労働訓練としての勉強

 いつのまにか、甥とちょっと離れた公園に自転車で出かけるのが日課になった。ハトや池のカモに餌をやり、キャッチボールをする。気持ちがいいので毎日行くようになった。

 その日もキャッチボールをしてから、戻ってくる途中で、美しい黄色になった葉がついている木を見つけた。きれいだなあと見ていると、風で一枚また一枚と落ちてくる。甥と二人でそれを掴もうと追いかけ、そのうちにカンや石を投げて葉を散らしては追いかけていた。葉の複雑な動きに翻弄されて大笑い。

 息を切らせて、落ち葉の上に甥と寝転がっていると、そこにネコが一匹やってきた。風邪でもひいているのか、そのネコは鼻水とよだれをたらしている。甥がそのネコに手を伸ばすとなついてきて、身体をすりよせていた。甥はネコのよだれも気にせず、そのネコを抱いていつまでもかわいがっていた。12月にしては暖かい日で、雲一つない晴天、時間が止まってしまったような感じだった。

 そのときしみじみと思われたのが、私が信頼する教育家たちの言葉。

 「教育とは幸せを生み出すことだ」
 スコットランドで独立の自由教育学校を開いてきたジョン・エイケンヘッド氏。

 「子どもが、生きるに値する生活を送ることだ」とジョン・ホルト氏。氏はホームスクールの提唱者。アメリカのホームスクールの大波の引き金を引いた人だ。

 サラリーマン生活と同じような生活を学校で送らせることが教育だと思われている。サラリーマン生活って、そんなに素晴らしいのかなあ。

 教育が大事であること、それも家業を継ぐだけの教育ではなく、いろいろな体験をさせ、広く子どもの力を引き出そうというのは、すでに広く合意のある事柄だろう。子どもを労働から解放して、自分の持っているものを伸ばすのに専念できるようにしてやること、それが教育のはずだ。

 しかし、これが大規模に行われたことは歴史的に実はまだないのだと思う。どの国でも、どの時代でも、社会的課題に追われて、子どもたちをそれに合わせて鋳型にはめてしまう。義務教育による学校教育は、そのような鋳型からの解放だと思われるかもしれないが、現行の義務教育はいろいろな目的の入りまじった奇妙な折衷物だ。

 歴史的に義務教育の一番の目的は、労働者の質の向上だった。これは、使用者側からも、労働者側からも良いものとして受け入れられた。現在は社会が変化して、より高度な判断ができる人間を育てることを求めている。しかし、労働者の質の向上であることに変わりはない。

 現行の教育が、労働力の向上を目的としていることは、表面からは見えにくいが、やはり現在も骨格となっている。その骨格というのは次のようなことを訓練すること。

  上位者の命令に服従すること。
  無意味なことに忍耐強いこと。
  勤勉であること。
  賞を差し出されるとそれをもらおうと懸命になること。
  罰せられることを敏感に察知すること。
  何を手に入れても満足せずに働き続けること。
  人間序列を作ること。

 現行の学校で子どもたちが反抗したり、無気力になったり、教師を無視したり、いろいろと問題を起こすのは、この労働者養成訓練の部分が中心です。

 不幸なことに、この労働者養成の訓練があまり意識されていない。学校は学問の手ほどきをしているのだと思いこんでいる。先生たちは「子どものために」と誠意を持っているが、子どもが苦痛に耐えて学校にくることを賞賛するし、無意味なことに耐えられない子どもを、教育の成果が上がっていないとしかとらえない。

 労働者養成の訓練なのだと意識されていれば、その効果や弊害をきちんと評価し検討することがなされたであろう。しかし、それは、なんとなく自明のことになっている。この訓練は、いつのまにか勉強と混じり合っていった。

 だから勉強するということは、先生の指示によく従い、つまらなくても投げ出さず、出された課題を必ずきちんとやり、分からなくても出席し続け、点数を取るために懸命になり、悪い評価におそれおののき、満足なことがあっても決してこれで充分と言わないことである。

 いっぽうで、真理の追究としての学問があります。こちらの倫理は、
  大学教授の言うことであっても、間違いなら間違い。
  あらゆることに意味と理由を見いだす。
  毀誉褒貶や賞罰に惑わされることなかれ。
  自分の感覚と思考で判断せよ。
  意見を言う権利を絶対に保証する。
というようなもの。これは、西欧の大学制度が義務教育とはまったく違った起源を持っていて、その中で培われてきたものである。

 労働訓練の場としての義務教育が、この大学の理念を採用して、授業に取り込んできた。実際は奇妙に混ざって、労働としての勉強ができている。「勉強」という言葉がよく事情を示している。この字面は、勉め強いること、普通の意味は本を読んで覚えるか問題を解くことであって、発見するとか分かるとか会得するとかいう意味がこもっていない。

 子どもを労働から解放して学ぶことに専念させるはずだったのに、学校にあるのは勉強の姿をした労働訓練である。決してそれがすべてだとは思わないが、子どもに嫌気をもよおさせるには充分だろう。さらに、受験体制による現実的利害が教育をがんじがらめにしている。

 甥がこう言う。「勉強が好きな子なんかいるのかなあ」 私も子どものとき、まったく同じ思いで、家庭で勉強することを拒否していた。勉強の強制を受け入れたら、自分の中のとても大事なものが死んでしまう、と感じて必死だった。先生だって、好奇心が大事だし、自分で感じて自分で考えるのが大切なんですよって言ってるじゃないか‥‥、と。

 ほんとうに子どもを現実の利害から解放し、意欲と知性と感受性を大事にしてやることは、まだ制度として実現していない。一番実現しやすいのはホームスクールだけど、これはあまりに簡単なのでかえって難しいようなところがある。

 子どもは、いろんなことを知りたいし、できるようになりたい。自分の力でいろんなことをやってみたい。興味深い世界を示してくれる大人は歓迎してくれる。なによりも、自分がほんとうに感じていることに根ざしたい。それに沿っていれば、教育問題などそう深刻なものになるはずがない。
 幼児は大人の真似をしたい。
 小学生年齢は大人の期待に応えたい。
 十代の半ば以降は、自分自身でありたい。 ちゃんとこのような欲求が子どもの中にある。うまくできているなあと感嘆するす。


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