クラシック演奏会 (2018年)


2018.11.10 Liszt Academy of Music (Zeneakadémia) (Budapest)
Gábor Takács-Nagy / Budapest Festival Orchestra
Dávid Bereczky (French horn-3)
1. Mozart: Divertimento in D major, K. 136
2. Mozart: Symphony No. 32 in G major, K. 318
3. R. Strauss: Horn Concerto No. 1 in E-flat major, Op. 11
4. Haydn: The Desert Island – Overture, Hob. XXVIII:9
5. Haydn: Symphony No. 52 in C minor, Hob. I:52

 5年ぶりのブダペスト、5年ぶりの祝祭管、11年ぶりのリスト音楽院になります。何もかも、皆、懐かしい…。普段ならまず聴きに行くことがない演目ばかりですが、ブダペストに立ち寄る日にタイミングよくあったこの演奏会、もちろん行かない手はありません。
 指揮者のタカーチ=ナジは、タカーチSQの創始者としてハンガリーでは今でもファンが多く、客席は年配の聴衆を中心に満員御礼状態です。ヴァイオリン奏者としては一度だけ、12年前にミクロコスモスSQで聴いたことがありますが、指揮者としては初めてです。お顔の造作といい頭のハゲ具合といい、後姿はイヴァーン・フィッシャーとよく似ています。
 まずは本日の選曲ですが、有名なディヴェルティメントの他は比較的マニアックな曲が並び、個人的に全く知らない曲ばかりです。このコンセプトは何だろうと思い、作曲年代と作曲者の年齢を調べてみると、以下の通りとなりました。

  1. モーツァルト:ディヴェルティメント →1772年(16歳)
  2. モーツァルト:交響曲第32番 →1779年(23歳)
  3. R.シュトラウス:ホルン協奏曲第1番 →1882年(18歳)
  4. ハイドン:歌劇「無人島」序曲 →1779年(47歳)
  5. ハイドン:交響曲第52番 →1771年頃(39歳)
 まず、真ん中のR.シュトラウスを除き、全て1770年代に作曲されています。ピンポイントの同時代といって良いでしょう。モーツァルトはウィーンへ出る前の、青年とも言えないくらいの若年時代。ハイドンはエステルハージ家に仕えており、生活が安定し創作も充実していた時代。二人に親交ができるのはこの直後の話です。そのちょうど百年後に作曲されたR.シュトラウスを加え、シンメトリーを描くように配置されたこの5曲のラインナップは、その統一感というか、流れにギャップがないのに驚かされます。また別の見方によれば、天才肌のモーツァルトとR.シュトラウスが20歳前後で若書きした曲に、ベテランハイドンの同時代曲を添えた、とも解釈できます。しかし、1770年代縛りをするにしても、モーツァルトには交響曲第25番とか第31番「パリ」といった著名作もありますし、ハイドンも第45番「告別」という傑作を残している中、あえてそういう名曲ラインナップにせず、前半を長調、後半を短調で雰囲気を変えるなど、いずれにしても相当考え込まれたプログラムと見ました。
 ちなみに、11年前の最後のリスト音楽院は何だったろうかと記録を探すと、同じブダペスト祝祭管で、しかもR.シュトラウスのホルン協奏曲(第2番ですが)を聴いていたのでした。歴史はゆるーく、でも確実に繋がっています。
 肝心の演奏の方は、なにぶん聴き慣れない曲ばかりにつき細部の論評は無理ということですいません。普段の半分以下の小編成で、テンポ速めに進みますが、ピリオドアプローチの匂いはなく、角が取れてしなやかに流れる演奏です。元々弦楽四重奏のために作曲されたディヴェルティメントを筆頭に、アンサンブルの一体感が凄くて、非常に統制のとれた弦はさすがです。
 ホルン協奏曲のソリストは、オケのトップ奏者。どんな一流奏者でも音が潰れたり外したりはしょっちゅうのホルンという楽器において、コンチェルトのソリストをやろうなんてのは、相当に勇気がないとできない仕事だと私は常々感服しております。概ね立派なソロだったと思うのですが、音が決まらない箇所が多少あったのは、地方公演含めて同じ演目をこの日で三日連続吹いているため、少々お疲れ気味だった様子です。こういうとき、特に管楽器の場合は、初日が一番良かったりします。
 久々に聴いた愛すべきブダペスト祝祭管、選曲からしてブラスの馬力は堪能できませんでしたが、世界屈指のオーケストラであることは今も変わらず、安心しました。また、久々のゼネアカデミア、不変の骨董品的な雰囲気と、芳醇な音響は相変わらず素晴らしかったものの、椅子が固くて尻と腰が痛くなるのも昔のまま。何もかも、皆、懐かしい…。


2018.08.09 ミューザ川崎シンフォニーホール (川崎)
藤岡幸夫 / 日本フィルハーモニー交響楽団
反田恭平 (piano-1)
1. ラフマニノフ(ヴァレンベルク編): ピアノ協奏曲第5番ホ短調(交響曲第2番の編曲)※日本初演
2. シベリウス: 交響曲第1番ホ短調

 ラフマニノフのピアノ協奏曲はオフィシャルには第4番までしかありませんので、この「第5番」は幻の未発表曲、ではなくて、Brilliant Classicsのプロデューサーの発案で、交響曲第2番を大胆に編曲・再構成し、ピアノ協奏曲風に仕立て上げたものです。シューベルト「未完成」やブルックナー第9番の「4楽章完全版」のような仕事よりもさらにキワモノ度が高く、似たような曲としてはシチェドリンの「カルメン組曲」を連想しましたが、これは普通にシチェドリンの曲として扱われますよね。この「イロモノ」企画を「ヴァレンベルクの新作ピアノ協奏曲」と言わずに、子孫の許可も得て、批判を覚悟であえて「ラフマニノフのピアノ協奏曲第5番」として発表したのは、当然確信犯的なビジネスパースペクティブがあってのことでしょう。ベートーヴェンなら無理だがラフマニノフなら許される、みたいな、作曲家の格付け差別のような空気も薄っすらと感じないわけではありません。
 ちょうど交響曲第2番がマイブームになり始めた頃の2009年にこの珍曲の存在を知り、発売されて間もないCDをロンドンで買いましたが、通しで1回聴いた後「うーむ」と唸ってしまい、それ以降あまり聴くことはなかったというか、聴こうと思ってもついオリジナルのほう(マゼール/ベルリンフィル盤やパッパーノ/聖チェチーリア盤)に手が伸びてしまいました。ラフマニノフの交響曲第2番は、メロウな旋律ということでは同氏のピアノ協奏曲第2番と比肩する人気曲ですし、これをピアノやボーカルに編曲したいという衝動はよくわかります。平原綾香の「adagio」なんかがそうですが、ワンフレーズだけ切り出してもメロディとして成立しないので、結局出来損ないの曲になってしまいかねない、ということがよくわかります。個人的にはクラシックの編曲モノは原則として否定的というか、「劣化コピー」と感じない優れた編曲に未だ出会ったことがない、というのが正直なところです。
 前置きが長くなりましたが、「ラフ2」のマイブームが今でも継続中の自分としては、肯定派ではないにせよ、この問題作の日本初演ということであれば、これは是非とも立ち会っておかねばなるまいと。毎度の感想ですが、ミューザの平日夜の演奏会はいつも盛況な客入りです。後でわかったのですが、ソリストの反田恭平が今人気の若手ピアニストとのことで、マニアックな演目なのにソールドアウトだったのはそのおかげでしょうか。弱冠23歳の反田君は長髪を後ろに束ね、ハンカチで汗をふきふきする姿が可愛らしく、確かにファンがつきそうです。残念ながら席が遠かったせいか、ピアノがあまりストレートに届かず、随所にミスタッチもあって、印象は弱かったです。
 あらためて実演で聴いて、ピアノ協奏曲風にするために随分とオーケストレーションや構成を削り込んだんだなあと、逆にその厖大な労力をおもんばかってしまいました。全体的に音を薄っぺらくした一方で、第1楽章エンディングのシンバル、大太鼓、ティンパニとか、終楽章のチューブラーベルとかの打楽器が増えていて、派手なピアノと相まって色彩感は増しています。構成では、元々4楽章から成る交響曲を3楽章の協奏曲に無理やり当てはめる解法として、どちらも三部形式の第2楽章と第3楽章をざっくりツギハギして「第2楽章」にするという暴挙に出たことが、やっぱり気に食わないです。暴力的な「びっくり開始」になってしまう「第2楽章」トリオ部も(おそらくピアノだと技巧的に追いつかないという理由で)想定外にテンポが落ちてしまうのがカッコ悪いです。これならば、元の第2楽章を丸々すっ飛ばす構成の方がよっぽど良いのではないかと思いますが、私の大好きな第2楽章の美しい第2主題(モデラート)が日の目を見るチャンスはいずれにせよありません・・・。他にも、「第2楽章」の最後、弦のコラールになる箇所がピアノに置き換えられるのはせっかくの流れを分断するよなあとか、終楽章エンディングの変なリズムは、ありゃ誰のマネじゃ、とか、いろいろ言いたいことはありますが、総じてシンフォニックな要素が削がれており、やはり交響曲第2番はまぎれもない「シンフォニー」だったのであって、ピアノ協奏曲第2番とは似て(もいないし)非なるもの、との認識を強くするだけでした。
 メインのシベリウスは、よく考えたら創立者の渡邉暁雄から最近のインキネンまで、脈々と引き継がれているはずの日フィルの伝統です。個人的にはこの交響詩のような第1番がシベリウスでは一番好きな交響曲なんですが、巡り合わせが悪く、実演で聴くのは実は今日が初めて。指揮者はこちらも初めての、藤岡幸夫。往年の日活映画スターのような、脂の乗った男前です。初演なのでかなりぎこちなさがあった前半と打って変わって、指揮者は伸び伸び、オケは活き活き。特別凄かったとか心を打ったということでもないですが、弦が非常に良かったし、管もトランペット以外はしっかりしていました。特にクラリネットには美味しい選曲続きでしょう。ティンパニも硬質でキレが良く、私好みです。今までそんなに好んで聴きに行くオケではなかったですが、シベリウスを聴きに日フィルに行く、というのは今後も期待大かなと思いました。
 アンコールは、何かシベリウスの小曲でもやるかと思ったら、エルガーの「夜の歌」。藤岡氏はBBCフィルハーモニックとプロムスに出演した実績もあるんですね。


2018.05.30 サントリーホール (東京)
Ilan Volkov / 読売日本交響楽団
河村尚子 (piano-2)
1. プロコフィエフ: アメリカ序曲
2. バーンスタイン: 交響曲第2番「不安の時代」
3. ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番ニ短調

 悪くないプログラムと思うのですが、客入りはもう一つで空席が目立ちました。そのおかげか、超久々にサントリーホールの最前列が取れましたが。
 イスラエル人なのに名がイランとはこれいかに、というヴォルコフですが、写真から想像する以上に瘦せ型で学者のような風貌。音もさぞ学究的かと思いきや、意外とエモーショナル。というか、理知的と情緒的のバランスがほど良い感じです。1曲目のプロコフィエフはほぼ初めて聴くなので、よくわかりませんが、プロコとしてはよそ行き顔の上品な仕上がり。
 続く「不安の時代」は、バーンスタインの交響曲の中では唯一声楽が入らないので、比較的演奏会のプログラムに乗りやすい曲ですが、何故かこれまで縁がなく、全曲通しての実演は初めてです(「仮面舞踏会」だけはヤングピープルズコンサートで聴いたことあり)。そもそもバーンスタインの交響曲は3曲いずれも、ウエストサイド物語やキャンディードのようなエンターテインメントの明るさはなく、クソ真面目に小難しく地味な曲という印象を持たざるをえませんが、この第2番は特に分裂症的で、第2部中間部のジャズピース「仮面舞踏会」だけが奇妙に浮いています。読響もここに来るとやけにノリノリでリズミカルに演奏していましたが、スイング感はいま二つくらい。ピアノの河村さん、運指は完璧と思いましたが、とりあえず楽譜を音にしました、という以上のものは伝わらず。この曲だけではよくわからんです。ピアノの配置が普通のコンチェルトと違って正面を向いていたので、逆に演奏中のお顔は見られませんでしたが、見た目可愛らしい人で、オケの人々からも愛されているのがよくわかりました。
 そもそもこの「不安の時代」と「タコ5」というプログラムは、バーンスタインがソ連ツアーの直前にザルツブルク音楽祭に出演した際のプログラムと同じとのことで(パンフの中川右介氏の解説で初めて知りました)、その因縁深いメインのタコ5の演奏が、終楽章のコーダの前までは、ほぼまんまレニーへのオマージュだったので驚きました。細かいニュアンスがいちいちレニーで、音楽の喜びにあふれています。オケもヘタれずがんばりました。この曲の解釈として、今となっては正統派とは言えないのかもしれませんが、単純に、いいものを聴かせてもらったという満足感でいっぱいです。どうせオマージュならば、最後までレニー解釈(コーダ前からスコア指示の倍速で突っ走り、最後の最後で強烈なリタルダンドをかける)を貫いて欲しかったです。


2018.04.20 サントリーホール (東京)
Sylvain Cambreling / 読売日本交響楽団
1. アイヴズ: ニューイングランドの3つの場所
2. マーラー: 交響曲第9番ニ長調

 カンブルランはこのシーズンが読響常任指揮者として最後とのこと。読響の演奏を他の指揮者の時と比べれば、カンブルランの統率力は文句の余地がなく、選曲も相対的に私好みで、充実したものでした。どこのオケを振ろうとも安心してチケットが買える指揮者として、今後も贔屓にさせていただきます。
 1曲目はほぼ初めて聴く曲でしたが、まさに「アイヴズ」サウンド。私の好きな「宵闇のセントラルパーク」や「答えのない質問」とも通じるものをビシビシと感じましたが、後で調べれば、マーラー9番を含め、作曲時期はけっこうカブってますね。アイヴズもマーラー同様、曲の途中で唐突に民謡や流行歌を挟み込んでくる人ですが、マーラー9番のほうはそういう引用の箇所がいくつかあっても、もはやそれがわからないくらい自然に溶け込んでいるのに対し、アイヴズは依然としてゴツゴツとした境界面を楽しむ作りとなっているのが、ほぼ同時期に作曲された曲の対比として興味深かったです。
 メインのマーラー9番は好んで聴きに行く曲ですが、プロオケで聴くのは4年前のインバル/都響以来。カンブルランのマーラー(4番)を前回聴いたのもちょうどそのころでした。もっとサックリとした演奏を想像していたら、第1楽章の、遅めのテンポで重層的な響きを保ちつつ、非常に濃厚な表情付けがたいへん意外でした。バーンスタインのごとく「横の線」のフレーズ単位でいちいち粘るようなユダヤ系の味付けではなく、「縦の線」に熱を伝達するべくアイロンを押し付けているような(うまく伝わっている気がしませんが…)、カンブルランらしからぬ熱のこもった演奏でした。実際長めの演奏時間でしたが、実測値以上に「遅さ」を感じさせる、濃いい演奏。中間の第2、第3楽章は、依然として遅めのテンポながら、角の取れたフレンチスタイル。特に第3楽章はもっと激しく揺さぶる流れにもできたでしょうに、クライマックスは終楽章に取っておくモダンな戦略がニクいです。そして、終楽章のホルンには感服いたしました。もちろん、この演奏がマーラー9番のベストかと問われたらそうではありませんが、読響のホルンは都響やN響と比べて充実度が数段上だと常々感じております(もっと言うと、ホルンに関しては日本のオケでワールドクラスで戦える可能性があるのは読響くらいと思います…)。


2018.03.31 ミューザ川崎シンフォニーホール (川崎)
Eliahu Inbal / 東京都交響楽団
1. シューベルト: 交響曲第7(8)番 ロ短調 D759 《未完成》
2. チャイコフスキー: 交響曲第6番 ロ短調 Op.74 《悲愴》

 怒涛のインバル第3弾の最終回は、個人的には自分自身も川崎勤務から離れる最終日に、ミューザ川崎という恰好のお膳立て。今回のインバル3連発はどの曲もそうでしたが、未完成、悲愴ともに聴くのは久しぶりで、未完成は2009年のハイティンク、悲愴は2012年のゲルギエフ、いずれもロンドン響で聴いて以来の超久々です。
 未完成は昔からどうも苦手な曲で、好んで聴きに行くことは絶対にありませんので、こういう風におまけ的に聴くことがあるくらいです。苦手な理由は、この曲がまさに「未完成」であることが一つの要因と思います。この後、終楽章あたりで壮大なカタルシスが待っている展開であれば、退屈な前半も捉え方が全然変わってきて、まだ我慢ができるのかもしれませんが、ここで終わってしまうと「え、本当にこれだけ?」と。自分の中の「興味なし箱」の奥底に入れてしまい今に至る、という感じです。そんな程度の関心しかないので、花粉症の薬でぼーっとしていたこともあり、あー今日も重厚に始まったなーと思っているうちに、気がつけば終わっていました。
 気を取り直してメインの「悲愴」。昔部活で演奏したことがあり、細部まで一応今でも頭と身体が覚えています。インバルはあまりチャイコフスキーというイメージがありませんが、やはり低弦をきかせ、金管を鳴らしまくるた派手な音作りではあったものの、感傷を極力抑えた理知的な演奏でした。いくつかタメるところを決めて、逆にそれ以外はインテンポで走り抜けるという、インバルならではのメリハリの作り方で、なおかつそのタメる箇所が独特なのが、インバルの個性になっています。第3楽章もオケを相当に鳴らしまくって盛り上がり、おかげで楽章エンドで数人が拍手、しかも一人はブラヴォー付きというオチまで付きました。日本人が、本当につい思わず「ブラヴォー」と叫んでしまう局面って、人生で数回あるかないかだと思うので、その人はよっぽど感動したのでしょうね。ただ、オペラはともかく、悲愴のようなシンフォニーでこれをやられると、その後の緊張感がずいぶん削がれていやな気分が残るので、ブラヴォー言いたいだけの人はもっと場所を選んで出かけて欲しいと、個人的には思います。


2018.03.26 サントリーホール (東京)
Eliahu Inbal / 東京都交響楽団
Alexandre Tharaud (piano-1)
1. ショスタコーヴィチ: ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 Op.102
2. ベルリオーズ: 幻想交響曲 Op.14

 怒涛のインバル第2弾。まず1曲目のショスタコは、ディズニーの「ファンタジア2000」で使われ、知名度が一気に上がった曲です。前に聴いたのはちょうど8年前、カドガンホールのロイヤルフィル演奏会でした。このときはこの曲を献呈された息子マキシムが指揮の予定が、病気でキャンセルになり残念だったのを覚えています(というか演奏はよく覚えていない…)。
 まず何より驚いたのは、タローがiPadを譜面として使用していたこと。私もご多分にもれず、IMSLPからパブリックドメインのPDFスコアを大量にダウンロードし、iPadで眺めたりはしていますが、奏者が演奏用の譜面として使うのは初めて見ました。確かに合理的な利用法ですが、譜めくりはどうするんだろうと。オペラグラスで注視していたところ、ジャストのタイミングで譜面が素早くめくれていってました。タローが自分で操作しているようには見えませんでしたが、果たして舞台袖から譜めくりサポートの人が遠隔操作できるのか?Bluetoothは、まあ仕様上舞台袖でも距離は届くのかもしれませんが、いろいろと事故が起こりそうで、私なら怖いから真横に座って操作してもらいます。後で調べてみたら、譜面として使用するためのiPadアプリは以前からあり、首の動き等で演奏者が自分で譜めくりもできるそうです。とは言え、タローがいちいち首をかしげていたようにも見えなかったので、よっぽど微妙な動作で譜めくりができるとなると、やっぱりめくれないとかめくり過ぎとかの事故が怖いなあと。
 ということで、正直、演奏内容よりもiPadの操作のほうに注意が行ってしまったのですが、初めて聴くタローは、思ったより小柄で細身。年齢よりずっと若く見えます。いかにもショパンなんかをさらさらと弾きそうな感じで、パワー系とは真逆のタイプに見え、よく鳴っていたオケに押される局面もありましたが、終始マイペース。オケに引きずられることもなく軽快に弾き抜き、第1楽章などはむしろアチェレランドを自ら仕掛けたりもしてました。第2楽章はショスタコらしからぬメロウな音楽で、コミカルな第1、第3楽章との対比が面白いのですが、よほど好きで自信があるのか、アンコールはこの第2楽章を再度演奏していました。
 あと気になったのは、インバルの指揮台が正面ではなく左向きに角度を付けてあって、見据える先はホルン。この日は確かにホルンが全体的にイマイチで、迫力に欠けるし、音は割れるし、音程も危うく、足を引っ張っていました。他のパートも顔を見るとトップの人が軒並みお休みのようで、「若手チャレンジ」のような様相でした。
 「幻想」も久しぶりだなと思って記録を辿ると、前回は6年前、ドヴォルザークホールで聴いたインバル/チェコフィルでした。前はざっくりとした印象しか残っていないのですが、小技に走らず、大きなメリハリのつけ方を熟知している正統派の名演だという感想は、今回もほぼ同じでした。チェコフィルの滋味あふれる音色とは比べられませんが、オケの鳴りっぷりと重厚な低音は都響が勝っていました。遠くから聞こえる(はずの)オーボエと鐘がけっこう近かった他は、何一つ変わったことはやっていませんが、いつの間にか引き込まれてしまう、嘘ごまかしのない正面突破の演奏でした。


2018.03.20 東京文化会館 大ホール (東京)
Eliahu Inbal / 東京都交響楽団
1. ショスタコーヴィチ: 交響曲第7番 ハ長調 Op.60 《レニングラード》

 3月後半は怒涛のインバル3連発です。まず最初は、久しぶりの文化会館で、ショスタコの大作「レニングラード」。生演は2012年にロンドン・フィルとロシア・ナショナル管の合同コンサート(指揮は昨秋初来日したユロフスキ)で聴いて以来の、6年ぶりです。
 花粉症ピークのこの季節、自分自身の体調も正直最悪に近かったのですが、ほぼ満員の聴衆は、何と静かなことよ。やはり、他ならぬインバル/都響のレニングラードだから足を運んでいる人が多いようです。そしてその期待どおり、音の厚み、バランスと音程のコントロール、どこを取っても申し分なしの一流の演奏でした。都響のインバル・マジックとでも言うのか、実際ここまで着いてきてくれるオケに対して、インバルも満足だったことでしょう。演奏解釈は後半に重点を置く戦略で、有名な第1楽章などはけっこう軽やかに高速で駆け抜け、空虚にオケを鳴らしまくっていましたが、第3楽章の彫りの深い表現との対比がたいへん効果的でした。終楽章の最後までへばることなく音を出しきり、薄っぺらさから濃密さへの変化をきっちりと付け切る、メリハリの効いた演奏には感心するするばかりでした。このテンションで、もう82歳になってしまった巨匠インバルの身体がもつのだろうかと、ちょっと心配です。


2018.02.01 Philharmonie de Paris, Grande salle Pierre Boulez (Paris)
Gianandrea Noseda / Orchestre de Paris
Irina Lungu (soprano-3), Dmytro Popov (tenor-3), Alexander Vinogradov (bass-3)
Choir of the Orchestre de Paris (cond. by Lionel Sow)
1. Alfredo Casella: "La donna serpente" Suite No. 2
2. Debussy: Images (Gigues, Iberia, Rondes de printemps)
3. Rachmaninov: The Bells, choral symphony

 3年前に落成したパリの新しいフィルハーモニーホールはずっと気になっていたので、出張の折にタイミングよく聴きに行けたのはラッキーでした。最後にパリ管を聴いたのは5年前(指揮は佐渡裕)。当時の本拠地サル・プレイエルは、フィルハーモニー完成後、クラシックの演奏会から手を引いたそうで、感慨深いものがあります。
 フィルハーモニーは中心部からはちょっと北東に外れた、メトロ5番のPorte de Pantin駅から徒歩5分くらいの位置です。シテ科学産業博物館もあるヴィレット公園の中にあり、夏場であればまた雰囲気は違うのかもしれませんが、冬場のとっぷり暮れた夜だと(パリ管の開演時間は20時30分です、遅い!)、町外れにあるただの寂しく怪しい暗がりです。駅を出ても案内板もないし、街灯も少なく、ホールにたどり着くまでの道がとにかく暗い。ただでさえ油断のならない町パリ、他に人がいなければ絶対に夜歩きたくないロケーションです。
 後で「地球の歩き方」を見ると、カフェ、レストランが充実などと書いてありましたが、全くの嘘。建物内のカフェは狭くてすぐに満席、置いてある商品もしょぼくて、充実どころかヨーロッパではプアな部類でしょう。コンサート・カフェなる施設もありますが、建物を出て駅前まで戻らなくてはなりません。ここも混んでいたので、結局駅前のマクドナルドで腹ごしらえしました(後述)。
 建物内に入った印象は、とにかく殺風景。前のサル・プレイエルにしても、打ちっ放しコンクリートのような内装がどうも好きになれなかったんですが、こちらも負けず劣らずぶっきらぼうなデザイン。ホールに入るのに、非常口の鉄扉のようなドアを開けたら、まさかの暗い廊下。それを抜けて次の鉄扉を開けると、また舞台裏のような人に見せるものではない空間が広がり、その次の扉でやっとホールの中に入れました。そこかしこで中途半端に何かが足りない感をいちいち覚え、デザイナーに来客に寄り添う思想はまるでないと結論。ただし、ホール内とそれ以外での落差が大きいので、単純に予算が足りなかったのかなとも思いました。
 ホール内はさすがに立派で、曲線を多用したモダンというか未来的なデザイン。ワインヤード式のホールに客席が大きくらせん状に配置されているのはミューザ川崎と通じるものがあります。しかし、ホールの外のイメージが残っているのか、この曲線美も私にはどうも造形先行、ドライで暖かみがないように思えてなりませんでした。肝心のホールの音響ですが、最前列真ん中近くの席だったので、良し悪しは正直判断できず(パリ管の名手と歌手はできるだけ至近距離で聴きたかったので…)。
 指揮は、たまたまですが、昨年ワシントンナショナル響でも聴いたばかりのジャナンドレア・ノセダ。いかにもノセダらしい渋い選曲で、同郷イタリアのカゼッラ「蛇女」第2組曲、ドビュッシー「管弦楽のための映像」全曲、ラフマニノフの合唱交響曲「鐘」という構成。作曲された年代は映像→鐘→蛇女という順番ですが、いずれも20世紀前半の作品。昨年のダラピッコラ同様、カゼッラも名前からして知らなかった近代イタリアの作曲家ですが、わかりやすい曲調と色彩感豊かなオーケストレーションは、同世代のレスピーギと通じるものがあります。ドビュッシー「映像」は、真ん中の「イベリア」だけ単独で演奏されることが多く、全曲通してというのは私も初めてです。案の定、「イベリア」が終わったところで半数くらいは拍手。まあ、それだけ熱演だったので、これは仕方がありません。以上の前半戦2曲はパリ管のコンマスや木管の惚れ惚れする音色がたいへん心地よく、しかも、終始汗だくで振りまくっていたノセダにうまくノセられ、全体的にフランスオケらしからぬ?熱意と気合を感じた演奏に、時代も変わったのかなと。後半の「鐘」は初めて聴く曲で、正直評価に困ったのですが、若めのロシア人を揃えたソリストが皆それぞれ恐れを知らぬ堂々とした歌唱で良かったです。
 出張の間隙をついて何とか聴きに行けたコンサートですが、今回は特に体力的にキツキツで、ところどころ集中力が彼方に飛んでおりました。というわけで細かい部分が記憶に定着しておらず、今回は音楽の話というよりホールの悪口ばかりですいません。
余談ですが、パリのマクドナルドは全てタッチパネルでオーダーするシステムに変わっていました。たった一人の調理スタッフがちんたら仕事をしていて、待ち人が結局カウンター前で長蛇の列。効率化の意味まるでなし。接客の人件費削減というお題目で導入したのでしょうけど、調理スタッフまで減らしたらこうなるのはわかったはず。フランスでマクドに行くときは、混んでそうな店や時間帯は避けるが吉です。


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