クラシック演奏会 (2020年以降)


2024.02.09 サントリーホール (東京)
山田和樹 / 読売日本交響楽団
藤原道山 (尺八-2), 友吉鶴心 (琵琶-2)
1. バルトーク: 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽
2. 武満徹: ノヴェンバー・ステップス
3. ベートーヴェン: 交響曲第2番ニ長調

 本日の演目は、弦チェレは10年ぶり(前回は大野/都響)、ノヴェンバー・ステップスは11年ぶり(大野/BBC響)、ベト2は14年ぶり(アントニーニ/ベルリンフィル)と、どれも非常に久々に聴くものです。尺八、琵琶のお弟子さん筋なのか、お客はいつもより和服の人が多かったです。
 本日のステージは円形の雛壇が組んであり、弦楽器の後方が普段より高いところに位置していました。ちょっと奮発してストール席を取ったのですが、前方の際の方だったので肝心の打楽器、チェレスタが弦奏者に遮られて見えにくい。なぜこのような配置なっているかというと、弦チェレと武満がどちらもスコアで左右対称な対向配置になるよう指定されているためで、想定しておくべきでした、残念…。
 1曲目の弦チェレはバルトークの代表作ですが、特殊な編成になるので演奏会のプログラムに乗ることが意外と少ないです。ヤマカズさんは昨年の都響で三善晃「反戦三部作」を聴いて以来です。それに比べると今日の演目はリラックスして聴けるので、実際ヤマカズも飛んだり跳ねたり、本来の明るいキャラクターで千手観音のような指揮ぶりでした。オケの配置の特徴から指揮者のバトンさばきも、指揮棒を持たずに右手と左手が左右対称で動くか、あるいはシンクロした動きになるかで、「ダンス度」が非常に高い、見ていて飽きないものでした。一方でこの配置と雛壇のおかげで、音がいったん上に飛んでから降りてくるため左右の微妙なズレが強調され(真正面で聴いていた人は違うのかもしれませんが)、また音の重心が高く、低音が腹の底から来ないところがちょっと不満ではありました。演奏そのものはメリハリが効き、ゆさぶりも大きくライブ感溢れる好演だったと思いますが、細部の仕上がりがちょっと雑だった印象です。第1楽章が消え入るように終わるところで大きなくしゃみをやらかした輩がいましたが、コロナ禍もすっかり明けて聴衆はまた緩んできていますかなー。
 ここで休憩ですが、演目の編成を考えると武満までやってから休憩にしたほうがいいのにな、と思いました。メインがベト2だと軽いとかバランス悪いという理由なら、いっそ1曲目をベト2にする手もありますし。大昔聴いた京大オケ、外山雄三指揮の演奏会がそんな感じでした。ベト2で始まり、ドヴォルザークのチェロコンと続き、最後は「三角帽子」第2組曲で締めるという(しかも「三角帽子」の終曲を再度アンコールでやるという効率の良さ)。
 後半最初の「ノヴェンバー・ステップス」は、武満のみならず全ての邦人現代音楽の中でも突出した代表的作品。実演は2013年にロンドンBBC響の「Sound from Japan」で聴いて以来(このときは意外にも英国初演だったそう)の2回目です。ソリストを携えずマイクを手に一人で登場したヤマカズ氏から告げられたのは、「小澤征爾先生が亡くなられました」という訃報。場内「えっ」というどよめき。亡くなったのは2月6日だったそうですが、発表は9日の夜7時過ぎで、当然ほとんどの人は訃報を知らず。くしくも本日の演目は小澤征爾とゆかりが深い曲ばかりで、特に「ノヴェンバー・ステップス」は小澤の推薦によりNYPの創立125周年記念委嘱作品として世に生まれ出た曲です。しかも小澤指揮のNYPで1967年に初演された際、カップリングされたのがベートーヴェンの第2番という、偶然というにはあまりに揃いすぎているこのプログラム。ヤマカズ氏は、演奏会で暗い気持ちにさせるのは先生の本意ではないはずなので、黙祷はせず、この演奏を先生に捧げます、とのこと。
 この曲のリファレンスとしては、小澤/トロント響、ハイティンク/コンセルトヘボウ、若杉/東京都響の3種のレコーディング(ソリストはいずれも初演者の横山勝也と鶴田錦史)と、前回実演で聴いた大野/BBC響の演奏をBBC Radio 3で放送した際エアチェックした音声データが手持ちのライブラリにありましたが、そのどれともまた違う個性的な演奏でした。まず私は純邦楽の知識も素養もほぼ何もないただの素人リスナーであることをお断りしておくとして、一見シュッとした若手イケメンに見えるものの実はそんなに若くない藤原道山の尺八が素晴らしかったです。今まで聴いたことがない澄み切った音色の尺八で、まるで美声の詩吟のように朗々とした唄がホールに響き渡ります。もちろん尺八特有のノイジーな奏法もふんだんに使われていますが、無理に力強さを出そうとせず、一貫して透明感をキープ。西洋の機能的な木管楽器寄りのアプローチで、一歩後ろに下がったオケの前に君臨する圧倒的ソリストという図式は伝統的なクラシック音楽との垣根を感じさせませんが、これを近代フルートではなく尺八で実現させているところが凄いです。一方の琵琶師、友吉鶴心は初演者鶴田錦史の直系弟子で、こちらは師匠譲りの力強いインパクトがありました。西洋クラシック音楽の伝統から見たら調律の狂ったノイズでしかない、もはや音とも音楽とも言えないような薩摩琵琶の様々な奏法が孤軍奮闘でオーケストラさらには尺八と対峙します。楽器と音自体はしなびた感じですが、バルトーク・ピチカートを思わせる弦を胴体にバチンと打ち付ける撥弦奏法(何て呼ぶのかわかりません)のキレは抜群。オケは協奏的な伴奏というより合いの手に徹し、あくまで後方に下がってソリストを支えますが、トランペットなどはもうちょっと繊細に対処してもらいたかったという不満はちょい残るものの、ヤマカズ氏の最初の言葉通り、渾身、入魂の「ノヴェンバー・ステップス」だったと思います。最後に断末魔のように息切れた尺八のあと、ずいぶんと長く静寂を引っ張ったのは、まさに小澤先生への哀悼の思いがあったのでしょう。タクトを下ろしたあとは、聴衆皆それぞれの追悼の意を込めて盛大な拍手が続きました。
 この後のベートーヴェンのために配置を変えるのでけっこう時間を取っていて、やっぱり休憩の位置が間違っていたのでは、との思いは消えず。最後のベト2ではさすがに普通の対向配置に戻すのではと思っていたら、二つの弦楽群を完全に左右対向に分けた配置は踏襲したまま演奏を始めました。ヴァイオリンの第1を左、第2を右という伝統的な対向配置ではなくて、第1、第2がどちらも均等に左右に分かれているのは、私は初めての経験で、結論から先に言うと目的とか効果が最後までよくわかりませんでした。左右で均等に鳴っている弦楽群(さらにはそのせいで倍に補強されている管楽群も含め)は、勢いは確かにあるのですが、学校の運動会を連想させるスピード感と落ち着きのなさで、何だかわちゃわちゃしてアンサンブル精度の悪い演奏に聴こえました。よく見ていると対向配置といっても、第2楽章冒頭はヴァイオリンとヴィオラのトップだけにしてみたり、第3楽章のトリオ部では左群のオケだけ鳴らしてみたりとか、スコアの改変に近い仕掛けもあり、細部に何か意図はありそうですが、まあそんな繊細な話は抜きにしてもヤマカズ氏はここでも大熱演。思いが強烈に伝わるダイナミックな指揮ぶりで、この特別な日に特別な演奏会に遭遇できたことをたいへん感慨深く思います。


 小澤征爾氏の訃報に接し、まずは心より哀悼の意を表します。まだまだこれからという時に、というわけでもなく、とうとうこの時がきたか、という思いではあります。
 自分がクラシック音楽を聴き始めたとき、すでに大スターでした。特に日本では、カラヤン、バーンスタインと肩を並べる三大巨頭として、クラシックが趣味ではない人にも名が知れ渡る人気ぶりでした。
 実演を聴くことができたのは2回しかありません。
 最初は1981年10月のボストン響との来日公演初日、大阪フェスティバルホールでの「田園」と「春の祭典」という濃いカップリング(これがAプログラム)。正直、細部はよく覚えていませんが、初めて聴いた海外一流オケの圧倒的パワー(特にヴィック・ファース氏の強烈なティンパニ)に感銘を受けました。このとき、田園のスコア表紙に書いてもらった小澤氏と、さらにコンマスのシルヴァースタイン氏のサインは生涯の宝物です。さらには、このときのBプログラムであるウェーベルン「5つの小品」、シューベルト「未完成」、バルトーク「オーケストラのための協奏曲」が、権利にうるさいアメリカのオケとしては珍しくNHK-FMで生中継されており、そのエアチェックのカセットテープも後生大事に持っています。ここで聴いたオケコンがあまりに刺激的で、私のバルトーク好きを決定づける原点となりました。余談ですが、この演奏会では小澤氏が「短い曲なのでもう1回聴いていただきたい」と言ってウェーベルンを2回繰り返すという異例のハプニングも、生放送なのでそのまま放送されていました。
 2回目は、長年の因縁と紆余曲折を経て、演奏家へのチャリティーという名目で1995年に実現した32年ぶりのN響との共演。N響との確執はリアルタイムでは知らないので特に関心も感慨もなかったのですが、何より小澤のオケコンが聴ける、というその一点で必死にチケット取りました。演奏会当日の直前に発生した阪神淡路大震災の追悼に「G線上のアリア」が最初に演奏され、ロストロポーヴィチによるアンコールの「サラバンド」が同じく追悼で演奏された後、全員で黙祷し、拍手のないまま散会という異例づくしの演奏会でした。オケ側に固さとミスは多少あったものの、スリリングな緊張感を保った小澤のオケコンは期待通りの感動で、ハイテンションのまま帰路についたのを覚えています。
 世が世なら3回目としてチケットを取っていたのが、2012年のフィレンツェ五月祭劇場のバルトーク「中国の不思議な役人」「青ひげ公の城」ダブルビル。前年のサイトウ・キネン・フェスティバルで初演されたノイズム振付・演出のプロダクションをそのまま持ってくる予定だったのですが、小澤氏はこの直前から病気治療のため長期休養に入ることになり指揮をキャンセル。仕方がないとは言え肩透かしを喰らいました。
 レコードで好きだったのは、やはり一番アブラが乗っていた1970年代後半から80年代にかけてのドイツ・グラモフォンへの録音で、マーラー「巨人」、プロコフィエフ「ロミオとジュリエット」、バルトーク「役人」も素晴らしかったですが、特にレスピーギ「ローマ三部作」とファリャ「三角帽子」の完成度は、今なお自分の中のリファレンスになっています。
 入手困難だった廃盤や自主制作盤が、これを機に再発してくれたら、とは切に思います。その筆頭は何と言ってもボストン響との「青ひげ公の城」1980年ライブ。サイトウ・キネン・フェスティバルの「中国の不思議な役人」「青ひげ公の城」は当時NHK-BSで放送されていたようなので、その再放送もやってくれたらたいへん嬉しいのですが。


2024.01.27 ティアラこうとう 大ホール (東京)
高関健 / 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
目等貴士 (timpani-2)
1. モーツァルト: 交響曲第32番ト長調 K.318
2. カーゲル: ティンパニとオーケストラのための協奏曲
3. R. シュトラウス: 交響詩「ドン・ファン」
4. R. シュトラウス: 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

 在京各オーケストラのシーズンプログラムは出たら一通りチェックをしているのですが、2022年の11月、あまり聴きに行くことがないシティフィルの2023-2024シーズンラインナップを見ていて、最後のほうにマウリシオ・カーゲルのティンパニ協奏曲を見つけて思わずのけぞりました。噂のあの曲が生で聴ける(見れる)とは、1年以上先の話ですがずっと楽しみにしておりました。しかし今年に入って、神奈川フィルでもこの曲をやることがわかり、二度びっくり。しかもシティフィルよりも1ヶ月早く。こちらも聴きに行きたかったところですが、あいにく都合が合わず断念。それにしても、こんなマイナーな曲が同じシーズンで「偶然カブる」なんてことがあるんでしょうか?神奈川フィルのほうはリアルタイムでプログラム公開を追っていたわけではないので確信はないのですが、例年神奈川フィルの定期演奏会プログラムはシティフィルよりも前に公表されているものの、「華麗なるコンチェルトシリーズ」の内容は逆に数ヶ月遅れで出ているようなので、神奈川フィルのほうが後追いだったのではないかと怪しんでいます。まあ、別にどちらのかたを持つわけでもないのですが、シーズンラインナップでさらっと発表し、直前のチラシでもネタバレなしで節度を守ったシティフィルに対して、神奈川フィルはチラシのオモテに「ティンパニに頭から突っ込む人」のいらすとや画像を大きく載せて壮大にネタバレしていたり、ソリストの篠崎史門氏(主席奏者、N響の名物コンマス「まろ」さんの息子ですね)が「ひるおび」にビデオ出演して何度も実演して見せたり、慎みのないハシャギようにちょっと閉口していました。
 「あまり聴きに行くことがないシティフィル」と書きましたが、単独の演奏会を聴くのは多分初めてです。会場のティアラこうとうホールもお初にやって来ました。1300席ほどでシューボックス型のコンパクトなホールで、ステージが近く、自然に柔らかい感じの程良い音響です。座席がちょっと窮屈なのが玉に瑕。1曲目のモーツァルト32番は、演奏頻度の少ないマイナー曲ですが、モーツァルトは苦手な私もたまたま5年前にブダペスト祝祭管で聴いて以来の2回目です。3楽章構成ですが切れ目がなく、通しでも10分に満たない序曲のようなショートピースで、実際「序曲」という副題で呼ばれることもあります。高関さんは昨年のN響でブロムシュテットの代役で登場したのを聴いて以来。カリスマとかスケール感というよりは下町のおっちゃん風の距離の近さが持ち味と思うので、この江東公会堂はちょうど良い箱かもしれません(悪口ではなく)。アンサンブルはしっかり鍛錬されている様子ですが、音が雑味を含み垢抜けなく、ホルンがちと弱い感じです。まあ、こんなもんかなというモダンなモーツァルト。
 本日のお目当て、2曲目のカーゲルですが、これはやはり実演を見れて本当に良かったです。私が見た限り、この曲の動画はYoutubeに2種類上がっており、全曲聴けるのはカンブルラン指揮ポルト国立管のライブ映像ですが、正直これを聴く限り、ティンパニの様々な特殊奏法はパーカッショニストの端くれとしてたいへん興味深いものの、曲としてはあまり面白いと思えませんでした。しかし実演で聴くと(見ると)印象はだいぶ変わり、4管編成で打楽器多数のカラフルな大オーケストラが作り出す音響空間とティンパニの乾いた打音の掛け合いがこの曲の醍醐味だとわかりました。またティンパニを様々な撥を持ち替え叩くだけでは飽き足らず、マラカスで叩く、ミュートの上から叩く、小太鼓のスティックでロールする、しなやかな竹の撥を革の上でびよよよーんと弾く、さらにはメガホンで声をケトルに共鳴させるなど特殊奏法のオンパレードは、音だけではない視覚効果が付いて初めて完成するパフォーマンスだと悟りました。これらは実演でないと絶対味わえず、是非生で見るべき、聴くべき曲だと心底思った次第です。
 ソリストの目等(もくひと)氏はシティ・フィルの主席奏者で、短髪に剃り込み、薄い眉に傷、丸メガネといった風貌がいかにも「やんちゃ系の人」で、クラシック奏者には見えません。腕前がどうかも、こんな変な曲では全く判断はができないのですが、理想的な姿勢で、音の粒はクリアに揃っていて、しっかりとした基本を持っている人だと思いました。最後に突っ込むダミーのティンパニは客席から見えやすいように指揮者からは一番遠い側に置くことになるのですが、目等さんは他のティンパニがドイツ式配列(右手が低音)だったので、最後に最低音のティンパニのロールでグリスダウンしていき、ストップしたら向きを変え、しっかり溜めて大見えを切ってからダミーティンパニに頭を突っ込むその一連の動作が、ダイナミックで実にカッコよかったです。上半身がすっぽり埋め込まれた姿勢もまさに楽譜指定の通り理想的なものでした。YouTubeのポルト国立管の人は配列がアメリカ式で逆(左手が低音)だったせいで、最後の突入が隣のティンパニに急に突っ込むので唐突感がありました。しかし、ふと思ったのですがティンパニというのは、オーケストラの要でありながらも、普通の弦楽器、管楽器やピアノと違ってヴィルトゥオーソが成立しないというか、格別な超絶技巧をひけらかす楽器ではないので、協奏曲やソロ曲になるとどうしても奇抜な奏法に走ってしまうしかないのだなあと。同じ打楽器でも、ヴィブラフォン、マリンバ、はたまたドラムス(ドラムセット)だったら凡人は真似できない超絶技巧の演奏が世の中には多々ある一方、やっぱりティンパニ協奏曲という発想自体がそもそも無理筋なのではないかと思えてきました(だからこそチャレンジし甲斐があるのかもしれませんが)。
 後半はリヒャルト・シュトラウスの著名な交響詩2曲。聴きたくなくても聴かされてしまう定番曲だけに、どちらかというと避けていたのですが、気がつけばドン・ファンは10年ぶり、ティルに至っては17年ぶりの実演です。前半のインパクトに比べるとちょっとまた粗に目が行くというか、キレが悪い雑なところが気にはなったものの、全体的には熱のこもった好演でした。精緻なアンサンブル、輝かしい音色、迫力ある音圧は望めないものの、まずは気合いで勝負のオケと見受けました。ホルンが命のシュトラウスですが、やはり気合いが入っていたのか、最初に感じた弱さほどホルンは悪くなかったです。また、さっきの目等氏がスーツに着替えて普通にティンパニ叩いてました。ソリストの派手なパフォーマンスとは異なり、至って普通に控えめなティンパニでした。シェフの高関氏は、うーん、まだちょっとよくわからない。おおらかなスケール感よりも精緻な組み立てを目指す人のように思えますが、オケも含めてこれが高関だ!という色が見えず。もっといろんなオケで聴いてみたいものです。


2023.12.05 サントリーホール (東京)
Sylvain Cambreling / 読売日本交響楽団
Pierre-Laurent Aimard (piano-2)
1. ヤナーチェク: バラード「ヴァイオリン弾きの子供」
2. リゲティ: ピアノ協奏曲
3. ヤナーチェク: 序曲「嫉妬」
4. ルトスワフスキ: 管弦楽のための協奏曲

 多分今年最後の演奏会になるのは、「東欧の20世紀」と題した、そそる一夜。とは言えヤナーチェクの「嫉妬」はギリ19世紀の作品ですが。国もチェコ、ハンガリー、ポーランドと、各々は「十把一絡げにしてくれるな」と怒りそうな、ナショナルアイデンティティの強い国ばかりの寄せ集めになってます。もちろん、それぞれどれも好物の私はこういう企画大歓迎です。なお、今年は生誕100年の記念イヤーであるリゲティを筆頭に、ちょっと苦しいですが、ルトスワフスキは生誕110年で来年没後30年、ヤナーチェクは来年生誕170年というこじつけっぽい記念イヤーの上塗りも可能なプログラムとなっております。
 カンブルランは5年ぶりになります。もちろん、少なくない指揮者、演奏家は4年以上ぶりになるわけですが、カンブルランはわりと毎年聴いていたので、コロナ禍がなければ、その間もコンスタントに聴いていたことでしょう。やっている音楽のわりには気難しさはあまりなく、しかし芸術家の気品と風格が滲み出ている現代のカリスマだと思います。今回のヤナーチェクの2曲は、他人が取り上げない曲をあえて持ってくる、彼らしいこだわりが見えました。だって、ただでさえリゲティとルトスワフスキとくれば、せめてヤナーチェクは「シンフォニエッタ」を選びたくなるのが人情というもの。1曲目「ヴァイオリン弾きの子供」は全く初めて聞く曲で、家にあるヤナーチェク管弦楽曲集にも入っていませんでした。ストーリーのある親しみやすい交響詩で、本日のゲストコンマス(コンミス)日下紗矢子さんのソロが冴えていました。
 2曲目のリゲティのピアノ協奏曲も、記念イヤーで今年CDを買うまでは聴いたことがなかった曲。元々リゲティは、ハンガリーに住んでいたころからもっと聴いていてもよかったはずですが、何故かほとんど接点がありませんでした。ポリリズムを駆使した複雑なリズムを醸し出す曲で、リゲティらしさとしては、オカリナ、スライドホイッスル、ハーモニカといった、普段オーケストラでは出てこないので打楽器奏者の担当となりがちな「変な笛類」がふんだんに登場します。小編成なところも含めて、3月に聴いたヴァイオリン協奏曲とよく似ていますが、内容はいっそうシリアスで、カタブツな変態という感じでしょうか。こういった変態曲を得意とするエマールは、もっと聴いたかと思っていたのですが、実演を聞くのは2006年以来、17年ぶりでした。何せ簡単に飲み込める曲ではないので深いことは何も言えませんが、複雑な地図を見失わないようなキレの良いリズムのピアノに、オケもぴったしと寄り添っていく引き締まった演奏でした。エマールのキャラは小難しい理屈屋とは真逆で、基本的に明るいエンターティナーの人とお見受けしました。アンコールは「もちろんリゲティ」と言って、民謡を基調とした親しみやすい小曲を2曲披露してくれました(「ムジカ・リチェルカータ」の第7、8曲だそうです)。
 休憩後は再びヤナーチェクのマイナー曲。序曲「嫉妬」は、元々は代表作の歌劇「イェヌーファ」用に書かれたが自ら棄却したものだそうで、そのためにあまり日の目を見られることがない不幸な曲になってしまいました。この曲はうちにあったマッケラス/チェコフィルのCDに入ってましたが、どうしてどうして、ティンパニが終始活躍するカッコいい曲で、短い中にも展開が凝縮された佳曲だと思います。カンブルランはここでも力強くリズムを刻み、けっこうわかりやすい演出でこの隠れた名曲をドラマチックに披露します。
 最後のルトスワフスキは、世に数ある「管弦楽のための協奏曲」の中ではおそらくバルトークの次に有名な曲。と言ってもかなり大差がある2位ですが。3位は多分コダーイで、この形式は東欧の作曲家と相性が良いようです。それ以外は、知名度において足元にも及びません。それでこのルトスワフスキですが、実演は10年前の生誕100年記念イヤーでパッパーノ/LSOで聴いて以来の2度目になります。民謡を素材として展開させる手法はバルトークと同様ですが、ソ連共産圏の支配下にあった1950年代の作曲なので、バルトークのようなカラフルさや遊び心はあまり見られず、形式を重んじた硬派一筋の音楽に思えます。いかにも厳しい圧制下に書かれた重苦しい曲として演奏することもできそうですが、カンブルランはそういう小細工なしに、重厚さは失わずともすっきりスタイリッシュに、実にカッコ良い音楽としてすっと聴かせてくれました。7人の打楽器は皆さん渾身の集中力で、金管のリズムが少しもたり気味の感はあったものの、全体的に音圧もバランスも説得力十分。やはりカンブルランにハズレなし、来年も聴きに行こうと意を決したのですが、シーズンプログラムの速報を見ると、来年は1回しか来てくれないんですね…。


2023.11.25 みなとみらいホール (横浜)
Kahchun WONG / 日本フィルハーモニー交響楽団
福間洸太朗 (piano-2)
1. 小山清茂: 管弦楽のための木挽歌
2. プロコフィエフ: ピアノ協奏曲第3番 ハ長調
3. チャイコフスキー: 交響曲第6番《悲愴》 ロ短調

 このところ「念願の選曲を落穂拾いする演奏会」が続きます。今日のお目当ては「管弦楽のための木挽歌」、この一択でわざわざ横浜までやってきました。元々この演奏会はラザレフが振る予定が来日中止になり、首席指揮者のカーチュン・ウォンが尻拭いを買って出た経緯があって、メインの「悲愴」以外の演目を差し替えた中になんと「木挽歌」が入っているのに気づくのが遅れてしまい、26日の東京芸術劇場はすでに別の予定を入れてしまっていたため断念、しゃーないのーと、6年ぶりに横浜みなとみらいホールへやってきたのでした。
 シンガポール華僑出身のウォンは、2016年のマーラー国際コンクールで優勝した実力者の若手。来シーズンから英国ハレ管の首席指揮者も兼務するそうです。日フィルでは申し訳程度に武満を数曲演奏するだけではなく、それ以外の日本人作曲家も積極的に取り上げてくれているのがナイスです。今日の「木挽歌」も、昔はともかく、今は日本の指揮者ですら滅多に演目に上がらないのが非常に残念。
 「木挽歌」は、9月に聴いた外山雄三「管弦楽のためのラプソディ」と同じく、大昔に部活のオケで演奏した思い出深い曲になります。レコードは3種類持っていますが、実演は一度も聴く機会がありませんでした。この曲は多彩な打楽器が使われる「ラプソディ」と違って、登場する和楽器は締太鼓と櫓太鼓のみ。演奏した当時の自分の担当は櫓太鼓でした。太い撥を持って、皮と枠を叩きつつ日本の祭のリズムを奏でていきますが、皮と枠がそれぞれ別々なので一人でやるのはけっこう大変。さてプロのお手前はと思って見ていたら、何と太鼓の両側から二人がかりで、一人は皮、一人は胴に専念して叩いてました。そうか、そうするものだったのか。一人でも演奏不可能ではないのですが、皮面を片手だけで連打するなど、和太鼓奏法としてはあまり見栄えがよろしくないので、今更ながらの発見です。後輩の指導もあって打楽器パートは全て自ら演奏できるよう叩き込んだので、大昔なのに今でも隅々まで頭に残っており、ティンパニ5台を使ったけっこう長尺の豪快なソロ(高々10小節ですがティンパニが主旋律でここまで引っ張るのはなかなか他にない)も含め、懐かしさはひとしおでした。
 今日のプログラムでちょっと気になったのは、「フライング・ブラヴォー・トラップ」(と私が勝手に命名)が二つもある、ということ。「悲愴」の第3楽章は特に頻度が高く、盛り上がってダダダダンと終わった直後に思わず拍手、あまつさえブラヴォーを叫ぶ人もいたりする有名な「トラップ」ですが、マイナーながら「木挽歌」の終曲にも同様のトラップがあります。ウォンは最後うまい具合に音圧を頂点に持っていき、fffの全奏の後、一人だけffffのドラの響きが余韻として残る中、いつのまにか入ってきた低弦の上でバスクラリネットが静かに主題を回想するコーダが、今日は拍手に邪魔されることなく完璧に仕事を終えていました。自分の過去の経験では三度くらい人前で演奏したうち、毎回必ずバスクラソロの前で拍手喝采が起こっておりましたが、さすがに日フィルの定期演奏会、しかもソワレでは皆さんちゃんとマナーをわきまえていらして、フライング拍手は杞憂でした。ウォンの巧みなバランスコントロールと、「悲愴」で使うのとは別の小ぶりなドラを(多分わざわざ)用意したことも功を奏したのではないかと思います。何より、この曲をようやく生演奏で聴けたのが、本当に良かった。ウォンはなぜか、指揮者用の大判スコア表紙を終演後に何度も客席に掲げていて、彼自身もよほど気に入った曲なのでしょうか。
 続くプロコフィエフのピアノ協奏曲は、特に避けていたわけでもないのですが、5曲もあるのに過去に聴いたのは第2番を1回だけでした。おそらく一番演奏されているであろうこの第3番は、ロシア革命を避けてアメリカへの亡命途上に滞在した日本で、芸者遊びをしていた際に聴いた長唄が第3楽章主題のヒントになったというエピソードが有名です。ただしこの小ネタは日本でだけ有名なんだそうで、実際に聴いた印象でも特にジャポニズムを感じるわけでもなく、それよりも快活でメカニカルなヴィルトゥオーソピアノと、最後のほうのフィリップ・グラスをちょっと彷彿とさせるミニマルミュージックっぽい展開が印象に残ります。福間洸太朗は初めて聴くピアニストですが、シュッとしたイケメン(年齢的にはイケオジか)タイプで女性人気が高そう。ピアノはあまりパワーを感じない軽めのテクニシャンという印象で、モーツァルトのほうがハマるんじゃないでしょうか。しかし、ウォンは見た限りこの複雑なスコアを乗りこなすことに腐心し、あまりソリストのほうを気にしていないようにも見えました。ちょっとピアノが浮いているように思えたのはそのせいかもしれません。
 メインの「悲愴」はあらためて申すことはない著名曲ですが、気づけばインバル/都響で聴いて以来の5年ぶりです。この曲は指揮台を立てずに暗譜で、第3楽章まではいたって普通というか、オケのバランスには細心の注意を払いつつも、気を衒わないオーソドックスな進行。心配した「フライング・ブラヴォー・トラップ」も、「木挽歌」を切り抜けた今日の聴衆が引っかかるはずもなく、何事もなく最終楽章へ。ウォンはここで急にモードを変え、小柄な体格を目一杯動かして感情を表現し、全身でオケに揺さぶりをかけます。この曲はそもそもがそういう曲なので、ある意味これが正統派の解釈とも言えます。総じてクオリティの高い「悲愴」だったと思いますが、こういう超有名曲ならもっとクセのある演奏で聴けた方が個人的には楽しめるかなと。ウォンはバランス感覚に優れ、オケとの連帯感も感じられたので、良い人を連れてきたものだと思います。まだ若いし、じっくり腰を据えてくれたらよいのですが、いろいろ掛け持ちをしているので、引き留めるのは難しいのかもしれません。


2023.11.10 NHKホール (東京)
Gergely Madaras / NHK交響楽団
阪田知樹 (piano-2)
1. バルトーク: ハンガリーの風景
2. リスト: ハンガリー幻想曲
3. コダーイ: 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」

 小雨の中、NHKホールへ。雨降りには一番嫌なホールです。それでも、このところ続いている「念願の選曲を落穂拾いする演奏会」なので気分はハイです。「ハーリ・ヤーノシュ」は昔から大好きな曲で、ハンガリーに住んでいたころ全曲版の舞台を1回見ることができたのはラッキーでしたが、ハンガリーにいてさえ滅多にやってくれない演目です。コダーイはバルトークと並び立つハンガリーの2大巨塔とはいえ、やはりレパートリーの人気度ではバルトークとの落差を感じずにはおれません。「ハーリ・ヤーノシュ」の組曲も、もしプログラムに見つけたら万難を廃して聴きに行ってるはずですが、曲の知名度に比してなかなか演目には乗らない曲。前回組曲版を実演で聴いたのは40年以上前、山田一雄指揮の京大オケまで遡ります。
 今回N響には初登場のマダラシュは、昨年都響で聴いて以来です。土着のネチっこさとスタイリッシュさを兼ね備えた、今どきのハンガリアンという印象。1曲目「ハンガリーの風景」はバルトークが自らのピアノ曲を寄せ集めて管弦楽に編曲し直したもので、個人的にもよく聴く曲ですが、実演は意外と初めて。マダラシュはキレの良いリズムの中に、ハンガリー民謡の独特の節回しを一所懸命伝えようと奮闘し、オケも若い指揮者に喰らいついて行こうと頑張る姿がN響らしくなく微笑ましいです。譜面台にはポケットスコアを置いていましたが、ほとんど見てない。そう言えば、ハンガリー出身の指揮者は古今東西沢山いらっしゃいますが、日本のオケを振っている姿はあまり目に浮かんでこないので、本場もののハンガリーは意外とレアケースなのかも。
 次のリストの「ハンガリー幻想曲」は、一転して民謡色が薄れ、リストが捉えたハンガリーの音楽であるロマ色が濃くなっています。全く知らない曲でしたが、リストらしいヴィルトゥオーソの嵐。風貌からはもう少し年長に見える(失礼!)阪田知樹はまだ20代の人気の若手ピアニスト。長身で手が長くゴツい印象で、ラフマニノフのようです。力強いタッチと正確によく回る指は、もちろん教育と鍛錬もハンパじゃないとは思いますが、恵まれた体格が天賦のモノを感じました。個人的には、長髪は昭和臭が漂うのでやめた方がよいと思います。技巧的なリストを弾ききったあとは、アンコールでバルトーク「3つのチーク県の民謡」をサラッと弾いてくれてラッキー。ブダペストのリスト国際コンクールで優勝しただけあって、このあたりがオハコなんですね。
 さて、メインイベントの「ハーリ・ヤーノシュ」。只々、感動です。舞台が遠かったので音量はオケに負けていましたが、それでもツィンバロンの響きが非常に懐かしい。そんなに長い曲ではないのですが、N響からは大曲に取り組むような気合が感じられ、集中力を一段高めた管楽器のソロはどれも概ね素晴らしい仕上がりでした。マダラシュもこの老獪なオケを実に器用にコントロールして、ハンガリー民謡の節回しをたっぷりと歌わせ、何より指揮者も奏者も皆とても楽しそうに演奏しているのがたいへん良かったです。「ハーリ・ヤーノシュ」、演奏難易度が高く、ツィンバロンもあったりして、なかなか簡単にはプログラムに乗せられない演目かもしれませんが、もっともっと演奏されても良いのになあ、とあらためて思いました。
 本日の客入りは上の方の階だと3分の1くらいでちょっと寂しいものでした。またこのプログラムのボリューム感は、本来Cプロでやるのはもったいない気がしました。個人的には、チェロの一番後ろで弾かれていた女優ばりの超美人奏者にずっと目がクギ付けでした・・・。


2023.10.27 サントリーホール (東京)
Sebastian Weigle / 読売日本交響楽団
宮田大 (vc-1)
1. プロコフィエフ: 交響的協奏曲 ホ短調 作品125
2. ハチャトゥリアン: バレエ音楽「ガイーヌ」より
 ゴパック/剣の舞/アイシャの踊り/バラの乙女の踊り/子守歌/レズギンカ
3. ストラヴィンスキー: バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)

 昨年あたりから、実演で聴きたいとずっと思っていてまだ聴いたことがない曲(長らく聴けていない曲も含む)を目当てに、落穂拾いのように行く演奏会が多いような気がしていますが、今日もその一つ。
 1曲目の「シンフォニア・コンチェルタンテ」はプロコフィエフの最晩年に、チェロ協奏曲第1番を大幅に書き直す形で作曲され、ロストロポーヴィチに捧げられた曲。ほぼ馴染みがない曲です。第1番の方もずっと以前に聴きましたが、とっつきにくい難曲でした。果たしてこの曲も、チェロが技巧の限りを尽くして奮闘するのはわかるのですが、展開が早過ぎというか複雑で、どうにも捉えどころがわからない。そんなわけで演奏解釈などの論評はお手上げで、ひたすら演奏家の様子を観察しておりました。
 若手の人気チェリスト宮田大を聴くのは初めてでしたが、彼の華々しい経歴とストラディヴァリの楽器をもってしても、この難曲はいかにも手に余る感じが見て取れました。厳しい高音域のフレーズが続き、余裕を見せる余裕は全くなさそうで、ずっと苦しく不安定な空気が支配します。ちょうど斜め後方から見る席だったのでオペラグラスで楽譜を覗き込んだら、通常のA版/B版よりも縦長の楽譜には赤ペンでびっしりと書き込み。自分で譜めくりしなければならない事情を考慮してか、最多で4ページ分を見開きで譜面台に置けるように作ってありました。指揮者の譜面台に目を向けると、こちらも同様の縦長サイズのスコアがリングファイルになっていて、書き込みはほとんどないものの、ところどころ黄色の蛍光ペンでハイライトしてあります。どちらも手作り感満載で、生真面目な人たちなんだなということはよくわかりました。アンコールはチェロ独奏でラフマニノフの「ヴォカリーズ」。いやはや、先ほどの苦しさ不安定さは何処へやら、非常にのびのびと素晴らしい演奏でした。
 休憩後の「ガイーヌ」が本日のお目当てです。ここ20年に渡る演奏会備忘録の中で、超有名な「剣の舞」のみ、バレエガラで1回、ファミリーコンサートで1回それぞれ聴いただけで、著名曲なのにノーマルな演奏会プログラムに乗ることが非常に珍しいのは、やはり扱いやすいコンパクトな組曲がないからなのでしょう。最初の原典版作曲ののち、ほぼ全ての曲を再構成した3つの組曲がありますが、第1組曲の抜粋に第3組曲の「剣の舞」と「ゴパック」を加えた構成で演奏されることが多いようで、今日の選曲もそのようになっています。ただ順番はストーリーを完全に無視し、バレエでは終了間際に出てくる「ゴパック」と「剣の舞」をあえて最初にもってくる曲順でしたが、これが驚くほどにしっくりとくる組曲編成になっていました。どうせなら多分「剣の舞」に次いで有名な「ガイーヌのアダージョ」も組み入れて欲しかったところですが。演奏は、金管がちょっとピリッとしない箇所はありましたが、リズミカルで小気味良くまとまった、完成度の高い演奏でした。「剣の舞」の高速裏打ちとか、少しの綻びも許されない緊張感がありますが、隙なくしっかりとまとめ上げたのは指揮者の統率力だと思います。終演後、最初に木琴奏者と小太鼓奏者が立たされるのは、この曲ならではですね。(そういえばどの曲でもチェレスタ奏者が立たされていましたが、全曲チェレスタ入りのプログラムというのも、結構特殊ですか。)
 最後の「火の鳥」。全曲版はバレエの舞台も含めてよく聴きましたが、組曲盤は意外と実演ではあまり聴いておらず、おそらくこの曲が含まれるのは所謂「名曲プログラム」になってしまう場合が多く、避けていたからだと思いました。あらためて落ち着いて組曲を聴くと、2管編成に縮小されながらも充分以上の音圧を保ち、ストーリーに沿ってコンパクトに凝縮された、たいへんよくできた組曲だなあと感心しました。見かけがいかにもドイツ紳士で、芸術家というよりも大会社の社長のようなヴァイグレさん、ドイツ人らしい手堅さで破綻なくかっちりとまとめられた演奏でした。ただ後半を通して思ったのは、どの曲も申し分ない立派な演奏だったのですが、あんまり印象が後に残らない。すっと聴けてすっと流れていく、感情を捉える引っ掛かりをあえて作っていないように私には思えました。
 このご時世、ロシアの音楽は敬遠されるどころか、何ならむしろ前よりも演奏会に乗る機会が増えている気がしてならないのですが、完全にニュートラルな立ち位置で無垢に音楽と向き合うことができなくなっているのかもしれないと気づきました。このオールロシアンプログラムを組んだ人々、それを演奏する人々、わざわざ聴きにくる人々、それらに何かしらの「意味」を求めてしまっている自分がいます。元々は、前半厳しく、後半楽しく、後腐れなく能天気に聴き流せるプログラムという以外、意味はなかったのかもしれません。複雑な邪念に悩まされることなく音楽を楽しめる平和な時間が、一日も早く取り戻せますように祈るのみです。


2023.10.20 NHKホール (東京)
高関健 / NHK交響楽団
1. ニールセン: 「アラジン組曲」より
 祝祭行進曲/ヒンドゥーの踊り/イスファハンの市場/黒人の踊り
2. シベリウス: 交響曲第2番ニ長調

 この演奏会、私に限らずチケットを買った人の大多数はブロムシュテット翁が目当てだったはずですが、10月に入ってから健康上の理由で来日キャンセル、Aプログラム(ブルックナー5番)は演奏会自体が中止とのこと。アンスネスがソリストで来日するBプログラムはともかくとして、このCプログラムも中止になるんじゃないかなと思っていたら、直前になってBプロが尾高忠明、Cプロが高関健が代役で指揮台に立つ(ので公演中止はせず払い戻しもなし)という連絡がメールに加えてわざわざ葉書でも届きました。シベ2が聴きたかったわけでもアラジン組曲が聴きたかったわけでもなくて、昨年聴きそびれてしまったブロムシュテットを今年は何とか見に行きたい一心だったので、正直なところがっかりというしかありませんでした。代役を引き受けてくださったマエストロたちへの敬意から、多分賞賛の声が多数派になるかと思われますので、私はあえて大人げなく小市民の本音ベースで書こうと思いました。例えが適切ではないのは承知の上ですが、例えばブリン・ターフェルが歌うオペラアリアの夜みたいな演奏会で、ターフェルが来日中止になりましたが日本人の代役立てて演奏会は行います公演中止ではないので払い戻しは一切ありません、と言われてモヤモヤしない人はいないのではないかと。
 と自分勝手な愚痴をこぼしてはみましたが、指揮者、ソリストの不本意な交代は、演奏会通いをしている中ではままある話、想定範囲内と言わざるを得ません。諏訪内晶子の代役でヒラリー・ハーン、スクロヴァチェフスキの代役でロジェストヴェンスキー、マリア・ジョアン・ピレシュの代役でデジュー・ラーンキ、くらいに「文句ないだろ」的な交代は、やはり滅多に遭遇できないものですね。
 N響のCプログラムは、コロナ以降、休憩なしの1時間程度の演奏時間になっています。会場入りがギリギリになってしまいましたが何とか間に合い、客席を見渡すと、やはり空席はちらほら見えましたが、来るのをやめた人は思ったほど多くない様子。1曲目の「アラジン組曲」は、交響曲第4番と第5番の間という円熟期に書かれた劇音楽で、学究的な東洋音楽、民族音楽ではなく雰囲気重視、あくまで異国風の味付けに留まっています。しかし作曲技法的には、「イスファハンの市場」では4群に分かれたオーケストラが別々の音楽を奏でるといった多調とポリリズムの試みがなされていて、交響曲第5番で他の楽器を無視したリズムで小太鼓を叩きまくるという前衛性に通じるものがあります(脱線しますが、同様の実験をやっているアイヴズの「宵闇のセントラルパーク」は1906年作曲、アラジン組曲の1919年よりも早かった!)。何でトライアングルとドラをわざわざ木管の両脇に配置するのだろうと最初思いましたが、なるほど、打楽器もグループ分けされていたのね、と納得。高関さんは多分初めて聴く人で、予備知識がなかったのですが、キャリアを調べてみるとシベリウス先駆者の渡邉暁雄の弟子で、デンマーク、ノルウェーなど北欧のオケへ客演も多かったようで、北欧系の音楽は得意分野かもしれません。この難しいポリモードの音楽を破綻することなく上手く捌いていました。
 メインのシベリウス第2番ですが、こちらはちょっと引っかかる演奏でした。急の代役だからということでもないのでしょうが、手探りの感触があり、金管もピリッとせず、終始流れの悪さを感じました。こんなにブツ切れの音楽だったかなと。この前にシベ2を聴いたのは8年前で、同じくNHKホールのN響(指揮はサラステ)でしたが、備忘録をみると感想は真逆でした。もっとも、今日はシベ2を聴きたい気分では全然なかった、という心理的要因が一番大きかったかもしれません。ということで、せっかくの初の高関健でしたが、のめり込んで聴き込むことができず、来年1月のシティ・フィル定期で再見する予定ですので、その際リベンジしたいと思います。


2023.10.09 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
坂入健司郎 / 新交響楽団
1. ショスタコーヴィチ: バレエ組曲「黄金時代」
2. ショスタコーヴィチ: 交響曲第9番 変ホ長調
3. ショスタコーヴィチ: 交響曲第12番 ニ短調「1917年」

 1956年結成の老舗アマオケにして、毎回アマチュアとは思えない、いや、むしろアマチュアだからこそ実現できるのかもしれない、アグレッシブなプログラムで年4回の定期公演をこなしている新交響楽団。チラシを見るたびに気にはなっていたのですがなかなかタイミングが合わず、やっと聴きに行くことができました。以前このオケを聴いたのは、30年以上前の学生時代に山田一雄の指揮でフランクの交響曲とか「道化師の朝の歌」を聴いた演奏会で、調べると1991年7月21日の東京文化会館、同年8月に急逝した山田氏の生前最後の演奏会だったそうです。おぼろげな記憶ですがたいへん骨太かつ躍動感あふれるプロフェッショナルな演奏で、アマオケという印象が全くなかったです。
 このオケのプログラムは、(1)近現代の曲、(2)大編成の曲、(3)日本の現代音楽、をほぼ毎回積極的に取り上げるので私の好みにガッチリ合致します。プロオケだったら基本は集客とか採算とかを考えないといけないので、どのオケも毎シーズン似たり寄ったりの名曲プログラムに落ち着いてしまうのが残念な現実です。一方、多くの大学オケはリソース(人数と力量)の制約から、やはり保守的なプログラムになってしまうケースがほとんどです。しかしこのオケは、自分たちがやりたい曲を納得いくまでやり遂げるのがポリシーのようで、理念を理想で終わらず実現できる人数と実力を保持できているところが、まさに他のアマオケとは一線を画する特長だと思いました。
 1曲目の「黄金時代」、すっかり忘れていましたが備忘録を確認すると2016年にロジェストヴェンスキー/読響のオールショスタコプログラムで聴いていました。やたらと長い指揮棒がトレードマークのロジェベン翁に対して、今日の指揮者、慶應大出身の新進気鋭インテリ坂入健司郎は、割り箸くらいのやけに短い指揮棒。まあ、爪楊枝サイズのゲルギエフよりは普通ですが、世の中指揮棒を持たない指揮者も多いので、ここは非常にデリケートなこだわりなんでしょうかね。若い指揮者に対してオケ団員の平均年齢は在京プロオケと比べてもずいぶんと高そうで、リタイアしたシニア層とおぼしき人が多数を占めています。その分ベテランの妙味というか、管楽器のソロはどのパートもかなりしっかりとした演奏でした。コンマスは若い女性で、この人もアマオケレベルではなく、めちゃ上手い。プロでも大変な難曲をこれだけの音圧で鳴らし切った新響は、やはり大学オケや市民オケとは同列に語れません。
 次のショスタコの第9が、ほぼ今日の目当てでした。好きな曲なのですが、ここ30年以上実演で聴く機会がありませんでした。前回の記憶を辿ると、1992年に初めてロンドンを旅行した際、着いて早速「Time Out」誌を買いイベントをチェック、その日にロイヤルフェスティバルホールでデュトワ/モントリオール響の演奏会があるのを発見し、当日券で観に行ったときの演目がこれでした。元々はアルゲリッチをソリストにベートーヴェンのコンチェルトの予定だったのですが、キャンセルにより曲目変更の結果です。という昔話はもう何度か書いた気がするので本題に戻ると、ちょっとゆっくりめで入った第1楽章から、コンマスのヴァイオリンソロや木管のソロが個人技が冴え渡ります。よく聴いていると縦の線が乱れ気味で、アンサンブルが甘いところも散見され、そこは個人の力量が確かでも、プロではなくアマである限界がありそうです。しかし、全体としてプロも青ざめるハイレベルであるのは間違いないとも思いました。最終楽章の中間部で一瞬音が止まり、木管が入り損ねて入り直したような事故がありましたが、これは指揮者の指示ミスな気がします。コーダに向けてのクライマックスで、舞台後方最上段で飛び跳ねながら嬉々としてタンバリンを打つおじさん(というかほぼお爺さん)がめちゃめちゃ楽しそうでウケました。
 休憩後のメインは交響曲第12番。1917年の「十月革命」を題材にしてレーニンに捧げられたというこの硬派な大作は、あまり演奏会で取り上げられることがありません。私もCDは全集で持っているものの、普段ほとんど聴くことがないお蔵入り音源です。登場したコンミスを見て、あれっ、さっきの人と違う。前半のコンミスとその隣に座っていた第1プルトの人々を探すと、第3、4プルトまで下がっていました。よく見るとティンパニ奏者はさっきのタンバリンおじさんです。一瞬驚いたものの、そうでした、ここはアマオケなので、トップ奏者の途中交代も日常茶飯事なんでしょうね。馴染みの薄い曲だけに細かいところは論評できませんが、曲のエネルギーを全て解き放ったような爆演系で、破綻もなく、息切れもせず、最後まで鳴らし続けた新響の人たちにはリスペクトしかありません。今後も、演目とタイミング次第ではありますが、サブスクで通ってもいいかも、と思いました。池袋がもうちょっと近ければなー…。


2023.09.23 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
Lawrence Renes / 東京都交響楽団
Tabea Zimmermann (viola-2)
1. サリー・ビーミッシュ: ヴィオラ協奏曲第2番《船乗り》(2001) [日本初演]
2. ラフマニノフ: 交響曲第2番 ホ短調

 コロナがあったのでたいがいのものはご無沙汰なのですが、東京芸術劇場に来るのも非常に久しぶりな気がして、記録を辿ると4年ぶりでした。それよりも、ひところは演目に見つけては足繁く聴きに出かけていたラフマニノフの2番も気がつけばすっかりマイブームが去り、6年前に出張中のライプツィヒで聴いたのが最後でした。
 さて本日は指揮者、ソリスト共に初めての人々です。ドイツ人ヴィオリストのタベア・ツィンマーマンは、大御所ピアニストのクリスティアン・ツィンマーマン(ポーランド人)と関係がないのはわかるとしても、同じドイツ人のヴァイオリニストのフランク・ペーター・ツィンマーマンとは一緒にレコーディングをしているので兄妹かなと思ったら、特に血縁関係はないようです。
 1曲目のヴィオラ協奏曲はタベアさんのために作曲された作品ですが、初演を指揮する予定だったタベアの夫、デヴィッド・シャローンが都響定期を振るために来日した2000年9月に不幸にも急逝してしまったという因縁のある曲だそうです。20年以上の時を経て(本来は2年前に上演予定でしたがコロナのため延期)、タベア本人の都響への客演という形で日本初演が叶ったのは喜ばしいことですが、正直、私にはこの昼下がりの時間帯に聴くのは辛すぎた。タイトルからして「さまよえるオランダ人」とか「ピーター・グライムズ」のように劇的で写実的な曲を勝手に想像していたら、一貫してたおやかな雰囲気の、シベリウス寄りのベルク、みたいな抒情的な曲でした。あえなく撃沈、すいません。ただ、アンコールを機嫌良く2曲もやってくれて(多分バッハとパガニーニだろうと思っていたら、ヴュータンとヒンデミットでした…)、これがどちらも凄い演奏で、楽団員全員が凝視。この人の途方もない技術力と表現力の幅がよくわかりました。
 メインのラフマニノフはちょっと不思議な演奏でした。ローレンス・レネスも正直初めて聞く名前で、宣材写真からヒスパニック系かなと思っていたら、南方系ではありますがマルタ系オランダ人の白人で、すらっと背が高く、ハゲ具合がスティーブ・ジョブス風。オペラに長けた人のようで、言われてみると確かにオケにはあまり繊細なコントロールはせずに、冒頭の弱音から朗々と鳴らす無骨な演奏でした。野蛮さ、田舎臭さはなく、ストレートにひたすら前進していくイメージ。しかしこの曲は、甘ったるくやるにも、即物的にやるにも、いずれの場合でも何かしらの細やかな揺さぶりをやらないと長丁場持たない気がしますが、そんなの関係ねえと弱音欠如のまま重戦車のように太く突き進むのが、ある意味今どきのロシア風かもしれません。期待とは違う演奏でしたが、オケは普段通りのハイクオリティで楽しめました。やっぱりこの曲は、特に生で聴く時は甘い気分に浸れる方がいいかな。


2023.09.18 Bunkamura オーチャードホール (東京)
「第19回渋谷の午後のコンサート。」
角田鋼亮 / 東京フィルハーモニー交響楽団
園田隆一郎, 三ツ橋敬子 (piano-2)
1. ベルリオーズ: 序曲『ローマの謝肉祭』
2. サン=サーンス: 組曲『動物の謝肉祭』
3. レスピーギ: 交響詩『ローマの祭』
4. 外山雄三: 管弦楽のためのラプソディ

 東フィルも、オーチャードホールも、実に7年ぶりです。東フィルのこの「午後のコンサート。」シリーズは、オペラシティかオーチャードホールで年に12回程度開催されている、リスナーの裾野を広げる目的のファミリーコンサートのような催しですが、選曲やコンセプトを見る限り、ターゲット層は子連れというよりもうちょっと大人向けに設定されているようです。実際今日の聴衆も、子連れファミリーもいましたがシニア層のほうが多かったように思います。
 ファミリーコンサートは卒業してもう長く経ちますが、この演奏会に行こうと思い立ったのは何よりレアな選曲。「動物の謝肉祭」と「管弦楽のためのラプソディ」は有名にも関わらず普通の定期演奏会などでは逆にプログラムに上がることが極めて珍しい演目ですし、「ローマの祭」も仕掛けが大きいからか「松」や「噴水」より聴く機会が圧倒的に少ないです。
 1曲目の「ローマの謝肉祭」、これは演奏会でもわりとよく聴くですが、切れ味鋭く幸先の良いスタート。続く「動物の謝肉祭」では本職は指揮者の園田氏、三ツ橋氏がピアニストとしてゲスト参加。この贅沢なキャスティングの意味は曲の後のトークで明らかになったのですが、今日の指揮者の角田氏と三ツ橋氏、それと東フィルコンマスの近藤薫氏を加えた3人は東京芸大の同級生で、園田氏も彼らの少し上の先輩だそうで、皆さん親しい旧知の仲ということでこの出演が実現したそうです。演奏前に簡単な説明があったものの、1曲ごとに止めて解説をするというスタイルではなく、さらっと一気に最後まで流したので、余韻を楽しむ間もなくあっという間に終わってしまいました。第11曲の「ピアニスト」では、2台のピアノで向かい合った園田、三ツ橋両名が曲の趣旨に合わせてわざとズッコケたヨタヨタ演奏を披露。小編成のオケなので弦楽器はピアノの後ろに隠れてしまい、著名な第13曲「白鳥」はどうするのだろうと思っていたら、川藤幸三似と青木功似のチェリストのうち、青木さんのほうが楽器を持ってすくっと立ち上がり、三ツ橋さんの座っていたピアノの長椅子に、お尻で彼女を押しのけるようにずんと座って笑いを取った後に、たいへん美しい「白鳥」を聴かせてくれました。さすがプロのチェリスト、この曲はしっかり押さえてますね。
 前半のアンコールとして角田、園田、三ツ橋の3名が一つ椅子に狭しと並んで、ラフマニノフの「6手のためのワルツ」を演奏。この後、ゲストの二人は「ローマの祭」でもピアノパートを担当。本当に仲良さそうな人達でした。
 休憩後の「ローマの祭」は、「別格に好きなクラシック曲」の一つなのですが、実演で聴くのは9年ぶり。だって、なかなかやってくれないんだもの。生涯でもまだ5回目くらいかな。いやー、やっぱりこの音の洪水は、後腐れなく楽しめて良いですね。ホルンがちょっとヨレってたのを除けば、この難曲をさらっとやってしまった東フィルは今がけっこう充実期にあるのかもしれません。マンドリンは隠れ屋バーの寡黙なマスターみたいに渋いおじさんが異彩を放っていました。エンディングのSosutenutoの金管コラールからStringendo moltoで一気に加速し、コーダのPrestoに繋いでいく箇所は、スコア通り徐々に加速していく人と、初演者のトスカニーニに倣ってStringendo moltoから急に倍速にする人がいますが、角田氏は前者でした。タヴォレッタは小洒落た楽器化されたものではなく、大きな木の板を吊るしてガンガン叩いていたので、まあよく響くこと。打楽器がどんどん増えていって畳み掛けるように終わるラストでも、タヴォレッタがこんなに鳴っていたのかと、新鮮な発見がありました。
 最後の「管弦楽のためのラプソディ」は、くしくも7月に亡くなった外山雄三氏の追悼になってしまいました。今日はこの曲を生で聴くためにはるばる渋谷にやって来たと言っても過言ではありません。元々がN響の海外公演のアンコールピース用に作曲された曲であり、国内の定期演奏会でわざわざこの曲をプログラムに上げるオケは見たことがなく、かと言って海外で聴いた日本のオケが演奏してくれた体験もなく、このようなファミリー系の演奏会が数少ないチャンスになります。
 実はこの曲は大昔に部活のオーケストラで演奏したことがあり、非常に思い出深い曲でもあります。入部してまだキャリアも浅かった私の担当は「団扇太鼓」。その名の通り団扇のような木枠に皮を張った胴なしの太鼓で、左手で支えて右手に持った撥で叩きます。当然片手だけでリズムと強弱を刻むしか手がない楽器なのですが、冒頭から「トントコトントントコトコ」の繰り返しで16分音符の5連打が出てきて、先輩にどうやるんですかと聞いたところ、薬指と小指を駆使してダブルストロークからさらに3つ足すのだ、という返答。ダブルストロークのオープンロールは基礎練習のメニューにあるものの、片手だけでそんな超人的なことできるかい、と疑念を持ちつつも夏休みに来る日も来る日もひたすら練習していたら、一人では厳しくても二人でユニゾンしていたら何となく形になるようになってきました(スコア上では団扇太鼓は3つ必要)。うんうんあの時は苦労したよなあ、でもプロの打楽器奏者はどれだけ鮮やかな5連打を見せてくれるのだろうかと楽しみにしていたら、何と、団扇太鼓の柄の部分を股に挟んで、両手で皮を叩いているではありませんか!両手使っていいなら全く何てことはないフレーズなので、あの苦労は何だったんじゃー、と肩透かし。
 とまあ団扇太鼓の思い出話はともかく、この曲は他にも拍子木、締太鼓、チャンチキ、鈴、キン(お経を上げる際にゴーンと鳴らす仏具)など和楽器満載で、しかもどれも小型なので確かに海外公演にも持って行ける便利さが配慮されています。日本人なら誰でも知っている「あんたがたどこさ」「ソーラン節」「炭坑節」「串本節」が恥も外聞もなく展開されますが、よく聴くとそれぞれの旋律が複雑に絡み合ったカオスっぷりは「ローマの祭」の「主顕祭」にも通じるものがあります。いったん落ち着いて、フルートがエオリアントーンで息を多めに漏らしながら尺八っぽく「追分節」を切々と奏で、静寂を破る拍子木の刻みの後、「ハッ」の掛け声から再び打楽器の祭囃子が始まり、盛大に「八木節」を歌い上げた最後はイントロの拍子木連打に戻ってジャジャジャン。いやー、くだらないと言えばそれまでですが、愛すべきニッポンの代表曲です。余談ですが「ハッ」の掛け声はスコアに記載はなく、昔の録音にもこんなのは入ってなかったと思うので、NAXOSの「日本作曲家選輯」(2002年)あたりが先駆けになりますかね。
 アンコールでは祭のハッピを羽織った角田氏が登場し、拍子木の刻みから「八木節」を再演。盛り上げようと聴衆の手拍子を誘いますが、この曲はテンポもリズムも実は一定ではないので、ちょっと難しかったかな。ともあれ、今日は念願のラプソディが聴けただけで大満足、いろいろと思い出を反芻しつつ、明日からまたがんばるぞーと、前向きのパワーをもらった演奏会なのでした。


2023.05.31 サントリーホール (東京)
上岡敏之 / 読売日本交響楽団
Elisso Virsaladze (piano-2)
1. シベリウス: 交響詩「エン・サガ」
2. シューマン: ピアノ協奏曲 イ短調
3. ニールセン: 交響曲第5番

 1年前に亡くなったラドゥ・ルプーを偲んでCDを聴き込んだのがきっかけで、それ以降シューマンのピアノ協奏曲がマイブームになり、いろんな演奏を聴き漁っておりました。かつては何度も聴いた曲なのに、いざ実演を聴きたいと思った時にはかえって機会がないもので、ようやく見つけたこの演奏会は迷いなく「買い」でした。
 上岡敏之はドイツでキャリアを積み上げた逆輸入の鬼才との触込みですが、欧州に住んでいたころその名前を聞いた記憶がなく、新日フィルの音楽監督になったときも「誰?」状態で、結局生演に触れる機会もありませんでした(まあ、コロナもあったので仕方がないですが)。新日フィルとは喧嘩別れしたようなこともネットで書かれており、今日の読響は完全に客演で逆にリラックスして臨んだようにも感じられました。
 1曲目の「エン・サガ」、私には捉えどころのない難曲です。読響はちょうど5年ぶりですが、のっけから音の濁りが気に障ります。あれ、ホルンこんなに弱かったっけなあ…。初めて見る上岡のバトンテクは非常にサマになっていて、「ザ・指揮者」という感じ。ただし私は経験上、いちいち棒で嬉々として指図する上部パフォーマータイプよりも、本番ではほとんど何もしないのに出てくる音が完璧なむっつりスケベタイプのほうが聴き手としては信用できるので、ちょっと最初から眉に唾つけて聴いてしまいました。しかし聴き進むうちに、霧の中から突出して上手いクラリネットが顔を出すに至り、この濁り気味の色彩感も実は狙い通りなのかと思い直しました。
 猜疑心がまだ残りつつも、続く本日のお目当てのシューマン。ヴィルサラーぜは初めて聴くピアニストですが、ジョージア(グルジア)出身、1966年のシューマン国際コンクール優勝者、ソ連・ロシアでキャリアを築いたという経歴から、このご時世、一筋縄ではいかない複雑性を感じます。80歳とピアニストにしては高齢ですが、ヨボヨボ感は全くなく、キリッと粒が立って即物的なピアノでした。教育者だけあって技術は確かです。あっさり目でキャンキャンと響くピアノを前に、オケは逆に角が取れて柔らかに伴奏に徹します。ソリストは指揮者ではなくオケに直接アイコンタクトをしつつ曲を引っ張っていきますが、2楽章でもまだ即物的な感じだったピアノが、終楽章後半でようやくオケとトーンを合わせて柔軟路線に急に舵を切ります。好きな演奏かと問われればちょっと違うのですが、面白いマリアージュを見た、という感じです。
 メインのニールセン第5番は、ロンドンで一度聴いた気になっていたんですが、記録を調べると実演で聴くのは今日が初めてです。多分LSO Liveの自主制作CD(コリン・デイヴィス指揮の4、5番のカップリングで、4番は確かに実演も聴いた)を買ってよく聴いていた記憶とごっちゃになっていたんでしょう。この曲を得意とするらしい上岡さん、前2曲とはまたガラッと変わり、集中力高くダイナミックレンジの広い演奏。クラリネットは相変わらず冴えています。スネアドラムも超繊細な入りから迫力のマーチングまで、硬質なティンパニと相まって、この曲のキーとなる軍靴を連想させる打楽器隊が圧巻でした。スネア奏者はバックステージからの演奏も自らこなし、ステージ上に居ない間のスネアはタンバリン奏者が代理で入るというやりくり采配。しかしスネア奏者は、若く見えましたがそれだけの価値ある演奏でした。全体的にも上岡の作り出すスケール感が生きた演奏で、最後の一音まで集中力を切らさず、拍手の前の静寂が聴衆の満足を物語っていました。
 個性は好きなタイプの指揮者とは違う気がしますが、読響からこのクオリティを引き出してくれるのであれば、次も聴きたいものだと思いました。


2023.05.12 東京文化会館 大ホール (東京)
三善晃生誕90年/没後10年記念:反戦三部作
山田和樹 / 東京都交響楽団
東京混声合唱団, 武蔵野音楽大学合唱団 (1,2)
東京少年少女合唱隊 (3)
1. 三善晃: 混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》(1972)
2. 三善晃: 混声合唱とオーケストラのための《詩篇》(1979)
3. 三善晃: 童声合唱とオーケストラのための《響紋》(1984)

 この「三善晃反戦三部作」の演奏会は、ちょうど3年前に開催が予定されていてチケットを買っていたものの、コロナ禍初期の混乱の中、当時の幾多の演奏会同様、中止となってしまったものです。私は特に三善晃のファンというわけでもないのですが、こういう刺激的な企画は好物なので、3年を経てのリベンジ公演はもちろん「買い」でした。くしくも今年は、1933年に生まれ、2013年に亡くなった三善晃氏の、今年は生誕90年、没後10年の記念になります。その効果か、この非常に聴衆を選びそうな演目であるにも関わらず、蓋を開けてみると、何と完売御礼になっていました。
 三善晃の曲を過去実演で聴いたのは、2013年の大野/BBC響の日本特集で演奏された交響詩「連祷富士」と、2016年の下野/新日フィルでの「管弦楽のための協奏曲」の2回だけです。2013年のときは、まだご存命だったんですねえ。日本の現代音楽にあって、比較的受け入れやすいというか、硬派な音楽ではあるけれども、あまり難解ではない作風の人だと思います。しかし、1曲目の「レクイエム」は、全編通してひたすら悲痛な叫びと不気味なハーモニーが支配する、全く耳に優しくない音楽でした。戦争の悲惨さを苦悶する詩で綴られたテキストを、80人ほどの混声合唱団が叫ぶように歌い、無数の打楽器を含む大編成の管弦楽は音のクラスター爆弾をこれでもかとぶつけてくる。聴き慣れてない曲なので理解がまだ浅いとは思いますが、真に心の叫びからこういう風に書かざるを得なかった、ある意味聴衆を置き去りにした作品にも感じました。しかし、作曲者の「エネルギー」が伝わってくるには十分な熱演だったと思いました。聴いているだけでこれだけ疲れるのだから、ヤマカズさんもオケも、前半から相当に疲れたことでしょう。
 休憩を挟んで2曲目の「詩篇」は音源がなく、全く初めて聴く曲でした。戦争が直接的に生々しい「レクイエム」とは異なり、こちらは宗左近の詩集「縄文」からテキストを取っているので、戦争を仄めかした内容はあるものの、全体的なトーンはポエティックで穏やか。「レクイエム」から7年後の続編(というわけでもないでしょうけど)にしては、ずっとエンタメ系の仕上がりになっています。童謡「花いちもんめ」が挿入され、オケのトゥッティ、美しいハーモニーのコーラス、切ないチェロの独奏(新しいトップの人、若いけど上手いですね)など、随所に聴衆を意識した仕掛けと構成力が感じられました。
 コーラスの人たちはこれでお役御免で退場、盛大な拍手。最後の「響紋」は、実はCDを持っていて何度も聴いたことがある曲ですが、「詩篇」と呼応するように、「かごめかごめ」の童謡から始まります。がらんとした合唱隊のスペースに、最初は小学生低学年とおぼしき子供たちが手を繋ぎ「かごめかごめ」を歌いながら登壇、追って、中学生くらいまでの年長組の児童合唱隊が、それぞれ楽譜を手に歌いながら歩いてきます。すると突如平穏を切り裂くような弦の不協和音。この曲のテキストは基本的に「かごめかごめ」の歌詞だけですが、オケはそれに寄り添うでもなく、ずっと童謡の邪魔をしているかのようです。再びエンタメ色は弱まり、何か子供たちがかわいそう。10分程度の小曲の最後は、「うしろのしょうめんだあれ」で合唱隊も客席に背を向ける演出。おそらく子供には理解するのがなかなか難しいであろう、この難曲に真面目に向き合っただけでも天晴れです。ヤマカズさん、都響のみなさんも、エネルギッシュな演奏ありがとうございます。お疲れ様でした。


2023.04.09 東京文化会館 大ホール (東京)
東京・春・音楽祭 ワーグナー・シリーズ Vol. 14
Marek Janowski / NHK交響楽団
Rainer Küchl (guest concertmaster)
Egils Silins (Hans Sachs/bass-baritone), Adrian Eröd (Sixtus Beckmesser/baritone)
David Butt Philip (Walther von Stolzing/tenor), Johanni Van Oostrum (Eva/soprano)
Katrin Wundsam (Magdalene/mezzo-soprano), Daniel Behle (David/tenor)
Andreas Bauer Kanabas (Veit Pogner/Ein Nachtwächter/bass), Josef Wagner (Fritz Kothner/bass-baritone)
木下紀章 (Kunz Vogelgesang/tenor), 小林啓倫 (Konrad Nachtigal/baritone)
大槻孝志 (Balthasar Zorn/tenor), 下村将太 (Ulrich Eisslinger/tenor)
髙梨英次郎 (Augustin Moser/tenor), 山田大智 (Hermann Ortel/bass-baritone)
金子慧一 (Hans Schwarz/bass), 後藤春馬 (Hans Foltz/bass-baritone)
東京オペラシンガーズ
1. ワーグナー:楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(全3幕)

 4年ぶりの東京春祭ワーグナー・シリーズです。リングシリーズのときと同じく、マレク・ヤノフスキ指揮のN響、ゲストコンマスにライナー・キュッヒルという最強布陣。外来歌手陣は春祭常連のエギルス・シリンス以外、記憶にない名前ばかりだったので少々不安でしたが、やはりこのシリーズの仕掛人の耳は確かで、今回も安定の粒揃いでした。
 聴衆の誰もが認める本日のエースは、ベックメッサー役のアドリアン・エレート。初めて聴く人でしたが、バイロイトを含む欧州各地を渡り歩いている現役バリバリのベックメッサーのようで、調べると2013年東京春祭の前回「マイスタージンガー」にも出演していたようです。演奏会形式なので、他の歌手が皆自分の楽譜を持ち歩き、譜面台に置いて歌っていたのに対し、彼だけは完全暗譜でオペラさながらの小芝居を交え、完璧なベックメッサーを演じていました。
 突出したパフォーマンスで観衆を大いに沸かせたエレートは別格としても、他の主要キャストの人々も立派な歌唱で盛り立てます。春祭のワーグナー「リング」シリーズでヴォータンを歌っていたシリンスは、ザックス役は今回がほぼ初めてだった様子で、相変わらず存在感のある美声ながら、歌唱は終始固めで、途中詰まったような箇所もあり、暖かい人間味が滲み出るような熟れ感はありませんでした。
 ヴァルター役のデイヴィッド・バット・フィリップは、備忘録を辿るとロイヤルオペラで2012年「バスティアンとバスティエンヌ」と2013年「ナブッコ」に出ていたのを見ていますが、その当時はジェット・パーカー・プログラムを卒業したばかりの若手で、特に鮮烈な印象はなく。今日も最初は声が弱く終始オケに負けていましたし、歌の響かせ方も工夫がない(ずっと同じ方向を見て歌っているので反対側の聴衆はずっと聴きづらい)感じでしたが、幕を追うごとに調子を上げ、第3幕のクライマックスにピークを持ってきてヴァルターの成長を表現するという、これを狙ってやっているのだとしたらまさに成長の証、老獪なワザを身につけたものだと感心します。
 オケもいつも以上に安定した演奏で、毎度ながらキュッヒル様様です。なお、リングシリーズとは違い、今回は映像による補完はなく、照明のみの簡素な舞台演出でした。
 しかしこのマイスタージンガーは、舞台上に人わらわらの人海戦術が効くオペラだけに、演奏会形式だとちょっと辛い箇所がちらほらと。特にラストのクライマックスは、ザックスが「マイスターを舐めないで!」と歌いヴァルターをたしなめた後は、演者の動きだけで大円団が表現されているため、演奏会形式だと話が全然解決しないまま宙ぶらりん感を残して終わってしまいます。やはりこいつは劇場で見たかったものです。それにしてもこのオペラ、ヒトラーも愛しただけあって、ドイツ芸術とドイツ人万歳が結論の、本当に古き良き時代の国威発揚芸術ですね。これが今日までドイツ以外でも世界中で上演され続けているのは、ひとえにワーグナーの音楽が持つ、普遍的でとてつもない価値の賜物でしょう。これがもし、プーチンが愛するロシア皇帝万々歳のオペラだとしたら、それでも芸術的価値が高ければ、やはり今年も上演され続けているのだろうか、などという邪念が演奏中もふとよぎってしまいました。


2023.03.28 サントリーホール (東京)
都響スペシャル【リゲティの秘密-生誕100年記念-】
大野和士 / 東京都交響楽団
Patricia Kopatchinskaja (violin-2, voice&violin-4)
栗友会合唱団 (3)
1. リゲティ(アブラハムセン編): 虹~ピアノのための練習曲集第1巻より[日本初演]
2. リゲティ: ヴァイオリン協奏曲
3. バルトーク: 《中国の不思議な役人》(全曲)
4. リゲティ: マカーブルの秘密

 本日は都響のコンマス(コンミス、とは最近は言わなくなったんかな)を13年半勤められた四方恭子さんの最後の演奏会とのこと。ということはつゆ知らず、久々に「マンダリン」の全曲が聴けるとあって、その一点買いで取ったチケットでした。しかし、本来のコンセプトは「リゲティ・プログラム」。リゲティはハンガリーの作曲家なのでもっといろいろ聴いていても自分として不思議はないのですが、何故か実演に接する機会が少なく、過去の記録を辿っても「ロンターノ」が3回と「ルーマニア協奏曲」しかありませんでした。
 ということでリゲティの曲はどれも初めて聴くものばかり。1曲目はセロニアス・モンクやビル・エヴァンスにインスパイアされたというピアノ練習曲の編曲版で、確かにジャズっぽい響きの綺麗な曲ですが、あっという間に終わりました。
 2曲目は問題作のヴァイオリン協奏曲。噂に違わぬ何でもありのアバンギャルドな曲でした。エキセントリックな芸風で知られるコパチンスカヤを聴くのも初めてでしたが、オハコのレパートリーで水を得た魚のように暴れ回り、想像以上のトリックスター(良い意味で)でした。先日のテツラフのように音だけで凄みを効かせるのとは真逆のタイプで、音ははっきり言ってかなり雑ですが、全身を使ってトリッキーなプレイを連発。オカリナやリコーダーも登場する小編成の変則オケをバックに、口笛、鼻歌、奇声も交えた自由奔放なヴァイオリン独奏に、最後は指揮者の周りを歩き回り、足を踏み鳴らし、オケも聴衆も巻き込んでの掛け声で、1、2年前のコロナ禍真っ只中だとちょっとできなかったパフォーマンスでしょう。曲も曲だし、奏者も奏者、初めて聴いて比較対象もないので演奏の論評はお手上げですが、何かとんでもないものを見た、という感じです。しかし、たいしたエンターティナーであることは確かだし、こういう、コンサートホール芸術の殻を突き破らんとする刺激的な音楽は大好物です。
 アンコールはコンミス四方さんを引っ張り出し、リゲティのバルトーク風民謡調の曲(「バラードとダンス」というらしい)をデュオ。これは両者の音に個性の違いがくっきり出ていて面白かったです。四方さんは真っ直ぐ正統派の真面目なお姉さん、対するやんちゃな妹は自由気ままに生き生きとラフな音で絡みつき、美味しいところをさらっていく感じ。
 休憩後の待望の「マンダリン」ですが、この日唯一のフル編成オケで、リゲティよりもだいぶリラックスした感じでオケが良く鳴っており、たいへん元気が良い演奏でした。繊細な弱音なし、クラリネットも怪しい雰囲気は薄く、やけに健康的というか、うーむ、こういう解釈になるのか、という肩透かし。打楽器のリズムは強調され、全体的に気合い十分な好演だったとは言えますが、ちょっと空虚な淡白さが気になりました。大野さん、劇場付きオケとの仕事が長かったためか、細やかな表情づけなどを逆に何もやってくれないことが多い気がします。
 最後の「マカーブルの秘密」は、オペラ「グラン・マカーブル」の一場面のアリアを再構成したショートピースで、これまた規格外の問題作。また小編成に戻ったオケは、途中でくしゃくしゃにして捨てる新聞紙(そういう特殊効果音が楽譜上で指定)を読みつつ壇上で待機します。コパチンスカヤはクラウンというのかパンダというのか、変なメイクと、新聞紙とゴミ回収袋を身体に巻きつけた衣装をまとい、ヴァイオリンを持って再登場。本来はコロラトゥーラ・ソプラノのための曲ですが、トランペット等の楽器で演奏してもかまわないらしく、ヘッドマイクを通した声(歌ともシュプレヒテンメとも言えない奇声)に交えてヴァイオリンで弾くのが彼女流。先ほどのヴァイオリン協奏曲よりもさらに自由度がアップし、動き回り、飛び回り、転げ回り、まさにやりたい放題。ヴァイオリン高いだろうに、傷がつかないか見ていて心配になりました。大野さんも最後には「もう限界です誰か指揮を代わってください」と泣きが入る演出で、奏者も指揮者もオケも聴衆も一緒になって「音」を作るという、これもまた音楽芸術の一つの形であり、ライブの醍醐味。非常に楽しく面白い体験で、リゲティの作品が極めて孤高で唯一無二の「芸術」であることもあらためて発見できて、満足のいく一夜だったのでした。


2023.03.04 すみだトリフォニーホール (東京)
Ingo Metzmacher / 新日本フィルハーモニー交響楽団
Christian Tetzlaff (violin-2)
1. ウェーベルン: パッサカリア
2. ベルク: ヴァイオリン協奏曲
3. シェーンベルク: 交響詩「ペレアスとメリザンド」

 2003年3月から書いている「演奏会備忘録」も、丸20年になりました。感慨深いです。
 ロンドンでは我が家で一番のお気に入りヴァイオリニストだったクリスティアン・テツラフ、聴くのは10年ぶりになります。メッツマッハーは2010年のプロムスでベルリン・ドイツ響を聴いて以来2回目。新日本フィルもトリフォニーホールも7年ぶりの超久々です。
 今日はいわゆる新ウィーン楽派の三大巨頭で揃えた意欲的なプログラムですが、どれも比較的耳に優しいロマンチックな曲想の曲ばかりですので、実はそれほどとっつきにくいものではありません。
 1曲目のパッサカリアは過去に2度聴いていますが、日本で聴くのは初めて。のっけから透明感に欠ける弦と、ドカドカうるさいオケがちょっと曲の繊細さに合いません。皆さん表情固く、音楽を楽しんでいる風の団員が皆無なのも気になりました。まあこの選曲ですしメッツマッハーとも久々の共演で、緊張したことでしょう。
 2曲目のベルク、登場したテツラフは、以前のシュッとして若々しい印象とは異なり、長髪顎髭の殉教者のような風貌。今日の席は幸いにも至近距離で、生音が直に耳に飛び込んできます。弱音から入る最初のフレーズからもう異次元で、最後までずっと耳が釘付け、正直周りのオケの伴奏はほとんど記憶に残りませんでした。
 この曲は名人芸をひけらかす曲ではないものの、相当な難曲であることは奏者ではない私にも想像できます。暗譜で弾き切るだけでも凄いと思いますが、12音技法の曲ながらも、全編通しての表現力がとてつもなく素晴らしい。何度も同じ感想を書いているのですが、この人は全て自分の呼吸、自分の語り口として寸分の隙もなく表現できる技術を持っています。プロならば誰でも持っているではないか、と言われればそうかもしれませんが、テツラフのプロフェッショナルは何回聴いても次元が違います。繊細さと野太さが高いレベルで同化していると言うんでしょうか、適当な表現がちょっと見つからないですが、いつもは聴き流してしまうことが多いベルクのコンチェルトがこれだけ説得力を持って身体に入ってくるのは初めての体験でした。
 アンコールはバッハの無伴奏ソナタ第3番のラルゴ。これもきめ細かく肌から染み入るような名演でした。このとき、弦楽奏者が皆、今日イチで幸せそうな顔をしてテツラフの音色に聴き入っていたのが印象的でした。
 テツラフがあまりに凄かったので、メインの「ペレアスとメリザンド」は、正直なところ消化試合のように抜け殻になっていました。12音技法になる前の後期ロマン派楽曲であり、普段はほとんど聴くことのない曲でしたが、指揮者もオケも十分身体が温まり、切れ目なしの長丁場を集中力持って鳴らし切っていたと思います。
 しかし、思い返してもテツラフしか頭に浮かばない、そんな至福の一日でした。


2022.12.19 東京文化会館小ホール (東京)
アプサラス第10回演奏会〜第2回「松村賞」受賞作品、会員作品と松村禎三作品
尾池亜美 (violin-5, 8, viola-5), 石上真由子 (violin-4, 7), 甲斐史子 (viola-1, 2, 6)
山澤慧 (cello-2, 4, 7), 夏秋裕一 (cello-3)
多久潤一朗 (flute-1, 3, 6, 8), Alvaro Zegers (clarinet/bass-clarinet-5)
飯野明日香 (piano-3, 5, 8), 田中翔一朗 (piano-1, 4, 7)
高野麗音 (harp-6), 會田瑞樹 (vibraphone-2)
高橋裕 (指揮-5)
1. 谷地村博人: ミューゼス第1番「月の道」~3人の奏者のために~〔第2回「松村賞」受賞作品・初演〕
2. 福丸光詩: フィグレスⅡ~ヴィブラフォン、ヴィオラ、チェロのために~〔第2回「松村賞」受賞作品・初演〕
3. 甲田潤: フルート、チェロ、ピアノのための《ラプソディ》〔初演〕
4. 中田恒夫: Whirlpools〔初演〕
5. 高橋裕: 「玄象」クラリネット、バスクラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノのための三重奏曲〔初演〕
6. 若林千春: 「木・林・森…鼎響」~フルート、ヴィオラとハープのために~〔改訂初演〕
7. 阿部亮太郎: この世の風 第5番〔初演〕
8. 松村禎三: アプサラスの庭〔1971〕

 「アプサラス」は作曲家松村禎三氏の死後、その芸術作品の保存・普及と、新たな創作活動支援を目的として、弟子、遺族を中心に設立された有志の会です。アプサラス演奏会を聴きに行くのは2008年の第1回以来、12年ぶり。アプサラスでは生誕90年を記念して2019年に「松村賞」を創設し、今日はその第2回の受賞作品の表彰式と披露目という趣旨でした。あくまでアプサラスの場で披露できる規模の作品ということで、第1回は弦楽四重奏曲、第2回は三重奏曲(楽器はフルート、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ピアノ、ハープ、ヴィブラフォンに限定)の15分以内の小品という縛りがありました。
 というわけで本日の演目は三重奏の曲ばかり、もちろん全て「日本の現代音楽」で、8曲のうち7曲が初演または改訂初演という、なかなか刺激的な内容。ゲンダイオンガクをこれだけ連続して聴くのも久しぶりなので、ちょっと疲れました。加えて、今日が初演の曲など素人にはとても作曲も演奏も論評できるものではありませんが、備忘録として一言ずつ印象を書き留めます。
 1曲目はフルート、ヴァイオリン、ピアノの三重奏で、松村賞受賞作にふさわしい、ドビュッシーのような情緒を感じる美曲。
 2曲目は、本日の演奏者の中で唯一名前を知っていた會田瑞樹さん(以前NHK BSのクラシック倶楽部に出ていた)のヴィブラフォンをフィーチャーした面白い曲。片手に複数の撥を持ちノールックで的確に打つのはもはや驚くまでもなく、ブラシで擦ったり、素手で叩いたり、狙った音以外の音が鳴り放題の特殊奏法、楽譜にはいったいどう書いてあるんだろうか?
 3曲目はがらっと雰囲気が変わり「和テイスト」で、一昔前の理屈っぽいゲンダイオンガク風。
 4曲目も不協和音たっぷりの現代音楽ながら、構成はクラシカル。ヴァイオリン、チェロ、ピアノの編成も手堅く、しっかり作りました感が高い重めの曲。ヴァイオリンの石上真由子さんは目元がキリッとした美形で、京都府立医大出身という異色の経歴とか。
 5曲目を作曲した高橋裕さんは、今日の中では(松村禎三氏を除き)唯一、過去に楽曲(シンフォニア・リトゥルジカ)を生で聴いたことがあります。京都出身で、禎三さんのお弟子さんですね。曲もオマージュを感じる、ゆったりとした流れの中にエネルギーが徐々に蓄積され、爆発して、また引いていくという構成。ヴァイオリンとヴィオラ、クラリネットとバスクラをそれぞれ持ち替えるという、かなり自由な発想の三重奏曲で、初演だし、本日の趣旨に無理やり合わせようとしたのかもしれません。なおこの曲だけ、三重奏にもかかわらず作曲家自身が指揮者として立っていましたが、ずっと4拍子をゆっくり振っていただけなので、本当に必要だったのかな、とは思いました。もちろん、初演だということを考えれば、奏者としては作者自身が指示を出してくれるのは非常に助かるでしょうが。
 ここで休憩。意外と席の入りは良かったのですが、受賞者を見にきた方が多かったのか、休憩で多くの人が帰ってしまいました。
 6曲目は再び「和テイスト」で、尺八と琵琶の邦楽曲のように呼吸で合わせる丁々発止が見ものでした。
 7曲目は子守歌か夜想曲のような癒しの曲想から、途中の微分音的な展開が一つのアクセントになっていました。
 最後の「アプサラスの庭」は、この会の名前の由来にもなった、1971年の作品。ここまで初演曲ばかり立て続けに聴いた最後にこの曲を聴くと、やはり別格。大胆な発想と円熟の構成力が聴き手を飽きさせません。奏者にも自然と熱が入り、特にツンデレなピアノが良かったです。この曲は演奏機会も多いし、録音もあり、50年以上経った今でもこうやって演奏され続けている。今日聴いた初演曲の中で、50年後も演奏されている曲が果たして何曲残るのか。全く論評も分析もできないですが、多産多死どころか少産多死の超絶厳しい世界であることは間違いないと、あらためて感じ入りました。


2022.11.19 NHKホール (東京)
Leonard Stlakin / NHK交響楽団
1. コープランド: バレエ音楽「アパラチアの春」(全曲)
2. コープランド: バレエ音楽「ロデオ」(全曲)

 N響を聴くのは実に5年ぶりになります。元々は先月のブロムシュテットが久々のN響、ということになる予定が、事情があって聴けませんでした。実はスラットキンは初の生演になります。また、コープランドの代表2作品も実演で聴くのは初めてという「初モノづくし」なのでした。「アパラチアの春」は数多くの録音が残されている著名曲ですし、「ロデオ」もELPがカバーするくらいメジャーな曲なので、もっとシーズンプログラムに乗る機会があってもいいんではと思います。日本人が好むメイン曲(正統派交響曲が多い)と組み合わせるのが難しいんでしょうかね。
 アメリカ出身のスラットキンはもっと若いと思っていたら78歳で、マイケル・ティルソン・トーマス、エトヴェシュ・ペーテル、レイフ・セーゲルスタムといった人々と同い年、バレンボイム、ポリーニよりは少し下の年代に当たります。写真からは巨漢の強面というイメージを勝手に持っていたのですが、確かに筋肉質には見えるものの、コンマスのマロさんよりも小柄。指揮棒を使わず、しなやかで無駄のない手さばきで、しっかりとオケをリード。N響への客演も多いので、お互い勝手知ったる信頼感が感じられました。
 1曲目「アパラチアの春」は、珍しいバレエ全曲版での演奏。組曲版が20分強くらいに対し、全曲版は35分程度の演奏時間で、微妙な差ですが、この程度なら全曲版がもっと普及してもよいのかも。ただ、私は実はこの曲が昔からどうも退屈で苦手。CD聴くときもだいたい飛ばしてしまいます。久しぶりにあらためて聴いてみると、雄大な自然に恵まれた古き良きアメリカのノスタルジーに溢れた、密度の濃い作品であると認識しました。コーダの静寂にグロッケンがかすかに響くところなんかもなかなか秀逸です。しかしやっぱり、冗長に感じる時間も多く、組曲版があったからこそこの曲がここまでメジャーになれたという効用があったのだと思いました。ちょうどバルトークの「中国の不思議な役人」の全曲と組曲の関係と似ているかも。N響は破綻もなく終始丁寧な演奏で、しっとりと美しい好演でした。
 コロナ禍以降の慣例で、休憩なしに今度は「ロデオ」の全曲版。コントラバスが4本から8本に倍増し、編成がぐっと大きくなります。「ロデオ」も組曲版が圧倒的に普及していますが、「アパラチアの春」とは違ってこちらはほとんど差がなく、2曲目と3曲目の間に短い「宿舎でのパーティ」という曲が挿入されるだけで、これなら逆に何でわざわざ組曲版で演奏するんだろうと。実際に聴いてみてその答えがわかりました。「宿舎のパーティ」は調律の狂ったアップライトのホンキートンクピアノのソロから始まるので、このピアノを調達するのが多分クラシック演奏会の普通のロジでは難しいんだと思いました。次の「土曜の夜のワルツ」は切れ目なしに繋がるので、レコーディングなら全曲版がもっと普及してもよいのになとは思います。
 「ロデオ」はかつて部活で演奏したことがあり、個人的にはたいへん懐かしい時間でした。最後の「ホーダウン」で聴き慣れない部分に気づき、組曲版でカットされた部分がここにも少しありました。「ロデオ」は「アパラチアの春」とは打って変わって陽気で賑やかな曲で、後腐れなしで楽しく聴き流せます。普通のオーケストラでは使わない打楽器が出てくるのも楽しみで、「アパラチアの春」でもサンドペーパーやクラベス(洋風拍子木)が地味に使われていましたが、「ロデオ」ではスラップスティック(むちの音を模した、細長い平板を蝶番で繋げた打楽器)やウッドブロックが派手に活躍します。おどけた金管ソロも楽しみの一つで、ちょっと危うい箇所もありましたが何とか無難にクリア、さすがプロです(この曲は見かけよりもずっと演奏難易度が高く、アマチュアにはなかなか手に負えないシロモノでした・・・)。


2022.10.08 サントリーホール (東京)
Gergely Madaras / 東京都交響楽団
Josef Špaček (violin-2)
1. リスト (ミュラー=ベルクハウス編): ハンガリー狂詩曲第2番
2. バルトーク: ヴァイオリン協奏曲第2番 (第2稿)
3. ドヴォルザーク: 交響曲第8番 ト長調

 何やかんやで間隔が空き、半年ぶりの演奏会。都響は2年8ヶ月ぶり、バルトークのコンチェルトは5年ぶり、ドボ8は好きな曲なのに何故か巡り合わせが悪く、何と18年ぶりの生演です。今日の演目はちょっと不思議で、ハンガリー人指揮者とチェコ人ソリストの組み合わせながら、協奏曲がハンガリーの曲でメインがチェコの曲というねじれ関係にあります。ありがちな選曲パターンだと、協奏曲はドヴォルザークかマルティヌーで、メインはオケコン、ということになりそうですが、個人的にはそうならなくて良かったです。
 マダラシュ・ゲルゲイはハンガリー出身の若手指揮者。同じハンガリーにマダラス・ゲルゲイというテニス選手がいるのでGoogle検索では紛らわしいですが、指揮者はMadaras、テニスはMadarászで、苗字が違いました(語源は多分同じですが)。地元のサヴァリア交響楽団から出発し、現在ベルギー王立リエージュ・フィルの音楽監督。日本では広島響、京都市響への客演を経て東京都響が今回初共演だそう。欧州各所でオペラも振り、地味でも地道にキャリアを積み上げている人のようです。1曲目のハンガリー狂詩曲は出だしの呼吸が少し乱れて、おそらくリハの時間が十分ではなかったのかと思いますが、その後のテンポの揺さぶりを難なく乗りこなしていく百戦錬磨のリーダーシップが頼もしく感じられました。初めて聴くミュラー=ベルクハウス版のハンガリー狂詩曲第2番は、重厚で色彩的が豊かになった分、ピアノ曲の面影はさらに薄まっている気がします。
 2曲目、元チェコフィルのコンマスであるシュパチェクの奏でるバルトークは、最初は適度に荒れた質感で、まさにチェコフィルの弦という飾り気のないナチュラルな音。2011〜2019年の間コンマスをやっていたとのことなので、多分その当時にも聴いたことがあるかもしれません。澄み切った美しい高音を響かせたかと思うと、速いパッセージも難なく高速で弾き切り、なかなかのテクニシャンぶりを発揮。長身でシュッとしたイケメンですが、イメージは素朴な東欧の兄ちゃん。変幻自在に楽器を操りながらも演奏に派手さや押しの強さはほとんどなく、しみじみと染み入るタイプのバルトークです。この曲を弾く西側のヴァイオリニストはけっこう派手系の人が多い印象ですが、原点に帰ってこういうバルトークも良いものです。オケのほうはあまり見栄を切らずに大人しめで、ソリストを際立たせる意図があったんではないかと、メインを聴いた後で思いました。アンコールは「母がよく聴かせてくれた故郷モラビアの小曲です」と言って、独奏曲にもなっていない、本当に素朴な民謡を静かに奏でました。多分予定外に何度もカーテンコールで呼び出されたために急遽その場でやったのかと思います。
 メインのドボ8は、また元に戻って随所でテンポを(あえて?)田舎臭く揺さぶり、大見栄を切った演奏で、ふと思い出したのがコバケンこと小林研一郎。18年前に聴いたドボ8はコバケン指揮のブダペストフィルだったのですが、まさにこんな演奏だったように思います。ハンガリーでは知らぬ人がいない有名人で、チェコフィルとも縁が深いコバケンですから、もしかしたら若かりしマダラシュも私と同じ演奏会を聴いていて感銘を受け、同じ方向性を目指したのかなとちょっと妄想しました。いや、決してくさしているわけではなく、マーラーやブルックナーではないからオケも破綻することなくしっかりと音が前に出ていて、たいへん良い演奏でした。それと同時に、コバケンのドヴォルザークをまた聴いてみたくなりました。


2022.04.17 飛行船シアター (旧上野学園石橋メモリアルホール) (東京)
東京春祭ディスカヴァリー・シリーズ vol.8: パウル・ヒンデミット
三又治彦, 猶井悠樹 (vn-1)
佐々木亮 (va-1, 2, 3), 小畠幸法 (vc-1)
冨平安希子 (soprano-4, 6), 小林啓倫 (baritone-4)
有吉亮治(piano-2, 3, 5), 冨平恭平 (piano-4, 6)
中村仁 (解説)
1. ヒンデミット: 朝7時に湯治場で二流のオーケストラによって初見で演奏された《さまよえるオランダ人》序曲
2. ヒンデミット: ヴィオラ・ソナタ op.11-4
3. ヒンデミット: 瞑想曲
4. ヒンデミット: 歌劇《画家マティス》より 第6場1景
5. ヒンデミット: 組曲《1922年》 op.26 より 第1曲 行進曲、第3曲 夜曲
6. ヒンデミット: 歌曲集《マリアの生涯》 op.27 より 第7曲 キリストの降誕、第9曲 カナの婚宴

 ふと思い立って聴きに出かけました。2020年、2021年は多くの公演が中止になってしまったので、東京春祭に出かけるのは実に3年ぶり。とは言ってもメインの文化会館ではなく、初めて訪れる旧上野学園石橋メモリアルホール。座席数500ほどの規模で、立派なパイプオルガンを有するチャペルのような品格が誇りの小コンサートホールだったそうですが、昨年ゲーム会社のブシロードに売却され、今年から多目的の「飛行船シアター」としてリニューアルオープンしたばかりです。オルガンは撤去され、無機質の白壁に演劇用の天井の照明、かつてのファンの落胆が目に浮かぶようです。ただ、以前のを聴いてないので何ともわからないのですが、改装後のホールでも通りがよい十分立派な音響でした。
 「東京春祭ディスカヴァリー・シリーズ」は毎年一人の作曲家にフォーカスし、N響メンバーを中心に、あまり演奏機会のない曲なども取り上げて生涯と作風を深堀りしていく企画ですが、今年のお題はパウル・ヒンデミット。著名ながらも普段からほとんど聴くことがない作曲家で、過去の演奏会聴講記録を辿ると2010年プロムスで交響曲「画家マティス」を1回聴いただけでした。
 1曲目は「やたらと長く、ふざけたタイトルのクラシック曲」としてクイズネタにもなったりする弦楽四重奏曲。タイトルから分かる通りワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲をモチーフにしたパロディ音楽ですが、IMSLPにスコアがあったので見てみると、スコアはけっこう真面目に書き込まれてます。これを如何に調子外れに、下手くそに聴かせるかが逆にすごく難しいのではないかと。今日はこの曲を実演で聴きたいがために来たようなものです。
 追加で配られたチラシを読むと、「そのまま演奏しても良かったのですが」「音楽の特徴と登場人物の心境をマッチングさせ」「オペラのように音楽を創り上げました」とのこと。開演後、いったん舞台が暗転し、スウェット寝衣姿のチェロが登場すると暗がりの中で神経質そうに練習を始めますが、すぐに煮詰まって、横に置いてあった枕とタオルケットで寝てしまいます。朝になりヴィオラがパリッと正装で登場するもチェロは起きず、するとヴァイオリンの2人がはだけた服装にネクタイハチマキの徹飲み明けの出立ちで肩を組んでわしゃわしゃと登場。おもむろに冒頭のトレモロを弾き出すとチェロが飛び起きて合わせていきます。演出と呼べるものはここまでで、後は何とか「二流」の味を出そうとわざとらしい振りで調子外れっぽく弾いていきますが、始まってしまうとオケ奏者のサガというか、真面目さが隠しきれない。ヴァイオリンの2人など終始ボウイングが揃っていて、音もしっかりしているし、上手いのを隠すのが下手。あえて演出を入れたかった理由がよくわかりました。しかし、なかなか珍しく面白いものが聴けました。
 前半はこの後ヴィオラとピアノのデュオ曲が2曲続いて、休憩。前半と後半で1回ずつヒンデミットの研究家、中村仁氏によるスライドを使った解説がありました。あらためて年表で見てみると、2つの大戦を直に経験し、最後は(ユダヤ人ではなかったけれども)ナチス政権から逃れて亡命し、戦争に翻弄された人生だったことがわかります。同じ1890年代生まれの著名作曲家はプロコフィエフ、オネゲル、オルフに加えてグローフェ、ガーシュウィン、コルンゴルドなどがいて、その中に並べるとヒンデミットは即物主義の前衛的イメージにも見えますが、時代はすでにバルトーク、ストラヴィンスキー、ヴァレーズ、ウェーベルン、ベルクが登場した後なので、立ち位置がちょっと中途半端に見られてしまうのは仕方がないかと思います(作曲家本人は「立ち位置」など全く気にしてないでしょうけど)。休憩後の初めて聴く歌曲とピアノ曲に接してみても、その印象は変わりませんでした。尖った曲が聴きたい気分だとしても、あえて「画家マティス」を選ぶ理由がない。そうかそれで自分は今までヒンデミットに触れる機会が少なかったんだと思い当たった次第です。


2021.12.05 サントリーホール (東京)
山田慶一 / 法政大学交響楽団
1. ワーグナー: 歌劇「ローエングリン」より 第3幕への前奏曲
2. ボロディン: 歌劇「イーゴリ公」より 村の踊り〜ダッタン人の踊り
3. ベートーヴェン: 交響曲第5番ハ短調「運命」
4. バーンスタイン: 「キャンディード」序曲

 


2020.02.03 東京文化会館 大ホール (東京)
François-Xavier Roth / 東京都交響楽団
栗友会合唱団
1. ラモー: オペラ=バレ『優雅なインドの国々』組曲
2. ルベル: バレエ音楽《四大元素》
3. ラヴェル: バレエ音楽《ダフニスとクロエ》(全曲)

 ロトは2000年のドナテッラ・フリック指揮者コンクール優勝者としてLSOとは関係が深く、自分がロンドンにいたころも何度かLSOに登場していましたが、当時は自分の中で優先度が低かったので、指揮者狙いでチケットを買う対象ではありませんでした。備忘録に書いてなければすっかり忘れていたところですが、2010年4月にプレヴィン/LSOで「アルプス交響曲」をやる演奏会のチケットをワクワクでゲットするも、あいにくプレヴィンが病気でキャンセル、代役に立ったロトは演目を「新世界」に変えてしまったのでチケットをリターンした、というニアミスはありました。それから10年しか経ってませんが、レ・シエクルの成功でロトはすっかり巨匠の風格です。実際、初めて目にする生ロト、年輪の刻まれたその顔は、まだ40代とは到底思えません。世代的にはキリル・ペトレンコ、ステファン・ドヌーヴと同世代ですが、ふーむ、老け顔具合はそんなに変わらんか・・・。
 前半はバロック時代のフランスの作品。どちらも全く知らない曲です。バロックというとバッハとかヴィヴァルディの理知的に整ったイメージしか頭に浮かばなかった私からすると、両曲とも意外とアバンギャルド。ラモーは打楽器賑やかで、バロックトランペットも痛快な明るい曲。リュートみたいなのとギターを持ち替えている奏者がいたり、よくわからない手作りっぽい楽器も見えて、彩り豊かで飽きさせませんでした。一方のルベルは、これまた予想を裏切る、まさかの大不協和音から始まり、ロマンチックに展開する意味深な曲。どちらもバレエっぽいなと思ってあらためてプログラムを開いてみると、やっぱりバレエ曲。なるほど今日はフレンチバレエの系譜を垣間見る趣向なのだなと今更ながら気づきました。
 メインの「ダフクロ」は、全曲通しで聴くのは超久しぶり。この曲はやっぱりコーラスが入って初めて音響が完成するのだなとあらためて気付かされます。フルートは寺本さんじゃなかったのは残念ですが、まあでもとても上手かったです。全体的にハイレベルで鳴っていた中、近年の都響はどうにもホルンがガンですが、それはさておき。都響を振るのは2回目というロトですが、さすがカリスマ、全く自分の手中で転がして、エゲツないくらいのキレキレリズムでガンガン攻めてきます。ちょっとラヴェルらしからぬこのエグさは、前半のバロックバレエと呼応しているのかなと思いました。個性的なダフクロでしたが、全体を通しては納得感のある演奏会でした。


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