ハッピーエンドでは終われない

城谷詠人

 

 5


 ビールをジョッキ二杯飲んだところで、僕はトイレに立った。
 串焼きセットもほとんど食べ終えて、満腹の一歩手前状態だ。
 三つ並んだ男性用便器の左端に立つと、チャックを下ろす。
 そのとき、僕の右横に男が立った。
「よう。偶然だな。古い友達ってのは本当だったのかな、男と一緒だな」
 その声に驚いて顔を見てみたら頬を赤くした田上がにやりと笑った。
「なんだよ、まったく。嘘言うわけないだろ」
「別に、お前が不倫しようと関係ないんだけどさ」
「ならほっとけよ」
「でも、どういう友達なんだ?」
 詮索好きっていうのだろうか。友達にしたくないタイプだ。
 無言のまま僕は彼より一足先に便器を離れた。
 手を洗う。冷たい流水が心地よかった。
「大学のときの、倶楽部の先輩だよ」
 時間をおいて何とかこしらえた嘘を鏡の中の田上に向かって吐き出す。
「そうか? もっと歳離れてるように見えるけどな。あの人どう見ても40代後半だろ」
 確かに、大学の先輩では十歳以上離れているのはおかしい。
「俺が一年のときに、あの人は院生だった。三浪して入ったって言ってたかな」
 これなら八歳違い、何とかごまかせる程度だ。
「ふーん、何の倶楽部?」
「いい加減にしてくれよ。何でもいいだろ」
 田上を置き去りにして、僕はトイレを出た。
 
「おかえり、此処はもういいかな。腹も膨れたし、次行こうか」
 空のジョッキを指ではじいて荒木さんが言った。そして立ち上がる。
 僕はトイレから帰って座ることもなく出口に歩いた。
 トイレの方を見ると、田上が出てくるところだった。
 彼の向かうテーブルには、会社の事務の女の子が一人座っていた。
 こちらに背を向けてはいても、髪型などからぴんと来た。
 そういうわけか。

「どうする? ローズビーズにいくかい?」
 店を出たところで荒木さんが聞いてきた。
 そうだ、会計。
 僕は田上に気を取られて知らん振りだった。
「あ、すいません、さっきの、いくらだったんですか」
 間抜けに財布を出しながら聞いてみるけど、残念なことに予想通りの答えが返ってきた。
「いいよ。俺が誘ったんだし」
 午後九時を過ぎているからか、人も少なくなっている。
 その中をエスカレーターに向かって荒木さんは歩き出した。
 いや、でも。と形だけの台詞を言いながら追従する僕はなんて滑稽なんだろう。
 女の子と付き合ってたときには、もっとスマートに、そう今日の荒木さんみたいにやっ
てた筈なのに。
 逆の立場になったことがなかったからか。
 自分でも嫌になる。

「そうだ、あの時、おでんが美味しい店の話してましたよね」
 横に並んだ僕は彼を見上げて言ってみた。
「ああ、そうだったね。行ってみるかい?」
「あ、今度は割り勘でお願いしますよ、言い出したのは僕なんだから」
「君がそうしたいのなら、そうしよう」
 彼の手が僕の腰にさりげなく回ってきた。
 周囲に見咎められないか、どきどきするが、あいにくというか幸運なことなのか、振り
仰ぐと空いたエスカレーターの後ろには誰もいなかった。

 アミュからローズビーズまでは、歩いて十分程度の距離にある。
 そのローズビーズから、話にあったおでん屋は近いはずだ。
 だったらアミュからも歩いていける範囲になる。
 思った通り、そのおでん屋はアミュからそう離れていなかった。
 此処まで来る間、荒木さんの腕は僕の腰に回ったままだ。
 もちろん、それまでには通行人に何回もすれ違った。
 僕はとても顔を上げることができずに、フードを目深にかぶって俯いていた。

「もう、変な目で見られてたでしょう」
 そのおでん屋に腰を落ち着けた後、僕は少し棘のある口調で言ってみた。
「いや、君が女性と思われたのかな。別に驚くような奴はいなかったよ」
「そんな。僕が女性に見間違われることなんかないですよ」
「君はスマートだし、肩幅も狭い、髭でも伸ばさない限り女でも通用するよ」
「冗談ばっかし」
 僕らの前に、焼酎のお湯わりと、おでんの皿が運ばれてきた。
「此処のおでん、面白いんだ。トマトのおでんだよ、これ」
「本当ですか、トマトのおでんなんてあるんだ」
 箸でつまんで見ると、皮のむかれた柔らかなトマトはするりと二つになった。
 小さな方のかけらを、息を吹きかけて冷ましながら口に運ぶ。
 おでんの汁のしみこんだトマトは口の中でとろけていった。

「美味しいですね。これ。トマトの味とおでんの汁が合うとは思わなかったな」
「そうだろう」
 にこにこしてる荒木さんは焼酎のお湯わりを一口飲んだ。
 僕も同じように一口飲む。
 大して酒量は多くないはずなのに、すっかりいい気分になってしまった。
「でも、あの店のお客さんって、結構ワンパターンですよね」
 僕は、これまで何度か通ったローズビーズで思ったことを言ってみた。
「というと?」
「ほとんどの人は髪は短く刈ってるし、あと、小太りの人が多いかな。それと丸顔」
「なるほど、そういうことか」
「もちろん、荒木さんは別ですよ、その三つ共にあってないのはあそこで見かけた中では
荒木さんだけでした」
「そのパターンには興味ないってわけ?」
「そうですね、もちろん外見よりは中身ですけど」
 言ってしまった後で少し後悔した。
 荒木さんの中身が問題って言ってるように聞こえるからだ。
「ゲイには短髪が多いよ。その方がもてるというのもあるし、好まれるんだろうな、男らしいから」
 普通の店にいるのに、ゲイなんていう言葉が飛び出してきたから、一瞬ドキッとした。
 一番近い客でも少し離れているから、多分聞かれることはなかったと思うけど。
 でも、男らしいからという理由にはピンとこなかった。

 男好きな人は、男らしい男が好きなのか?
 でも、女装したり、他の手段を使って女性らしくしてる男もいる。
 そういう人種が、男らしい男を好むというのならわからなくもないが、自分も男らしく
していて、男らしい男が好きというのは、理解するのが難しい。

「荒木さんも、やっぱり髪は短い方が好きなんですか?」
 僕の声は自然と小さな声になる。
 肯定されたら、僕は髪を切ろうかなとさえ思った。
「いや、俺はそんな好みはないよ。エイト君くらいが好きだな」
「ちょっとほっとしました」
「ということは、脈ありと思っていいのかな、これからも付き合ってくれる?」
「荒木さんの、お気に召すまま、です」
 僕はすっかり警戒心を解いてしまっていた。
 はじめの方は、もし荒木さんが悪い奴で、弱みをつかまれて脅されたら、なんていう思いも心の隅に
はあったのだ。

「じゃあ、これからの二人に乾杯」
 荒木さんがグラスを持ち上げた。
 すぐに僕も自分のグラスに手を伸ばす。
 カチンと、空中で音を立てたグラスの中身は、一気に二人それぞれの口の中に吸い込まれていった。


 店を出た後、僕らは雪のちらつく水の森公園を歩いていた。
 結局今夜はローズビーズには行かなかった。
 少し酔い覚ましして帰ろうという荒木さんに着いてきたのがこの公園だった。
 長崎港の見える場所まで行って、ベンチに腰掛けた。
「ちょっと寒すぎだな」
 荒木さんが前を向いたまま言った。
「この寒波が過ぎれば、少しは暖かくなるんでしょうけどね」
 言ってる僕の肩に、荒木さんの手が回ってくる。
 ぐいっと引き寄せられて、体が密着する。
「大事なことを聞き忘れていたけど、君はネコなんだよな」
 ネコの意味は、インターネットで仕入れた知識の中にあった。
 要するに男同士の恋愛で女役をする人のことだ。
 ここの恋愛というのはセックスをすることを意味している。
 ネコの反対がタチ。
 ネコのお尻にタチのペニスが挿入されるというのが、ゲイのセックスの標準タイプらしかった。
「少なくともタチではありません。だからネコってことになるんでしょうね」
「経験はまったくないのか?」
「はい。でも、お尻に……」
 酔った勢いで僕は何言ってるんだろう。
 はっとして、言葉が止まった。
「お尻は感じるんだな」
 聞き逃さなかった荒木さんがにやりと笑う。
「ええ、まあ」
 妻にも友達にも言ったことない話を、まだ二回しか会っていない男に話している。
 妙な気分だった。
 ぱらついていた粉雪がボタ雪に変わってきた。
 すぐに荒木さんの頭の上が白くなる。
 僕も同じだろう。

 周囲には何組かのアベックがいたが、寒いからあまり長居するものはいない。
 ちょっと風景を楽しんだ後は、それぞれが行きたい場所に戻っていく。

「この辺も変わったよな」
 荒木さんがふと話題を変えて、僕を覗き込むようにした。
 もしかしたら、と思って体が硬くなる。
 うつむく僕の顎に、荒木さんの冷たい指が触れた。
 そのまま上を向かされた僕の顔に、荒木さんがかぶさってくる。
 そこで眼を閉じた僕の唇が、ふんわりと包まれる。
 入ってくる舌を、僕は歓迎するように軽くかんでみた。
 初デートでキスか。
 ちょっと早い展開かな。
 でも女の子役も悪くない。
 キスの相手が同性だということに、それほど違和感がないのが不思議だった。
 以前なら絶対いやだと思っていただろうに。
 それくらい荒木さんが魅力的ということだろうか。
 それとも、僕が変わってしまったのか?

 まあいいか。人間は変わっていくものなんだから。

 長いキスの間、僕はそんなことを考えていた。




 NEXT