「優、発育が遅いのかなあ、おまえ声変わりはあったか?」
 平和な夕食時に父の言ったその一言が、僕の受難の始まりになるなんて、
当然だけどその時の僕には知る由もないことだった。
 父はいつもの事だけど日本酒を、母は、久しぶりのビールを気持ちよく飲ん
でいた。

「別に、僕は普通だよ」
 味噌汁を一口飲んで僕は答えた。

「中学3年にしては、少し遅いかもしれないけど、優君はおとなしいからい
いのよ。あまり男らしいのは最近はやらないんだから。優君学校でもてる
でしょ」
 ほろ酔い加減の母がニコニコして言った。

「でも、男の子でもあんまり可愛いと、変な男に襲われるかも知れないわ
ね。あなた、やっぱり柔道でもやらせようか」
 何だか急に話の雲行きが怪しくなった。

「でもうちの道場はあの事故の後、男子柔道部は解散してしまったからなあ」
 父は警察署に勤めている。
 父の警察署の道場はずっと一般の青少年を受け入れて、柔道部を作ってい
たが、去年の終わりにちょっとした事故があって、その柔道部を廃部にして
いた。
 今は一般人は受け入れずに、警察官だけで練習しているらしい。

「そういえばあの時の子、リハビリで何とか歩けるくらいには回復したらし
いわね。一時は半身不随になるかと思って心配していたんだけど」

「まったく。練習中に頚椎骨折というのは初めてだったよなあ、やっぱり
優は、危ないから止めておいたほうがいいかもな」

「そうだ。女子柔道部があるわ。女子が相手なら優君でも怪我する事もない
わよ」
 母がいきなり突飛な事を言い出した。

 母も以前は婦人警官をしていた。父とは職場結婚というやつだ。

「おまえが練習していたとこか。そうだな。それいいかもな」

「今の子達もみんな私の後輩だし、ちょっと頼んでみるわ」
 僕の意思は完全に無視されて、話がどんどん進んでいく。

「ちょっと待ってよ。女子の中でなんて嫌だよ」
 僕の抗議は二人とも当然予想していたのだろう、うんうんとうなずいて軽
くかわされた。

「いやなら負けないように練習するだろ。そのほうが上達も早いはずだ」
 というのは父の論理。

「まだ女の子意識する年でもないでしょ」
 というのが母の論理だった。
 父の論理にはともかく、母は何も分かっちゃいない。
 いつまでも子供でいて欲しいという希望的観測がかなり入っているようだ。

 僕はさらに強硬に抗議しようとしたが、母に出鼻をくじかれた。

「優君、ギターが欲しいって言ってたわよね。夏のボーナスで考えてあげ
てもいいなあ。でも、その前に体は鍛えなきゃね」

 学校の柔道部に入るという手もあったのだが、その時は混乱していて言い
そびれた。
 それに3年生なのに新入部員として1年と一緒にやらされるのはちょっと
嫌だ。いじめもあるかもしれないし……。
 女子の中とは言っても、警察署の道場ならその点は大丈夫だろう。
 知り合いもいないだろうし……。

 僕は早速次の日の夕方、母に言われた道場に向かった。
 『小牟田警察署女子柔道場』と、大書きされた門を入り、奥に進む。
 門の中は車を置くスペースの他に池まであった。

 随分立派な道場だ。どこかで鶯が、たどたどしく鳴いていた。
 建物は古いが、由緒ある雰囲気が漂っていた。

 正面入り口から入ると、右に下足棚があった。
 靴を脱いでそこに入れる。
 奥の方からは活気に満ちた声が上がっていた。
 
 入り口近くで覗いていると、額に汗を光らせた一人の女性がやってきた。
 汗で湿った柔道着の胸元からは湯気が上がって見えた。

「キミ、斎藤優君でしょ。先輩から聞いてるわ。ちょっと早かったわね。こ
ちらにどうぞ」
 母の後輩だろうか、その女性に案内されて、僕は奥に入って行った。
 広い柔道場だけど、まだ練習しているのは10人くらいだ。
 半分は大人の女性で、残りは僕と同じくらいの年齢の女子達だった。

「今日からみんなと一緒に練習する、斎藤優君です。本当は此処は男子禁制
なんだけど、特別に入部を許可しました。皆さんよろしくしてやってくだ
さい。私は麻生早苗。此処のコーチをしているの。よろしくね」
 麻生さんはみんなに僕を紹介した後、僕のほうを向いて自己紹介した。

 麻生さんも、その他の人たち、女の子達も、柔道なんていうごつい格闘技
をやってる割には優しそうだった。

 麻生さんはちょっと松島菜々子似の美人だ。
 スタイルも柔道着を着ててもわかるくらい胸が大きくて、近くで見ている
僕はつい恥ずかしくてうつむいてしまう。

「初めまして。私たちは海星中学の2年生です。私は近藤綾子、こっちが田
口ユカ、こっちが前崎智香です。斎藤さんは見た感じ3年生くらいですか?」
 同い年くらいかと思っていた女の子が他の二人を紹介しながら聞いてきた。

 同じ海星中学と聞いて、ちょっとまずいと思ったけど、まあ学年も違う
からどうということは無いか。

「僕も海星中学だよ。3年2組。よろしく」
 僕は挨拶を返した。

 紹介が済んで、練習が始まった。

「それじゃあ、キミはとりあえず近藤さんたちと練習していてね。
学校の体育で習ってると思うけど、まずは受身の練習からね。あそうそう、
着替えは奥の倉庫を使ってね」
 僕は道場のすみの倉庫に行って着替えた。

 最初の練習は受身から始めた。
 一学年したの女子と一緒に。

 近藤綾子はまあまあ。田口ユカはちょっときつそうな目つきで苦手なタイプ。
 前崎智香は目が大きくて美少女顔。ちょっといい感じだなと思った。
 3人とも運動しやすいようにか、ショートカットにしていた。
 
 4人で並んで受身の練習。畳を打つパーンという音が広い道場内に響く。
 少しずつ人も多くなり、中央の方では婦警さんたちの乱取り稽古が始まり
だした。

「私たちも組んでやりましょう。ちょうど4人だからいいね。あまらないもん」
 綾子が言う。
 僕達も組んで練習する事になった。

 僕と綾子、ユカと智香がまず組んだ。
 初心者とはいえ柔道は体育である程度習ってるし、僕の方が綾子より
身長も10センチは高い。体重だってそれなりに重いはずだ。
 体力はあまり自信ないが、年下の女の子には負ける気はしなかった。

「本気出していいですよ。私は手加減しますけど」
 綾子は無邪気に笑いながらそんな事言っている。

 僕に生意気だと思われないか、彼女は気ならないのだろうか。
 それとも最初から僕のほうが弱いと思って、それが当然だと考えてるんだ
ろうか。
 僕は少し不愉快になった。ちょっといじめてやろう。
 本気を出すのは男らしくないかと思っていたが、ちょっと乱暴に乱取りを
開始した。

 ぐっと腰を落とした彼女の方に踏み込んで、踏ん張った足をはらいに行く。
 彼女はそれをひょいと簡単によけると、僕の下に入り込むように腰を入れて、
背負い投げにきた。
 身体がふわりと浮き上がる。平衡感覚が狂う一瞬の不確かさの後、僕の身
体は畳に打ち付けられていた。

 痛みは感じない。ちゃんと受身が取れていたからだ。
 衝撃と、屈辱感。
 すぐに立ち上がって再度組みなおす。

 こいつは油断出来ない。僕は気合を入れなおした。
 彼女の右腕が僕の襟をつかみ、ぐっと引いて、あっと思ったら、また
投げられていた。今度は違う技で。

「先輩受身はちゃんとできるみたいですね。これなら遠慮なく投げられます」
 綾子はそう言いながら更に何度も僕の身体を畳に打ち付けた。

 投げられては起き上がり、向かっていき、更に投げられる。
 屈辱感を感じていたのは最初だけ、後の方になると、とにかく体力が持た
なくなって、汗だくになり、足もフラフラになってしまい、余計な事を考える
余裕すらなくなってしまった。

「先輩、少し休みましょうか。疲れたでしょ」
 綾子は可愛い顔で笑いかける。
 そんな優しい表情で、僕を散々攻め立てる彼女に僕は複雑な感情を持って
しまう。

 なんと言ったらいいのか。可愛い女の子と力ずくで勝負してまったく勝て
ない情けなさと、恥ずかしさ。自己嫌悪と彼女への尊敬。
 そんな気持ちがごちゃごちゃにミックスされて、すっかりまいってしまう。
 でも、疲れたと言うのは嫌だった。
 勝負では負けても、体力でも負けるというのはあまりに情けない気がした。

「僕はまだ大丈夫だよ。男だからね」
 つい、言わずもがなの一言が出てしまう。

「さすが男は体力ありますよね。でも私はちょっと休ませてください」
 綾子はそう言って壁際に座り込んだ。

「先輩まだ大丈夫ですか。じゃあ、私とも練習してください」
 そう言って僕の側によってきたのはちょっときつい目つきの田口ユカだった。
 ユカにも同じようにまったく歯が立たなかった。

 同じように何度も何度も投げられて、最後には起き上がる事さえ出来なく
なってしまった。
 へばっていると、今度は智香がやってきた。

「先輩さすがにもうきついでしょ。ちょっと休みましょう」
 彼女は起き上がれない僕の肩を抱いて、壁際まで連れて行ってくれた。

「少し手加減してあげれば良かったかな。最初にあんまり痛めつけたら、泣
き出しちゃってもう来たくないなんて言うかもよ」
 小声でユカが綾子に言うのが聞こえた。

 僕は怒る気力も無い。
 智香が僕にポカリスウェットを持ってきてくれた。

「少し休んだら、私と今度は練習してくださいますか?」

「ありがとう。うん。少し休んだら大丈夫だから」
 自信喪失でショックを隠し切れない僕だけど、智香の優しさで、少し救われ
た気がしていた。

 水分を補給して、20分ほど休んだ後、僕は智香と組んだ。

「今度は立ち技の後、寝技の稽古もしてもらっていいですか」
 いいよ、と僕は答える。

 智香も他の二人に負けず劣らず技の切れは抜群だった。
 あっさり投げられた後、寝技に入った。
 自分より小さく軽い女の子にあっさり押さえ込まれるのはやっぱり恥ずか
しい。

 懸命に彼女の腕を振り解いて立ち上がろうとする僕を、智香はすんなりと
背中側に回りこんで僕の首に腕を絡めてきた。

 絞め技か?体育の授業では危険だから絞め技は禁止だ。
 だから絞められたのは初めてだった。

 息はできるが、首に絡みついた彼女の腕は僕の頚動脈を絞め付け、血液の流
れを止める。
 目の前が暗くなる。ふわりと浮き上がるような感覚の後、すぐに何もわか
らなくなった。

「きゃっ。やったやった。おしっこ漏らしてる。さっきのポカリが効いたかな」
 ぼんやりした意識の中、声が聞こえていた。
 この声はユカかな?漏らしてるってなにを?

「智香、やるわね。あったまいー」
 今度は綾子の声?

 徐々に視界が開けて、感覚が蘇ってくる。

 股間が冷たい。こんな感じは小学生のころおねしょをしたとき以来だ。
 おねしょ?
 それまでゆっくりだった僕の思考回路がやっと普通に働き出した。

 周囲には道場の人たち全員が集まって、畳の上に倒れている僕を見下ろし
ていた。
 そして恐る恐る股間に手をやると、濡れた感触が当然のようにかえってきた。

「気が付いた?前崎さんに絞め落とされたんだよ。落ちたのは初めてでしょう。
おもらししちゃったね。気にしないでね。落ちた時はたまにあることだから」
 麻生さんが僕を覗き込んで言った。

 僕は混乱してしまってすぐに起き上がろうとするけど、うまく起き上がれない。

「大丈夫?」
 そう言って手を貸してくれたのは、僕を絞め落とした智香だった。
 手を振り払おうかと思ったが、恥の上塗りみたいな気がしたので素直につ
かまった。

 後で、記憶を整理してみると、智香達3人で共謀して僕を辱めた事は明白
だったが、この時は記憶も朦朧としていてそれに気付かなかったのだ。

 綾子は濡れた畳を雑巾で拭いていた。

 クスクス笑いを漏らしながら。




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受難の時
放射朗
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