「初めてじゃ、無いらしいな」
事を終えてマルボロを咥えた麗の質問に、マリノは答えなかった。その『初めて』が何を指し示すのか、二つの意味を図りかねていたのだ。マリノは黙って、努めて無表情に、ベルボーイの制服を床から拾った。
沈黙を肯定と捉えたのか、麗はさらに言った。
「図星だろ。思った通りだ。俺は男を見る目は確かなのさ」
マリノと麗が出会ったのは、京都のホテルだった。
日本の、いや、世界でも有数のホテル「サクラ・ロワイヤルプラザ」は、当然京都にもチェーン展開を済ませている。しかも経営が傾きかけた老舗ホテルの身売りによって、ほぼ乗っ取りに近い形でだ。
老朽化した建物の一部をモダンで出来うる限り利益率が高くなる作りに建て直し―――条例ギリギリのラインまで高層化するプランだった―――伝統と新しさの二つの魅力で集客力を挙げることに成功した「京都支店」に中途採用され、ベルボーイを勤めていたのがマリノだった。
地味な色合いのな制服で宿泊客のスーツケースを台車に積み込んでいた時、ベル・キャプテンがマリノの名を呼んだ。マリノが振り返るとキャプテンはそっと近づいて、マリノにしか聞こえない小声で、顔をしかめて言った。
「佐倉の次男坊のご指名や。お前、何しでかしたん?」
「何って……?」
「一族で一番の切れ者いう話やで。けど、性格が悪いさかい、ずっと海外に厄介払いされてはったらしいデ」
「佐倉って、このホテルの?」
「そうや。経営者一族や。部屋番号は…」
「あ、覚えてます。すぐ行った方がよろしいんですね。スイートですよね?」
ベル・キャプテンは少なからず驚いたようだが、一瞬で見た数字や名前を記憶するのはマリノの特技だった。今朝たまたまフロントに言伝に行った際に、そばにあった端末のディスプレイに映し出されていたのがスイートルームのナンバーと宿泊客名だった。それが佐倉麗の名だった。
このホテルに勤める者として、名前だけは知っていたが、姿を見るのは今日が初めてだった。V.I.P.らしい鷹揚な態度でレセプション・カウンターにやってきて、ノーサインでルームキィを手にしたのを目撃した。麗本人にそのつもりはないようだが、下々の者とは違うと言いたげなオーラが目に見えるような、名前通りの男だった。
あの男はゲイだ。俺と同じで。
マリノは胸騒ぎを覚えた。ゲイ同士、同類は本能的に判ってしまう。とすれば、呼び出された目的は―――
「開いている。入れ」
部屋の中から横柄な声がした。
「失礼いたします。お呼びでしょうか」
マリノが部屋に入り、声がしたと思われる方へ行くと「遅い」と言いながら長身の男がキングサイズのベッドに横たわっていた。素肌にバスローブ姿、おまけに咥え煙草で。
……寝煙草はご遠慮願います。と言いたいところやけど。
「お休み中のところ申し訳ございません」
相手はこのホテルの「偉いさん」だ。しかも、ベッドに横になっていたとは言え、眠っていたわけではなかろう。マリノはそのことには触れないでおいた。
「俺が呼んだ。別に休んでいた訳じゃない」
「左様でございますか。失礼いたしました、佐倉様、ご用件をうかが…」
麗は素早く立ち上がって、マリノのすぐそばまでやってきた。
「背は俺と同じ位か。そのツラで随分と伸びたもんだ」
「はぁ……、あの」
「柔道をやってた割に、耳も潰れてないし、首も綺麗なもんだ」
「……あの、私の外見のことでお呼びになったのでしょうか」
「そうだな。気にいらない」
身長のこともあって25歳の今ではあまり言われなくなったが、女顔はマリノの最大のコンプレックスだ。「男前」と表現されるような整い方ならともかく、男が「綺麗な顔してはるねぇ」と言われ続けることは、外見を売りにする職業以外では苦痛以外の何物でもない。
この傲慢そうな男なら、見た目に難癖をつけて自分を解雇することもあり得るだろう。
マリノは麗の人相をぼんやりと観察した。奥二重の鋭い眼と尖ったあご、オールバックに撫で付けたヘアスタイルできつい表情がいっそう際立っている。
「申し訳ございません」
「やたら詫びるな。鬱陶しい」
それではどうしろというのか、何を求めているのかこの男は。マリノが僅かながら困惑の表情を浮かべた途端に。
「俺に気に入られたいなら、笑っていろ。げらげらじゃない、いつも静かな笑みをたたえていろ」
麗は早口で勝手なことを命令した。
「気に入られたいなら、ですか」
「気に入られたくないか」
「いえ、わかりません」
「なんだその煮えきらん返事は」
「私が気に入らないなら配置を替えるなりクビにするなりなさってください。その方が早いですから」
「お前は、俺に気にいられる努力をしたくないと言うんだな?」
「お客様には平等に接しています。佐倉様はこのホテルのV.I.P.かもしれませんが、特別扱いはいたしかねます」
「馬鹿だな、お前は。客なんて皆、特別扱いされたいと思ってるんだ。そんなマニュアル通りの考え方でホテリエが勤まると思うのか」
この場を早く去りたい一心で否定的な返事をしていたマリノは、麗の辛辣な言葉にどきりとした。それを見透かしたかのように、麗は一瞬の隙を突いて、唇を奪った。辛い、煙草の香りの口付けに、マリノの中で死んだも同然だった何かが反応した。
「お前の次の台詞は『なにをなさいます』か? 『お止めください』か?」
「……『ご冗談はお止めください』」
「何故だ」
「衛生面に問題が生じます」
マリノの返答に麗は部屋に響くような大声で笑った。
「衛生面? お前はペットか何かか? まさか性病にでもかかっているのか?」
「性病にかかわらず、自分で気付いてない可能性がありますので」
「採用前に健康診断を受けているはずだ」
「そのあとにかかったかもしれません」
「ふぅん。それならそんなスタッフを雇うわけにはいかねぇな」
「ですからクビになさったらいかがかと申し上げて」
麗はまたも台詞を遮って、マリノをベッドに押し倒した。
「今度こそ『なにをなさいます』」の出番だ。
「いえ、『お止めください』です」
「お前が病気にかかってないか、俺が調べてやる。体の隅々までな」
麗はにやりと片頬で笑んだ。
この顔のせいだ。
マリノは奥歯を噛み締め、きつく目を閉じ、麗のなすがままになった。
麗はじっくりとマリノの身体で愉しんだ後「初めてじゃ、無いらしいな」と言い切った。
ベルボーイの制服は床に散らばっていた。アンダーウェアを付け、シャツを着ようとしたところで「男に、無理矢理抱かれる、事がな」と麗が続けた。マリノの手がほんの一瞬止まったのを、麗は見逃さなかったようだ。
「ビンゴ、ってとこか。両方か? それとも」
見透かされた。マリノは背を向けて唇を噛んだ。
「『お客様』には関係の無い事です。お答え致しかねます」
「無くはない」
麗は言い放ち、行為の前に脱ぎ捨てたスーツの内ポケットを探る。そして、折りたたまれた書類を、マリノの目の前にかざした。
「私の履歴書?」
何故そんなものが? と、言いたげなマリノに、麗は煙草を咥えた口の端をにやりと歪めた。一旦マリノと、しっかと目を合わせてから、灰皿に煙草の灰を落とす。
「以外と歳くってたんだな。25には見えねぇ。だが、随分ここんとこ不摂生してたって顔だ。お前、ここに来るまでの空白の期間、何をやっていた」
「それも、お答え致しかねます。答えれば私は、職を失う事になりかねません。ただ、それがお望みでしたらすべてお話しますが、長くなりますので……」
「ふん、心配はいらねえ。俺が拾ってやる」
「佐倉様が?」
「気に入った」
制服のボタンを閉じているマリノの臀部を、麗は挑発するように撫で上げた。
「お前が気に入ったんだよ」
この人は何を言っているんだろう。マリノは小さくため息をついた。
「そこが……という意味でしょうか」
麗は鼻で笑い「勿論それも有る」と言い切った。
「だがな、ケツだけじゃねぇ。お前はこんなとこでベルボーイなんかしてるタマじゃねえだろ」
「とんでもない事です。私には、充分勿体無い仕事です」
マリノの返事は本心だった。野心もなく向上心もなく、このままこつこつとホテルを支える地味な仕事で一生を終えるつもりだったのだ。麗は紫煙を盛大に吐き出し、首を横に振った。
「はっきり言うと、似合わねぇんだよな」
しらけた顔で煙草をもみ消した麗の台詞に、マリノはきょとんとした表情で
「と、申しますと?」
と、問い返す。
「お前に、その服は似合わねぇよ。『ベル』はダメだな。第一、背がデカすぎる。アメリカのホテルならまだしも、お前みたいなひょろ長い体型の『ベル』は『古都のホテル』向きじゃねぇな。ここみたいな古いタイプのホテルじゃ、ベルボーイは小柄か、横幅のあるタイプの方が、きびきび働いているように見えて見栄えがいいんだ」
「はあ……」
変わった視点で話す人だ。と、マリノが面食らっていると
「そうだな…似合う服は、フロント支配人ってとこか。スーツが綺麗に着こなせるスタイルだ。マネージャーって響き、いいと思わないか?」
「別に……」
「それに、お前の外見なら、若い奴もついてくる。ハマり役だな。うちのホテルに、年寄りはいらねぇからな」
「はあ。佐倉様の」
うちのホテル、という響きが何か特別なものを意味するようで、その部分で麗のあごが自慢するように上がった。サクラ・ロワイヤルプラザ京都だって、彼のホテルといえば彼のホテルだ。しかし、その意味ではないと麗は説明した。
「今はまだ、建設中だ。すごいぜ? 港が一望できる、都心のリゾートだ」
「新規オープンとは存じ上げませんでした。不勉強で申し訳ありません」
「知らなくても不思議はない。チェーンじゃなくインディペンデントだからな」
麗は新しく独立したホテルを立ち上げるのだと薄く笑った。
「港に、都心。京都ではないようですね」
「東京のベイエリアだ」
「残念ですが、私は京都を離れるつもりはありません」
「まあ聞け」
自分の話に興味を示さないマリノを、麗は強引に肘を掴んで、ベッドの上に引き戻す。仰向けに倒れたマリノを、片膝で押さえつけ、麗は顔を近付けた。
「俺の元で働け。何が望みだ? 今の倍額の給料を払うぜ?」
「いいえ。お金は」
将来の希望などない。大事なものはすべて失ったあとだ。今の自分は抜け殻だ。マリノは金銭への執着はゼロだった。
「毎日可愛がってやる。久し振りだったらしいな。随分溜まってたみたいだぜ?」
「意外と下品なことを仰るのですね」
マリノが眉をひそめたのを確認して、麗は強引な口付けを始めた。
「金は要らない、と。だが快楽には弱い?」
「誤解なさらないでください。たしかに長いこと出してませんでしたが、なんでもいい訳では」
「そうか、俺のテクには満足した。そう聞こえたぞ」
麗は自信家だった。抵抗しても無駄だと悟ったマリノの身体から力が向けた。麗が真上からマリノの目を覗き込んで言った。
「もう1回やらせろ。心配いらねぇ、上司にはちゃんと言ってある」
「何をですか」
「新人にマンツーマンで教育してみたいから、しばらく貸し出せってな」