岡村 淳
主人と結婚したのは、1966年です。 サンパウロにあった日系の商事会社で、主人と出会いました。私のいた移住地の知人がその会社の重役をしてまして、私はそのツテで入社して事務員をしていたんです。 主人は当時、人事部長。むかないんですよ。 ある女性に辞めてもらうことになったんですけど、なかなか言えないんです。二、三日、悩んでね。困って困って、最後には言ったんだと思いますけどね。 なんだか恥ずかしそうな、照れてるような人でした。 プロポーズなんかないけど、「ご飯、食べに行こう」とかね。とにかくシラフではあんまり言わない。 なんでも酔っぱらった勢いで(笑)。 お酒を飲まない時と飲んだ時で、コロッと人が変わって。 私の母が、お産の手伝いに来た時です。哲郎さんには酒を飲ませ、飲ませって(笑)。飲まない時は、そばにも寄れないような恐い感じで。 飲むと、ほがらかになって冗談も言うし、みんなを笑わせるしね。 主人が日本に行くと、みんな楽しみにしているんですよ。大げさに話をしますしね。 ブラジルでは、ビールを飲んでハエがコップに落ちたら、ハエだけプッと吐くとか(笑)。日本の人は本気にするんでしょうかね。 晩酌はウイスキーでした。 スコッチは高いですからね、オールドエイチ(ブラジル国産のウイスキー)です。 外国旅行の帰りに、空港の免税店で買えるでしょう、そういう時は箱でスコッチを買ってきて。 それがある間はいっしょうけんめい飲んで、オールドエイチはあっちにやって。やっぱりスコッチの方がいいんでしょう(笑)。でも高くて買えないから。 一本が四日ぐらいしか持ちません。 コップにチョチョッとこの位(約3センチ)入れて、それから水をジャッと入れて。ご機嫌でした。 晩酌が好きでしたね。 なにか変わったおつまみを作ると、私の兄弟を「ちょっと呼べや」って言って。話を聞かせるのが好きなのね。 私のところばかり来るんじゃなくて、今度はあっちに行こうと言うと、それは嫌いなの。帰らないといかんから(笑)。面倒くさいのね。 自分が先に酔っぱらってしまって、お客さんに帰って欲しい時は私をつつくの。 帰らせるっていったって、私も頃合いがありますからね。 でも、これ以上だめだっていう時は「もう主人もだいぶ参ってますので」とはっきり言いますよ。そうしたら「失礼しました」って帰られますよ、誰だって。 それでお客さんを送っていって、後で必ず私にありがとうって言いましたよ。酔っぱらっているから恥ずかしくないんでしょう。シラフじゃ言わないですよ。 酩酊すると、翌日は覚えていません。 私がたまに何か大きな買い物をすると、相談しなかったって怒るのよね。本当は相談なんかしていないんだけど、「でもあの時、酔っぱらっていいって言ったじゃないの」って言うと、そうかって。自分が覚えていないから(笑)。 主人は、飲むと何回も同じことを言っていましたよね。 片目つぶって頭をかしげて、こうなるともうだめ。でも物を投げたり、手を上げるとか、そういうことはなかったです。 本人はいいですよね。好きなだけ飲んで。 まだ物足りなかったでしょうけど、書くのは書いて、好きなことして。 いやいやながら生きてきたんじゃないから、いいんじゃないでしょうかね。 主人のやることは、いま思うと子供っぽかったですね。 ここにある花瓶は、ヤシの木でできているんです。 私たち家族がベレン(アマゾン河口近くにある都市)にいる時に、知り合いの日本人からいただいて、気に入りましてね。 気に入ったのはいいけど、マラジョー島(アマゾン河口の島)のブラジル人に頼んで、ヤシの木をカミニョン(トラック)でベレンのうちに運ばせて。それもなんにもネゴシオ(交渉)しないで(笑)。 自分が花瓶を作るっていうんです。大工仕事は好きでした。 そしてブラジル人を雇ったんです。 ツルツルになるまで仕上げるのは、大変なんですよ。なかに詰まった芯を取るんですから。 それに、水を入れても漏れるんです。この花瓶もブリキの入れ物がなかに入っているんですよ。 けっきょく完成したのは、ふたつだけ。あとは放り投げて、サンパウロに帰ってきたの。 商売になるな、とは思うんでしょうけど、商売になるまでのルートとか、そういうのができないんですよ。 それに人にすぐあげるから、商売になりませんしね。お金をもうけたい気持ちがあっても、できない人でしたね。 お金が欲しいと思っても、言おうとしたら何かが舌をひっぱるって。 いくら言おうと用意していても、ギュッとひっぱるから、もういいよ、持っていけよって言ってしまうんです。 話を聞きたいって頼まれて、二時間も三時間も教えてあげて、何もいただかないことがしょっちゅうでした。 性分なんですね。 自分がこれだけのことをすれば、自分の方から言わなくても、相手の方からくれるはずだって言うの。 それを期待するもんだから、なかなかじゃないですか。 あからさまにお金もうけをしようというような人は、嫌いでしたね。人を利用しようという人も嫌い。 なにか鐘が鳴るんですって。人に会って、この人は危険だよ、危険だよって。危険信号が鳴る人と鳴らない人があるそうです。 なんにもない中隅なんだから、なんにも悪いことしてないって証明できる、とよく言っていました。 ブラジルで会社勤めをしていた頃の主人の同僚は、別荘を持っていたり。うちは、この家の前までは借家だったんですから。 家賃の交渉は、いつも私なんです。主人にやってくれって言っても「俺がしたら家主の言う通りになるよ」って。こりゃあいかん、と思って私が一生懸命やりました。 子供のことも、私にまかせっきりでした。学校の父兄会にも行ったことはないし。 子供との会話は、あまりありませんでした。それでも子供が大きくなって、飲めるようになったら、飲みながらいろんな話をしていましたね。 しようと思ったら、いろいろできる人でした。 子供が小さい頃のことです。私が子供と外出して帰ってきたら、鯛の姿焼きが作ってあって。糸を張って、化粧塩をして。そんなこと、私にはできませんよ。 料理は上手でしたね。 私だったら、作りながら何回も料理の本を見なければいけない。あれは何杯だったかしら、とかね。主人は本をじっと見るだけで、ぜんぶ頭に入ってるんですね。最初から終わりまで。すごいな、と思いました。 料理は好きでした。 ベレンに最初、ひとりで行っていた時に、婦人雑誌の料理の記事を切り抜いて、ちゃんとファイルしていました。 これは、という料理は作ってみてましたよ。そうしてレパートリーが増えていって。 「女に生まれなくて、ひとつ残念なのは、いつでも料理ができないことだ」なんて言ってました。 男は、仕事をしなければいけないから。毎日、料理する時間があれば、あれこれとできるじゃないですか。 料理は化学実験室だ、とか言ってましたね。あれこれ入れてみて、そういうのが面白いんでしょうね。 記憶力のすごさは、学生の頃から有名だったみたいですよ。 日本に行く度にいろんな本を買ってきて、そしてブラジルの本も読まないと書けませんからね。ポルトガル語も読む力、読解力がありました。それで頭のなかに残るんですね。 歌でも一回、聞いたら忘れないのね。歌謡曲や演歌なんかもどこで覚えたのか、よく知ってましたよ。 それでも、人の名前とか、覚える気のないのは覚えない。私の従兄弟の名前なんか何十回かして、やっと覚えました。関心ない人のことは覚えない。 ややこしい学名なんかは、関心あるから覚えるの(笑)。区別できるんでしょうかね。 書かなければいけない時は、夜中の三時頃まででも書いてましたね。そういう時は、晩酌はほんの少し。 ああいうふうに神経をいつも張っている人は、飲まなければ持たないんでしょうね。 書く人ですから、緊張してピリピリして。いつも真剣ですから。 自分の心構えとして「むずかしいことを、いかにやさしく書くかに気をつけている」と言っていました。みんなにわかるように。 それでも読む人が読めば、この人は勉強してるなってわかるんでしょうね。 主人の書いたものは、読んでいます。時々、思いあぐねて、これでいいかって私に意見を聞くことがありました。 私はあまりわからないし、程度が違いますからね。でも「いいんじゃない」とか言ってあげると「あんたは常識的な人だから、まあいいかな」とか言ってましたよ。 せっかく書いてるのに、気の毒だしね。もの足りなかったと思いますよ、きっと。もっとなにか言ってあげた方がよかったかもしれませんけど、もう清書しているのを見てくれって言うんだからね。 テレビは嫌いでしたよ。 見るのはニュースだけ。ドキュメンタリー番組も見ませんでしたね。パンダナールの番組をやっている時なんかでも、関心があると思って教えても、見ないの、ぜんぜん。 自分で調べた方が、読んだ方がいいんじゃないですか。やっぱり本ですよ。 映像はあんまり好きじゃない。岡村さんには悪いけど(笑)。 それでも「寅さん」(日本映画「男はつらいよ」シリーズ)のビデオは大好きだったの。 主人の弟が、せっせと送ってくれて。私と一緒に見てましたよ。それで大笑いするのね。 やっぱり自分の若い時がみえるんじゃないですか? 寅さんは日本男児でしょう。恥ずかしくて、なかなか言いたいことが言えない。自分と同じように見えて面白かったんでしょうかね。 私が日本語の先生を始めるまでは、夕食の時に飲みながらいろんな話をしてましたね。一時間でも二時間でも。あっちへ行くと機嫌が悪いから。 日本語教師は忙しいから、落ち着く暇がなくなって悪いことしたなって思っています。 「日系コロニア(ブラジルの日系社会)は、なくなるよ」って延々と聞かせてくれましたよ。 主人は、人間くさいことはあまり書かなかったですよね。だけどボツボツ人間くさいことも書くかっていうようなことを言ってました。 生まれ変わっても一緒に? うーん、ちょっと考えますね。でも、やっぱりかわいそうだから。他の人にはまかせられないし。 死ぬ頃になって、あの人の良さもわかってきたから。 むずかしい人だと思っていたけど、むずかしいところが返って味みたいなものですか、そういうふうに感じるようになりつつあったんです。 私たちが結婚して、同じ道、生き方にたどり着くまで、ずいぶん長かったと思いますよ。 それが、やっとと思う頃になって、片方が亡くなってしまって。 中隅哲郎(なかすみてつお)氏 プロフィール 人文科学から社会科学にわたる総合的な知識と、豊富なフィールドワークの体験をもとに、ブラジルを総合的にとらえようとする「ブラジル学」を提唱した。 1936年 東京都生まれ。 明治大学政経学部卒業。 1959年 ブラジルに渡る。 日本語新聞社、商事会社、日系旅行社などに勤務。 サンパウロ人文科学研究所専任理事、日本語普及センター副理事長などを歴任。 著書に「パンタナール」「ブラジル学入門」「ブラジル観察学」「ブラジル日系社会考」など(いずれも「無明舎出版」)。 2000年 サンパウロ市にて没。 |
Bumba No.23 2004年
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