2025.06.07 サントリーホール (東京)
Gábor Takács-Nagy / 日本フィルハーモニー交響楽団
Miklós Perényi (cello-1)
1. ドヴォルザーク: チェロ協奏曲 ロ短調 op.104, B.191
2. ブラームス: ハイドンの主題による変奏曲 変ロ長調 op.56a
3. モーツァルト: 交響曲第41番《ジュピター》 ハ長調 K.551
前週に続いてタカーチ=ナジ・ガーボルの日フィル初客演シリーズ、最終日(と前日)は場所をサントリーホールに変え、盟友ペレーニおじさんとの共演です。
ハンガリーだけでなく世界が認める巨匠のペレーニさん、ブダペスト在住時にハンガリー国立フィル、ブダペスト祝祭管へのソリスト客演と、タカーチ=ナジらと結成したミクロコスモスSQで何度か聴く機会がありましたが、この至極のチェロをこれだけ至近距離で聴ける幸せを毎回ただただ噛み締めていました。最後に聴いたのは2009年のN響への客演で、この時もドヴォルザークのコンチェルトでした。そこから16年ぶりのペレーニさん、顔はさすがに老けましたが(元々老け顔ではありますが)、足取りはしっかりとしていたので一安心。虚飾を一切廃した誠実な芸風は今も健在で、渋いという一言では足りない、音は澄み切ってさらに極上、じっくりと磨き上げた天上のドヴォルザークでした。オケは編成小さめで控えめ、丁寧なバッキングに徹していました。アンコールはバッハの「アルマンド」、ペレーニさんのバッハは今なお進化中で、彼岸に届く透明さを感じました。
今日の後半戦は、ブラームスもジュピターもあまり好んで聴く曲ではなく、自分にとっては正直オマケです。今日もガーボルさんのスコアは蛍光ペンでびっしりと書き込み。横浜の演奏会と同じ感想になりますが、ガーボルさんのリードは弦アンサンブルが非常に丁寧で、上手いというか細かいです。自分が一人で弾くかのような演奏を合奏させている感じで、こう弾いてほしいという伝え方が(特に弦の奏者にとって)たいへん卓越しているのだと思います。ということで、細部に興味はないので一緒くたで失礼ですが、非常に安定したブラームスとモーツアルトでした。アンコールは今日もバルトークやってくれるかなと期待したのですが、「ジュピター」第3楽章メヌエットのリピートでちょいがっかり。
終演後、ステージ上では一般参賀を差し置いて、今日で退団される第2ヴァイオリンの加藤祐一氏と川口貴氏に花束贈呈、団員入り乱れての記念写真撮影大会になっていて微笑ましかったです。
2025.05.31 みなとみらいホール (横浜)
Gábor Takács-Nagy / 日本フィルハーモニー交響楽団
三浦謙司 (piano-2)
安達真理 (viola-3) ※客演首席奏者
1. シューベルト: 交響曲第7番《未完成》 ロ短調 D759
2. モーツァルト: ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467
3. コダーイ: 組曲《ハーリ・ヤーノシュ》 op.15
ハンガリーの巨匠タカーチ=ナジ・ガーボルさんが来るとあって、しかも曲は「ハーリ・ヤーノシュ」、躊躇なく横浜まで馳せ参じました。
1曲目の「未完成」。まず驚いたのが、譜面台上のスコアをオペラグラスで覗くと、赤青黄の蛍光ペンでびっしりとマーキングしてあり、ところどころに付箋まで付いてました。指揮者の生真面目さが伺えます。そこまで分析し尽くしているだけあって、冒頭からおっと思わせる繊細な出だしにまず引き込まれます。元々ヴァイオリンの名手だけあって、弦のコントロールが実にスムース。ボウイング含めたアンサンブル、ニュアンス、バランス、どれを取ってもしっかりと指示を根付かせているのが凄い。管楽器もクリアにくっきりと響かせ、指揮ぶりはリズムをしっかりとキープしつつ細かい指示を出しまくる、まさに職人気質の堅実な指揮者でした。派手さやクセの強さはないものの、安定したクオリティを客演でもしっかりと導き出せる安心感は、世界中で好まれることでしょう。と言いながらもこの曲が超苦手な私は、後半はいつものごとく意識を失ってました…。
2曲目のモーツァルトのピアノ協奏曲、ソリストは三浦謙司という初めて聞く人。ロン・ティボー国際コンクールの2019年ピアノ部門優勝者という受賞歴を持つ、まだ30代前半の若者です。余談ですがこのロン・ティボー国際コンクールは、近年は財政難で開催自体がスポンサー次第という不安定な状況のようですが、古くはサンソン・フランソワ、アルド・チッコリーニ、フィリップ・アントルモン、パスカル・ロジェなどの巨匠を輩出し、スタニスラフ・ブーニンもショパンコンクール優勝の前にこのコンクールを当時の最年少で優勝しています。とはいえ、三浦氏のピアノはそういったフレンチテイストの巨匠タイプとは異なり、遊びの少ない生真面目タイプに映りましたが、もちろん、不得意のモーツァルトでもあり、この1曲だけでは何ともわかりません。ただ、同タイプの職人ガーボルさんとの組み合わせは非常にやりやすかったのではないかと思います。アンコールはシューマンの「3つのロマンス」第2番をしっとりと。
さて、ガーボルさんの指揮を今まで聴いたのは、ブダペスト祝祭管を含めてどれも比較的小編成の古典曲ばかりだったので、元々がタカーチ・カルテットで名を馳せた人ということもあり、音楽がミクロの方向に向かっていく傾向にあるのかなと感じていました。ここで一気に大編成になる「ハーリ・ヤーノシュ」はどう攻めるのだろうと思っていたら、やっぱりとことん細かく刻み込む演奏でした。相変わらず蛍光ペンでびっしりと書き込まれたスコアを手に、速めのテンポであまり粘らずにグイグイと進んで行きます。一昨年聴いたマダラシュ/N響がおおらかなスケール感を出していたのとは対照的。オケは金管中心にキズが多く、曲を楽しむよりも必死な感じが奏者それぞれの顔に出ています。ここらへんはN響と地力の差が見えたでしょうか。ツィンバロン、サックス、ヴィオラといったゲストは、飲まれることなくプロの仕事をこなし、しっかりと要所を締めていました。ツィンバロンの斉藤浩さんは一昨年のマダラシュ/N響でも素晴らしい演奏を披露されており、今の大河ドラマ「べらぼう」のテーマ曲にもソロで参加されている、日本ツィンバロン界(というものがあるのかどうか)の第一人者ですね。
終曲はオケも気合みなぎって大いに盛り上がり、ガーボルさん思わずガッツポーズ。アンコールではメモを持って登場、日本語で紹介した曲は「ルーマニア民族舞曲」。思えば今回の来日プログラムにバルトークがなかったので、思いがけないラッキープレゼントでした。
2025.05.23 Barbican Hall (London)
Sir Mark Elder / BBC Symphony Orchestra
Alice Coote (mezzo-soprano-2)
David Butt Philip (tenor-2)
1. Schreker: Kammersymphonie (Chamber Symphony)
2. Mahler: Das Lied von der Erde (The Song of the Earth)
前日に続く「久々」シリーズ、今日は12年ぶりのバービカンです。こちらも前のショップは閉鎖されて別のオープンスペースに移転していましたが、他の雰囲気はシャビーなトイレも含めて昔のまま、懐かしいです。
シュレーカーは自分には馴染みのない作曲家で、世代的にはシェーンベルクとベルクの間、あるいはラヴェルとバルトークの間に位置するので、もっと聴いていてもよさそうですが、記録を辿ると過去には2010年のBBCプロムスで小曲を1つ聴いただけでした。その退廃的な作風は世紀末の時代を反映したもので、それゆえ生前から名声を得ていたものの、ナチスドイツの台頭もあり表舞台からの退場を余儀なくされた後は、上で挙げた強烈な人々と比べると「時代のふるい」にかけられてしまったのかな、という気がします。最も演奏頻度が高いと言われる「室内交響曲」ですら私は初めて聴く曲で、刺激少なく静かに流れていく繊細な音楽に、長い出張の疲れもあってつい爆睡。
休憩中に恒例のアイスクリームを食べ、気を取り直してメインの「大地の歌」は、他のマーラー交響曲と比べると苦手で、聴いた回数も少ないです。前回聴いたのは2017年のインバル/都響ですから8年ぶり。ステージ上のメンバーを見ていて、トランペットにフィリップ・コブと思しき奏者が座っていたのでプログラムで確認すると、まさにその人でした。LSOから移籍したんですね。前のロンドン赴任でLSOを聴きまくっていたころはコブもまだ20代前半だったかと思いますが、そのシャープでブレない圧巻のトランペットに毎回感服したものでした。今日の「大地の歌」ではそんなに見せ場がないのが残念。しかし、LSOからBBC響への移籍はどっちにせよホールがバービカンなので、ファンやリスナーからしたら遠くに行かなくて一安心かもしれません。
冒頭のホルンが返す返すも惜しかったですが、やっぱりBBC響は安定して上手いオケです。要となるオーボエ、コーラングレも惚れ惚れするくらい完璧。オケでもオペラでも幅広いレパートリーを誇る仕事人指揮者、マーク・エルダーのリードは予想通りスコアに忠実で全体的にクールな印象でしたが、マーラーの他の交響曲だと多分物足りないものの、この曲はこれでよいんでしょう。なお、今はフルートに一人日本人メンバーがいらっしゃるようです。
テナーのデイヴィド・バット・フィリップは一昨年の東京春祭で「マイスタージンガー」のヴァルター役を聴いたばかりですが、今がまさに最盛期のようで、ハリのある声と情熱的な歌唱がたいへん良かったです。メゾのアリス・クートを聴くのは2回目で、前回も何と「大地の歌」、2011年のマゼール/フィルハーモニア管でした。このときのマーラーチクルスは交響曲全集としてCD化されていますが、「大地の歌」と同日収録の第10番アダージョは全集から除外されてしまい(CD化に適さないクオリティとダメ出しされたもよう、確かにテナーは酷かったが録り直せばよかったのに)、今となっては演奏を確認できないのが残念です。備忘録を見ると、ぶれることなくしっかりとした歌唱で声も出ていた、と書いていましたが、今回もその印象はほぼ変わらず、高音域がよく通る美声に、静かに情念を燻らせるような堂々とした歌唱が素晴らしかったです。ただし、苦手な曲はやっぱり苦手、なかなか自分の琴線に触れる演奏に巡り会うことはかなわないですねー。
2025.05.22 Royal Festival Hall (London)
Sir Andras Schiff (fortepiano-1,3) / Orchestra of the Age of Enlightenment
1. Schumann: Introduction and Allegro appassionato for piano and orchestra, Op.92
2. Mendelssohn: Excerpts from the Incidental Music to A Midsummer Night's Dream
(Overture, Intermezzo, Nocturne, Scherzo)
3. Schumann: Piano Concerto
前週に続いて出張中のオフを利用し、懐かしのサウスバンクへ。そもそも2013年に帰国して以来一度も英国を訪れる機会がなかったので、実に12年ぶりになります。中のカフェとショップはすっかり様変わりしていましたが、ホールの中は昔の通りです。
啓蒙時代の楽団、OAEを聴くのも12年ぶりなのですが、シフはハンガリーの巨匠なのに何故か巡り合わせが悪く、過去に聴いたのは2011年のBBCプロムス1回だけでした。古楽器集団のOAEに合わせたとはいえ、ブリュートナーの1859年製フォルテピアノを奏でる今夜のシフはだいぶ変化球というか「よそゆき顔」の様子となるかもしれない、と思っていたのですが、確かにちょっと勝手が変わりやりにくそうな感じは見て取れたものの、元々の理知的で奇を衒わない芸風はこのようなピリオド系アプローチと親和性は高そうでした。本日のプログラムはシューマンとメンデルスゾーンという、19世紀前半を駆け抜け、どちらも若くして亡くなったドイツの天才ペアの作品で、今日のフォルテピアノが作られたのもちょうど二人が亡くなった後くらいですが、彼らが慣れ親しんだ「ピアノ」という楽器は、まさにこのようなものだったんでしょう。
1曲目のシューマン「序奏とアレグロ・アパッショナート」は初めて聴く曲でした。久しぶりに聴くOAEの響きは、独特で新鮮。ノンビブラートの素朴な弦の上に、バロックアンサンブルのようなゴツゴツした木管が乗っかり、全体的に音に芯があって硬質ではあるがふくよかな太さも感じます。ホルンはバルブなしのナチュラルホルンで、浪漫派の曲になってくるとかなり演奏難度が上がると思うのですが、難なく完璧に吹きこなしてめちゃくちゃ上手い。後で調べると、トップのロジャー・モンゴメリーはROHでも首席奏者を勤めている英国ホルン界の第一人者だそうで、さすがと納得。対するシフのピアノは、楽器の特性上オケと音量バランスが合わない部分もあり、本当はガツンと情熱的に盛り上がりたい後半のアパッショナートも、だいぶ地味で落ち着いたものでした。多分モダンピアノにモダンオケで演奏する時はもっと揺さぶる感じになるんじゃないでしょうか。それにしても、過去に4度聴いたOAEも全てこのロイヤル・フェスティバル・ホールだったのですが、このオケのコンセプトでこのホールは広すぎで、何でいつもここでやっているのか不思議です。隣のクイーン・エリザベス・ホールや、あるいはウィグモア・ホールだとビジネス的に難しいのかもしれませんが、せめてバービカンでやってくれたほうが絶対特性に合っているのになあ、と残念に思います。
2曲目は「夏の夜の夢」の非公式「組曲」としてよく抜粋される選曲から「結婚行進曲」を除いた4曲。一番のメジャーどころを外したのは、楽器編成の都合かもしれませんが、全体的なプログラムのトーンを考えての選曲でもあったかと思います。ここではシフは指揮に専念し、個人的にあまり思い入れのない曲ということもあって、あっさりと流れ過ぎました。
休憩後のメイン、シューマンのピアノ協奏曲はゴールデンウィークのラ・フォル・ジュルネでも聴いたばかりですが、ここ近年この曲が大好きになってしまい、いろんな演奏を聴き漁っています。その中にはシフがイヴァーン・フィッシャー指揮ブダペスト祝祭管と共演したBBCプロムスのYouTube動画もありましたが、やはり弾き振りで、楽器も鳴りにくいフォルテピアノになるとアプローチがだいぶ変わってきます。フレージングがより端正で抑圧的な古典アプローチになっていましたが、曲自体は明らかにロマン派の代表作なので、燃え上がり切れないもどかしさがありました。第2楽章では本来(?)の姿が垣間見え、情感を乗せた深いピアノが聴けましたが、第3楽章では再び即物的なピアノに戻り、ピアノの見せ場を作るよりもオケを快活に進めるほうに腐心している様子でした。
アンコールではピアノの小曲を弾いた後、蓋を閉じてもう終わりかと思いきや、もう一曲、序曲「フィンガルの洞窟」を指揮しました。アンコールピースにはちょっと長い曲ですが、シューマンの協奏曲だけだとメインとしては短いので、ほど良いサービスでした。オケはますます鳴らしにくそうに演奏していましたが、クラリネットはたいへん美しい音色で、満足です。
2025.05.17 Sala Santa Cecilia, Auditorium Parco della Musica Ennio Morricone (Roma)
Daniele Gatti / Orchestra e Coro dell’Accademia Nazionale di Santa Cecilia
Andrea Secchi (chorus master)
1. Brahms: Gesang der Parzen
2. Brahms: Schicksalslied
3. Bruckner: Symphony No. 9
私的「まだ見ぬ強豪」の一つ、聖チェチーリア音楽院管弦楽団は、バーンスタイン指揮でドビュッシー管弦楽曲集やプッチーニ「ラ・ボエーム」のレコーディングがあり、1990年代からガッティ、チョン・ミョンフン、パッパーノ、ハーディングといったスター指揮者が音楽監督に名を連ねるイタリアの名門オケです。ローマ出張中のオフ日にちょうど演奏会があったので、ここぞとばかり聴きに行きました。
映画音楽の巨匠モリコーニの名を冠したホールは北側郊外のちょっと不便な場所にあり、ローマ中心部からだとバスかトラムを乗り継いで行くことになります。大きい本屋を超えて奥に入ると、屋外円形劇場を取り囲むように3つの音楽ホールが階段上に位置し、どれがメインホールなのか外観だけでよくはわかりません。中には多目的のイベントスペースもあり、ジュニアオケと思しき団体がバーンスタインの「マンボ」を練習していました。
サンタ・チェチーリア・ホールの中は2800席と比較的広く、深い茶色で統一されたシックな内装に、なだらかな球面の天井がイタリアっぽいこだわりのオシャレです。プログラム前半は、ブラームスの「運命の女神の歌」と「運命の歌」という2曲の合唱曲。個人的にはどちらも全く初めて聴く曲ですが、プログラムにはそれぞれ過去の演奏歴が書いてあって、どちらも2010年にジョナサン・ノットの指揮で演奏して以来のようです。またガッティは「運命の歌」のほうを過去に3回も取り上げており、お気に入りなんでしょう。国立アカデミーの合唱団は80人くらい、声楽曲は元々苦手分野で細かいことはよくわからないものの、緻密なコントロールの下に人声の繊細さと迫力を感じることができました。ただし、ドイツ語の発音はちょっとイタリア寄りで、ブラームス臭いドイツっぽい匂いはしませんでした。なお、ガッティは過去2回聴いていますが、全て暗譜で臨むのがトレードマークのところ、今回も譜面台最初からなしの強気の攻めでした。
買った席がステージ真横だったのはまだよいとして、自席の周辺を見事にいかにも地元勢のおばちゃん時々おっちゃんに囲まれてしまい、開演前はべちゃくちゃ、演奏中でもひそひそとうるさいので、休憩の間に平土間の空いてそうな席に移動。やはり音的にはこっちが大正解でした。ちなみに本日は3日連続公演の最終日で、週末にも関わらず客入りはイマイチ。半分くらいしか埋まってなかったんじゃないでしょうか。もったいない限りです。
気を取り直してメインのブル9。オールイタリアンによるマカロニ・ブルックナーがどんな感じになるのか想像つかなかったのですが、ガッティもオケもさすがに世界の一流、ローカル色を封印した純度の高い正統派ブルックナーでした。まずこの人はブルックナーであろうともやっぱり暗譜で押し通しますが、前半以上に細かくタクトを操り、テンポを揺らし、非常にきめ細かく表情を付けていきます。自分の中でストーリーが完成されており、流れを大事にするためか楽章間をほぼ間髪入れず繋げます。そしてオケが優れて機能的で、応答が素晴らしく良く、何より音色が美しい。ご自慢の弦は言うまでもなく、金管も角がなく必要十分に鳴り渡り、オケが一体となって極めてナチュラルに、なめらかな盛り上がりを見せます。このようなひたすら美しい系のブルックナーが果たして王道かというと、異論もいろいろあるでしょうが、ヨーロッパの一流オケの誠実な仕事ぶりにいたく感動しました。それにしてもガッティの仕事人ぶりは相変わらずのハイレベルで、この人はとんでもなく優れたオケマイスターなのかもしれません。なお、オケメンバーは基本ヨーロッパ系の人ばかりで、第1ヴァイオリンに日本人らしき女性が一人いたのですが、プログラムを見ると韓国系の人でした。
2025.05.05 東京国際フォーラム ホールA (東京)
ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2025
Kensho Watanabe / 東京フィルハーモニー交響楽団
小林愛実 (piano-1)
David Kadouch (piano-2)
1. ロベルト・シューマン: ピアノ協奏曲イ短調 op.54
2. クララ・シューマン: ピアノ協奏曲イ短調 op.7
ゴールデンウィークのお祭りとして定着したラ・フォル・ジュルネに行くのも実に9年ぶりです。創始のころはけっこうなビッグネームも招聘していてお値頃感があったのですが、音響の悪いホールに加えて、値上がりしていくチケットと反比例してアーティストは年々小粒になり、毎年一応チェックはするものの、興味をそそられる演奏会がなく足が遠のいていました。今回はたまたま、シューマン夫妻のピアノ協奏曲セットという珍しい企画が目に止まり、久々に行ってみることにしました。
だだっ広いホールAがほぼ満員だったのは、やはり小林愛実さんの人気でしょうか。2021年のショパンコンクールのファイナリスト(結果は4位)で、同じく2位だった幼馴染の反田恭平氏とデキちゃった婚をしたエピソードなどもほぼほぼ興味なく、当日になって、あーそういえば今日のソリストは、と思い出したくらいです。
曲順とかよく把握しておらず、てっきりクララが先だと思い込んでいたので、颯爽と登場した小林愛実さんがオケと弾き始めたのがロベルトのほうだったのでちょっとびっくりしましたが、初めて聴く小林愛実さんを、よく知っているこの曲で聴けるのはラッキーなことだと思い直しました。ピアノの低音部が響かないホールのハンデはあるとは言え、総じた印象としては「のっぺりとしたピアノ」。運指のお手本のような正確さで、抑揚とかニュアンスとかを極力排除した即物的な演奏でした。終始しかめっ面で演奏されていますが、その表情からしてほとんど変化がない。別に顔芸をしろとは言いませんが、奏でる音楽の内容はある程度以上に顔に出ますので、自分の好みとはだいぶ違ったところにいる人でした。他国の人のことはわかりませんが、日本人の国際コンクール優勝者ってだいたいこのタイプのような気がします。まあ自分的には、反田氏共々しばらく封印でよいかなと。
続くクララの協奏曲のほうでは別のソリストが登場し、こちらも初めて聴くフレンチピアニストのカドゥシュ。39歳というアブラが乗り切った年齢であり、先ほどの小林愛実とは対極と言える、ニュアンスとメリハリを効かせたヨーロピアンスタイルで、こっちのほうが断然面白かったです。顔芸をするわけではないのですが、その微妙な表情変化がちゃんと演奏とリンクしていて、懐の深さが感じられました。カドゥシュのピアノでロベルトの協奏曲を聴いてみたかったです。今回の2曲を奏者で分けるなら、逆の方が良かったのではないかと。
なお東フィルはお仕事モードの淡々とした演奏。指揮者のケンショウ・ワタナベも、手堅くこなしたという以上の印象はありませんでした。まだ若く、本格的に売り出すのはこれからと思うので、今後の露出に期待したいところですが、両親日本人で横浜生まれの生粋日本人なのに、米国籍だから漢字を当てないプロモーション方針は、日本ではちょっと足枷になるのではと思います。
2025.04.26 NHKホール (東京)
Fabio Luisi / NHK交響楽団
東京オペラシンガーズ
NHK東京児童合唱団
Olesya Petrova (mezzo-soprano)
1. マーラー: 交響曲第3番ニ短調
本日の演目は、来月アントワープ、アムステルダム、ウィーン、プラハ、ドレスデン、インスブルックを回る欧州ツアーのAプログラムだそうです。日程を見るとこの曲をやるのはアムステルダムの1日だけのようですが、大規模なうえに、合唱団、児童合唱も調達しなければならないので、そうそうどこでもできるわけではないんでしょう。
にわか雨も上がり、NHKホールは当日券なしの満員御礼。コンマスは読響から移ったばかりの長原幸太氏です。第1楽章、9人揃えたホルンのユニゾンは気合い十分で力強く、その後も高い集中力でキビキビと進みます。全体的に見ても管楽器が途中でヘロヘロになるようなことはなく、特に、身体が温まってきた再現部のホルンはさらに素晴らしかったです。やはりルイージはこのような大オーケストラの交通整理が非常に上手いと感心しました。クサいベルカント風は抑え気味に、スタイリッシュかつ躍動感を際立ててまとめていきます。この圧巻の第1楽章は、欧州の口うるさい聴衆にも十分通用すると思いました。
第2楽章の前に女性コーラスと児童合唱団が登壇。人数はそれぞれ50人、40人くらいでしょうか。楽器メンバーにとっては第2〜第4の中間楽章は小休止という意味合いもあるのでしょうが、第2楽章はともかく、第3楽章まで来るとちらほらほころびが出てきて、「弱音の弱さ」が見えるようになりました。メゾソプラノが入る第4楽章は特に管楽器が雑になってきたうえ、ロシア人メゾのペトロヴァ自身、調子がイマイチで声が安定せず。オーボエのポルタメントもほとんどかからず、あっさりとした味付けです。
それでも第5楽章はコーラスがたいへん良かったです。オケとのバランスもちょうど良い感じの人数(声量)で、やはりルイージさんのバランスコントロールは素晴らしいものがあります。エピローグのような第6楽章は、休養十分な金管楽器を中心に、再び大音響のパワープレイに持って行きます。最後良ければ全て良し、この長丁場を耐えた甲斐がある盛り上がりでした。ダブルティンパニのユニゾンが、ずれないように奏者が必死で目配せしていたのが微笑ましかったです。
第1楽章は非常に素晴らしい出来でしたし、全体的にも良い演奏で、10年ぶりに生で聴いた甲斐がありました。ただ、欧州に出て行ってガチ勝負するとなると、ようやく準々決勝に残った、くらいのランキングが妥当なところでしょうか。
カーテンコールで、第3楽章の舞台裏のポストホルンではたいへん素晴らしい仕事をしたトランペット奏者がやんやの喝采をもらっていましたが、同じくバンダでがんばった小太鼓奏者にも日の目を当てて欲しかったなあと。
2025.03.15 ムーブ町屋ムーブホール (東京)
俳句×打楽器:會田瑞樹パーカッションリサイタル
1. 會田瑞樹: 《一茶の俳句による打楽器のためのコンポジション》(新作)
2. 木下正道: 《旅心 〜種田山頭火の俳句による〜》(新作)
3. 佐原詩音: 《病牀六尺 〜四季めぐる 子規と夢みる 十四の句〜》(新作)
4. 国枝春恵: 《芭蕉の俳句における4つの時》(新作)
5. 松村禎三: 《ヴィブラフォーンのために 〜三橋鷹女の俳句によせて〜》(2002)
荒川区の2024年度支援事業「あらかわ文化イベント企画応援プロジェクト」で「俳句」をテーマにした企画公募により採択された演奏会の一つです。演奏に先立ち、會田氏自らこの企画の趣旨解説があり、自身が幼少のころから俳句に慣れ親しんでいたこと、上京後の初演奏会がこのムーブ町屋で荒川区とは縁が続いていること、日本現代音楽の黎明期を支えた指導者の池内友次郎が高浜虚子の息子にして自らも俳人であったことから、「荒川区にゆかりの俳句、俳人をモチーフに打楽器独奏用の新作を委嘱する」というアイデアを思いついたとのこと。
というわけで、本日のプログラムは出来立て新作4曲の初演のあと、松村禎三作品でシメるという、アプサラスの松村賞披露演奏会みたいな構成です。まず1曲目は會田氏自らによる小林一茶の有名な俳句7句を題材にした組曲。よく通る美声で俳句を読み上げ、スネアドラムとタム各種、ビブラフォン、仏具のような金属打楽器など各種打楽器を駆使して、スナッピーをギターのように指で弾いたり、電動歯ブラシを押し当てたりと小技を効かせて多彩な音色を奏でていました。俳句から想起される情景、情感を素直に表出した作品と見受けましたが、打楽器ソロという制約から、効果音を模した直接的な使い方が主になります。
続いて、「ゲージツ家クマさん」のような風貌の木下正道氏による、種田山頭火の俳句集「旅心」を題材にした作品。先ほどの一茶が「ザ・俳句」とも言える定型性と大衆性で日本人の耳に馴染むのに対し、定型も季語も無視した山頭火の自由律俳句に当てた音楽は1曲目とは全くアプローチが異なり、スネア、ロータム、ウッドブロック、タンバリンなど限られた小物打楽器をセットに固定して、わざと変な抑揚で読み上げた俳句に打楽器で合いの手を入れるような曲作りになっていました。山頭火の俳句がそもそもぶっ飛んでてわけわからんので、作曲の意図も非常に難解、しばし意識を失ってしまいました。後から突然思い出したのが、高校の国語の授業で習い非常に印象深かった「馬 軍港を内臓してゐる」という短い句。これも山頭火だったのかなと思って調べてみたら、「馬」は北川冬彦の有名な一行詩であって、山頭火の自由律俳句とは別ジャンルのようでした。と言われても、素人にはその違いがよくわかりません。
次は正岡子規の晩年の随筆「病牀六尺」をタイトルに据え、14の俳句をモチーフにした佐原詩音氏の作品。副題が五七五になっていて、「四季」と「子規」、「めぐる」と「夢みる」が韻を踏んでいてなかなか素敵です。六尺(約1.8m)の病床を模した煎餅布団がひかれ、寝っ転がって咳き込みながらシロフォンを叩いたり、スライドホイッスルで戯けて、鈴をかき鳴らし、なかなかにやりたい放題の多彩な曲でした。普通のオーケストラで「木琴」はマリンバではなくシロフォン、「鉄琴」はヴィブラフォンではなくグロッケンシュピールが定番というか常識ですが、それら4つを全て駆使する曲は珍しいです。長く結核を患い、34歳の若さで亡くなった子規ですが、その俳句や文筆はむしろ明るいものが多く、この作品もその情緒的なものを楽しげな音として捉えようとした様子が伺えます。
新作の最後は、大御所の国枝春恵氏による松尾芭蕉の有名な4つの俳句から想起される情況、感慨を音に還元した作品。いたずらに音色を試すようなことはせず、ヴィブラフォンを中心に各種銅鑼・ゴング類の金属打楽器と太鼓をはべらせた比較的シンプルな楽器構成。コントラバスの弓でヴィブラフォンを擦ったり、お経のように俳句を詠み上げたりと、多少のトリックを入れながらも、ミニマルな俳句の世界を隙間の多い音で表現したのはベテランのなせる技かと思いました。芭蕉をモチーフにした現代音楽は、昨年亡くなった湯浅譲二がいくつも作品を残しているので、恐れ多いと最初は断ったそうですが、これはこれで一つの世界観として成功しているのではないでしょうか。と言いながら、自分も実はその湯浅譲二作品を一つも聴いたことがないので、単なる素人の感想です。
演奏会のトリを飾るのは、俳句と打楽器ということでこの曲は欠かせなかったのであろう、松村禎三「ヴィブラフォーンのために」。この曲を聴くのは第1回アプサラス演奏会で初めて聴いて以来になりますが、會田氏も学生時代、まさに同じ日のアプサラス演奏会で師匠の吉原すみれさんの演奏を聴いて感銘を受け、自身の演奏家デビューにこの曲を選ぶくらいに惚れ込んだということです。ここまでの新作群と違ってヴィブラフォンだけと向き合い、完全暗譜で臨んだ渾身の演奏は、とても丁寧で、かつ共感が伝わるものでした。曲としては多分かなり難解な部類になり、モチーフの俳句がいかなるロジックで目の前の音楽に繋がるのか、2回聴いたくらいでは全く理解が追いつきませんが、あれだけ思い入れたっぷりに演奏されると、なんだかわからないけど奏者の心は十分に響いてきます。また、前回聴いたときと同じ感想になりますが、この音響空間の圧巻の迫力は、レコーディングには決して収まらず、その場でライブ体験しないと絶対に感じ取れないものだと思いましたので、今回再びこの曲が聴けたのはたいへん得難い機会でした。
2025.02.18 サントリーホール (東京)
尾高忠明 / 大阪フィルハーモニー交響楽団
1. 松村禎三: 管弦楽のための前奏曲
2. ブルックナー: 交響曲第4番「ロマンティック」(ノヴァーク版)
記憶に間違いがなければ、大フィルを聴くのは1982年の「大阪国際フェスティバル」にて、アレクシス・ワイセンベルクがソリストでラフマニノフ2番とチャイコフスキー1番を一晩で弾くというコンチェルトの夕べ以来、実に43年ぶりです。それ以前にも朝比奈隆などの指揮で何度か聴いているはずですが、金管はよく音を外すし、正直あまりシャキッとしないオケ、という印象しかありませんでした。東京公演を毎年行っていて、近年は音楽監督である尾高忠明の指揮でブルックナーの交響曲と日本人の作品という組み合わせが定番のようですが、オケとしての優先順位は低いので、カップリングが松村禎三でなければ聴きに来ることはなかったでしょう。
サントリーホールは意外と客入りが良く、9割がた埋まっていました。さっそうと登場したのはソロコンマスのVaundy、ではなく崔文洙。チューニングが始まり、早速嫌な予感がしたのは、あまりに緊張感がなく、音が汚い。というか、安っぽい。大阪人はあまり楽器にお金をかけないのかなと。チューニング自体も、えっそれでやめちゃうの、と拙速な感じを残すものでした。はたして危惧していた通り、冒頭のオーボエは澄み切ったというには程遠い音色で、続くピッコロ6重奏も、最初からあんなにワウってたら繊細なスコアが台無しじゃー、と心で叫んでいました。こういった緩さ、おおらかさが昔から特徴というか、もしかしたら大フィルの魅力なのかもしれません。ただ自分の嗜好とは違うなあ、ということを再認識できました。
松村禎三「管弦楽のための前奏曲」を生で聴くのも超久々で、多分、CD化もされている1992年の都響定期演奏会(指揮は岩城宏之で、前奏曲、ピアノ協奏曲第2番、交響曲第1番というヴェリーベストプログラム)以来です。ついでの余談で、尾高忠明を見るのは2011年の札幌交響楽団ロンドン公演(ロイヤル・フェスティバル・ホール)以来ですが、その前に尾高さんを見たのは1998年のサントリー芸術財団主催「作曲家の個展:松村禎三」(この時は交響曲第2番の初演と、交響曲第1番、チェロ協奏曲というヘヴィープログラム)だったことを今ようやく思い出しました。話を戻すと、西洋音楽のフォーマットを使いながらも常に日本的、アジア的な文化の継承を意識し、音符ではなく古代建造物からインスピレーションを得て書かれたこの初期の傑作が、かつてほど取り上げられなくなったのは残念で、実演で聴けたのがまずは感謝です。この曲を聴くと、短すぎず長すぎない20分弱というコンパクトな時間内で巨大な伽藍が組み上げられていく様が脳裏に浮かびます。このような繊細な曲で(いやどんな曲でもそうなのですが)開始から早速ゴホゴホ遠慮なく咳をする輩があちらこちらにいて、コロナの効用で改善されたと思っていた咳マナーも、喉元過ぎればもはや風前の灯火です。
メインのブルックナー「ロマンティック」は、やはり大フィルの「あかんところ」がしっかりと出ていた演奏と思いました。この曲で特に重要なホルンは音出すだけで必死、出たら万々歳で満足の世界で、その先の「アート」が全くありません。指揮者も最初から野心を捨てている感じで、自分の音楽を淡々とこなすのみ。熱量を感じることができませんでした。第2楽章、ここはプロオケの強みで中音域の弦は充実していて厚みを増していたのですが、第3楽章のホルンはやっぱり音出しているだけの苦しい演奏。最終楽章はそもそも冗長で好きではないのですが、退屈さを凌げるだけの盛り上がりは聴けず。オケのスタミナ配分はきっちり管理していたのか、最後まで管楽器を中心にバテる様子はなく鳴らし切っていました。しかし全体を通してまた聴きたいと思う要素がなく、大フィルのブルックナーは自分のためのものではないなと。クラシックの場合、たいていの曲はどんな演奏だったとしても「実演に勝るものなし」という一面がありますが、ブルックナーだとそうもいかない、ということを悟りました。今日のような演奏を聴きに出かけるくらいなら、家でハイティンクのCDを聴いているほうがずっと心に染みました。(単なる個人の見解ですので、気を悪くされた方がいたらすいませんです。)
2025.01.25 すみだトリフォニーホール (東京)
佐渡裕 / 新日本フィルハーモニー交響楽団
1. マーラー: 交響曲第9番 ニ長調
今年最初の演奏会は、佐渡裕のマーラー9番。佐渡さんお得意のマーラーは、1990年代前半のころに1番、3番、4番を聴いたはずですが、それ以降はご無沙汰です。佐渡さんを見るのも何と12年ぶり、前回はパリ管@サル・プレイエルでした。新日本フィルの音楽監督になってから、演目が面白くないのでちょっと避けていたかも。マーラーの9番を聴くのもえらい久しぶりだなと思ったら、前回は7年前の読響/カンブルラン、まあコロナ禍のおかげでたいがいのものは「久しぶり」になりますね。
さて、その1990年代頃の佐渡裕は、「レニーの弟子」を看板に、熱気あふれる汗ムンムン演奏というイメージがあり、実際、テンポや間の取り方がバーンスタインのレコードと基本同じだったりして、その分安心して聴ける指揮者ではあったのですが、フランスでのちょっと長めのキャリアの後、ベルリン、ウィーンと渡り歩く過程で、ずいぶんと垢抜けてスタイリッシュな演奏をするようになったなあという印象です。
開演前に佐渡さんの解説というよりミニトークがあり、バーンスタインのマーラーについての少年時代の思い出話を披露。ほどなく始まった第1楽章は、冒頭の弦のフレージングなどレニーばりに粘った部分もありつつも、テンポは遅めで慎重に進んでいく端正なマーラー像。個人的には山場で感情的な盛り上がりに欠けるのはちょっと退屈しました。第2楽章は素朴なレントラーで、特に仕掛けなし。第3楽章、開始のトランペットが惜しく、周囲では多くの人がビクッと反応していました。最後のコーダに向けて加速していく狂乱はなかなかのもので、ここはレニーを超える激しさでした。終楽章は止まりそうに遅いテンポこそ晩年のレニー風でしたが、他の人があまりやらない執拗なポルタメントをかけ、独自の境地を切り開いていたと思います。もはやレニーチルドレンではない佐渡裕をあらためて認識しました。
オケはヘロヘロにならず、最後までよく鳴っていたのでその頑張りに拍手。ただ、欲を言えば、いちいち惚れ惚れするようなソロパートを聴かせてくれたロンドン響やNYフィルの演奏をまた聴きたいなあという思いがふつふつと…。