[岡村淳 ブラジルの落書き] [岡村淳のオフレコ日記] [星野智幸アーカイヴズ]


ブラジル学の巨人・中隅哲郎伝
中隅みつ子夫人に聞く(上)

「アマゾンが原因です」

岡村 淳


 主人はブラジルで生薬の研究をしていましたけど、自分ではあまり飲みませんでしたね。
 病気になる以前のことです。カフェ・ド・マット(「森のコーヒー」と呼ばれる植物)とかいうのが、やせる薬になる、肌にもいいと言って飲んでいましたけど、実験として飲むのよね。
 これ、お茶みたいでおいしいだろう、とか言って。飲んでみると、草の味。主人は本式に薬草を飲んだことはないですよ。
 最後に病気になった時も、自分が権威というわけでもないんだろうけど、詳しいと思っているからお医者さんに行けない、というプライドもあったかもしれませんね。

 私はサンパウロの自宅で、日本語を教えています。この間、新しい生徒さんが入ってきました。日系三世のお嬢さんで、大学生です。
 その生徒さんのおばあちゃんが訪ねてきました。
「実はお宅のご主人に会ったことがあるんです」っておっしゃるんです。
 便秘で苦しんでいる時に、主人が日本語新聞にいろいろ書いていたのを読まれたんですって。
 この人なら治してくれるかもしれない、と思って電話をしたそうです。
 そうしたら主人が、シャペウ・デ・コウロという薬草がいいですよって言ったそうなんです。
「どういう所で手に入るんですか」って聞くと、
「少しなら僕の所にもありますよ」と言うんで、主人の事務所を訪ねたんですって。それで主人が渡して。
 私、そのおばあちゃんに、
「主人はお金を取りましたか?」って聞いたのね(笑)。
「ご主人はいらないとおっしゃいましたけど、なにがしか置いてきました」って。
 この話は主人から聞いていませんでした。
「その薬、効きましたか?」って聞くと、
「一発でした。よく効きました」っておっしゃっていました。それを聞いて、ホッとしました。

 こんなこともありました。
 ブラジルの奥地に暮らす移民のおばあちゃんから手紙が来たんです。たどたどしい日本語で。
 自分はいろんな病気を持っているんですけど、どうしたらいいでしょうかって。
 その手紙は私にも見せてくれました。それで主人が薬草を送ったんですね。そうしたら御礼の手紙が来て、品切れになった時にまた送ったら、もう主人を拝むような手紙が来て。
 そういうこともしてるんですね、自分が飲まなくても(笑)。

 たくさんファンがいて、そんなにすごい人だったんだなって、死んでしまってから思ったんですね。
 日本語普及センターで行なった初七日の時も、入りきれないほどの人が来て下さって。
 お年寄りの男性が杖をついて、階段を苦労して上がってお参りしてくれて。どういう関係かなって思って、名前をうかがえばよかったんだけども、わからず仕舞いになってしまって。

 もともとは、生薬とも動植物ともぜんぜん縁のない人でした。
 日本の大学では、政治経済。
 大学を出てからか、アルバイトだったのか、日本で新聞社で働いたというような話をしていました。どこかで事件が起きた時に遅れをとって失敗したんですって。
 その頃から、日本にいてもしようがないなって思っていたようです。アメリカの方がよかったのかもしれないけど、あの頃、ブラジルしか来れなかったんじゃないですか?
 その辺の経緯は、あんまり知りません。

 ブラジルに来て、最初はサンパウロ新聞に勤めました。
 社長の水本さんに可愛がられたようです。正直なところが気に入られたんでしょう。人を利用しない、というか。中隅は社長の子分だ、などと言う人もいたようですけど。

 新聞社から、日系の綿花の輸出会社です。私が結婚したのはその頃です。
 その時分に、主人の弟が日本から来たんです。私たちがサンパウロに暮している時でした。様子を見に来たんですね、親に言われて。
 ブラジルに渡って10年近く音信不通でしたからね。
 弟は最初、主人が商社の人事部長とかなんとか、いろんな肩書きがあってすごいと思っていたようです。  ところが家に入ったとたんに、三流会社の倉庫みたいな所に住んでいるのがわかって(笑)。
 それで日本に帰ってから、親にあれじゃあ兄貴はうだつが上がらないとか言ったんじゃないですか。
 日本はあの頃、だんだん伸びていく時でしたからね。親も、子供がひとりでブラジルに行って成功していればいいけど、たいしたことないから、帰って来いって言ってきて。
 主人は簡単に「いいよ、もうすぐ日本に引き上げるよ」って親に約束したんです。

 それから別の綿花会社に移って、ベレン(アマゾン河口の町)に派遣されました。1970年頃です。
 アマゾンでは、土地や材木の調査が仕事でした。あっちこっちの山を歩き回って。
 1年ぐらい主人が単身で行って、それから私が子供を連れて行きました。
 親との約束で、日本に引き上げることになっていましたから、物もあまり持って行きませんでした。せいぜい2年ぐらいのつもりでした。

 そうしたら、山をウロウロ歩くうちに、アマゾンっていうのは植物とか薬草の宝庫だと思い始めたんじゃありません?
 会社の仕事をしながら自分の知識をためることができる、こんなありがたい話はない、とか言ってましたよ。
 その頃からボツボツそういう方面に興味を持ち始めたんだと思います。
 アマゾンが原因ですよ。取り付かれたんですね。

 アマゾンには、5年ほど住みました。
 私は山歩きを一緒にすることはなくて、ずっとベレンの町にいました。子供が小さかったし、暑いですからね。
 主人は、アマゾン河の対岸のマカパに住んでいたようなもので。マラジョー島に行ったりして、ベレンの家に帰って来るのは1ヶ月に一遍ぐらいでした。

 1975年にその会社を辞めて、サンパウロに帰りました。
 1年間は仕事をしないで、退職金で食べていきました。そして朝から晩まで生薬の研究を始めたんです。ひとりで、一心不乱に。
 主人は気が違ってしまったのか、と思いましたよ。私たち、どうなるのって心配しました。子供3人いて、食べるのどうするのって。
 1年ぐらいしたら、嫁さんには責められるし(笑)、もう限界だと思ったんでしょうね。
 それから日系の建設会社に入って、ホテル作りなどのコンサルトの仕事をしました。エスピリット・サント州によく行きましたね。

 主人はまったくの独学でした。
 サンパウロに戻ってからの住まいの向かいに、日本の製薬会社の倉庫があったんです。
 そこの事務所を訪ねて行って、それから始まったと思いますよ。
 インディオの生薬とか、研究したものを書いて、その会社に持って行ったんじゃないでしょうか。そこから、だんだん道が開けていって。

 建設会社の次に、日系の旅行社に勤めました。生活のためです。
 主人は仕事のお金をごまかすようなことは、絶対できない人でした。
 それは証明できますよね。何にもない、きたない借家に暮らしていたんだから。
 旅行社ではいちおう重役だったんだけれども、キミは会議に出なくてもいいって言われて。だから宣伝の方にまわってくれ、ということになったようです。

 その旅行社の経営しているホテルがパンタナールにあって、主人は管理を任されました。パンタナールにはよく通いました。いつも楽しそうにして行きましたね。
 エスピリット・サントやパンタナールには、私と子供たちも一緒に行ったことがあります。
 そういう所に行った主人は、水を得た魚みたいに本当に生き生きとしていました。朝は早くからゴソゴソ歩いて。
 子供はペスカ(釣り)をしたくて、家族みんなでボートで行きますよね。
 でも5分もすると、主人が帰ろうって言い出すの。だからあの人は連れて行かない方がいいの。
 主人は、釣ってきた魚を料理するのは好きなんだけれども。

 山のなかを一緒に歩いて、子供たちにいろいろ目についた鳥や植物のことを説明していましたね。
 自分の興味のあることは、誰にでも説明するんです、現場でね。あとで子供は自分で本を見て、これはあれだ、なんて言ってましたね。
 主人が亡くなってから、ある人にブラジルの魚の日本語名を聞かれたことがあります。私はまるでわからなかったんですけど、子供に聞いてみたら、パッと答えてくれて。
 主人が現場で書き込んだフィールド・ノートが未整理のまま、何十冊と残っています。
 今、思い返すと、私と一緒に歩いた時は、現場にフィールド・ノートを持って歩きませんでしたね。観察するばっかりでした。
 いつノートをつけていたんでしょうね。

 亡くなってしばらくは、主人の本が読めませんでした。
 本を開けると、主人の息遣いが聞こえてきて。ハッハッという、死ぬ前の荒い息遣いを感じて、すぐ本を閉じました。
 最近は、授業で生徒さんに質問されて答えられない時に、何か参考になるものがないかと思って、必死に主人の本をめくったりしていますけども。
 一筋縄ではいかない人だったから。神さまが私に少し自由になりなさいって、あの人を先にお迎えに来たんじゃないかななんて、ようやく今は冗談で言えるようになりました。

 日本語新聞に書かれた主人の最期のことは、少し違っています。
 私がちょっと見たらもう息を引き取っていた、とありましたけど、そうじゃありません。
 4月21日の朝5時頃です。
 主人は、いびきがひどくなっていたんで、別々に寝ていました。
 明け方に主人の所に行ってみたんです。主人は起きていて、「眠れないんだ」って言うのね。
 私が傍に付き添うと「何時だ、何時だ」って何度も聞くんです。
 5時過ぎに、主人がおかしいから息子を起こしたんです。そうしたら主人が「パパ、だいじょうぶだからいいよ、ありがとう」って。それで子供は寝に行って。
 それから「のどが渇いた」って言うので、お茶を持って行って飲ませてあげました。寝たままだから、お匙(さじ)で。
 死に水をとるってことが、やっぱりあるんですね。お匙もむずかしそうだったから、綿を持ってきて、湿らせて口をうるおしたのね。

 それからまた、「何時だ」って聞きました。枕もとの置時計を見ると、ちょうど6時でした。
「6時よ」と言うと、
「もう俺、寝るよ。眠くなった」って眠り始めたんです。
 その間、私は主人の手を持っていたんです、ずっと。
 そして主人はスースー眠り始めて。
 脈拍をみたら、速くなったり止まったりするんです。でも私がその時、どうすることができます?
 本人は気持ちよさそうに寝ているのに、大きな声を出して子供を呼ぶわけにもいかない。苦しがっていないし。
 そして1時間ぐらいして、大きな息を4回したんです。
 それが最後で、息を引き取りました。それで、子供を呼んで。
 臨終は7時ちょっと過ぎでしたね。
 どうして時間を気にしていたんでしょうね。何回も時間を尋ねて。

 きれいな死に方です。
 私もああいうふうに死にたい、と思った。いちばん身近な人に手を持ってもらって、静かにあの世に行くなんて。
 病院に行ったら、もうちょっと生きてはいたかもしれないけど。
 自分の家で、二人だけのお別れをしました。
 本当にきれいな死に方だと思っています。


中隅哲郎(なかすみてつお)氏 プロフィール
人文科学から社会科学にわたる総合的な知識と、豊富なフィールドワークの体験をもとに、ブラジルを総合的にとらえようとする「ブラジル学」を提唱した。
1936年 東京都生まれ。
明治大学政経学部卒業。
1959年 ブラジルに渡る。
日本語新聞社、商事会社、日系旅行社などに勤務。
サンパウロ人文科学研究所専任理事、日本語普及センター副理事長などを歴任。
著書に「パンタナール」「ブラジル学入門」「ブラジル観察学」「ブラジル日系社会考」など(いずれも「無明舎出版」)。
2000年 サンパウロ市にて没。

Bumba No.22 2004年 改稿(2006年)

岡村さんへのメールは
e-mail:okamura@brasil -ya.com