ACT.88 転職物語 (2000.10.08)

 大学受験をあきらめて就職を決めたとき、よもや自分がその仕事をやめるなどとは夢にも思わなかった。
 まあ、大体やめることを考えて就職する人間自体が少ないだろう。そして、その少数派はよほどの野心家か、よほどの弱い人間かのどちらかだろう。少なくとも私はそのどちらにも属さない平凡な人間であった。多分、それは今も変わらない。

 今年の春、私はアルバイト時代から数えるとおよそ9年働いた職場を退職した。
 職務内容や賃金、待遇など考えれば考えるほど溢れ出てくる、たくさんの不満があったが、それ以上に仕事に対する達成感が感じられる職場だった。だからこそ9年もの間、ぶつぶつ言いながらも働いてこれたのだと思う。
 職場内で私のよく知った同僚が目立って辞め始めるようになったのは、5年前ぐらいだっただろうか。その時はなぜせっかく安定した生活を捨ててまで、会社を辞めなければいけないのだろうかと不思議に感じたものだ。やはり、私にとって退職というものは、冒険や挑戦といった前向きなものよりも、無謀や逃避といった後ろ向きなものしか考えられなかったのだ。
 そんな私が急に退職、そして転職というものを意識し始めたのは、ちょうど2年前。一番仲のよかった同僚が、私の憧れていたコンピューター業界へと転職したことだ。それだけならばよくある話なのだが、その同僚にパソコンを勧め、教えたのが私なのである。
 その時の私にとってコンピューター業界への転職というものはある意味夢であった。それは文字通り『夢』であり、私の能力では叶うことはないと思っていたのだ。
 しかし、彼は私よりもはるかに少ない経験をもってコンピューター業界へと身を投じてしまった。そして、転職後の彼と出会うたびに、確実にエンジニアとして成長していく姿を見ることができた。結果的にこのことが私にとって、退職、そして転職に対する焦りと希望を与えてくれることになったのだ。
 転機は割と早く訪れた。2年前に店舗での勤務から事業部のシステム部へと異動となった私へ再び店舗勤務へと戻る辞令が出されたのだ。
 なぜ、それが転機となったのか。簡単なことだ。システム部でのデスクワークで2年を過ごした私は、再び店舗のほうの仕事をやる気分にはなれなかった。ただ、それだけだ。
 もし、理由付けをするならば2年というインターバル。レンタルビデオ店もそうだが、エンターテイメントを扱う業種というのは何よりも世間の流行や風潮といったものに敏感でなくてはならない業種だと思う。だいたい、こういう娯楽産業はなくてもいい産業なのだ。存在意義はただ1つ。ユーザー、つまり顧客が欲しているものを提供する、それだけなのである。つまり、顧客の欲しがるものが見えなければいけない。そのためにはいつもアンテナを張り、顧客が何を求めているのか模索していなければならないのだ。
 しかしこれは口で言うほど簡単なものではないと思う。実際勤務をしてきた私はそう感じている。だからこそ、2年もの間、顧客にも商品にも触れない仕事をしつづけていきたことは、店舗に戻るときに足かせにしかならないと感じたのだ。もちろん、その2年を取り返すことは簡単だろう。しかし、それは私にとってシステムという仕事に関わってきた2年を打ち消すのと変わらない。私はこの2年を無駄にしたくはなかったのだ。
 などと書いてみても、所詮は私のわがままに変わりはないのだから、こんな理由はあとから作った言い訳に過ぎない。だからこそ、決断は自分でも驚くほど早かった。
 辞令が出たと上司から話があったその日、そう、まさにその日に私は退職の話をした。
 そのときは本当に後のことを何も考えていなかった。ただ、自分は自分のやりたいと今感じている仕事がしたい。ただ、それだけが頭の中を占領していた。
 会社の有給は約1月半残っていた。しかし、転職に対して何の準備もしないまま退職を会社に告げた私に、あまり猶予は残っていない。だいたい、どこで転職活動をするのかすら決めていなかったのだ。考えなければいけないことは山積みである。正直、今までの私の人生の中で一番色々な物事を考えた時期ではなかっただろうか。20代も終盤に近づいたこの時期になってようやく自分の未来を真剣に考えたことは、やはり世間的に見たら遅いのかもしれない。しかし、少なくとも私にとってこういう時期を迎えられたことは、時期の早さなどは関係なく、大きなことであった。その反面、今まで何も考えずに漠然と生きてきたことに対する後悔もあったが。
 とにかく濃密な有給休暇を過ごした私は、新たな活動の場を東京と定め、上京をした。ただ、『無職』という肩書きでの部屋探しは難航を極め、無事に引越し先が決まったのが、前に住んでいたアパートを出なければならない3日前だったのは、我ながら冷や汗ものであった。
 おまけに私には貯金がほとんど無い。よって、職が決まるまでは退職金と失業保険で食いつながなければならなかった。となれば当然、退職金は大事に使っていかなければいけない。しかし、私はあろうことかそれで新しいパソコンを購入してしまった。理由は2つある。1つはコンピューター業界で働く以上、いろいろなソフトウェアやプログラム言語は扱うようになるだろう。それは当然自宅ですることもあり得るわけだ。となれば、自宅のパソコンにもそれなりのスペックが必要となる。つまり、今まで使っていたパソコンが非常に非力であったということだ。おまけに某N社製のパソコンというのも選択幅が狭すぎた。そしてもうひとつの理由、これが重要なのだが、ようは欲しかったのだ、早いパソコンが。
 これで退職金は一気に半減した。ついでに引越しで金もかかっている。既に退職金は無いと考えてもいいような状態であった。
 となると、私の生きるすべは失業保険のみだ。しかし、私のように自分の都合で退職した場合は3ヶ月間は給付されない。そこで、私はこの3ヶ月間だけアルバイトをすることにした。当然、パソコンを扱うものにするつもりだった。
 幸いアルバイトはすんなり見つかった。ここで、普通のソフトウェア会社の内部を垣間見られたのはいい経験になったと思う。そして、改めてコンピューターを扱うことの楽しさを覚えた。
 その後、3ヶ月の給付制限を終え、ようやく失業保険が給付されることになった。そこで私はようやく転職に向けての行動を開始した。とはいっても、求人情報誌やインターネットを使っての情報収集が主なものであったから、大した内容ではない。というか、今まで私は就職活動なるものをしたことがないので、どのようにすればいいのかよくわからなかったというのが本当のところなのである。
 こんな状態であったから、簡単に転職先が見つかるわけでもなく、電話で問い合わせた後に履歴書を送付しては、不採用通知が返ってくるという日々が続いた。そう、面接すらしてもらえないのだ。全くの異業種からの転職であったから、すんなりいくとは考えてはいなかったが、ここまで厳しいものなのかと自分の甘さを悔いたものだ。
 失業保険の給付期間は3ヶ月しかない。これはすなわち、転職活動に専念できる期間が3ヶ月しかないことを意味する。しかし、私の想いとは裏腹に、不採用通知ばかりが返送されてくる日々であっという間に2月が過ぎ去った。この時点で私の頭の中には、アルバイトで食いつなぐという道しか残っていないのかという諦めの思いが強くなり始めていた。
 そんなある日、初めて面接をしてくれるという会社が現れた。小さな小さな会社だが、そんなことはこの際関係ない。私は喜び勇んでその会社へと向かった。
 さすがにこれは緊張した。何せ私にはアルバイトの採用のための面接こそあれど、就職のための面接はほぼ初めての出来事なのだ。(前の会社では中途採用でほぼ採用が内定していたので、形式上の面接しかしていなかった)
 久しぶりにスーツを身にまとい、何ともいえない緊張感に包まれながら、面接を受けた。何を話したのかほとんど覚えていない。ただ、自分の熱意を伝えたかったという思いだった。
 その熱意が伝わったのかどうかはわからないが、面接をしてくださった社長さんは私を採用してくださった。そして今、私は念願のコンピューター業界へと身を置く人間となった。ほぼゼロからのスタートであるため、毎日覚えることばかりで大変だが、充実した日々を過ごしている。

 さて、ここまで書いてきて私は何を伝えたかったのか。
「夢を叶えるためには動き出さなければいけない」だとか「世の中はそんなに甘くないのに、私はついていた」だとか、そういったものではない。ようは、ホームページの更新がますます遅れるかもしれないということなのである。
 ここまで真剣に書いてきて最後がそれかよと思うなかれ。私はこういう人間なのだ。

教訓:硬い文章を書いていると軟らかいオチが書きたくなる

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