ハッピーエンドでは終われない

城谷詠人
 
 
三章 別離


 



  入り口は僕の左側になるから、右横のおじさんと話してる僕からは死角になっていた。
 こういった店では客が入ってくるたびに、先客は入り口に注目するものだけど、僕はあえて
振り向くことはしなかった。
 その客が僕の左横に座る気配がした。
 マスターが、お久しぶりと言いながら近寄ってくる。
「いろいろ忙しかったからね」
 左横の男の声がした。
 聞き慣れた声だった。
 僕は身体ごと左向きになった。
 モスグリーンのダッフルコートを椅子の背にかけてる男は、冬というのに色黒で、白髪
混じりの長髪の、そして僕の大好きな荒木さんだった。

「荒木さん……偶然ですね」
 思いがけないことに、僕はそんな事しか言えなかった。
「いや、偶然ってわけじゃないよ、エイトが来てることは知ってたから」
 お湯割りひとつ、とマスターに言ってから、荒木さんはお絞りを手に取った。
 右横のおじさんはとんびに油揚げ状態でいらついてるのがわかったけど、気にしないこ
とにした。

「知ってたって? どうして……」
 チラッとマスターを見ると、マスターは視線を白々しく左上に向けた。
 やっと僕にもわかってきた。
「メールもらったからさ。マスターに。君が一人で来ててやばそうだぞってね」
「やばそうだなんて。荒木さんは僕がいろんな男を知るのはいい事だって思ってたんじゃ
ないんですか?」
 ここで右横のおじさんが席を立った。どうやらあきらめたようだ。
「マスター勘定ね。じゃあ、またな」
 おじさんは僕の肩をひとつたたくと、わざとらしくひとつため息を吐いて店を出て行く。
 そのおじさんと入れ違いに、二人の客が入ってきた。
 時計は10時半をさしている。
 まだまだ客は増える時間帯だ。
「君はまだ何も知らないからね、いろんな経験してみることはいいと思うよ、でも、サー
キットを原付バイクで走るような危険なことはさせられないな」
「さっきのおじさん、やばい人だったって言うことですか?」
 荒木さんが僕からマスターに視線をはずした。
 マスターは入ってきた二人の客への応対で忙しそうだった。
「やばいって程じゃないかもしれないけどな、SM好きのかなりのサディストだって話だ
ったな」
 先ほどまで僕の右横に座ってて、僕の股間を触っていたおじさんがサディストだったと
は。人の良さそうなおじさんだったけど。

 SMっぽいプレイが好きな人は割りと多いと思うけど、そんな一般的な遊び程度じゃな
かったというのだろうか。
「軽く縛ってみようかってふざけて、相手がOKしたらぎっちり身動き取れないようにさ
れて、鞭やろうそくでいたぶられるって話。やってみたかったか?」
 痛いプレイはあまり好きじゃない。これは来て貰って良かったかも知れない。
 でも、今はひどい目に合ってみたい気もしていた。

「片岡さんとの事は聞かないんですか?」
 あんまり焼きもち焼きなのも困るが、まったく無関心なのもつまらない。
「聞いたら教えてくれるか?」
「何が知りたいですか? 何回くらいやったかとかですか?」
「そうだな、俺のときと比べてどうだったか、は知りたいかな」
 店内は適度にざわめいている。まだカラオケを歌う人は居ないから、話をするのにはち
ょうどいい環境だった。静か過ぎて声が響くこともない。

「荒木さんと比べて、ですか? あれの大きさとか? テクニックとかですか? そうですね、
荒木さんは紳士的な感じで、片岡さんは割りと自分本位だと思ったかな。だいたい荒木さ
ん僕ではいったことないじゃないですか」 
「それが不満だったのか」
「不満って言えばそうですよ。だって自分ばかりいかされるんじゃ、ね。荒木さんちっと
も満足してないみたいだし。僕じゃやっぱり駄目なのかなって思ってしまう。その点片岡
さんはしっかり僕の中にいってくれるから、満足してもらえたって思えるし、うれしいで
すよ」
「コンドーム使わなかったのか?」
 やばい、口が滑ってしまった。しかし今更言い直しもきかないか。
「いや、使ってって言おうとしたんですけどね、言う前に入れられたっていうか。痛くて
言いそびれたっていうか」
「しょうがない奴だな。病気うつされたらどうするんだよ。病気っていってもエイズだけ
じゃないんだぞ」
「そうかもしれないけど、あんまり気にしてたら何もできないじゃないですか」
「馬鹿、セーフセックスは基本なんだよ。知らない相手とするときはな。知り合って付き
合うようになったら一緒に検査にいくとかして確認するんだ。そうすりゃ後は好きなよう
にできるだろ」
「でも、荒木さん全然一緒に検査に行こうって言ってくれませんでしたよね、どうしてで
すか?僕と付き合ってる意識がなかったんじゃないですか?」 
 僕はかなり酔ってたんだろう。後になって、この夜の会話を思い出すとなんとも憂鬱に
なってしまう。

「エイトはまだこの世界に馴染んでないと思ったから。一緒にエイズ検査しようなんて言
ったら引かれるかって思ったんだ、要するに逃げられるかってね。怖かったんだよ」
 荒木さんがそんなことを怖がってるなんて思ってもみなかった。
 いつもクールに僕を手のひらの上で泳がせている感じだったのに。
「じゃあ今度一緒に検査してみましょうか? でも、僕はもう感染してたりして」
 そうだったらその場でさよならだな。
「仮にエイトがエイズだったとしてもかまわないさ。これまで通りだ。好きなんだから」
 ぐっと来る言葉だったけど、素直に喜べなかった。
「口では何とでも言えますからね。だいたい僕がエイズの可能性なんてゼロに近いって思
ってるだろうし」
「なんだかすでに自分は感染してるって思ってるようだな」
「片岡さんが最近調子悪いんですよ、エイズかもしれないなんて言うし」
 僕の理性はほとんど崩壊状態だった。泣き崩れる一歩前だったかもしれない。
 グラスを見つめていた僕の顎がつかまれて、荒木さんの方にぐいっと向けられた。
 え?っと思ってると、荒木さんの顔がかぶさってきた。
 ねっとりとした唇がかぶさる。
 あっと言おうとした僕の口に荒木さんの舌が差し込まれてきた。
 絡まりあう舌は全身の感覚を一点に集中させて興奮を高める。
 きゃーやるう、という歓声が後ろの方で聞こえた。
 息が苦しくなるちょっと手前で、荒木さんが離れる。

「今の医療は進んでるよ。仮に感染してもそう簡単には発病しない。それにこれくらいの
事は平気でできるんだ」
 荒木さんの手が離れて、僕はその反動で後ろにずっこけそうになった。
 バランスをとろうとして失敗した。
 僕の右横には誰もいなかったから身体を支えるものがなくなっていた。
 派手な音を立てて、後ろのテーブルに倒れこんでしまった。

「あらー、エイト君大丈夫? 怪我しなかった?」
 マスターがカウンターを回って走り寄って来た。
「すいません、ちょっと酔ったかな」
 僕は差し出された荒木さんの手にすがって身体を起こす。
「マスター悪かった。これで二人分、つりはいらないから、ここの人たちにお詫びに一杯飲
んでもらって」
 こぼれたお冷の水を手ではらってると、荒木さんが一万円札を一枚出してテーブルに置
いた。
「じゃあ行くぞ。一人で歩けるか?」
 荒木さんは僕のかばんを持って、反対側の手を僕の脇に入れてきた。
 楽に歩けるつもりだったけど、意外とそうでもなかった。
 小船にでも乗ってるように地面が揺れていた。
「すいません、マスターまた来ますね」
 ふらつく足取りでマスターに手を振って、僕は荒木さんと一緒に店を出た。





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