ハッピーエンドでは終われない

城谷詠人
 
 
三章 別離


  2
 
 
 車を片岡さんの家の車止めに入れる。
 周囲をコンクリートで固めた一角には、ハーレーがだるそうに身体を休めている。
 途中のコンビニエンスストアで買ったビニール袋を一つ持って、山の上のきりっと冷え
た空気の中に出る。
 いつもは僕の来る時刻には玄関から出て見下ろしている片岡さんの姿が今日は無い。
 まだ寝ているのだろうか。
 僕はコンクリートの階段を上って一軒家の玄関前に立った。
 ブザーを一つ押してみる。
 家の中で人の動く気配は無かった。
 やはり連絡してからくるべきだったか。
 ジャケットのポケットから携帯電話を取り出す。
 アドレスを開いて、片岡さんの番号を出そうとしていたら、家の中から物音が聞こえた。
 ガラス戸の奥に人影が近づいてくる。

 ガラス戸が左に引かれて開いた。
 男が立っていたが、一瞬誰かわからなかった。
「片岡さん?」
 心細い自分の声が冷え切った山の空気を震わせる。
「うつすとまずいと思ったんだけどな、まあ上がれよ」
 二週間ぶりに会った片岡さんは、頬が落ち、目の下にはくまもできていた。
「大丈夫ですか? ずいぶん顔色悪いですよ」
 咳き込む彼の背中をさすってやりながら、靴を脱いで家の奥に入る。
 居間の手前の和室には布団がしかれたままだった。
 今までそこに寝ていたのだろう。
「寝ててください。薬は飲んでますか?」
「いや、薬ちょうど切らしててな」
「薬買ってきますよ。とりあえずドリンク剤買ってきてるから、これ飲んでいてください」
 僕はコンビニの包みを渡すと再び玄関から出て、車に乗り込んだ。
 
 狭いコンクリート道路を上り、いったん住宅街に出ると、繁華街の方に下りていく。
 その間も片岡さんの憔悴した顔が浮かんでいた。
 あれは11月の半ばか、終わりころだったろうか、僕をバイクでさらって行ったのは。
 海岸での不良たちとのバトル。
 あの時はあんなに生き生きしていたのに。
 腕っ節には自身のあった片岡さんが、今では頬をこけさせている。
 ただの風邪とは思えなかった。ほんの一週間程度寝込んだくらいで、あそこまでげっそ
りなるとは思えない。
 何か悪い病気で無ければいいが。

 とりあえず薬局で総合感冒薬を購入すると、再び引き返す。
 高台に上りきったところから、片岡さんの家に下りようとするとき、白いものが空から
落ちてくるのが見えた。
 雪が北風に吹かれてフロントガラスに舞い降りてくる。
 ちらつく程度で視界は妨げられない。
 路面に落ちた雪も、すぐに解けていくから、帰りの心配はすることも無いだろう。

 片岡さんの家に戻りついた。
 家の中に入ると、暖かい空気に全身がいっかいぶるっと震えた。

「悪いな。コーヒーでも入れて飲んでくれよ」
 玄関まで迎えに出てきた片岡さんを、急いで布団の部屋に戻す。
「出てこなくていいから、コタツに入っててくださいよ。薬、これ飲んでください、いま
水持ってきますから」
 台所でコップに水道の水を汲むと、それを持っていく。
 窓の外は遠くに海が見える。
 雪はさっきよりも強く振っているようだった。
 まだ昼間だというのに、周囲は夕闇が落ちてきたみたいに薄暗くなっている。
「雪、ひどいな。帰り大丈夫か?」
 片岡さんが腫れぼったい瞼をぴくりと上げた。
「何とかなりますよ」
 口ではそう言いながらも、ちょっと不安になってきた。
 車を運転していたときよりも、断然雲が厚くなってきている。
「帰れなかったら泊まって行っていいぞ。布団、もう一組あるし」
 片岡さんの言うのがなんとなく現実味を帯びてくる天候だった。
 かと言って、それでは早めに帰り支度をする気にもならない。
 こんな具合悪そうな人を一人きりで放っといて帰るのは非人道的にも思える。
「いつから風邪引いてたんですか? メールでは特に不調訴えて無かったですよね」
「ここんとこ下痢が続いてさ。あんまり飯も食う気が起きなくて、一日一食程度だったな」
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「この不景気でさ、工場も稼働率がぐっと減ったんだよ。半月前から休みだ」
「え、工場が止まってるんだ、じゃあ、給料減っちゃいますね」
「まあな。減給くらいですめばいいが、下手すりゃリストラだ」
 なんと返事していいか判らない僕は、コーヒーのマグカップを口元に持っていった。

「ひょっとしたら」
 言いにくそうに片岡さんが言葉を止めた。
「何ですか?」
 片岡さんがリストラされたらどうなるだろう。
 すぐに次の職が見つかれば問題ないが、この不景気の時期に手ごろな職が速やかに見つ
かるとは思えない。
 蓄えはあるのだろうか。
 僕が少し援助しないといけなくなったりするかもしれない。
 そんなことを思っていたら、片岡さんの口からまったく予期しなかった言葉が飛び出し
てきた。
「ひょっとしたらさ、俺、エイズなのかもって思ったんだ」
 エイズ?
 人免疫不全症候群のことか?
 片岡さんがエイズ?
 もしそうだったら、確かに同性愛暦の長い片岡さんならHIVに感染していても不自
然じゃない、そうなのだったら、その片岡さんとすでに5回以上生でセックスしている僕
は感染していないわけがない。
「ちょっと待ってくださいよ。初めてのとき、コンドーム付けてくれなかったから、僕が
そのこと言ったら、自分はエイズじゃないって言ってましたよね。検査もしたって言わな
かったかな」
 脱力感で膝が震えてしまう。
「検査したなんていったかな? ごめんな、もちろん決まったわけじゃないぞ」
 そんな馬鹿なと大声上げたい気持ちはあったが、顔色の悪い片岡さんを目の前にしては、
声が出なかった。
 エイズの症状はどんなだったかな。
 一頃大きく騒がれていたが、最近ではニュースでもほとんど見かけないから、気持ちの
中からエイズになるかもしれないという危機感が完全に抜け落ちていた。
 確か免疫が壊れるのだから、普通の人にはたいしたことない細菌やウィルスに抵抗力が
なくなって珍しい病気になるのだったはずだ。
 カリニ肺炎やカポジ肉腫という単語が浮かんでくる。
 もちろん普通の風邪にもかかりやすくなるだろう。
 
 もしHIVに感染していたら。
 それまで片岡さんを心配するだけだったのに、一気に僕自身の問題になってきてしまっ
た。
 片岡さんのつけたテレビが天気予報を知らせ始める。
 長崎県南部地方は夜から朝にかけて大雪の恐れがあるでしょうということだった。
 普段なら、明日の通勤を心配するところだったが、今はそんなこと気にもならなかった。




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