ちくり屋
 1


 理事長室から出るなり、かみ殺しきれなかった笑みを岡持は口元に浮かべた。
 ひょっとしたら自分にぴったりの役どころかもしれない。
 もとより他人を観察する事は嫌いではないし、噂話に聞き耳を立てることはいつもの事
だ。看護部にも気楽に話せる仕事仲間が多いから、情報収集はたやすい事だ。
 緑色のリノリウムの床を見つめながらエレベーターの所まで行くと、彼は一つしかない
下向きのボタンを押した。
 そして六階建ての病院ビルの最上階にある理事長室での出来事を反芻する。
 奥にシャワールームまである18畳ほどの理事長室はワインカラーのふかふかのじゅう
たんが敷いてあり、その一角に置かれたソファはイタリア製の高級品だった。
 その日いきなり理事長室に呼ばれた岡持は、その三人掛けソファに緊張の糸を張り詰め
させて座っていた。

「まあ、そう緊張しないでいいからさ」
 去年、前理事長が死んでその後を継いだ、まだ40代後半の新理事長は丸顔にとって付
けたような笑顔を浮かべて岡持の前に腰を下ろす。
 彼は前理事長の一人息子だった。
 理事長の横には、彼と同じ時期に就任した、ほぼ同年代の田原事務局長がグレーのスー
ツ姿で腰掛けた。
 何か失敗でもやらかしただろうかと、二人の言葉にびくついていた岡持は、予想に反し
て二人が和やかな表情だったので、すこしだけ緊張の糸を緩める。

「今日来てもらったのはね。新しい委員会をひとつ作ろうと思っているんだけど、その委
員会に君に入ってもらいたいと思ったからなんだよ」
 新理事長、弓永悟は職員と話すとき、とても気さくな話し方をする。
 その事は歓迎会などで充分皆に知れ渡っていた。背は高くないがスポーツマンらしく、
がっちりした体型で、姿勢もよく、フットワークがとても軽く見える。
「委員会ですか。もちろん異存はありませんが、どういった委員会でしょうか」
 岡持の頭の中でいろんな情報が飛び交っていた。
 しかし、その新しい委員会の情報は全く聞いたことがなかった。
「リスクマネージメント委員会というんだけどね。病院内の人的リスクを最小限に押さえ
るために今度作ろうと考えてるんだ」
 リスクマネージメントか。最近よく聞く言葉だが、その委員会を作るというのに、何も
こんな風に自分だけ呼びつけることないじゃないか。まるで秘密の会合のように。岡持が
怪訝な表情で考える様子を勘違いした田原局長が、リスクマネージメントの意味を詳しく
説明し始めた。
 そのくらいわかっている。ばかにするなと言いたかったが、岡持は感心するように、田
原の言葉に何度も相槌を打った。

「それで、委員会のメンバーは僕だけなのですか、他のメンバーは……」
 説明が済んだころあいを見計らって岡持が聞いた。
「まあ、その事はちょっと置いておいて。君の役割なんだけどね。人的リスクを最小限に
押さえるためには、職員のことをよく知る必要があるわけだ。でも私達は現場にはいない
からね、噂話さえ伝わってこない。そこで、現場の情報を君が集めて私達に教えてもらい
たいんだ。もちろん委員会でがんばった分は賞与で埋め合わせするつもりだよ」
 弓永の言葉に岡持は驚いた。自分をスパイに仕立てようとしているのだ、彼らは。
 でも、どうして自分に白羽の矢が当たったのか。ただの偶然だろうか。
 しかし、これはチャンスかもしれない。邪魔な奴を蹴落とすのにこんなに良いポジショ
ンはないじゃないか。いろんな思惑が岡持の頭の中を行き来する。

「もちろんやってくれるよね」
 女に甘えるような弓永の言い方には閉口したが、岡持は笑顔ではいっと一声答えた。
「でも、メンバーは僕だけじゃないんですよね……」
 岡持の言葉には、すでにリスクマネージメント委員としての責任と義務が宿ってでもい
るようだ。
「もちろんだとも。君に検査室、薬局、事務室、レントゲン室を担当してもらって、あと
は看護部担当を2名ほど用意するつもりでいるよ。でもメンバーはお互いに知らない方が
いいと思うんだ。まあこっちの都合だけど……」
 どういう都合なんだか。
「わかりました。僕の担当では看護部は入ってないんですね」
「看護部の事も何かわかったら教えてくれていいんだよ。主に自分の担当を気がけていて
くれということで……」
 
 話は終わった。結局お茶一つ出なかった。最初の報告は来週のこの時間にまた此処に来
てくれと言われ、岡持は理事長室を後にしたのだった。
 ふと見るとエレベーター脇に置いてある観葉植物の葉に緑色の鮮やかな芋虫が一匹乗っ
ていた。体長は優に7センチはある。アゲハチョウの幼虫だった。
 岡持はそれをひょいとつまむと、ハンカチに包んでポケットに忍ばせた。
 理事長室の良く効いたクーラーの冷気で冷やされたせいか、身体がびくりとふるえて、
ひとつクシャミが出た。
 臨床検査室に戻る途中、階段で事務員の荒木百合とすれ違った。
 彼女は岡持のお気に入りだった。まだ20代前半で、胸は小さいが腰のくびれがぐっと
来る。何とかしてお茶でも誘いたいと常々思っていたのだ。
 お疲れ様です、と声かけるだけで通り過ぎようとした百合を、岡持は呼び止める。
 ポケットからハンカチを取り出す。
「さっき、六階の観葉植物にこれが居たんだよ。虫取り、ちゃんとしないと駄目だよ」
 岡持がハンカチを開いて百合の目の前に大きな芋虫を差し出す。覗き込んだ百合は短い
悲鳴をあげてのけぞった。その拍子に足が滑って階段を滑り落ちそうになる。
 危ない!
 とっさに叫ぶ岡持の手はハンカチを放り投げて百合の身体を抱きしめた。
 ずっしりした量感のある百合のお尻をぐっと握り締めた。
「あ、すいません」
 百合はとっさの事に混乱して、慌てて手すりにつかまると身体を離した。
「びっくりしたよ。転ばなくて良かった。じゃあ、こいつは殺すのもかわいそうだから、
前の公園にでも逃がしておくから」
 百合のお尻をさわれたことで上機嫌の岡持は、ハンカチと芋虫を拾い上げると、百合に
手を振って階下に向かった。
 事務も担当だという事は、あの百合も自分の担当という事だ。
 これは面白い事になってきた。毎日の単調な仕事に飽きていた岡持にとって、今日の事
は久しぶりの事件だった。



 2


 しかしどんな事を報告すればいいのかな。
 一週間はあっという間に過ぎ去り、再びやってきた金曜の午後四時だった。
 この一週間の出来事を思い出してみた。
 特に変わったこともないし、変わった噂も聞かなかった。
 せいぜいレントゲン室の時田が待機手当ての減額に愚痴を言っていたくらいだ。
「そりゃ今までの日曜待機料八千円は、他の病院と比べたらかなりいいほうだと思うけど、
いきなり四千五百円は無いよな。これで一月当たり一万四千円の減棒だよ。年間だと十六
万八千円も安くなる。これだけあればちょっとしたパソコン買えるくらいだもんな」
 時田は三十過ぎなのにまだ独身で、新人看護婦の味見をするのが趣味だなんてうそぶい
てる男だ。岡持の嫌いな同僚の一人だった。
 たいして美男子でもないのに新人看護婦がころりといくのが岡持には不思議でならない。
 ここに就職する女は見る目が無いよ、俺みたいな好男子がいるっていうのに。しかも俺
の方が二才も若いのに。時田の顔を思い出して、やや不愉快な気分になる。

 レントゲン室は技師が一名、助手が二名で業務にあたっている。
 一般撮影室とCT撮影室、それに透視室がある。できるだけ技師の時田が検査につくが、
検査が重なった時は助手が機械の操作についている。助手には、佐々木という若い男が一
人と、井上という中年女性のパートが一人いた。
 技師の免許を持たない者が人体に放射線を人体に照射する事は違法な事だが、他の病院
でもよくあることだし、特に歯医者なんておおっぴらに看護婦が撮影する医院がほとんど
だ。
 岡持の勤務する弓永クリニックが特別というわけではなかった。
 だが、もちろん内部告発などされたら、経営陣がかなり痛い目を見ることは明らかだ。
 経営陣もだが、放射線室の責任者である時田もダメージは大きいだろう。
 実は岡持は以前、時田を懲らしめたいばかりにその事を監督官庁に告発する計画を練っ
た事があった。しかし、どうしても病院そのものの損失が計算できなくて、あきらめたの
だった。
 まさかそんな事は無いと思うが、病院がつぶれたりしたら、自分自身の職場も失う事に
なる。そんなことを考えていたら、報告すべき事柄が見えてきた。
 岡持は思わずスキップしたい気持ちで六階のフロアーに踏み出した。

 イタリア製のソファは、おしゃれでしかも座り心地もなかなか良かった。
 先週は緊張していて、そんな事にも気付かなかったのだ。岡持は前回よりも深めに腰掛
けると、軽く背もたれに寄りかかってみた。
「やあ、待たせたね。それではリスクマネージメント会議を始めようか。田原書記いいか
な」
 弓永理事長が奥のデスクから岡持の方へ近寄ってきた。面会に来た者は、とりあえず待
たせるのが威厳を保つ秘訣だとでも思ってるのだろうか。
 見ていたが大した用事もなさそうだった。
 その後から田原事務局長も早歩きで来る。
 この局長は完全に理事長のチョウチン持ちだ。
 理事長に直接声をかけられてこの病院にやってきただけに、理事長に意見するなどまる
で出来そうに無い。
 岡持は先週と比べて、二人に対して自分の方がなぜか優位にいるような気分になってい
た。なぜだろうか。内部告発するに足る資料を持っているからだろうか。
 それは確かにあるだろう。おいそれとは俺をクビにするなんて出来ないはずだ。
 それに加えて、スパイを使うなどと卑劣な行為をこの二人が職員に対して行っていると
いう秘密まで握ってしまったのだ。
 だからだな、きっと。岡持は目の前の二人に気付かれないようにそっとうなずいた。


 3


「それでは報告を聞こうか。岡持君どうぞ」
 弓永の言う横で田原は小型の機械のスイッチを入れた。
 録音までするのか。その機械はテープの要らない録音装置だった。
「ええと、先週はたいした事無かったんですが、ううん、こんな事報告する価値あるのか
なあ……」
 岡持は言いにくそうに首を傾げたりしてみた。もちろん演技だった。
「なんでもいいんだよ。こっちで聞いて必要のないものは消していくだけだから、君はそ
の判断をする必要はない。気付いた事を言ってみて」
 田原局長はそう言いながらも、ちらりと理事長の顔をうかがう。
「じゃあ言いますけど、不必要だった部分は後からでも教えてください」
 最初にそう前置きをして、岡持は時田が待機手当の減額に憤りを持ってる事を出してみ
た。
 時田が新人看護婦を見つけると手当たり次第に手を出してるらしいことも、ついでに付
け加えた。しゃべり始めたらだんだん調子付いてきて、助手にレントゲン撮影をやらせる
のは法律違反だから改めるべきだなどと、病院批判していた事も脚色を加えて話した。
 確かいつかの飲み会で時田がそう言うのを聞いたような気がするのだ。
 自分も酔っていたから定かではないが、うっすらと記憶にある。
 話すうちに、その記憶はだんだんと色が濃くなり、話し終わる頃には確固たる過去の出
来事に姿を変えていた。
 気持ちよく話し終えた岡持の前で、二人の男は眉にしわを寄せていた。
 まずい。少し調子に乗りすぎたかもしれない。岡持が不安を感じ始める頃、理事長はが
らりと表情を変えて、笑顔を岡持に見せた。
「たいした物だ。やっぱり思ったとおり、君の観察力は鋭いよ。今日の報告は確かに聞き
届けたよ。では、また来週よろしく」
 彼は立ち上がり、がっしりした両腕で岡持の肩を握った。
 ぐっと力をこめてすぐに放すと、自分のデスクの方に歩いていった。
 局長はまだ険しい表情だったが、おずおずと岡持は立ち上がり、失礼しますと言って部
屋を出た。
 
 時田には何か処分が下るのだろうか。いや、彼がプレイボーイだといっても処分する理
由にはならないだろう。そう言う事は個人の自由のはずだ。それに、病院批判した事につ
いても、陰でこそこそ言ったからと言って病院側にどうこう出来る正当な理由とはちょっ
と言えないだろう。
 数日様子を見たが、時田の様子は変わった事もないようだった。岡持はほっとしたよう
な、残念なような複雑な心境だった。



 4


 次の週の水曜日。勤務からちょっと離れて、トイレから帰るところを時田に呼び止めら
れた。まだ水滴の滴る両手をふらふらさせながら、岡持は時田を見た。
 いきなり殴りかかられるのではとの、微かな恐怖はすぐに消えていった。
「よお。修ちゃん。ちょっといい話あるんだけど、乗らないか」
 ニヤニヤしながら歩み寄る時田の腕が、岡持の肩に回る。岡持の耳に時田の唇が近づい
てきた。
 時田の無精髭が岡持のうなじをくすぐる。
「なんですか、いい話って」
 時田の顔を必死に遠ざけるようにしながら、岡持は聞いた。
「新人看護婦達と合コンするんだけど、ちょうど人数が一人足りないんだよ。修ちゃんど
うせ暇だろ、来ないか?」
「いつですか」
「明日の夜。7時からなんだけど、1万出しね」
 一万円はきついな。給料日前だと言うのに……。
 それにどうせ自分は引き立て役にされるのがオチだ。
 断ろうと思ったが、何事も情報収集だ。誰が参加するのかだけでも聞いておくべきだ。
「今お金が無いんですが……、誰が参加するんですか?」
「看護部の新人、後藤明子と草加則子、それに数合わせに事務の荒木。男は俺とリハビリ
の田中だよ。うちの佐々木も行く予定だったんだけど、急に行けなくなったってさ」
 なるほど。いつものメンバー、時田、田中、佐々木で行くつもりで女性も三人誘ったが、
佐々木がドタキャンしてきたってわけだ。
 新人看護婦には岡持は興味なかった。面接の時見かけたが、あまり好きなタイプとは思
わなかった。しかし、荒木百合が行くのなら話は別だ。
「わかりました。でも時田さんからお誘いが来るなんて初めてだな」
 皮肉のつもりで言ったのだが、時田には通じなかった。
「まあな。おまえもそろそろ彼女くらい作れよって事さ」
 二年しか違わないのにお前呼ばわりだ。
 カチンときた岡持だが、ここは堪えどころだ。貴様の悪行をさらに取材して上に報告し
てやるからな、と思ったら怒りもむしろ笑いになって消えていった。
 
 居酒屋では思ったとおり、時田の独壇場だった。
 男の岡持が聞いていても思わず吹き出してしまう話を、巧妙な話術で繰り出してくるか
ら、女性陣には大受けに受けていて、後藤明子などはハンカチ出して笑い涙を拭く始末だ。
「俺、以前の病院では検査室の仕事も少しだけ手伝ってたんだよね」
 話題を変えた時田が身を乗り出して、それまでより少し小さな声で話し出した。
 下ネタだなと岡持にはぴんと来た。
 口の端に卑猥な笑いが浮き上がって見えたからだ。
「職員検診の時の尿検査、あれは楽しみだったな。若いきれいな看護婦さんのおしっこが
湯気を立てながら我が手にあるんだからね。思わず匂いを嗅いじゃったりして」
 言いながら時田がビールの入ったコップを鼻先でくんくんすると、その広がった鼻の穴
の変な顔つきに、またも女性陣は大喜びだ。
 新人看護婦はともかく、自分の横に座った百合までが可笑しそうにしているのが岡持に
は気にくわない。
「時田さん、まるで変態ですね」
 場をしらけさせない程度にちくりと岡持はつついてみた。
「ばかだなあ。今の時代変態が一番楽しくて面白いんじゃないか。お前も悔しかったら検
尿コップ一杯のおしっこを飲んでみろよ」
 別に悔しいわけじゃない、と言おうとしたら百合に先を越されてしまった。
「いやだ。味見までしたんですか?」
 言葉とは裏腹に少しも嫌そうじゃない。
「それは秘密ですと言いたいけど、好きな女の子のおしっこなら喜んで飲んじゃうよ俺。
だって美味しいんだもーん」
 そう言ってコップの中のビールを時田は一気に飲み干す。そのコップの中身がまるで百
合のおしっこだったかのように岡持には思えて、思わず立ち上がってしまった。
「おいおい、どうしたんだよ」
 それまでずっと聞き役だった田中が岡持の肩に手をかけて座らそうとする。
 岡持がその手を力任せに払うと、田中はバランスを崩して椅子から転げ落ちてしまった。
 派手な音がしてテーブルの上にあったコップや瓶が床に落ちて割れる。コンクリートの
床にビールの水溜りが広がった。
 
 店を飛び出す岡持を止める者は誰もいなかった。百合は止めてくれるかと淡い期待があ
ったが、現実には振り向いた岡持と目を合わせることもなかった。
 悔しくてたまらない。悔しさの八十パーセントは百合を時田に取られた気がする、その
嫉妬心だと自分でもわかっていた。
 居酒屋の正面にあった小さな公園のブランコに腰掛けて、岡持は一息つく。夏とはいえ
夜風は火照った頬に気持ち良かった。
 まあいいさ。今のうちに楽しんでおくがいい。
 たっぷり言いつけてやるんだから。
 店を出るときには、そのまま帰る気でいた岡持だが、頭を休めて落ち着くと、気が変わ
った。もう少し調査してやろう。

 半分ほどビールの入ってるコップを百合の前で揺らせて、一気に飲み干す時田の顔と、
それを見て嫌がりながらも嬉しそうに笑う百合の顔がさっきから繰り返し岡持の脳裏を回
っていた。
 ひょっとしてあの二人はできてるんだろうか。新人看護婦の歓迎会だなんていっていた
わりに、時田は百合にばかり話し掛けていたようだった。
 百合のことを狙ってるのか? その口実に新人看護婦を利用しただけなんじゃないだろ
うか。さっきまでの心地よい酔いが覚めていくのに比例して、いやな想像が岡持の気持ち
をどんどん暗くしていった。
 居酒屋の出入り口は硬く閉ざされたまま、自分が飛び出して三十分になろうかというの
に出入りするものは誰もいない。8時というのは宴もたけなわで出入りする客の一番少な
い時間帯なのかもしれない。

 更に一時間が過ぎ、岡持の酔いがすっかりさめてきた頃、他のグループの数人に混じっ
てさっきまで一緒に飲んでいた仲間達が出てきた。
「全く岡持の野郎困ったやつだな。かわい子ちゃんをほったらかしにして逃げていっちゃ
うんだから」
 いい気持ちで酔ってる時田はちょうど横にいた後藤明子の大き目のお尻をぽんと叩いた。
「きゃあ、嫌だ、もうエッチなんだから時田さんはぁ」
 ぽっちゃり系の明子はぜんぜん嫌そうじゃない。むしろ甘えるように時田の肩を叩いた。
 自分が飛び出したあとどんな風に話が進展したのか、岡持にはわからないが、見た感じ
では後藤明子と時田がいい雰囲気のようだった。
 後の3人がその二人に付いていく。田中はもう一人の新人看護婦草加紀子に取り入って
いる。岡持には嬉しい事に、荒木百合はその後をつまらなそうに歩いていた。
 5人は、岡持の前の道を左の方にのんびり歩いていく。居酒屋の並ぶ通りだ。
 華やかな看板の光が時折百合の整った横顔を浮かび上がらせる。
 もう一軒いくつもりだろう。岡持は見つからないように通りを横切ると、他の通行人に
まぎれながら五人の後をついていった。
 
「それじゃ、あたし、ここで……。明日早番なんです」
 飲み屋街の角を曲がろうとした岡持の耳に、百合の声が聞こえてきた。いきなり止まっ
た岡持に、後ろからきた酔客がぶつかりかけ、おっとと言って大げさに避けていった。
 百合だけは二次会に行くのを止めて帰る気らしい。
「そうか。早番じゃしょうがないな。じゃあまた明日」
 時田はあっさりとそう言い、田中も気をつけてと気の抜けた言葉をかけただけだ。
 スナック富樫の看板に隠れた岡持の前を、時田らに一つ会釈して百合が通り過ぎていく。
 岡持はどうするか迷った。
 百合を追いかけて声をかけたい。その後どうするでもないが、大好きな百合が一人で寂
しく歩いているのに、見過ごしにするのはなんとも残念だ。
 本当なら時田たちの後をついていって経過報告しないと行けないのだが……。
 一瞬だが激しく迷った末、岡持は百合を追う事に決めた。





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