ハッピーエンドでは終われない

城谷詠人
 
 
三章 別離


  



 家に帰ってくると、すぐに僕はエイズのことをインターネットで検索した。
 わかりやすい説明のあるホームページを見てみる。
 エイズの病態について、目新しいこととしては、感染初期症状というのを見つけた。
 HIVに感染すると、感染した2〜4週間後に風邪の症状に似た不調を訴えることがあ
るらしい。
 微熱にのどの痛み、筋肉痛といった、インフルエンザに似た症状が書いてあった。
 インフルエンザの軽いものという感じだ。
 片岡さんとセックスしたのは11月半ばだった。
 ということは感染したのだとしたら、初期症状が出るのは12月半ばから終わり頃とい
うことになる。
 僕はこの冬は特に風邪をひいてはいなかったはずだ。
 エクセルでつけている、小遣い帳兼日記も見てみる。
 その中に気になる書き込みを見つけた。
 12月27日の記録の中に、風邪の引きはじめか、身体がだるいというのがあったのだ。
 次の日には何も書いてないから、一晩寝たら治ったのだろう。
 しかし、この時期体調が悪かったのは事実のようだ。
 寝込むほどの体調不良ならはっきり覚えてるだろうが、ちょっとだるい程度のことはす
ぐに忘れてしまう。

 感染初期症状というのが、どの程度の不調なのかはっきりしないし、それに人によって
はその症状がほとんどないこともあるようだから、判断しようがないが、不気味な芽はし
っかり根を張って、次第に伸びてくるように思えた。

「どうしたの? 真剣な顔して」
 響子がいつの間にかそばに居てモニターを覗き込んできた。
 エイズのことを調べていたらまずかったが、エクセルを開いてるときだったからあわて
ずにすんだ。
「なんでもない。晩御飯できたの?」
 ノートパソコンを閉じて席を立つ。
「ごめんもうすこし。今日は肉じゃがとてんぷらだよ」
 口の端をにっこり引き上げて響子は部屋から出て行った。

 響子はまだ何も知らない。
 もし彼女が、僕のこの一年を知ったならどう思うだろう。
 知られないようにするのはそれほど難しいことだとは思っていなかった。
 男同士の付き合いなんて、友達だといってればすむことだ。
 キスやセックスしてるところを見られない限り、いくらでもごまかしようはある。
 メール見られるのはまずいけど、見られてまずいメールは今のうちに消しておけば良い。
 待ち合わせメールなんかは気にするほどのこともない。
 でも、僕がHIVに感染していたら、その理由をどう説明すれば良いのか。
 確かにHIVは同性愛以外のセックスだって感染する。
 しかし、病院勤務でもしていない限り、セックス以外でうつる事はまずありえない。
 女との浮気にしろ、男との浮気にしろ、浮気したことはごまかしようがないのだ。

 だとしたら、男との浮気と女との浮気は、どちらが響子にとってダメージが大きいだろ
うか。
 女との浮気なら、ごくありふれた話だ。
 もちろんそれが離婚につながることもあるが、世間一般論として『浮気は男の甲斐性』
という言葉さえあるくらいに、普通のことであり、一回だけのことなら許される可能性の
ほうが高い。
 その所為でHIVに感染したとしたら、かなりきつく責められるだろうが、運が悪かっ
たですむかもしれない。

 しかし男との浮気の場合は、どうだろう。
 逆に考えてみよう、もし響子が男ではなく同性の女と浮気関係にあったとしたら。
 僕は嫉妬に狂うだろうか。
 想像してみると、意外なほど腹が立たないことに気づいた。
 これはうちの夫婦がすでに気持ちが離れているからだろうか。
 しかし、やはり男と浮気されるのは嫌だ。
 自分を否定されることなのだから。
 僕よりも、別な男の方が良いということは、そういうことになる。
 でも響子の浮気相手が女だったら、何だ、そんな趣味があったのか、と思うくらいかも
しれない。
 自分は女にはなれないんだから、響子の欲求を満たしてやることなんか最初からできっ
こなかったのだと、すがすがしいあきらめに至るかも知れないのだ。
 響子も僕に対して同じように思ってくれるだろうか。
 女との浮気なら、自分を否定されることで悔しいけど、ゲイだったのなら、まあ仕方な
いわねと。

 今の時代の日本は、割と同性愛に寛容だ。
 ゲイだからといって、あまりひどく人格を疑われるようなことはないようだ。
 もちろん毛嫌いされる場合もあるだろうが。
 法律で罰されることもなければ、市中引き回しの刑にもならずにすむ。

 だいいち、響子が拒否してセックスレスになってるのだ。
 その事も含めて考えれば、僕が同性愛に走っていたとしてもそれほど責められる事では
ないかもしれない。
 いや、そう思えばいいのだ。
 とは言っても、そう簡単に思い込むこともできない。
 ふとローズビーズのマスターの顔が浮かんだ。
 ミルクさんだったな。名前で呼ぶことはまったくなかったから、忘れるところだった。
 
 マスターの髭の生えた丸顔を思い浮かべると、無性にあの店で飲みたくなってきた。
 夕食済ませたら行ってみよう。
 残していた仕事をちょっと片付けるという口実で、出るのはそう難しくないだろう。
 自分がHIVにかかっているかどうかという不安よりも、響子に責められることの不安
の方が大きかったのだとそれで気づいた。
 ぐったり落ち込んで、家にこもっていたいと思っていた気分が、ローズビーズに行って
みようという気持ちにまでなったのだから。





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