ハッピーエンドでは終われない

城谷詠人
 
 
三章 別離

 


 
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「片岡さんは元気してた?」
 風呂から上がって和室のパソコンのスイッチを入れてたら、後ろから響子の声が聞こえてきた。
 濡れた髪をタオルで拭きながら振り向いた。
 一瞬別人かと思った。
 いつもと雰囲気が違っていたからだ。
「ああ。もうすぐ退院するんじゃないかな」
 適当に返事して、奥の部屋の鏡台に向かって座る。
 ドライヤーのスイッチを入れて熱い風を長い髪に当てる。
 響子が近寄ってきてまた何か言ったが、風の音で聞こえなかった。
 スイッチを切ってみる。
「何か言った?」
「別に。何でもないんだけど、髪、伸びたね」
 今日はなんだか機嫌がいいようだ。妙にニコニコしてるのは、それとも何か買いたいものでもあるのかな。
「もっとのばしたい気もするんだけどね……でも、もう少しするとうっとおしくなって来るんだよな」
 再びドライヤーを当てようと持ち上げた時、長い方が素敵だよと、去り際に響子が言った。

 あまり想像したくない事だけど、彼女の今の雰囲気は新婚当初を思わせるものだった。
 響子の方からセックスのアプローチをしていた時の感じにそっくりだ。

 もし本当にそれが当たっていたとしたら、何年も僕からの誘いを拒否していたくせに、今更どういうつもりだ
ろうか。
 子供が成長して手が掛からなくなってきたからなのか?
 でも今更子供を作る気にもならない。
 響子は二人目がほしいのか?
 まだはっきりしないことだけど、ベッドに行くのが少し億劫になってきた。

 男を知ってからと言うもの、僕の女性に対する欲望は大幅に減退して、今や絶滅寸前の希少な感情とでも
言えるくらいだった。
 通勤途中で見かける女子校生の短いスカートからのびる白い足にもなにも感じなくなっている。

 以前、坂口みゆきから迫られたときも興奮より嫌悪感の方が強かった。
 つまり僕は既にバイセクシャルというよりもゲイの方に近いと言うことなのだ。
 もし響子が本気で僕を求めてきたら、僕はどうするのだろう。
 一瞬怒りがこみ上げてきた。これまでずっと僕を、いや僕の性欲を無視してきたくせに、僕がその煩悩から
やっと解放された頃になって、手をさしのべるなんて。

 彼女がさんざん無視してきた僕の性欲を、今頃欲しがっても、はいどうぞと差し出す気にはならない。
 いや、差し出すものが僕にはないかも知れないのだ。
 いつものパソコンタイムに、今夜のベッドタイムのことばかり考えてしまった。

 テレビの音で、午後11時のニュースが始まるのがわかった。
 修一は、すでに自分の部屋で寝息をたてている。
 敵機の襲来を阻むものはなにもない。
 対空放火の準備でもしておくか。
 僕はパソコンのスイッチを切ると、トイレに立った。
 居間を覗くと、こっちを見る響子と目があってしまった。

「もう寝るの?」
 響子の質問。一機目の敵機が早くも襲来してきた。
「今日は肩こっちゃってさ。ちょっと疲れたよ」
 洗面所に行き、黄色い歯ブラシに歯磨き粉を付けていると、後ろに響子の気配がした。
「お疲れ様だね。マッサージしてあげよか?」
 響子の手が僕の肩を掴むと、ゆるりと揉み始める。
 本当に肩が凝っていたのだな。
 素人のマッサージなのに、小さく声が漏れそうなくらい気持ちよかった。
「ありがとう。もういいよ、歯磨きするから」
 もっともんでもらいたいのは山々だけど、肩を揺すってその手を避けた。
「うん。結構こってるよ。ベッドでもんであげるよ」
 対空放火はあっさりかわされ、すぐに二機目が爆撃を始めた。
「同僚の子がね、整体に行ってきていろいろマッサージのやり方を教えてくれるのよ。それ、やってあげる」
 響子はそう言うとピンクの歯ブラシを使い始めた。

 身体的な接触は出来るだけ避けたいのに、拒む理由が見つからない。
 こうなったら成り行きに任せるか。
 もし僕が出来なかったとしても、男にはそう言うことが起こるのはよくあることで、一度の失敗くらいは責めら
れるほどのものではない。

 ただ、困るのは、今夜してしまったら、それでセックス氷河期が終わったものと響子が思ってしまって、今後
何度もアプローチして来るなんて事が考えられることだ。

 いや、きっとそうなるだろう。
 そうなると、一度きりの失敗ではなくなってしまう。
 まだ三十代も半ばだというのに、インポテンツということになれば、病院行けって言われるだろう。

 男が相手なら勃起すると知られるのも困る。
 
 でも、逆に考えてみれば、セックスできたならなにも問題ないという事でもある。
 
 ちゃんと出来るだろうか。
 こんな風に自問自答するのは今日何度目かな。




 
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