13 安岡


 約束の時間より三十分早くついた。
 腕時計を見た安岡は楽器店の入り口で、周囲を見回した。
 当然耕平の姿は見えない。大学からは少し離れた繁華街の中の楽器店だ。
 夕暮れ時の街並みは、行き交う車のライトが光り始めるころだった。
 いつもスタジオを借りている楽器店は、島田や、他のメンバーがいる確率が高いので避けたのだった。
 いつもの店じゃないことを、耕平は不思議に思っただろうか。
 こっちの店の方が安くていいのがあるからという説明に異を唱えることはなかったのだけど。
 でも、普通の思考力があれば、安岡の考えていることはまるわかりだろう。
 しばらく、そこの店の良さそうなギターを見て回った。予算は一応三万ということにしていた。
 三万あれば、それなりのギターは買える。
 しかし、もちろんいいギターはもっと値がはる。自分が少し出して、五万くらいのを買わせようと考
えていた。場合によってはさらに出してもいい。
 自分では四万ほど用意している。
 とりあえず、ヤマハのギターをチェックしてみる。
 アコースティックにも、スチール弦のフォーク系と、ナイロン弦のクラシック系があるが、普通に考
えればフォーク系になるだろう。
 ソロギターをやるのならナイロン弦も味がある音でいいが、弾き語りとかにはやはりスチール弦の方
が合う。
 APX700あたりがいい線か。値札には55,000円と書かれている。
 その下のランクにはAPX500が35,000円であるが、こちらは表板がスプスルースの合板になる。
 合板よりは単板の方が一般的に響きが豊かだ。
 APX500を勧めておいて、その後、自分が少し出すからといってAPX700を買わせようと思っていた。
  ヤマハのAPXシリーズは、一般のものと違って、やや胴厚が薄めになっている。
 普通のギターが130ミリくらいだが、これは80から90ミリなのだ。
 この特徴も、小柄な耕平には合うだろう。
 
「安岡先輩、こんにちは。早いですね」
 約束の時間より10分早く耕平が入り口のドアを開けて入ってきた。
 相変わらず、率直に見て女の子にしか見えない。女装しているわけでもないのに。
 今日は気温が上がってるからだろう、いつもの革ジャンではなく、パープルのティーシャツの上から
白いフード付きのコットンパーカを羽織っている。
 初めて会ってからひと月半くらいか。少し髪が伸びた様だ。
 左眉の上あたりで長い前髪を軽く分けている。飾り気のない髪型だけど、すごく似合っていた。
 一昨日はこの子の尻を抱いたのだ。
 思い出しただけで、前が固くなった。もう一度抱きたい。何度でも抱きたいと思った。

「とりあえずこれ、試してみろよ」
 安岡が陳列棚から下ろしたAPX500を、耕平が受け取った。試奏用の椅子に耕平が腰かけて、ギターを
抱える。
「ちょっと小ぶりなんですね、スタジオで借りたのよりしっくり来ます」
 安岡が合図すると、長髪を後ろで束ねた店員がやってきて、ギターの弦調節を始めた。
「これ、女性にも人気なんですよ。胴厚薄めだし、ネックも細めで弾き安いから」
 若い店員も耕平のことを女と思って何の疑いも持っていないようだ。
 店員から受け取ったギターを再び耕平が試奏してみる。
 バンド練習のスタジオで何度か練習した成果か、簡単なコードがきれいに響いた。
「ネックの握りやすさ、弦の押さえやすさを確認してみろ」
 安岡のアドバイスで、いくつか覚えたてのコードを押さえてみる。
「いい感じです。これにしようかな、35,000円なら予算内だし」
「これが35,000円、これのもう一つ上が55,000円なんだけど、俺が二万出すからそっちにしないか?
表が単板になって、響きがいいぞ」
「え? いえ、悪いですよ」
「ギターやってるとどうしても上のクラスが欲しくなるんだよ。最初に五万出してれば、そこそこ良い物
だから当分それで満足出きると思う。金はできた時に返してくれればいいからさ」
 遠慮する耕平に、水臭いという気持ちが湧き上がる。
 あんなことをした仲なんだから。もっと甘えればいいのに。耕平のなめらかな細い肩のライン。
 ややくびれた腰から、ふくよかなヒップにいく淫らで伸びやかな線。
 安岡の頭の中を占領する映像が、今も目の前を過ぎていく。
「じゃあそうします。すいません」
 何度か勧めた結果、やっと耕平は安岡から2万円借りることに同意した。
「別に高利貸しじゃないから安心しろよ」
 安岡の台詞に耕平の笑みがこぼれた。

 買い物を済ませた二人は、そのまま耕平のマンションに帰ってきた。
「晩ご飯食べて行ってくださいよ。とりあえず焼きそば作りますから」
 安岡にインスタントコーヒーをいれた後、再び耕平はキッチンに立つ。
 料理している耕平を後ろから眺める。短めのティーシャツから素肌がチラチラのぞく。
 何とも言えない幸福感を感じてしまう。
 新婚の夫婦はこんな感じなのだろうか。
 キャベツを刻む耕平が何とも愛おしい。ふと立ち上がり、後ろから抱きしめたくなる。
 しかし、お楽しみは後でゆっくり。そう考えて何とかこらえた。
 耕平の作ってくれた焼きそばは、ピリッと辛口だった。
 よくみると、七味唐辛子がふりかけてある。
 太く刻まれたキャベツの歯ごたえが心地よかった。
 食事の後、早速買ってきたばかりのAPX-700をケースから取り出した。
 色は冬の海のような紺に近い青だった。
 安岡はそのギターを軽く弾いてみる。
 あまり騒々しくすると隣から苦情がくるだろうから、ストロークは控えめにして、アルペジオをやって
みる。胴厚が薄い割りには鳴りが良い。狭いワンルームマンションにはちょうどいいくらいの音量だ。
「それ、何という曲なんですか?」
 隣に座った耕平が聞いた。
「エンターティナー。聞いたことあるだろう。スティングのテーマ曲だよ」
「そういえばテレビでみたかな? 映画はあまり覚えて無いけど、音楽って忘れないですよね」
「そうだな。良いメロディって一度聞いたら忘れないな」
 良い雰囲気だ。このまま耕平を脱がせようか。そして、ふっくらした胸に口づけしようか。
「ほら、弾いてみろよ」
 耕平にギターを渡す。安岡は耕平の後ろにまわり、耕平とベッドの間に腰を下ろす。
 ギターを抱いた耕平の後ろから、安岡は手を回し弦を弾く。
「これがアルペジオ。親指はコードによって6弦弾いたり5弦弾いたりするんだ。Amの時は5弦、Emの時
は6弦とかね」
「難しいですね。そういうの全部覚えないといけないんだ」
 安岡の真似をして指を動かそうとするがどの弦を弾いていいのか分からないようだ。
「覚えなくてもいいよ。やってるうちに手が勝手に動くから」
「僕にも弾けるようになりますかね」
 耕平が安岡の方を振り向いた。見上げる耕平の唇が誘っているようだった。
 安岡は柔らかい耕平の唇に自分の唇を重ねた。耕平は力を抜いて体を預けるだろうか、舌を絡めてくる
だろうか。
 しかし、その反応はまったく想定外の物だった。
 釣り上げられようとした魚が跳ねるように安岡の腕の中で耕平は暴れた。
「止めてください。先輩、どうしたんですか」
 思いもよらぬきつい言葉に安岡は一瞬で混乱してしまう。先日はあんなことをした仲なのに、一体全体
どうしたのだ。
「いや、どうしたって言われても」
 まごつく安岡の腕を離れて、耕平が立ち上がる。見下ろす目には涙が滲んでいた。
「いや、すまん。こ、心の準備ができて無かったかな?」
 呆然と座ったままで安岡はそう言った。
「何のことですか? 意味分からないです」
 安岡にとっては耕平の言葉の方が意味不明に思える。先日の記憶がまったく無いような言い方だ。
「ひょっとして、こないだの歓迎会の夜の事、覚えていないのか?」
 酒は飲んでいたが、記憶失くすほどには酔っていなかったと思ったが。
「歓迎会の夜? そういえば、安岡先輩に送ってもらったんでしたね」
 険しい表情だった耕平の顔から、安岡に対する不信の気配がゆっくり消えていった。
 安岡の横に、こめかみを指で押さえた耕平がしゃがみ込む。
「よく思い出してみろよ。あの夜、この近くの公園で三人組に襲われただろ」
「そういえば、そんなことがあったような気がします」
「忘れてたのか。そんなに酔ってるとは思わなかったけど」
 眉を寄せて目を瞑る耕平は、徐々に記憶を呼び起こしているようだ。
「襲われたとき、先輩が助けにきてくれたんですよね。でも僕が人質にされて……」
 少しずつ記憶が戻ってるようだ。安岡も少しホッとした。そのままこの部屋でのことまで思い出して
くれれば、さっきの安岡の行動も理解してもらえる。
 耕平が深いため息をついた。その後首を何度も振る。
「思い出したか?」
 優しく聞く安岡の目を見つめる耕平は、唇を噛んで立ち上がった。
「思い出しました。でも、今日は帰ってください。僕、ちょっと混乱してるんです」
 弱々しい声で耕平が言う。安岡はすぐに立ち上がった。
「わかった。今日は帰るよ」
 それだけ言うのが精一杯だった。
  
 
 14 島田


 携帯に着信があったとき、島田は出るかどうかためらった。発信元の分からない電話は最近珍しい。
 ナンバー表示を見ると、携帯からではないみたいだ。
 10秒ほど考えて、受信ボタンを押した。
『もしもし。島田先輩ですか?』
 耳に当てた携帯からは、思いもかけぬ声が聞こえてきた。耕平だ。
「そうだけど、耕平?」
 自室でパソコンデスクに向かっていた島田は一旦立ち上がり、ふらふら歩いてベッドに座った。
『実は、ちょっとお話ししたい事があって。明日、あのうどん屋さんに一時にいいですか?』
「いいよ。大丈夫」
 すぐに島田が答えると耕平は、では明日、と小さく言って電話を切った。
 そう言えば、耕平は携帯電話を持たないと言っていた。
 自分の番号を教えて、耕平のも聞こうとしたとき、面倒くさいから携帯持ってないんですと答えたの
だった。最初は教えたくないのかと思ったが、実際持っていなかったようだ。
 話って、何の話だろう。声が暗かった。あんまり良い話だとは思えない。
 バンド、やっぱり止めるとか言うんだろうか。島田先輩と会うのが辛いとか、気詰まりだとか、なんか
そんな理由で。耕平と会えなくなるのは嫌だ、何とか考え直させないと。
 気持ちがあせる。
 しかし、まだそうと決まった分けではないし、まあ、今考えても仕方ないことだ。
 もう12時間もすればわかることなんだから。でも、今夜は眠れそうもないな。

 翌日、一時にうどん屋にいくと、耕平は店の前で立っていた。
 日差しの強い日だからか、今日は珍しく帽子をかぶっている。
「こういう店じゃ、中で待つってわけにもいかないですからね」
 耕平が苦笑いする。喫茶店じゃないからな、それもそうだ。
 古い引き戸を開けて、以前座った場所にお互い腰かけた。他に客が数人居たが、知った顔じゃなかった。
 先日と同じうどん定食を二人で頼んだ。
 今日は耕平は大盛りじゃない。食欲が無いのかな。
「実は、こないだのタクシーの中のことなんですけど」
 言いにくそうに耕平が切り出した。思い出したのだろうか。
「僕、変なことしちゃったでしょ。島田先輩に」
 上目遣いにすまなそうな表情で耕平が言う。
「まあ、確かに変って言えば変だった。普通はしないことだからな」
 その行為自体に怒りは感じていなかったが、それを忘れた耕平に腹が立っていたのは事実だ。
 ついブスッとした声を出してしまう。
「すいませんでした。忘れてください、とも言えないし、何といえばいいのかな」
 考えている耕平の前に、おばさんがうどん定食をスルリと置いた。
 もうひとつ、島田の前にも湯気をあげるうどんと、稲荷の皿が置かれた。 
「とりあえず食べようぜ」
 困っている耕平を尻目にうどんを吸い上げる。もちもちの麺がうまい。
 耕平はなかなか食べ始めない。島田はすでに半分位食べてしまった。
「おい、食べないと冷めるぞ」
 うどんが冷めるのが気になった。せっかくのうまいうどんなのに。
 先日うろたえさせられた仕返しに、困らせてやろうという意地悪さが自分にはあったみたいだ。
 島田は、咳払いをして食べるのを中断した。話を聞くぞと、顔をあげる。
「実は、僕、お酒に酔うと淫乱になるみたいなんです。そして、そのことを翌日忘れるみたい。こない
だの歓迎会で安岡先輩に送ってもらったときも似たようなことがあって、自分で自分が信じられなくなって
るんです」
 今にも泣きそうな耕平の声に、意地悪だった自分を呪ってしまう。
「こないだの事はいいよ。俺も忘れる事にするから。でも、何だってまたそんな体質なんだろうな」
 やさしい表情になった島田に、耕平の口元が少しだけほころぶ。
 そうだ。耕平は微笑んでいるのが一番似合う。
「多分、高校の時の寮での事が精神的な面で関わってるんだと思います」

 その後耕平が話した内容は、島田の想像を絶していた。
 寮で何度か卑猥な事をされたりはしただろうと思っていたが、聞いた話では段違いだった。
 一年のときに寮の三年生ほとんどに、毎日のように犯されていた。
 最初は耕平も嫌だったが、されているうちに感じるようになってしまって、二年になるころには自分から
男を選んで抱いてもらっていたとか。聞いているうちにそのシーンを想像してしまって、島田の股間は
すっかり固くなった。
「しかし、すごいな」
 他に言葉が出なかった。
「三年になってからは、たまに同級生の男にお尻貸したりするくらいで、僕のオカマ人生もフェードア
ウトだって思ってたんですけど、逆に最近欲求不満なのかもしれません」
 オカマ人生なんて、ずいぶん自虐的な言い方だ。自己嫌悪の表れか。
「しかし、耕平自身は、オカマみたいな自分が嫌いだったのか?」
 ここは大事な気がする。自分で自分を認められるか。好きになれるか。
「少なくとも嫌いじゃなかったと思います。むしろ、誇らしく思うこともあったし、自分の事は好きだったかな」
「だったら、寮での事も後悔しているわけではないんだろう」
「はい、後悔してはいないです」
「だったら、はっきり言って欲求不満なんじゃないかな。でも、やっぱりそのことに罪悪感がある。だから
翌日忘れてしまうんじゃないか? 酔った時に出るというのも同じ理屈だろう」
 耕平の隠された一面か。なんともすごい話を聞いてしまった。
「これからは酒飲んだときは気をつけるしかないな。一緒の時は俺も気をつけているから」
「こないだの事は許してもらえますか?」
「別に、許すも何も、嫌なことされたわけでもないし。ただ、俺の事どう思ってるのかだけ教えてほしいな。
今後のためにも」
 さあここが正念場だ。押し出しされるか、うっちゃりされるか、どっちにしても俺の負けだけどな。
「島田先輩のことは好きですよ。でも、恋愛感情というわけじゃないです。こないだはあんなことして
しまったけど」
 まあ予想した答えだった。
「じゃあ、それでいいよ。おれも、耕平の事は、後輩として好きになるから」
 ややぎこちない笑顔になるのがわかったが、耕平は素直な笑顔で答えてくれた。


 15 白池


「山を越えて会いにいく……君の笑顔が見たいから、寂しさも限界だ。嵐を押さえて会いに行く」
 耕平のややハスキーな声が、狭い貸しスタジオ内いっぱいに響く。
 島田のドラムがズンとなって、白池のエレキのパートになった。
 高音域でビブラートを効かせたエレキの音が神経をスカッとさせる。

「やっぱりさ、この歌詞ダサくないか?」
 演奏が終わった後、安岡が言った。
 田頭が作ってきた歌詞だ。
 白池も同じように感じたが、先に安岡に言われた。
「変かな? まあ、自信作ってわけじゃないから。いい案あったら出してくれよ。俺、作詞は苦手なんだ
よな」
 そうは言うが、文学部の自分の作った歌詞に工学部の安岡からダメ出しされるのは不本意なのか、言
葉尻に不機嫌な空気が混じる。
「僕は、もう少し具体性があった方がいいんじゃないかって思いました」
 歌う前に何度も目を通していただろう耕平が言った。
「具体性って言えば?」
 田頭が聞く。
「例えば、ただの山を越えてじゃなくて、アルプス越えて、とか。笑顔が見たいじゃなくて、えくぼが見
たいとか、八重歯が見たいとか」
 なるほど、と白池は思った。田頭も同じように思ったようだ。
「そうか。説明よりも描写ってやつだな。それはそうかもしれない。もう少し練ってくるよ」
 田頭が言って、一瞬険悪になりかけた空気はすぐに雨散霧消した。
 以前なら一度険悪になった空気は簡単に戻らなかっただろう。
 耕平はいい緩衝材なのかなと白池は思う。
 しかし、安岡の態度が気になった。初めて会ったときは、耕平につんけんした感じだったのに、前回
のバンド練習の時からべったりだし。今日はさらに安岡の耕平を見る目に熱がこもっている。
 これは惚れたかな?
 男が男に惚れるって、気持ち悪いと思うが、耕平が相手ならそれほど変でもない気がする。
 まあとにかく、自分には関係のないことだ。
 島田や安岡みたいに男に惚れる素質のある人間ではないのだから。
 
「ギター買う金はできた?」
 練習が終わると、エレキをケースにしまいながら白池は耕平に聞いてみた。
「ええ、こないだ、安岡先輩に選んでもらいました。ヤマハのギター。今、練習中です」
「持ってこなかったのか」
「まだ、全然弾けないから」
「安岡に教えてもらってる?」
「はい、でも安岡先輩も忙しいし……」
 安岡をチラリと見ると、変な苦笑いをしている。
「そうか。たまには俺が教えようか?」
 どうせ暇だし、この子にもう少し近づいてみたい気もした。
 島田と安岡はすっかりいかれてしまっている。自分はそうはならないという自信が有ったが、ちょっと
したスリルを味わいたい気もする。
 俺はこいつに惚れ込んでしまうだろうか。もちろんそんなことはありえない。
 軽くいなしてすり抜けるつもりだった。
「本当ですか? 実は F が押さえられなくて困ってたんです」
 うれしそうにする耕平は実ににかわいい。
 思わずヘッドロックをかけて髪の毛クシャクシャにしてやりたくなる。
「今、何の曲練習してるんだ?」
「スタンドバイミーを。それと、スピッツのチェリーやってます」
「スタンドバイミーは簡単だよな。4つくらいだろコード。GとEmとCとDだっけ」
「はい。でも、コード変えるタイミングがなかなか」
 結局そのまま耕平のマンションでレッスンすることになった。
 島田は寂しそうに、安岡は複雑な表情で自分たちを見ているのが少し気になった。

「きれいに片付いてるじゃないか」
 初めて入る耕平の部屋。まるで女の子の部屋に初めて呼ばれたような感覚になってしまう。
 俺も意識してるんだろうか。やはりそうなんだろう。こんなかわいい子を目の前にして二人きりにな
るのに、無感動なのはむしろ人間として欠陥があるに違いない。
 ライムグリーンのカーテンが目に清々しかった。
 コーヒーを一杯飲んだ後、早速レッスンに入る。
「スタンドバイミーやってみろよ」
 白池が言うと、はいと答えて、耕平はダイニングテーブルの椅子に座り弾き始めた。
 簡単なコードストロークだが、リズムが少し違っている。
 変なのは分かってるがどうしていいか分からないという感じだった。コード自体は大体押さえられて
いるようだ。
「このストロークはさ、軽く空振りを入れるんだよ。そうすると良くなるよ」
 耕平からギターを借り実演して見せる。
「なるほど、本当だ。全然違いますね」
 うれしそうに笑うが、今日の耕平は少し元気がなさそうに見えた。何か悩みでもあるのか。
 まあ、悩みなら誰でもいくつか持ってるものだが。こんな美貌を持ってる人間が悩みを持っていると
いうのはピンとこない。
 いきなりベッド奥の壁がドンとなった。隣の部屋の住人が叩いた音のようだった。
「まずい。うるさかったみたいですね。やっぱり部屋じゃ練習できないですね」
 耕平は途中で弾くのを止めた。ピックを使ってないとはいえ、薄い壁のワンルームマンションではダメ
のようだ。
「公園でも行って路上ライブやるか?」
 白池の言葉に耕平の目が輝いた。
「白池先輩、路上ライブやってたりしたんですか?」
「何度かやったよ。ステージ度胸つけるのにいいんだよ。いこうぜ」
「え、でも。本当にやるんですか?」
 美女をうろたえさせるのは気分が良い。白池は有無を言わせず耕平を連れ出した。

 マンション近くの公園は人影も少なかった。西の空が赤く色づいている。まだ街灯は光っていない。
 ある程度人がいる方が面白いのだが、しかたがない。
 奥の方のベンチまで歩く。振り向くと、固い顔をした耕平が立ちすくんでいた。
「おい、どうかしたのか?」
 めまいでもしたのか、耕平は軽く首を振っている。
「いえ、何でもないです。変な事思い出しただけです」
 耕平をベンチに座らせて、ソフトケースからギターを取り出し、耕平に渡す。
 ほら、思い切り弾いてみろよと言うと、こくんと頷いた耕平がピックをつまんだ右手でストロークを
始めた。
 部屋で弾くのとは違って、音が壁で反響しないからピックを使った方がちょうどいい音量だった。
 Gで始まってEm、いい感じだ。リズムもあっている。CからDに移るところで少しつまづくようだ。
 練習していると、周囲に人が集まり出した。若い男が多い。絶対耕平のことを女だと思ってる。
 かわいい女の子がギターの練習をしているのが、微笑ましいという表情だ。
「よし、練習はそこまで。観衆も集まってきたことだし、じゃあ、俺が弾くから歌ってみろよ」
 白池が言うと、耕平は冗談じゃないと拒否した。
「恥ずかしいのか? バカだな、お前バンドのボーカルだろ。人前で歌うのが仕事だぞ。いいから、ギター
貸せって。観衆が待ってるぜ」
 背中に数人の拍手を聞きながら手を差し出す白池に、耕平も拒否はできなくなったようだ。
 参ったなと言いながら、ギターを白池に渡した。
 ギターを抱いてベンチに座る。反対に耕平は立たせた。
 見ると10人くらいの若者が、やや遠巻きに二人を囲んでいた。
 立ち上がった耕平を見て、その観衆たちからヒュー、とかカワイーとか声が飛んできた。
 左手を何度かグーパーして、ネックを握る。
 Gで伴奏を弾き始める。良いギターだ。弾きやすいし、音量もまあまあ。
 風もない静かな公園にスタンドバイミーの演奏が響き始める。
 そして耕平のボーカルが始まった。
 

  16 吉野

 
 吉野宏美は合コンが決まったというメールを開いて、おもわず指を鳴らしてしまった。
 講義中の教室に、かすれたペチッと言う音を響かせてしまい、その自分の行為のダサさに赤面してし
まった。
 合コンとは、自分の所属しているスキー同好会と、バンド、「碧い空と白い雲」のメンバーの間での
コンパのことだ。
 一度ゆっくり話してみたかった、あの佐川耕平とゆっくり酒を飲みながら話ができる。
 あの美少年(年齢的には青年と言った方がいいのかもしれないが、見た目的には少年だ)の、寮生時代
の話を色々と聞かせてもらうのだ。絶対色々あった筈なんだから。
 宏美は、もう一度指を鳴らしそうになって危うく自分を制止した。
 心なしか、外の雨の音が大きくなった様に思った。ゲリラ豪雨というのか、朝からは晴れていたのに、
昼前になっていきなりの土砂降りだった。
 この後、学食に行くのも傘がないと不便だ。
 カバンで雨粒を避けながら行くしかないか。しかし、あの耕平くんと飲めるのだったら、この程度の
試練は百回続いても平気だと思える。
 その日、三日後の7月11日が早く来ます様に、と遠足を待つ小学生の様にワクワクしていた。

 吉野宏美が佐川耕平を初めて大学構内で見かけたのは、六月半ばのことだった。
 初夏の爽やかというよりも、蒸し暑さの方が勝った日だった。
 湿度の高いしめった風が流れる中、一人の美少女が木漏れ日浴びながら妙に爽やかに学食の方からこっち
に向かって歩いてきた。
 黄色いティーシャツにブルージーンズ。薄いホワイトのカーディガンを肩にに引っ掛けている。
 綺麗な娘だな。一年生かな? 初めて見る。
 かわいいけど、胸はあんまり無いな。微乳て感じ。
 神様はそれほど不公平じゃないのかもしれない。
 そんな風に思いながらすれ違ったが、すぐに一緒に歩いていた沢渡舞が左腕を叩いてきた。
「今の。有名な耕平くんでしょ」
 言われてみて気づいた。何度か、隠し撮りされた佐川耕平の写真を写メールで受け取っていたのだった。
「あれ? でも、今の完全に女の子でしょ。全然わからなかったよ」
 軽く頭の中がパニックになる。
「でも、確かに写真の子だよね」
 沢渡舞はアイフォーンを取り出して、早速写真を確認しはじめた。
 それを宏美も横から覗き込む。隠し撮りだから、やや暗かったり角度がよくなかったりで、正面顔は
はっきりしないが、確かに間違いない。
「うわー。女の子に見間違うような美少年とは聞いていたけど、あれほどとは思わなかったわ。絶対友
達になりたいよね」
 宏美の言葉に舞も同意する。
「あの子さ、島田くんたちのバンドに入ったらしいよ。ボーカルだって。そのバンドと合コンってのど
う?」
 今度は舞の言葉に宏美が激しく頷く番だった。
 
 吉野宏美の入っているスキー同好会は、ただのスキー好きの集まりではなかった。
 普通のスキー同好会は他にもたくさんある。
 宏美の入っているグループは、スキー同好会というのは表向きで、実質は男の娘研究会、またはBL研
究会なのだった。
 BLというのは、ボーズラブのこと。男の子同士の同性愛のことだ。
 かわいい男の子を見つけてきて、その子に合った同性愛の相手を見つけてカップリングしてやることが、
主な活動内容なのだ。
 まずは、ターゲットのかわいい男の子と仲良くなる。そして、BLの同人誌などを見せて教育して行く。
 最後にいい相手を見つけてお見合いさせる。
 そうやって、お似合いの男の子同士のカップルを増やしていく事に、無上の喜びを感じているのだ。
 自分たちが直接そのかわいい子と付き合ったり、肉体関係を持つことはありえない。
 それは興味の対象外だった。
 美しい花同士をくっつけて、それを愛でるのが腐女子の本質なのだから。

 その日は夕方から強い雨がふり、日頃積もった土埃が洗い流され、周囲の風景は壊れていたカメラの
レンズが修理されたかのようにくっきり見えていた。
 合コンが始まって、しばらくすると、雰囲気がちょっといつもと違うと宏美は感じた。
 いつもの合コンなら、男性陣は女性陣に気に入られるように、ほとんど目をギラギラさせているのに、
今日の男性陣はそういった意欲という物が感じられなかった。
 これは、すでに関係持ってる。
 直感でそう思った。
 男性陣の面々が、女性陣よりも佐川耕平に対して気を遣ってるように思えたのだ。
 料理を取り分けるときなど、彼らは目の前の女たちよりも佐川耕平に注目している。
 やはり、男の目からみても、普通の女より美少年の方がいいのだろうか。
 まさか、そんなことはありえない。
 普通の男にとっては、どんなにきれいな男の娘でも、本物の女がよってくればそっちに目が移るものだ。
  それは生物としての本能といえる。
 これは、佐川耕平に対する見方を改めなければならないかもしれない。ただのきれいな男ではない。
 この子の魅力はそんなものではないと思った。

 テーブルには、五人ずつ相対するように座った。
 交互に男女が並ぶようにして、幸い自分の右横にお目当ての佐川耕平が来てくれた。
 乾杯が済み、皆が勢いよくビールのジョッキを傾ける。
 しかし、右横の佐川耕平は、軽く口をつけただけで、ジョッキをテーブルに置いた。
 あまり飲めないのだろうか。
「お酒、苦手なの?」
 宏美はマイルドセブンを一本取り出しながら、横の耕平に聞いてみた。
「いえ、いや、そうかな。あんまり飲まないようにしてるんです」
 声もかわいいな。ちょっとかすれてるけど、女の子の声としてもおかしくない。
「二日酔いでひどい目にあったんでしょ」
 歓迎コンパなんかでたっぷり飲まされたのだろう。
「まあ、そんなところです」
「タバコ、吸ってもいいかな?」
 一応聞いてみた。
「おっと、この場は禁煙で頼むよ。耕平はボーカルなんだからさ」
 向かいに座った島田が火をつけようとした宏美の手を押さえた。
「あ、そうなの。ごめん」
 宏美は仕方なく火をつけていないその一本をそのまま灰皿に捨てた。
「すいません」
 横の耕平が謝る。いいのよ、と言いながら、島田と耕平のカップルを想像してみた。
 背が高く肩幅も広いイケメンの島田だったら、絵になるかな。当たり前過ぎるというのがネックか。
 では、もりもりムキムキしている安岡だったらどうだろう。
 これはかなりいい感じだ。もちろん美女と野獣という意味で。
 安岡に無理やりバックから犯される耕平を想像する。クラクラするくらいに興奮した。


 17 吉野


「どうぞ」
 気づくと、耕平が宏美のグラスにビールを注ぎ足すところだった。
「あ、ありがとう」
 そう言ってグラスを持ち上げる。
「そうだ、耕平くん、今度絵のモデルやってくれないかな」
 そう言ったのは耕平の右横に座っている沢渡舞だった。
「沢渡さんは絵を描くんですか?」
 耕平が向こうを向いて尋ねる。
「漫画の同人誌描いたりしてるよ、油絵も少々。耕平くんは漫画のキャラにも描いてみたいし、もちろん
油絵の方も描いてみたいわ」
「まさか脱げなんて言わないだろうな」
 疑わしそうに言葉をはさんだのは安岡だった。
「ええ、まさか。でも、耕平くんのヌードだったら絶対描いて見たいかも。いいかな」
 舞も酒が入ってかなり大胆になってるようだった。
「ヌードはちょっと、恥ずかしいですよ。男のヌードなんてさまにならないし」
 耕平の反応はいかにも常識的だった。
「男の子のヌードだって、さまになるよ。健康的な男子の身体って、すごく綺麗なんだから」
 自信を持った舞の言い方に、耕平もそうかなと首を傾げる。
「本当よ。例えば、島田くんのヌード。背は高いし、肩幅広いし、イケメンだし、格好いいでしょ」
「まあ、島田さんは格好いいけど……」
「安岡くんだって。盛り上がった背筋がぜったい、いいよ、そう思わない?」
 耕平が安岡を見た。
 安岡と目があったようだ。一瞬二人が固まったように見えた。すぐに二人は目を逸らす。
 耕平が、そうですねと小さく言った。
「ね、だから耕平くん、裸を描かせてね」
 舞が決めつけるように言う。
「いや、OKしてませんからね、まだ」
「だあめ。締め切ったもん」
 耕平のため息が聞こえた。
「じゃあさ、その時は俺も呼んでくれよ。二人だけじゃ危険だからな。お目付け役として居てやるよ」
 田頭が割って入った。
「そうだな。俺たちの大事なボーカルを、傷物にされたんじゃかなわないからな。俺も参加」
 それまで黙っていた白池も参戦してきた。
「どんなポーズで描く?」
 いろいろなポーズを想像しながら、宏美は舞に聞いてみる。
「あたしあれがいいと思うよ。ほら、タイタニックでデカプリオが描いてたでしょ。恋人のヌード。一度
あれ描いてみたいと思ってたんだよね。耕平くん、あの映画見た?」
 長椅子の上に横たわる裸のヒロインのイメージが映画から思い起こされた。
 なるほど、あの恰好を耕平にさせたら、すっごく萌える。舞、ナイスだよ。
 耕平の、見ましたけど、という言葉を聞きながら、宏美は舞に向かって親指を立てて見せた。
「じゃあ、耕平のヌードを描くときはまたこのみんなで集まろうな」
 島田がこの話題を締めるように言った。

 耕平に、吉野さんはそういった趣味ないんですか? と聞かれたとき、宏美は一瞬答えにつまった。
 スキー以外の趣味という意味だ。
 趣味は腐女子だけど、そう言うわけにもいかない。舞みたいに手先は器用じゃないし。
 しかし、趣味なしじゃつまらない。第一、せっかく佐川耕平と近づけるチャンスを逃すのはバカみたいだ。
「あ、ええとね。趣味は、自転車かな」
 いつも自転車で通学しているから、自転車には毎日のように乗っている。ただのママチャリだけど、
自転車に乗るのは好きだった。
「あ、最近流行ってるロードバイクでしょ。あれ恰好いいですよね。僕も一度乗ってみたいと思ってたん
です」
 いきなり食いつきてきた。思いも寄らぬ収穫だ。もちろんここで引くわけにはいかない。
「今度サイクリングしようか。川沿いのサイクリングロード。自転車は耕平くんのも借りてきてやるよ」
 耕平のもという部分で、自分も持っていないことがバレそうに思ってヒヤリとしたが、耕平は不審には
思わなかったようだ。
 まさか、あの佐川耕平とサイクリングに行くことになるとは思ってなかったけど、考えてみればサイク
リング部の山田とか、使える友達が何人かいるのだった。彼らに自転車は調達させよう。
 そのために一度くらいは抱かれてやることになるだろうけど、この際問題ではない。
 あるいは、あの山田と耕平をひっつけるのも面白いかもしれないな。
 山田は女好きのように見えるけど、耕平を見たらどう思うだろうか。
 男には興味ない男の反応を見てみたかった。
 女顔のイケメンでプレーボーイの山田とは、美少女耕平はどういう戦いを演じるだろう。
 二人を絡ませるのも、面白いかも知れない。 

 コンパが終わりに近ずいても、耕平はあまり酔っていないようだった。ビールもあまり飲んでない
んじゃないかな。以前の二日酔いがよほど応えたのかな。下戸なのかもしれないけど。
 しかし、文学部のコンパの時は結構飲んでいたという話も聞いた。
「なんか、耕平くん、全然飲んでないよね。もっと飲みなさいよ、楽しくないでしょ」
 沢渡舞が耕平のグラスにビールを注ごうとする。
 仕方なく一口飲んで注ぐ余裕を作った耕平が言った。
「実は、僕、酔うと変態になるんですよ」
 爆弾発言だ。冗談半分だろうけど、聞き捨てならない。一斉にみんなの注目が集まる。
「どういうの? 変態って」
 すかさず舞が問い詰める。
「具体的には、あんまり言いたくないんですけど、脱ぎたくなるとか、そんな感じで」
「おおー。それいいね。耕平くんのヌード描くときは酔わせればスムーズってことね」
 舞は気づかなかったようだが、耕平の変態発言の時、島田と安岡の表情は見ものだった。
 二人共、一瞬唖然として固い表情になった。他の二人、白池と田頭の興味本位な表情とは全然違っていた。
 やはり、この島田、安岡とは何かあったみたいに思えた。
 とにかく、このコンパで、男の娘研究会(自分たちの間ではスキー同好会とは呼んでいない)と、佐川
耕平の間に、二つの新しいイベントが設定された。
 耕平くんのヌードを描く会と、サイクリングだ。これは素晴らしい収穫だった。
 店を出る時、4人の男たちに守られるように歩く耕平は、SPを連れた王女のように見えた。
 男殺し、という言葉が閃いた。正しく佐川耕平は男殺しの男の娘だと思った。


 18 吉野

 
 サイクリング部の山田には、その日の夜、すぐに連絡を入れた。
『今度、友達とサイクリングしたいんだけど、ロードバイク二台貸して』
 そんなメールを送ったら、明日学食2時、という簡単明瞭な素っ気ない返事が来た。
 相変わらずだな。家が近くで、小学生時代からの知り合いだが、山田隆一はずっとそんな感じだった。
 女にはモテるのに、素っ気ない。いつもブスッとしていて、女の子に優しくするなんてないのに、なぜか
モテる。ルックスがジャニーズ系というのもあるが、性格的にも、どこか女を惹きつける部分があるようだった。
 山田隆一と佐川耕平。二人の絡みが見てみたい。どういう絵になるだろうか。
 何とかして山田にもサイクリングに来てほしいが、素人二人をガイドする役を快く引き受けるような
人間でないのは宏美にはよくわかっていた。
 一度抱かせてやるから、という手も、山田には通用しない。あいつは女には不自由していないからだ。
 実際自転車を貸してくれる男は別に居るだろうから、そっちには抱かせるってことで話をつけるつもりだった。
 どうやって山田を引き出すか、そのことを考えながら朝になるのを待った。

 二時の学生食堂は、少し席は空いているがまだ人が多かった。
 食事している生徒と、お茶してる生徒が半々くらいだ。隣には同じ男の娘研究会の新人、橋本龍子が
座っている。龍子は昨日のコンパには選に漏れて出席できなかったが、今朝昨夜の話をしてやると、
是非サイクリングには参加したいと言ってきたのだ。
 自転車あるのかって聞いたら、弟のクロスバイクを借りてくると答えた。自転車があるのならいいだろう。
 サイクリング部に二台以上借りるのは無理と思われるからだ。

 二人でコーヒーを飲みながら、サイクリングの予定を話していると、10分遅れで山田が現れた。
 肩にかかる長髪にウエーブをかけている山田は、スマップの一人に似てると思った。
 誰だったか、名前は忘れたが。
「その子と二人でサイクリング? 相変わらず色気ねえな」
 向かいに座った山田が、龍子をチラ見したあとこっちを見た。
「残念、ちょっと外れね。この子もいくんだけど、この子の分はあるの。もう一人は佐川耕平。知って
るでしょ、名前くらい」
 やはり名前は知れ渡ってるようだ。山田は、ほうっとつぶやいた。
「有名だからな。名前は知ってる。でも実物は見てないんだよな。男に興味ないしな。どんなにかわい
くってもな」
「まあ、普通そうだよね。でも、話の種に一度あってみない?」
 何とかして興味持たせて、サイクリングに引っ張り出したい。
「話の種は必要ないけど、一度会う必要はある。バイクのサイズ合わせる必要があるから。それにフィッティング
しないといけないからな。一応サイクリング部としては、いい加減な乗り方をさせるわけにはいかんだろう」
「さすが、責任感あるのね」
「いい加減な乗り方されるとバイクも痛むから。大体の身長はどのくらい? 佐川って奴」
「あたしと同じくらいかな。160センチ前後」
「ちびっこだな。じゃあ俺のバイクは貸せないと。そんなちび二人もサイクリング部にいたっけな」
 首を傾げてメンバーを思い起こしているようだ。
「一台は相川で、もう一台は女子部の今池あたりかな。相川は俺が話してやるけど、今池は自分で頼めよ。
女だからいつもの手は使えないぞ」
 付き合いの長い山田は、佐川耕平に近づく宏美の魂胆も見抜いているようだ。
 今池佐和子のメールアドレスを聞いて山田とわかれた。

 今池佐和子は工学部の二年生だった。女子の工学部って、頭固そうなイメージで、いきなり自転車か
してくださいって言ってもはねつけられそうに思えた。
 一応事情は山田からメールしてもらって居たので、すんなり会うことはできた。
「山田さんからだいたいは聞いてますけど……」
 思ったとおり、嫌そうな顔で学食の薄目のコーヒーを一口すする。
 いきなり切り札だしてみよう。それでダメなら、諦める。その時は自転車はレンタルか何か探すしかない。 
「佐川耕平くんって知ってる?」
 予想外の質問をされて一瞬考えるような顔をしたけど、今池佐和子の表情がすぐに輝いた。
「文学部の新入生ですか? それならもちろん知ってますよ。名前と顔だけだけど」
「その子の分の自転車借りたいのよ。今度一緒にサイクリング行く約束なんだ」
 あっさりと、何でもない風に言ってみる。
「ええ、先輩、知り合いなんですか? サイクリングだなんて、めちゃ良いじゃないですか。私も行きたいな」
 固い表情が一転とはこのことだと思った。
「あなたが自転車貸してくれて、耕平くんと仲良くなれたら、そのうち紹介してあげられるけど、貸してくれる?」
「もちろんいいですよ。いつ行くんですか?」
 右横の橋本龍子に目をやると、小さく右手でブイサインをよこしてきた。 

 翌日、クラブ部室棟の前の自販機のところに集合した。
 善は急げってことで、午後からサイクリングということにしたのだ。
 自分の方の講義はあったが、幸い佐川耕平は午後から暇だということだったのだ。
 三階建ての部室棟は鉄骨の外階段、外廊下に面して素っ気ないドアが並び、さながら刑務所のようだ。
 この部室は大学が認めるクラブだけの物で、男の娘同好会みたいな非公認の同好会にはあてがわれない。
 部室が欲しいけど、活動内容を大学側に認めさせるのはおそらく無理に違いないからしかたがない。

 集まったメンバーは、宏美、龍子、山田、今池の四人。カラフルなロードバイクが二台、目の前に置いてある。
 初夏の日差しを浴びたロードバイクはワックスもしっかりかけられているのか、艶やかに輝いていた。
「なんだよ。佐川って奴、こないのか?」
 すぐに不機嫌そうな声をあげたのは山田だ。
「来るよ。講義が長引いたかしたんじゃない?」
 宏美が言ってるそばから、部室棟の角を曲がって小走りで来る耕平の姿が見えた。
「ほら来た」
 宏美の目線を追って耕平を見つけた山田の口がぽっかり開いた。
「すいません遅れて、佐川耕平です、よろしくお願いします」
 宏美に会釈した後、皆に向かって耕平が挨拶する。
 橋本龍子と今池佐和子が、同じように上気した声で自己紹介をした。
 残った山田に皆の視線が集まる。
 山田はなぜ注目されているのか気づかない。
「男? 嘘だろ」
 耕平を見つめたままそう言った。

「押さえてるからまたがってみて」
 サドルの高さをだいたいあわせた後、耕平に向かって山田が言った。
 最初会ったとき、じっくり見つめていたが、それ以降は目をあわせないようにしているみたいだ。
 山田が後ろを支えている自転車のハンドルに耕平が手を置く。スリムジーンズを履いた耕平の足がス
ラリと上がって、フレームをまたいだ。
 シートはペダルに合わせて高い位置にあるから、そのままでは座れない。
「両足をペダルにおいて、サドルに座ってみて。押さえてるから」
 低いドロップハンドルを握って、ペダルに足を伸せ、腰をあげると、かなり前傾姿勢になる。
「うわー、結構きついですね」
 耕平がうれしそうな声をあげる
「きちんとフィッティングすれば大丈夫だから。ちょっとサドル後退させるかな」
 何度か乗ったり降りたりしているうちに、少しずつポジションが訂正されていく。
 軽く肘が曲がった腕から肩にいって、緩く弧を描く背中、そしてサドルへストンと落ちる腰。
 見てても格好いいサイクリストの格好になってきた。
「バッチリだ。案外しまった良い体してるじゃん。何かスポーツやってたのか? 降りて良いぞ」
 サドルから腰を浮かし、降りようとする耕平がバランスを崩した。
 おっとっと、という感じで耕平が山田に倒れかかる。その耕平を抱きかかえる山田。
 なかなかの萌シーンをいただいてしまった。カメラを出していなかったことが悔やまれる。

「今から行くんだって? でもその恰好で?」
 山田が耕平の足元を見ながら言った。
「そのつもりだけど問題でも?」
 不思議そうに自分の足元を見つめる耕平の代わりに宏美が聞いた。
「スリムジーンズはないだろ。抵抗大きくてペダル漕ぐのすぐきつくなるぜ。確か部室に新品のサイクルウェア
置いてあったから要るなら売るけど?」
 どうする? と宏美が聞くと、耕平は、せっかくだからお願いしますと言った。
 五人でぞろぞろと二階まで鉄の階段を上り、誰もいない部室に入った。
 奥のロッカーから紙包をいくつか山田が持ってくる。
「男物はMサイズ以上しかないな。佐川、女物で我慢するか? むしろ女物の方が似合う気もするけど」
 耕平を上から下まで見下ろして、山田が言う。
 これは脈ありだと宏美は思った。
 山田は昔からそうだった。好きな子には素っ気なくなる。意地悪したりもするくらいだ。
 中学時代から性格変わっていない。

 渡されたウェアを耕平が手に取って眺める。
 レモンイエローの夏用長袖ジャージと、黒い七分丈のレーサーパンツだ。
 気を悪くした様子もなく、じゃあこれ売ってもらえますか?と耕平が山田に聞いた。
「ああ、値段は値札に書いてあるだろ。ええと、合わせて1万5千円だな。今度でいいよ」
 今月はちょっと赤字だな、と耕平がつぶやいた。 
 

 19 吉野


「言っとくけど、レーパン履くときは、下着脱いでな。ノーパンで履くもんだから」
 部室で着替える耕平を残して四人は部室を出るが、最後に山田がドアの向こうにそう言った。
「本当なの?」
 サイクリング部女子の今池佐和子に小声で聞くと、そうですよと言いながらも赤い顔をしている。
 耕平がこの部屋の中でパンツ脱いでるところを想像したに違いない。
 佐和子も割とBL趣味なのかもしれない。
「俺もいくかな? どうせ暇だし」
 待っていた言葉が山田の口からこぼれた。
 今池が悔しそうにする。自分のバイクは耕平に貸すわけだから、今池はどうしても行けないのだ。
 じゃあ俺も着替えるから、そう言って今出てきた部室に山田が入っていく。
 佐川耕平がパンツを脱いで着替えている部屋に、普通に入っていける山田が何とも羨ましい。
 何で自分は男に生まれなかったのだろうか。恨んでもしかたがないが、つい誰かを恨みたくなってくる。
 
「しかし、さっきの萌えましたね」
 橋本龍子がクスクス笑いながら宏美に言う。
「ああ、山田に耕平くんが倒れかかったの? あれは良い絵だったね」
 宏美は答えるが、龍子は首を振った。
「それもあるけど、その前。耕平くんがバイクにまたがってた時、後ろで山田さんが押さえてたじゃないですか。
あの構図は、バックでやってる絵その物でしたよ」
 臆面もなく言う龍子に、今池佐和子もクスクス笑い出した。
 そうだったか。言われてみれば確かにその構図だ。
 耕平一人しか見てなかった自分には、そこまで想像することができなかった。
 未熟だな。まだまだ。宏美は燦々と初夏の日差しの降り注ぐ二階の外階段で、ため息をついた。
 
「これ、ぴっちりしすぎじゃないですか?」
 部室の扉が開いて、耕平の声が聞こえてきた。
「もともとそういうウェアなんだから、気にするな」
 山田隆一がそう言いながら出てきた、その後から恥ずかしそうな耕平が続く。
 体のラインがぴったり出るサイクリングウェアに身を包んだ二人が宏美たちの前に立つ。
「耕平くんスタイルいいよ。ばっちり似合ってるよ。やっぱりロードバイクにはそうでなきゃね」
 首を傾げている耕平に、橋本龍子が言う。
 肩幅広く胸板も厚めの山田と並ぶと、何ともお似合いの美男美女だ。
「やっぱりこれ恥ずかしいですよ」
 まだ耕平はしり込みしている。
 確かに、股間の部分がパッドの厚みもあってもっこりして見える。
「しょうがねえな。わかった、待ってろ」
 山田がまた部室に戻り、ピンクのウェアを持って現れた。
「ほら、これ、腰に巻いてれば良いよ」
 女性向けのサイクリングスカートだ。耕平がサイクリングパンツの上からそれを履く。
「なんか、女装してるみたいな気分ですけど、ちょっと落ち着いたかな」
「お前の場合、女装っていう言い方がすごく不自然だけどな」
 山田が先頭に立って階段を降りていく。
「そういえば、耕平くん女装したことあるの?」
 耕平の後ろから今池佐和子が聞いた。
「あったかな? あ、思い出した。そう言えば高校一年のときに女装させられたんでした」
「え?どういう状況で? 無理やり女装させられたの?」
「いえ、寮の上級生にはめられたというか、難しい問題出されて、解けなかった罰ゲームみたいにして
女装させられたことがありました」
 すごく萌えるシチュエーションだ。宏美は二人の話を聞きながら、その場を想像してみた。
 今から約三年前のことか。まだ耕平自身も今よりずっと幼かったんだろうな。
「癖にならなかった?」
 また佐和子が聞く。
「そんなことないですよ。化粧は少し面白かったけど」
「そりゃそうだろう。お前の場合、男の格好していても女に見えるんだから。スカート履いても大した
違いはないって。化粧は顔が変わって面白いだろうけどな。じゃあ俺バイク取ってくるから」
 山田は自分の自転車を取りに裏の自転車置き場に向かう。
「私も取ってきます。待っててくださいね」
 橋本龍子も同じように小走りで消えた。

「男子寮で耕平くんみたいな可愛い子が入ってきたら、他の男子はたまんないだろうね」
 佐和子が再び寮の話にもっていく。
「ふざけて抱きつかれたりはありましたけど……」
 絶対そんなものではなかったはずだ。
「そう言えば、耕平くんって、お酒を飲むと変態になるって言ってたよね」
 先日の爆弾発言を、宏美は蒸し返す。
 耕平は、ニヤリとして、ええーそんなこと言いましたっけ? とはぐらかすだけだ。
 まあいいだろう、今度時間のある時にじっくり根掘り葉掘りインタビューしよう。
 そうだ、学年一の美女(実は男)にインタビューという企画も面白いかもしれない。
 舞の同人誌に一緒に載せればいけるかも。
 宏美がそんなことを考えていたら、まず山田が、すぐに橋本龍子がそれぞれの自転車を緩くこぎながら
軽やかに現れた。

 
 20 山田


 さっきは焦ってしまった。
 サイクリングロードへと素人三人を先導しながら、山田は、さっきの部室でのことを思い起こしていた。
 山田が再び部室に入ったとき、まさに耕平が裸でサイクリングパンツを履く場面だった。
 向こうむきになった耕平がやや前かがみで弾力のあるパンツを引き上げている。
 狭い肩幅から滑らかに背中に来る曲線、そして小ぶりな尻が、まるで山田を誘惑してでもいるかのよ
うにうごめいた。
 失礼と言って、思わず部室を出るところだった。
 振り向く耕平に、俺も行くことにしたから、ちょっと着替える、という自分の声がかすれていた。
 そういえば、振り向いた耕平の股間には確かに男の印が見えていた。
 やっぱり男というのは事実のようだ。しかし、ここまで男の特徴を持たない男が、本当にいるものなのか?
 何かの病気? それとも、別に理由があるのだろうか。
 目の前の信号機が赤になったから、山田は慌ててブレーキを握った。
「あれ? 山田さんの自転車、ペダルが違うんですね」
 後ろの耕平が声をかけてきた。
「ああ、これはビンディングペダル。シューズを固定するんだ。スキーみたいに。そうすると、踏む力
だけじゃなくて引き上げる力も使えるから、三割くらい力がアップするんだ。でも、素人にやらせると
絶対立ちゴケするからな。お前らのは普通のペダルに代えておいた」
「そうなんですか、気をつかっていただいてありがとうございます」
「こけられるとバイクが傷つくからさ」
 信号が青になり、再び漕ぎ始める。
 後ろを見ると、一列になって着いてくるのが見える。
 最後尾は橋本龍子になっている。全員、一応乗れているみたいだ。
 ふらつく者はいないことにほっとした。
 山田としてはスピードはかなり控えめで、近くの川沿いのサイクリングロードに向かった。

 午後のサイクリングロードは、平日ということもあって人は少なめだった。
 一級河川沿いの土手に整備されたサイクリングロードは、見晴らしもよく、やや薄曇りの天気だが、日差しが
柔らかくなるからかえって都合がいいくらいだった。
 雨の予報はなかったが、ひょっとしたら局地的に来るかもしれない、水色の空を見上げて山田は思った。
 少し入ったところにある広場で、一旦停止する。
「ちょっと休憩するか」
 並んでバイクを止める三人に声をかけた。見ると、吉野宏美と橋本龍子は既に汗をかいている。
「気持ちいいけど、ここまででも結構坂あったね」
 宏美がバイクからおりてしゃがみ込んだ。
「何だよ、もうバテたのか?」
 山田が聞くと、宏美は立ち上がり、ちょっとジュース買ってくると言って、広場の隅にある自動販売機に
歩いていった。
 橋本龍子の方は座り込んで立ち上がろうともしない。
「大丈夫ですか?」
 耕平が龍子に尋ねていた。
「何とか必死で着いてきたって感じ。でも、大丈夫よ。ここからはそんなに坂なさそうだし」
 耕平を見上げる龍子が、無理やり元気出そうとしてるのがおかしかった。
「お前は? まだ大丈夫か?」
 耕平に聞いてみる。
「ええ、すごく気持ちいいです。ロードバイクって初めて乗ったけど、すごく軽いんですね。なんか全然
抵抗無く進んでいく感じで。スケートしてるみたいな感じでした」
「ギヤは少し軽いくらいにして、回転あげてスピード出すようにしたら良い。その方がきつく無いから」
 山田のアドバイスに、耕平は、わかりましたとにっこり笑顔になった。
 性格も素直でいい子の様だ。こいつがサイクリング部にくれば面白くなるかもしれないな。
「何かクラブ入ってるのか?」
「クラブっていうか、バンドに入れてもらいました。工学部三年の島田さんたちがしているバンドです」
「へえ、楽器できるんだ。いいな」
「いえ、ギターはまだ練習中なんですよ。一応ボーカルということで」
「へえ、そりゃいいな。聞いてみたい」
「今度、機会があったら」
 宏美が戻ってきた。
「ポカリどうぞ。しかし、結構きついね」
 宏美が皆に五百CCのペットボトルを配る。
「ちゃんとギヤ変えてるか? 軽めのギヤにするんだぞ」
「やっぱり日頃の運動不足かな、耕平くんはきつくない?」
 ドリンクを一口飲んだ耕平が、かぶりをふった。
「大丈夫です。まだ高校時代の体力残ってますから」
 耕平の首筋を見て、喉仏がほとんど目立たないのに、山田は気づいた。
 この子の男の証拠って、股間の物以外見当たらないようだと思う。
「ここからは少しスピードアップするかな。あんまりゆっくりじゃあ耕平もつまんないだろ」
 その言葉に吉野たちは反対するかと思ったが、どうぞ先に行っていいよと二人共答えた。
「じゃあ、10キロ行った辺りにまたこんな広場があるから、そこで待ってるから。二人はゆっくり来いよ」
 頷く二人を尻目に山田はバイクにまたがった。
 右足のビンディングシューズを固定する。カチリと言う音が気持ちいい。
「じゃあ行くぞ、耕平、ついて来い」
 山田が漕ぎ出す。
 振り向くと耕平が慌てて着いてくるところだった。
 少しスピードを緩める。
「耕平、前に出ろ。後ろからアドバイスするから」
 山田が叫ぶと、耕平は無言でスピードアップしてきた。
 山田の右横に並び、前に出る。
 後ろから見ると、やや背中が反っているように見えた。
「耕平、もう少し肩を落として。肘を曲げる。それで腰は立てた状態で前屈」
「わかりました」
 シャキッとした返事が小気味良い。
 後ろから見る耕平のライディング姿。
 くびれた腰から男にしてはやや大きめかともと思える尻が突き出していて、かなりそそる。
 いや、男女の認識をしていない状況なら、すごくそそる。
 太股から下が交互に上下して、尻が躍動する。
 自分が性的に興奮している事に山田は気づいてはっとした。
 俺は女が大好きだ。
 女の股に顔をうずめて、あのちょっと酸っぱい匂いを嗅ぐのが大好きだ。
 胸のふくらみが大好きだ。俺は、はっきり言って女好きなのだ。
 その俺が、どうして男なんかにそそられなきゃならないのだ。
 何かの間違いだ。そう思おうとするが、自分の股間に集まる血液の量は自分が一番わかっているものだ。
 女みたいな顔。しかもかなりの美人。それに加えてかなりスタイルが良い。
 でも、こいつは男なのだ。その証拠の股間のものをさっき見たばかりじゃないか。
 部室でのことを再び思い出す。
 同じような状況で普通の男と同室だったら? 想像してみると大きく違う点が思いついた。
 外見はもちろんだが、さらに違うのは匂いだ。
 男の汗臭い匂いとはまったく違う。耕平は女みたいな甘美な匂いを身にまとっていた。香水なんかじゃなく、
耕平自身の匂いだった。
 それは男を誘うフェロモンと言えるかもしれない。
 匂いというのは、結構大きい。人間の行動に大きな影響を与えるものだ。
 食べ物が食べられるかどうか、まず匂いを嗅いでみる。腐っているかどうかを調べるため。
 食べるというのは、人間の基本的な行動の一つ、と言うか生きるためのもっとも大事な行動だ。
 それは匂いに支配されていると言っても良い。
 同じように性的なものも匂いに影響されている部分が大きいんじゃないだろうか。
 女性器の匂いは男にとって、興奮を増強させる意味を持っている。
 あれは、あそこがあんな匂いだから興奮するんじゃなくて、匂いその物に興奮してるんじゃないだろうか。
 佐川耕平の秘密が少し見えた気がした。
 こいつは見た目が女みたいでかわいいだけじゃない。
 その存在その物が男を引き寄せているんだ。


 21 山田


 デジタルの数字が時速30キロを越えた。
 ハンドルに装着しているサイクルメーターの数字だ。後ろから発破をかけて思い切りスピードアップ
するように指示したのだ。さらに加速していく。
 平坦で、きれいな舗装のサイクリングロードだ。健脚のサイクリストなら時速45キロ以上出せる道だった。
 メーターの数字が40キロを越えたところで、加速が鈍る。
「下ハン握ってみろ。腹筋にも力入れて」
 言われた通りに耕平が姿勢を変える。一旦鈍ったスピードが少し加速する。
 メーターの数字が46になったところで、左手にせり出した広場が見えてきた。

「いい線いってるぞ、お前。やっぱり一年坊主はまだ体力あるな」
 広場の柵に自転車を立てかける。気温も高いし、かなり汗をかいてしまった。
「きつかったけど、でも、気持ちいいですね。こんなに汗かいたの久しぶりです」
 耕平はデイパックからタオルを取り出した。
「汗かくのはいいんだよな。それもサウナなんかじゃなくて、運動してかく汗は特別だ。血液が体中駆け巡る
だろ。細胞の一個一個が生き返る感じがするんだよ」
「本当にそうですね」
 離れたところに派手な赤いジャージを身にまとったサイクリストの集団が五人ほど休んでいた。
 チラチラこちらを見ている。
 その中の一人が近づいてきた。
「こんにちは。良い天気ですね。君たちは大学生?」
 気さくな感じで、髭を生やした中年の男が話しかけてきた。
「そうですよ。近くの大学から、今来たところです」
 山田が答えるが、彼としては耕平と話がしたいのは見え見えだった。
 見かけないかわいい女の自転車乗りがいたから、ちょっと様子見という所だろう。
「いいなあ。カップルでロードバイク乗りだなんて。彼女大事にしろよ。同じ趣味の彼女なんてなかなか
持てないんだからな」
 耕平を見ると、口元に笑みを浮かべるだけで、自分は男だと否定する気配もない。
 こういうシチュエーションはこれまで何度もあったことなのだろう。否定しても信じてもらえず、挙句の
果てには証拠見せろなんてことになったりして。
 そういうことが多くて、こういうときは受け流すに限るとなったのかもしれない。
「俺たちはバイクショップ風輪のチームなんだけど、一緒に走らない? まだ先までいくんだろ?」
 聞かれた耕平が山田を見る。
「いや、こっちもまだ連れがいるんですよ。あと女二人。遅いから先に俺たちだけできたんだけど……」
 暗にここにいるのは男二人だぞという意味を込めて山田が言うが、そのことに気づく気配もない。
「そっか。俺たちこの先からヒルクライムに行くんだわ。古槌山。君たちも行ったことあるだろ」
「あそこはよく行きますよ。こいつは今日が初めてだけど」
 髭の男はふんふんと頷き、じゃあ、またどこかでなと言って離れて行った。
「古槌山って、どんなところなんですか?」
 耕平が山田に訊いた。
「あれだよ。古い道が山頂まで続いてる。勾配は最後が少し急だけど、大体は初心者でも大丈夫かな。
車も少ないし。標高五百メートルくらいだから、ゆっくり上っても一時間かからない程度だ」
 河とは反対側の形の良い三角形の山を山田は指差した。
 五人組が二人に手を振りながら出発する。
 それと入れ違いみたいに吉野宏美と橋本龍子が到着した。

「あの山が古槌山か。いいじゃない、二人で上っておいでよ。あたしたちはここから引き返すから」
 五人組のライダーに声かけられたことを山田が話すと、吉野宏美は即座にそう言った。
 山田としては、耕平が五人組から見ても女に思われていた事を話したつもりだったが、宏美にしては
そんなことは当然といった感じだった。
「お二人で並んでるのを見たら、すごくいい雰囲気ですもんね。美男美女って感じで」
 橋本龍子も冷やかすように言う。
「本当。耕平くんがもう少し美少年っぽいキャラなら、別の意味で萌えるんだけどね。美少年と言うより美女だもんな、
普通にいいカップルに見えてしまうわ」
 吉野宏美が腐女子っぽいことは山田も知っているが、まさか自分を魚にされることがあるとは思っていなかった。
「変な想像してるんじゃないぞ。俺はそう言う趣味はないんだからな」
 釘を刺すが、手応えもなにもない。
「そんなのわかってるわよ。あんたの女好きは小学生のころからだものね。でも、耕平くんは見た目、女の子でしょ。
それもとびきり美人の。それでもまったく心が動かないわけ?」
 吉野宏美がやり返す。
「そうですよ。外見的にこれほどの美女なのに、性別が男というだけで関心ないというのは、むしろ不自然に
思えますけど」
 橋本龍子も掩護射撃。
 こいつも腐女子なのだろうか。山田は心の中でため息をついた。
 ここで男と女の本質論を語ってもしかたがない。山田は首を振ってこの話題に終止符を打たせた。
 見上げると西の方が少し曇っているが、風もなく穏やかな天気は、雨の心配もなさそうだった。
「じゃあ、上ってみるか?」
 耕平に聞くと、期待感に目をきらめかせた耕平がハイと頷いた。


 22 吉野

 
「あの二人、いい線いってるけど、どう思う?」
 並んで出ていく二人を見送ったあと、宏美は龍子に聞いてみた。
 まだついていく余力は残っていたが、あえて二人を見送ったのだった。
「私は、少なくとも今日中にキスまでは行くと思いますね」
「ほう、強気だね。でもさ、耕平くんが誘うならありえるけど、耕平くんが山田を誘惑するということはないよ」
「ないとは言いきれないと思いますけど。あからさまに誘うことはないかもしれないけど、あんな娘と
二人きりだと普通の男でもクラクラ来るんじゃないでしょうか」
「そう。耕平くんクラスの男の娘と二人きりで、ノーマルの男がどういう反応するか。それが我々の研究テーマな
わけだけどね。まったく、出きることなら隠しカメラか何か仕掛けたい所だったね。一緒についていけば、二人きりに
させてあげられないし。何かこうイライラしちゃうね」
 後ろからこっそり着いていくという手も考えられるが、歩きならともかく、自転車で山を上る二人を自転車で
追いかけるのは不可能だというのは、これまでの行程で思い知らされた。
「とにかく、今日のことはあとで山田から聞いておくから、あたしたちは引き返しましょうか」
 宏美が言うと、
「そうですね。山田さんと耕平くんのデートを実現させるという、男の娘研究会の当初の目的は果たしたわけだから
他の会員にも大手振って帰れますよね」
 龍子が頷きながら言った。


23 山田 


 古ぼけた木製の古槌山登山道路の標識が斜めになっているところから、ゆっくり上り坂になっていく。
 二台の車が何とかすれ違える程度の幅の登山道路は、むしろ交通量が少ないからか路面は荒れも少なく、
自転車で走るのが快適な道だ。
 最初のころは四パーセントくらいのなだらかな勾配がつづき、最後の500メートルくらいは10パーセントから
それ以上の急坂になっていく。
 足のできたベテランならたいしたペース配分もなく上れる山だが、初心者には、最初の区間でどれくらい体力を
温存できるかが、休まずに頂上まで上れるかの別れめといえる。
「もう少しゆっくり行っていいぞ。この後きつくなるから」
 後ろから声をかけると、耕平のペダルを回すスピードが少し遅くなった。
 スピードアップして耕平に並ぶ。
 横から見ると耕平は既に汗だくだ。顔から汗が滴り落ちている。
 気温もかなり高くなっている。水分補給するべきだが、止まらずに飲めるボトルに入れていないから走っている間は
補給できない。
「ちょっと休憩するか。喉が乾いただろう」
 山田の言葉に耕平は首を振った。まだ大丈夫ですと口だけ動いた。
 足はまだ疲れていないのだろう。ちょっと迷ったが、意地をはる美女に付き合うことにした。
 山肌に沿うようにして上っていく登山道路は、右側の景色が開けて下界が見渡せるようになる。
 海から吹く風が、むせ返るような身体の熱気を爽やかに奪い去る。
 きつさが一瞬快感に変わる。耕平も同じようにこの快感を感じただろうか。
 再びスピードの落ちた耕平に並びかけ、横顔を覗き見る。
 山田を見る耕平は唇の端をくっと持ち上げて見せた。
「ファイトーイッパーツ」
 山田が声をかけると、耕平が破顔した。なんか良いなこういうの。
 こいつが女なら最高なのにな。胸がぷるんとして、お尻がボンときて。
 それでこの顔なら言うこと無いだろう。まったく、どうしてお前は男なんだよ。
 どうしても理不尽な気がする。山田は足を緩めて耕平の後ろに付く。
 その時、コーナーの奥からシャーというチェーンの音を響かせて一台のロードバイクが下りてきた。
 かなりのスピードだ。驚いた耕平がぐらついた。接触することなくそのバイクは通過して行ったが、
耕平はよろけて足を着いた。
 そしてそのまま、ふらふらっと左側に倒れこんだ。
「おい、大丈夫か?」
 山田も素早くビンディングシューズを解除すると自転車をおりる。
「す、すいません。バイク倒しちゃって」
 しりもち着いた耕平はできるだけ自転車を接地させないように支えている。
「いいから」
 山田はそう言って耕平の自転車を持ち上げ、無造作に側の立ち木に立てかけた。
「足がつったのか?」
「右足が、ちょっと……」
 苦痛の表情まで美しいな。そう思いながら山田は耕平の靴を脱がせると、右足のつま先をぐっと反らせるように
力をこめた。
 イタタ、と言いながらも右足の緊張が少し解けた。しばらくそうしていると、耕平の眉間のシワもとけてきた。
「だいぶんよくなりました。有難うございます」
「急にハードな運動したからだな。どうする、ここで引き返すか? 上まではまたそのうち機会があるだろうから」
 耕平が首を振った。
「少し休めば大丈夫ですよ。せっかくだから頂上に上ってみたいし」
 わかった。山田はそう言って、二人並んで崖側にスペースを見つけて座り込んだ。
 遠くに海を臨みながら、二人でスポーツドリンクを飲む。
「お前さ。子供のころから女みたいなわけ?」
 いやがるかと思った耕平は、山田のそんな質問にもふっと笑った。
「子供の時の方が男らしかったらおかしいでしょ」
「そりゃま、そうだけど」
 ひとつため息をついた耕平が話し出した。
「高校時代に薬飲んでいたんです。最初は無理やり飲まされて。薬って、女性ホルモンなんですけどね。
お前絶対似合うからニューハーフになれっていわれて。薬はネットで購入しましたよ。でも、次第に胸が膨らんで、
脂肪の付き方が女っぽくなっていくと、自分でもそんな自分が気に入ってしまって……」
「その女性ホルモンって、今でも飲んでるのか?」
「いえ。今は止めました。でもまる二年飲んでいたからかな。ヒゲも生えないし、男っぽさが全然なくなって
しまいました」
「いじめか?」
「最初は少し。でも、すぐにいじめはなくなりましたけどね。逆にみんなが僕の機嫌をとろうとしていたかな。
僕を抱きたいばっかりにね」
 男に抱かれていた過去ありか。しかし、では女の経験はあるのだろうか。
 山田がそれを聞くと、
「あるといえばあるかな。逆レイプってわかりますか? 複数の女で一人の男と無理やりセックスするんです。
それやられたことありますよ。五回以上連続で射精させられて、あれはきつかったです」
 耕平はそう言って、手近にあった雑草をちぎって放った。
「そんなことやられたら、女はこりごりになるだろうな」
 無理やり男が女に犯されるというのは想像しにくいが、五回以上の連続射精というのは確かにきつそうだ。
「僕、性欲があんまり無いんですよね。女性ホルモン飲んでた所為かと思うけど、止めて半年なるけど
性欲戻らないし……、もうずっとこんな感じなのかもしれません。多分子供もできないでしょうね」
 そう言っている耕平はあっけらかんとしたものだった。
 後悔はあんまりなさそうだ。
「今は? 男が好きなのか?」
 この質問には答えるのに少し時間がかかった。
「恋愛感情で言えば、感じませんよ。男にも女にも。でも、お酒を飲むと抑えられている性欲が出てくるときがあるみたいです」
「その時の相手は? 男?」
 聞かれた耕平が笑ったが、その笑いはこれまで見てきたものとは違う、艶かしい笑顔だった。
 思わずクラッとくる。
「やっぱり男かな? 女の人とセックスしたいなんて思ったことないし」
 しかし、初対面の男と何と突っ込んだ話をしてるんだろうか。耕平もよくこんな質問に素直に答えるものだ。
 ひょっとして、こいつは俺を誘惑しようとしているのか?
 山田の中に疑念が浮かんだ。
「言っておくけど、俺は女好きなんだ。男には興味ないからな」
 言うと、耕平は声を出して笑った。
「そんなつもりはないですよ、心配しないでください」
 いきなり否定されるのも、なんだか癪に障る。
「おれって、お前から見て魅力ないか?」
 つい、そう聞いてしまった。
「そうは言いませんよ。山田さん、スタイルもいいしイケメンだし、すごく魅力ありますよ」
「それは一般論だろ? お前から見てだぞ」
「うーん。難しいな。少なくとも今は抱かれたいとは思ってませんから」
 性欲が無いからだろうか。酔えばまた別なのかな。
 これ以上は追求するのは止めた方がいいだろう。
「そろそろ出発するか。充分休めただろう?」
 山田は立ち上がった。
 西の方を見ると、かなり雲が暗くなっているのが見える。
 少し急いだ方がいいかもしれない。


 24 山田


 再スタートした地点から少し上ると、坂の様相が一変した。
 これまでなだらかだったのが急に勾配のきつい坂になる。
 この坂をしばらく上って、再びなだらかになればゴールはすぐだった。
「心臓がきつくなったら止まれよ。ペダルはゆっくりと心臓に負担かけないくらいに回せ」
 後ろから山田が声をかける。コクンと頷いた耕平が大きく深呼吸するのがわかった。
 ここまで来るまでにウォームアップは十分だから、心臓は持つと思うが。なにぶん初心者だから気を遣う。
 スピードを落としてじわじわ上る。サイクルメーターは時速10キロ程度をさしている。
 耕平の足は、しっかりペダルを踏んでいる。つった足はもう大丈夫の様だった。
 木立の中の道になり、風が止まる。体温がぐっと上がる感じがする。流れる汗はグローブをじんわり湿らせる。
 とにかく熱気に耐えるようにして、這うように進んでいると、左コーナーを回ったところでやっと坂がなだらか
に変わった。ペダルがすっと軽くなる。
 まだ勾配は4パーセントくらいあるのだが、これまでの急坂から比べたらまるで下り坂みたいに感じる。
 耕平の肩の力が抜けるのがわかった。斜め後ろのこっちを振り向いて、もうすぐですねと言った。

「うわー、暑い」
 頂上の広場で耕平はバイクを柵に立てかけると、腰に巻いていたサイクリングスカートを剥ぎ取った。
 広い山頂公園には、奥の方に展望台があり、そこまで芝生の中を小路が伸びている。
 二人で自転車を押しながら展望台の方に進んだ。
「足はもう大丈夫みたいだな」
 声をかけると、耕平は自分の脚元に目をやり足首をひねったりした。
「はい。山田さんのマッサージのおかげです」
 その言葉で、耕平の足の感触を思い出した。
 すべすべの皮膚。すね毛が一本も無かった。靴のサイズは24センチくらいか。
 展望台の階段を登っていると、上から先ほどサイクリングロードの広場であった連中が降りてきた。
「やあ、さっきの。結局ここまで来たんだね」
 先ほどと同じ男が立ち止まって声をかけてきた。
「ヒルクライムって、一度やってみたかったんです」
 耕平が答える。
「どうだった? 初心者にはちょっときつかっただろ」
「一度足がつって無理かと思ったけど、何とか来れました。楽しかったですよ」
「あれ、君のバイク?」
 展望台の階段脇の柵に立てかけてある二人のバイクを指差して男が尋いた。
「借り物なんです。ロードバイクに乗ったの今日が初めてで……」
「そうなんだ。もし自分のバイクが欲しくなったら、うちにおいでよ。安くするから」
 男は財布を取り出して、中から名刺を一枚耕平に渡した。

「どうもあの男、気に入らねえな」
 二人きりで展望台から下界を眺めていると、先ほどの『ショップ風輪』の連中の自転車が降りていくのが見えた。
 白池の言葉に不思議そうに耕平が覗き込む。
「なんかさ、お前の事女の子だと思って下心見え見えなんだよ」
 言い訳じみた言い草だと自分で思いながらもそう言った。
「別に、そういうの慣れてますから」
 そうだろうなと山田も思う。
「嫌にならないか?」
「だって。下心の無い人なんていないでしょ。極論すれば」
「どういう下心かが問題なんだよ。男なのに、女だと思われて、彼女にしたいなんて思われてるんだぞ」
 山田が言うと、耕平は声を出さずにクックっと笑った。
「男だとバレたらどんな顔しますかね」
「そういう顔を今までたくさん見てきたんだろ、お前は」
「まあ、そうですけどね」
 話していてすごく楽しい。男同士の気安さと、美女を相手にしている男としての歓びがある。
 笑顔で近くにいる耕平を見つめて、山田は思わず抱きしめたい衝動を感じた。
 抱きしめてキスしたい。こいつは男なのだという理性の声は、目の前の耕平の魅力の前ではまったく無力のようだ。
 山田が辛うじて自制できたのは、耕平が男だからじゃなくて、顔に雨粒が落ちてきたからだった。
「ちぇ、降ってきたか。さっさと下りようか」
 自制できた事にほっとしながら山田は先に展望台を下りる。耕平がすぐについてきた。
 小降りのままでいてくれよ。山田はそう願いながらビンディングシューズを固定する。
 着いてくるように耕平に言って、漕ぎ出した。
 さっきまでハアハア言いながら上ってきた道を、今度は足を止めたままでどんどんスピードが乗っていく。
 路面が乾いているうちになるべく先の方まで下りていきたい。
 完全に濡れてしまうと、滑るからあまりスピードが出せなくなる。

 走っているうちに雨粒は大きくなってきた。路面もすっかり濡れてしまっている。
 徐々にスピードを落とす。
 さっきまで暑くてたまらなかったのが嘘のように身体が冷えていく。
 これはどこか、屋根のある場所で休む方がいいようだ。
 ザッと降ってあがるタイプの雨に思えた。
 そういえば、上り口から少し上った所に見晴らし台があった。
 東屋も作ってあったから、あそこで休もう。

 雨でスピードダウンしているとはいえ、上りと比べれば下りはあっという間だ。
 すぐに見晴らし台入り口が見えてきた。
「ちょっと休むぞ」
 後ろの耕平に声をかけて、脇道に入った。
 ひょっとしたらショップ風鈴の連中がいるかと思ったが、何とか雨を避けることができる程度に立っている東屋は無人だった。
 少し離れた場所に公衆トイレもあるが、あまり使われていないのか、雑草だらけだった。
 四本の柱で屋根を支えている東屋の中には壊れかけたテーブルとベンチがある。
 自転車を東屋の柱に立てかけると、二人でベンチに腰かける。
 耕平を見ると、濡れた髪の毛からしずくが落ちていた。座ると同時に、三回立て続けに耕平がくしゃみをした。
「大丈夫か? 暑かったのに、急に冷えたからな」
 デイパックからタオルを出した耕平が髪を拭き始めた。クシャクシャになった髪がかわいい。
「山田さんもどうぞ」
 もう一枚、タオルを取り出して山田に手渡す。
 借りたタオルで髪を拭き顔を拭う。サイクルジャージは汗を吸っても発散してべたつかないようになっているから、
寒くはあるが身体が濡れた感じは無かった。
 雨はさらに激しさを増している。東屋の中には水しぶきは入ってこないが、ひんやりした冷気が周囲に広がっているように見える。
 霧がかかってきたようだ。見晴らし台から先は真っ白になってしまった。
 さっきまでとは別世界に来たようだった。邪魔者の入る余地が無い二人だけの世界だ。
「背中拭いてやるよ。背中冷やすと風邪ひき安いから」
 山田は耕平の後ろに回った。そうしながら、山田は自分の魂胆がよくわからない。
 スキンシップをとってもっと近づきたいという気持ちと、純粋に耕平の健康を思う気持ちとがごちゃ混ぜになって、
カフェオレ見たいに濁ってしまっている。
 どうもすいませんと言う耕平のジャージの中に手を入れる。
 なめらかな肌をタオルで摩擦するように擦りあげる。華奢だな。でも、痩せてるわけではない。
 皮下脂肪は結構あるのかな。いや、骨格が細いのか。無理やり理詰めで耕平の身体を観察するのは、情欲に溺れて
ヤバい道に走りそうになる自分が怖いからだ。
 俺は女好きの山田隆一なんだぞ。腐女子の広美なんかの思うツボにハマってなるものか。
 しかし、耕平の脇の下から、胸の方に手がいくと、我慢の堤防はあっさり決壊した。
 後ろから抱きしめる。一旦堤防が壊れてしまうと、歯止めは何もなかった。
 驚いて暴れてくれないかな、そういう期待が少しあったが、おとなしく抱かれてほしいという希望の方が強かった。
 後ろから手をやって耕平の胸を触ると、そこには小さなお椀程度の乳房が触った。
 乳首を軽くつまんでやると、耕平の身体がピクンと震えた。
 振り向く耕平の横顔に顔を近づけて、その柔らかい唇に吸い付く。
 舌を入れると、耕平の熱い舌が絡みついてきた。一気に頭が熱くなる。
 これまで何度も同じことはしてきたというのに、相手が違うとまったく意味が違うものだ。
 しかも今俺は男とキスしてるんだぞ。その意識は山田の欲望を抑えるよりも、むしろ燃え上がらせる方向に動く。
 こういうのを背徳感というのかな。
 一旦口を離して耕平を見つめる。
「なんで抵抗しないんだよ。調子狂うな」
 ふざけてキスした風を装う。まだ自分にそういう見栄が残っているのが不思議だった。
「スイッチ入っちゃったかも」
「何のスイッチ?」
「淫乱28号」
 くすりと笑う耕平の口に慌てて吸い付く。
 舌を絡めると同時に、耕平が思い切り抱きついてきた。
 





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