西とおるのノリで)深夜テレビに出演してはエロ・コメントを付けたりアシ嬢の乳もんだりしてんのかね? あの国ならほんとにシロート人妻からの売り込みの手紙とかワンサと(←死語)来そうだもんな。いや閑話休題。劇中でこのエロ映画の巨匠は、男好きのする顔の巨乳秘書に執拗なセクハラを繰り返す(もちろん美人秘書は一向に嫌がらない) 最後のエピソードは当然、エロおやじ本人と美人秘書のカラミである。音楽はリズ・オルトラーニ。とりたてて出来の良い映画ではないが、次から次へと巨乳美女がベローンと御開帳におよんでくれるのでスケベな我が御同輩の皆さんなら飽きんでしょう。 ● あと、この客層に「マレーナ」の予告篇をかけてたギャガは偉いぞ。そう、それが「宣伝」というものなのだよ。銀座シネパトスは(「マレーナ」共同配給の)ヒューマックスの経営する映画館ではあるが、普段はロードショーの予告篇なんか、かけてないもんな。

★ ★ ★
ザ・コンテンダー(ロッド・ルーリー)

ビル・クリントンを思わせる民主党の大統領ジェフ・ブリッジスが、急逝した副大統領の後任に女性代議士ジョーン・アレンを指名。資格を審査する委員会の(共和党選出の)委員長ゲイリー・オールドマンは、彼女の大学時代のセックス・スキャンダルを掘り起こして公然と糾弾する。 ● この映画では2つの問題が提起される。1つは政治家のプライバシーについて。もう1つは政治家であるなしに関わらずに存在する女性差別。すなわち「男の過去の乱行は武勇伝だが、女のそれは恥ずべき汚点」という世間一般の意識である。告白すればこれに関しては おれも有罪で、例えば写真週刊誌に男性アイドルの「現場写真」が載ってると「おお、やるじゃん」と、何とはなしに「尊敬の念」らしきものを抱くのに対して、女性アイドルのヌード写真が流出したりすると「可愛い顔してヘッヘッヘッって、もう我ながら下衆で嫌んなるが、まあ事実そうなんだから仕様がない。 ● さて、このような場合における映画的な解決としては、ヒロインが「男と寝てなぜ悪い! あたしが誰と寝ようとアンタの知ったこっちゃない!」と啖呵を切るのがいちばんスッとするのだが、それじゃ東映やくざ映画になってしまうので、本篇のヒロインは沈黙を貫く。否定にせよ肯定にせよ、相手の土俵に上がるのは自分を貶めることになる…という理屈である。いや理屈としちゃ正しいかもしらんよ。きっと小説なら成立するだろう。だけど映画としては「殴り込みのないやくざ映画」みたいなもんで、決定的にカタルシスに欠けるのだなあ。それとそうした解決だと「政治家のプライバシー」の問題には結論が出されるけど、もうひとつの「女性差別」の問題についてはうやむやのまま何となく誤魔化された気がするなあ。 ● で、ラストでは沈黙を守るヒロインの代わりに、仕方ないから大統領が取って付けたみたいな「感動的な大演説」をブつんだが…なんだよなんだよ「ジョーン・アレンの映画」じゃなかったのかよ。なんで最後の見せ場をジェフ・ブリッジスが持ってっちゃうんだよ! それって女性差別じゃねえの? だいたいからしてさあ、この映画(請われて製作費を提供して「製作総指揮」にクレジットされてる関係か)悪役のゲイリー・オールドマンがトップ・ビリングなんだが、それって変だろ!? 「ベティ・サイズモア」の時も思ったけど、どうして女優が主役だと序列トップを貰えないんだよ? どうせハリウッドに巣食う、映画のことなんかこれっぽっちも愛しちゃいない白アリ弁護士どもの仕業だろうが、契約書とか取り決め以前の問題だろこれは。主役の名前を最初に出す──監督・脚本のロッド・ルーリーは「ジョーン・アレンのために脚本を書いた」とか言うんなら、まずそういう当たり前のことを実行しろよ(少なくとも日本映画ではこれは守られてると思う) ● …とエラソーなことを書いたあとでアレだけど、本作の「FBIの調査官」を演じたキャスリン・モリスって女優が可愛いんだよぉ(火暴) 「センターステージ」のスーザン・メイ・プラットと同じ牧瀬里穂系のトンガリ顎で、つい彼女の笑顔に見とれて字幕をちゃんと読んでなかったせいで、彼女が誰の命令で何を調べていたのか最後までわからなかったぞ(走召火暴) プロフィールによると次回作は「A.I.」…ってウソ!?(どこに出てた?) [追記]「A.I.」を再見した際に、エンドロールでチェックしたが「フレッシュ・フェアの Teenage Honey」となってた。それってホットパンツ穿いて大砲の隣で「ファイアー!」とかやってたコか?

★ ★ ★
ウェディング・プランナー(アダム・シャンクマン)

恋してはいけない 花婿にだけは…/彼女は一流のウェディング・プランナー、花嫁の夢を叶えるのが仕事・・・って、べつにウェディング・プランナーじゃなくたって、これから結婚しようって男に恋しちゃマズイと思うんだが…。 ● ひとことで言ってしまえば「ジェニファー・ロペスにベタベタのロマンチック・ロメディのヒロインをやらせる試み」である。計算ミスじゃないかと思うのは、脚本がヒロインをゴールディ・ホーン/メグ・ライアン/レニー・ゼルウィガーの系譜…すなわち「自分で自分の感情がコントロールできない(でもそこが可愛い)暴走系の女」に設定していることで、でもジェニロペのキャラからすれば「自分自身を完璧に管理しているキャリア・ウーマンの冷感症女が、どうしても抵抗できない恋にトロけていく」って設定のほうが合ってると思うんだが。そのためにも脚本家は(少なくとも あと2つ3つは)観客を感嘆させるような結婚式を見せて「ヒロインがいかに有能なウェディング・プランナーであるか」をアピールすべき。 この映画にはもちろん誰もが期待するとおりの結末が待っているのだが、そこに至る処理もマズい。花婿が花嫁ではなくヒロインを選ぶのであれば(男なんだから)はっきりと「自分の意志で花嫁に本心を告げる」場面を描くべきで、まるで花嫁が自分から諦めてくれたかのような安易な解決は避けるべき。またヒロインもヒロインで、幼なじみの「当て馬クン」の心を不必要に弄ぶような展開は(観客の)ヒロインに対する印象を悪くするだけである。最後はやはり「独りで旅立つヒロイン。そこへ…」という設定にすべきだった。ま、もっともこのシチリアの種馬…ならぬ当て馬クン、「一途な好青年」というキャラ設定のつもりらしいが、他人(ひと)の誕生パーティーに招かれて主役がローソクを吹き消したところへ割り込んでヒロインにプロポーズするなんて、それは単なる「礼儀知らずのバカ」だと思うぞ。てゆーか、周りもニコニコ見てないで叱れよ。 ● …とはいえ「ドジで人間的なジェニファー・ロペス」というのも、それなりに魅力的ではある。ま、シチリア人の両親からジェニファー・ロペスは産まれないと思うが。 相手役のマシュー・マコノヒーは「エドtv」ですっかり正体を晒したあとでも「サワやかハンサムさん」に見えるから大したもの。 損な役まわりの「花嫁」を演じてるブリジット・ウィルソンは、なんか顔が変形してないか!? 目はもとから離れ気味だったけど、額がぐぐっと張り出してきて「リック・ベイカーによる“狼女”メイクの変身第1段階」みたいな顔になってるぞ。 ジェニロペのかしましいアシスタントに「ハート・オブ・ウーマン」「ハード・キャンディ」の地味メガネっ子、ジュディ・グリア(本作ではメガネはかけてません) 本当に失神しちゃったりするようなベタなコメディ・リリーフを伸び伸びと演じて才能を開花。誰かに似てると思ったら、そうだ「ペテン師とサギ師 だまされてリビエラ」のグレン・ヘドリーと同じタイプなんだ! そろそろ主演映画とかも作られそうで楽しみ楽しみ:) 出番をカットされたのかケビン・ポラックがほんの一瞬だけ出てくる。あと、おれ、新聞スタンドの売り子がオリバー・プラットに見えたんだけど気のせい? そうそう、ジェニロペのお父さんはヘクター・エリゾンドの役でしょう…って、だからゲイリー・マーシャルの映画じゃありませんてば。

★ ★
UNCHAIN アンチェイン(豊田利晃)[キネコ作品]

前のプログラムが「鈴木清順レトロスペクティブ」だった所為で それこそ何十回と見せられた予告篇から判断するかぎりビデオ撮りみたいだし、おれボクシング好きじゃないし、ボクサーのドキュメンタリーなんて興味ないので(ソウル・フラワー・ユニオンのサントラだけはずっと前に買ってたものの、映画自体は)早々と観賞予定リストから外れていたのだが、BBSで2度も背中を押されたので遅ればせながら観に行った。 ● 豊田利晃の第2作(評判を取ったデビュー作「ポルノスター」は未見)【アンチェイン梶というボクサーがいた。リングネームの「アンチェイン」はレイ・チャールズの名曲「Unchain My Heart」からとった。心の鎖を解きはなて。…まさにその歌のように梶は生きた】・・・予告篇でも使われていた(「ポルノスター」の主演者でもある)千原浩史のナレーションで本篇は始まる。じつはクレジットを見るまで おれは赤井英和の声だとばっかり思ってた<ボクサー繋がりだし。この関西弁訛りの「声」がじつに素晴らしい。 ● さて、ナレーションがすべて過去形で語られていることにお気付きか? そう、これ、じつは「ボクサーの伝記」なんかじゃないのだ。主役のアンチェイン梶は、続くナレーションで6敗1分けという戦績が語られ、開巻10分であれよあれよと現役引退してしまう。梶の人生が面白くなるのはここからだ。ボクサーを早々と引退した梶はトラックの運ちゃんから土方からさまざまな商売を転々。BOROの猿真似のようなロックバンド(「通天閣」をもじって)「ツテンカーク」を始める。阪神大震災の復興に際しては釜ヶ崎で人足回しの下請け&なんでも屋の「とんち商会」を旗揚げ。しかしこの頃から奇矯な言動が目立ち始め、自分は半端者だからと梶半助と改名。昼日中から素面でちょんまげ頭で街を徘徊。日雇いと金払いのトラブルを起こして、頭から黄色いペンキをかぶって釜ヶ崎職安に殴りこみ。ついには精神病院に放りこまれてしまう。 ● なな、なんちゅう…。こらー!こんな話とは、あの予告篇じゃちっとも伝わらんじゃないかー! だけどこれらの物語は梶の後輩である3人の格闘者の口を通して語られるだけで(一部、俳優を使って撮ったモノクロ再現ビデオらしきものはあるものの)梶の姿は見えてこない。そればかりか、梶の入院とともに中盤は主役不在となってしまうのである。そこで作者は梶の後輩たちの人生を追うように方向転換するわけだが、この部分が典型的な「ボクサーのドキュメンタリー」になってしまっていて、デジャヴュを覚えるばかり。 ● 終盤で、梶が退院してきて(ここで初めて現実時間に撮影時間が追いついて)梶本人が画面に登場して、さあドラマが動き出すかと思えば、なんかそれらしい盛り上がりもなく映画はストンと終わってしまうのである。だけど映画は終わってもドラマは終わっていないのだ。ここは「キッズ・リターン」よろしく「おれたち終わっちゃったのかなあ?」「まだ始まってもいねえよ」みたいなラストシーンを作らなきゃ駄目でしょーが。結局のところ、これは「撮った素材から構成したドキュメンタリー」でしかない。最初から最後まで作者の腰がすわってないのだ。山根貞夫なら「不定形の魅力」とか書くんだろうが、おれはドキュメンタリーといえどもしっかりした「ドラマ」が観たいのじゃ。うーん、欲求不満だ。Vシネでリメイク希望。 ● 大映の土川勉プロデューサーの手間を減らすためにキャスティングを指定しておく。主役のアンチェイン梶は無難に的場浩司あたりで。弟分タイプのキックボクサー、ガルーダ・テツに木下ほうか。義理に篤いシュートボクサー 西林誠一郎に木村一八。優男タイプの後輩ボクサー 永石磨に押尾学、とんち商会の若いもんに千原浩史、梶の恋人は水谷ケイ(もちろん濡れ場あり) 監督は三池崇史井筒和幸(釜ヶ崎のゲリラ・ロケをやる度胸があるんなら和泉聖治でもいいぞ) タイトルは「格闘ジャングル 修羅の道」って感じでどうよ?<それじゃまるっきり別の映画の気が…。

★ ★
ナンナーク(ノンスィー・ニミブット)

1999年の東京国際映画祭コンペティションに「ナン・ナーク ゴースト・イン・ラヴ」というタイトルで出品。以下はその際のレビュウ。「貞淑な妻は死んでも夫の帰りを待ちました」というタイの昔話。「雨月物語」+「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」か。撮影・照明は現代的だし特殊メイクまであるのだが、肝心の演出(語り口)がえらい原始的。エンタテインメントである前に仏教訓話であるという、これもお国柄ってやつか。 ● 映画祭の公式パンフレットに「タイで実際に起きた、今は伝説となっている話を映画化」とあるが、本当に本当だな?>映画祭事務局。

★ ★
JSA(パク・チャヌク)

板門店の南北共同警備区域(Joint Security Area)で起きた北朝鮮将兵2名の射殺事件。国境警備の韓国兵が犯行を自供。しかし事件の真相に関して南北でまったく違う主張がなされたために、国連 中立国スイスから朝鮮人二世の女性将校が調査に乗り込んでくる。…というストーリーから明らかなように「ア・フュー・グッドメン」「将軍の娘 エリザベス・キャンベル」に連なる軍事ミステリである。だが本作においては、登場人物の紹介が終わり南北双方の「真実」が語られると、すぐに当事者の回想による「事実」の解明に入ってしまい、観客にも(詳細はともかく)結論は容易に知れてしまうのでミステリとしては成立していない。また、通常こうしたジャンルの基本ストーリー・パターンは「善人が悪人の姦計により濡れ衣を着せられ、正義の弁護士がそれを晴らす」というものだが、本作の場合、テーマの性質上、南北双方の当事者が善人なので冤罪のサスペンスが生じないのだ。そればかりか本来ならばヒーローの役回りであるはずの国連女性将校が「うやむやのまま無事に収まったはずの事件の傷口を暴き、死体を増やして去っていく」というトンでもないバカ女なのである。あのなあ、北の幹部だって南の偉いさんだって馬鹿じゃないんだよ。大人の決着ってやつがわからんか? あー気分わるい。 ● 本来、韓国人向けに作られた韓国映画なので仕方ないんだが(字幕でかなり説明を補っているとはいえ)最初のうち、パッと見で南か北か判断がつかないので弱った。あと「北朝鮮の兵士がなぜ殺されなければならなかったのか」が朝鮮人じゃないと解かりにくいと思う(おれも解からなかった) 南北問わず朝鮮人の皆さんにお勧めする。

★ ★ ★ ★
ギフト(サム・ライミ)

おれにもESPがある…のかも。だってそいつが出て来た瞬間に(まだ事件すら起こってないのに)「こいつが犯人だ!」ってピーンと来たぞ。<あんた「火サス」の犯人をピタリと当てるお茶の間のおばちゃんか。 ● …まあ、登場人物もかぎられてるし、もともと事件の謎解きを主眼とした映画ではない。これがNHKの海外ドラマなら「未亡人探偵アニー・ウィルソンの心霊事件簿とでも付けそうなキャラクター寄りのミステリである。千里眼を持つヒロインの哀しみを描いてはいるが(「デッドゾーン」のように)それがメインテーマというわけでもない。サム・ライミにとって1993年の「キャプテン・スーパーマーケット(ARMY OF DARKNESS)」以来ひさびさのバリバリのジャンル映画となるわけだが、サスペンス演出やカメラワークの勘は鈍っておらず、ファンの期待は裏切らない。だが独特のアクの強さは抑制されており、決して「マニア受けのジャンル・ホラー」に堕してはいない。つまりすべてにおいてウェルメイドなのである。よもやサム・ライミの映画で感動して泣いてしまうなんて(!) 物語上は必要のない…けれどそれがあることによって観客が暖かい気持ちで映画館を出られるエピローグを加えられるあたりがライミの成熟を示していよう。ビリー=ボブ・ソーントンが昔 書いたオリジナル脚本の映画化だそうだ(本人は出演していない) ヒロインのケイト・ブランシェットは見事な女優ぶりだし、これはこれで十二分に楽しんだけれども、次回作の「スパイダー・マン」では(どうせアメリカじゃ絶対に大ヒットするんだから)ぜひマニア受けに堕しきったアクの強〜い映画を作ってくれい>サム・ライミ。 ● カード占い(透視)で生計を立てているヒロインのもとへ暴力亭主のことを相談に来る「男依存型」の南部女房にヒラリー・スワンク。 ヒロインを逆恨みして脅す暴力亭主にキアヌ・リーブス。…って、いくら本人が低ギャラで売り込んできたからって断れよ>ライミ。どうしたらキアヌが「南部の癇癪持ちの暴力亭主」に見えるってんだ。これはウィル・パットンやデビッド・ストラザーン、あるいはそれこそビリー=ボブ・ソーントンの役でしょう。 精神病歴ゆえの差別をしないヒロインを唯一の「友だち」と頼ってる(ちょっと頭のトロい)自動車修理工に、こういう役ならお手のもののジョバンニ・リビージ。突如、激昂して泣き出して、ヒロインがハンカチを貸してあげるんだけど、観てて「あわわ、そのハンカチを受け取っちゃいかーん! なぜかそのハンカチが殺人現場に落ちていてアンタは濡れ衣を着せられるぞー!」と心配したんだが、…そうかそーゆーハンカチの戻し方がありましたか。 ヒロインと微かなロマンス関係となる小学校の校長先生に「ベティ・サイズモア」のグレッグ・キニア。 資産家の娘で、校長の尻軽なフィアンセに「ワンダー・ボーイズ」の愛らしきタヌキ顔ケイティ・ホームズ。テレビ「ドーソンズ・クリーク」でアイドル人気のある娘の「乳出し」をクライマックスに持ってくるところが今回、唯一のマニア向け演出か(火暴)

★ ★
いきすだま 生霊(池田敏春)

1時間もの2話から成るオムニバス・ホラー。てゆーか長げーよ、話が。せいぜい30分もののネタだろ、どっちも。「生霊(≒幽体離脱霊?)をあやつる女」「団地の縦一列の部屋にだけ起こる怪異」といった基本アイディアをまったく展開することなくだらだらと1時間かけて観客に提示するだけ。最後までスクリーンに異界が現出することはない。かつてスプラッタ・ホラー調の快作「死霊の罠」をものしたこともある池田敏春だが、本作では「リング」に代表される昨今の「J・ホラー」の流れを踏襲することを潔しとしなかったのか、たとえばカメラアングルによるショック演出(「恐怖にあたりを見回す主人公のアップ→主人公の顔がズレると、真後ろに霊が!」というヤツ)を一切しない。その結果としてなにやら往年の新東宝のテイストに近い「怪談映画」になってしまった。意味もなく暗すぎる撮影。「エクソシスト」のチューブラー・ベルズにそっくりな恥も誇りもないBGM。アイドル映画としての成り立ち(後述)から仕方がないとはいえ、演技陣のレベルも酷い。主役に素人を使わなければならないのなら脇を「演技の出来る人」で固めるのが定石だろうに、なにゆえ脱ぎもしない中村由真なんぞを起用せにゃならんのだ!?(同額以下のギャラでちゃんとした「女優」がいくらでもいるだろうに) ● 主演は韓国でブレイクしたという「日本人兄弟+韓国人1人」のロック系アイドルユニット「Y2K」から(見た目も演技力も木村拓哉タイプの兄・松尾雄一と、堂本光一タイプの弟・松雄光次。劇中でも兄弟という設定で第1話に弟が、第2話に兄が主演してライブシーン(ベイ・シティ・ローラーズの日本語カバー!)のサービスもある。韓国娘に大人気というのは嘘ではないらしく新宿東映パラス2ではハングル字幕つきの上映だった。 第1話の生霊をあやつるヒロインに“この道まっしぐら”の三輪ひとみ お姉ちゃん。 第2話の、怪異の標的となる やたら独りごとで自分の気持ちを説明してくれるヒロインに妹・三輪明日美。女優にこの言葉は禁句だけど、この娘は笑ってないとただのブスなので今回はミスキャストだと…。 あと団地のベランダは死体を埋められるほどコンクリがブ厚かぁないぞ。

★ ★
天上の恋歌(ユー・リクワイ)

中国映画界 新世代の旗手ジャ・ジャンクー(賈樟柯)の作品世界を支えるカメラマン、ユー・リクワイ(余力爲)の監督デビュー作。というわけで、れっきとした香港映画ではあるが、成り立ちとしては「フランス映画みたいな現代インディーズ中国映画」に近い。 ● 繁華街の裏街で暮らす4人の男女。歌舞伎町で裏ビデオ屋をやってるチンピラ 原田芳雄。その腐れ縁でレストランのエレベーター係をしてる、片足が義足の、疲れた中年女いしだあゆみ。田舎から出稼ぎにきた若いホテトル嬢 伊佐山ひろ子。青春/性欲の捌け口がなく悶々とした日々を送るエレベーター修理工の小倉一郎。物語らしい物語はない。何をするでもなく、出口の見えない、貧しくて遣る瀬なきシラケた日々。これ、ほんとに現代の話かい? なんかバックに「かぐや姫」とか流れそうな世界である(じっさい劇中でヒロインは山田耕筰・作曲の「赤とんぼ」の節を口ずさむ!) ラブホの一室で原田芳雄が伊佐山ひろ子に襲いかかって、鼻を噛まれて鼻血を出す。伊佐山が「大丈夫ぅ?」と覗きこみ、原田の鼻にタンポンを突っ込む・・・なんてのは、脚本:荒井晴彦じゃねーのか!? てゆーか絶対に前に観たことあるぞ>この展開。 ● 長髪の原田芳雄にレオン・カーフェイ。ノーギャラ出演のうえ、足りなくなった製作費まで供出したんだそうである。 いしだあゆみ に「青い凧」の中国女優、リュ・リーピン(呂麗[シ苹]) 香港の映画監督スタンリー・クァンがプロデュースを担当。 本作自体の撮影はライ・イウファイ(黎耀輝)←有名な人?(てゆーか、スンゲーまぶしい名前だなあ) ● 中国語原題は「天上人間」。「人間」は「ニンゲン」じゃなくて「ジンカン」と読む。「人の住む世」の謂。つまり「楽園のような世の中」という意味。 英語原題はもっとカッコ良くて「LOVE WILL TEAR US APART」…なんと監督自身が大ファンだというジョイ・ディヴィジョンの名曲から採られている(!) もともと この曲にインスパイアされて脚本を書いたんだそうだ。てゆーか、なんで中国で当時 ジョイ・ディヴィジョンなんて聞けるんだ!?

この映画には通常のB5チラシのほかに、後から追加で「B4ふたつ折りのチラシ」が製作されていて、その裏面に山田宏一の2,300字(!)の批評文が載っている。おれは映画を観てから読んだのだが──山田宏一の映画についての文章が往々にしてそうした事態を引き起こすように──明らかに文章が映画そのものよりも魅惑的なのである。冒頭を引用する>[夜のシーンばかりではないのに、夜明けのない深く暗い夜の印象が消えない。白昼の雑踏からそこへ入り込んだとたんに夜の気配に包まれてしまう。犯罪が、血なまぐさい事件が起こりそうで何事も起こりはしないのだが、闇の奥には底知れぬ殺意が潜んでいるかのようだ。室内にまで夜気が流れこむように夜の暗さが満ちてくるのである。 ● 夜のコンビニとアダルトビデオ店とキャバレーのようなレストランと質素なアパートを行き来するしかない男女の孤独な青春が浮き沈みする香港の片隅である。] ● かつてのヌーベルバーグと非常に近しい位置にある現代のインディーズ中国映画にかの伝道師が惹かれるのはとてもよくわかる。そして“山田宏一節”の真骨頂はたとえば次のような件りである>[開店前か休日の人けのないレストランのダンスフロアで、真っ赤なドレスの彼女が長くのびた手足をすばやい流れのようにリズミカルに繊細に動かしながら舞うシーンは、あたかも束の間の幸福が微笑みとともに輝く美しい瞬間だ。『女と男のいる舗道』(ジャン=リュック・ゴダール監督 1962)でアンナ・カリーナがビリヤード室でひとり踊りまくる、あるいは『柔らかい肌』(フランソワ・トリュフォー監督 1964)でフランソワーズ・ドルレアックがレストラン(だったか、ナイトクラブだったか)でひとり踊る、感動的なシーンを想起させる。] ● じつにまったく、無料でもらえるチラシにこんな文章を書かれてしまっては、600円とか800円のパンフに駄文を書きとばしてる映画ライター諸氏はただ顔色を失うしかないが、それにしてもこれだけの貴重な才能を映画業界はどうしてもっとコキ使わないのだろう? 言い換えれば、もっと映画雑誌とかで山田宏一の文章を読みたいぞ…と。


★ ★ ★
マレーナ(ジュゼッペ・トルナトーレ)

ぼぼぼ…ぼくが海岸通りの堤防に腰掛けてると、向こうからとと…とおっても綺麗なボッキュッバーンッなおねいさんが歩いてきて、ぼおっとして見蕩れてたらぼぼぼ…ぼくの半ズボンがむむむ…むくむくっと膨れてきたんだなこれが。<山下清か。・・・いやたしかに、これはマレーナ=モニカ・ベルッチを賞でる映画である。イザベル・アジャーニの若い頃に似てるキツそうな美女。銃後の妻が花柄の服を着ただけで「ふしだら」と誹られるシチリアの田舎町で女32才まさに熟れ頃の躯から抑えても抑えきれない女の匂いをもわっと漂わせる。中盤で髪を切って赤毛に染めて広場に歩いてくるシーンでは、観てるおれの股間もついむくむくっと…。 ● 「ニュー・シネマ・パラダイス」「海の上のピアニスト」のトルナトーレ監督が贈る、永遠の、そして最高の片想い…とか言って、ギャガは甘酸っぱい追憶の感動作として売ってるが、その実態は、精通を覚えたばかりの少年が「町いちばんの美女」の尻をつけまわしてエロい妄想を爆発させる「青い体験」ものである。このガキゃいろんな映画を観ちゃあ、劇中のヒロインと主人公にマレーナと自分自身を当てはめ、妄想と股間を膨らませてうっとり。もちろん最後はマレーナが脱ぐシチュエーションになるという、とても他人とは思えないしょーもないエロガキで、それを観てるおれも内心で「うぉーっ」とか吼えつつ観てるわけで、それでも日本で公開されたのは「アメリカ公開用のミラマックス・バージョン」で、なんでもイタリア版はこんなもんじゃないらしいぞ。どどど…どんなもんなんだぁぁぁぁぁ。銀座シネパトスで「完全版」の公開を熱望だ。なんだったらアルバトロスに転売して「背徳小説 第3章 肉欲未亡人マレーナ」とかいうタイトルで公開してもいいぞ[追記:2002年にDVD/ビデオでイタリア版が発売された] ● 今回、隠しても隠しきれないイタリア人監督の血が露呈して(おれ的には)好感度がアップしたトルナトーレだが、いちおう褒めておくと(←接続詞の使い方が間違ってます)最後はちゃんとジーンとさせてたしかに「甘酸っぱい追憶の感動作」を観た気にさせてくれる。あと無知を曝けだすようだが、よくフランス映画とかにある「戦時中ドイツ兵と寝た女が連合軍による“解放”時に“貞淑な”女どもにリンチされ髪を切られてザンバラ頭にされる」という描写は、しかしイタリアでも有効なのか?(だって枢軸国同士だぞ!?)

★ ★ ★
天国から来た男たち(三池崇史)

日本人エリート商社マンが身に覚えのない麻薬不法所持で捕まってマニラの刑務所に…という導入部は「ミッドナイト・エクスプレス」や「ブロークダウン・パレス」を想起させるが、これは滝田洋二郎「僕らはみんな生きている」や、金子修介「卒業旅行 ニホンから来ました」、サム・レオン「大混乱 ホンコンの夜」に連なる東南アジアのゴーマン日本人 自業自得もの。つまり「異国での受難が日本と日本人のイビツさを浮かび上がらせる」という仕組みである。売れっ子のわりにはロクな脚本を書いた試しのない橋本以蔵と「FULL METAL 極道」「ビジターQ」の江良至は「信頼と裏切り」をキーワードに快調に物語を進めるが、クライマックスの組み立てなど基本的な構成が弱い。あれでは山崎努 以外には刑務所を脱走する動機がないではないか。銀行強盗でも何でもいいから「日本人囚人チームで力を合わせて何かに挑む」という話にすべきではなかったか。三池崇史も今回は娯楽映画の枠組みを守ってテンポよく説話に専念しているのだが「明らかに脚本には書かれてるはずなのに撮ってない/カットした」シーンも散見される。あんまり型破りな映画ばっか作ってるから映画の終わらせ方を忘れちゃったのかエピローグの処理が素人なみに下手糞だし。痛快でそこそこウェルメイドではあるが、正直いまひとつ もの足らない。…ま、おれが三池崇史に変なものを求め過ぎてるのか知らんが。 ● 吉川晃司は「傲慢で現地人を見下したエリート商社マン」がだんだんと「ふてぶてしい悪党」に変わっていくという役柄にピタリとハマッた。 海外逃亡した大物やくざに扮して圧倒的な存在感をほこる山崎努は、三池とは「サラリーマン金太郎」繋がりでの出演だろうが、この役じゃ、どうしたって「僕らはみんな生きている」を思い浮かべてしまうわな。 フィリピン妻を追ってマニラまで来た(なぜか英語/日本語チャンポンの)板前・遠藤憲一は1人だけトーンの高い怪演(出演順からすると本作が三池組初登板なのかな?) 刑務所内のガイド役にもなるロリコン医師に翁華栄。 不正オンライン送金で男に貢いだのが発覚して海外逃亡した元・銀行員に大塚寧々。この話で濡れ場を描写しないのは不自然でしょう。いや個人的な希望じゃなくてさ(それもあるけど) 

★ ★ ★
恋はハッケヨイ!(イモジェン・キメル)

似非オカマ・タレント藤井隆の四股名監修が入る前のバージョンを、2000年の東京ファンタで観賞。いかにも仮題っぽいタイトルだったけど、そのまんま公開したなあ>ギャガ。 ● イギリス・ドイツ合作映画。想像するに「フル・モンティ」が当たったんで、それ!ってんで「逆境にある主人公たちが力を合わせて不慣れなことにチャレンジする」という映画が雨後の筍のように作られて、そうなるとプロデューサーもイケイケドンドンで「フル・モンティみたいな映画」ってだけで、よく考えずに脚本にゴーサインを出してしまう。で、完成した映画を観て仰天するわけだ「なな、何なんだね、これは!?」「何って女相撲ですよ、女相撲」 ● いつも夢みたいなことばかり言ってるダメ亭主が仕事を馘首になってしまったので、しかたなく女房が缶詰工場に働きに出る。その工場ではなぜかデブばかりが採用されるのだった。じつはその工場には(やはりデブの)女社長が主宰する秘密相撲クラブがあったのだ。一方、UF0マニアのビデオ屋店員の親友から、あることないこと吹き込まれたバカ亭主は、仕事からなかなか帰ってこないし(←相撲の秘密練習のため)どうも自分に冷たい気がする(←あんたが働かないから)女房を、エイリアンにアブダクトされたのでは…と疑うようになる。ある日、工場に忍びこんだ亭主が目にしたものは…(笑)・・・というバカ映画。そりゃ相撲のスの字も知らない人間から見たら宇宙人に乗り移られたようにも見えるわな。クライマックスは日本からやったきた学生力士との対抗戦なのだが、まわし姿で出演してくれるデブの女優を人数分探すだけで手一杯だったらしく「相撲」はまったく取れていないので、スポーツ映画の興奮を期待するとまったくの肩透かしを喰う。 ● ヒロインのシャーロッテ・ブリテンが「ヘアースプレー」のリッキー・レイク以来のキュート・デブで、おれはデブは全然OKなので(なぜかやたらとおっぱいを見せてくれるし)とても良かった。インド映画の女優さんといい、クリスティーナ・リッチといい、女はむっちり目のほうが鶏ガラ・パルトロウなんかより絶対に魅力的だと思うんだけどなあ…。

★ ★
花様年華 かようねんか(ウォン・カーウァイ)

撮影:クリストファー・ドイル/リー・ピンビン(李屏賓) 美術・衣裳・編集:ウィリアム・チャン(張叔平)
間違いなく本年最高の作品である──映画の評価が見た目の美しさだけで決まるのならばだが。撮影・照明・美術の至高芸術。だが、ここにはスタイルだけがあってドラマがない(内なる声が「デ・パルマとどう違うんだ!」とツッコんでるが無視する) これは「喫茶店の2階から仲睦まじく腕を組んで渋谷の街を闊歩するカップルを眺めてる」ような、あるいは「深夜の歌舞伎町の喫茶店で水商売らしき女とヤクザらしき男が黙って煙草を吸っているのをウィンドウの外から覗き見る」ような、…そんな映画である。ウォン・カーウァイは物蔭からなりゆきを窺う視線で、1960年代の香港のダブル不倫カップルを、静かに、口出しせずに見つめる(この2人、しきりにヤッたかヤッてないかに拘ってるけど、ヤッてるから不倫てもんでもないだろう。ドライな「ヤリ友」よりはこの2人のほうが百倍も罪深いと思うけどなあ) ● 全身から色気が匂いたつマギー・チャンとトニー・レオンは、かつての京マチ子と森雅之のよう。マギーの──おそらくシルクなのだろう──躯にピタリと張りつく下着のような薄い生地のボティコン・チャイナドレスのエロティックさよ! 高級レストランの女給さんのようなハイネックのチャイナドレスと、それに呼応するハイヒールで、男との逢引きのためにホテルの廊下を往く そのカツカツカツという靴音の官能よ! ドラマ不在でも少しも見飽きない。そういう意味では ★ ★ ★ でもいいんだが、心情的にこうした映画の作り方を肯定したくないので敢えて星1つ減らした。じっさい今からでもいいから大量にあるであろう撮影済みフィルム(ベッドシーンもあるらしい!)を別の監督に渡して作り直してもらいたい。いやバリー・ウォンだっていいよマジで。 ● 撮影はホウ・シャオシェン(侯孝賢)組のリー・ピンビン(李屏賓)が実質メインだったようだ。「第2班撮影」としてクレジットされている中にはユー・リクワイ(余力爲)の名前も見える。梅林茂が鈴木清順「夢二」のために作曲した音楽がテーマ旋律として使われて、まるで3人目のキャラクターのように立っている。 ● 本篇の頭にオリジナル予告篇を上映するってのは気の利いたサービスでげすな>銀座テアトルシネマ(予告篇の出来自体は緊張感みなぎる日本製予告篇のほうが数段上だとしても、だ)

★ ★ ★
ホタル(降旗康男)

おれは(たとえどんな映画でも)高倉健が映画に出てくれれば満足なので、この映画の悪口は書きたくない。でもちょっとだけ書くと、ラストの健さんの見せ場を最大限に効果的に見せるためには、前半の奈良岡朋子がらみの強引な「泣かせ」は逆効果だと思う。てゆーか、高倉健と小林稔侍と夏八木勲がバカ言って戯れているだけの映画ならもっと良かったんだが、それは言うまい(いやだから言ってるって) あと川谷拓ボンが生きてたら井川比佐志の役にピッタリだったのにねえ。言っても詮ないことと知りつつ言うが、クダらないアクション・コメディの脇役とかにもっと軽い気持ちで出てくんないかなあ>健さん。

★ ★
g : m t(ジョン・ストリックランド)

「トレインスポッティング」に代表される若くてイキの良いイギリス映画の新しい流れ…とは無関係。テイラー・ハックフォードが製作総指揮を務めているのだが、「プルーフ・オブ・ライフ」に次いでこのベテランへの信頼を失わせるに充分な生ぬるい仕上がり。監督・キャストは新人。未来への希望を胸に高校を卒業した4人組が世間の荒波に揉まれてバラバラに…といういかにもなストーリーを最初っから最後まで辛気臭く描いていく。喜びではなく悩み・苦しみに主眼が置かれる。だが、それとて腸を抉り出すような真実に到達してるわけでは全然なくて、あくまでテレビドラマ・レベルのキレイゴトである。 ● 「g : m t」というタイトルは(べつに東宝東和のインチキ邦題じゃなくて)もともとイギリス公開時に使われた宣伝略号( cf.ID4」「M:I-2」)らしく、フルタイトルは「GREENWICH MEAN TIME」。つまり「世界標準時」と「グリニッジのしけた暮らし」の皮肉なダブル・ミーニングになっている。

★ ★
沈黙のテロリスト(アルバート・ピュン)

「スパイダーズ」シリーズでおなじみNU IMAGE社 製作。監督は「ワイルド・ガン」「アドレナリン」「サイボーグ・キラー」「ネメシス」のガンマニア、アルバート・ピュン。製作規模(撮影/照明とかセットの水準とか)は完全なB級映画。スティーブル・セガール/トム・サイズモア/デニス・ホッパーの「共演作」というと豪華に聞こえるが(トム・サイズモアは別として)セガールとホッパーの2人はなぜかアップでしか画面に映らず、一緒の画面に収まることも数えるほどしかない。モブシーンや爆破シーンとは必ずカットが切り替わる。ここから導き出される結論は2つ。主演級スターのスケジュールを合わせると製作費がかさむので3人それぞれを完全に別撮りしたか、それともアルバート・ピュンの演出が死ぬほど下手か…の、どちらかである(セガールとホッパーの出演日数はそれぞれ3日ほどと思われる) ストーリーは「ブローン・アウェイ」のパクリ(というか何というか) クライマックスでは爆弾処理班のセガールが(爆弾処理などしたことのない)刑事のサイズモアに遠隔指示で起爆装置の解除をさせる。それは芸術家肌の爆弾魔ホッパーの仕掛けた「世界最高の洗練された最新式 時限爆弾」なのだが、やはり解決はパネルを外して「赤のワイヤーか青のワイヤーか?」なのであった。爆弾犯人の方々ってのは、あれだけ精巧な時限爆弾を作る脳味噌がありながら、どうして簡単にワイヤーを切られないようにパネルをハンダ付けする程度の智恵が回らないのかねえ? こういう映画はこういうものだから怒りゃしねえけど、どうみたってシネパトスがお似合いの代物である。これを観て日比谷映画にブッキングした東宝の編成担当者は気が狂ってるとしか思えんな。

★ ★
レジョネア 戦場の狼たち(ピーター・マクドナルド)

ジャン=クロード・ヴァン・ダムの1998年作品。順番としては「ダブルチーム」「ノック・オフ」の次で、この後すでに「コヨーテ」「ユニバーサル・ソルジャー ザ・リターン」が日本でも公開されている。自ら共同プロデュース&原案まで手掛けたドラマ重視の意欲作がアメリカで大コケしたので、再び肉体派アクションに戻った…という図式。「アルジェリア戦争の外人部隊もの」という(アクション・シーンもある)正統的なドラマのプロデューサーに「ストリートファイター」つながりで名伯楽エドワード・R・プレスマンを引っ張り出してきたまでは良かったが、何を思ったか製作&監督を「ランボー3 怒りのアフガン」「ネバーエンディング・ストーリー3」のピーター・マクドナルド、製作総指揮&脚本に「ランボー3」(の脚本)「ダブル・インパクト」「ライオンハート」(の監督・脚本の)のシェルドン・レティックというえらい手近で済ませてしまったのが最大の敗因だろう。それとやっぱりヴァン・ダムはナルちゃんだから自分には演技力があると大きな勘違いをしちゃってるのも致命的だったり。ほら、よくジャッキー・チェンの「奇蹟 ミラクル」やその元ネタのキャプラの「ポケット一杯の幸福」なんかで「無骨なやくざ者が似合わぬ紳士を気取ってもす〜ぐボロが出ちゃう」っていう可笑しさってありますわなあ。本作は図らずも全篇がそれになっちゃってるのである(別にコメディじゃないのに) まあ身の丈を知るってのは大事ですな。

★ ★ ★
クイルズ(フィリップ・カウフマン)

フィリップ・カウフマンっていつ以来? おいおいまさか「ライジンク・サン」(1993)から撮ってないってこたぁないだろ日本公開されてないだけだよなあと思ったら、IMDbを見てもやっぱり件の壊滅的な失敗作で8年もホサれてしまったようだ。 ● 雪辱の一作はオフ・ブロードウェイで当たりをとった芝居の映画化でマルキ・ド・サドの話。…とは言ってもジェフリー・ラッシュ演じるサド侯爵は、主人公ではない。公爵が強制入院させられている精神病院で理事長を務める「理想主義者の神父」ホアキン・フェニックスこそが、この物語の主役である。知識人としての侯爵に理解を示し、病室での執筆を許可し、セラピーの一環として病人(=キチガイ)を役者に使っての演劇公演の作・演出を依頼する(ピーター・ブルックの長ったらしいタイトルの映画もありましたな) だが侯爵の著作が地下出版されて物議をかもし、時の皇帝ナポレオンの逆鱗に触れる。良かれと思ってしたことが身の災いとなって降りかかる…。 ● 本作におけるマルキ・ド・サドはトリックスターであって「創作の苦悩」といった内面は描写されない。これは芸術が危険物にほかならないとしても──いや実際そのとおりなのだが──「我々は芸術に対していかに処すべきか」という問いかけを、解かりやすい起承転結とともに描いた戯曲の映画化である。クイルズとは「羽ペン」のこと。貴方の悪口を書くかもしれない羽ペンを、悪魔の手に委ねる覚悟はあるだろうか──? ● ホアキン・フェニックスは「悩める青二才」という「グラディエーター」の新皇帝の延長にある役を見事に演じる。 ジェフリー・ラッシュは、いかようにも熱演できるマルキ・ド・サドを意外にサラリとこなす。 侯爵の「外界とのパイプ役」となる精神病院の下女@処女にケイト・ウィンズレット、…って、処女には見えんだろぉ(子ども2、3人産んでるよーに見えるぞ) てゆーか、病院の下女なんて当時の貞操観念からしたら若いうちからヤリまくってる気がするんだけど? 温情派の神父に対して、ナポレオン直々の指名で病院に送り込まれてくる、いかにも水責め/電気ショック/ロボトミー手術が大好きな病院長に、いつものマイケル・ケイン。神父を評して一言「理想主義は若さの最後の驕りだ」 病院長が修道院から金で買った16才の若妻を演じた(撮影時の実年令17才の)アメリア・ウォーナーがエッチぽくてよろしなあ。

★ ★ ★
スパイダーズ2(サム・ファステンバーグ)

檻の中で唸りをあげる巨大蜘蛛に、生きた“餌”を投げ与えるという「ジュラシック・パーク」な開幕からニヤリとしてしまう。前作「スパイダーズ」そして「オクトパス」と、なんか突然変異モンスターものに異様な執念を燃やすNU IMAGE社の新作がまたもや「世界先行ロードショー」である(有難いんだか何だか…) 今回は舞台が貨物船…じつは恐るべき生体実験船という、つまり「ザ・グリード」「ヴァイラス」風味ですな。ただ前半は、セイリング中に嵐で遭難して貨物船に救助(?)されたパチもんのジョン・サベージ老け顔のジョアンヌ・ウォリー夫婦の疑心暗鬼サスペンスに費やされてしまうので、モンスター映画としての面白さでは前作のほうが上。監督が「サイボーグコップ」「デルタフォース3」「アメリカン忍者」「ブレイクダンス2 ブーガル・ビートでT.K.O!」のB級映画のベテラン、サム・ファステンバーグなので、破綻なく手堅くまとまってしまってるのも、この手の映画では逆に欠点かも。てゆーか、蜘蛛って咆哮するかあ? ● エンドロールが他に類を見ないもので、それはスタッフの95%までが全員「○○ノフ」とか「○○コフ」とか「○○ノヴァ」とか一様に「V」で終わる名前なんである。モスクワ撮影所かなんかで撮影したのか!?

★ ★ ★
幼なじみ(ロベール・ゲディギアン)[たぶんキネコ作品]

ファーストカット。強い日差しの下を歩くヒロインの横顔に、あれ?…と違和感。続いて登場するヒロインが愛する若者の黒い肌にあれれ? これって…もしかして…ビデオ撮り…なのか? いや一見しただけだと気が付かないんだけど、やっぱりキネコ特有のピントの甘い鉛色の画面が散見される。うーん…。こないだのオランダ映画の「ザ・デリバリー」もこんな感じだったなあ。キネコの技術(もしくはデジタルビデオの画質)が向上したってことなんだろうが、これから増えてくるのかなあ>お手軽ビデオ撮り作品。嫌だなあ。せっかくの美しい物語も汚い画面じゃ台なしだと思うんだが。黒人の肌の色とか気にならんのかねえ。 ● 原題は「ハートの代わりに」 汐の香りのする港町マルセイユに暮らすヒゲ&ハゲのマイケル・ビーンな大工の「娘」と、ダニー・アイエロ似の造船ドックの修理工の「養子(黒人)」の恋物語。困難に直面した若い恋人たちを周囲の(不況で自分たちとて決して楽な暮らしをしてるわけではない)大人たちが一生懸命に応援する。町の人々は善人ばかりで、真の悪人は「レイシストの警官」1人しか出て来ない。現代フランス映画に特徴的なドキュメンタリー・タッチ(?)の撮影/演出にまどわされがちだが、この映画の本質は(チラシに共感コメントを寄せている)山田洋次森崎東が撮りそうな、下町ワーキング・クラスの市井の生活ドラマである。もちろん最後にはハッピーエンドが待っている。 ● ティーンで妊娠→腹ボテ&黒人の恋人は冤罪で檻の中…という状況でも挫けないヒロインには(ちょいマリア・デ・メディロス似の、つぶらな瞳の)新人ロール・ラウスト。もちろんこれはフランス映画だから(たぶん撮影時は高校生くらいと思われる)フレッシュなヌードも披露している。 恋人にこちらも新人アレクサンドル・オグー。もっと「小説家を見つけたら」のコぐらいハンサムだったら良かったのに。 ヒロインの(あんまり顔の似てない)子ども時代にフィオナ・ケンディリアンちゃん(…かな? フランス語読みわからん) 最後にヒロインのナレーションより名台詞をひとつ。「物にも人にも塵は積もる。でも人の心に積もる塵は執拗にまとわりついて離れない…」

★ ★ ★ ★
センターステージ(ニコラス・ハイトナー)

養成所に通う若者たちの厳しい練習と夢と恋の日々。クライマックスは卒業公演…という、もろ「フェーム」のアメリカン・バレエ・シアター版である(劇中ではアメリカン・バレエ・カンパニー) いや、まあ本当いうと本作は街角ミュージカルではないので、劇中のバレエ・レッスンと、NYそしてショウビジネス予備軍という舞台設定がそう思わせるだけなんだが。「類型的」とさえ言える人物造型。根っからの悪役が登場せず、メインキャラ全員がハッピーエンドを迎えるストーリーライン。そしてフレッシュな魅力にあふれた出演者たち。…これは変に奇を衒わず王道を目指して成功した、愛すべき青春映画である。監督は「私の愛情の対象」「クルーシブル」「英国万歳!」の…というよりは「ミス・サイゴン」「回転木馬」などステージ・ミュージカルの演出家でもあるニコラス・ハイトナー。脚本は(やはり青春群像劇だった)「エンパイア・レコード」のキャロル・ヘイッキネン。 ● キャストの半分を踊れる役者、もう半分を本職のダンサーで固めている。メインキャラである3人の女性練習生のうちでもヒロイン格の、技術的には劣るが無視できないチャームを持った「中流白人娘」に(実際にサンフランシスコ・バレエ団の練習生でもある)アマンダ・シュール。 テクもハートもあるのに反抗的かつ言葉遣いも汚いので教師の覚えが良くない「プエルトリカン」に(ミュージカル女優の)ゾーイ・ザルダナ。 小学生の頃から親のいいつけでバレエ一筋、「美味しいもの」も「思春期ならではの楽しい想い出」もすべて我慢して、それでも頑張る「エリート練習生」にスーザン・メイ・プラット。おれのイチオシはちょい牧瀬里穂 似の この娘だ。新進女優でプロのダンサーではないそうだが(文字どおり)折れそうな細い躯に、さびしげな微笑みがムチャクチャ可憐だぁ。 カンパニーの看板ダンサーに、実際にABTのスーパースターであるイーサン・スティーフェルが扮して(これっぽっちもバレエ・ファンでない)おれですら感嘆する見事な踊りを魅せてくれる。 女性陣に較べるとほとんど点景でしかない男性練習生に(やはりABTのトップダンサーである)サシャ・ラデツキーと、長野オリンピックのフィギュア・スケート金メダリスト、イリア・クーリックほか黒人1名。 座付き演出家に憎まれ役ならおまかせの、ピーター・ギャラガー。厳しいけれどほんとは優しい…というありがちキャラな教師に扮したドナ・マーフィーが素晴らしい。

じつはこの映画、有楽町スバル座に最終週の水曜日の最終回に観に行ったら(レディースデイで)すでに満員立ち見。その日はあきらめて金曜日(千穐楽)の最終回に早目に再トライしてなんとか座れたものの、やはりこの日も場内はバレエ漫画を読んで育った御婦人方で満員立ち見の盛況(終映後はパンフも売り切れてた) 明らかに「3週打ち切り」の決定が早過ぎたわけである。むざむざと商機を潰されたソニー・ピクチャーズは「東宝系列のスバル座なんぞではなく、東急のル・シネマか、恵比寿ガーデンシネマあたりに話を持っていっていれば…」とほぞを噛んだことだろう。東宝の編成部は興行を読む力を失っているのではないか?・・・と、ここまで書き上げたところで(やはりソニー配給の)次回作品「ドリフト」を観に行ったら(「ドリフト」が)不入りなので2週で打ち切って16日(土)からもう一度「センターステージ」を再映するんだそうだ。しかもその時点では(「センターステージ」を)打ち切られてアタマに来たソニー・ピクチャーズが即効で2番館にブッキングした後らしく23日(土)からは(ロードショー劇場の)スバル座と(2番館である)下高井戸シネマとキネカ大森の〈拡大公開〉という珍妙な事態になっている・・・なぁにやってんだか 東宝とソニーといえば、たしかスカラ座2で「グリーン・デスティニー」を再公開したときも、飯田橋のギンレイホールあたりとダブルブッキングじゃなかったっけ? はい、では三択です。このような東宝編成部の姿勢にあてはまる適切な諺はどれでしょう? 1.二兎を追うもの一兎をも得ず 2.泥棒を見て縄を綯う 3.馬鹿は死ななきゃ治らない


★ ★
ミリオンダラー・ホテル(ヴィム・ヴェンダース)

犬のケツのように退屈な映画だぜ。クソの始末をする身にもなってくれよ・・・いや、おれが言ってんじゃないよ。この映画の製作会社アイコン・プロダクションズの社長であり、FBI特別捜査官の役で出演もしているメル・ギブソンが地元シドニーの記者会見でうっかり漏らした一言だ。いや、素晴らしい。この映画を簡潔に言い表してる。後日「ヤだなあ、あの発言は冗談だってば」とかなんとか誤魔化してたそうだが、なぁに、冗談にこそ本音が出るものなのだよ。なにしろ「フィフス・エレメント」「ジャンヌ・ダルク」のミラ・ジョヴォヴィッチ+「プライベート・ライアン」のジェレミー・デイヴィスにメル・ギブソンというキャスティングにもかかわらずアメリカの配給を引き受ける会社が見つからず、結局、ライオンズ・ゲイトというマイナーな会社が日本と同じぐらいの館数で限定公開したという曰くつきの作品である。 ● ま、中味を観ればそれも納得できる。この映画には白痴とカタワとキチガイしか出てこないのだ。「LA下町の安宿ミリオンダラー・ホテルを舞台にしたハードボイルド・ミステリ」という形式をとっているが、このホテルは「入院費が払えず精神病院を放り出された妄想系の患者」たちの吹き溜まりで、さまざまな妄想をかかえたピーター・ストーメアだのアマンダ・プラマーだのバド・コートだのがたむろしてるし、ヒロインのミラ・ジョヴォヴィッチは自分を「虚構の存在」だと思い込んでるイカれ娼婦だし、物語の語り部であるジェレミー・デイヴィスは白痴だし、探偵役のメル・ギブソンに至っては[背中に生えてた3本目の腕を切断した元フリークス]なのだ。…あれ?面白そうじゃん(火暴) この映画が何故ダメかというと、作者の視線がしょせんは「金持ちのインテリ源ちゃんが一泊千円のベットハウスに寝起きしてるドヤの日雇いに寄せる共感と同情」と同じ類のものだからだ。 ● 原案・主題歌はU2のボノ。音楽プロデュースはハル・ウィルナー。監督は…え、誰ですって? ヴィム・ヴェンダース? それって昔は有名な監督さんだったんですか? 

★ ★
LIES 嘘(チャン・ソヌ)

韓国で話題沸騰の「発禁映画」というのが売りの作品。前作「バッドムービー」でも論議を呼んだチャン・ソヌ監督は、ここでもドラマを描くことは二の次で、まず論争を巻き起こしたかったのだろう。この描写をしたら/台詞を言わせたら韓国では公開禁止になるということがわかっていて作っている。その意味では、そのままの形で国内公開できないのを承知で「愛のコリーダ」をハードコアとして撮った大島渚とよく似ている。 ●  中味は、処女の女子高生と尻打(スパンキング)趣味の彫刻家との愛欲の日々。吉行淳之介が書くような性愛小説の世界である。性愛描写は韓国では発禁なのだろうが、日本のレベルから見るとせいぜいピンク映画ていど(前貼りをしてないのでちんぽとかはポロポロ写ってるけど) 30分も観れば飽きてしまう。 ● 韓国映画の女優さんは美人ぞろいだが、役が役だけに演り手がいなかったのだろう、本作のヒロインのキム・テヨンは、おヘチャ(死語)なので、なんか昔の日本映画を観てるみたいだった。実相寺昭雄とかね。我々はもうこういう段階は卒業したのだよ。韓国に住んでいる韓国人の映画観客にお勧めする。 ● K2エンタテインメントが作った予告篇だけはえらいカッコイイ仕上がりだったなあ。本年度の「予告篇だまくらかし映画」ナンバーワンかも。

★ ★
案山子 KAKASHI(鶴田法男)

「リング0」の監督が「ウィッカーマン」をジョン・カーペンター風に撮ってみました…という一品。恐い人たちが横並び1列で近づいてくる演出など微笑ましいかぎり。シンセ&ミニマルなBGMまでカーペンター風なのは御愛嬌(音楽:尾形真一郎) ● ヒロインが迷い込んだ山奥のトンネルの向こうの村では古来より案山子を死者の依代(よりしろ)としていて…という「着想」はいいが、その後の「展開」がボロボロである。脚本に監督自身や村上修など4人もの人間が名を連ねてて もう少し論理的な脚本は書けないものか。たとえホラー映画であっても…いや、それだからこそ観客に不条理を納得させるためには論理的な手続きが必要なのだ(不条理を不条理のまま押し切ってしまう圧倒的な画力があれば別だが) また、この話でクライマックスに「案山子ゾンビがゾーロゾロ」という描写がないのは観客に対して不誠実の誹りは免れまい。いや、低予算は言い訳にならんぞ。低予算といえば「僻地の村人」というより「貧乏な撮影スタッフ」にしか見えないエキストラの質の低さも目障り。観客にこれから劇中で起こることを教えてしまう本篇前の余計な説明字幕は(薀蓄おやじの役回りである)河原崎健三に台詞で言わせるべき。 ● 失踪した兄の元に届いた手紙の「不来彼方村」という住所をイッパツで「こずかた村」と読めてしまう漢字に強いヒロインに(「愛を乞う人」の)野波真帆。恐怖におびえる顔が美しくないのが致命的。 対照的に最後の最後まで顔を見せないのに、その美しさで強烈な印象を残す赤い服の髪の長い少女に「バトル・ロワイアル」の柴咲コウ。 何のために出てるんだか最後までわからない不思議な役回りの準主役に、香港からグレース・イップ(葉佩[雨/文]) ● なお東京での上映館の渋谷シネパレスは、自分とこの会社の持ちビルで、しかも映画館は最上階にあるのにスクリーン裏の壁がえらい薄いらしく、渋谷の雑踏/呼び込み/路上演奏が上映中も狸囃子のように聞こえてくるという異郷ホラーには最適の映画館なのでお勧めだ。


天使の火遊び(じんのひろあき)[ビデオ上映]

「櫻の園」などの脚本家として、あるいは小劇場演劇の作・演出家として知られるじんのひろあきの脚本・撮影・編集・監督作品。デジタルビデオ撮影をパソコン加工。液晶プロジェクターによるビデオ上映。東京の24番目の区である「桃宿」を舞台に、ミニFM局の深夜DJが「此処ではない何処か」へ連れてってくれるという白いタクシーの都市伝説を追う…というファンタジー。ヒロインはウサギという名の頭にウサギの耳をつけた女のコで、このコだけでなく登場人物全員に「カンガルー」だの「ペンギン」だの「フクロウ」だのといった動物の名前と属性が与えられ、いかにも小劇場演劇的な稚拙かつ大袈裟な演技で、いかにも小劇場演劇的な不自然かつ生硬な台詞をくっちゃべる。チラシの「スタンダードサイズ」という表記は紛らわしいので、はっきり「ビデオ」と書くよーに。それと「日本映画」というのも間違い。これは映画じゃない。評価外。30分で退出。


ドリフト(ツイ・ハーク)

これがアルバート・ピュンの映画なら「まあまあ、こんなもんでしょ」と深く考えずに星2つを付けただろう。だが、おれにとってツイ・ハークは「上海ブルース」(1984)「北京オペラ・ブルース」(1986)「アゲイン 明日への誓い」(1989)「ワンス・アポン・ア・タイム 天地大乱」(1992)「ブレード 刀」(1995)といった忘れ得ぬ傑作を撮ってきた監督なのだ。それらに較べて「ドリフト」は、もう許せないくらいつまらなかったので、ためらわず最低点とする。この人の近作はヴァン=ダムの「ダブルチーム」「ノック・オフ」と来て本作である。すでに撮影済みの新作「蜀山正傳」(セシリア・チャンが飛ぶ!チャン・ツィイーが舞う!)の出来も心配だなあ。まさか終わっちゃってるわけじゃねえだろうなあ…>ツイ・ハーク。 ● さて中味だが、…ほら、よく、香港映画特有のベタなギャグが炸裂するアクション・コメディってやつがありますわなあ。あれをウォン・カーウァイが撮ったらどうなるか?…という実験作がこの映画なのである。冒頭から主人公の若者の「神は6日目になんちゃらかんちゃら。南国の楽園がどーたらこーたら」という益体もないモノローグが垂れ流され、「ドラマ」などというしちめんどくさい代物を排除した心象スケッチが展開される。話の筋は観終わってパンフで確認するまで誰にも判らない。そんなスタイリッシュ(てゆーかスタイル・オンリー)な映像で描かれるのは、しかしゲロや屠殺場やゴキブリや妊婦の破水だったりするのだ。ジョン・ウーお得意の「2人が銃を突きつけて睨みあい状態」を小バカにしたシーンや「意味もなく舞う白鳩」なんてのもある。い、い、いったい何がやりたかったんだ!?>ツイ・ハーク(←いや、まあ本人にしてみればMTV風というかガイ・リッチー風のつもりなのかも) スバル座の音響設備のせいかも知らんが、アクション・シーンのBGMがやたらと小さいのは何故? 原題は「順流逆流 TIME AND TIDE」。香港映画では脚本は「編劇」とクレジットされるのが普通だと思うが、この映画では「劇本」と表記されている(近頃じゃこう言うの?) ● アウトロー=ドリフター(漂泊者)の世界に足を踏み入れた若者に最強アイドル ニコラス・ツェー(謝霆鋒) やくざな世界から足を洗おうとしてる大陸者に、台湾のカリスマ・ロックスター ウー・バイ(伍佰) 若者の子を孕むレズの女刑事…という複雑な設定のわりにはまったく本筋に絡まないヒロインに、17才のアイドル歌手 キャシー・チュイ(徐子淇) 大富豪の父の反対を押し切って やくざ者と結婚したもう1人のヒロイン@やはり臨月に実力派シンガー キャンディ・ロー(盧巧音)・・・と、ニコラスくん以外はほとんど映画初出演となる歌手中心のキャスティング。なかでは「細目&頬骨」系の顔だちのキャンディ・ローが自然で達者で魅力的だった。

★ ★ ★
デンジャラス ビューティー(ダニエル・ペトリ)

男勝りの色気ゼロなFBI捜査官が、連続爆破魔の捜査のためにミス・コンテストの出場者として潜入することに…というサンドラ・ブロックの製作・主演によるコメディ。ベテラン監督ドナルド・ペトリの手になる分だけ、前作の「ガンシャイ」よりは出来が良いが、それとても この監督の「チャンス!」「リッチー・リッチ」「ラブリー・オールドメン」「微笑みがえし」といった(調べなければ思い出せなかったほど)凡庸なフィルモグラフィに釣り合ったレベルのものでしかない(ちなみに「アパッチ砦・ブロンクス」「スクエアダンス」のダニエル・ペトリは実の父親) ● ヒロインはガキの頃からのガラッパチで男社会で生きて来てるので、ミスコンなど所詮は「ちょっとキレイで乳がデカいだけのアーパー女どもがチャラチャラと水着で行進する」ような代物だと思っていて、他の出場者たちをバカにしてる。いわばこれは「自分とは価値観の異なる社会に放り込まれた主人公が苦労する話」のバリエーションで、この結末はかならず「主人公が最初はバカにしていた/恐れていた/理解不能だった相手と認めあう/わかりあうようになる」ものと決まっている。本作の場合だと当然「このコたち、バカだバカだと思ってたけど、バカなだけじゃないんだ」と、ヒロインがミスコン・ガールズに対する偏見を改める…というのがゴールのはずなんだが、困ったことに この映画の彼女たちは最後までバカのままなのである。見直させるエピソードを嘘っぽくてもいいからなんか考えろよ>脚本家。最後にヒロインの化粧を手伝って終わりかい! ● もちろん、汚いなりの「おとこ女」が美しいレディに変身するというプロットは「マイ・フェア・レディ」であるわけで、本作では「ヒギンズ教授」役にマイケル・ケインをキャストして万全の体制のはずなのに、肝心の変身パートを意外とアッサリ処理してしまうので、ケイン卿も実力を発揮できないまま中途半端なあつかいなのも残念。 それでも3つ星を付けたのは、ミスコン主催団体の理事長として(1990年代をTVの世界で過ごした)キャンディス・バーゲンの顔を20年ぶりにスクリーンで見られたから嬉しくて つい。 「ミスコンの名物司会者」役のウィリアム・シャトナー(←じつはエンドクレジットまでそれと気付かなかった)は、あれはやっぱりワザとトニー・カーチスに似せてるんだよな? ほとんどキャラが立ってないミスコン出場者の中で、ゆいいつ識別可能な儲け役のミス・ロードアイランドにヘザー・バーンズ。 ● ミス・コンテスト翌朝のお別れパーティーでは出場者たちの互選による「ミス・ベストフレンド」という、いわば「仲間受けナンバーワン」を選ぶのが恒例のようで、この映画の原題(Miss Congeniality)はそこから採られている。

★ ★
誘拐犯(クリストファー・マックェイリー)

なんだよ「WAY OF THE GUN」なんてタイトル付けやがってアクション映画を期待して来たら、こりゃ演劇じゃないか。申し訳ていどに銃撃戦が序盤に1つと終盤に2つあるけど、「ユージュアル・サスペクツ」の脚本家による脚本&初監督作だけあって、本筋は腹にイチモツ持った思わせぶりな連中が騙し騙されの(動きのない)サスペンスである。それも演出や映像で見せるのではなく、登場人物がいちいち考えを台詞にして説明するタイプの(しかも海千山千の悪党どもが簡単に盗み聞きされる場所で平気で内緒話をしたりする無用心さで) これは(スタイルが異なるだけで)カッコだけで中身がないという点においてはブラッカイマー作品と同じ種類の映画である。いやもちろんブラッカイマー作品のほうが百倍もエンタテインメントだが。 ● 実質的な主役はベニシオ・デル・トロ。ライアン・フィリップはあまり出番がない。この2人組…特にベニシオは「喰いつめたチンピラ」にしちゃ、あまりにプロフェッショナル過ぎるんで「じつはFBIでした」てなオチだとばっか思ってた。 誘拐される代理母にジュリエット・ルイス。妊娠9か月の腹で、そーとー邪険に扱われても「可哀想」という感じがしないという意味では、このキャスティングは正解かも。 誰よりズバ抜けた存在感をはなつのは、老いてはいても耄碌どころか老獪そのもののマフィアを演じたジェームズ・カーン。かれとコンビを組む老マフィアに扮したジェフリー・ルイスはジュリエットの実の父ちゃん。

★ ★
ロスト・ソウルズ(ヤヌス・カミンスキー)

日比谷のみゆき座に封切7日目の金曜日に観に行ったら「本日限り」だった。げっ1週打ち切りかよ!? 翌日からは「ザ・メキシカン」を上映する由(両作品ともギャガ配給) 劇場の貼紙に拠ると「ロスト・ソウルズ」は9日からは(都内では)新宿武蔵野館とシネマ・メディアージュのみの上映になるんだそうだ。13スクリーンあるメディアージュはいいとして、武蔵野館とて必ずしも「やりたくてやってる」わけじゃないだろう。新宿地区では「ザ・メキシカン」は新宿文化試写室3/4で延長上映することが決定済なので(先週号の「ぴあ」にも掲載)「他にやるものがなくて仕方なくてやってる」に過ぎないのだ。たぶん。 ● しかしさあ。それなりの手間暇かけて宣伝して予告篇焼いて広告打ってポスター作って看板描いて、あげくにたったの1週間興行で、はたして封切る意味があるのかね?>ギャガ。 てゆーか頼むから せめて2週間はやってよ。1週打ち切りは勘弁してくれ。観る気があったって観られねーよ そんなんじゃ>東宝編成部。 この組み合わせ(ギャガ=東宝)はこれからも(BBSでも再三、述べてるように)スカラ座の「クロコダイル・ダンディー in L.A.」とか日比谷映画の「沈黙のテロリスト」とか明らかに打ち切り警報発令中なので、観賞予定の方はくれぐれもお早めに。…おれか。

さて肝心の本篇のほうだが、これが「リアリズムに基づくオカルト・サスペンス」として観るには監督の演出力が決定的に不足しており、さりとて「コケ脅しのオカルト・ホラー」としちゃあ派手なサービスシーンが皆無という、困った代物であった。これ、じつは1999年の世紀末ホラー・ブームの1本として製作されながらも(おそらく)地味な内容が災いして長いこと「お藏入り」していた曰くつきの作品なのである。「プライベート・ライアン」「アミスタッド」「シンドラーのリスト」のスピルバーグ組のカメラマン“マスター・オブ・銀残し”ヤヌス・カミンスキーの初監督作品だけあって、全篇にわたって彩度を落とした独特の画作りを行っており、つねに「薄くれないの曇り空」のような光線が内容と合致して効果を上げているが(本作の撮影監督は「追撃者」のマウロ・フィオレ)、肝心の演出が先述のとおりなのでは、ちょっと。だいたいスロー撮影とか超クロースアップの使いすぎだろ。演出のテンポも最初っから最後までのったりしすぎてる。おまけに脚本(ピアース・ガードナー)は「ヤマ場の作り方」をまったく判っていない。最後の最後まで“疑惑の人物”の処へ行かないってのは変でしょーが。完全な失敗作。 ● おれの嫌いなウィノナ・ライダーだが、今回の「悪魔復活を阻止すべく孤独な闘いを続ける元非行少女」という役には合っていたように思う。彼女(神職でもないのに)神父から「特別な許可」を得てエクソシズムに立ち会うんだけど、一瞬だけ映ったアレってつまり「生贄」の役割なのか? 悪魔憑きに彼女とまぐわらせて本性を誘き出す? そうか、そうなのか?>カソリック教会。 「ゴッド・アーミー 悪の天使」のイライアス・コティーズが熱心な神父助手の役で出演(これって「ゴッド・アーミー」外伝なのか!?<違います) 製作に(なぜか)メグ・ライアンが名を連ねている。・・・あ、そうか。いま気が付いたけど、あと2日はやく観てれば6月6日の午後6時の回だったんだ。…ちぇっ(そんなに口惜しがるほどのことか?)



シックスパック(アラン・ベルベリアン)

フランス製のサイコ・スリラー。そもそもフランスには(金目当ての連続殺人はあっても)快楽殺人のシリアル・キラーの前例がない。だから犯人は「シリアル・キラーの母国」アメリカからやって来たに違いない…というメチャクチャな推理に驚いていると、実際に犯人はアメリカ人なのだから恐れいる。ハリウッド映画の劣悪なエピゴーネンを作っておいてアメリカの悪口 言ってんじゃねーよ、この腐れチーズ野郎どもが。 ● 木を見て森を見ない暴走刑事のせいですべてがぶブチ壊しになる話。「セブン」のように「犯人の底知れぬ悪賢さ」に出し抜かれるのではなく、ヒーローの愚かさゆえに全員を危機に陥れるという展開なので、観ててマジで嫌になる。犯人を公園に追いつめようと罠を張っておいて、その公園が夜間に施錠されるかどうかすら事前に確認しておかないという無能ぶり。勘弁しろよ。主人公の刑事 曰く「おれたちは大馬鹿者だ」って、アンタ気付くの遅すぎ。「残酷描写のための残酷描写」という、サイコ・スリラーが陥りがちな罠にみごとに嵌まっており、しかも「セブン」の後味の悪さだけを律儀に輸入している。この刑事、しまいにゃ致命的なヘマを犯しておいてフランス政府に責任転嫁してやんの。いちばん無能で傍迷惑なのはアンタなんだよ。くれぐれもうっかりご覧にならぬようご注意申し上げておく。タイトルはシリアル・キラーのニックネームなんだが、劇中で一瞬だけ説明されるその由来がよくわからなかった。

★ ★ ★
ベレジーナ(ダニエル・シュミット)

これがあの退屈で退廃的な「ラ・パロマ」「ヘカテ」の監督だろうか!?と、我が目を疑うようなトチ狂ったブラック・コメディである。原題は「ベレジーナ:あるいはスイス最期の日」。ペレジーナってのはヒロインの名前かと思ったらスイス人にとっては「愛国」と「大災厄」を同時にイメージする地名なんだそうだ。日本だと「二百三高地」って感じ? ● ロシアからスイスに出稼ぎに来たおぼこ娘が政財界の大物に気に入られ高級娼婦を続けるうち、あっちへ転がりこっちへ転がりあれよあれよという間にスイスの女王様になってしまいました…という奇想天外なおはなし。ヒロインがロシアの家族に出した手紙がナレーションとなってかぶる。お父さんお母さん大きいお兄さん真ん中のお兄さんお姉さんお爺ちゃんお婆ちゃん叔父さん叔母さんお元気ですか。アタシはいまとても幸せです。こちらでは皆さんにとてもよくしてもらっています。毎日、お友だちと楽しいことをしてるだけで、アタシに「スイス国籍」を取ってくれるって約束してくれます。そのことを考えるとアタシ嬉しくてお股がジュンとしちゃうんです・・・つまり「ブニュエル・ミーツ・宇能鴻一郎」だな。邪心なきヒロインが奇人変態たちとのセックスに翻弄されるうちにトントン拍子にものごとが上手く進んでしまう…というストーリーラインは、まさしく宇能鴻一郎ポルノの王道である。さすがダニエル・シュミット@日本通<違うって。 ● ヒロインを演じる(若い頃の松岡きっこ みたいな)エレナ・パノーヴァは実際にロシアからスカウトしてきたんだそうだ。無意識のようで十二分に自分の魅力を意識した媚を含んだ表情が魅惑的。脱ぎこそしないが露出過多の衣裳は眼福。 NHK朝のテレビ小説みたいな、人を馬鹿にした ほのぼの調のBGMもナイス。 ただ難点は字幕がわかりにくいことで、翻訳の堀越健三ってユーロスペースの社長だよなあ? あのさ、経費節減かなんか知らんけど社長が自分で字幕を付けんのはやめてくんないかな。

★ ★
ギター弾きの恋(ウディ・アレン)

ウディ・アレン監督・脚本による「カメレオン・マン」「ブロードウェイのダニー・ローズ」系列の芸人哀愁ホラ話。前にも書いたが おれはウディ・アレンのファンだし、ストーリーは(何度、観ても号泣してしまう)フェリーニの「道」だっていうし、この企画はテッパンだと思ったんだがなあ。うーん…。 ● たぶん、おれが感じた違和感はザンパノ役のショーン・ペンに起因するものだ。「カラーズ 天使の消えた街」「カリートの道」「Uターン」とかのこの人は大好きなんだけど、「デッドマン・ウォーキング」「シーズ・ソー・ラヴリー」の演技はまったく評価してなくて、だってショーン・ペンがこんなに優しいはずがないじゃんか! ショーン・ペンのキャラクターも、ウディ・アレンの演出もなんか中途半端に生ぬるくて、これならいっそ“泣かせ屋”ジュゼッペ・トルナトーレあたりに任せたほうが良かったんじゃないの? ● ま、そのぶんジェルソミーナを演じるサマンサ・モートンが素晴らしい。小っちゃくてコロコロしてて、しかも唖(おし)でセックスが大好きで(←あ、いや別に左の2つの条件はペアじゃないっすよ)、いっつも何かを食べてて口をモクモグさせてて、それがドングリを齧ってるリスのように見える…という、ウディ・アレンのあざとい演出にみごとにシテヤラれてしまった。あの赤裸々な「アンダー・ザ・スキン」の痛々しいヒロインを演ってた女優と同一人物とはとても信じられない。出演場面がやたら短い気がするのは贔屓目? ユマ・サーマンなんかどーでもいいからもっと彼女を! てゆーか、一瞬だけ出てたチョビ髭のクラブ支配人はひょっとしてジョン・ウォーターズ!?(知り合いなのかウディと?)

★ ★ ★
リトル・ダンサー(スティーブン・ダルドリー)

イギリス映画。半ズボンのケナゲな小学生がクルクルまわる映画。あるいは「遠い空の向こうに」のショタコン版。これは女ウケするタイプの映画だと思う(男で「大好き」って人いる?) ● よく出来た娯楽映画だし、ミュージカル場面の撮り方も正統的なのだが、おれが11才のビリー・エリオット(=原題)君に感情移入できなかったのは「彼がダンスに惹かれたきっかけ」が劇中できちんと描かれないからだ。「遠い空の向こうに」は「町の人総出で夜空に美しい軌道を描くスプートニクを眺める」という感動的なシーンからスタートした。「リトル・ダンサー」に描かれていることだけから判断すると、ビリー君は「親父に強制されたボクシング教室の隣りでやってたバレエ教室で、同世代の女の子たちがチュチュを着てヨチヨチと踊る姿に心惹かれて」バレエを習い始めたように見える。それはダンスに魅せられたのと違〜う。てゆーか、そーゆーのはオカマというのだ。いやオカマの映画なら、それはそれで構わないけど、本篇でのビリー君は「ボクシングよりバレエが好きだがオカマじゃない」キャラとして設定されている。そのためにわざわざ「カマっぽい級友」まで出してきてる(あるいはビリー君のアルター・エゴを興行的な要請でこうして表現してるのかな?) いずれにせよ、ここはビリー君に「ぼくもあんな風に踊りたい!」と思わせるダンスシーン、あるいは早逝した母親がらみの動機を設定すべきなのだ。 ● 「遠い空の向こうに」はロケットボーイズの物語であると同時に、ラストの「手製ロケット打ち上げ」が町の人たちにも希望/元気を与えているように見える)ように描いていた。対して「リトル・ダンサー」はあくまでも「ビリー1人だけが未来のない町から脱出する」物語である。残される者の残酷をもしっかりと描いている。これは良い悪いの問題じゃないが、映画の後味としては「遠い空の向こうに」のほうが好ましく感じるのは当然だろう。あと作者は「サッチャー政権下の1984年の探鉱スト」という時代設定にえらく思い入れがあるようだが、なら、なんで「ゲット・イット・オン」(しかもT−レックスのオリジナル・バージョン)なワケ? 時代が合ってないじゃんか(1984年の曲をもって来いよ) ● バレエの先生の娘役の(あの年頃の女の子がそうであるように)ちょっとマセ気味の女の子(ニコラ・ブラックウェル)が可愛いんだけど、ビリー君が最後にキスしてお別れするのはカマッぽい女装好きの親友のほう。やっぱソノ気があんじゃねえか?>ビリー君。

★ ★ ★ ★
リムジン ドライブ(山本政志)[キネコ作品]

何度でも書くが、おれはキネコの薄汚い画面が大嫌いである。だが・・・いいよ山本政志だけは許すよビデオ撮りでも。「バカは国境を越える」ってのは山本政志の何の映画のコピーだったか。このバカは(今まで日本や香港でそうしてきたのと同じように)日本人キャスト数人だけを連れてニューヨークに乗り込んでって、ファンキーな黒人ドライバーや、渋谷のガングロ・コギャルや、信用のおけないパキスタン人や、元ボートピープルのチャイニーズ・マフィアや、日本人の元チーマーらが入り乱れる無国籍な大バカ・コメディを作り上げた。しかもこれが驚くなかれ自作の脚本もしっかりとした、過去最高にウェルメイドな痛快作なのである。いやあ畏れ入りました。 ● この映画から伝わってくるのは「自由であることは何よりも素晴らしい」という想いだ。もちろんここで言う「自由」とは「いい加減」とほとんど同義で、「自由に生きる」ってことは「他者のいい加減」も引き受けなきゃならないわけだが、それでも不自由で窮屈なよりは絶対に自由がいい…と山本政志は思ってる。それは「主張」とか「テーマ」なんて大袈裟なもんじゃなくて映画のそこここに染み付いている気分みたいなもんだ。製作体制としては、まんまNYインディーズ。エキストラの数もお友達出演程度の自主映画モドキなのだが、そんなチープさや(認めたくはないが)ビデオ撮りであることなどは、素晴らしい映画を作るうえで何の障害にもならないことを山本政志は身を持って証明した。このバカはただのバカじゃない。山本政志こそ真のインターナショナル・バカだ。 ● カレシを追ってニューヨークにやって来た、自分中心的で口汚くて英語なんてほとんど喋れないのに「物怖じ」という言葉自体を知らなさそうなガングロ・コギャルに仲祐賀子。日本人コギャルに気に入られちゃってヒドい目に遭うリムジン・ドライバーに、これが俳優デビューとなる現役ファンク・ベーシストのT.M.スティーブンス(←音楽も担当) 「スカーフェイス」のアル・パチーノと(殺されたギャングスタ・ラッパーの)トゥーパック・シャクールを崇拝してる元チーマーのヤバい奴に(実際に元「族」の頭だったという)鬼丸。

★ ★ ★
降霊(黒沢清)

関西テレビ製作で、すでに1999年 秋にオンエア済みの(たぶん)16mm作品が(たぶん35mmにブロウアップされて)吉祥寺のバウスシアターで公開された(おれは今回が初見) 1964年(日本公開は1979年)のイギリス映画「雨の午後の降霊祭」のリメイク。おれは未見なのだが、オリジナルには幽霊なんて出て来ないのではないか? だってこれって幽霊が出てこなくても成り立つ話だもの。なにかサスペンス映画のプロットを無理やりにホラーとして演出しているような印象を受けた。 ● これは黒沢清・流の「幽霊を見せる幽霊映画」で、つまり「リング」への彼なりの回答なのだと思う。これがやがて「回路」の「触れられる幽霊」にまでエスカレートするわけだ(カメラはこのあと「大いなる幻影」「リング0」を撮る柴主高秀) ホラー映画として観るぶんには十二分に恐怖演出を堪能できるのだが、その結果として観客の視線が幽霊に集中してしまい、サスペンスの主眼であるべき人間ドラマが霞んでしまった。言い換えるなら「幽霊の怖さ」が「人間の怖さ」に勝ってしまってるのだ。キャラクター生成も不自然で、風吹ジュンと役所広司は前半と後半では別のキャラのように見える。…おれ、てっきりあの夫婦は(病気か事故で)自分たちの子どもを死なせていて、それで2人でひっそりと暮らしてるのかと思ってたよ(家もデカいしな) そうじゃないなら、あの前半の風吹ジュンの心神耗弱ぶりは何なの? ● ピンク映画関係から2人。役所広司が仕事してるスタジオのディレクターで、ちょっとオカしくなってふっつり姿を消してしまうのが、清水大敬。その後任で「全部やり直すから」とか言ってるのが、山本竜二。 草[弓剪]剛が独りだけ目立って下手だった。

★ ★ ★
あしたはきっと…(三原光尋)

「燃えよピンポン」「絵里に首ったけ」の“大阪の星”三原光尋の最新作。「絵里に首ったけ」は10分で途中退出してるので、おそるおそる観に行ったのだが、今度はなんとか最後まで観ていられた。 ● 「よく気がつく良い子」なのでついつい損な役回りを引き受けてしまう、…そういう自分が嫌で仕方ない17才の高校2年生@空手部所属。そんなヒロインの前に幸せの天使が現れて「サイアクな夏祭りの日」をもう一度やり直させてくれるのだけど…という「大林宣彦」的な青春ファンタジー。 …ここで「ファンタジー」と言ってるのはこれが「SFだから」ではない。じっさいこの映画においてSF的設定が行使されるのは物語もなかばを過ぎてから。そこに至るまでの時間を、作者は「純なヒロイン」のささやかな/ひたむきな日常を描くことに費やす。中学生というならまだしも、とても現代の高校生とは見えない彼女たちの虚構性を指してファンタジーと言っているのだ。こうした古いタイプの娯楽映画における「典型」と「陳腐」の境界というものはじつに曖昧で、脚本と演出の匙加減ひとつで同じ場面から生み出されるものが「感涙」にも「失笑」にもなり得る。その点、三原光尋はまだまだ意欲に技術が追いついていない。しかも恐ろしくセンスが古臭い。たしかに「爽やかな名場面」もあるが、椅子の肘置きを握りしめて背中のむず痒さに耐えたのも二度や三度じゃなかった。ただ諸兄がキャピキャピした女の子たちがキャーキャー言ってじゃれあってる様に至福を感じるタイプならば絶対のお勧めである。 ● ヒロインの吹石一恵はまっすぐな感じが役にピッタリなのだが、残念なことに声が良くないなあ(星野知子みたいな声なんだもん) あとあとの展開を考えると、お祖母さんを病院に見舞ったヒロインは「昏睡状態のお祖母さんに向かって人に言えない悩み事を話している」という描写を入れるべきでしょう。 物語の要となる「幸せの天使」を演じるコ(大島由香里)が下手糞な素人なのも致命的。この映画の天使は「浴衣姿の女のコ」の姿で登場するのだが、着る浴衣や髪型にはもっと神経を使うべき。そういう処で説得力に差が出るのだ。 こうしたアイドル映画では「演技力に不安のある主演者を実力のある助演陣でサポートする」というのが鉄則なのだが(大林宣彦の映画ならば峰岸徹と入江若葉がキャストされるであろう)ヒロインのお父さんお母さん役の存在感が薄すぎる。父親役は小劇場の名物役者 ZAZOUS THEATER の吉田朝(旧・吉田紀之)なのだが…。 あと、卒業試合でのヒロインとの対戦を終えた先輩にあんな「独り言」を言わせては台無し(せっかく良い画を撮ってるのに!) 映画自体も面を外したヒロインの「笑顔」で終わるべき。続く数シーンは蛇足。そーゆー「後日談」はエンドロール背景で処理するのが常道でしょうが。

★ ★ ★
メトロポリス(りんたろう)

手塚治虫の空想科学漫画「メトロポリス」を大友克洋が脚色した長篇アニメーション。手塚の原作と同等かそれ以上にフリッツ・ラングの同題のマスターピースに(クレジットされていないのが訝しく思えるほど)多くを負っている。世界配給を視野に入れて製作したそうだが、海外の映画ファンが観たら十中八九、パクリと思うはず。いいのか、それで? ● 演出はTV「鉄腕アトム」以来の手塚の共闘者・りんたろう。アニメーション制作はマッドハウス。残念ながらあまり多くの方にはお勧めできない。まず沢山の人とロボットの命が無残に失われる話なので、ご家族連れ向きの映画ではない。ドラマ自体も、手塚ファンでもアニメファンでもない人には大して面白い話ではあるまい。りんたろうはニューオリンズ・ジャズをバックにCGをフルに駆使して創り出した「懐かしい未来」を描くことに腐心しすぎて、肝心の物語がえらく薄い。なにしろ登場人物とその因果関係の紹介が終わると、もうクライマックスなのだ。それとて、すでに「AKIRA」を観てしまっている大友克洋ファンにはCGによるヌルい焼き直しにしか映るまい。売り物のCGにしても、やはりおれにはセルアニメ・キャラとの質感の違いが気になって仕方なかった。CGでどんな凄い画を見せられようが(例えば「バンパイアハンターD」や「クレヨンしんちゃん」のように)動画に心踊り胸騒ぐことはない。べつにおれがCGアニメを目の仇にしてるわけではないことは昨年のベストワンが「トイ・ストーリー2」だという事実からもお判りいただけようが、やはりこの映画はセルアニメで観たかった(「降りしきる雪」の表現だけは手描きではえらい大変そうなので勘弁したる) ※セルがもう使われてないことは知ってる。ここで言うセルアニメとは「従来型の2Dアニメ」という程度の意味である。 ● さて。だが、あなたが手塚治虫の愛読者ならば、ヒゲオヤジ、ロック、ケンイチ、レッド、アセチレン・ランプ、ハム・エッグ etc.といった手塚スターシステムの錚々たる面子が、丸っこくて太い足のキャラ・デザインで動きまわるのを見てるだけで幸福な気分になれるはずだ。ケンイチが照れて赤くなるときのセクシーさはどうだ! そしてフリッツ・ラング版の「マリア」にあたる役まわりの金髪の少女ティマの愛らしさはどうだ! 天から差す一条の光の中に立つ少女の姿には──ああ、この言葉だけは使うまいと思っていたのに──もう萌え萌えである。なにしろティマの衣裳ときたら「裸身にコート」→「男もののダブダブのシャツにズボン」→「裸身に男もののシャツ1枚」だぞ。こりゃ確信犯だろ。吹替は全般に素晴らしい出来なのだが、ロックの声をアテている声優さんだけいやに下手じゃなかった?

★ ★ ★
アメリカン・サイコ(メアリー・ハロン)

原作:ブレット・イーストン・エリス 脚色:メアリー・ハロン&グィネヴィア・ターナー
前に「おれは経済的には1980年代を素通りした」と書いたが、すまん、あれは間違いだった。経済的だけじゃなくて、文化的にも服装的にも音楽的にも食生活も性生活もフィットネスもダイエットも、この映画に描かれてる「1980年代」とはまったく無縁だわ(ビデオの趣味だけは一致してるけど) いやあ、おれの10年はどこへ消えたんでしょう? ● …と、おれを自己嫌悪に陥らせるほどの1980年代ヤッピー風俗 完全再現映画。タイトルは日本語にすると「アメリカの平均的な精神異常者」といったニュアンスか。全篇を「陳腐な意味なし台詞」で構成するという大胆な手は原作どおりだが、映画はさらに当時のヒットチューンの数々を悪意に満ちた文脈でバンバン流して、男の全人生を賭けた名刺合戦(ががーん。この微妙なオフ・ホワイトの味わい。指先に感じる心地好い厚み。げげっ、透かし模様まで入ってる。か、完敗だ…)には仰々しい音楽とSEが付くという、完全なるブラックコメディと化している。まあ原作どおりの酷薄調(誤変換にあらず)でやっても今じゃ失笑かうだけだろうから、これは正解でしょう。ただブラックコメディにするんならもっとイッちゃってても良いのでは? 後半の展開なんて観客に「?」と思わせたらダメなのだ。ここに劇伴を付けてるジョン・ケイルも何か勘違いしてないか? ● クリスチャン・ベールはコンセプトを完璧に理解した怪演。リース・ウィザースプーンも「人の話を聞かない金持ちフィアンセ役」にピッタリ。ただサイコ男の「純真/善人な秘書役」のクロエ・セヴィニは聡明に見えてしまうのでミスキャストだと思う。セヴィニ主演でパート2作るとか言ってるけどほんまかいな。製作は名伯楽エドワード・プレスマン。サイコ・シリアルキラーの衣裳に自社のコレクションを全面的に提供したセルッティは偉い。…じゃ、ビデオ返しに行かなきゃならんので、この辺で。

★ ★ ★
セシル・B ザ・シネマ・ウォーズ(ジョン・ウォーターズ)

じつは初日の1回目に勇んで駆けつけたんだけど・・・予告篇のほうが出来が良かった(泣) ● ブッたるんだ映画界に天誅を!(c)プレノンアッシュ というシネマ・テロリストの話だが、そこから想像されるほどには映画自体はアツくないのだな。ジョン・ウォーターズはハリウッドを揶揄する一方で、この映画バカ集団にも距離を置いていて、決して心情的に同化することがない。「シリアル・ママ」のときは「殺せー!もっと殺せー!」と快哉を叫んだものだが、この映画では場末の映画館でカンフー映画やポルノ映画を観てるおれらまで(←同化してる)揶揄の対象とされてるみたいで、ちょっとフクザツな気持ち。おれ、空疎なハリウッド大作も大好きだし、それに(本作も含めて)そもそも近年のジョン・ウォーターズ映画自体がよほどウェルメイドだったりするし。…ま、ひとつだけハッキリしてるのは「マスカキ野郎はゾンビより怖い」ってことだな。 ● 「テロリストの首領」スティーブン・ドーフは好演だが、「ハリウッドの大女優」メラニー・グリフィスはキャスリーン・ターナーと較べるとまだまだ覚悟が足りない。だいたいなんで彼女だけ手を血に染めないままでOKなんだよ? あと「メリーランド州にはカニと牡蠣しか名物がない」とか毎回ボロクソ言われてんのに撮影を許可してるボルティモア市役所はちょっと偉いと思った。 ● しかし(おれはシネ・リーブル池袋で観たので大丈夫だったけど)渋谷のシネ・アミューズで観た人は劇場に火炎瓶を投げ込みたい衝動に駈られたんじゃない? あのスカした雰囲気はスプロケット・ホールズに日本支部があったら、いの一番に標的にしそうだもんなあ。その点、シネ・リーブル池袋はいいぞお。天井はシネ・アミューズの2倍あるし(←誇張じゃなく本当)、場末のピンサロみたいな照明はないし、何より東急本店通りを通らずに行けるってとこがいいやね。

back