ハッピーエンドでは終われない

城谷詠人
 
 
三章 別離


 



 狭い階段を上って、黒いドアを手前に開いた。
 あらーいらっしゃーい、という明るい声が聞こえてくる。
 華やいだ雰囲気に、片岡さんの家での忌まわしい話題が解けていけば良い。
 僕は手前の空いたカウンター席に座った。
 客の入りは、日曜の夜ということを考えれば普通だろうか。
 カウンターに5人の客が座っていた。
 よく見かける人が三人、後の二人は始めて見る顔だった。
 年齢は40代から50代くらいか。
 
「エイト君いらっしゃーい。久しぶりね。元気だった?」
 髭のマスターのおねえ言葉にももう慣れている。
 初めてのときは違和感を持ったものだけど、今はむしろ耳に心地よかった。
「ええ、まあ。何とかやってました」
 僕は適当に答えて、焼酎のお湯割を頼んだ。
 響子には、残業の後、同僚がいたら一緒に飲んでくるかもしれないからと言ってある。
 車は職場のガレージに置いて帰るつもりだった。
 マスターがお絞りを僕の前に置く。
 蒸されて暖かいお絞りを目に当てる。
 ふっと疲れが取れる気分だった。

「カタさんも元気にしてる?」
 片岡さんと僕の関係は言ってあったかな。
 記憶を呼び起こすが、片岡さんと二人でここに来たことはなさそうだった。
 でも、片岡さんが一人で来て話した可能性はある。
「元気みたいですよ。先日一緒に銭湯行きました」
「あらいいわねー、カタさんと一緒なら変なおじさんに触られないですむわね」
 マスターが僕の前に焼酎のお湯割を置いた。
 突き出しのゴマ豆腐と野菜が美味しそうだった。
 暗めのオレンジ色の光に照らされた店内は、落ち着いたBGMの効果もあって気分が和
らぐ。
「今度褌パーティーするんだけど、エイト君も来ない?」
 マスターが顔を近づけてささやいた。
 いつもならいきなりの事に咳き込みかねない台詞だけど、今日はそれ程驚きもしなかっ
た。
「ふんどしですか。いつやるんですか?」
 年に二回くらいそんなパーティをする店が多いというのは、ネットで店の情報を眺める
うちに知っていた。
 ローズビーズでもやることがあるというのは初耳だったけど。
「二月の10日よ。土曜日。よかったらどうぞ。褌持ってないでしょうからお店の貸すわ
よ。新品だから安心してね。もちろん締め方は教えてあげるから」
 褌といえば、夏祭りの男たちの装いを思い浮かべる。
 特別な興味はなかったが、ちょっと面白そうだと思った。
「兄ちゃんもこんね。面白かばい。全員褌やっけん恥ずかしくもなかよ」
 僕の右に座っていた白髪のおじさんが細い眼をさらに細めて雑誌を広げて見せた。
 ゲイ雑誌のピンナップが現れる。
 褌姿で肌黒、筋肉質の男が、腕を組んで胡坐をかいてる写真だった。
「そうですね、面白そうですね」
 僕が答えると、そのおじさんはひとつ奥の席から僕の真横に近寄って来た。
 ジャケットはブランド物のいいものだったし、割とリッチなおじさんのようだ。
 背丈は同じくらいだけど、体重は20キロほど僕より重そうだ。
 要するにがっちり体型でやや太目のおじさんだった。

「ちょっと意外だわーエイト君が褌はいてみたいとはねえ」
 僕の隣のおじさんのグラスにマスターがビールを注ぐ。
「人生一度きりですからね。どんなこともやってみないと」
 その一度きりの人生が、もしかしたら10年くらいしか残りがなくなってるかもしれな
いのだ。
 今までの僕よりも残り時間が少なくなってることで、焦りにも似た気持ちが僕にそんな
ことを言わせたのだろう。
「そうさ、人生一回たいね、思いっきり遊ばんばあ」
 おじさんが僕の肩をとんとんとたたく。
 軽いスキンシップで相手の反応を見てるのだろう。
 嫌がってる風でなかったら、徐々にエスカレートしていくのだ。

「おじさん、結婚はしてないんですか?」
 普段ならこのおじさんのように50代後半の人とはあまり話しをすることはない。
 嫌ってるわけではないが、あまり年齢が離れてると話題が合わないからだ。
 でも今夜はいろんなたがが外れてる気がした。
 もしHIVに感染していたとしたら、もう怖いものなしなんだから。
 投げやりな気持ちがミルクさんに気づかれたのだろうか、その後ミルクさんはトイレへ
と席を立ったが、その時に送ったのだろう。
 
「結婚? そんがんとすんもんね。男とならしてもよかばってんね。あんたは女も好きとね」
 かなり飲んでるようだ。ペースが速い。
 空になったグラスに彼のビンからビールを注いでやる。
「今は別にって感じですけどね。以前は女好きでしたよ」
 僕の言葉に大げさに驚いたおじさんは、茶色いセーターの内側の胸ポケットからタバコ
を一本取り出した。
 ラークマイルドのようだった。
「あ、タバコは吸わんと? 吸うてもよかかな」
「いいですよ、どうぞ。あ、よかったら僕にも一本もらえますか?」
「なんね、タバコ切らしとっとね。どうぞ」
 彼の持っていたタバコを受け取った。
 十年以上止めていたタバコだった。
 咳き込まずに吸えるかな。
 今ではすっかり嫌煙家になっていたんだけど。
「あら、エイト君タバコ吸わないんじゃなかったの?」
 マスターがおじさんに新しいビールを出した。
「まあ、いいんじゃないですか? 別に吸わないって決めてたわけでもないし。肺がんで死
ぬのもエイズで死ぬのもおんなじ様なもんだし」
 僕も少し酔ってきたんだろうか。エイズなんて言葉をこんな場所で出すなんて。
「おう、肺がんはともかくエイズは勘弁してほしいわね。世間体ってものがねえ」
「やっぱりミルクさんも気になるんですか」
「そりゃそうよ。人間は社会的な動物なんだから。おかまだって社会的よう」
 そう言った時、奥から呼ばれたマスターは、手で合図をして奥に向かった。
「エイズってのは冗談やろ、めったにそんがんなるもんじゃなかしね」
 おじさんの左手が、僕の右の太ももに置かれた。
 緩くさすってくる。
「もちろん冗談ですよ。僕は去年の冬まで男っ気ゼロだったんだから。いや、女からだっ
てそりゃうつるかも知れませんけど、不特定多数の女の人と関係したわけでもないし」
「そいなら心配することなかたいね。兄さんは入れてもらうとが好きと?」
「そうですよ。たくましい男の人に抱かれるのが好きなんです。めちゃくちゃに後ろから
突きまくられるとか」
「それは素晴らしかね、俺のぶっといのば試して見らんね?」
 おじさんの左手が動いて僕の股間を触りだした。
 抵抗するでもなく好きにさせていると、彼の脂ぎった大きな顔が僕にすっと近づいてき
た。
 キスされるのは困るから顔を背けると、髪の毛をあごで避けるようにして首筋をなめら
れた。
「ここ出てホテルに行こうか?」
 しばらくは触ることで満足してたのだろうが、おじさんはそれ以上のことが可能だと判
断したようだった。
 その言葉はそれまでとは打って変わってはっきり聞こえた。
 どうやらそれまでは酔ってる振りをしていたらしい。

 どんよりしていた目つきが、引き締まった鷹の目に変わっていた。
 このおじさんはどんなセックスをするのだろうか。
 体つきは太めだけど、結構筋肉質にも見える。
 駄目ですよと言わなきゃと思ったが、股間を握られて、まるで人質をとられているかの
ようだった。
 行きましょうか? と言った僕の声は、唇から確かに出て行ったのに、店のドアが開いて、
マスターのいらっしゃいの声に打ち消されて、おじさんの耳までは届かなかった。
 




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