クラシック演奏会 (2015年)


2015.11.20 すみだトリフォニーホール (東京)
Leon Fleisher / 新日本フィルハーモニー交響楽団
1. モーツァルト: ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K.414
2. ラフマニノフ: 交響曲第2番 ホ短調 Op.27

 レオン・フィライシャーのことはよく知らなかったのですが、ステレオ録音最初期にセル/クリーヴランド管などとセンセーショナルな録音を行った後、病気のため突如右手の機能を失い、指揮者と左手専門のピアニストとして音楽活動を続けていて、2000年にボトックス治療でようやく右手の機能を取り戻し、35年のブランクを経て両手演奏のピアニストとして復活したというレジェンドなアーティスト。演目が、当初発表のラヴェル「左手のための協奏曲」からモーツァルトに変更になったことの意味と意義を、恥ずかしながら理解しておりませんでした。87歳という高齢を考えると、はるばる日本までやって来て両手演奏を聴かせてくれる機会は、たいへん貴重なものだったんですね。
 さて、満場の拍手の中、ゆっくりと現れたフライシャーの弾き振りモーツァルトは、ヴィルトゥオーソの要素がほとんどない、枯れた味わい。老獪さはなく、ただ枯れています。やはり指が回っていない箇所がちらほらあり、何も予備知識なしで聴いたら、あまり上手じゃない素朴な演奏、という感想しか残らなかったでしょう。晩年のホロヴィッツが「ひびの入った骨董品」と呼ばれたのを即座に連想しました。ただ、この俗気の抜けたモーツァルトは、繰り返し聴くとじわじわと染み入ってくるものかもしれません。モーツァルトは永遠の苦手なので、すいません、こんな感想しか出てきませんが、欲を言えば、ラヴェルの左手のほうも聴いてみたかったです。なお、オケのほうは弦は良かったのですが、ホルンがぶち壊しでした。
 メインのラフマニノフ2番は、6月の都響以来ですから今年2回目。高齢のフライシャーは椅子に座っての指揮になります。のっけからオケが朗々と鳴っていて、ダイナミクスのコントロールはかなりアバウト。何だ、雑な演奏だなと思って聴いていくと、フライシャーは主旋律を奏でている楽器にはほとんど見向きもせず、副旋律のパートばかりを一所懸命振っていることに気づきました。ポルタメントも控えめで、こないだのリットン/都響とはほぼ対極の、ある意味ピアニストらしい、節度ある演奏。いや、リットンはそれはそれで良かったのですが、ラフマニノフ特有の甘いメロディが一歩後ろに下がり、重層的なポリフォニーに身を浸すような今日の演奏も、聴き慣れ過ぎて耳タコのこの曲にリフレッシュを与えてくれて、たいへん好ましいものでした。


2015.11.08 Live Viewing from:
2015.09.22 Royal Opera House (London)
Royal Ballet: Romeo and Juliet
Koen Kessels / Orchestra of the Royal Opera House
Kenneth MacMillan (Choreography)
Sarah Lamb (Juliet), Steven McRae (Romeo)
Alexander Campbell (Mercutio), Gary Avis (Tybalt)
Tristan Dyer (Benvolio), Ryoichi Hirano (Paris)
Christopher Saunders (Lord Capulet), Elizabeth McGorian (Lady Capulet)
Bennet Gartside (Escalus), Lara Turk (Rosaline)
Genesia Rosato (Nurse), Sian Murphy (Lady Montague)
Alastair Marriott (Friar Laurence, Lord Montague)
Itziar Mendizabal, Olivia Cowley, Helen Crawford (Harlots)
1. Prokofiev: Romeo and Juliet

 昨年もギリギリまで興業体制がはっきりせず、やきもきさせられたROHのライブシネマシーズンですが、今年はとうとう開幕に間に合わず、その代りというか、本国上演の24時間以内に1度きりの上演という今までの「準ライブ」方式ではなく、METのように2か月ほど前の演目を1週間上映するスタイルになりました。見に行けるチャンスが増えるという意味では一回ポッキリよりむしろ良いかもしれません。ただし劇場数は激減し、千葉県の上映がなくなってしまったので、日曜日に新日本橋のTOHOシネマズまではるばる家族で出かけました。周辺県からも集まったためか、土日の上映回は早々に満席になっていました。
 以前は本国の書式を踏襲した配役表が入館の際配られていましたが、今回は幕間のインタビューで字幕が出ない部分の対訳がチラシとして配られました。元々台本にないインタビューのやりとりは翻訳が間に合わないから字幕が入らないのだと思っていましたが、たっぷり時間はあったはずの今回も途中字幕が抜けていたのは、どうやら契約の問題だったもようです。
 昨年見た複数の千葉県の上映館と比べ、TOHOシネマズ日本橋はスクリーンの大きさ、音響共に圧倒的に良かったです。その分オケのアラがよく聴こえて、特にトランペットは相変わらずひどかったけど、ロンドンで聴いていた時も、まあだいたいいつもこんなもんだったかなと。
 このマクミラン版ロメジュリは、今でも妻が自宅で繰り返しDVDを見ているのでいいかげん食傷気味なのですが、それでも大スクリーンで見ると、緻密に練り上げられ、歴史のふるいにかけられたその舞台はやっぱり感動的。何度も見たマクレーのロメオ、始めて見るサラ・ラムのジュリエット、どちらもこの上ない安定感で、パーフェクトと言うしかない素晴らしい演技でした。特に終幕でラムの凛とした決意の表情から、最後に爆発する悲痛な叫びまでの感情表現は渾身の名演技で、わかっちゃいるのに不覚にもウルっと来てしまいました。
 ギャリーさんのティボルトは以前も見ましたが、さらに渋みが増し、哀愁が漂う大人の演技です。動きの激しい役はもうあまりやってないと思いますが、衰えを見せない剣さばきは流石。キャンベルのマキューシオは道化が足りず、ちょっと真面目過ぎでしたか。ベンヴォリオは初めて見る人です。悪友3人の息はピッタリで、ロメオの引き立てに徹した感じです。一方、強烈に違和感を感じてしまったのは、平野さんのパリス。せめてこの中なら、金髪に染めて欲しかったです。


2015.10.04 NHKホール (東京)
Paavo Järvi / NHK交響楽団
Erin Wall (soprano), Lilli Paasikivi (alto)
東京音楽大学 (合唱)
1. マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」

 4月の読響に続き、今年2回目の「復活」鑑賞です。今シーズンよりN響の首席指揮者(chief conductor)に就任したパーヴォ・ヤルヴィのお披露目でもあります。ヤルヴィ家では、お父ちゃんのネーメ、弟のクリスチャンはロンドンで見ていますが、パーヴォは初めて。この3人は各々雰囲気がずいぶんと違いますが、顔をよくよく見るとやっぱり似ていて、ゴツゴツ顔の家系ですね。
 さて、そもそもCDを含めてもパーヴォの演奏を聴くのはよく考えると全く初めてなのですが、率直な感想は「ロシアのマーラー」です。やたらとオケが鳴るけど、管の音は濁っているし、ティンパニは必要以上に硬質。テンポはわりと変幻自在に切り替えながらも、全体としての形がよくわからない。解放するより、型にはめるといった感じの終結部にも、私は感動を覚えることはできませんでした。さらにいうと、100人弱ほどの東京音大学生合唱団は、オケに対してパワー不足で、欲を言えば200人は欲しかったところ。ソリストが二人とも素晴らしい歌唱だったのは収穫で、今後彼女らの名前はチェックします。
 どうも私はN響とは相性が悪くて、今日の演奏も「感動のないN響」の一つに加えられました。在京オケのマーラーということでは、インバル/都響が一段上でしょう。パーヴォは、ロシアものでもやるときに、また聴きに行ってみようかな。


2015.09.04 すみだトリフォニーホール (東京)
Derrick Inouye / 新日本フィルハーモニー交響楽団
小菅優 (piano-1)
Alfred Walker (bluebeard/bass-baritone-2), Michaela Martens (Judith/mezzo-soprano-2)
1. バルトーク: ピアノ協奏曲第3番
2. バルトーク: 歌劇『青ひげ公の城』op.11 (演奏会形式)

 新日本フィルは過去何度か聴いて幻滅するばかりだったのですが、今シーズン(日本だと9月から新シーズンとは一概に言えない気もしますが)はわりと聴きたい曲が集中していたので、マイプランで5回分のチケットを買いました。さてその万難を排してでも聴きに行くバルトーク特集の開幕コンサートですが、イノウエは日系カナダ人、ウォーカー、マーテンスはともにアメリカ人、小菅優とオケはもちろん日本人だし、何故だかハンガリー色の薄い人々ばかり。
 小菅優は、前にも聴いたことがあるように思っていたのですが、どうも児玉桃と勘違いしていたようで、実際は聴くのは今日が初めてでした。新日フィルのサイトに出ていたインタビューで、このバルトーク3番は「ずっと弾きたい曲でした」と書いてあったので、レパートリーになったのはごく最近なんですかね。見た目そのまんまと言うと失礼かもしれませんが、郷愁のない健康的なピアノ。このバルトーク最後の作品には晩年のエピソードがまとわりついていて、そんなことは無視してスコアだけに真摯に向き合うというアプローチもありかとは思いますが、私の好みとして、この曲にはストーリーの味付けがないとあまり面白みがないです。アンコールはミクロコスモスの「蠅の日記より」。こちらのほうが自由奔放で良かったです。
 メインの「青ひげ公の城」は、オケの後ろにステージを立てて、白いクロスをかけバラの花瓶を乗せた小テーブルを置き、その周りで2人が演技を入れながら歌います。血のモチーフが聴こえるたびにオルガンが真っ赤にライトアップされ、花畑では緑、湖は青と、照明も大忙しの活躍。シンプルさではこれとほぼ同等の舞台をブダペストの国立歌劇場で見たこともありますし、演奏会形式というより立派なsemi-staged operaですね。演出家がクレジットされていないのが気になりますが、動きが歌手のアドリブ任せとも思えないし、誰か演出はいるはずです。
 吟遊詩人の前口上はなし。ウォーカーはがっしりとした体格に加え、黒スーツ、黒シャツ、黒ネクタイに身を包んだ黒人歌手でしたので、威圧感がハンパない。もうちょっと声量があればと思いましたが、安定感のある深いバスで、ハンガリー語も違和感なく、感情を押し殺しつつも堂々とした青ひげ公の歌唱でした。一方のマーテンスは、化粧っ気がなく、見た目も声もまさに「ワーグナー歌手」。すっかり忘れていましたが、プロフィールを読んでおやっと思い記録をチェックしたら、2009年にENOで青ひげ公を見たとき、ユディットを歌っていた人でした。ENOなのでそのときは英語だったのですが、今日はオリジナルのハンガリー語。「tudom」「köszönöm」といった基本単語の発音にちょいと違和感を覚えました。あとは歌い方がフェイクすると言うか、いちいち後乗りだったのが、オケがインテンポでグイグイ進む感じだったので、余計に気になりました。各論はともかく総論としては劇的な歌唱で、いかにも舞台でこの曲を歌い慣れているなという感じがしました。
 なかなか良かった歌手陣の奮闘に対し、それをかき消すくらいに、オケも頑張って鳴らしていました。フルート、クラリネット、トランペットのソロは、もうちょっとしっかりして欲しいところ。イノウエの指揮は、変にタメて流れを悪くしないという意味では私的に好ましいものでしたが、個性とか上手さは特に琴線に触れるものがなく。職業オペラ指揮者(職人ではない)という感じでしょうか。今回、扉の向こうのうめき声と、扉を叩く音はシンセで作った電子音でしたが、風情がなくて私は嫌いです。なお、第5の扉のバンダは1階客席後方からペット、ボーン各4本ずつを派手に鳴らしましたが、オケ、オルガンとクロックを合わせるのはさすがに難しそうでした。


2015.08.02 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
Edward Gardner / 東京都交響楽団
東京混声合唱団 (女声合唱-2)
1. ブリテン: 青少年のための管弦楽入門(パーセルの主題による変奏曲とフーガ)
2. ホルスト: 組曲《惑星》

 夏休みの日曜日マチネ、しかも娘の好きな「惑星」ということで、家族でGO!まあこの選曲ですから、他にも家族連れを多数見かけました。そんな子供向けクラシックの典型と見られがちな「青少年のための管弦楽入門」ですが、大編成管弦楽フェチの私にしてみればたいへんシビレる垂涎曲なのに、通常のコンサートプログラムに乗る機会が非常に少ないのは残念。生演で聴くのは多分これで生涯3回目です。英国若手指揮者の雄(とは言えもう40歳)ガードナーは2011年のBBCプロムス・ラストナイトでもこの曲を披露、当時その生中継をロンドンの自宅で家族と一緒に見ていたのを懐かしく思い出します。
 ガードナーは記録を見てみると、イングリッシュ・ナショナル・オペラの「青ひげ公の城」で過去一度だけ聴いていますが、あれえ、2、3度は聴いてなかったっけ?どうも他の若手と記憶がごっちゃになっているようです。それはともかく、小気味よくキビキビとした指揮は気持ちの良いもので、とにかくオケを鳴らす鳴らす。日本のオケからここまでの音圧を引き出すのは大した統率力です。都響のほうも、それだけの音を破綻せず出せる力量が元々あってのことで、うまい具合に乗せられてしまったという感じ。
 メインの「惑星」は、早めのテンポながら、あっさりサクサク進むというよりは、旋律にはいちいち細かくニュアンスを付けていく歌重視の演奏。打楽器は遠慮なく叩きまくり、オルガンの重低音は腹にずんずん響いて、金管も欧米オケにも引けを取らない鳴らしっぷりで、これまた爽快な演奏でした。危なっかしいところはなくて、普通にワールドクラスの好演。このままCDにできるでしょう。ガードナーはバランス良いアンサンブルに気を配り、鳴らすところはとことん鳴らし、旋律はしっかり歌わせ、スコアからその曲の理想像をつまびらかに引き出す、欲張りな正統派と言えましょうか。短めのプログラムだったので何かアンコールはやってほしかったなあと思うけど、「惑星」のリハを細かくやりすぎて、アンコールまで仕込む余裕がなかったんじゃないかと、なんとなく想像できました。またチャンスがあれば是非聴きたい指揮者です。


2015.07.16 サントリーホール (東京)
Jonathan Nott / 東京交響楽団
Ránki Dezső (piano-2)
1. ストラヴィンスキー: 管楽器のための交響曲
2. バルトーク: ピアノ協奏曲第1番Sz.83
3. ベートーヴェン: 交響曲第5番ハ短調「運命」

 台風接近で大荒れの天気が予想される中、先週痛めた足を引きずりながらも、8年ぶりのラーンキ見たさに出かけてきました(結局天気は持ちましたが)。
 1曲目のストラヴィンスキーは、ほとんど聴いたことがない曲でした。手持ちのラトル/ベルリンフィル「ストラヴィンスキー交響曲集」のCDにも入ってなかった。実を言うとブラバンとかウインドの曲が苦手な私。あんまり上手くないなーと思いながらも、よくわからんのでパスです。
 バルトークのピアノ協奏曲というと、日本で演奏されるのは3番ばかりで、1番、2番を聴ける機会は珍しく、逃すわけに参りません。ハンガリーではけっこう1番の演奏頻度が多くて、私が生で聴いた回数も1番が最多です。さらには、ラーンキは過去4回聴いていますが、そのうち2回がこの1番でした。さてその久々聴いたラーンキは、あまり老けたという感じもせず、クールで精緻なピアノは健在でした。この曲についての好みで言うと、ブロンフマンのように肩からガンガン叩き込む重戦車系が私は好きですが、このパーカッシブな難曲をサラサラとあっさり弾いてしまうラーンキも別の意味で凄いです。ところが、今日はちょっとオケの方がイマイチ。ついて行くのがせいいっぱいの様子で、リズムを忘れています。本来、ピアノと打楽器群の息を呑むようなリズムの掛け合いがエキサイティングに決まってこそ、この曲の魅力が際立つというものですが、ラーンキはラーンキで勝手に弾いてるだけ、ほとんど「協奏」してなかったです。最後の最後だけ辻褄を合わせればいいってもんじゃない。またラーンキが聴けた喜びに浸りつつも、ちょいと不満の残る演奏でした。
 メインの「運命」、前に聴いたのがいつかと調べてみたら、3年ほど前ですね。それを選んでわざわざ足を運ぶ対象では決してない曲です。プロオケさんにとってはさすがにやり慣れた曲なのか、先のバルトークと比べたら随分とリラックスしていて、ノットの熱い指揮に付き合って気合を見せる余裕もありました。ノットは英国人ですが、ロンドン在住時に聴く機会がありませんでした。どちらかというと大陸のほうでキャリアを築いていった人のようです。パッション系に有りがちな唸り系の人ですが、ちょっと唸り声が多すぎるのが興ざめ。前半ヘタっていたホルンもメインでは白人のプリンシパルがしっかりと支え、別段穴があった演奏ではなかったのですが、特長もなく、古いタイプの陶酔が、かえって空虚に私には聴こえました。こちらの体調も正直良くなかったせいかもしれませんが、何とも評価に困る演奏でした。ノットと東響、今後積極的に聴きに行くかどうか、ちょっと微妙なところです。


2015.06.28 新国立劇場 オペラ劇場 (東京)
下野竜也 / 東京フィルハーモニー交響楽団
新国立劇場合唱団, 世田谷ジュニア合唱団
小原啓楼 (ロドリゴ), 小森輝彦 (フェレイラ)
大沼徹 (ヴァリニャーノ), 桝貴志 (キチジロー)
鈴木准 (モキチ), 石橋栄実 (オハル)
増田弥生 (おまつ), 小林由佳 (少年)
大久保眞 (じさま), 大久保光哉 (老人)
加茂下稔 (チョウキチ), 三戸大久 (井上筑後守)
町英和 (通辞), 峰茂樹 (役人/番人)
宮田慶子 (演出), 遠藤周作 (原作)
1. 松村禎三: 歌劇「沈黙」

 このオペラは1993年の日生劇場での初演と、2000年の新国立劇場・二期会共催上演を見て以来ですので、15年ぶりの3回目になります。新国立劇場に足を運ぶのもえらい久しぶりで、前回来たのは2007年の「くるみ割り人形」でしたが、その年の夏に松村禎三氏は亡くなっていたのでした。
 「沈黙」は日本のオペラの中では上演機会に恵まれているほうで、この宮田慶子版(2012年プレミエ)は3つ目のプロダクションのはずです。詳細はよく憶えていないものの、前にここで見たときの演出は、ひたすら暗かったのに、最後だけはまるで「白鳥の湖」のラストシーンかと思うくらい、取って付けたような天光が差してきて、分かりやすく神の救いを表現するというベタな演出でした。
 一方今回の演出では、螺旋形で緩やかに上がっていく木製の回転ステージには巨大な十字架が刺さっており、シンプルながらも光と影を効果的に使ったシンボリックな舞台は、プロットがすっと身体に入ってきて好感が持てるものでした。音楽を邪魔しないというか、音楽の力が素直に引き立つよう作られており、一見根暗で前衛的なこのオペラが、そもそもいかにもオペラらしい劇的表現の宝庫かということがよくわかりました。不協和音の連続のようで、そこかしこに散りばめられる民謡、賛美歌、ムード歌謡まで、なんでもありのごった煮の世界。松村氏の他の作品と比べてサービス精神が突出しており、エンターテインメント志向が強い異色作です。見終わった後、晴れやかに劇場を出て行く、というものではなく、むしろ「どよーん」とした空気が何とも言えない作品ではありますが。
 歌手陣は皆歌いなれた人たちで、危なげない歌唱で安心して聴いていられました。下野竜也と東フィルの演奏も穴がなく実に立派なものでした。演奏にどうしても熱が入ってしまうのか、頑張りすぎて時々歌をかき消していましたが。
 日本を代表するオペラ作品だし、東西文化の衝突は題材としても海外向き。是非どんどん輸出して欲しいものです。ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語のオペラ上演が欧米の主要劇場でちゃんと成立しているのだから、人口でははるかに多い日本語オペラの上演があっても不思議ではないですよね。まあ、日本人歌手をもっと輸出することが先決かもしれません…。


2015.06.15 サントリーホール (東京)
Andrew Litton / 東京都交響楽団
William Wolfram (piano-1)
1. シェーンベルク: ピアノ協奏曲 Op.42
2. ラフマニノフ: 交響曲第2番ホ短調 Op.27

 シェーンベルクとラフマニノフとは、一見超異質な取り合わせで、実際聴いてみてもその隔絶感はハンパなかったのですが、この二人はたった1歳違いの、正に同世代の人なんですね。1873年生まれのラフマニノフより前の世代で前衛的な作曲家というと、思い浮かぶのはツェムリンスキー、スクリャービンくらい。一方、1874年生まれのシェーンベルクと同い年はホルスト、アイヴズ、シュミット、その一つ下はラヴェル、ケテルビー、クライスラーなど。その後ウェーベルンの生年1883年までの間に生まれた作曲家には、ファリャ、レスピーギ、バルトーク、コダーイ、ストラヴィンスキー、シマノフスキ、ヴァレーズといった大御所がズラリと並び、このあたりが正に自分のストライクゾーンなのだなとあらためて認識しました。
 と、長々と前置きを書いたわりに、やっぱり私には、このシェーンベルクのピアノ協奏曲はよくわからん曲です。音列は「20世紀の遺物」12音技法を駆使したものではあるけれども、オーケストレーションはゴタゴタした後期ロマン派の域を出ず、その中途半端さを補って余りある着想があるかというと、私の安物の琴線ではそれを感じ取ることが未だできないようです。そもそも、突き抜けた透明感のウェーベルン、無調を意識させない天才的音列のベルクと比較して、シェーンベルクで「これ好きかも」と思えた曲は一つたりともないのは事実。ちょっと今回は、選曲のコンセプトは評価するものの、演奏の論評は控えたいです。終演後にブラヴォーだか何だか言葉にならない絶叫をひたすらしていた男が謎でした。
 さてメインのラフマニノフ2番、もちろん今日はこちらを聴きに来たわけですが、もうのっけからベタベタのロマンチスト演奏に参りました。初めて聴くリットン、彼がこの曲に深い思い入れがあるのはよくわかりました。楽譜に指定のないところまで全編これポルタメントやレガートをきかせまくり、第1楽章ラストは(控え目ながらも)ティンパニの一発を入れたり、最初はちょっと呆れたというか、ブログのネタができたと喜んでもいたのですが、そのうちに、この曲を聴くためにわざわざ演奏会に足を運んでいるのは、ある意味、まさにこういう演奏が聴きたかったからかも、と思い直し始めました。とするとこれは、決して悪口ではなく、愛すべき「B級名演」。終演後にはたいへん満足して帰路につく自分がおりました。都響は指揮者によくついて行ったと思います。和をもって貴しとなす弦に、無理をさせない管。日本のオケ向きの曲なんだなということも再認識しました。


2015.06.5 サントリーホール (東京)
Yuri Temirkanov / 読売日本交響楽団
新国立劇場合唱団, NHK東京児童合唱団
小山由美 (mezzo-soprano)
1. マーラー: 交響曲第3番ニ短調

 第3番はとても久しぶりな気がして、記録を見ると前回聴いたのは2012年4月のビシュコフ/LSOですから、もう3年ぶり。テミルカーノフを初めて聴いたのもちょうどそのころでした。
 先日のコバケン/読響の「復活」が期待外れだったので、ロシア最後の巨匠テミルカーノフのタクトに読響がどこまでくらいつけるか、期待と不安相半ばでしたが、結果はまずまず良い方向にころびました。9本に補強したホルンが「この曲の要は我々」と意識し、最後までコケずに踏ん張ったのが良かったと思います。第1楽章は冒頭からしてゆったりと濃厚な味付けで、まるでマゼール先生級のヘンタイ演奏。のっけからこれでは、後半のオケの息切れが心配です。
 結構燃え尽きてしまった第1楽章を終え、軽くチューニングを直してから始まった第2楽章が、これまたロマンチックなハイカロリー表現。第3楽章では舞台裏のポストホルンを含め、管楽器のソロはもうちょっとしっかりして欲しいと思った今日このごろ。オケが最後まで持たないと見たのか、このあたりからテミル翁がギアチェンジしてくるのを感じ取りました。
 第4楽章が始まる前に後ろ扉から合唱団が入場しましたが、何故かメゾソプラノ小山さんは演奏が始まってから静々と歩いてくるという、意味がよくわからない演出。しかも、正直な感想を申しますれば、歌はちょっといただけない。ドイツ在住のワーグナー歌いとのフレコミですが、わざわざドイツから呼んでくる値打ちはあったんでしょうか。オケの方はポルタメントなしのあっさり表現でサクサク進んでいきます。第5楽章は女声と少年少女合唱による天使の歌ですが、見たところ少年は4人だけで残りは全て女性。これが意外にもオケを食うくらいのしっかりしたコーラスで、ロンドンにそのまま持って行っても十分通用するハイレベル。終楽章も前半のヘンタイがウソのように、引っかかりなく淡白な味付け。
 全体として一定のバランスをとった演奏と言えますが、第1楽章の調子で最後まで行ってくれたら、オケは破綻していたかもしれませんが、怖いもの見たさというか、それはそれで面白かったのにとは思いました。しかし、細かいことを除けば、久々に納得感のある演奏会に満足しつつ会場をあとにしました。やっぱりテミル翁は今日のような大曲が似合います。


2015.05.10 NHKホール (東京)
Jukka-Pekka Saraste / NHK交響楽団
Kristóf Baráti (violin-2)
1. シベリウス: 戯曲「クオレマ」の付随音楽より
 1) 鶴のいる情景 作品44-2
 2) カンツォネッタ 作品62a
 3) 悲しいワルツ 作品44-1
2. バルトーク: ヴァイオリン協奏曲第2番
3. シベリウス: 交響曲第2番ニ長調 作品43

 今日はバルトーク、しかもサラステということで、普段あまり聴きに来ないN響、NHKホールに来てみました。予報に反して日中は好天に恵まれた日曜日。かつては渋谷区民だった私も、休日の原宿なんて、本当に何年(何十年?)ぶりだろうか。代々木公園も沖縄フェアで盛り上がっており、若者がうじゃうじゃで、オジサンは何だか落ち着かないです。
 サラステを見るのはこれで4回目。ハンガリー、イギリス、日本の3カ国各々で聴いたアーティストは意外といなくて、サラステがまだ唯一です。一挙手一投足がいちいち颯爽と格好良く、音楽もドライブ感があって、外れがないという意味ではとても安心のできる贔屓の指揮者です。N響には11年ぶりの客演とのこと。1曲目の「クレオマ」劇音楽は、「悲しいワルツ」以外は初めて聴く曲でしたが、当然サラステにとってはオハコ中のオハコ。抑制の効いた弱音が美しく、リズムもメリハリがあり、どうだと言わんばかりの王道的演奏でした。
 続くバルトークは、ほぼ毎年聴いていたのに昨年は結局1度も聴けませんでした。今日のソリストはハンガリー人若手(といっても35歳ですが)のバラーティ・クリシュトーフ。私がブダペストに住んでいたころにはすでに奏者として活躍していた人ですが、実演を聴くのは初めて。この人、確かに技術は上手いと思いますが、音が綺麗すぎて単調な印象を受けました。3階席という条件を割り引いたとしても、オケに埋没してしまっています。バルトークを弾くからには、要所でほとばしる野卑性も欲しいところ。サラステはバルトークも得意としているはずですが、淡々として盛り上がりに欠け、イマイチ流れの悪い演奏でした。なお、終楽章コーダは最後までヴァイオリンを引っ張った改訂稿のほうでした。
 アンコールで弾いたいかにも難しそうなピースは、エルンストの「シューベルト「魔王」による大奇想曲」というんだそうで、わりと人気の超絶技巧曲だそうです。うむ、確かにこの人は上手いので、アンコールだけ器用、とか言われないだけのガメツさがあれば、と思いました。
 メインのシベリウスは、またガラリと変わって、音楽が活き活きと息を吹き返しました。さっきとは明らかにノリが違います。バルトークも十八番とは言え、やっぱりサラステにとってシベリウスは水を得た魚。正直、思い入れのない曲で、細かいところはわからないので抽象的ですが、こまめにドライブしながらも、流れは滑らかで、淀みがありません。オケも弦は最後まで濁らず、よく応えました。シベリウスの交響曲というと第2番ばかりで食傷気味なので、生誕150年の記念イヤーには他の曲もどんどんライブで聴きに行きたいと思います。


2015.05.06 Live Viewing from:
2015.05.05 Royal Opera House (London)
Royal Ballet: La Fille Mal Gardée
Barry Wordsworth / Orchestra of the Royal Opera House
Frederick Ashton (choreography)
Natalia Osipova (Lise), Steven McRae (Colas)
Philip Mosley (Widow Simone), Paul Kay (Alain)
Christopher Saunders (Thomas), Gary Avis (village notary)
Michael Stojko (cockerel, notary's clerk)
Francesca Hayward, Meaghan Grace Hinkis, Gemma Pitchley-Gale, Leticia Stock (hens)
Christina Arestis , Claire Calvert, Olivia Cowley, Fumi Kaneko, Emma Maguire,
Kristen McNally, Sian Murphy, Beatriz Stix-Brunell (Lise's friends)
1. Ferdinand Hérold: La Fille Mal Gardée (orch. arr. by John Lanchbery)

 半年ぶりのROHライブビューイングは古典バレエの名作「リーズの結婚」。原題は仏語で“La Fille Mal Gardée”(下手に見張られた娘=しつけの悪い娘)、英語では“The Wayward Daughter”(御しがたい娘)というタイトルですので、邦題で通用されている「リーズの結婚」は、以前から違和感を持っていました。最後のシーンが「結婚」という印象はなく、せいぜい「婚約」であろう、ということと、リーズとコラスの結婚に向けた道のりが話の本筋ではない(実質的な障害はほとんどなく、ずっといちゃいちゃしているだけ)、というのが理由です。「じゃじゃ馬娘」とか「おてんばリーズ」のほうが邦題として適当ではないかしらん。
 過去ROHで観た2回はいずれもマクレー、マルケスの当時の定番ペアでしたが、最近マクレーはラムやオーシポワにペアを組み替えられたようで(近年は隈なくキャスト表を見ていないので、間違っていたらごめんなさい)、今日のリーズはオーシポワ。彼女をロンドンで観たときは、ボリショイ(コッペリア)、ペーター・シャウフス(ロメジュリ)、マリインスキー(ドンキホーテ)と毎回違うカンパニーでしたが、ロイヤルで踊っているオーシポワを観るのは初めてです。
 過去に見た印象通り、今日の彼女も相変わらず躍動感が凄い。回転の加速とか、バランスの揺るぎなさとか、アスレチックな動きは抜きん出たものがあります。それだけで十分金を取れるダンサーであることは間違いない。一方、かつて見たマルケスを思い出しながら第1幕を見ていてすぐに感じたのは、この人、足技は凄いけど、手の動きがしなやかさに欠け、結果として全身の造作がぎこちなく見える場面が少々。実は意外と身体が硬いのでは、と思いました。また、マクレーと息を合わせて見栄を切ってほしいほんの一瞬で、客席への一瞥もなく、何だか自分の演技に没頭し過ぎている余裕のなさも垣間見られました。このバレエは小道具がたくさん出てきますが、長いリボンであや取りのように格子模様を作ったあとで、ほどくとリボンの中央に結び目が残ってしまうというミスも(まあこれはどちらのせいかわかりませんが)。資質的にはマクレーとはキレキレどうしで相性が良さそうにも思えますが、特にこの演目では、踊りの鋭さはなくとも、ラブラブ感をぷんぷんと匂わせていたマルケスに分があったでしょう。
 幕間にビデオが流れた司会のダーシー・バッセルとバレエコーチのレスリー・コリア(我が家にあるDVDのリーズはこの人が踊っていました)の対談で、コリアが「オーシポワは技術的には完成されたものを持っているが、英国式のポール・ド・ブラ(腕の動かし方)を習得するのに苦労している」というようなことを言っていて、自分の感覚があながち外れていないことを確認できました。言い換えれば、こういう苦手な(というか向いてない)役をも乗りこなせば、オーシポワは無敵のプリンシパルになれるのではないでしょうか。
 マクレーさんは今回も余裕で180度超の開脚を見せ、この人は相変わらず凄いです。マクレーファンの妻も大満足。何も言うことはございません。未亡人のフィリップ・モーズリーは、前に観たときも全てこの人が同じ役でした。木靴の踊りのキレはもう一つで(DVDで見る昔の人のほうが凄いです)、そのうちマクレーさんがこの役をやってくれないかなと真面目に思ってます。
 幕間のオヘアへのインタビューでは、次シーズンのROHライブビューイングのバレエは、ロメジュリ(キャストはペネファーザーとラム)、くるみ割り人形、ジゼル、フランケンシュタイン(スカーレットの新作)、アコスタのミックスビル、アシュトンのミックスビルと、6本も予定されていることが告げられました。多分猟奇的なものになるであろうスカーレット新作は、是非見てみたいかな。その前に、来シーズンもライブビューイングを近場で上映してくれることをただただ祈るばかりですが。


2015.04.24 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
小林研一郎 / 読売日本交響楽団
小川里美 (soprano), Anne-Theresa Møller (mezzo-soprano)
東京音楽大学合唱団
1. マーラー: 交響曲第2番ハ短調「復活」

 2月のヤマカズ/日フィルがチケット買っていたのに結局用事でいけなかったので、そのリベンジで聴いてみました。ハンガリーでは最も有名な日本人であるコバケンを前回聴いたのは、もう10年も前になりますなー。
 東欧では熱狂的に支持されていても日本のクラヲタにはどうもウケが悪い「炎のコバケン」さん、エモーショナルに盛り上げてスケールの大きい音楽を作るスタイルは決して嫌いじゃないのですが、オケが雑になりがちなのが、いつも残念。楽器の音を研ぎ澄ますということにはほとんど関心がないんだろうかと思います。今日も危惧していた通り、私の好みから言えば、オケの音が汚なすぎ。普段聴く読響の木管や弦は、もうちょっとスマートな音を出していたはず。ホルン、トランペットも思いっきり弱さを露呈して、長丁場聴くのは痛々しかった。終楽章の舞台裏バンダは当然舞台上の人々を超えるレベルではなく、最後にはその人たちも舞台に出てきてホルン、ペットが各々11本という大部隊になってましたが、音の「迫力」というのは決して楽器の数じゃないんだな、というのを再認識しました。コーラスが音大生のアマチュアながら、生真面目でしっかりと声の出た良い合唱だっただけに、オケがピリッとせず、残念でした。
 譜面を立てず、自らの信じるままに音楽を揺さぶるコバケン流「俺のマーラー」は、結果が伴えば、凡百の演奏には及びもつかない感動を呼び起こす音楽になりえるかもしれませんが、その期待に応えてくれるオケには巡り合えるのでしょうか。コバケンが80歳を超えてもまだかくしゃくと活躍していたとして、突如ベルリンフィルに招かれ人気を博し、その後死ぬまで「巨匠」として崇められるという、ヴァントのような晩年を送ってくれる世界は来ないかなと、楽しい妄想をしてしまいました。


2015.04.04 東京文化会館 大ホール (東京)
東京・春・音楽祭 ワーグナー・シリーズ Vol. 6
Marek Janowski / NHK交響楽団
Rainer Küchl (guest concertmaster)
Thomas Lausmann (music preparation), 田尾下哲 (video)
Robert Dean Smith (Siegmund/tenor), Waltraud Meier (Sieglinde/soprano)
In-sung Sim (Hunding/bass), Egils Silins (Wotan/baritone)
Catherine Foster (Brünnhilde/soprano), Elisabeth Kulman (Fricka/mezzo-soprano)
佐藤路子 (Helmwige/soprano), 小川里美 (Gerhilde/soprano)
藤谷佳奈枝 (Ortlinde/soprano), 秋本悠希 (Waltraute/mezzo-soprano)
小林紗季子 (Siegrune/mezzo-soprano), 山下未紗 (Rossweisse/mezzo-soprano)
塩崎めぐみ (Grimgerde/alto), 金子美香 (Schwertleite/alto)
1. ワーグナー: 『ニーベルングの指環』第1夜《ワルキューレ》(演奏会形式・字幕映像付)

 昨年の「ラインの黄金」に引き続き、東京春祭の「リング」サイクル第2弾です。昨年同様、演奏はヤノフスキ/N響に、ゲストコンマスとしてウィーンフィルからキュッヒルを招聘。昨年から引き続きの歌手陣は、ヴォータンのエギルス・シリンス、フンディングのシム・インスン(昨年はファフナー役)、フリッカのエリーザベト・クールマン(去年はエルダ役)。今回の新顔として、まずはジークリンデ役に大御所ワルトラウト・マイヤーを招聘。さらに、ブリュンヒルデ役のキャサリン・フォスターは、近年バイロイトで同役を歌っている正に現役バリバリのブリュンヒルデ。よくぞこの人達を連れて来れたものだと思います。フォスターは看護婦・助産婦として長年働いた後に音楽を志したという、異色の経歴を持つ英国人ですが、歌手としてのキャリアはほとんどドイツの歌劇場で培ったようです。マイヤーは記録を辿ると2002年のBBCプロムス、バレンボイム指揮の「第九」で歌っていたはずですが、ロイヤルアルバートホールの3階席では、「聴いた」というより「見た」ことに意義があったかと。ジークムント役の米国人ロバート・ディーン・スミスはブダペストで2回聴いていますが(2006年の「グレの歌」と2007年の「ナクソス島のアリアドネ」)、グレの歌のときは、何だか力のないテナーだなという印象を書き残してました。
 私は元々長いオペラが苦手で、特に「ワルキューレ」は歌劇場で過去2回聴いて、途中どうしても「早く先に進んでくれないかな」とじれてしまう箇所がいくつかあります。今回も第1幕は、演奏会形式ということもあってよけいに変化に乏しく、華奢な身体から絞り出されるマイヤーの絶唱に感心しつつも、つい間延びしてぼんやりとしてしまいました。コンサート形式ですが、後ろの巨大スクリーンでゆるやかに場面転換を表現する演出は昨年同様でした。ただ今回は、第1幕冒頭で森を駆け抜け、フンディングの家にたどり着いて進む展開の背景が露骨に具象的で、これはもうちょっと象徴的にカッコよくできなかったもんかと思いました。
 第2幕冒頭で登場したフォスターが鳥肌ものの見事な「ワルキューレの騎行」を聴かせると一気にテンションが上がり、続くクールマンも負けじと強烈な迫力のフリッカでヴォータンを圧倒、昨年影が薄かった分を取り返して余りある熱唱でした。そのヴォータンのシリンスも昨年同様堂々とした安定感で、ストーリーの主軸である彼の生き様(神様に対してそんな言い方していいのかわかりませんが)を、音楽的な核としてしっかり具現していました。総じて主要登場人物が減った分、歌手陣がいっそう粒ぞろいになり、昨年にも増して素晴らしいステージとなりました。ワルキューレの日本人女声陣のうち4名は昨年も出ていた人々で、賑やかに脇を固めていましたが、ただ立ち位置が舞台下手の深いところだったので、私の席からは影で見えず、声も届きづらかったのは残念でした。
 オケの方も、キュッヒル効果は今年も健在で、N響はこの長丁場を高い集中力で最後まで弾き切りました。まあ、曲が「ワルキューレ」ですから金管にもうちょっと迫力があれば、とは思いましたが、歌劇場付きのオケは本場ヨーロッパでもけっこうショボいことが多いので、十分に上位の部類でしょう。この充実した歌手陣に、引き締まったオケ、かくしゃくとした巨匠、世界じゅう探してもこれだけのリングが聴けるところはそうそうないかと思います。東京春祭万歳。最後のフライング拍手はちょっといただけなかったけど。


2015.03.28 Live Viewing in HD from:
2015.02.14 Metropolitan Opera House (New York City)
Valery Gergiev / Orchestra of the Metropolitan Opera
Mariusz Treliński (production)
Anna Netrebko (Iolanta-1), Piotr Beczala (Vaudémont-1), Aleksei Markov (Duke Robert-1)
Ilya Bannik (King René-1), Elchin Azizov (Ibn-Hakia-1)
Nadja Michael (Judith-2), Mikhail Petrenko (Bluebeard-2)
1. Tchaikovsky: Iolanta (sung in Russian)
2. Bartók: Bluebeard's Castle (sung in Hungarian)

 ライブビューイングはこれまでロイヤルバレエを何度か見ましたが、METは初めてです。遠く離れた日本でも前夜の公演を中継するので本当のライブに近いROHと違って、METは1ヶ月以上前、バレンタインデーの収録でした。司会のジョイス・ディドナートも言ってたように、バレンタインにはあまり見たくない演目だとは思います。
 前半の「イオランタ」は、チャイコフスキー最後のオペラで、初演は「くるみ割り人形」と2本立てだったとか。一幕のコンパクトな仕上がり、円熟極まった無駄のない構成、ひたすら美しいチャイコフスキー節、それでも彼のオペラとしては「スペードの女王」「エフゲニー・オネーギン」ほどのメジャーになり得なかったのは(METでも今回が初上演だそう)、おとぎ話とはいえ底の浅いストーリーのせいでしょうか。ポーランド国立大劇場の芸術監督でもあるマリウシュ・トレリンスキの演出はシンプルかつモダンですが、見たところシンボリックな作りでもなく、意味深な感じはしませんでした。しかし見ていくと存外凝った演出で、レネ王を除くほぼ全員が衣装の早変わりをするし、イオランタ姫に至っては一幕の中で2回も衣装を変え(LEDを仕込んだ最後のキラキラウェディングドレス含め、どれも胸の谷間強調系のオヤジキラードレスでした…)、細かいところでいっぱいお金がかかっていそうです。レネ王だけずっと軍服で通してましたが、彼だけ代役だったので、もしかして衣装が間に合わなかったのかも。
 ネトレプコはすっかり恰幅がよくなりました。可憐なお姫様役はそろそろ無理があるかも。ただし歌唱は華と声量にますます磨きがかかって、母国語のオペラということもあり、有無を言わさぬ貫禄がありました。彼女に限らず歌手陣は皆さん本当に穴なしで素晴らしく、さすがMET、と言わざるを得ません。ベチャワはあまり縁がなく、2007年のチューリヒ歌劇場日本公演「ばらの騎士」で第一幕に出てくる空虚なテナー歌手(この役はけっこうスターがカメオ的に歌うこともあるのですが)を聴いたくらいでしたが、今まさに円熟期を迎えようとしている正統派テナーの丁寧な歌唱は、衣装はともかくオーセンティックな芸術的欲求を十二分に満たしてくれるものでした。病欠タノヴィツキーの代役でレネ王を歌ったイリヤ・バーニクは、名前と風貌が記憶の片隅にあったので記録を探してみたら、2012年にLSOでストラヴィンスキーの音楽劇「狐」を聴いた時、「山羊」役だった、まさに風貌が山羊のバス歌手がその人でした。王様の貫禄まるでなしなので外見は全くミスキャストなんですが、歌は重心が低くたいへん良かったです。
 インターミッションは出演を終えたばかりのネトレプコ、ベチャワ、ゲルギエフへバックステージでインタビューを行うわけですが、ディドナートが、まあようしゃべること。この人は本当に司会者向きです。ネトレプコは出番が終わった開放感からか、やけにハイテンションで、「バレンタインデーに何でこんなの見てるの?早く家に帰って愛を確かめましょう!」などとのたまい、あわてたディドナートが「いやいや最後まで見ていって」と思わずフォローする微笑ましい場面も。ゲルギーの堅めのインタビューのあと、突然フローレスが登場し、二人が出演する次のライブビューイング「湖上の美人」の宣伝もちゃっかり。一番最後にはMET賛助会員の寄付募集までアナウンスして、この抜け目ない番組構成はROHにはなかったもの、まさにアメリカ式ですなー。
 後半の「青ひげ公の城」が、もちろん今日の私の目当てだった訳です。冒頭の吟遊詩人の口上は、英語圏だと最近はペーテル・バルトーク訳の英語版を使うのが一般的かと思いきや、久々に聴いたハンガリー語のオリジナル。ヴィンセント・プライスばりにおどろどろしいホラー映画のナレーションだったので、これでこの先の雰囲気はだいたい読めてしまいました。演出は半透明スクリーンに映像を映した特殊効果を多用しており、象徴的よりも直接的な表現を志向しています。ただし、最初の拷問部屋で壁に血が付いていたくらいで、スプラッター度はあまりなし。普通と違うのは、ずっと夜というか闇の世界に留まっており、第5の部屋、青ひげの領地も大木の地下茎のようなものがぶら下がる地下世界。最後は、土に埋められようとしているパーティードレスの女(これはマネキン)の後ろには、長い黒髪の「貞子」が5人もわらわらと…。陰々滅々とした終わり方で、閉幕後の場内はシーンと静まり返っていました。せっかくのバレンタインにこれを見て帰ったNYの人はたいへん御愁傷様です。この企画、オペラの演目の順番は逆でも良かったのではないかなあ。「闇から光」と「闇からさらに深い闇」の対比でまとめたかったのだとは思いますが、順番を逆にしては全く意味をなさない、とも思えないし。
 歌手はどちらも初めて聴く人で、ユディット役のナディア・ミカエルはドイツ出身の金髪スレンダーソプラノ。ROHで歌った「サロメ」がDVDになっています。ホラー映画の常套として金髪グラマー系はたいがい殺人鬼のエジキになるわけですが…。しかもミカエルはサロメ歌手だけあって露出はどんとこい系、第3の宝物部屋では何故か入浴シーンになって自慢の?ボディーを晒し、最後の部屋ではシミーズ一枚で雨に濡れて○っぱいもスケスケ(せめてカーテンコールはガウンくらい着せてあげなよ…)。文字通り「身体を張った」熱演は素晴らしいものでしたが、歌は、先のネトレプコ達と比べてしまうと、抜群とは言えず。ハンガリー語の発音がちょっと不自然なのも気に触りました。対する青ひげ公のミハイル・ペトレンコは名前からしてロシア人。この人も熱唱度では負けてないものの、ちょっと熱入りすぎで、キャラクターがミスマッチです。とは言え「青ひげ公の城」単独で評価しても歌手は粒ぞろいでお金がかかった舞台なのは疑いなく、どんなオペラを持ってきてもゴージャスに仕上げてしまうMETの財力はやっぱり凄い。いつの日かMETの劇場の良席で、珠玉の生舞台を見てみたいものだという、人生の目標がまたできてしまいました。


2015.03.03 サントリーホール (東京)
第34回 東芝グランドコンサート2015
Tugan Sokhiev / Orchestre National du Capitole de Toulouse
Yulianna Avdeeva (piano-1)
1. ショパン: ピアノ協奏曲第1番ホ短調 Op.11(ナショナル・エディション)
2. リムスキー=コルサコフ: 交響組曲『シェヘラザード』Op.35

 今年も幸いなことにチケットを譲っていただき、久々の「外タレ」コンサートです。今回はトゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管、ソリストは2010年のショパンコンクール優勝者、ユリアンナ・アヴデーエワ。どの人も実演を聴くのは初めてです(トゥールーズ管はプラッソン指揮のオネゲルのCDを持ってました)。日程を見ると今年も強行軍で、2週間足らずのうちに大阪→東京→広島→福岡→金沢(ここまでルノー・カプソンを帯同したAプロ)→名古屋→仙台→川崎→東京と全国を休みなく飛び回っており、オケの疲労が心配です。
 今年は司会者も三枝成彰の解説もなく、定刻になったらさくっと演奏が始まりました。客入りはほぼ満杯ながら、客筋が普段より少しノイジーではあります。花粉症の季節に加え、立派なプログラム冊子を入れたプラスチックの袋、これがカサコソ音を立てて、いけない。さてピアノのソロ演奏会にはまず行かない(友人関係を除くと多分皆無)私にとって、ショパンは永遠の「守備範囲外」。このコンチェルト第1番も過去に何度も聴いていますが、正直、起きているのが辛い曲です。ショパンコンクールではアルゲリッチ以来45年ぶりの女性優勝者として話題になったアヴデーエワは、今年30歳のまだ若手。「アルゲリッチ以来」という触れ込みとその個性的なお顔立ちから、何となく豪傑肉食系をイメージしていたら、見かけは華奢だし、実は繊細系のピアノだったので、やはりイメージで勝手な思い込みをしてはいかんと反省しました。さすがに技術は確かというか、この難曲に対しても極めて安定度の高いピアノが最後まで一貫してました。玄人向き、大人向きと言いましょうか。最後まで眠くならずに聴き入ってしまいました。一方で、席がもっと近かったら印象が違うのかもしれませんが、ピアノがオケと溶け合いすぎ、迫るものがありません。ぐいぐい押すタイプではないにせよ、どこか際立つ瞬間を演出できないと、優等生的で終わってしまわないかなあと。フィジカルな演奏技術ということではもちろん最高レベルにあると思いますが、同じレベルに属するピアニストはすでに世界中に相当数いるでしょうから、私の趣味としては、もっと音が暴れているピアノが好みです。アンコールは何かのワルツ(多分ショパンでしょうけど)を弾きました。
 メインの「シェヘラザード」は、記録を見るとちょうど3年ぶり。あまり繰り返し聴いている曲ではありません。このオケの特長は弦がしっかりと厚いこと。女性コンマスのソロも安定感がありました。一方管楽器は総じて線が細めで、アメリカやロンドンのオケみたいな圧巻の馬力はありません。そこはフランスのオケというべきか。ホルンは特に、足を引っ張ってました。一方で、フランスのオケは手抜きするとよく揶揄されますが、今日を聴く限りそんな態度は一切なし。今日の選曲だとそんなに馬力は必要ないし、オケの色とあっていたのではないかと。ソヒエフはワシリー・ペトレンコ(昨年の東芝グラコン)やハーディングと同じ「アラフォー」世代の成長株。ロンドンではフィルハーモニア管などを振りに来てたので名前はメジャーでしたが、聴く機会を逃していました。しなやかでキメの細かい棒振り(といっても指揮棒は使ってませんでしたが)は見栄えが良く、オケには好かれそうな器用さを持っていると思いました。総じて表情が濃く重層的な響きに徹しており、こういう奥行きの深さは日本のオケではあまり聴けません。ソヒエフの目指しているところはフランスよりもドイツのオケのほうが共鳴しやすいんじゃないでしょうか。などと考えごとをしながら聴いていたら、第3、第4楽章では各々の木管ソロを際限なく自由に吹かせてみたり、仏製テイストを引き出そうとも工夫している様子。
 アンコールはスラヴ舞曲第1番と、「カルメン」第3幕への間奏曲、さらに第1幕への前奏曲。最後は聴衆の手拍子を誘うはしゃぎっぷりで、ご機嫌でツアー終了。第一線級とは言えないまでもしっかり地に足がついたオケと、ノッてる旬の若手指揮者(この世界で30代は若造です)の取り合わせは、昨年のグラコンに劣らず、良いものを聴かせていただきました。


2015.02.15 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
Sylvain Cambreling / 読売日本交響楽団
Nils Mönkemeyer (viola-2)
1. 武満徹: 鳥は星形の庭に降りる
2. バルトーク: ヴィオラ協奏曲
3. アイブズ: 答えのない質問
4. ドヴォルザーク: 交響曲第9番ホ短調「新世界から」

 3月前半欧州ツアーに出かける読響ですが、これはツアーのAプロに当たる演奏会です(ちなみにBプロは12月定期でやってたトゥーランガリラ交響曲)。ツアーでは1週間でベルリン、ワルシャワ、ケルン、ユトレヒト、ブリュッセルを足早に回りますが、カンブルランの故郷フランスには立ち寄らないようです。それにしてもこのプログラム、一見脈絡ない選曲にも思えますが、どれもアメリカと関係が深い楽曲ということになってます。それを何故カンブルラン/読響が欧州ツアーで演奏するのか、というのはやっぱり脈絡がわかりませんが。
 1曲目はサンフランシスコ響のために委嘱されたタケミツの代表作。Wikipediaには「小澤征爾指揮、ボストン交響楽団により初演され」とありますが、1977年エド・デ・ワールト指揮サンフランシスコ響にて初演、というのがどうも正解のようです(私はどっちが正しいかを検証するすべを持ちませんが、Wikiは時々とんでもなくテキトーなことが書いてあったりするので要注意)。私が以前この曲を聴いたのは10年前のN響のブダペスト公演だったので、日本のオケが海外ツアーする際の定番なのかもしれません。黒鍵中心の五音音階を基にモチーフを組み立ててみたり、ガリガリの前衛から路線転向した変化点と言われる曲ですが、確かに、セリーだのチャンスだの、様式の逸脱と自己満足だけに突き動かされていた20世紀の「ゲンダイオンガク」を卒業し、融合路線に回帰した21世紀の現代音楽を、ある意味先取りしていたのではないでしょうか。まあ、武満がちょっと苦手な私の感覚では、まだまだ余裕で前衛な曲ですが。すいません、演奏の良し悪しは正直判りかねますが、誰がやってもその空気は再現できそうな、完成度に優れた楽曲だとはあらためて感じました。
 次は、晩年をアメリカで過ごしたバルトークの未完の遺作。パンフを読んでなるほどと思ったのですが、バルトークが最後のアメリカで作曲した管弦楽曲は、全て「協奏曲」と名付けられているんですね。実はこのヴィオラ協奏曲、バルトークファンであるはずのこの私が、実演では今日ようやく初めて聴く機会を得ました。そもそもヴィオラ協奏曲というのは、私にとってはティンパニ協奏曲よりもマイナーなジャンルにつき(と書いてから調べてみたら、ヴィオラ協奏曲は近現代で結構書かれている事実を発見…)、論評できるほど聴き込んでもおりません。「バルトークの最高傑作(になるはずだった)」と言う人もいるみたいですが、特に終楽章、魅力的な着想が断片的に出てくるものの、あっけなく終わってしまう淡白さを感じるのが、敬遠する理由だと思います。オケコンやヴァイオリン協奏曲第2番のような「天才の円熟が結実した音楽芸術」というにはどうしても消化不良感が残ります。ということで、今日のところはメンケマイヤーの中性的なヴィオラの音色を堪能したのみでご勘弁。アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第1番から「アルマンド」、これも聴きなれたチェロと比べて何となく生理的な違和感を覚える不思議な感覚でした。
 休憩をはさんで、次も一度は実演で聴いてみたかった「答えのない質問」。穏やかなメジャーコードの弦楽合奏に乗せて、トランペットソロとフルート四重奏が禅問答のようなやり取りを繰り返します。スコアを見ると、四重奏はオーボエ、クラリネットが入っていてもよくて(実際、バーンスタインの音楽啓蒙番組「答えのない質問」ではそうなってましたね)、トランペットソロもクラリネット、オーボエ、コーラングレで代用可のようです。今回トランペットはステージ後方上階のオルガンの前に立ち、一音でも外してしまうと曲が台無しになりかねない緊張感の中で、しっかり仕事をしました。これはやっぱりオーボエやクラの代用では出せない空気があると思います。下を支える弦楽合奏も極めて抑制的で、良かったです。
 今回の選曲はアメリカ繋がりということですが、パンフのカンブルランのインタビューを読んでいて、「新世界」と「答えのない質問」(オリジナル)は作曲された年が高々15年しか離れていないという指摘は非常に新鮮でした。ロマン派ど真ん中のドヴォルザークとの対比で、アイヴズの先進性は驚きです(ドヴォルザークが古いと言っているわけではもちろんありませんが)。
 ということで、アイヴズから切れ目なく新世界へ突入。フルート奏者の余り2名は新世界では出番がないのでどうするのかなと思って見ていたら、第1楽章が終わるまで待って袖に引っ込みました。さてその新世界ですが、前にも思いましたが、カンブルランの音楽作りは時にとことんレガートを効かせた、まるでカラヤンのように流麗寛雅な世界に徹していきます。さすがに新世界はプロオケの皆様手慣れている様子で、第2楽章のコーラングレも美しかったし、均整のとれた職人肌の演奏。管楽器は若干バラツキがあるかなと思われる以外は、ヨーロッパに行ってもレベルの高さを示せるのではないでしょうか。アンコールは同じドヴォルザークでスラヴ舞曲第10番(第2集第2番)。せっかくのツアー用に、手頃な日本の曲は何かないものですかねえ。


2015.01.23 東京芸術劇場コンサートホール (東京)
下野竜也 / 読売日本交響楽団
小森邦彦 (marimba-1)
1. 武満徹: ジティマルヤ
2. マーラー: 交響曲第5番嬰ハ短調

 今年最初の演奏会です。マーラーと武満という取り合わせは、翌日から始まる山田和樹/日フィルのマーラーチクルスをちゃっかり先取りしたかのようなプログラムですが、別に今年はどちらの記念イヤーでもないし、まああまり意味なく偶然なんでしょうね。
 「ジティマルヤ」はマリンバ独奏とヴァイオリンを欠く変則編成のオケによる協奏曲風の作品。初めて聴く曲でしたが、指揮者の譜面台に置かれたスコアの巨大さから、どんだけ複雑怪奇で濃いいサウンドが出てくるんだと思いきや、一貫して室内楽的な透明感。不協和音がそのうち心地よく響いてくるような不思議な突破力があります。ただ、私は打楽器奏者の端くれでありながらマリンバにはどうも魅力を感じることがないので、引き込まれることもなく。
 メインのマーラー5番はほぼ2年ぶり。下野さん、昨年のブルックナーが良かったので大いに期待したのですが、ちょっと期待外れ。指揮は懇切丁寧で、致命的な破綻はないし、むしろオケは大きい音でよく鳴っていたのですが、全体を通してどこか醒めた演奏。事故なく無難にこなす以上のことをやる気がないというか、完全に守りに入っていて、音の線も細い。曲の軽さがそのまま浮き彫りになってしまった、何とも面白みに欠ける演奏でした。やはりマーラー演奏は、オケと丁々発止しながら、予定調和ではないエネルギーの発揚を引き出すことが大事なのだな、という認識を強くしました。
 退屈すると、興味は美人奏者探しに走ってしまうのですが、今日はホルン、トロンボーン、打楽器、チェロ、コンバス各々に若くて可愛らしい女性を見つけました。見慣れない顔だったので(まあ私は人の顔がなかなか覚えられないのでアテになりませんが)、皆さんトラだったのかも。


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