ACT.104 自転車の想い出 (2001.08.11)

 私が30年近く生きてきて、1番慣れ親しんだ乗り物と言えば、やはり自転車である。
 自動車免許を取得してからは、自動車が身近な乗り物になったとはいえ、やはり1番よく使う乗り物は自転車である。
 今日はそんな私と自転車の思い出話などをつづってみたいと思う。
 ただ書き始めると枚挙にいとまがないので、中でも印象的だった出来事を書いてみよう。

 私と自転車の出会いは確か4歳ぐらいではなかっただろうか。
 当然、補助輪のついた自転車であったが、家のそばを走り回っていた記憶がある。
 初めて補助輪なしの自転車に乗ったのは小学1年の時だった。
 私が言い出してのことではなかったと思う。何せ、当時の私はものすごい弱虫だった。せっかく補助してくれている物をわざわざ取り払って、危ない状態にするなど、常人のすることではないとさえ思っていた。いや、さすがに小1の身分でそんなことまでは考えてなかったか。ともかく、とても怖がっていたのである。
 嫌がる私を説得したのが父親だったか、母親だったかは覚えていないが、補助輪を外した自転車の後ろを支えてくれたのは母親だった。しかし、所詮は女性。力が足りなくどうしても自転車がふらついてしまうのだ。
 そして、それは起こった。確か挑戦して2,3度目ではなかったと思う。
 私の運転する自転車は隣の家の塀へとどんどん近づいていき、そのまま激突。私は塀に取りつけられていた鉄製の柵に頭をしこたまぶつけ、そのまま私は気を失ってしまった。気を失うという経験は、後にも先にもこの1回きりである。そういう意味では貴重な体験だったのかもしれない。って、冗談じゃねぇよ。
 でも、不思議なことにその翌日には全く補助なしでも自転車に乗れるようになっていたから、これが本当の怪我の功名ってやつである。

 さて、高校時代の話になる。
 私は何度も書いていることだが、高校を2つ行っている。最初は香川の高校で、高2の途中で埼玉の高校に転校した。
 香川で通っていた高校は山の麓にあり、自転車で片道1時間近くかかるところにあった。しかも、登校時にはヘルメット着用が義務付けられていて、あまりおしゃれだとか外見にはこだわらない私でも(これは今も変わらない)さすがにダサくてかぶるのをいつもためらっていた。というよりも、ほとんどかぶっていなかった。ところが、たまに途中で先生が見張りで立っていたりする事があって、これに見つかると生徒手帳に違反の旨を書かれるのだ。これが3回になると自転車通勤不可という非常に重い罰が待っていた。
 だから普段はいつも先生との駆け引きに火花を散らしていた。これは飲酒時の車の運転におけるドライバーと警察の関係に似ている。
 私は半年ほどの間で2回見つかった。非常に能率が悪い話だ。しかし、私はこの後転校するまで1度も見つかってはいない。
 先生の行動パターンを見抜いたのか?
 否。
 ちゃんとヘルメットをかぶっていたのか?
 否。
 先生が待ち構えている時間に登校をすることをしなくなったのだ。つまり、遅刻の常習犯になりさがったのである。かなりダメな解答に、自分でもゲンナリです。
 そういえば、その高校からの帰りに1度こんなことがあった。
 前述したように、その高校は山の麓にある。だから、登校時は地獄であるが、下校時は非常に楽しい。で、高校の正門からの通りは非常に道幅も広い。逆に裏道は非常に狭く、さらにすぐ真横が田んぼになっていて、軽い崖といってもいいほどの段差が存在した。よって自転車が2台横に並ぶのも非常に危ない道になっている。
 普段は、正門から下校する私なのだが、その時はたまたま友人と一緒に裏門から下校した。
 妙に友人との話が盛りあがっていた私は先頭を飛ばしながら、後ろを向き友人と更に話を続けていた。それを一緒に笑いながら聞いていた友人の顔が途端に変化し、皆して一斉に指を指し「うしろ!」「うしろ!」と、まるで8時だよ!全員集合で志村けんに向かって子供たちが叫ぶように。
 私は普段通らないので知らなかったのである。その道はある個所で直角に曲がっているということに。
 前を向いたときには遅かった。私はものすごいスピードのまま、約3メートル下の畑に向かって自転車に乗ったままダイブをしていたのである。
 飛んでいた時の記憶は全くない。ただ空中で私の体は自転車から離れていたらしく、柔らかめだった土に胸の辺りから落下した私は幸いにもほぼ無傷であった。そして、それとほぼ同時に真横に自転車が落下してきた。直撃していたらと思うと今でもゾッとする。
 私が無事だと分かった途端辺りには笑い声が響いた。私は恥ずかしい気持ち半分、おいしいと感じる気持ち半分で泥んこになったまま自転車をなんとか道に戻し、また友人と話しながら下校をした。ていうか、おいしいって感じたってなんだよ。

 埼玉に移ってからはある意味自転車にとって受難の年になった。
 まず駅で自転車を盗まれた。当然鍵はしていたが、そんなものは盗る人間からしてみれば、焼け石に水程度の力しかないようだ。
 その時は運良く3,4日ほどで見つかった。
 しかし、それから数日後。今度は自宅で盗まれた。
 さすがにこの時はへこんだ。まさか、自宅に止めておいて盗まれるとは思わなかったからだ。さすがにこの件には親も同情したらしく、すぐさま新しい自転車を買ってくれることになった。但し予算15000円以内ということで。
 自転車を買ったことのある方はご存知かもしれないが、意外と自転車は高い物である。まあ、妥協すればいくらでも安い物も見つかるだろうが、買ったからには長く乗りたいではないか。となる、あまり妥協もしていられない。しかし予算は限られている。私は散々悩んだ挙句、近くのホームセンターで1台の自転車を購入した。これが私にいろいろなネタを提供してくれることになろうとは、当時の私は知る由も無かった。
 買った最初の2、3ヶ月は実に従順に私に従ってくれた彼であったが、ある日を境に彼の挙動に異変が生じ始めた。
 最初は些細なパンクだった。よくある事だ。しかしそれを修理してから、やたらと頻繁にパンクを繰り返すようになった。ひどい時は1週間で4回パンクしたこともあった。偶然にも、自宅の向かいが自転車屋だったので、そこのおじさんと仲良くなり、安く修理してもらえたからまだましだった。
 いいかげんひどいと感じた私はそのおじさんに頼んでチューブごと交換してもらうように頼んだ。すると替えるならタイヤごとがいいと言うので素直にそれに従った。ところが、その時にはじめて分かったのだが、よくパンクをしていた後輪のタイヤフレームが曲がっていたのだ。おじさんが言うに、フレームが曲がっていたせいでタイヤに負担がかかり、結果チューブも痛めることになったという。ならば仕方ない。フレームも替えなければいけない。その1日で私のお小遣いのほとんどが無くなったのは言うまでもない。
 これで終わりではない。と言うよりもこれがスタートだったも言えよう。
 次に異変を訴えたのはサドルだった。ていうか、盗まれたのである。
 その日は休日だったのだが、さあ遊びに行こうと思ったらあるべきものがない。我ながらよく気づいたものだ。いつもならそのままサドルに飛び乗っていたことだろう。虫の報せというやつだろうか。私は助かったという気持ち3分の1、盗まれたことに対する怒り3分の1、おいしいネタをみすみす見過ごした悔しい気持ち3分の1で向かいの自転車屋のおじさんに事情を話し、廃車の決まっていた自転車のサドルをただで貰い受けたのである。だから、悔しいってなんなんだよ。
 次はペダルである。ある日、普通に自転車を運転していた。そして、段差のある場所を迎えた時だ。段差に乗り上げた瞬間、ドンっと自転車全体に衝撃が襲う。それをうまくやり過ごし、さぁ漕ぎ出そうと右足に力を入れると右足はペダルの動くまま進行方向と垂直方向へ滑らされた。その妙な挙動にバランスが崩れ、私は見事にすっ転ぶ。
 したたか打ち付けた右ひざをさすりながら、いったい何が起こったのかと私は混乱する思考を必死に落ち着かせようとしていた。
 真相はこうだ。
 ペダルが抜けた。それも見事に。以上。
 ペダルは私が倒れた場所の右後方、およそ2メートルのところに転がっていた。
 私はあまりのことに呆然とした気持ち3分の1、膝の痛み3分の1、周りにギャラリーがほとんどおらずおいしくないなぁという気持ち3分の1で、いつもの調子で自転車屋のおじさんに泣きつき、ただで直してもらったのだった。いや、自分はそういうキャラクターじゃなかったって。
 極めつけがこれだ。
 あれは下校時のことだった。もう家まではさほど距離もなく、裏道をゆっくりと自転車を走らせていた。
 突然前輪がはずれた。
 目の前を転がっていくタイヤから無理やり地面の方へと視線を動かされ、私は前方受身を取るような形でアスファルトに叩き付けられた。はたから見れば本当にきれいな前方宙返りだったろうと思う。その時にそんな余裕は微塵もなかったが。
 ガシャンと派手な音を立てて倒れる自転車の音を頭上で聞きながら、私はしばらくアスファルトに横になったままやや赤く染まった空を見つめていた。そして、わずか数ヶ月の間に次々と壊れていく自転車に、だから壊れるならもう少しギャラリーのいる場所じゃないとおいしくないじゃないかと、弟子に芸を教える師匠のような気持ちで呟いた。

「もう、あんたとはやってられませんわ」

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